絶望的な温泉宿

老朽化は人間だってやってくる.
それで,豊かになったら「アンチエイジング」という保険がきかない医学的手法をもってしても,若返ろうとするのは,ある意味本能でもある.
永遠の命,というわけにはいかないが,なんとか自分の肉体を若くて健康的に維持したいのはだれだってそうだろう.

ところが,建物がないと商売ができない宿泊業をやっているのに,その建物の「アンチエイジング」がぜんぜんできない経営者がいる.
よせばいいのに,そんな経営者ほど名誉をほしがる.
それで,まるで廃墟のようなロビーに,「褒章額」が飾られていることがある.

さほどに「自慢」したいのか?
さほどに「偉さ」を訴えたいのか?
しかし,客目線からすれば噴飯物のまるで「マンガ」である.
その前に,ロビーには「今日の新聞」を置いてほしい.

「ロビー」と「ラウンジ」というなら,せめて電気をつけてほしい.
自動販売機に,業者向け張り紙はやめてほしい.
売店に,賞味期限切れの食品は置かないでほしいが,それよりも,よれよれの誰かのスーツ上下を,針金のハンガーにつるして放置しないでほしい.どう見ても「商品」ではあるまい.

日帰り温泉入浴でたまたま立ち寄った宿である.
フロントに誰もいなかった.
ロビーには,ソファーでパンを食べているひとがいた.
このひとが,支配人だった.

入浴料金を支払って,大浴場に行ったら,脱衣所にも浴室にも照明がついていなかった.
いかに一人だけとはいえ,薄暗い中での入浴は気分がわるい.
それで,スイッチをさがして点灯した.

広い湯船には,素晴らしい泉質の温泉が満たされていた.
やや熱いのが難である.
さいきんは,「ぬる湯」が人気だが,きっとここの人たちは識らないのだろう.それに,この泉質なら「ぬる湯」が向いている.
ぞんざいにして放置したようにもみえる,温泉成分表にあった源泉の温度は20度そこそこだったから,「ぬる湯」にすれば,光熱費もたすかるだろうに.

一人だけだし,掛け流しなので,行儀がわるいが湯がこぼれる湯船のヘリに寝転んだ.
ああ,快適である.天井のシミがまぶしい.
寝湯のコーナーがあって,「ぬる湯」だったなら,しばらく出たくないだろう.
そうやって,「この宿の再生」をツラツラかんがえてみた.

まずは,「温泉」第一である.
おそらく,従来は,宴会ができて温泉があって,泊まれるという順番の「宿」だったろう.
その需要は,もうないはずだ.

素晴らしい泉質の温泉にじっくり入れる.
よければ,泊まれて明日も温泉に入れる.
食事は近所の食堂にいっていただいて,ここでは用意しないから,弁当持ち込みでも良い.
つまり,泊まれるだけの温泉でいい.

そのためには,圧倒的なお風呂に改装しなければならない.
さて,どんなお風呂にするか?
「ぬる湯」と「熱湯」は,いまの湯船を半分に分割すればできるかもしれない.
しかし,「ぬる湯」に「寝湯」は必須だ.寝湯の場所の権利を別料金にしたい.

そうなると,防水タイプの電子書籍リーダーがほしい.
浴室に,飲泉所もいるだろう.
飲泉の許可をどうするか?
それに,宴会場を休憩所に変更したい.

さて,これらでトータルいくらの投資が必要か?
食事提供の停止と,宿泊は限定室数販売で,従業員の必要人数は相当に減るだろう.
ただし,浴室廻りと館内清掃の徹底で,どれほどがプラス要因か?
.............
湯上がりに,薄暗いロビーでたたずんでいると,フロントカウンターからの目線を感じた.
こちらの様子を伺っているようだが,話しかけてくるようでもない.
それで,落ち着かなくなって「褒章額」をみつけた.

きっと,この宿は「自力」でなんとかしているのだろう.
勲章をもらったのだから,金融機関に頭をさげる気もないにちがいない.
これはこれで「矜持」というのかしらないが,わたしごときのアイデアは余計なお世話になるはずだ.
半分以上,本人たちも投げ出してしまった商売が,これから急転換するならいい方向のはずもなく,一期一会とはいうけれど,「良いお湯でした」としかいいようがない.

ただひとつ,勲章をもらうためにした努力を,経営のためにしておけばとしか言葉がない.
その「褒章額」には,たかだかこの十何年かばかりの日付と,顔がはっきり浮かぶ総理理大臣の名前があった.
絶望的な温泉宿に,久しぶりに出会ったが,おそらく時間の問題だろうとあきらめた.
たんなる老朽化ではない.自社に対する愛情すらもないから,こうなるのだ.
願わくば,温浴施設として,,,,,やっぱり,無理だろう.

地元貢献のない駅ビル

副業ができなかった国鉄時代から,なんでもできる「民営化」で,いまさらながらどこにでもおなじ「駅ビル」がつくられた.
「どうやって乗車してもらうのか?」に汲汲とした「国鉄」は,「ディスカバー・ジャパン」とめいうって,さまざまな取り組みでもがいていた.

山口百恵の「いい日旅立ち」のヒットもあって,「旅の情緒」を発信していたのが懐かしい.
これに乗じて,サントリーがウィスキーのポケット瓶と古い車両の夜行列車での「旅」をイメージしてつくったCMは,いつか大人になったらやってみたいと思わせたが,肝心の「夜行列車」がなくなった.

鉄道会社の本質はかわらないから,いまでも「どうやって乗車してもらうのか?」はテーマにちがいないが,どこで近代を「勘違い」したのか,ガラスとコンクリートのキラキラ駅舎と駅ビルを金太郎アメのように量産したから,駅頭に降りたっての「旅の情緒」は皆無になった.だから,駅舎を背景に,記念写真をとるひとがいない.建築として,無価値ということでもある.

これには,地元自治体の責任もある.
「駅舎」や「駅ビル」は,地元の顔そのものである.
その「顔」をどうするのかの哲学が,どちらさまにも一貫して「ない」という証明になっている.
あるのは,「東京のコピー」だから,それで識られる発想は,全国一律均等なる発展,という日本列島改造論そのものである.これを「哲学」といいたければそれもよしだが,浅すぎないか?

つまり,圧倒的な「おらが街」の主張がないから,旅人は不満なのだ.
「ついに来たー!」という気分がしない.
その土地の,歴史や風土や風習が感じられるデザインとはなにか?
まったくの研究不足といえるのではないか?

見た目の問題だけではない.
「駅ビル」だから,なかには「商店」や「飲食店」が入店する.
それも,金太郎アメになった.
どの駅で降りても,おなじ店.

JRは,鉄道会社という本業を捨てて,いつのまにか不動産会社になってしまった.
儲かればよい.
たしかに,国民からすれば,適度に儲けてもらって,国鉄清算に貢献してもらわないとこまる.
しかし,彼らの経営思想に,ほんとうに上記の「貢献」が念頭にあるのだろうか?
ただ,儲かればよいになっていないか?

もちろん,かつての「分割」には問題があるのは承知している.
本州の三社はまだしも,北海道で一社,四国で一社,九州で一社は,どうしたことか?
その九州が,鉄道会社としての意地をみせてはいるものの,北海道と四国はたいへんである.
それに,本州だって,普通列車で旅をしようとすると,「東」会社と「東海」会社が,利用者を無視したダイヤを組んで,両社をまたぐのが厄介なのだ.「会社がちがうから」とは,なんという愚かさか.

「駅ビル」への入店は,地元の商店に声かけがあるのは識られたことだ.
問題は,このときの駅ビルの規模と,地元商店街の将来像との関係だ.
資本に乏しい地元商店は,駅前商店街と駅ビルという近接二カ所での経営に耐えられるのか?
まずは「需要」である.つぎに「コスト」である.そして,ボディブローとなるのが「他店舗経営ノウハウ」の有無である.

この「他店舗経営ノウハウ」がないのは当然である.
街道筋の時代から,多店舗化などまずやったことがないだろう.
むしろ,宿場町の街道筋から外れたところに「駅」ができたことから,「移転」の経験だけはあるというところがおおいのではないか?

その駅前商店街に移転してきて,昭和の繁栄から衰退したいま,数百メートルもない近接の駅ビルに「出店」しても,売上が倍になるわけではないだろう.
こうして,地元最高立地のピカピカ駅ビルに入店した,地元老舗が力尽きるのである.
哲学がないばかりか,商売をしたことがない地元の役所は,駅ビルに入店すれば繁栄するはずだとしかかんがえられない.

このようにして,空いた店舗を鉄道会社は不動産業として全国チェーンに入店をうながすから,地元の駅ビルに地元の商店はなくなり,ついでに駅前商店街にもシャッターが増えるのである.
つまり,駅ビルと駅前商店街は「トレードオフ」の関係にある.
どちらかが栄えれば,どちらかが衰退する.

だから,役所が都市計画として,ピカピカな駅ビルを誘致するなら,駅前商店街を放棄するほどの覚悟がいるのだ.しかし,そんな覚悟はできっこない.
地元の購買力は,一定であるのにだ.
だから,駅ビルをつくりながら,商店街には補助金をばらまく政策でごまかすこととする.

店側は,そんな役所は頼りにならないのだから,かつての創業地,宿場街の街道筋から駅前商店街に移転したごとく,駅ビルに移転するという選択肢を検討するのが筋である.
ただし,地元の人口減少予測をみてからのはなしである.

このように,駅ビルは,中小都市の顔として,あんがい地元に貢献していないものなのだ.
だから,都市計画で,駅ビルを作らせない,という手もある.
こうした街の駅前商店街は,当然元気だし魅力がある.

適度な購買客がいれば,商店街も魅力をだせる力を得るが,この逆はない.
適度な購買客が減少すれば,商店街も魅力を失う.
新商品の品揃えのための資力がなくなるからだ.

ぼちぼちと「買い物難民」が中小都市で発生している.
大資本の店舗が,売上効率の低下をもって撤退するからだ.
そして、店舗跡地は廃墟になる可能性もある.
駅前商店街の出番はあるのだが,駅ビルが邪魔をしている.

分別のない分別収集

中国政府が「突然」輸入禁止して,「資源ゴミ」業界がたいへんなことになっている.
「ゴミは資源です」という,戦争中の標語のような「意味なしフレーズ」の化けの皮が剥がされたのは,なんと外国政府のおかげだった.

2000年に出たこの本,「リサイクル幻想」が,武田邦彦教授の名前を事実上世に出したものであったとおもう.
武田教授は,この年,三冊の「反リサイクル本」をだしていて,当該図書は最後の一冊である.

当時は,MS-DOSの「2000年問題」が大騒ぎのなか収束したが,90年代のおわりに同時にやってきたのが「環境問題」だった.
1992年にブラジルで開催の国連「地球環境サミット」から,「環境問題」が話題になった.
このサミットを受けて,1996年にいわゆる「ロンドン条約」の「96年議定書」が結ばれた.
「海洋投棄に関するロンドン条約」といっていたが,この議定書によって糞尿や排水管の汚物,生ゴミ処理のための海洋投棄ができなくなった.

これが,わたしが勤務していたホテルにも影響した.
いわゆる「陸上処理」をしなければならなくなったのだが,処理をするのは業務委託先の「廃棄物処理業者」である.だから,ホテルが直接関係するとは最初はかんがえていなかった.
ところが,陸上転換にはたいへんな資金が必要だとわかった.
それで,ホテルも資金提供をしなければならくなって,わたしがその担当をした.

日本の対応はあんがい遅く,国内法での「禁止」は,2007年になってからである.
ちなみに,福島の原発事故で海に流出した放射性物資についても,この条約が適用されるはずであるが,どうなっているのか国民に知らされていない.

そんなわけで,「リサイクル幻想」は,かなり驚いた内容だった.
しかも,「科学」というより「化学」の目線での解説だったから,よけいに驚いたものだ.

「変だな」とおもうことはたくさんある.
なかでもマスコミがキャンペーンをはる話題はたいがい「変」である.
それで,「ダイオキシン」が連日話題になったときにも,違和感をかんじた.
すると,東大医学部の毒物の専門家,和田教授が「科学が社会に負けた」という名言をのこされた.
教授の実験では,ダイオキシンの毒は「ニキビ」ができる程度という.

これは、おそろしいことである.
「日本社会は社会状況を人為的につくりあげることができる」という証明だからだ.
科学=サイエンスのこたえより,マスコミがつくる「風評」が社会をうごかす.
そして,科学者の声より,素人コメンテーターの「~だろう」という予測が社会的信用をえるのだ.

NHKのキャンペーンもすさまじかった.
さまざまなゴミを「ちゃんと」分別している,模範的国民の家庭事情を特集で放送したことがあった.
その人の台所は,「ちょっと置き場がなくて大変なんです」という状態だったが,「地球環境のため」という理由で,一生懸命やっているひとが正しいと放送していた.
まさに,「ほしがりません,勝つまでは」.わが国は,戦時体制下にある.

そうやって,いつの間にか「ゴミ利権」ができた.
社会のさまざまな分野に「利権」をつくった天才は,田中角栄である.
その「利権」からうまれる「お金」が,彼の「金権政治」の源泉である.
実際に,昨今,自民党の派閥が意味をなさくなって凋落したのは,ぜんぶの派閥が「田中派」になったからである.

ペットボトルの「ペット」とは,犬や猫の「ペット」ではない.
チレンレフタラートという高分子体を略して「PET」といっている.
「高分子体」というと聞こえがいいが,石油の化学的加工の最終物質である.

ドロッとした液体の原油には,さまざまな物質が混ざっているから,これを精製するところからはじまる.それが,つぎにプラスチックや人工繊維など,さまざまなものに加工できるのは,「低分子体」だからである.
紙おむつなどにつかわれる,「高分子吸収体」というのも,やたら水を吸うけれど,吸ったらそのままでもう加工できない.だから,使い捨てるのだ.

行政は,ほんとうは加工ができない「ペットボトル」を「資源」だといって,市民に無料で回収の手間をかけさせて,水を含んだ生ゴミ処理で一緒に燃やせばいいものを,わざわざ別便の回収車を燃費をつかって走らせて回収している.
それで,「資源」だからと,バーゼル条約に違反して中国に「輸出」してお金にしていた.

バーゼル条約というのは,1989年の条約で,わが国の加盟は1993年.
「有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約」というから,内容はだいたい見当がつくだろう.
つまり,ゴミを外国に移動させてはならないのだ.

輸入した中国では,ほんの一部をぬいぐるみ人形などの中綿にしていたが,おおくは「資源」として燃やしていた.
日本の焼却炉は,ダイオキシンなど有害物質がでないように,お金をかけて高熱燃焼に耐えるように改修したが,中国の焼却炉はそんな手間はかけていない.
それで,有害物質が偏西風で日本にも飛んできた.

「自業自得」というには,あまりにお粗末なはなしである.
「分別」できない人間が,「分別収集」にいのちをかけたら,ほんとうに健康被害者になってしまった.
もちろん,それでもっと酷いことになったのは中国の空気である.

今回の輸入禁止措置で,資源のはずのプラゴミが日本であふれかえっている.
そのうち,シラーッと焼却処分することになるしかないが,市民はムダな分別をずっとやらされることだろう.

石に価値をつける

「貴石」なかでも「宝石」は,だれでも貴重だとおもうから,最初から価値があるとかんがえる.
しかし,それがちゃんとした「宝石」だと思わせないと,「宝石」だとわからないこともある.
だから,「宝石」の知識が人びとにあって,はじめて「宝石」の価値がうまれる.
それでも,ただの石だとおもうひとは,それが「宝石」であっても目もくれないものだ.

マルクスの資本論は,さいしょに「労働価値説」を土台にしている.
単純化して,時計工場の例で説明している.
これを真っ向から否定したのが,小泉信三の名著「共産主義批判の常識」(新潮社,1949年)であった.

海女が海底から貝を得る労働と「おなじ労力」で,石を持ち帰っても無価値であると.
つまり,労働がすべての価値をつくる,というマルクスの説は間違いで,「市場価値」がなければならない,と説いた.もちろん,マルクスはその「市場」も否定していたから,これだけで小泉博士はマルクスを撃沈させた.

マルクス信奉者たちは,さまざまな「理論」をもって「科学的」と自称していたが,それは「似非科学」の「宗教」であった.しかし,こんなことが,1991年のソ連崩壊まで信じられていて,今年の「マルクス生誕200年」を「祝おう」というのだから,どうかしている.

「福祉国家」といえば,「スエーデン」として崇める学者ばかりの日本にあって,そのスエーデンの元首相が,マルクス批判をしている記事はこのブログでも紹介した.

わが国で宝石の県といえば,山梨県があげられる.
もともと,水晶の産出で栄え,いまでは人口当たりインド料理店が日本一というほどに,インド人の宝石商がおおく在住していることでも有名である.
彼らは,世界に向けて日本の加工技術を売っている,とかんがえると,なんだか頼もしいが,ほんとうは,それを購入する顧客が日本人であってほしいものだ.

それで,県内とくに甲府周辺には,観光客に向けた大型「宝石店」がある.
おもに大型バスでやってくる観光客が相手である.
こうしたシチュエーションでは,外国の観光地でもおなじだが,乗客たちの財布をいかに開かせるかのテクニックが問われるものだ.

つまり,購買意欲がほとんどないか,買うまい,と心に決めてバスを降りるひとたちとの神経戦がはじまるのだ.
そして,どこか怪しい雰囲気で「説明」がはじまる.
それは,お客の「意志に反して」,「石に価値をつける」作業のはじまりでもある.

店によって独特の工夫があるのだろうが,物語は駐車場からはじまっている.
これは,一種のテレビ・ショッピングのリアル版なのだ.
店内の回遊式の構造は,たいへん効率的な流れをつくっている.
最初の「掴み」である専門的な説明から,じつに大雑把なはなしまでの混在が,購買心理に火をつけるのだろう.ちゃんと「起承転結」になっている.

こうして,地球上にありふれた「石」が,購入されていく.
もちろん,買わないひとは一切買わない.
すごい,と思うのは,このネット時代に,こうしたやり方がおそらく何年もかけて開発され,いまでも成立していることなのだ.
一歩まちがうと,大トラブルになりそうなものだが,そうならないギリギリの一線が,ある意味緊張感を生んでいる.

本物とニセモノが混在したような,混沌が,それなりの市場を形成しているのだろう.

ものが売れないのは,売れない理由がある.
人的サービス業の不振も同様で,不振には不振の理由がある.
一方で,その場で売り切ってしまえば後はどうでもいい,というかつての観光客向け掠奪産業では,なにを投稿されるかわからないし,永続しない.

石に価値をつける.

簡単そうで簡単ではないだろう.

体罰の発祥

「昭和一桁」という稀有な世代も,まもなく消えてしまう時代になった.
大正15年は残すところ一週間ほどでおわった.昭和元年は12月25日から大晦日までの7日間で,昭和2年になる.昭和のおわりは,1月7日だったから,大正と裏返しのようだった.昭和元年生まれと昭和64年生まれは希少だろう.
わたしの父は昭和2年生まれで,母は5年であった.

昭和一桁が「稀有」なのは,最後の明治教育世代だからである.昭和二桁になると,ヒトラーのドイツに真似た「国民学校」世代になる.
「尋常小学校・尋常高等小学校」に昭和一桁生まれまでは通った.国民学校とのちがいは顕著で,おなじ兄弟姉妹でも,学校生活の記憶がまるでちがうと母が妹の叔母との会話でよく言っていた.
いまの「ゆとり世代」以上の隔絶だったとおもう.

少なくても,戦前の教育についてかたるときは,このちがいを意識しないと現実離れするだろう.
どちらも「軍国教育」と一緒くたにしてくくってしまえば,表面はとりつくろえても内情はまったく別物だとなるだろう.
詳しくは,「小学校制度の整備」「国民学校令」をご覧いただきたい.
役人がしらっと解説している.

さて,小学校制度の整備がおこなわれたのが日清戦争後の明治33年とあるから,三国干渉による「臥薪嘗胆」のまっただ中の時期である.
日露戦争が,昨今「第ゼロ次世界大戦」といわれている理由に,「総力戦」の概念がある.

つまり,王侯という身分のひとたちや,日本でも武士というひとたちが「戦う」という戦争から,近代国家をあげての「総力戦」へと変容した,という意味である.

日露戦争前の日本陸軍は,ぜんぶで15万人だったが,戦争から1年ほどで100万人になる.
どれほどの動員であったかもそうだが,どうやって「兵」として訓練し戦線に送り込んだのか?

どうやら,このあたりに「体罰」の源流がありそうである.身分がはっきりしていた江戸時代に,庶民の体罰の記録はないし,明治になっても陸軍15万人体制までは軍人の自叙伝にも一言の記載もないという.むしろ「躾」と「体罰」は別だったのだろう.

そうでなければ,203高地の肉弾戦の説明がつかない.
もっとも「突撃命令」では,味方の後方から弾が飛んできたから,いやでも前にいかざるをえないのだが.

じっさいに,一般教育の現場で軍事教練がはじまるのが大正になってからである.
つまり,日本は第一次世界大戦で,連合軍につき,青島の攻略という「物量戦」も経験したあとのことだ.この「物量戦」で,局地戦なのにどれほどの戦費を消耗するかがわかった.

近代兵装のバカ高さは,すでにこの時代に確認されていた.
こうして,貧乏な日本軍は,物量戦をあきらめて精神の世界にはいっていく.

アジア唯一・非白人国家唯一の「列強」になったわが国は,近代戦への準備として平時からの教練があたりまえになったのだ.
学校に軍人がやってきて教練する.この場かぎりの関係だから,目的達成のために体罰を利用することは,批難どころか当然とされたにちがいない.

満州事変から,日中戦争を経て,昭和16年の年末にアメリカとの戦争がはじまる.
大正中期生まれからが「兵」になったはずである.
わたしの父親はレーダー兵だった.電気知識のその教育は,教官から殴られて覚えたと言っていた.

ドライバーの柄で,木魚のように頭部を叩かれながらオームの法則の計算をさせられたらしい.それで,坊主頭にこぶが団子のように幾重にも重なったというからまるでマンガだ.
しかし,これは逆で,マンガでたんこぶができる現実を描いていたのだ.

戦後,復員した元兵隊だけでなく,社会全体がこうした「訓練」に慣れていた.
だから,この世代の男性は,とにかく殴られた経験だけは特別ではなかったろう.
戦争は昭和20年におわるから,昭和2年生まれの父は18歳で復員した.

すなわち,昭和40年代のスポーツ根性もの全盛期とは,生きのこった「兵隊」だったひとたちが40歳前後になったときで,いまでは想像もできない「親和性」があったにちがいない.

だからか,なぜか積極的にテレビを観るようにいわれた記憶がある.「これはいい番組だ」.
巨人の星,エースをねらえ!,サインはV,柔道一直線...
子どもより親が楽しみにしていた.
そうやって,成長した子どもが「部活」にはいる.

当時の「部活」は,スポーツ根性もののまねっこだった.
いまではありえない「うさぎとび」で,100段以上ある階段を何度も飛ばされた.
「鍛えること」には精神もふくまれた.
こうやって,「体罰」が世代間をこえて浸透するようになっている.

いまの体罰の日本的源泉には,近代日本人の歴史がある.
そこには,「よかれ」という善意がある.
だから,べつの方法で「善意」をあらわさなければ体罰はなくならない.
どんな方法があるのだろう?

「いけない」と声高にいうひとも,だれも示してはいない.
家庭でも,自分のこどもの躾ができない.
地域では,厄介なことにかかわりたくないから,「かわいい」とほめても,だれも他人の子どもを叱らない.
それで,相応の年齢になったら,もう誰のいうことも聞かなくなる.

残念ながら,特効薬はなさそうだ.

ベンチマークは競争相手か?

誰がライバルか?
気になるのは経営者だけでなく,従業員もおなじだ.
だから,一流には一流のライバルが存在する.
これが,スポーツなら,ライバルの引退が本人に与えるガッカリ感ははかりしれない.

企業であれば,業界内のライバルこそ,自社発展のための原動力になる.
だから,おのずとライバル社は昔からさだめられている.
しかし,さいきんはライバルが自己崩壊して,気がついたらいなくなっていた,という事態もありうるし,他業種からの新規参入企業が急成長をとげて,気がつけばライバルになっていた,ということもありうる.

つまり,流動化である.
これは、固定的な状態よりは望ましいことだ.
利用客にとっては,選択肢がふえていることを意味するからだ.
うっかりすると自社も,もしかしたら安穏としていられないから,緊張感がでればよい.
一方で,長年のライバルを失うと,自社も方向性を失うことがある.

そこで,でてきたかんがえかたに,ベンチマークがある.
言い方は良くも悪くも,パクリ元である.
オリジナルを考案して,それを実行するというのは,なかなか簡単ではない.
だから,パクる,というのは有効だ.

これを,どこに行っても同じ「横並び」としないようにするのは,それはそれで技術がいる.
「まねした電器」と揶揄されようが,ライバルが開発した新商品を,短期間でオリジナル以上の完成度で安く大量販売するのは,やってみろと言われても業界他社には真似ができなかった.
この会社の苦境は,電器製品がソリューションとセットになった時代になって発生した.困ってしまって,「高単価多機能化」に走ったら,「低単価低機能」商品に大敗してしまった.

「ものづくり」産業に,ものだけ上手に作ればよい,という旧来の価値観が通用しない転換点がやってきて,とっくにとおりすぎてしまった.
それで,旧来の製造業が成り立たなくなった.
「円高」だけが,空洞化の原因ではない.
むしろ,顧客志向から勝手に離れて不振になったことを,「円高」のせいにしてはいないか?

人的サービス業の企業再生の現場で,従来のライバルはどこかと質問すると,ご近所をあげることがおおい.それで,その相手はいまどうしているかと問えば,廃業していることがあれば,なんとか復活していることもある.
もちろん,そのなんとか復活したやり方をパクりたいのが本音だが,近すぎてできない,ということがある.

それでは,全国を見回して,自社の顧客がめったに行かない地域での参考になりそうな事例の研究を問うと,おどろくほど共通して,そのような研究をしたことがない.
その理由は,ベンチマークを他地域に求める,という発想がないからである.

つまり,地元しかみていない.
もちろん,地元の顧客志向のことではない.
地元のライバルがなにをしているのか?しかみていないのだ.

これは,旧来の製造業が苦境に陥ったのとおなじパターンである.
つまり,あたかも製造業とはちがうサービス業だと定義しても,何のことはない「大量生産大量消費」という,かつての方式をいまだに追求しているすがたである.
それで,再生にいたったのだから,この方式をやめる努力がひつようである.

ところが,再生支援をするお金をだす元が,この方式をやめさせない.
成功体験よもう一度.
ワンパターンでしかない成功方法を,別の角度からできないか?
つまり,登るべき山がおなじなのである.

そうではなくて,登るべき山は別にある.
すでに,地方の金融機関すら,自分たちの登るべき山が別になった.
それなのに,融資先には従来どおりを期待する.
何をか言わんや.

経営者には,しっかりとベンチマークをみつけてほしい.
そして,自社が他社のベンチマークになれるにはどうするとよいのか智恵を絞ってほしいものだ.

中国製の餡こ

スーパーマーケットは観光地である.
国内でも海外でも,旅行先のスーパーマーケットにはかならず寄ることにしている.
国内だと,ほとんどが全国ブランドだが,すみずみまでよく観察すると,いがいなコーナーにみたことがない商品があったりするからやめられない.

現地在住のみなさんには,おそらくその「珍しさ」はないだろう.
とくに,静岡県は全国ブランドが,全国販売前に試験販売する地域だから,どうしても長時間滞在になる.
しかし,静岡県にかぎらず,他県でも,珍しいものが発見できる.
これらは,あくまでもわたしの目線なので,それぞれの目線からさがすことをおすすめしたい.

さて,外国のスーパーには日本にはない独特の雰囲気がある.
そもそも.カゴやカートから構造がちがう.
ヨーロッパでは,カゴに車輪がついていて,手提げ部分が棒状になって床を引きずり回すようになっている.
食べ物がはいっているカゴを床に置いて,足で動かしながらレジの順番を待つひとがいるから,これを批難してもはじまらない.

レジ係は着座していて,客がカゴから商品をだして精算するようになっている.
土産にと,おなじ商品を箱買いしても,レジ係が箱をこわして一個ずつにレーザー照射する.日本だと,「一つ照射×個数入力」をして手早いがそうはいかないルールがあるらしい.
ただし,現地人は支払方法は現金払いではないことのほうがおおいから,この点,日本人はクレジットカード精算以外なら海外でも現金払いを苦にしない.

ヨーロッパ現地人は,携帯やクレジットカードであっても日本の「スイカ」のように端末にかざすと精算できる「NFC」式が主流で,とくに後から普及した東ヨーロッパでの利用率は高い.
今年の春になって,日本でも大手カード会社が外国仕様の「NFC」に対応できるようにしてくれたから,日本で買える「NFC」機能がついたスマホで外国でも買い物ができるようになった.

だからといって,日本と香港にしか普及していない「スイカ」のような,「FeliCa」式がすぐに廃れることはないだろう.「FeliCa」の処理スピードは,「NFC」の追随をゆるさない速さだから自動改札が詰まることはない.
しかし,ソニーの発明の「FeliCa」は,かつての「ベータ」と「VHS」のようなことにならないともかぎらない.「世界」が相手だと,技術的に優れていることが優位とはいえないのは,いまも当時のままだ.

ヨーロッパのスーパーで目立つのは,「UMAMI」コーナーの表示である.
「うまみ」という味覚に,さいきん気がついたのだという.
「味の素」の国の国民からしたら,いまさら感が強いが,事実は事実である.
もちろん,うまみ成分はグルタミン酸とイノシン酸で,それぞれが昆布と鰹節に代表されるから,日本人にとっては言わずもがなの「伝統食」である.

それで,日本食が世界遺産になった時期ともかさなって,「UMAMI」コーナーがいつの間にか「日本食」コーナーになっている店もある.
もっとも本物の「鰹節」,いわゆる「本枯節」は,製造時の「燻し」によるタール付着とカビづけが原因で,EUは輸入禁止だから,「かつおだし風調味料」がヨーロッパでも主流である.

親日国ポーランドの首都ワルシャワ中央駅の地下街には,日本食専門コーナーがある.
海苔巻きをつくるための「巻き簀」は,たいていのスーパーに海苔とともにある.
ここには,甘味,のための寒天まであるから,店内の品揃えはお値段以外,日本国内とあまりかわらない.
そこで気がついたのが「餡」だった.

一般に欧米人は,豆類は塩で味付けする.
だから,「甘い豆」という発想がないから「想像」できない.
「餡こ」は,かれらの食文化と次元のちがう食品なのだ.
ところが,おそろしいのは「文化の力」である.

マンガやアニメで頻出する,ドラえもんの「どら焼き」,Kanonの「たい焼き」.おそ松くんの「今川焼き」.これに,茶道からはじまる日本茶ブームで,和菓子がつづく.和菓子といえば,餡こは切り離せない.
こうして,「餡こ」の需要がうまれた.

ところが,ついて行けてないのが和菓子・製餡業界である.
ヨーロッパで,日本製の餡こを見かけない.
あるのは「中国製」ばかりの「漉し餡」だ.

中国人を褒めるべきか.
日本人は,これは「本物じゃない」というかもしれない.
しかし,そこには中国製「しか」ないのだ.

政府が「クールジャパン」で失敗しているばかりではない.
ヨーロッパ人に,日本製の「餡こ」すら提供できていないのだ.
人口が縮む国内だけを見ていたら,和菓子・製餡業界は苦しいに決まっている.
どこを見なければいけないかの,ひとつの典型なのである.

再発防止につとめる

アラブ世界で暮らすと,以下の「I」「B」「M」が日常になってしまう.もちろん,まじめな日本人には最初は馴染めないから,下手をすると不適応症を発症して,精神的に危険な状態になるひともいる.しかし,おおくは「郷に入れば郷にしたがえ」ですっかり適応してしまうから,似非アラブ人になってしまうものだ.

「I」:インシャラー,神の思し召し.「ドンマイ」のように軽く使われると,ムッとくるから,日本人はあんがいイスラム教に親和性があるかもしれない.
「B」:ボクラ,また明日.この一言で,これまで行列に並んだ時間がすべてムダになる破壊力がある.それで,翌日にまた並んでも同じことになりかねないから,けっして保証されないその場限りの言葉である.
「M」:マレーシュ,直訳は,そこに神がいなかった.まさに「ドンマイ」気にするな,である.

なにか自分によからぬことが,相手(アラブ人)が原因でおきると,上記のどれかが相手の口から発せられる.アラブ人同士だと,被害を被ったはずの側も,おなじように言って,気を静めるのがふつうだから,アラブの人はとくに好戦的な人たちではない.
しかし,この三つの言葉には,自分から謝罪する,という概念がないことに注意したい.

むしろ,これに慣れない日本人が,相手に殺意を抱くほど頭に来るのがふつうだから,いざとなると日本人のほうが好戦的かもしれない.
それでも,冒頭しめしたとおり,日本人でも適応すると,同様に言って気を静めることができるようになるし,さらに上級者ともなれば,アラブ人に向かって自分から言えるようになる.

「I」と「M」には,「アッラー」が短縮されて含まれている.「インシャラー」は「インシ『アッラー』」だし,「マレーシュ」は「マ『アッラー(フ)』シュ」である.
だから,かなりイスラム教の内部にふみこんだ言葉遣いなのだ.
これを,他宗教の人が口にしてもゆるすのだから,けっこう寛容なのだ.

ちなみに,アッラー(フ)の「フ」がカッコなのは,アッラーが男性名詞なので正規には「アッラーフ」というからである.

そういうわけだから,かれらには「反省」がない.
「アッラー」という「唯一絶対神」の存在を信じているのだから,自分のおこないも,アッラーによってコントロールされているし,被害を被ったはずの側も,被害を受けたこと自体がアッラーの御業として受け入れるからだ.

この発想法は,ユダヤ教も,キリスト教もおなじだ.
かれらの共通聖典,旧約聖書にハッキリ書いてあることだ.
その影響で,英語の感情をあらわす動詞のおおくが,「~させる」という他動詞で,「~させる」主体は「God」になって隠れている.

ヨーロッパ近代の発展は,そのキリスト教への疑問と否定が根底にある.それを明言したのがニーチェ「アンチクリスト」だ.
近代合理主義の追求とは,まさに「アンチクリスト」のことである.

ところで,世界でもっともキリスト教が普及されていない国は日本といわれている.
しかし,日本には法然と親鸞が発明したキリスト教である浄土宗と浄土真宗がある.
「他力本願」とは,じつは「旧約聖書」的発想だからだ.しかも,救世主「阿弥陀如来」までいらっしゃる.

徳川家康が本願寺を東西に分裂させて,いまだにそのままなのが不思議だが,「浄土真宗」とは幕府がつけたヨイショのネーミングで,それまでは「一向宗」だった.
あの,「一向一揆」の「一向宗」である.
つまり,ヨーロッパの本場からキリスト教が伝来する以前に,日本にはすでにキリスト教があって,その勢力は強大だった事実がある.

日本人は「無宗教」だという大嘘がはびこっているが,日本人は世界でもっとも宗教的な国民である.神道をベースに,あらゆる宗教を都合よく加工する.
世界三大宗教と真っ向からちがうのは,かれらは「絶対神ありき」なのに対して,われわれ日本人は,「神が人間のためにいる」ということなのだ.

キリスト教が「抜けた」近代合理主義を追求すると,「因果関係」つまり,「原因と結果の関係」を「科学する」ことになって,そこに妥協はない.
だから,スリーマイル島の事故も,妥協なく調査され,妥協なく今後のありかたを「マニュアル化」した.

わが国は,役所を中心に,いまでも「まつりごと」がおこなわれている.
「まつりごと」とは,宗教行事であるから,「因果関係」には人間のためにはたらく神がいる.
その「神」自体の存在は,信じるしかないが,そこに「役人の無謬性(けっして間違えない)」という宗教感覚がはたらく.

それで,福島でとんでもないヘマをしでかしたが,妥協なく因果関係を調べる「素振り」をすればよく,「原発の安全は確認された」ということが言えるようになる.

アラブがアラブなのは,イスラム教が「抜けない」からである.
アラブとおなじように「反省」ができない日本は,アラブとは真逆の人間に従属する神を信じるからである.
日本が日本なのは,アラブとおなじく「宗教」が抜けないからという共通点があった.
なるほど,アラブと親和性があるはずである.

妥協なく合理的に「反省」できないから,もちろん「再発防止」は「つとめる」もので,確実に二度と起こさない,という意思もなければ気概もない.

「再発防止」とは「科学」である.

リニアな人生の強制

左派系の比較的高齢なひとたちが,「アベ政治を許さない」とかいたステッカーをリュックにつけたりして歩いている姿を目にする.
どうして,左派のひとたちが目くじら立てるのか不思議なのだが,おそらく「防衛政策」という一点で気に入らないのだろう.

外国で「防衛政策」は,あまり争点にならないばかりか,「政争」になること自体を嫌うから,わが国の特殊性のひとつの事例である.
なぜ「政争」を嫌うのか?それは,「国防」は「国家として当然必要」という共通認識があるからである.

国際法に「国家の三要素」というかんがえかたがある.
この三要素を,「外国が認定」しないと,その地域は国家として成り立たない.
つまり,国際社会から,おたくは国家ですね,と認定されてはじめてその地域は「国家」になる.
それは,「領土」「国民」「主権」の三つであるが,これに上記の「外国からの認定」をくわえたくなる.

だから,領土を守るための国防,国民を守るための国防,主権を守るための国防,といえばわかるとおり,国家の三要素を守るためには「国防」は必須になる.
安倍政権は,というより,この国の周囲の現状からすれば,どの政党のだれの政権であろうが「国防」は当然になろうが,どうやらステッカーのこのひとたちは,それがいたく嫌らしい.
これはたいへん不思議なことだ.

もっと不思議なのは,このステッカーのひとたちは,左派だとおもうのだが,経済政策で自民党歴代もっとも左派なのが安倍政権であるのに,なにを問題視しているのか?
簡単にいえば,「アベノミクス」とは,「社会主義経済政策」そのものである,のにである.

私立の小学校のはなしや獣医学部新設のはなしばかりが議論されている国会で,なぜ野党は正面から「経済政策」を議論しないのか?
それは,おそらく,安倍政権がじつは左派政権であることを国民におしえてしまうからではないのか?だから,別の話題にするしかない.

さいきん,女性の管理職登用を義務づける法案が記事になった.
「女性活躍推進法」の改正で,中小企業にも女性管理職を義務づけるという.
これは,禁煙ファシズムにつづく政府の暴挙ではないか?
どうして,こうしたことまで政府から命令されなければならないのか?まったくわからないを通り越して,恐怖すらかんじる.

男女差別の逆差別だという指摘もあるらしいが,そんな問題ではない.
このブログでは,「賢母」について書いたが,まさに「賢母」絶滅政策であり,ひとの人生について価値観を押しつける,とんでもない発想である.

会社にはいったら,万年平社員ではいけない.
出世して,せめて管理職にならなくては,なんのための職業人生だ!
「おんな」だからといってバカにして,管理職にさせなかったのだから,強制的に管理職にさせないと,民間のバカ経営者にはわからないのだろう.

これは,上級職官僚の発想である.
「ちいさいときから勉強して,難関中の難関大学の法学部をでて,上級職の官僚になったら,管理職にはなれるけど,もっと花形の役職に就きたい.
民間だっておなじだろう.」

おそるべき多様性のなさ.おそるべき世間知らず.
ひとを管理職にするかしないかは,「資格」だけで決まるものではないと民間はしっている.
人柄もあれば,なによりも本人の希望もある.
そこには,さまざまな人生観がある.

たとえば,なんのための「派遣」だったのか?
「多様な働きかた」ではなかったか?
それを,働くひと主体でなく,いつもの通り,「産業優先=雇用主優先」で「法改正」をくり返したら,なんのことだかわからなくなって,しまいには「格差の元凶」になってしまった.

出世こそ人生の目標,というリニアな人生もありだが,それ以外の人生だってさまざまなのだ.
それを,あろうことか「強制」するということの凶暴さは,野蛮でもある.

日本国政府のこの野蛮さは,新しい産業革命を目指すといいながら,じつは「名誉革命」のタネになるかもしれない.
落ち目の国の騒乱はよくあることだが,なんという政府の傲慢さだろうか.

ステッカーをぶら下げている皆さんには,この点での活動を期待したい.

学校の民営化

「憲法」をちゃんと教えないから,「憲法」がなぜ「最高法規」なのかをしる国民が極端にすくない.せいぜい,最上位の法律だから,程度だろうが,それではたんなる言い換えにすぎない.
これは,「民主主義をしらない」とイコールであるほどに深刻なことだ.

国会での議論も,「最高法規」ということだけが前提の,まことに薄ら寒い状況なのに,国民が絶望感を持たないのは,自分たちもしらないからである.
「憲法学者」はいったいなにをしてきたのか?犯罪的な説明不足である.
さいきんでは,政府にかみついた小林節慶大名誉教授が,さらりと発言していたから,これも注意していないと気がつかなかったろう.

民主主義国家における「憲法」とは,「国民から国家・政府への命令書」である.

民主主義だから,国民主権だから,ということの証拠が,「国家・政府への命令書」としての「憲法」だ.
だから,「憲法は最高法規」なのだ.
国会の議論が薄ら寒いのは,最高法規の憲法で,国民に命令しようという「倒錯」が議論されていて,野党の反論すらなっちゃいないからである.

日本人の不幸は,「憲法」を「国民が書いた」という認識が歴史的にもないことにある.
明治憲法もしかり.
これで「法治国家」だという「奇跡」がおきている.
「倫理観の高い」役人たちが仕切ってきてくれたお陰,ということになる.

おわかりだろうか?
「国民からの命令書」ということは,憲法を守らなければならない対象はだれか?「国家」や「政府」が対象だから,すべての公務員が憲法を守る必要がある.
すべての公務員には,当然,地方公務員もふくまれる.
ただし,業務をおえると,公務員も私人の生活にもどるから,業務中の公務員,が対象だ.

つまり,業務中の公務員以外のすべての国民は,命令した側になるから,憲法を守る必要はない.
だから,一般国民にたいして「あなたは憲法違反をしている」という指摘は,ナンセンスなのだ.
憲法違反の対象になるのは,国家・政府だから,それをうごかす公務員だけである.
公務員は,出勤したら「今日も憲法を守ります」と毎日朝礼で誓うべきである.

民間で,我が社には言論の自由がないから問題だ,というのはどうなのか?
これは,憲法違反ではなく,経営上の問題である.

それで,出てくるのは国民の三大義務(教育,勤労,納税)である.
本稿では,教育について書く.

「義務教育」の「義務」は,親やおとなたちに課している.
子どもには,教育をうける権利がある.
だから,子どもにむかって「学校へ行く『義務』がある」ということではない.
不登校の子どもは,ある意味「権利放棄」をしている.

公立の小中学校の校長たちは,「学校運営」のことをなぜか「学校経営」という.
民間企業の経営問題のひとつに,「プロ」経営者の不足がある.
社内昇格だけが原因ではなく,入社後から経営陣にくわわる前までに,「経営」をまなぶことがほとんどなく,「運営」ばかりしていることを指摘したい.

だから,組織の「運営」が,いつのまにか「経営」に転換されてしまい,経営者が経営できない,という深刻な事態を生んでいる.
かれらは「運営」しかしていないけれども,「運営」しかしらないから,「経営」ができない.
ところが,不祥事は「運営」のなかで生まれるから,じつは「運営」もできていない.これは,「現場との乖離」が原因で,社内でえらくなって貴族化した結果である.

公立学校の最大の問題点は,競争がない,ことに尽きる.
簡単にいえば,義務を背負った親に「選択の自由」がないことである.
アメリカでは80年代の教育改革で,教育クーポンが活用されたという.
中曽根康弘総理が,アメリカの教育をバカにして日本の教育を自慢した時代のことだ.

アルマーニの制服が話題になった東京の公立小学校は中央区にあって,本来の学区は,ほぼ「銀座」である.
この「区」は,「特認校制度」という学校選択制がある.
都心部で,住民が減って生徒数を埋めるための策だったようにおもう.しかし,この制度ができる前は,親が銀座に勤務していれば入れたというから,他地域からの入学はかつてより減ったという.

この事例は,やはり「立地」が先にたつが,「伝統」も重要な要素だ.
卒業生の名前がすごい.北村透谷や島崎藤村,近衛文麿などなど.
どうやったら「ブランド」ができるか?の教科書のようである.

「公立」なのに「アルマーニ」と騒がれた.
だったら,私立の学校法人に売却すれば,さらなる「ブランド」事例になるだろう.
地域の子どもには,教育クーポンの発行をして引き続き入学可能にすれば不利益はなくせる.

「あの学校に行きたい.」
選ばれる学校にどうやったらなれるか?
これが「経営課題」である.
公立学校制度でできないなら,民営化するとよい.

そもそも,全国一律なのは「富国強兵」のための「文部行政」だった.
つまり,兵隊にするための教育なのだ.
いまは,「文部行政」のための「学校運営」になっている.
そこには,顧客である「生徒のため」という視点がまったくもって欠如している.

「成績がわるいのは生徒自身がわるいのだ」という価値観が常識である.
「顧客重視」ならそうではなく,「わるいのは教え方ではないか?」とまずは疑うことが重要だ.
教え方がうまい塾講師に人気があるのは耳にするが,教え方がうまい公立学校の教師のはなしは寡聞にして聞いたことがない.

公立学校の教師は,クラブ活動で疲弊しているから,教え方の研究ができないという.
それでクラス運営もできないから,イジメを見抜けなかったり一緒にイジメる.
校長や教育委員会に相談しても,なかったことにされるから,登校拒否という選択に追い込められる.
つまり,公立学校は「クラブ活動」が中心なのだ.

兵隊にするための教育に,教師たちの労働組合は反対するだろう.
しかし,「顧客重視」の教育は,教師たちの実力が問われるから,これにも教師たちの労働組合は反対するだろう.

だったら,なにに賛成するのか?
おそらく,もっとも居心地のよい「現状維持」なのだろう.これは,大企業もおなじである.
それでは,生徒はたまらない.一方は塾に行き,一方は引きこもることになった.
生徒の「権利」を踏みにじっているのは,「義務」があるおとなたちだという構図になった.

学校を民営化したら,地方だから不利だということもない.
他地域からの「留学」を受け入れたっていい.
寮をつくらずも「ホームステイ」したっていい.
外国人の生徒を受け入れていて,なぜ日本人の生徒を受け入れないのか?

そもそも,全国一律のカリキュラムの強制がなくていい.
選択の自由をいかに確保するのか?
これは,わが国には重いテーマなのである.