無店舗ホテル

「モジュール化」が話題になったのは2000年にはいってからだったようにおもう.
当時は,もっぱら製造業のはなしだった.しかし,突き詰めれば,どの業種でも適用できる概念だ.

「部品」とはなにか?

旅館という「サービス業」でかんがえると,客室や風呂,食堂が「部品」というのではなく,客室清掃や風呂管理,調理と配膳といった,「業務」を「部品」にみたてることで,それぞれの「規格」をきめると「モジュール」になりえるとかんがえるのだ.

「モジュール」は,「モジュール」というひとくくりで取引の対象になるから.上記のそれぞれの業務も,取引の対象になっておかしくない.
むかしから,調理なら司厨房士協会,宴会などのボーイやらは配膳会が請け負っている.これらは,「モジュール」のはしりであろう.近年では,ホテルなどの客室清掃も,清掃会社への業務委託が主流になった.
なんだ,その程度なら,というのではない.「モジュール」は,より細かな「規格」が重要なのだ.だから,上述の例は「はしり」なのだ.

「サービス」が「モジュール化」するとは?

背広といえば「テーラーメイド」がふつうだった時代から,戦後になって「イージーオーダー」が全盛をほこったときがある.これを可能にしたのは,簡易に修正できる部分だけ寸法をとったことによる.デザインは一定だからできた.

つまり,サービスのデザインを設計・記録し,そのなかから修正できる部分で対応すれば,イージーオーダー以上のサービスが可能になる.そのとき,「部品」ごとの修正可能性を決めれば,専門会社に外注できる可能性があるという意味だ.

これの例は,すでに大手ホテルも導入している,プロの婚礼コーディネーターや,一部地域では売店の業務委託で売上を数倍にしたところもある.
婚礼は,新婦の希望がつよく反映されるものだが,それをさらにプロが磨いてさしあげることで,一段上の満足を買っていただくことが重要だ.そうして,参加者のなかから,あたらしい需要が生まれるからだ.ところが,こうした提案ができるレベルまで,社員を育てるのには時間も経費もかかるから,これを専門家というモジュールに任せるのは合理的である.

究極の資本と経営の分離

宿泊業で,「資本と経営の分離」をいうときには,政府の「観光白書」にもあったように,土地と建物所有者(資本)と,ホテル事業の経営や運営をするひとを分けて,別々にすることをさした.家賃形式でも,業務委託(MC:マネジメント・コントラクト)形式でもいい.

歴史のある宿ほど,資本と経営が一体であり,残念ながら,その家に生まれたけれども,経営の才覚がないひとが経営にたずさわるしかなく,経営そのものが傾いてしまうという例があとを絶たなかったために,国や金融機関,再生専門家に推奨されたものだ.

それで,ホテル経営会社や運営会社がたくさん生まれた.これらの会社は,自社で不動産(土地・建物)を所有せず,オーナーとの契約によってホテル事業をおこなうものだ.

じつは,世界最大のホテルチェーンである,ヒルトン・インターナショナルや,スターウッドグループなどは,上述の方式で店舗拡大を積極的にすすめたのだ.自社でホテルのための不動産を所有しながら拡大するには,莫大な資金が必要になってしまい,それは経営リスクを高めるという判断からだ.
これに対して,日本の宿泊業界は,経営難が理由で運営会社にならざるを得なかった,という事情がある.どんな事情であれ,世界をみればべつに恥ずかしい事業形態ではないのだが,日本では従業員も萎縮してしまうという,なぜだか不思議な現象がみられる.

その日本では,ビジネスホテル分野での浸透はずいぶんと進んだ.どこの街に行っても存在するホテルチェーンは,資本と経営の分離というモデルで拡大してきたからだ.ところが,高級ホテルの分野では,なかなか進んでいない.また,高級旅館の分野では,有名な一社の独壇場になっている.大衆的な旅館は,「破綻処理」というスタートラインがふつうになったので,こちらは「買収」という形態だから,資本と経営は一体である.

すると,「高級」なグレードでなぜ資本と経営の分離が進まないのだろうか?をかんがえると,おそらく,「経営ノウハウ」や「運営ノウハウ」を確立したところがないからであろう.
「ノウハウ」とは,それが書いてあるだけでも価値があるものだ.だから,ビジネス取引の対象になる.「高級」なホテルや旅館は,イレギュラー対応もおおく,その運営には独特のやり方があると信じられてきた.それは,そこでしかない「ノウハウ」だから,汎用性がない.
しかし,汎用性がないものを「ノウハウ」と呼ぶべきなのか?

ホテルや旅館を一社の経営体や運営体がひきうけるとかんがえるから,「ノウハウ」の壁にぶつかる.数人で構成する経営体が,モジュール化した運営体をたばねれば,これまでの不可能が可能になるのではなかろうか?

地域に就労人口が少なくなった地方の宿泊業こそ,こうした方式の活用しか存続できなくなるのではないか?モジュールの従業員には,期間がきまった出張や異動,と位置づけることで,人口の多い地域からの移転が可能となる.これが,一生そこに住む,イメージとの決定的なちがいだ.

モジュールからみれば,それは「無店舗ホテル運営」になる.

 

没コミュニケーションという時代

2018年の年頭にあたって

ファストフード店がはじまったころから,だんだんお店のひととの会話がすくなくなった.個人商店が減り,大手のチェーン化がすすんだ結果である.
機械的なやりとりで要求がつたわり,機械的なやりとりで商品を受けとり,機械的なやりとりで精算をすませる.ここには,「人間味がある」会話がはいるスキがない.毎日かよう店でも,「いつもの」でとおることはないし,「昨日おみえにならなかったので心配しました」ということばも期待できないし,実際にない.

酒やたばこを買いにこどもを遣いにだしても,年齢認証ができないから買い物にならない.「間違い」はないが,どこか間違っている.
正当な行為にたいしての「報酬」をえる,という社会的「訓練」ができない.お小遣いは,なんの苦労もなく,ただもらうもの,になりさがってしまう.兄弟がいないから,すでに「おじ」「おば」も珍しい存在だ.むかしは,そういった大人たちが,ほんとうは小遣いをあげたいが,親の手前もあって,わざわざ買いものを依頼したものだ.それには,嗜好品である酒やたばこがちょうどいいアイテムだった.相手がこどもだからといって,なにもしないのにただお金をえるのは,乞食行為とさげすんだからだった.もらう側の親にも気骨があったのだ.

機械的だから,間違いをおこすのは人間である.それで,レジに自動釣り銭機能をつけたら,釣り銭間違いがなくなった.機械はミスをしない.そこで,人間がおかす間違いを「ヒューマン・エラー」と呼ぶ.
だから,没コミュニケーション時代には,ヒューマン・エラーがつきものになった.

ヒューマン・エラーは個人の責任か

ヒューマン・エラーが「原因」の「事故」が発生すると,またか,といって「個人」の責任がとわれることがある.

たとえば,トラック運転手が,積み荷の荷崩れによって生じた損害を負担させられることがある.会社のいいぶんは,運転が雑だから,ということだが,道路事情にもよる問題だ.であれば,ゆれない荷台にする投資を会社はしないと理屈に合わない.

これが,人身事故につながったら,その責任は「個人」ではすまない.だから,きちんとした原因分析と対策は不可欠になる.

食品こそ慎重に

アレルギーによる「事故」になると,生命にかかわるほど重大な問題に発展しやすいのが食品である.食中毒もしかり.これらはすべて会社の責任になる.社会的には,絶体に「会社の責任に『する』」のだ.

没コミュニケーション時代では,些細な問題など存在しない.没コミュニケーションゆえに,消費者はクレーマーに変身する.それしか,表現方法がないからだ.これは,合意の欠乏でもあるから,要求が一方的になるのだ.「モンスター」は,特別なひとがなるのではなく,没コミュニケーションがもつ原理からなる.

ならば,コミュニケーション特化型というやりかた

世の中の流れにしたがうのは,ときに賢明ではないことがある.没コミュニケーションに歯向かって,コミュニケーション特化型という道がある.

お客様とのコミュニケーションをいかに深めるか?それには,会話術もひつようだ.そうやって,ビジネスをひととひとのお付き合いに転換させることが,あんがい渇望されている可能性がある.

これは,人間の本能につうじるからだ.ひとが言葉を得たのも,他人とのコミュニケーションのためだからだ.

ひとは間違いを学んで賢くなる動物だ.間違わない社会は,ひとを愚かにする可能性がある.それは,プラトンの「メノン」におけるソクラテスのことばではないか.いまの家庭や学校で,ちゃんと間違えることを教訓に教えているのだろうか?

企業においても,上司は部下に,適切に間違いを経験させることも重要な教育なのである.

宿はお客様とのコミュニケーションに,どんな道具立てを用意するのだろうか?その道具立てが,宿の個性になる.それは,没コミュニケーションを推進する,ホテルとの棲み分けにもなるだろう.

楽して稼ぐのがきらい?

わざわざ面倒な方法をえらぶことがある.「道」の追求という「純化」がだいすきな国民なのだ.
柔道や剣道とおなじく,無意識に「仕事道」をつくってしまう.それも,自社にしか通じない「道」だから、あんがい同業他社で通用しない.それで,役人が決めた「士業」である「資格」をほしがるようになる.

ほんとうはサボるのがだいすきだ

その役人が,どんな職業人生をおくってきたがわかるところがある.「シルバー人材センター」だ.
ひとりでできる仕事を五人でうけもつ.これが,時給が低いほんとうの理由なのだが,「シルバーだから体力的に無理ができない」と敬老っぽい言いかたをして,これまた役所がおせっかいしてきめている.
元役人が,シルバーとして有利(楽で時給がいい)な職場は,ちゃんと役所が優先的に斡旋してくれるから,ここでも民間人の仕事を奪っている.
感心するのは,とてつもなく閑な業務に,元役人たちは耐えられるだけでなく,むしろそれを楽しむ精神力があることだ.それで,このひとたちの職業人生の質をしることができる.いわゆる「育ち」がしれるのだ.
ほんとうは,働きバチなんかじゃなくて,こうやってなにもしなくて給料がもらえる職業にあこがれるのだ.グリーン車のような一段上のくらしができる.
日本の生産性を先進国最低におとしめている元凶は,ほんとうは公務員たちである.かれら自身の生産性だけでなく,このひとたちから「働き方改革」を「やれ」と,命令されて,「ははっー」とかしずく財界の精神構造とセットである.経団連は先祖返りして,かつての「産業報国会」以下になりさがった.

どうやって正しく「楽する」か?

たとえば,人手不足の原因とやゆされたトラックドライバーは,なんと「手積み」で荷の上げ下ろしをしている.これをフォークリフトでつかう「パレット」も一緒にはこべば,画期的に「楽する」ことができる.パレットは,荷主の所有物だから、運送業では触ってはいけないもの,だったというから,二度めの驚きがある.

海運では,とっくに「コンテナ」が主流になった.人間には巨大にみえるコンテナを,そのまま機械でもちあげて船にはめこめば,きっと港湾の労働は楽になるとかんがえたのは,トラック運転手だったアメリカ人の当時二十代の若者だった.現在,世界最大の海運会社,マースクラインの創業者だ.彼が発明した「コンテナ(システム)」は,二十世紀最大の発明のひとつにあげられている.

ところで,このマースクラインが所有する,世界最大の18000TUEコンテナ船(8畳間が入る標準型コンテナを18,000個積める)全長400m(戦艦大和は263m)の船が,2014年5月に横浜本牧埠頭に記念帰港したニュースがあった.横浜市港湾局のHPには,いまもその自慢が掲載されている.ところが,2016年になって,マースクラインは日本と結ぶ欧州定期航路から撤退して,幕末以来つづいた欧州と日本の定期直航航路が「消滅」したのだ.これ以降は,上海や寧波などで「積みかえて」,日本にやってくるようになっている.だから,日本からの荷も,これらの港で「積みかえて」欧州に向かうしかない.
ちなみに,国交省HPにある,2015年の世界の港湾コンテナランキングで,日本の東京港が29位,横浜港54位,神戸港57位,名古屋港58位,大阪港72位となっている.上海が筆頭のトップ10位は,シンガポール,釜山,ドバイ以外はすべて中国の港湾である.なにか,世界大学ランキングをみているような錯覚におちいる.

システムとして実行できない

日本の港湾の凋落は,日本経済の凋落でもある,という解説もあるが,まだ地理的に「極東」という,動かしがたい「不利」のほうが納得できる.しかし,日本の港湾がこの30年で著しく衰退したのは,「やり方」に原因があったのではないか?とかんがえるのが妥当だろう.なにしろ,わたしは横浜市立の小学校で,「世界一の港・横浜」と教育された世代である.

港湾局はがんばった.しかし,港湾局の管轄は「港」にかぎられる.「港」が充実しても,「荷」は「港」にとどまるわけではない.「荷」には行き先がある.だから、道路が必要だ.その道路は「道路局」の管轄だ.

機能をシステムとしてかんがえたばあい,先行事例の課題を先取りして計画すると,後発はたいへん有利になる.それで,先行事例のほうは,より「楽な」方法をかんがえるのだが,なかなか実行できない.「裁量者」の「裁量」が乏しいときにあらわれる.

民間のしごとでも,荷役作業はことかかない.たとえば,地下鉄の駅構内にある設備の入れ替えにあたって,ふるい設備を搬出しなければならないときに,これを人足の人力だけにたよるのが日本人だ.地下鉄の終電が去って営業が終了すれば,作業開始である.よくある光景だ.しかし,営業が終了すると,エレベーターも動かなくなる.「大物」でも,せいぜい数人で運べるものが,何回も階段をつかって運び出すしかない.重さ十キログラム程度の「小物」は,ひとりで担ぎ上げる.
重いから疲労困憊するのではなく,四・五階建てに相当するながい階段の往復が疲れさせるのだ.

エレベーターという文明の利器を横目に,ひたすら階段をいく.なぜか,インパール作戦のイメージがうかぶ.アメリカ軍だったら,兵卒に士官が殴られるかもしれない.
「エレベーター,どうして使えないんですか?」という人足の質問に,「これが使えたら,人を雇わないよ」という名答だ.人手不足はつくられている.そして,ムダな仕事に賃金が支払われるのだ.これこそ,ケインズの有効需要の創出だろう.これらの経費はぜんぶ,結局は国民負担になっていく.生産性をかたる元気もなくなる.

エレベーターの使用許可をどうやってとるのか?のほうが,きっと人足を雇うより困難なのだろう.だれも責任をとりたくない日本は,異常に面倒くさい国になった.
それにしても,人力では持ち上げられないような,たとえば自動改札機のようなものは,どうやって入れ替えるのだろうか?これも階段で人足が担ぐのか?地下鉄にはミステリーがある.

自社の仕事

面倒なのは,毎日の業務がある中での自社の仕事の点検だ.
「わかっちゃいるけど,やめられない」まさに「煩悩」にまで昇華してしまっている.
こんがらがった仕事の糸を切ることなく,一本ずつはずして,それから掛けはぎをなおすように糸を織り込んでいくような,「面倒くさい」ことを,「業務の流れ」からときほぐす必要があると,社長たちは識っているからだ.想像するだに「面倒くさい」.
しかし,掛けはぎ直しの丁寧な仕事をみればわかるように,どこが問題の箇所だったのかわからない状態になるのも事実である.
掛けはぎとちがって,業務の「修理」は,やってみると,当初意図しなかった意外なところもきれいになって,結果的には想像以上の成果がでるものなのだ.「面倒」以上の結果がでることは,一度でもやった企業だけがしっている.それだから,これらの企業は,なんどでも「修理」箇所をみつけてはなおしている.こうして,この活動が従業員たちの「本業」にまでなると,しらないうちに業界内の地位までもが上昇するのだ.なんといっても業績が安定した企業になるからだ.
それは,一朝一夜にしてできるものではないから,同業者もかんたんにまねできない.だから、最初の「面倒くささ」をのりこえられるかが勝負である.

先進国最低の生産性の原因は,ぐうたらとして無責任をつらぬく,なまけ根性にある.

今日は大晦日.
除夜の鐘の音で煩悩を落とし,新しい年のはじめに,おもいきって自社業務の「掛けはぎ」みつけと,その「修理」をする,ときめることをお勧めする.
きっとよい年になるにちがいない.

よい新年を.

旅館料理は健康によいのか?

どんなものを食すと「健康によい」のかを断定するのは,あんがいむずかしい.
そのひとの体質や持病に影響されるから,万人向きのものはほとんどないだろう.それで,管理栄養士は,一般向けに「バランスがよい食事」をとるようにという.

ブリア・サヴァランが考案した「コース」は

美食といえばこのひと.とっくに古典になった「美味礼賛」の著者である.あのお菓子の「サヴァラン」も,このひとの名前を冠している.

 

で,いかにして一度の食事で満腹感を感じずにいろいろな料理をたくさん食べることができるか?を研究した成果が,いまわれわれがしる,フランス料理のコース,である.ようは,いかに血糖値を抑制しながら,食べ続けられるか?ということだ.だから,コースの最後のとどめには,かならず甘いものがでる.これで,一気に血糖値をあげて,満足感を最大化するのだ.

会席料理もこの考え方をまねたから,最後はごはんにつづいて甘いものでしめることになったのだろう.糖質二連発で,血糖値と満腹感をだす設計になっている.

生活習慣病と温泉旅館

「少子・高齢化」という,だれにも止めようがない問題をかかえるなか,高齢者の増加,すなわち生活習慣病(ちょっと前なら「成人病」)の増加を予想するのは容易である.毎年一月に厚労省は「糖尿病」罹患者数についての予測を発表している.

「予測」というのは,自覚症状がなく,医師の診断をうけずにくらしている,「かくれ患者数」の存在がそうさせている.

すでに,日本人成人の4人に一人が糖尿病あるいは予備軍といわれてひさしい.これが,食品やドリンクメーカーによる「糖質オフ」とか「無糖」商品販売合戦の正体である.それで,「糖質制限食ブーム」にもなった.

このブームに,ほとんど無反応あるいは無関心なのが,温泉旅館の料理である.

しかし,それは「料理」だけ,なのだろうか?
おそらく,会社をあげて無関心なのではないか?

「お客様のために」は嘘である

あくまでも,繁盛した昭和時代や,平成バブルのノスタルジーにひたって気持ちよくなっているすがたである.
「あのころはよかった」がこうじてくると,「いまの客はおかしい」とか「いまの客はまちがっている」という感情がわいてくる.

これを日本旅館の「天動説」という.

パーソナル・サービスができない

やる気がないからできないのだが,やる気のまえに,気づきがない.すでに利用客の半数以上が「個人」になっていても,このごにおよんで,「団体」が恋しくてしかたがない.

「団体」対応の忙しさは格別である.数十人ときには数百人が一斉に到着し,一斉に入浴,そして一同集合しての大宴会だ.上から下までおおわらわ.お祭り騒ぎである.この充実感は,ちまちました接客の「個人」では,けっして味わえないのだ.おそらく,これは脳内物質による中毒症状ではないか?禁煙ができないのとおなじ理屈だ.

つまり,興奮による刺激がほしい,ということだから,これは「経営」ではない.

「経営」なら,パーソナル・サービスは,単価増につながるきっかけになると理解する.そのかわり,パーソナル・サービスは,手間が増えるから人手がかかる.だから単価をあげられるのだが,自信がない.単価をあげることに躊躇する.

サービスの質が,いくらになるかという「換算」ができないのだ.これで「商売」といえるのか?

料理を「健康によい」にするには

いったいどういうことをする必要があるか?を書き出すとよい.

「健康によい」というのは,個人個人にとって定義がちがう.すると,その情報を,どうやって「入手」するのか?それを「保存」して,確実に「利用」するにはどうしたらよいのか?

食材の選択はどうするのか?どこに発注するのか?そのこだわりを,どうやって本人に伝える(価値に換える)のか?いちいち面倒くさいことばかりだが,せめてかんがえて,メモ書き程度でもつくってみるとよい.

こまかく検討をかさねればかさねるほど,実際にやってみたくなるだろう.

統計

日本の教育の不思議に,世界標準の欠如がある.
かつて,日本の教育は「世界一」を標榜したことがあった.その背景には,「経済力」といううしろだてがあった.たとえば80年代に,中曽根総理が,アメリカの教育をさげすんだ発言をして,アメリカ人が憤慨したことがある.それで,アメリカの教育界は奮起したというから,なにが幸いするかわからない.
一方で,経済力にかげりがでても,いちど慢心した気分はなかなかかわらず,あいかわらず世界一(のはずだ)だと自慢するのは,かなりずれているといえるだろう.

そのなかで,ちょっとだけ改善されたのが「統計教育」である.
わが国において,統計が中学校や高校のカリキュラムからはずれていたのは30年間にのぼる.これは,OECD加盟国で「唯一」というありさまだったのだ.それが,平成23年度から小学校で,平成24年度から中学校で「必修」になった.これで,OECD加盟国の足並みがそろったことになる.
ところが,その「レベル」が問題だ.
統計教育をしていなかった当時,日本の理系大学の二年生が学んだ内容を,シンガポールでは義務教育の中学校ですませていたのだ.もちろん,いまでもシンガポールでは変更していない.

それで,日本でも中学校レベル設定にしようとしたのだが,「難しすぎる」として,高校に延長した.なんと,日本の高校三年生が,シンガポールの中学生レベルを学んでいるのだ.しかも,いわゆる日本の「一流」大学の入試には「出ない」ことになっているから,高校生でも真剣に学んでいるとはいえない.

「難しすぎる」というのは,教師にとって,ということだから注意がいる.
30年間という空白が,教師という職業人にも「わからない」という状況をつくったのだ.それで,大きな書店の「数学書」コーナーには,「わかりやすい」「やさしい」「初めての」「まんがでわかる」といった「統計解説書」が積まれている.これらは,数学教師向けの本だ.

ところで,「電卓」を小学校や中学校の授業でつかうことをイメージしたことはあるだろうか?
世界の電卓市場は,日本製が独占している,というのも幻想になった.
とくに「教育電卓」という分野において,日本製は存在しないから外国製の独壇場である.その外国はどこかといえば,アメリカなのだ.もちろん,この製品分野も,製造国としては中国やマレーシアなのだが,設計などの知的財産はアメリカがおさえているパターンだ.

その知的財産に,教育メソッドまでがふくまれる.つまり,教育電卓の「メーカー」が所有している.アメリカのメーカーは,電卓をつかった教育メソッドを売っているのだ.そのメソッドを授業で実行するなら,一番適したのは自社の電卓ですよ,という具合だ.これが,小学校から大学まで一貫したメソッドになっている.

そうなると,生徒の吸収レベルを確認するための「テスト」において,電卓持ち込みでなければならなくなる.それで,世界標準では,数学や物理,化学の試験には,電卓持ち込みが「ふつう」のことなのだ.

たとえば,米国テキサスインスツルメンツ(TI)社の教育用電卓「TI84」という機種の機種名の由来は,アメリカの高校生の84%が所有している,という意味だ.残りの16%は,学校からの貸与によるから,授業では100%の生徒がこれをつかっている.
日本でも,一部の高等専門学校で,入学時に購入を義務化しているが,普及しているとはいいがたい.「学会」などの専門家集団が,手計算を奨励していて,教育用電卓の導入に否定的なようだが,その実態は,「能力不足がバレるから」といううわさがもっぱらである.

そもそも,義務教育で統計教育をOECD加盟国すべてがおこなっているのはナゼか?といえば,「データ」分析のための必須知識だからである.パソコンが普及した世間を生きていくためのに,仕事上でも生活上でも,統計センスがないと損をする可能性が高くなる.消費者行動を,企業は統計的に分析するのは当然だからだ.いまはやりの「ビッグデータ」とは,統計処理のことである.

そこで,世界は,「統計の仕組み」を学習させることが目的になっている.日本では,「統計の計算方法」が重視されているので,「重心」がちがう.計算はどうせコンピュータがやる.だから「仕組み」をつうじた「統計のかんがえ方」が重要なのだ,という世界標準には説得力がある.くわえて,ひとり一台のパソコンを用意するには大量の予算が必要だ.だから,電卓を用いるのだ.ところが,日本の学校には,とっくにひとり一台のパソコンがある.これで「統計の仕組み」はスルーして,「プログラミング」が小学校から必修になった.統計は,いまだ手計算であるから,そのゆがみは,唖然とさせるものがある.

統計を一部のひとびとの「専門分野」にしてしまうと,格差はひろがる.支配の論理にもなるからだ.だから,予防のためにも国民に統計を教育するのは,良心的な政府である.

「顧客第一主義」をかかげる企業で,「統計」を利用した経営がどこまでおこなわれているのか?というと,人的サービス業界では,中小のかなりの企業が活用しているとはいえない.

たとえば,旅館で,「お客様アンケート」を統計処理している例をみたことがほとんどない.
もちろん,アンケートの質問作成にあたっても,「統計的知識」を導入して設計している例は少ないだろう.すると,なんのために「アンケート」をとっているのか?という理由そのものが不明となってしまうから,「こんなことを書いてきたお客がいた」程度になって,ほとんど活用されないのが実態だろう.だから,客側も面倒なのでなにも書かないから,経営にヒントをあたえることもない.

しかし,これはお客様のせいではない.活用する意志がない,サービス提供側の問題なのだ.

「データ社会」に暮らしているのに,そのデータの活用方法もしらず,興味もない,というのは,もしかしたら文明人として,かなり危険なことなのではなかろうか?

みえるところしか見ない

残念な企業・組織の特徴のひとつが,みえるところしか見ない,であって,もっとひどくなると,みえるところも見ない振りをする,になる.見て見ぬ振り,ようは,無関心になる.

経営者をまねる

どんな組織も,トップの立ち居ぶるまいがその組織を代表する.
振る舞い,すなわち行動は,そのひとのかんがえ方からにじみ出るから,ごまかすことができない.だから,これを「言動」という.
日本人は組織を優先するように育てられる.とくに学校という組織は,個人に組織秩序を守らせるための訓練の場所にした.これは,成績とはべつの価値観だから,勉強ができなくても組織に従順なら問題児にはならない.だから,「いい子でいる」か「いい子でいる振りをする」ためのストレスが,イジメのエネルギー源かもしれない.

ときに,大企業の経営者も,まるで子供じみたことを命じることがある.
たとえば,「ノー残業デー」や「◯◯曜日は早帰りの日」などと,まったく本質とは関係のない,しかも子どもでも無意味だとわかることを,まじめに命じ,それを部下たちがまじめに実行することがある.
最近では,お国が命じた「プレミアムフライデー」がそれだ.

部下の無関心ほどこわいことはない

今日はやく帰っても,いつもの残業分の仕事は先送りになっただけだから,明日以降で消化しなければならない.だから,もっとも従順な従業員は,早帰りをまもって,翌日は早朝出勤をする.そうしないと,翌日発生するだろう,翌日分の残業が消化できないからだ.

なんでこんなことしているのだ?という疑問をもつことがムダになる.だから,これは,まじめな従業員ほど無関心にさせる訓練になる.すると,従業員の「仕事」は,とたんに「作業」になるから,あたらしいことはしない.あたらしいことほど,達成には面倒なことが増えるからだ.そうして,この組織の基準業務がきまる.

このような組織に,上から「予算」をあたえても,みごとにはじき飛ばされる.できない理由が延々とつづくだろう.それは,トップの姿の写しになるから,いつしか全社でトップの意向は無視される.

それで人事権をふりまわすと

簡単である.恐怖政治になる.恐怖政治でさいしょに犠牲となるのは幹部である.それで,その幹部と同格あるいは同格以下の幹部にも恐怖政治が伝染する.これが「パワハラ」になって顕在化する.すこしだけ利巧なトップは,犠牲に指名した幹部の罪状をあげて,組織で攻撃しようと旗を振る.

ジョージ・オーウェルの古典的小説『1984年』の,支配体制がそのまま現実になることがある.

みえないところを見ようとする努力

組織のトップが,いつも「みえないところを見ようとしている」なら,上記の悲劇は発生しにくい.
このようなトップなら,見た目の残業削減などにめもくれず,業務の見直しそのものを命じるからだ.なぜその業務をやるのか?案外,組織には理由がはっきりしない「業務」が埋まっている.これが,「社内金鉱」である.こうしてみつけたムダな業務を削減すれば,従業員の手間が減る.紙が減る.ゴミが減る.それで,あたらしいことに取り組む余裕がうまれる.

これが習慣化すると,従業員も「みえないところを見ようとする」ようになるから,勝手にビジネスが展開するだろう.

求人倍率

今月1日,今年10月の有効求人倍率が厚労省から発表された.それによると,過去最高だった1974年1月以来43年9ヶ月ぶりの高水準だという.また,正社員の有効求人倍率も,過去最高の1973年11月と並んだという.

1973年(昭和48年)11月とは,感慨深い.第四次中東戦争勃発による,石油ショックの月だし,翌,74年1月になって,だんだんと物価に反映されはじめるからだ.求人のピークがここにあるのもうなずける.

つまり,いま,日本経済は,有効求人倍率でいえば「石油ショック時点」にいる.
当時は,これからはじまる「狂乱物価」にゆれ,街の顔を一新した「スーパーマーケット」から,トイレットペーパーが消えた.企業の倒産があいつぎ,銀座のネオンも消灯され,まさにそれは永久不滅におもわれた「高度成長」を停止させたとだれもが信じた事件だった.

いまはちがう.政府の「経済統計」によれば,アベノミクス効果で景気拡大がひろがっているとはいうが,高度成長期のような実感はほとんどない.むしろ,静かな不安がひろがっている.
都内港区にしぼれば,求人倍率は8倍という数字になっている.あきらかに,職をさがすひとがすくないから,時給で100円や200円ふやしても,応募がないだろう.
つまり,抜本的な対策をたてるしか,ひとの採用ができない状況だ.「抜本的」とは,給与体系の設計からやりなおせば,販売力とのバランスがとれなくなるという意味だ.会社の屋台骨があやうくなっている.

ホテルラッシュは大丈夫か?

「オリンピック」でひとが来る,というのは間違いかも知れない.しかし,都内はホテルの建設があいついでいる.前回とちがうのは,大型案件よりも小ぶりのホテルになっていることだ.ホテル・オークラだけが目立つ大型案件で,あとはビジネスホテルが主体だ.

サービス要員として,ビジネスホテルはフルサービスの高級ホテルよりすくなくすむから,求人で心配ない,とはいえない.ホテルがホテルとして営業するには,清掃要員が絶体にひつようだ.また,シーツやタオルなどの,いわゆるリネン・サプライが,じつはかなり危機的状況にある.配送要員が足らないのである.

「民泊」は成り立つか?

法整備において鳴り物入りだった「民泊」だが,ネットでの予約販売ばかりが話題になって,事業としてのなりわいが曖昧だ.年間180日という営業日規制の実行がどうなるかもあるが,23区内であれば,区ごとに「条例」で規制ができた.事業者は,当然にこれら規制に対応しなければならないが,利用客からは,区がちがうことによるサービスのちがいを理解できるだろうか?たとえば,ゴミ出しのルールである.

これに,清掃とリネン類の交換作業がホテル・旅館同様にくわわるから,どうしても部屋がある程度集中してないと,手間にたいして採算にあわないだろう.であれば,「民泊」ではなくて「旅館」として営業した方が合理的にならないか?

ムダな人員が資産になる

世の中は人手不足なのだが,人手がある企業もある.メガ・バンクが発表した人員整理は,その一例だ.これらのひとびとを,古い手法で手放すのはもったいなくないか?

銀行のもつ情報を利用して,社会的なニーズに合致した事業目的の起業をしてもらうことで,関係者全員がハッピーになる方法を模索すべきである.そうした起業にたいする融資こそ,銀行の社会的本業であろう.なにも,自行の元行員にたいするお手盛り融資をしろといいたいのではない.すると,かならずあとにつづく地銀などでも,同様の地元ニーズへの起業があっていい.

優良な貸出先がないというなら,自行の行員をもって優良な事業をつくれといいたいのだ.

このご時世に,もし,ひとがいる,という企業があれば,これまでにない挑戦ができるだろう.

店じまい

「事業承継」が社会問題になっている.
企業は,「ゴーイングコンサーン(継続性の原則)」といわれ,基本的には,「永久」に存続しえるものだ.法的にひとと認める「法人」は,ほんとうの人間(自然人)である「個人」とはちがって,努力すれば「寿命」はつきない.ところが,日本の中小企業は,「後継者不足」という問題につきあたった.

企業30年寿命説はあやしい

企業や製品のライフサイクルを「30年」とする説が流布されて久しいが,わたしはこれを疑っている.
典型的な「例外」は,だれでも識っている「コカ・コーラ」だ.販売されたのは,1887年だから,日本では明治20年のことである.以来,この製品と,この製品をつくる会社の成長は,いちどもとまらず今日にいたっている.もちろん,いまも成長をつづけている.おもな地域はアフリカ大陸になった.
そこで,企業30年説では,面倒な説明をせず,コカ・コーラを「例外」としてあつかうのだ.

世界最古の事業会社は,日本の「金剛組」である.西暦578年,聖徳太子による大阪・四天王寺建立からはじまる.そして,創業数百年という現存企業の数で,日本は世界を圧倒している.
だから,企業30年説は,もっともらしいが穴だらけだ.

資本主義がはじまったのと時代があわない

経済史という範囲ではなく,人類史という範囲に拡大しても,資本主義がはじまったのはつい最近の18世紀のことである.よくある説明のまちがいに,「産業革命」を「資本主義のはじまり」とするものだ.そうではなく,「資本主義がはじまった」から「産業革命」が起きたのである.
発祥地の英国でも,いまにつづく古い会社はある.たとえば,ロンドン中心部の不動産を所有しているのは,ウエストミンスター公爵が所有する管理会社グロブナー社だ.昨年,公爵の急死で,その相続(一兆円をはるかに超える)が話題になった.「家」としては16世紀にさかのぼることができる.

資本主義があまりにも「新しい」ため,「ちょっと古い会社」は,その多くが資本主義発生前からつづいている.

重要なのは「信用」である

「資本主義」の前提には,「自由主義」がある.ここでいう「自由」とは,「自由放任」という意味ではない.「他人から命令されない」という意味だ.つまり,「自分で決める」という「自由」であるから注意がいる.とくに,わが国の言論空間では,「資本主義=自由放任=強欲」という図式が「一般的」になっているが,上述のような欧米の認識とかなりかけはなれている.

たとえば,旧ソ連・東欧社会主義圏では,とくに政治犯に対しての刑罰に,「自由剥奪刑」というものがあった.ここでの「自由」とは,人間がもつ生物としての欲望にかんする「自由」のことだ.すなわち,食欲・排泄欲,睡眠欲,運動・行動欲など,ふつうに生きていれば,本人の「自由」にまかせられるものが,自由でなくなるという「刑罰」である.詳しくは,ノーベル文学賞をとった,ソルジェニーツィンの『収容所群島』をみればよい.

「自由」とは,守備範囲がひろい言葉であるから,たいへんな注意でよみとく努力がいる.
これは,「freedom」と「liberty」の違いがはっきりしている言語をもつひとびとと,このふたつを合体させて「自由」としたことでの認識の差だろう.

さて,資本主義以前からつづく会社だからといって,社内風土に「自由がない」と決めつけることはできない.最近,「ブラック企業」として認定される会社のおおくが,資本主義時代の創業である.だから,資本主義に適応できているか,そうでないかは,企業の古さではなく,経営者のかんがえできまる.これを,「信用」と言いかえることもできる.

だから,事業承継の肝は,信用の承継なのだ.

創業者ひと世代で終わるのか,それともどうするのか?この判断には,自社の「ありかた」という哲学が必要だ.せっかく創業して,そこそこ利益もあげているから,閉じるのはもったいない,というのではなく,どういうすがたが理想なのか?というはなしだ.

企業規模を大きくしたい,とか,自社の特殊技術をもっと広めたい,とか,そのイメージはさまざまだろう.

一方で,取引先はどうだろう?

日本の職人が丹精込めてつくった商品が,世界の職人に愛用されているすがたを,作り手の職人にみせる,という番組がある.「道具」をあつかうこのシリーズは大人気のようだが,不思議な共通点がある.
それは,紹介される職人のおおくが,自分が手がけた商品の行き先にこれまで「興味がなく」,その道具が,その道のプロに使われている場面を「みたことがない」,というのだ.
これは,にわかに信じがたいことだ.プロ仕様の道具をつくる名人たちが,どうやってプロが望む遣い勝手をしっているのか?世界の職人が絶賛するのも,「遣い勝手のよさ」という「品質」である.それで,「これからも末永く,この道具を作りつづけてください」とお願いされる.この道何十年の職人の目頭が熱くなるクライマックス場面だ.

すると,この番組で紹介されることがない,とてつもなくたくさんの工場では,今日も商品の行き先や,使っているすがたをみたことがない,ということになる.

自社が「店じまい」すると,一体どうなるか?をほとんどのひとが認識していないのだ.
どこかの区切りで,この番組のような「旅」をして,自社の位置づけを「利用者目線」から確認することは,きわめて重要なことである.

旅行社による,ツアーの開発があっていい.これを,「パーソナル産業ツアー」と呼びたい.

旅館業でも,店じまいしたらどうなるかをかんがえることは,ふだんをどうする?に直結することだ.だから,店じまいについてかんがえることは,生き残ることに通じる.

量り売りの復活

量り売りの「格安」の焼酎がある.全国4,000カ所で販売しているというから,利用者もおおいだろう.
焼酎は大きく三種類,甲類と乙類,混和に分類できる.例によって,この分類も「酒税法」による.
甲類は「連続式蒸留法」という工業的な方式で,伝統製法の「単式蒸留法」が乙類になる.混和は,文字どおり甲類と乙類のブレンドである.それぞれに特徴があるが,「安い」のは甲類と混和で,「本格焼酎」である乙類は有名銘柄になると高級ウイスキー同様の値段がつく.
ここでいう「格安」とは,乙類なのに,という意味だ.

原材料が麦なら麦焼酎,芋なら芋焼酎なのはあたりまえだが,それぞれを保管する容器にこだわると味がかわる.この「格安」焼酎は,麦はオーク樽に,芋は焼き物の瓶にはいっている.だから,麦はほのかに木の色がついて黄色く,樽の香りがする.芋は,陶器のもつ遠赤外線効果なのだろうか,たいへんマイルドである.つまり,おもった以上に高品質なのだ.

メーカーのHPをみたら,「格安」の理由は,この樽と瓶だった.ふつうに販売されているように,一本ずつボトルに詰める必要がないからラベルの印刷も手間もかからない.それで「格安」になるという.そして,消費者は専用ボトルを初回に購入する必要があるが,そう高価なものではない.逆にいえば,余分なコストを,品質に投じることができる.

旅館の飲み物提供のかたち

たいがいの不振の宿は,夕食でお客にいかに酒類を飲ませるかで汲汲としている.土地や料理との相性を無視して,それ飲め,とばかりに注文をとりにくる.こうした宿ほど,メニューにある銘柄にも工夫がない.仕入れの酒屋が売りたい銘柄だから、都会のよくある居酒屋とかわらない.
そうかとおもうと,県外の有名銘柄・高級酒ばかりが目立つところもある.さも,この県には「なにもない」と言いたいようだが,そうではあるまい.残念ながら,いろんな理由で従業員教育ができないので,くわしいお客に質問されたら面倒だからだ.そうやって,くわしいお客をリピートさせないことをする.

ある宿で,お酒が大好き,というパートさんがいた.そこで,社長に相談して,このパートさんを口説いて,利き酒士の資格を取得してもらった.もちろん,時給アップも条件だ.それで,仕入れの品定めもやってもらうと,みるみるうちに夕食のレベルがあがった.調理場が反応して,酒に負けない料理を工夫したからだ.
意図しない,うれしい「化学反応」がおきることがある.しばらくすると,他のパートさんもうずうずしだす.好きな分野で責任をもったら,以前とはくらべものにならないほど楽しそうに仕事をするパートさんの変化に,周辺が刺激をうけるからだ.

この宿は,パートさんの指導によって,食事処の目立つ場所に県内酒蔵のとっておきをならべた.県外では,よほどでなければ入手困難という品ぞろえである.当初,この品ぞろえにかかわる投資に腰が引けたのは社長だった.売れなくて「酢」になったらどうする?というわけだ.

「乾杯用のおすすめ」とか,「○○にピッタリ」とかいう手書きのポップも用意して,迎えた初日は,大盛況だった.
ここにしかない,の達成である.

今後は,樽や瓶が並んだ中から選ぶという「楽しさ」が,商品になるかも知れない.

職人の出前

だれでも「出前」をとった経験はあるが,「デリバリー」になったら有料になった.さいきんでは,デリバリー・ピザの店に出向いて購入すると,「もう一枚『無料』」になるから,配達にするとピザ一枚分が有料ということがわかった.かんがえてみれば,お客が店に出向いて食事サービスをうけるのと,自宅に料理を運んでもらうのと,料金が「同じ」というのは変だ.

とはいえ,出前をむかしからしていたお店が,急に有料にしようとしても,なかなかお客様の理解が得られない,として躊躇するのもわかる.それで,お客がお店にそんな負担をさせていたら,こんどは人手不足で「出前ができない」ことになった.

もう少しすると,出前は追加料金がかかるサービスにかわるだろう.そうでなければ,自分からお店に出向くしかなくなるはずだ.これは,新聞にも,牛乳にもいえる.すると,デリバリー・サービス会社として,ヤクルトがみんな配達してくれる時代がくるかもしれない.

まるでちがう職人の出前

モノのデリバリー・サービスが「出前」だが,これがひっくり返ってヒトのデリバリー・サービスがある.寿司や蕎麦などの職人を自宅によんで,自宅にて作ってもらうサービスである.「無店舗」という業態だ.ちゃんとした店舗を用意する必要がないから,運搬のための自動車と運べる道具類を用意すればよい.おそろしく小資本で開業できるメリットがある.

モノのデリバリーなら,お客は「運ぶだけ」とかんがえがちであるから,「無料」ということに疑問がなかった.しかし,専門の技術をもつヒトが来るとなると,移動時間も有料だとかんがえる余地がある.だから、交通費という請求科目もたちやすい.

ちゃんとした職人でも,家庭によってことなるキッチンをつかっての本格料理提供にはノウハウが必要になる.盛り付けも,できればその家の食器をつかいたい.事前の情報交換にもノウハウがいるだろう.

利用客の立場からは,一度よい印象をもつと,かなりの確率でリピートするという.事前の情報交換も楽になるから,というのが建前で,本音はいろんなひとにキッチンに入って欲しくない,という心理だという.だから,ジャンル別に専門家がいる.

気になる料金だが,高級店並み,が相場だ.飲み物は自宅の冷蔵庫からだし,アルコールがはいれば,タクシー代も運転代行代もかからない.だから,トータルでは「かなりお得」なのだ.

その職人は何者か?

「職人の出前」では,現在のところ,案外ベテランばかりである.ちゃんとした料理人になるには時間がかかるからだ.

しかし,今後はおそらくちがった様相になるだろう.いま,調理師学校では,即効で「一人前」にするためのカリキュラム開発が急速に進んでいる.ラーメンと寿司に関しては,「速成」を強みとした専門学校が盛況で,仕入れやマネジメントまで,後方支援のアフターサービスもついている.

有名調理師学校は,提携先にパリのレストランや有名料理人の店があり,ここに留学させて修行するプログラムもある.もちろん語学教育にも力がはいる.そのコンセプトは「実用」である.「二十代で『星』を獲得する」のは,もはや夢や幻ではなく現実の世界なのだ.

すると,将来,「無店舗ミシュラン」という分野が生まれるかも知れない.

和食は大丈夫か?

2013年に「ユネスコ無形文化遺産」にえらばれて「和食」は,あたかも世界に飛び出したようだが,現実はどうだろう?和食界の重鎮は,「このままでは文字どおり『遺産』になってしまう」と危機感をあらわにしている.「伝統」がいつのまにか「因習」になってしまう例は,世の中にあふれている.

「速成」が正しい価値観ではないにせよ,それでも「速成」できないとあきらめるなら,時間を惜しむ日本人の若者は,和食界を敬遠して西洋料理の「速成」により魅力を感じるかも知れない.

つまり,料理界はすでに「速成」という競争に突入している.これが人材確保のキーワードになるだろう.さて,日本旅館はこれにどう向き合うのだろうか?

自分たちの料理人を,食のアドバイザーとして帯同して旅をする時代がくるかもしれない.