死者鎮魂の宗教国家

8月は、子どもにはたのしい「夏休み」だったのだけど、おとなには祝日もないなかでわずかな「お盆休み」という民族移動が恒例だ。
そのお盆休みを強化するためか、8月にも祝日ができて世界的に国民の祝日がおおい国になった。

国が定めないと休みがとれない、という現象も「国家依存」だろうけど、ドイツのように日曜日に店を開けてはならないという法律がある国も、しっかり「国家依存」しているのはさすが旧同盟国である。
日曜日は教会に行って祈るべきだ、という「曜日」の「使命」へのこだわりだ。

形からはいるのがカソリックの特徴で、プロテスタントは「原理主義」だから、心のなかが問われるものだが、日曜日を強制的に「休み」とするのがなぜかカソリックのフランスで緩みはじめている。

日本で日曜日は、稼ぎどき、にあたるから、店を閉めるどころか開けるのがあたりまえだ。
これを外国人観光客は「大歓迎」して、自国への恨み節までネットにアップしているのは、ないものねだりをしているのである。

これに「コンビニ」の二十四時間営業がくわわって、店舗内の品揃えとともに「Convenience!」と褒めながら、自国のコンビニの貧弱をないものねだりしている。

日本人のコンビニ・オーナーが歯を食いしばって人手不足の中、二十四時間営業を「死守」していることをどこまでご存じか?
一度きめたことは、なにがあっても変えないという思想の自虐的ともいえる「悲壮感」など、かんたんに外国人に理解できるものではないのは、かれらは「合理的」な思考をするからである。

この意味で「根性なし」なのである。

海軍一の親米派とか知米派といわれた山本五十六は、いまでもなぜか日本人から尊敬をあつめるもっとも有名な軍人のひとりだが、「合理的」なアメリカ人と「ヤンキー」とを理解しなかったのは、日本人の価値観だけで相手を観察・評価したからだ。

ときに「合理」がとおれば「根性なし」にもみえるが、その「合理」とは勝利のための合理であって、まちがっても「敗北主義」ではない。
さきに「勝利」とはどんな状態をいうかをきめて、なにがなんでもその状態にするのが「合理」なのだ。

日本はしかたなく戦争をした、というが、なにが勝利の状態なのかという定義がわからない。
ハワイを空襲しただけで、まさかアメリカが降伏するとはありえないから、成り行きの戦争だった。

猛省すべきはこの一点である。

ところが、敵は「合理」にもとづく一般人への「戦略爆撃」まで実行して、とうとう「原子爆弾」という最終兵器まで使用した。
これに、精神分裂をさせる「裁判」までして、「日本人」が「人」として破壊されたのだった。

この手際のよさは、いったい、いつどうやって計画立案されたのか?
じつは、いまだによくわかっていない。
それで、日本人はアメリカも成り行きで戦後処理したのだと、自分の価値観だけで思いこんでいる。

アメリカ建国以来、正面から外国を敵として死闘を繰り広げたのは、いまだに日本だけなのだ。
湾岸戦争のイラクは弱すぎた。

日本人はアメリカに壊されたが、アメリカ人には「成功体験」になっている。
自由主義思想によって建国した人造国家であるアメリカは、共産主義思想によって建国した人造国家を憎む。

ソ連からロシアへの「体制転換」に、アメリカは失敗して、ロシアはマフィア国家になってしまった。
米中のたたかいは、香港を舞台に「体制転換」の実験をしていないか?

日本だった朝鮮は、連合軍からの攻撃を受けていない。
アメリカは日本海を潜水艦で海上封鎖して、日朝の連絡を分断し、とだえたから、制度で徴用しても日本に来ることができなかったということがバレた。
むしろ、ないしょで漁船でやってこれたのは、潜水艦の目をごまかせたからである。

その日本本土を無差別空襲したから、日本の一部であっても重要度が本土より低い朝鮮半島は攻撃対象ではなかった。
だから、日本人がのこした資産がすべて朝鮮に移転したし、同様に台湾でも蒋介石の国民党がこれを得たので、日本に賠償をもとめなかったのは、蒋介石がえらいからではない。
だれもいわないが、樺太も同様である。

そんなわけで、日本国民は命だけでなく財産もうしなった。
しかし、戦争を求めたのは「国民だった」のだ。
全国で政府の弱腰を糾弾する「デモ」がおこなわれたことを、戦後はだれも指摘しない。

ポピュリズムによって、軍がいやいや戦争したから、なにが勝利なのか?をかんがえる暇がなかったというお粗末である。
「戦犯」という悪いヤツらがかってにやった戦争だ、という都合のいい論法は、当時をしるひとたちには通用しない。

それで、サンフランシスコ講和条約後、独立したわが国は国会で「戦犯の名誉回復」を「全会一致」で「決議」した。
発起人は、社会党の女性議員だった。
なので、わが国には法的な戦犯は存在しないし、年金も支給された。

しかし、軍がわるいことをしたのだとすれば、都合がいいひとたちがあらわれて、それを「鎮魂」に変換した。
戦争をもとめた国民も、まんまとこれに乗じたのだ。
こうして、だれも反対できない「平和国家」になった。
すなわち「宗教国家」である。

これは、日曜日とは関係のない宗教で、国民の「禊(みそ)ぎ」が目的である。
「戦争をもとめた」ことの「禊ぎ」は、「平和をもとめる」ことで完結する。

合理ではないから、なにがあっても変えられないのである。
なんという無責任。

国を滅ぼすのは戦争ではなく国民の「愚」による、とは土光敏夫の母、土光登美のことばである。

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