世の中にはいろんなひとが生きていて,それでまた世の中ができている.
各界で頂点をきわめるひともいれば,底辺をさまようひともいる.
底辺にはさらに底なしの地下構造もあるから,すさまじくぶ厚い構造をしているのが世の中である.
そのぶ厚さのところどころに,チーズの穴のような空間が無数にあって,それぞれがそれぞれにその穴に巣くって生きている.
義務教育期間は,おとな(=社会人みんな)の義務で教育をほどこし,子どもは教育を受ける権利を行使する.
だから,義務教育期間をおえると,あとは任意=自由である.
高校に行くのも任意だから,授業料はふつうは親が負担(社会人みんなではなく)して,子どもは毎日授業を買いに行く.
このように,小学校や中学校と高校とでは,決定的に「登校」の意味が変わるのだが,「登校する」という行為自体はあまり変わらないから,このちがいに気づきにくい.
さらに気づかない理由のもう一つは,義務教育期間でも,高校生になって授業の購買顧客になったとしても,子どものやる気や成績が芳しくなければ,一貫して本人が悪いといわれる業界だからである.
この点で,すでに「一貫教育」は達成されている.
そんなふうになっているから,子どもからおとなになって,就職しようというときに,そうした倒錯の訓練結果で,自分が会社を選ぶのではなく,会社から自分が選ばれるのだと勘違いする.
その勘違いは,「勝ち組」といって重ねられるが,気が利くひとは,それが勘違いだと気がついて早々に退社する.鈍感なひとは30年ほどしがみついたあげくに肩を叩かれてしることになる.
はなしを中学卒業時にもどせば,ここから先は「任意」だということを本人にも気づかせないから,早熟の子どもは方向を見失って,持てるエネルギーをあらぬ方向に発散させる.
外向的なら夜な夜な爆音とどろかせ,内向的なら引きこもる.これには,尊敬に値する身近なおとなの存在がうすいことと,ミネラル不足が原因にくわわるのだろう.
ほんとうは「任意」なのに,「高校ぐらいは出ていないと」という「常識」が,鉄板となって押さえつけている.それで,「高校・学校に行かない」=「負け組」だと,本人を追いつめるのだ.
この常識は,戦後日本経済のわずかな成功期間であった,高度成長期の「名残り」にすぎないのだが,まだかつての成功体験におおくのおとなが依存しているのである.
だから,安易な「勝ち組論」は,薄っぺらい世の中の表層しかみていない.
なにをもって「勝ち」と「負け」を定義するのかもあいまいであるから,おそろしく無責任なその場限りの都合の良い言い方にすぎない.
しかし,残念なことにこれがいまの日本の世論になる.
大学生がガレージに閉じこもって,就職活動もせずに得体の知れない部品をいじくってばかりいたら,この時点では「負け組」だと,だれでもが思ったろう.
それが,いつしか「マイクロソフト」になったり「アップル」になったら,こんどは全員がうらやむほどの「勝ち組」だといってはばからない.
こんな愚かな論を,国家が率先しているのがいまの日本である.
義務教育期間での目標と,その後の任意を,一貫させようと無理強いするのは,とにかく高校へ行け,というよりたちが悪い.
ひとの人生を国家が決める,という態度である.
もうおとなになった世代には,「任意」が意味する重さと軽さの両方をじっくりかんがえさせる材料を,国家はあたえるだけでよい.そうでなければ,おとなになれない.
義務教育の完成ポイントはここにある.
ここから先は任意だよ.
えっ!そんな.どうしよう?
あなたはどうしたいの?もっと勉強して知識をえたいならあっち,若い感覚が鋭いうちに体得したいならこっち.
過酷にみえるかもしれないが,中学三年生の本人が決めるべきことなのだ.
つまり,いまの義務教育では,中学三年生が自分の人生の進路を決められないようにしているともいえる.
途中での方向転換が容易ではない硬直的な高等教育制度も,選択にあたっての障害だろう.
まさに,高度成長期を支えた「均質的労働者」の大量生産を目的にしたことが,そのままなのだ.
生まれてきたすべてのひとには,完全に平等に,時間が刻まれている.
そして,生まれてきたすべてのひとは,完全に平等に,いつかはかならず死がやってくる.
人生は,ひとりに一回だけ死があり,その直前までの時間はぜったいに任意なのである.
そのときの満足感も,頂点にいようが底辺にいようが,本人にしかわからない.
ただし,他人に決められた人生ほどつまらないものはない.
だから,生き生きとした組織には,生き生きとした人生の実感があるひとたちがいる.
リーダーの役割の,もっとも重要なことがここにある.
「どうせ自分は歯車にすぎない」のではなく,「自分も歯車を動かしているなかのひとりだ」.
こんな組織が,少なくなったような気がする.