目的合理性が不明な社会

ふだんの生活で,どこまで「目的合理性」を意識しているかと尋ねられたら,ほとんどのひとが「?」とこたえるだろう.
そんなことかんがえたこともない,といわれるのがオチだ.
しあわせな社会である.

むかし経済学を学ぶものは,必読といわれたのが「ロビンソン・クルーソー」である.この本は,子ども向けからそろっているのだが,「教授」はかならず「岩波文庫で」と言ったものだ.
それで,気軽に手にしてみると,びっしりとページをうめつくした活字におどろいた.

 

無人島にひとりながれついたロビンソン・クルーソーは,どうやって生きるかをかんがえ,さらに,いかに快適にすごすかもかんがえた.
とにかく,島には一人しかいないし食料生産もまだしていないのだから,ムダにすごすと「損」をする.食料をさがすことを優先させたいが,それだけでは屋根のない状態は改善しないから,放置すれば風邪をひく.
そこで,かれは木の幹に,どちらの行動をするほうが「得」かをかんがえるために,比較表を刻みこんで熟慮するという方法をおもいつく.

「どっちが得かよくかんがえてみよう」というわけだ.
かれのこの思考を,「経済合理性」として,ロビンソン・クルーソーそのひとを,「経済人」と呼ぶことになった.
それで,「経済学」の対象は,「経済人」になった.

つまり,「経済人」とは,「経済合理性」を追求するひとのことをさす.
そして,「経済合理性の追求」には,「熟慮」がいるのだ.

以前,このブログで,日本経済について,欧米の経済学が通用しないことを書いたが,欧米の経済学の基本は,登場人物が,「経済合理性のある選択をする」という前提がある.
はたして,この前提が,現代の日本経済の前提にもなっているのか?と問うと,あんがいあやしくないか?

「熟慮」というキーワードもいけない.
いまの日本で,ものごとを「熟慮」しているひとがどのくらいいるのか?
つまり,日本人は,かなり「経済人ではない」.
むしろ,「快楽主義」にひたった「安易さ」を追求する国民なのではないか?

まさに,この世の春,である.
桜が開花し,春爛漫な今日この頃.
落語の「花見酒」を地でいく姿は,けっして「バブルのころの思い出」ではなく,いまでは日常のなかに組みこまれてしまった.

この切ない気分はどこからやってくるのか?
刹那主義の宴はつづく.

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