名演説の残念はつづく

齋藤隆夫(さいとうたかお)というひとがいた。
いつのまにか、戦前のわが国には民主主義がなかった、ということになっているけど、ぜんぜんそんなことはなく、いまよりもはるかに激烈かつ格調の高いものであったのだ。

むかし、『文藝春秋』を定期購読していたとき、連載されていた草柳大蔵『齋藤隆夫かく戦えり』は昭和56年に単行本がでて、3年後に文庫になった。
年末に、なんだか突然おもいだして、読みかえしたくなった。

齋藤隆夫衆議院議員の質問演説は、憲政史に残る「名演説」としてかたりつがれている。
とくに有名なのは、普通選挙賛成演説(大正14年)、岡田内閣の施政方針演説に対する質問演説(昭和10年)、粛軍に関する質問演説(昭和11年)、国家総動員法案に関する質問演説(昭和13年)、支那事変処理中心とした質問演説(昭和15年)、の五本である。

かれの演説は、原稿を読むものどころか、「原稿なし」で理路整然とした論理をもって、ときに数時間にわたる。
なぜにこんなことができたのか?
特異な才能でもあったのか?といえば、そうではない。

推敲をかさねた演説原稿をもって、ひとり練習に励んだのである。
それは、自宅庭先や、鎌倉の海岸であったという。
なぜに「原稿なし」にこだわったのか?
それは、「演説」にもかかわらず、「読み上げる」ことによる聴衆への説得力の減衰をおそれたからである。

かれは元々弁護士(明治28年合格)であったし、その後エール大学法科大学院に留学して、法律のみならず政治学もおさめている。
かれの中の「民主主義」は、本場アメリカ仕込みなのである。
はたしてさほどに裕福だったかといえばちがう。

東京の大学入学に際して、故郷の兵庫県豊岡市から、全行程を歩いて向かったのは路金がなかったからである。
しかし、当時の日本人には「スポンサー」意識があって、若くても「こいつ」とみとめたら、おとなはだまってカネを提供する文化があった。いまでいうベンチャー投資より立派な、出した側も見返りを求めない「ひとへの投資」で世にでた若者は多数いた。

小説の神様「志賀直哉」にして、37歳の作品『小僧の神様』は、当時の世相をしるのにもいい。発表は、普通選挙賛成演説の5年前、1920年(大正9年)である。
なお、このころの男性平均寿命は47歳ほどであった。

「演説」こそがラジオもなかったこの時代、民衆との接点であったし、他にはなかったのである。
支持者を得るも失うも、演説が「演説」でなければならないとの信念があったのは、弁護人として裁判における説得力につうじる。

ちなみに、わが国のラジオ放送は大正14年3月22日をもって開始され、テレビは昭和28年である。
昭和24年に79歳で没したから、齋藤隆夫はテレビ時代をしらない。

普通選挙賛成演説には、聴いていた議員に「齋藤君は二時間も演壇を占拠した」との記録がある。
もちろん、「原稿なし」だ。
しかし、その論理と用語の格調の高さは、「齋藤登壇」の予定が発表されると、当日は国会の傍聴席がいっぱいになったという。

名演説のなかでも、有名なのは昭和11年の「粛軍演説」と最後の「反軍演説」(昭和15年の質問演説)がある。
だからといって、齋藤は戦後でいう「反戦平和主義者」ではない。
むしろ、国民にとっての「軍」と「軍人」の論理的なあるべき姿を追求しているのである。

ことに、「粛軍演説」は、あの「二・二六事件」の後における「軍内の処罰」にたいして、手前味噌ともとれる「甘さ」をするどく追求したものだった。
これには、その前の「五・一五事件」の海軍軍法会議まで引き合いにしているから、陸海軍ともに糾弾したのだった。
しかも、本業の弁護士としての論じたてに、隙はない。

われわれ日本人は、言論と人格の分離ができない、という特徴をもった集団なので、論理で攻撃された側は、かならず感情的になる。
おそらく、上代からの「言霊」への信仰が、ひそかにDNAにあるからだろう。

だから、言葉と精神の一体しか認識できない。
じぶんを言葉で攻撃する人間は、「悪いやつ」になるのだ。
これは、じぶんを言葉で攻撃する人間に、言葉で言い返すということよりも、もっと単純で、暴力で制圧すればよい、という行動をとるということである。

結果的に暴力に及ぶ共通があっても、欧米が自己弁護と相手への攻撃のために、なんであれ「論理」をひつようとするのにたいして、わが国では「感情」によればゆるされるのはこのためだ。
だから、隣国人をばかにすることの資格をうたがってよい。

その意味で、日本人が「怒り」をあらわにするのは、たいへん危険なのだ。
ばあいによっては、相手が外国人であれば、どうして日本人が「怒っているのか」わからないけど、いきなり殴りかかるようなものだからである。

近代エリート職業軍人は、なにがあっても戦争に「勝たねばならぬ」ことを本分とするので、きわめて論理的な思考訓練をほどこされるものだが、わが軍の不幸は、精神的思考訓練にむかってしまったことだった。

そしてそれが、とうとう「妄想」にまで発展して、現実と「希望的観測」のちがいも認識できなくなってしまった。
この原因は、資源のなさと植民地のなさで、もっといえばとてつもない「貧乏国」だったからである。

台湾も、朝鮮も、満州も、さらには樺太・千島に南洋群島まで、ときの「欧州列強」なら本国に資源を収奪されるばかりのはずのものに、あろうことか一方的に本国から資源を提供して、現地人の生活向上をはかってしまう。
だから、おどろくべきは、収奪されたのが本国の臣民だったことだ。

第一次世界大戦での連合国として、ドイツが占拠していた「青島攻略」でためした、あこがれの「物量戦」で、ぜんぜん割に合わないことに気がついたからである。
現地人を味方につけることの有利を本気でやったが、時間が効果を発揮させなかった。

こうして、「国防」という「大義」にまみれながらも、軍からの圧力に保身した大勢が、熱狂の「反軍演説」からわずか一月あまりで、齋藤に拍手をおくった議員たちから「除名」の処分を受けることになる。

しかし、齋藤の反骨を支えたのは地元の有権者たちであって、昭和17年の「翼賛選挙」に、非推薦ながらトップ当選をはたす。
この「兵庫五区」の有権者たちこそが、奇跡的な英雄なのである。

軍事予算が国家をおしつぶし、はては国家が破滅した。
いまは「社会保障予算」のことである。
「公的年金を守れ」という「大義」にまみれ、人気とりという「保身」した大勢しか選挙で当選しない。

いま見渡して、斉藤隆夫もそれを支える有権者もいない。
齋藤本人ならずとも、ことしも「寒い」年末である。

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