自己都合のペロシ台湾訪問

2日、歴史が動いた。
もちろん、アメリカ連邦下院議長ペロシ女史の台湾電撃訪問のことだ。

同時進行で、夫のペロシ氏は、自らの飲酒運転に関する裁判を受けていた。
この奇妙なカップルの、奇妙な動きは夫人の行動にだけ注目が集まるようになっている。

ここが、幼稚な日本のマスコミとちがう。

日本の衆議院議長の伴侶が、複数回目(常習)の飲酒運転で裁判を受けてしまうとなれば、一体どんな報道がされるものか?
それで、その夫婦の一方である衆議院議長が、同時期に台湾を訪問したら?

アメリカのマスコミは、飲酒運転よりも重要な印象操作をもって、議長一行の訪台をとにかく「歴史的だ」と伝えているのである。
ところで、ペロシ女史の台湾電撃訪問の「目的」はなにか?を問えば、「よくわからない」のである。

そもそも、「米中国交正常化」のときに、「一つの中国」を押しつけられて、日露戦争以来の大陸利権を欲したアメリカ人は、欲にくらんで鵜呑みにしたことを発端とする、といわれている。

一方で、あたかも台湾が独立国家のように振る舞うことは、中共として「核心的利益」を踏みにじる大問題にしているのは、共産主義・全体主義者の勝手な自己主張に過ぎない。
彼らが他人を批判するときの常套手段、「歴史的事実」を無視するからである。

もちろん、日露戦争で日本が得た利権は、日清戦争にまでさかのぼる「血の報酬」というかんがえが主流で、それが「欧米流の発想」の真似っこだったから、それをそのまま日本が主張して、「生意気いうな」とボコボコにされたのが第二次大戦だった。

この意味で、わが国側の有名なスローガン、「鬼畜米英」はただしいし、先のヨーロッパでの「大戦」が、極東のわが国の産業形成にも役立って、「戦争は儲かる」という非道を日本人が修得してしまった原因にもなった。
そしてこのヨーロッパでの大戦を、「第一次世界大戦」と後にいう。

なお、昨日4日、ガルーシン駐日ロシア大使主催の「原爆投下に関するアメリカのジェノザイド」についての会合があった。
実戦で2回も、しかも実験的に2種類の核を用いたのは、ルーズベルトやトルーマンが日本人を「猿」だと認識していたからで、以降、どの国もつかっていない。

本来であれば、平和時に締結した条約に基づけば、北の「千島樺太交換条約」をもってするから、「北方領土」になるし、「下関条約(台湾割譲条約)」をもってしたのが「台湾領有」だった。

このときの清国政府全権代表は、ずる賢くも調印後のパーティーで台湾を、「化外の地」だと発言したのだった。
つまり、だれの領土かわからない台湾島を、あたかも清国のものとして日本へ「くれてやった」ので、痛くも痒くもない、という意味だ。

日本側は唖然とするような話だけれど、「してやられて」しまったことは間違いない。
この「腐っても中華思想」こそが、世界支配を当然とするおそるべき思想なのである。

その台湾を、敗戦によって失ったことになっているけど、国際法でいえば、蒋介石の国民党に「占有」されたのを、戦勝国たるアメリカ民主党政権が「放置」したので、いまだに「帰属問題」としてはっきりしないままにある。

戦後の日本人も、なんだか蒋介石は「偉人」ということにした。
大陸で帝国陸軍はだれと戦っていたのか?を忘却して、中華民国が日本への戦時賠償請求を「放棄した」ことに、感謝するという倒錯ができたのは、GHQの宣伝工作だといえる。

横浜の一宮、伊勢山皇大神宮の境内にも、蒋介石を顕彰する大きな石碑があるけれど、なんだか穢されているような気がするのはわたしだけか?
ホテル事業に失敗して、神社が破産する事態になったときに、仲間と「厄払い」をしたのだった。

もちろん、蒋介石の国民党は、台湾にあった日本資産(公的資産だけでなく、個人家屋やら民間資産もぜんぶ)を「没収」したから、賠償を放棄するもなにもない濡れ手に粟の利益を得て、これを大陸から引き連れてきた国民党員にだけ分配したのである。

そんな掠奪をやった国民党のなかにあって、臥薪嘗胆を貫いてとうとう「総統」にまでなった、岩里政男(李登輝)氏が、晩年の名著『台湾の主張』(1999年)で、台湾は日本領であると主張したのは、荒唐無稽の与太話ではなくてれっきとした国際法に基づく話なのである。

なお、この書籍の「新版」である文庫本には、櫻井よしこ氏の推薦と門田隆将氏の解説があるけれど、どうしてPHP研究所がこのような「ビジネス保守」のひとたちを必要とするのかがわからない。

岩里政男氏は、一貫して日本人であって、けっして「旧日本人」ではない、と主張されているのに。

そんなわけで、ペロシ女史の台湾電撃訪問は、ホワイトハウスが顔をしかめて、アメリカ(政府)の都合ともいえないし、議会の都合ともいえない。
ならばなんの都合かと問えば、中間選挙のための民主党の都合と、「人権派」を主張したい個人の都合しか当てはまらない。

もちろん、日本の都合は関係なく、その気がぜんぜんない岸田首相はアメリカを訪問中という、中共に忖度する態度を貫いて、どこにも岩里氏が主張した「正論」がないのである。

台湾がよってたかっておもちゃにされている。
これぞ、「台湾の悲哀」の現在の姿なのである。

『新日本紀行』があった時代

1963年10月7日から1982年3月10日まで18年半、794回放送された、長寿番組だった。

わたしが生まれた時(1961年)に、居間で記念に撮った写真には、大きなゲルマニウム・ラジオがあって、その上に真空管ラジオが乗っている。
それから、いつだかしらないうちに、ゲルマニウム・ラジオの位置に「布幕付き」のテレビが鎮座して、真空管ラジオもなくなっていた。

つまり、物心がついたときにあったのは、布幕付きの白黒テレビだったのである。
だけれども、どこかにラジオの音を聴いていたような感覚がある。

祖父がテレビを買ったとき、まだ近所では珍しかったので、人気番組を観に、近所のひとか集まっていたのも、遠くて薄い記憶にある。

なんだか賑やかな家だった。

細かい話だけれど、テレビを観るときには、「布幕」をめくって見終わるとまた布幕を降ろしていたし、大きな「水色レンズ」が画面にかかっていた。
その「初代」がダメになって、二代目になったときには、布幕もなくなっていた。

それで、わが家の三代目はカラーテレビになったのである。

カラーでテレビを観た人生初は、いまでも覚えている。
それは、土曜日の夜8時台の人気時代劇、『素浪人花山大吉』のレギュラー、焼津の半次が履いている股引が、「青かった」衝撃であった。
てっきり「らくだ」の股引だと思いこんでいたからである。

しかし、いまこの時代の番組を観て驚くのは、おおくの場面が「ロケ」による撮影で、道には「わだち」があるものの、よくぞこんな場所があったかと思うほどに、原っぱや電柱のない風景が拡がっている。
子供がやっていた「チャンバラごっこ」を、おとなが仕事でやっていた。

「総務省労働力調査」によると、1960年のわが国の就業人口は、4,436万人で、内訳は以下のとおりだった。
一次産業:1,340万人(30.2%)
二次産業:1,242万人(28.0%)
三次産業:1,854万人(41.8%)

こうしてみると、なかなかに「移動」ができないで、おなじ場所で働いていたと想像できるのである。
一次産業は、農地や山林それに所属する漁港が仕事の基点だし、二次産業だって工場に通っていた。

だから、地方ごとの文化がふつうに保存されていたのである。
これを、『新日本紀行』は記録していたし、「芸能文化の記録」としては、『ふるさとの歌まつり』(1966年~1974年)が人気だったのである。

東京に出てきた当該地方の出身者が観ていたばかりか、毎回紹介される、人生で行ったことがない地方の「祭りの光景」が、珍しかったからである。
これがまた、高度成長期の「旅行ブーム」を呼んだのだった。

「観光客」とは、生活が安定した「労働者階級」なくしては存在しない。
逆に、労働者階級というあたらしい職業人たちのかたまりが、そのときどき、その場所場所に「観光」にやってきたのである。

そうやって、全国各地に点在する「温泉街」が、「物見遊山」の「遊山客」を呼び込んで、これがまた、集団主義の「社員旅行」と融合した。
さらに、「家族サービス」になったのは、社員旅行のやり直しを「家族」でやるのに、父親が牽引したからである。

どこに行っても、「お父さんはよくしっているねぇ」と、専業主婦のお母さんが感心して、これを子供がみていたのであった。
「父権」と「威厳」があった時代の、「ふつう」だった。

それから、旅行会社の窓口に行って、教えてもらった通りに旅程を消化すれば「まちがいない」時代になって、「お父さん」の役割が低下した。
それで、あらかじめ作成されたパッケージ商品を買えば、有名観光地をかんたんに巡れたのである。

つまり、「お父さん」がリーダーだった時代の旅行は、かなりの「冒険」で、下手をすると旅先で詐欺や掠奪にあったのだ。
だから、余計な行動をしないで済む、旅行会社のベテランによる注意喚起の説明自体が「商品」となっていた。

『水戸黄門』だって、「寅さん」だって、あんなに気軽に旅に出られたのは、まったく真逆のキャラクターながら、「特別なひと」という共通がある。
そうやって、「地方」を廻ることが一般人には不可能な憧れであった。

しかして、『新日本紀行』は、もっと突っ込んだ「紀行」だったから、おいそれとは一般人がおなじ行動をできるはずもない「完成度」であった。
それは、「物見遊山」の「まじめ編」で、「地域学習」の教材であった。

ここに、NHKの公共放送たる矜持をみるのである。

『新日本紀行』は、横浜なら「放送ライブラリー」で試聴できる。
そこに現れる映像は、かつての、二度と帰らない日本人の生活の記録であり、これを制作したNHKの、いまはなき「まともさ」の記録なのである。

いまもNHKを信じるひとがいて、たいがいが「高齢者」といわれる理由が、『新日本紀行』やら、その他の「名作番組」を観たひとたちが、裏切ることなく存在しているからである。

なので、こうしたひとたちを裏切っている、いまのNHKの悪辣が、一層に「不道徳」なのだといえるのだった。

EU分裂のよき兆候

ハイエクが予言した「EU分裂の宿命」が、いよいよ起きそうな気配である。

このブログで何度も強調してきたハイエクの思想は、「自由主義」である。
それが、「自由放任」の「古典派」とはちがう、「他人から命令されない自由」のことだから、「新自由主義」になるけれど、これをわざと「グローバル全体主義のこと」と誤解させてきたのが、グローバル全体主義者たちだった。

つまり、自分たちの立場を隠すための、隠れ蓑にした。
もっといえば、グローバル全体主義者たちの行動に大義名分を与えるためにつくった敵を、新自由主義=グローバリストだと偽って宣伝したのである。

しかし、狙いどおり世界がグローバル全体主義におおわれ出したら、いよいよ「新自由主義=グローバリスト」という嘘が通じなくなってきて、ようやく「ナショナリストでかつ新自由主義」の正義に陽があたるようになってきたのは、遅ればせ、とはいえ、当然のことである。

グローバル全体主義の原点は、啓蒙主義にあって、それがフランス革命とロシア(共産)革命になって結実した。
だから、ソ連圏の体制転換は、あたかもグローバル全体主義の終焉にみえたのだった。

しかし、ソ連が成立して間もなく、スターリンとの政争に敗れたトロツキー派がアメリカに逃れ、民主党を乗っ取ったことも何度か書いた通りである。
もちろん、この背景の「資金源」に、大富豪たちがいたのは、ボルシェビキを支援したのとおなじ構造である。

「BRICsの組織化と拡大」でも書いた通りで、グローバル全体主義とナショナリスト・新自由主義の対決が露わになってきている。

そのナショナリストの代表格がロシアのプーチン氏だ。

グローバル全体主義者(アメリカ民主党バイデン政権・EU委員会)が「ウクライナ」を仕掛けて、「漁夫の利」のごとくにロシアのエネルギー資源を横取りしようと目論んだのに、プーチン氏は上手をいったために、今度はEUがエネルギー危機になってしまった。

端からみたら、「大マヌケ」なのだけど、アメリカもEUも生産のためのエネルギー資源の不足で、下手をすると「恐慌」になりかねかい、あぶない「火遊び」をやってくれたものだ。

すでに、日本へやってくる「高級ドイツ車」も、その「装備」の多くが省かれてしまって、中身は日本の高級車に断然劣る「ブランド・マーク」だけをまとっている代物に堕ちている。
材料資源がないために、装備できない事態が起きているのである。

日本では知る人ぞ知るが、ヨーロッパの自動車の9割以上がディーゼル車で、ガソリン車なんてほとんどなかったものを、「ガソリン車製造禁止」をそのまま日本にも輸入しようという「おバカちゃん」が政治家にいる。

故石原慎太郎氏が都知事だったときに、ディーゼル車からでる「煤」のボトルを振りかざして、関東8都県に規制を強化したけれど、ヨーロッパでは、そんな「煤」がでない「ディーゼル燃料」しか販売していなかった。
あの地では、日本の「軽油」は売っていなかったのだ。

それゆえに、日本の自動車会社は、ディーゼルエンジンの新規開発をやめてしまった。
ヨーロッパ市場と日本市場では、「燃料」の品質に雲泥の差があることを、燃料品質を公開していない経産省に遠慮して、ほんとうの理由をいえなかったにちがいない。

これがかえって、欧州の自動車メーカーがこぞって「燃費データの改竄」をやった理由なのではないかと疑っている。

しかし、今回のロシア産天然ガスの供給不足は、もっと「ばかばかしい」グローバル全体主義者による「局地的嫌がらせ」の結果が、大ブーメランになった。

ドイツへ天然ガスを供給するパイプラインの定期メンテで、その心臓部にあたる機械の修理をカナダのメーカーに「いつもどおり」依頼したら、カナダ政府とアメリカ政府から、「ロシア制裁違反」を突きつけられて、にっちもさっちも行かなくなった。

驚いたのはロシアよりも、ガスの供給を受けるドイツで、数ヶ月後にせまった「冬支度」のための、ガス備蓄もできなくなったのである。
家庭での凍死を懸念する前に、産業が凍死してしまう。

これも、世界経済フォーラムがいう、「グレートリセット」だというならば、まさに彼らは人類の敵として、その正体をさらけ出したといえるのである。

そんなわけで、一応まだ民主主義のヨーロッパでは、「背に腹はかえられぬ」状態に追い詰められて、ようやくにして一般人に、「脱炭素」やら「SDGs」やらのバカバカしさが認識されだしたので、「グローバル環境派」たちが、政治的苦境に陥るという、よろこばしい事態になっている。

ハイエクは「統一通貨=ユーロ」の危機が、EU(ヨーロッパ)を分裂に導くと予言したけど、「天然ガス」だった。

すでに、EU委員会という「ミニ世界政府」を無視して、加盟各国の一部がロシアとガス供給についての個別協議に入った。
グローバル全体主義者のEU委員長が、「抜け駆け禁止」を叫んでも、凍死の危険が目の前にせまった国民が納得しない。

グローバル全体主義者がやった、コロナの恐怖をあおって接種させたのとおなじとはいえない、もっと強烈な「冬の恐怖」で、グローバル全体主義が大敗北しそうなのである。

奢る平家ならぬ、奢りきったグローバル全体主義者たちにとって、ナポレオン、ヒトラーに続く、歴史上3度目の「冬将軍」だ。
ただこれも、元は「人災」なのであるから、『旧約聖書・創世記』は、宗教を越えて読んでおくとよい、人間の性としての悲惨がある。

人類は、ぜんぜん進歩なんかしていない。

6年ぶりの新型「ポメラ」

キングジムのヒット商品、『ポメラ』(ポケット メモ ライターの略語)のはなしである。

わたしのポメラの変遷は、折り畳み式だった2009年発売の二代目、DM20を「初代」として、2011年発売で初のストレートタイプ、DM100が「二代目」で、いまだに健在・現役である。

7月29日に新発売となった、DM250は、2016年にでたDM200の「強化版」だとアナウンスされている。
価格は、6万円台。

はっきり書けば、購入するつもりはない。
もう11年前になるDM100の「完成度」に、一定の満足があるからである。

もちろん新型に魅力がぜんぜんない、というわけではないが、現機種に特段の「不満」がないからである。
むしろ、いくつかの点で「退化」していると感じている。

わたしが愛用しているのは、液晶画面である。
それが、次世代のDM200から、「e-ink」になった。
このとき店頭で確認してがっかりしたのは、その表示の「遅さ」であった。

視認性に優れていることは認めるが、いかんせん「文字」になるのに一瞬遅れる。
ならば、旧機種がモノクロ液晶でもバックライト付きなので認識の点では困らないから、あえて「e-ink」である必要はない。

次が、電池だ。
これは、わたしの愛用する機種が、乾電池(アルカリ電池とeneloopに対応で単三型2本)なのであるが、おなじくDM200から、充電式になって今回もかわらない。

充電式の難点は、充電切れ時の対処法が厄介なのと、充電池そのものの寿命があって、交換が面倒なことにある。
「名機」を永く使うには、あんがいと乾電池式がよいのだ。

なお、旧機種は電池交換にあたっても別途ボタン電池がデータ保護用にあるために、うっかりしてデータが消える心配もない。

おまけ的ではあるが、Bluetoothがあるので、ipadなどのタブレットと接続すれば、外部キーボードにもなるので、わざわざ重量が増す「マジック・キーボード」などを装着する必要がない。

ただし、ipadで文章作成をするつもりなら、もっと軽い外付けキーボードか、HHKBを利用している。
さらにipad使用時は、スタンドで目線を高くして、肩こり防止にしているのである。

そんなわけで、この三大要素があるために、旧型なれども使い続けているのである。

もちろん、新型の魅力はないわけではない。
そのなかでも、日本語変換エンジンの内蔵ATOKが進化していて、入力支援機能が「付加」されたことは大きい。

また、画面下の表示部に、「文字数」がでるようになったのは、魅力というよりも「当然」ともいえる。
旧機種では、文書作成中でも、その都度メニューから表示させないといけないからである。

字数制限がある原稿には、必須の機能だ。

キーボード配列については、「US配置」が選べるというものの、ハード的に購入時に選ぶのではなくて、ソフト的対応なのが残念だ。

前に、「日本語配列」について書いたことがあるけれど、「ローマ字入力」を基本とするなら、キーボードもUS配列の方が効率がよい。

日本語配列とは、キーボードにある「ひらがな(入力)」をもって「日本語配列」というからである。
たとえば、「A」キーにある「ち」がそれだ。

日本語配列でローマ字入力をするときの決定的問題点は、「ENTER」キーの位置が、右手小指で遠いことにある。
見た目で「2段」になっているけど。

これが、US配列だと、「1段」なのに「左に長い」ため、小指が簡単に届くのである。
しかも、変換のために親指で押す「スペースキー」の位置が、左右対称になるのである。

どうやらポメラの開発者は、「親指シフト」がお好きのようで、その対応もしているけれど、是非とも「本格的US配列」を採用して、キー表示からひらがなをなくしてもらいたいものだ。

新機種には、縦書き対応の「シナリオモード」もあるというけど、こうした多機能化には魅力を感じない。
むしろ、たとえばWindowsだけに対応の『秀丸エディタ』様のせめて二画面表示をするための、横幅いっぱいの画面採用はできないものか?

これがあれば、本文と見出し、本文と脚注といった同時進行が一目瞭然となる。

はっきりいえば、ポメラは入力マシンであって、編集はPCで行うから、とにかく入力が快適ならばそれでよい。
その意味で、上述のUS配列と入力支援、それに「辞書の充実」が欲しいのである。

DM100には、物理ボタンとして「国語:明鏡」「英和」「和英」は「ジーニアス」の各辞書があるけれど、「類語(シソーラス)」が必須なのではないのか?

これら辞書を、ATOKの辞書として変換時に選べるようにするのかもあっていい。
それと、「エディタ」としての入力マシン特化だ。
本音をいえば、『秀丸エディタ』がそっくりポメラになってほしい。

もっと贅沢をいえば、分厚く重量が増しても、HHKBのような「快適な静電容量式キーボード一体型」あるいは、画面を分離できて長時間入力のための姿勢が楽になるようにならないものか?

それでPCへのデータ連携がシームレスならば、テキスト文章作成のためにPCを持ち歩く必要から解放される。

電池式・液晶で6万円程度なら、文句なしに「買い」なのであるけれど。

あの散弾銃の疑問点

銃器はあんがいと単純な機構からできている。

「国宝松本城天守閣」にある、火縄銃のコレクションとその展示は、わかりやすくて参考になるけれど、「部品」からぜんぶが「手作り」という時代を思い出せば、その「精密さ」に舌を巻くしかない。

ずいぶん前から、ひとが携行できる「銃器の機構」は、「完成した技術」だという評価があって、なかなか「新型銃」が新発売されることもない。
とくに「撃発機構」の、「機関部」についての「新型」がないのである。

基本的に、ひとが携行できる銃器の構造は、誤解をおそれずに単純化していえば、撃発機構としての「機関部」、銃弾を誘導する「銃身」、それと射手である人間の体型にあわせた「グリップ・銃床」とに大別できる。

銃身は、「長さ」と「口径」があって、「口径」は銃弾のサイズにあわせてつくるし、またその逆もある。
当然だが、「口径」が大きくなれば、機関部もそれに準じた強度を要するのは、火薬量も増加させることになるから威力が増すのである。

銃身の長さは、短いと照準をあわせるのが困難になって、発射した銃弾が撃発のショックで銃がぶれたら、それこそ鉄砲玉のごとくにどこに飛ぶかわからない。

かといって、長ければ携行のじゃまになる。

その「適度な」長さは、標的との想定距離によっても異なるのである。
オリンピックなどでの「ピストル競技」の射手(選手)が、日本人では警察官に限られるのは、一般人が所持できないからでもある。

さらに、ライフル(銃身の内側にらせん状の溝(「ライフリング」という)は、銃弾に回転を与えることで「弾道」に安定をあたえるように工夫したもので、その加工には高度な技術を要する。

ライフルは、「バイアスロン」を代表種目として、自衛官が専ら選手になっている。
ライフルの所持には、10年以上連続の散弾銃所持実績があって、無事故かつ、「狩猟目的」でないと一般人には許可がでないからだ。

「グリップ・銃床」でのグリップは、利き手にあわせた形状で握りやすいだけでなく、引き金の引きやすさを、たとえおおざっぱでもいまでいう人間工学的に作られている。

銃床は、肩に銃を当てて構えを安定させる部分だけれど、猟銃やライフル銃などは、「銃床を頬にあて」て構えるために、射手の顔の骨格が射撃精度にも影響する。

「和弓」も、「矢を頬につけ」るから、我が国が世界最大の銃所有国だったのは、「伝統」にかなっていたからだろう。
なので、散弾銃でも一発目を「初矢」、二発目を「二の矢」と呼ぶ。

頬を付けるのは銃の先端にある「照星」と「利き目」を一直線にあわせるためで、銃床も右撃ちと左撃ち用とでわずかにカーブして真っ直ぐに見えるように作られているから、これも人間工学的な要素を含んでいる。
右撃ちの人が左用の銃をつかったら、ほぼ当たらない。

なので、「グリップ・銃床」は、オーダーメイドでの発注(体形の諸元を計測する)もふつうにあって、専門の職人が仕上げるのである。
この意味で、一流アスリートが用いる銃は、市販銃に見えてもオーダーメイド品だ。

さて、銃があれば撃てるというものではなくて、弾の形状が銃腔・銃口と一致していないとそもそも「弾込め」もできないのが、いまの「薬莢」方式だ。
この点は、火縄銃もおなじで、銃身内のサイズ(腔・口径)と弾のサイズの一致が不可欠なのである。

なぜならば、わずかな火薬の爆発力で、大きな殺傷力を得るには、撃発機構での「気密性で得た圧力」が銃身内でも保持されてこそ、弾丸を高速で発射するエネルギーになるからである。

なお、火縄銃が「先込め式」というのは、銃身の先からさいしょに適量の火薬をつめて、これに木の棒(静電気が起きない)で突いて固めてから弾を込める方式だったからである。
火薬を固めて弾と一体化(カートリッジ)させたのが、薬莢式である。

火薬を固めるのは、一気に燃焼させるためで、ゆるゆると燃えたら花火にもならないのである。

火縄銃と現代の標準になった薬莢式とのちがいは、どうやって火薬に着火させるのか?「だけ」といってよい。
火縄銃は、安全装置である「火蓋」を開けて、引き金を引いたら火縄の火が火蓋の中の火薬に着火するものだ。

それで、戦闘開始のことを「火蓋を切る」というようになった。

薬莢式は、引き金を引いたら強力バネが「撃針」を飛び出させて、撃発機構内にセットされた薬莢の「雷管」を叩いてこれを発火させることで、その先の火薬を燃焼させるものだ。

何れにせよ、完成された技術とはいえ、その精度(気密性)と強度がセットになっていないと、射手の安全すら危険になるのである。
いまでも「銃身破裂」などの事故での怪我はあるし、一歩まちがえると射手の命すら危ういのだ。

さてそれで、安倍氏を襲ったあの散弾銃の疑問点だ。

・映像でみるかぎり銃身が短い(20センチ程度?)
 ⇒ 腰位置での発砲で照準をいかにあわせるのか?
 ⇒ 6粒の散弾が、まっすぐに飛ぶのか?
 ⇒ 100m先の壁にあったのは本当に今回の弾痕か?
    (そんなに飛距離と威力があるのか?)

・撃発機構が電池式フィラメントとは、じっしつ火縄銃だったのか?
 ⇒ 「先込め式」の「二連銃」なのか?
 ⇒ 何粒発射されたのか?
 ⇒ 機構上「使い捨て」銃ではないのか?
 ⇒ 「先込め式」で「6粒」なら、その6粒はどうやって銃身内で保持したのか?
 ⇒ 火薬量は何グラムで、種類はなにか?

・口径はいくつなのか?
 ⇒ ネットで空薬莢を購入した、は本当か?
   確かに空薬莢は簡単に手に入るが、「雷管付き」は無理ではないか?
   (使用済みしか販売されていない)
 ⇒ 市販の鉄パイプで薬莢規格(気密性保持)に合致する口径はない。
   市販の鉄パイプで、撃発の圧力に耐え、ひとを殺傷するに耐える銃身になるものがあるのか?

・弾道分析がないのはなぜか?
 ⇒ 容疑者の立ち位置と「標的」との、三次元分析がない。
 ⇒ どういう弾道で「当たった」のか?
 ⇒ どういう弾道で「はずれた」のか?

以上からも、不可思議がたくさんあるのである。

BRICsの組織化と拡大

「BRICs」とは、2003年にゴールドマン・サックスのレポートで、B:ブラジル、R:ロシア、I:インド、C:中国、s:南アフリカの5ヵ国を、今後の成長が期待できる「新興国」として、投資家に売り出したことを発端とする。

なかでも、このレポートで「大文字」表記している4ヵ国(つまり「s」の南アフリカを除く)は、広大な「資源国」でもあるために、2050年にはGDPで世界上位6ヵ国に入ると予想されたので、大注目を集めることになった。

現在GDPで世界3位に位置するわが国でいうと、既に中国が2位なので、同時期には、世界上位6ヵ国から「外れる」という予想になっていることに注意したい。

BRICsは当初、勝手につけたグループ名だったので、とくに「機構」というものではなかったけれども、その注目度があがったことから、徐々に「機構らしきもの」になってきている。

既に、「首脳会議」は、今年で14回目となり、この会議の下に「フォーラム組織」を形成していて、まさに「ひょうたんから駒」状態なのである。

今年の外相会議は、5月に中国を議長国として北京で開催されて、習主席がオンライン演説を行ったと、スプートニク社が伝えている。
また、翌6月に開催された首脳会議後の同月27日に、イランとアルゼンチンが、「加盟申請」をしたと、翌日の28日付けロイターが伝えている。

なお、同記事で、アルゼンチンの加盟申請については、ロシア外務省の報道官の発言として伝えているから、リークである。

さらに今月4日には、同フォーラム責任者であるプルニマ・アナンド氏が、「トルコとエジプト、サウジアラビアが速やかにBRICsに参加する可能性がある」と、イズベスチャ紙のインタービューにこたえている。

ちなみに、わが国はウクライナに関係して、ロシア政府から「敵対国認定」を受けているなかで、ロシア国防省は26日、大規模軍事演習「ボストーク2022」が8月30日から9月5日まで行われると発表したことに対して次のようにスプートニク社が伝えている。

日本の磯崎官房副長官は28日、日本政府は外交ルートを通じて、クリル諸島南部(日本側の定義では「北方領土」)を今度の演習から除外するよう「強く求めた」と明らかにした。
対して、ロシア外務省のマリア・ザハロワ報道官は、日本政府は太陽が西から昇ることを要求しているのと同じだと揶揄した。

こうした「動き」を、日本の既存メディアは、ほとんど報じていない。

BRICsの「組織的成長」が意味するのは、対米・対西側における明確な「反対」の表明で、これは一義的には「国連秩序の否定」でもある。
このことは、スプートニク社が6月27日に伝えた、中国外交部国際経済問題課課長の名前も記載した発言として、BRICs拡大の目的は新陣営の形成ではない、にその本意が透けて見える。

なぜなら、前月の5月半ば、王毅外相(外交部長)は、中国側はBRICs拡大プロセスの開始を提案すると発言していて、BRICsの開示性と包括性を誇示し、プレゼンスと影響を高め、全世界の平和と発展へ大きく貢献する一助となるとの考えを示している、からである。 

いつもの「ダブル・スタンダード」であるから、かえって「本音」がわかりやすい。

しかしながら、隠された二義的な「ナショナリズムの台頭」という切り口で見れば、「西側=グローバル全体主義」にすると、その対立構造が明確になるのである。

このブログでも書いてきた、習政権の、共産主義・全体主義のなかにある、「ナショナリズム=毛沢東主義」が、鄧小平以来の改革開放路線(グローバル全体主義)と対抗している複雑さを秘めていることを思い出すとよい。
なので、グローバリズム代表格の、ジョージ・ソロスが習政権を容赦なく批判するのである。

ここで、「C国」以外の立場はどうか?をみておくと、ブラジルとロシアは完全な反グローバリズム、インドは中立、南アフリカもどちらかといえば、反グローバリズムだ。

すると、グローバリズムで稼いでいる、ゴールドマン・サックスの思惑を大きく超えたのが、いまのBRICsだといえる。
これは、グローバリズム勢力=国際金融資本やら軍産複合体、世界経済フォーラムからしたら、育ててみたら「ノーコン」になった、を意味するのである。

彼らからしたら『フランケンシュタイン』をつくってしまった。

伝統的に軍産複合体の「手先」である、アメリカ民主党バイデン政権が、高齢の大統領に頭を下げさせてでも、原油の増産を頼み込んだサウジアラビアをして、BRICs加盟に邁進させた「愚策」は、あえて、アメリカを崩壊させて共産化したい、というなら成功しているが、「な、はずはない」反動が共和党の存在だ。

それで、自暴自棄になったペロシ連邦下院議長が、台湾を訪問するかもしれないところまでやってきている。
そこまでして、大陸を刺戟して武器を消費したいのか?
これはもう、ウクライナが「収まっている」からだろう。

とはいえ、「ガス供給のロシア依存」が決定的のヨーロッパ側は、結局のところBRICsに跪かないわけにはいかない。
これは、サウジ加盟後のわが国もおなじなのである。

わが国に「親ロシア政権=ナショナリズム政権」が誕生する気運がみえないのは、国際情勢を国民に伝えない「効果」だといえる。

この点でも、ゴールドマン・サックスの予想をはるかに超えた「凋落」が、わが国に起きるのだろうけど、それがどんな悲惨になるか?
まことに歯がゆいかぎりなのである。

自民党がジェノサイドで起訴される日

こんな、「夢のよう」なことが起きる日が、本当にやってくるのだろうか?

英国では、このたび「辞任」を発表した、ボリス・ジョンソン首相以下の閣僚(コロナ対策に関与した歴代保健大臣)が、昨年12月6日に国際刑事裁判所に提訴され、これが受理されたことは書いた。

この翌月、つまり今年の1月中旬に、英国議会で、ボリス・ジョンソン首相が「突如」、英国政府としてすべてのコロナ対策を「停止する」と発言して、「なんのこっちゃ?」と話題になったけれど、実際に英国政府は首相の発言どおりに、「停止を実施」したのだった。

そして、こないだの辞任表明後には、政府が政府からの独立委員会を設置して、「コロナ対策」における「犯罪」を調査すると発表した。
そこには、「ワクチン接種」に対する「犯罪」も含まれる、と。
さらに、ワクチン後遺症についての政府保障を実施するともつけ加えたのだった。

昨今、世界の報道機関が、恣意的な報道をするために、1月の首相発言と、辞任表明後の「調査開始」との話が、「別々」になっているから、日本に住むわたしには、ほんとうに「別々」のニュースになっていて、関連性が不明だし、そもそも国際刑事裁判所提訴の件との関連も不明なままなのである。

なので、残念ながら、これら一連の出来事は「つながっているかも?」という、状況証拠的なことからの「推論」とならざるを得ない。
それでこの「推論」を、さらに拡大して「妄想」したのが、本稿のタイトルなのである。

よって、「自民党が」というよりも、「与党が」といったほうが正確になるだろう。
ただ、拡大解釈をすれば、「野党も」含んでよい可能性があって、一部の「質問者」としての議員以外は、みな同罪になってもおかしくない。

「英国の事例」からしたら、安倍政権の閣僚から現政権にいたるまでの、首相自身も含む「担当閣僚」と、「党幹部たち」の責任は、グッと重くなるのは当然だ。

よって、ここでいう「調査」と「起訴」の主体は、国際刑事裁判所ということになる。
なお、わが国は英国同様、平成19年(2007年)10月1日に正式に国際刑事裁判所(「ローマ規程」)に加盟している。

それが、「降りてきて」、国家としての対処となったときに、英国のように、政府から独立した委員会を立ち上げるのか?それとも、「検察」を使うのか?になる。

もちろん、わが国の検察も、たいがいの民主国家の検察も、司法行政当局(わが国なら法務省)と一体なので、内閣に属することになる。
よって、内閣が内閣を起訴するという大矛盾に対処できないから、英国は政府からの独立委員会としたのだと認識しないといけない。

すると、民主国家の政府を監視するために存在しているはずの「議会」はどうなっているのか?という問題に「戻る」のである。
つまり、「議会」が、その「党派性」のゆえに、もっといえば、「政治事情=党利党略」から、肝心要の「政府を監視する」機能が失われている、という話になるのである。

しかしながら、議会は多数決をもって決めるので、多数を占める「与党の犯罪」については、当然に「無力」となる。
よって、国民は国民が選んだことによって、とんでもない「害悪」を被ることがある、という現実を目の当たりにする。

わが国がやってきた方法が、2000年以上続いたのは、権威と権力を分けるという世界の常識でははかれない「破格」だったためで、これがまた、国民をして政府を信頼する根拠であった。

つまり、どんなに武力を背景にした権力者といえども、天皇の権威の前には、なぜか無力になったからだった。
それが、真髄は「神威」であった。

「記紀」(古事「記」・日本書「紀」)にある、「神話」を国民が皆信じていたことを前提に、かつ、天皇が絶対的に国民の立場を擁護するために存在し続けたので、権力者が持つ権力の源泉が、天皇による「認証」をもっていないと、国民がエセとして認めなかったからである。

これを、GHQが破壊した。

それなのに、しばらく「惰性」で、国民が政府を信じたのは、天皇の権威を自分たちの誇りとしてみていた世代人がいたからであった。
この世代人が、徐々に小数派になってきて、古来の天皇の権威が弱まったために、わが国は「欧米並み」という次元に堕ちたのである。

なぜかこんな堕落を、「ふつうの国」という。

そんなわけで、政府の役人も「偉くなると」天皇からの「認証官=特別職公務員」になれることも価値が薄れたのである。
なお、「事務次官」は、「一般職」の最高位なので念のため。

これは、わが国が「自浄力」を失った大きな理由なのだ。

ゆえに、英国方式を真似るしかないほどの恥ずべきことを、「新・日英同盟」なぞといって気を良くしている「保守人」がいるのである。
天皇の権威が復活してもしなくとも、またそれが欧米流でも、国民にとって不要な存在になった「権力集団」の自民党は、どこかで起訴される日がやってくるだろう。

さては正夢か、ただの希望か?

その前に、アメリカ民主党の崩壊を目撃できるか?にかかっている。
とっくに自民党は、アメリカ民主党の「日本支部」になったからで、「保守の星」になって待望論が根強い高市早苗氏の「真性アメリカ民主党」的発想と政策論にぜんぜん気づかいない「保守」の脳天気も醒めることだろう。

6800円新築ホテルの完成度

夫婦2人、ツイン・ルームでの1泊素泊まり料金である。

部屋は広く(20平米)、「ツイン」のベッドはセミダブル(1200×2000)が2台ある。
バスルームの床面は、客室と「フラット」で、高級ホテル仕様の建築だ。
また、トイレとべシンの奥に、洗い場付きの風呂になっている。
このため、風呂桶は日本の家庭用タイプの深型で洋風ではない。

デスク周りの機能は充実していて、デジタル時計と温度計付きLEDスタンドがあり、テレビは大型ワイドモニター(三菱電機製)だ。
電源コンセントは3個、テレビ用HDMI端子、有線LAN、充電用USB(タイプA)が2個ある。
もちろん公衆無線Wi-Fiもある。
なお、地元情報はQRコードからの提供が試みられている。

ベッド周りも、室内照明類のスイッチだけでなく読書灯があって、ここにもUSBが2個用意されている。
エアコンは、効率のよい「個別空調」で三菱電機の『霧ヶ峰』、空気清浄機はパナソニック製である。
ワードローブはないが、デザインされた壁にハンガーが6本掛かっていて、シューズクリーナー、ブラシ、靴べらもある。
室内ばきはウレタン製のサンダル型スリッパと使い捨てスリッパの2種類がセットされている。

残念ながら,白色LEDの光源は蛍光塗料によるタイプのはずなので,紫外線が強く目にわるいから使わなかった。

なお、デスクには電話機がある。
今更だけど、携帯電話の普及から電話機のないビジホがあるし、このクラスのホテルの部屋に電話があるのは、「特記」すべきことだ。

その他の機能は、ロビーフロアに集中している。
大浴場、レストラン、自販機、製氷器などだ。
チェックインは、2台の自動チェックイン機で行うが、係員の窓口は検温などのコロナ対策だけだった。

コロナ後はどうするのか?と余計な心配をしたのは、チェックイン機渋滞が発生しても、人間の従業員は無関心を貫いていたからである。

このホテルの立地は、完全に国道に面したロードサイドなので、いわゆるアメリカの「モーテル」である。
なお、高速道路のスマート出口もあって、パーキングエリアのコンビニに裏(一般道)からもアクセスできる「便利さ」がある。

なので、ホテル駐車場は広く、平面駐車場だけになっているが、玄関近くに大型バス用のエリアがあるのも注目である。
そんなわけで、いったん客室に篭ってしまえばすこぶる快適なのである。
ただし、長期滞在向きの機能性はないので念のため。

このホテルをどう評価するのか?と問われれば、「LCCのようだ」といえるのではないか?
この言葉の意味をもっと厳密にすれば、航空機のトイレのようなのである。

運賃が格安のLCCは、「客室」の座席数を稼ぐために激狭状態で詰め込まれるけれども、そうではない会社の「エコノミー」とで比べたら、トイレは同じという機体の設計での仕様変更がないのと似ている。

実は旅客用航空機における客室設計の中で、最難易度なのが「トイレ」なのである。

あの狭い空間に、地上と同様の機能を詰め込むだけでも気が遠くなるのに、水回りのうち洗浄水と汚水を完全に分けながら、高度1万メートルの気圧と温度変化に対応させるのは、素人でもその難易度がわかるのである。
なので、座席の仕様は変更できても、トイレの仕様は変更できない。

わが国の「ホテル文化」で、特筆すべきが「ビジネスホテル」というジャンルになった。
いわゆる、「寝るだけ」という需要を満たすための「機能性に特化した」という意味での進化で、それが「規格化」されたチェーン展開を成功させているのだ。

その見えない原動力が、30年続く「デフレ下」という、日本独特の経済状況にある。
もっといえば、日本人が高単価ホテルを利用できない、という貧困化があるということだ。

しかしながら、「企業努力」によって、2人で6,800円でも「機能性」における満足度を高めている。
こうした「体験」を繰り返したひとたちは、たとえば68,000円のホテルにどんな価値を認めるのか?ということになるのは確実なのだ。

もしそれが、旅客機のトイレと同じだと認識したら、高級ホテルの国内需要は従来通りの成長とはいかない。

もちろん、「円安」という背景も手伝って、外国人には日本円建での「高級ホテル」も割安感があろう。
しかし、おなじ外国人でも、機能性だけを買うとしたら、もっと割安なのが「新築ビジホ」になるのは当然だ。

すると、高級を謳うホテルほど、ビジネスホテルの進化に無関心ではいられない。
「安かろう悪かろう」が崩れてきているのである。
むしろ、高額なほどに、その価値は何か?をこれまでより強く問われ出している。

ちょっと前、「いつかはクラウン」という時代があって、高級車が一番売れていた時期があったのに、「レクサス」ができたら、「クラウン」が中途半端な車種になった。
それが今では、軽自動車がいちばん売れているのだ。

高級ホテルも、「レクサス」かそれ以上を目指してどうするか?が問題になっていて、「クラウン」のままでは淘汰される危険があるということだ。
衝突安全性を除いたら、今の軽自動車の機能性は、かつての高級車を凌駕していることを意識していい。

高級ホテルにあって6,800円のホテルにない、を探すより、6,800円のホテルにあって高級ホテルにない,を先に探さないといけないのである。

「正義」ありきと「後から」正義

決定的な「価値観のちがい」が、このタイトルの通りなのである。

日本人は、最初に「正義」をかんがえて、それを貫こうとする「習性」がある世界的に「特異」な発想をする民族なのである。
一方で世界標準ともいえる、白人系の諸族は、自分たちの欲望を優先させて、「後から」正義を理屈づける性質をもっている。

いわゆる、「勝てば官軍」を地で行くのは白人系諸族なのだ。

よって、「勝った側」と「負けた側」には、決定的な「格差」ができて、勝った側は負けた側を「奴隷」にした。
「完全支配」である。

なので、奴隷にされたら「子々孫々まで」酷いことになるので、戦争における「何でもあり」がルールとなったのである。
ところが、狭いヨーロッパのなかで戦いを繰り返しているだけから、徐々に範囲が拡がって、白人同士と違う人種との戦いになっていった。

その典型的な状況が、モンゴルだったのである。

しかも、モンゴルの強さは圧倒的だったし、支配の巧妙さもあって、これに白人はおののくことになる。
そうやって、白人同士の戦いのルールとしては、負けても奴隷化をしないことにして、異人種が相手の場合は容赦しないと決めたのである。

これが、「人種差別」の人種差別たる理由なのである。

そうやってかんがえれば、ヨーロッパ人がいう「哲学」での「平等」とは、たとえそれが、「人間同士の平等」と表記されていても、そこにある「人間」とは「白人に限る」という暗黙の了解があることに気づくのである。

しかしながら、日本人は、「文字どおり解釈した」ので、欧米白人社会が掲げる「理想」と「現実」の矛盾が、気になって仕方が無い。
気になるどころか「嘘つき」なのではないかと疑うことになった。

神世の世界からこちら、日本人は日本列島に閉じ込められていたので、「嘘はいけない」という、驚くべき道徳観をだれに教わるものでもないのに修得していた。

これが、「自然崇拝」からの結論だったのである。

いまでは、「原始神道」とかといって、近世にできたあたらしい宗教としての「神道」と区別している。
それでも、欧米人には、「原始神道」と「神道」の区別は困難で、「経典がない」ことを理由に、「アニミズム」として一刀両断するのである。

つまり、文字で書いた「経典」の「有無」が、「宗教」としての「定義」にしているのが欧米白人社会の疑いもない「常識」なのである。
だからか、日本人のおおくが「無宗教」を標榜してはばからないことになったのは、「欧米白人社会の基準」だとおもわないといけない。

しかし、おおくの日本人が無宗教だとおもっている背景に、「原始神道」への「深いが薄い信仰」があるために、自己認識しないけど集団行動としての強い参拝要求があるのである。

これが毎年の「初詣」になってあらわれている。

どうして「初詣」に行くのか?についての理由をスラスラ言えないのが日本人の大半で、そこに「経典のなにがし」という記述すら、そもそも存在しない。

あえていえば、年初のすがすがしい雰囲気のなかで、やすらぎの1年間を希求して参拝する、ということだろう。
すると、もっとも「宗教らしい」行為が、初詣にあるということになって、「経典宗教」をはるかに凌駕した「宗教人」たちが日本人といえるのである。

「創世記」の物語にある、7日目の休息を日曜日としたことも、そもそも日本人の生活には関係なかったので、旧暦での生活では、今日は「何日?」はあったけど、「何曜日?」はなかった。

なので、日曜日に神社仏閣に詣でることはなく、たとえば「5の日」とかがいまでも「縁日」になっている。
その日にお詣りすれば、「結縁(けちえん)」するというのは、「仏教」から採り入れているけれど。

そんなわけで、仏教も「経典宗教」だけれども、日本人には「はじめにありき」としての宗教が、ゆるぎなき「原始神道」であるために、ぜんぶの経典宗教がこの「土台」のうえに乗っているのである。

よって、欧米白人社会の基準と、永遠に「水と油」の関係にあるのが日本人だといえる。
むしろ、ニーチェがキリスト教を否定したように、歩み寄ってくるのは「あちら」だという構造になっている。

こうしたことをしっていたかどうかは横に置いて、第一次世界大戦後の「パリ講和会議」で日本代表団が言った「人種差別撤廃提案」は、欧米白人社会の仲間内絶対基準に対する、根底からの「否定」と「挑戦」だと認識されたのだった。

それからの「世界史」は、脅威を感じた欧米白人社会からの徹底的な日本攻撃になって、とうとう追いつめられたのだった。
その悲鳴が、「開戦の詔勅」であり、人種差別撤廃(植民地解放)を曲げない「帝国政府声明文」であった。

そうして、とうとう「戦争」のルールすら破って、一般市民を虐殺されるまでに及び、みずから矛を収めたのが「終戦の詔勅(玉音放送)」だった。

しかして、欧米白人社会の「外」に置かれたわが国は、滅亡した白人国家たるドイツと根本的にちがって、徹底的な「奴隷化」が行われて今日に至ったのである。

さては時代の節目を迎えて、その欧米白人社会も二分化が著しく、旧来の基準を「保守」するグローバル全体主義と、人類の自由社会を「保守」するナショナリストとの対決が鮮明になってきた。

11月のアメリカ中間選挙が、向こう100年以上の世界を決める、事実上の「決戦」なのである。
わが国の「奴隷化解放」も、この一戦にかかっているから、なんとしても共和党MAGA運動に勝利してもらいたい。

これを、日本人は自発的に「祈る」しかないのか?
いや、9月の沖縄県知事選やら各市の選挙が、あんがいと援護射撃になるのである。

国民の健康を蝕む「健康保険制度」

昨日の、「栄養学は有効か?」の続きである。

前にも書いたけど、あまりにもあんまりで、しかも、日本国民の「自慢」にすらなっているのが、「国民皆保険」という、社会主義制度だ。
これが、典型的な社会主義制度であることも、日本国民は意識していないのだ。

ただし、社会主義が「労働者の味方」だと、これも「洗脳」させられた「労働組合」も、労働者の健康を守るのが健康保険制度だと「確信」しているから、「公的年金制度」という、もう一つの社会主義制度の「制度保証」をした「消費増税」に賛成する「はめ」になったのである。

重要なのは、「選択の自由」があるか?ないか?で、公的社会保障制度に、選択の自由が「ない」ことなのである。
あたかも、病院などを自由に選んでいるように思っても、診療内容に選択の自由がないために、結果に大きな違いがないまでに標準化(=共産化)が達成されたのが、わが国の医療なのである。

共産主義の「租」といえば、カール・マルクスで、彼の論法はヘーゲル哲学の手法である「弁証法」を採用した。

「正(テーゼ)」⇔「反(アンチテーゼ)」⇒「合(ジンテーゼ)」となるとき、アンチテーゼからジンテーゼへの「⇒」を、「止揚(アウフヘーベン)」といって、一種の別次元に「論があがる」のである。

この止揚によってできた「ジンテーゼ」を「テーゼ」として、止揚を繰り返すことで「真理」にたどり着くことを意図するのが弁証法だ。

マルクスの天才は、止揚(アウフヘーベン)をかんがえついたのではなくて、「アンチテーゼ」から「テーゼ」を作り出したことにある。
このイリュージョン的トリックで、頭が良いとされた「論理を嗜好にする」暇人たちの思考回路を破壊したのである。

つまり、彼にとっての「ありき」は、共産主義・全体主義であるけども、ふつうのひとには「ありき」なんてものはない。
ふつうのひとは、「現状」こそ「あるだけ」なのだ。
この「現状」の「漫然とした継続」だけが「ある」。

それゆえに、マルクスは「現状」のことを、「反」共産主義・全体主義として、これを「テーゼ」に置いたのだ。
「彼の」テーゼは、「現状打破の革命」という真逆だけれど、わざと一般大衆の「現状」をしてトリックの「タネ」としたのである。

しつこいが、この「倒置」こそが、マルクス主義理解の「要諦」なのであって、インテリほど騙された「トリック」のタネである。

それでマルクスは、倒置した「現状」に、彼がかんがえついた「新語」を当てはめて「命名」した。
それが、「資本主義」なのである。
なぜならば、彼が「ありき」で構築したのが『資本論』であったからである。

つまるところ、マルクスが勝手に思いついた「(空想)論」の、「論より証拠」として設置した、「幻想の噛ませ犬」が「資本主義」ということだ。
この「幻想=イリュージョン」の道具に、弁証法が採用されたのである。

まったく別の思考アプローチから、「資本主義」が「幻想」だと気づいたのが、アイン・ランドだった。
実は、われわれは、われわれの祖先も含めて、誰一人として「資本主義社会」に暮らしたことはない。

マックス・ウェーバーの世界的に有名な「解説者」、大塚久雄の『社会科学における人間』で「前資本」やら、「前期資本」という、資本主義成立前の時代を解説しているけれど、それは、いまだに「現代社会」のことなのだ。

すると、現代社会は、まんまとマルクスのいう「歴史の必然」にはまり込んで、社会主義に「移行」してしまったということになる。

しかし、それは「資本主義」からの移行ではなくて、むしろ資本主義社会なんて「はじめから成立しているかどうかなんてどうでもよく」、とにかく社会主義社会になればいいという「結果論」なのである。

さすれば、いったん社会主義社会を達成すれば、今度はマルクスの論(唯物史観)に従って、必然的に共産主義・全体主義社会が到来することになって、最終目的が達成されればいいのである。

その実現者たちが、「世界経済フォーラム:ダボス会議」なのだ。

すると、1961年に「国民皆保険」という社会主義を実現した日本こそ、マルクス史観でいう「世界最先端」を実現した国家であったし、これをやった「自由民主党」こそが、日本共産党をダミーとした「本物の共産党」なのであって、ダボス会議の「本体」だ。

それゆえに、竹中平蔵氏(ダボス会議唯一の日本人理事)こそ、真の「首相」に就任した人物で、それが小泉政権をダミーとした2000年のことだったから、健康保険制度も「進化」して、保険点数の厳密化が「医療事務システム」を通じて実現した。

これで「ヤブ医者」が駆逐されたばかりか、全ての医療行為が「点数制度」下に収まったので、「完全平等な医療」が達成した。

もちろんこの「完全平等」とは、受診者=患者にとっての、「完全平均値」を意味するから、その本人の本当の症状や病状は無視され、「データの範囲」でマニュアル通りの治療と投薬が行われるだけなのである。

病院で主治医や看護師が患者の顔色を見ずに、パソコン・データばかりを観ている事情は、一人ひとりの「患者」ではなくて、一つ一つの「データ」になっているからだし、そこでの投薬指示や検温とかの医療行為が、そのまま保険点数計算データベースに照合されて、過剰と不足の判断と、請求書への自動加算がされるのである。

では、「データの範囲」を超えたらどうなるのか?

答えはかんたんで、「不明」ということになって、これ以上の手当は放棄される。

医療保険(点数表)の範囲を超えるからである。

ならば、「データの範囲内」であれば安心か?といえばそうではなくて、そのパターンで決められた治療と投薬が自動的に行われて、「それ以外」は許されず、「それ以外」の医療行為が目に余れば、「保険請求事故」扱いになって、医師は処分の対象になるのだ。

こうして、国民の健康とは「別」に、健康保険による医療行為が行われていても、もはや共産政権下の国民には文句すら言えないばかりか、「世界に冠たる国民皆保険」といって自慢するのである。

これぞ、全体主義なのだ。