どこまでがアジアなのか

1993年,サッカー・アジア大会の「ドーハの悲劇」で,おおくの日本人が「アジア」をしった.
会場は,カタールの首都ドーハで,試合の相手はイラクだっだ.
ボスポラス海峡でヨーロッパとアジアにまたがるトルコは,ヨーロッパ・サッカー連盟所属,アラブ諸国との政治的な問題でアジア連盟から除名されたイスラエルも,ヨーロッパ・サッカー連盟に所属している.

シリアとレバノンもアジア・サッカー連盟加盟国だから,西は地中海に面しでいる.
東の端は,日本とオーストラリアになる.
あまりにも広大だから,分割案があるそうだが,いわゆる「豪州」をのぞけば,これが「アジア」という地域である.

梅棹忠夫先生は,アジアを「中洋」と呼称するように提案していた.
じっさい,「アジアはない」といい切っていた.
あまりにも文化・風俗がバラバラにみえるが,そこには「距離」があるだけ,という指摘だ.
かつてのシルクロードをたどると,たしかに,アラブの羊料理の味は,中国内陸部の味とおなじである.つまり,「距離」はあるが,中身がないから突如つながる.

第一次大戦,旧日本海軍の作戦海域は,地中海に及んでいた.
マルタ島には日本軍戦死者の墓地があるが,いまではだれも訪問せず,ただ維持費を送金している.
そのマルタ島の映画祭で,樹木希林主演の映画「あん」が,主演女優賞と作品賞にかがやいた.

島,といえばひとをどこかほっとさせる魅力がある.
アジアのど真ん中の「島」なら,スリランカだろう.

大陸に近い島国は,ほうっておくと大陸に呑み込まれるかもしれないという恐怖心から,たいがい大陸国家と仲がわるい.
英国とフランス,台湾や日本と中国,スリランカの近くにはインド亜大陸がドデンとすわっている.

スリランカは,人口が2,000万人ほどの小さな国だが,人口の8割が仏教徒である.その他は,ヒンズーとイスラムである.キリスト教徒はすくない.
インドでは3%しかいないといわれる仏教徒だが,人数にするとスリランカの仏教徒よりおおい.

大陸にはたくさんのひとがいる分,きめが荒いところがある一方,こうした島国の民度はたかい.
スリランカ人の気質はまじめで,勤勉である.
それで,いまでは大消費地となったインドへ進出するなら,スリランカを経由すべし,とスリランカ人がいう.

いきなりインドに進出しても,したたかなインド人にしてやられるのが関の山ということだ.
自動車のスズキが,いきなりインドへ行ったが,やはりスリランカ人のいうとおりになった.
スリランカ人の中間管理職をつくってからいけば,スリランカ人がインド人をさばくという構図だ.

かずかずの日本企業がインドで挫折する姿をみて,親日のスリランカ人が忸怩たるおもいをするという.それがあんまりくり返されるから,とうとうスリランカ人が,「日本人はちゃんとインドを勉強しているのか?」という懐疑がうまれるという.

英国とオランダのそれぞれが,「東インド会社」をつうじてなにをしていたのか,すらしらない日本人を,民度のたかいスリランカ人がみつめているのだ.
もちろん,援助と称した公共工事に自国民をつれてきて,現地の労働者をつかわない中国式は,完成すると自国の労働者を棄民するのが常だから,たいへんな迷惑を輸入したということもしっている.これら「棄民」の民度は,当然にひくいから,スリランカ人の不満はたかまるばかりだ.

そういえば,エジプトでも似たような経験をした.
エジプトは,あの有名なクレオパトラ七世が自殺してローマに支配されてから,「次の独立」の1952年まで,ほぼ二千年を要した国だ.
こうした国のひとと,おなじ過去ほぼ二千年のあいだ独立していた日本人との気質のちがいはすさまじいものがある.それは,「奴隷根性」である.

支配者から生きのびるために,みずからの「奴隷根性」をもって防衛する.
それが2,000年つづくと,なかなか治癒しないほどにDNAに組みこまれるのだろうか.
その一方で,支配していた側の「根性」も,おそらくなかなか治癒しないのだろう.

日本における「アジア主義」という病気は,国号を「大日本帝国」としながらも,「帝国」の定義である「他国」を支配するまでに時間を要し,本当の「帝国」になったつかの間にすべてをうしなった,線香花火を夢見るようなものだろう.なお,この「他国」とは「満州国」のことである.

すると,現代も「アジア」といえば,かつて支配したエリアのことを指すことに気づく.
親日のスリランカが目に入らないのは,その証拠だ.

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