地元の価値がわからない

人口減少に対処するため,さまざまな「特典」を自治体の「制度」にしなければならない,という宗教的な価値観があたりまえになっている.
なぜこれが「宗教的」なのかといえば,祈りにも似た効果しか期待できないからだ.

それは,人口問題は完全ゼロサム・ゲームだと以前にも書いたとおりで,国全体で減少する人口を,移住によって増やそうとしても,それは部分でしかないからである.
さらに,地方の自治体は,移民として「(子どもがいる)若い世代」が欲しいのであって,社会保障負担が増える「中高齢世代」をあからさまに嫌がるから,年齢層による区別がおきている.

ところが,このルールとはちがう現象がおきている地域がある.
外国人の移住者の増加という現象がそれだ.
首都圏のばあい,どういうわけか不思議と東アジア系のひとたちが増えている.
これは,おおくが不法滞在からの事実上の移民だろう.

しかし,一方で,欧米系の移住者が増えている地域がある.
たいがいは,当該地域に外国人移住者の優先受け入れ制度,などはないから,どうして増加しているのかという理由すら把握できていない自治体もあるだろう.
つまり,「宗教活動」をしていないのに,「効果」があるという不思議な現象なのだ.

しかし,欧米系だからといって,かんたんにわが国へ「移住できる」というものではない.
それで,日本人との結婚や,学校の教師といったひとたちの中から「移住」希望者がでてくるのだ.
かれらには,日本文化への造詣を中心にした動機がある.

東アジア系のひとたちのばあいも,経済や自由といった,自国にはない魅力によって引きつけられているなら,自然な動機ともいえる.
そういう意味では,「難民」に近いのかもしれない.
ただし,わが国政府は,「難民」を受け入れる素地をもたないから,不法移民になってしまう可能性があり,また,取り締まるどころか生活保護の対象にもなる.

「日本の特殊性」を強調するつもりはないが,世界の「常識」からいい意味でもわるい意味でも「ズレている」のが日本だとおもうとちょうどよいのだろう.
その「ズレ具合」はひとそれぞれが感じるものだが,「地元を過小評価する」ということは強調しておきたい.
とくに,地方ほど顕著な傾向がはっきりある.

「田舎だからなんにもない」
これは,あくまでも「都会が優位である」という価値観を,そのままへりくだっていいあらわした言葉にすぎない.このときの「都会」とは,おもに「東京」をさす.

廃藩置県後であって,しかも「京」を東に移転させて,あたらしい中央集権国家としての東京になってからの価値観である.
もちろん,江戸っ子が,地方の武士にたいして「いなか侍」と思っていたのは否定できないが,それはだいぶ後のことで,江戸っ子すら田舎からの流民がはじまりである.
だから,由緒正しい地方人士は,「東京出身」と聞くと「どこの馬の骨かしれたものか」といって,その出自をうたがったのだった.

こんごも,東京一極集中でいくのか?
それとも,地方分散型でいくのか?
数年後には,おおきな決めごとをしなければならなくなった,と京都大学と大手電機メーカー日立の共同研究から導かれるAI未来予測の結論だという.

これは,どうやって食べていくのか?という選択を意味するのだが,「効率」という視点がかならず重視される.
どうやって食べていくのか?という問いに,年金受給生活ではこたえとして弱すぎる.
つまり,現役世代の生活手段ということが重要なのはいうまでもない.

すると,生活手段と生活様式は強い関連があるから,どんなふうに生きたいのか?が問われていることになる.
つまり,東京一極集中でいくのか?地方分散型でいくのか?という二者選択には,それぞれのひとの人生観が合成された選択にならなければならない.

だから,国会で多数決できるか?といえば,そうはいかないだろう.
そうなればそうなるほど,都会であろうが地方であろうが,地元の価値を知っておく必要がある.
衣・食・住に職をくわえて,かんがえる時間をもたないと,取り返しがつかないことになるだろう.

他人やAIに決めてもらうのではなく,自分でかんがえなければならないことだから,あんがい,残り時間はすくない.

鹿せんべいでおなかいっぱい

奈良といえば鹿.
1965年,吉永小百合がうたう「奈良の春日野」は,その後80年代にフジテレビのバラエティー番組で再度注目をあつめたから,記憶にあるかたもおおいだろう.
野生の天然記念物である.

春日大社の神様は,関東の鹿島神宮と香取神宮からも勧進されていて,鹿島神宮の「鹿」が,天然記念物になって生きているといえる.
わたしが住む横浜には,二箇所の春日神社がある.

ひとつは横浜横須賀道路の日野インター入口付近の山上にある「春日神社」である.
こちらは,創建が1099年とふるく,いまでも付近の旧村々の総鎮守である.
もうひとつは,かつての遊園地「横浜ドリームランド」にある,「相州春日神社」だ.
こちらは,ドリームランド開園時の創建というから,あたらしいのだが,「奈良ドリームランド」が先に開業しているから,奈良とは縁がある.
じっさい,境内には春日大社からおくられた鹿がいて,「鹿せんべい」も用意されている.

鹿せんべいは米ぬかと小麦が原料とある.
10枚がひとまとまりで販売されているが,じつは,この「せんべい」のポイントは,十字にまとめている紙テープなのである.
これには「証紙」と印刷してある.

「証紙」だから,なんらかの公の団体が関係している.
それは,「一般財団法人 奈良の鹿愛護会」という.
つまり,この愛護会の証紙のない鹿せんべいは,にせ物,ということになっている.
愛護会の収入は,この証紙からになるから,せんべい自体は愛護会指定の製造元がつくっている.

あやまって鹿が証紙を食べてしまってもだいじょうぶなように,紙の品質とインクは用心されていて,紙はパルプ100%,インクは大豆由来という.
この収入は,鹿たちの健康管理につかわれているから,安心してドンドン与えたい.
鹿は草食で,一頭あたり一日5キロほどの量の草を食べるから,鹿せんべいごときものでは,食欲に影響がないという.

ところで,このブログでも何回か触れたが,日本のおおくの観光地は外国人にとって決定的に「説明不足」という共通点がある.
これは,日本語が「空気を読む」ことを前提としていることの延長で,とくに「説明」がなくても,なんとなくやり過ごすのが日本人の特性だから,これまで問題にならなかった.

しかし,欧米の言語をはじめおおくの外国語には,「空気を読む」という態度がない.だから,ことばの構造自体が,はっきり説明することになっているから,「論理的」である.それで,こうした国の観光地では,「ちゃんと説明する」ことが常識になっている.

日本では,「通訳案内士」も国家資格であるが,これで生活できるような状態ではない.外国語を話せる人がある意味「勝手に」通訳をして料金を得ても,めったに取り締まられることはない.しかし,外国では確実にトラブルになるだろう.有名な観光地や美術館・博物館には,専門のガイドがいて,かれらに依頼しないと,依頼した側も罰則の対象になる.

日本では,「ボランティア・ガイド」が存在して,これを行政も支援することがある.外国なら,「プロ・ガイド」たちから抗議の声が役所にいくだろう.
「業務妨害」だと.
つまり,せっかくの「通訳案内士」を行政も無視している.

そこで,奈良の鹿をみてみると,鹿せんべいの証紙が「日本語表記」だけである.
この「証紙」の意味についての説明がない.
さいきんは,鹿に芸をやらせようというのか,なかなかせんべいを与えず,それで鹿から攻撃されてケガをする外国人観光客がふえたという.それで,注意書きを看板にしたというが,この看板が「読める大きさ」か?

課題はいくらでもありそうだ.
最新のニュースでは,鹿が鹿せんべいを食べなくなった,というものだ.
日本の修学旅行が,奈良・京都からはなれて久しく,閑散とした奈良公園が,外国人観光客という救世主によってあふれている.
それで,想定外の鹿せんべいが与えられて,とうとう鹿が飽きたようだ.

すると,もう一つの懸念は,観光関連業がむかしからの「掠奪産業」にならないか?というものだ.
外国人観光客という「鹿」が,それそれとばかりにつまらないものを掴まされると,いまは一気にSNSで拡散する.
それで,外国人観光客の「忌避地」になると,目も当てられない衰退がやってくる.

どうぞ,正直な商売を.

「第三者委員会」をゆるす株主

これだけ世の中に「不正」がはびこると,「不正」の重みも軽くかんじてしまう.
役所も民間も不正がばれると,「第三者委員会」なるものがたちあがる.
あたかも「中立の他人」です,という風情だが,このひとたちを臨時雇用したのは役所や会社だから,費用は税金だったり会社の経費になる.

「組織統治ができなかった」ことで発生するのが「不正」だから,民間なら経営者がその責任を負うのが当然であるが,またぞろ自分たち経営者が招集した「第三者委員会の結論を待つ」などと平気の平左で発言して,だれも変だとはいわないおかしさができた.

国家公務員や地方公務員の不正は,それがあきらかになれば即「事件」であるが,こちらもだいぶ緩やかで,首相や首長の責任論でごまかせる様相がパターン化されつつある.
教育委員会という行政組織での「不正」は,役人が役人の不正に頭をさげていて,首長が他人を演じられる便利さまで明らかになった.

国のばあいは,もう政権を二度ととるつもりがなくなった「野党」のおかげである.もし,政権交代を真剣にかんがえる政党ならば,こんなインチキ公務員たちが跋扈していたら,自分たちの政権でも不正をするだろうから,首相の責任論で押し通す愚はできない.

「第三者委員会」の「委員」には,弁護士が選ばれることがおおい.一般に「有識者」といっていたが,「有識者」の「識」に国民が敬意をはらわなくなったから,国家資格でいちばん難しい「弁護士」をあてれば,なんとなく説得力があるはずだ,ということだろう.
それで,どんな人物なのか?よりも「弁護士」という資格が前面にでたのはいいが,いかんせん肝心の「委員会報告」の内容がショボいものばかりとなった.

これは「弁護士」という看板を守る側の沽券にかかわるから,あの日弁連をして「第三者委員会のガイドライン」をつくるはめになった.
それで,この「ガイドライン」に沿ってやればよかろう,というのだが,「沿ってやってます風」ばかりで内容がやっぱりショボい.

それはそうで,「第三者委員会」の雇い主は会社の経営者だから,弁護士としてはクライアント先を守るのが本業という,ごく当たり前の態度になった結果だろう.
それではやっぱり沽券にかかわるから,「第三者委員会の評価委員会」というのができた.こちらは,なんと「無報酬」である.

A~Fまでの6段階で評価する.
これまでに主だった事案を評価したが,A評価はゼロ,Bすらみあたらない.
そして,評価者の名前と評価点も公表している.
つまり,「無報酬」のこの「評価委員会」がもっとも信用できるというさまになっている.

そこで,思うのだが,経営ができなかった経営者が会社のお金で雇うのではなくて,株主が「第三者委員会」を立ち上げなければいけないのではないか?
すると,委員会立ち上げのための事務局は,監査役になるのではないか?
こうしてみると,日本企業における監査役が,あまりにも無役・無力なのがわかる.

その意味で「不正」した企業の監査役が,本来はもっと糾弾されてしかるべきで,そうやってものを言える監査体制がつくられることになるのではないかとおもう.
でなければ,株主から監査役廃止論がでてもよさそうだ.
このように,株主が「第三者委員会」を立ち上げれば,その結果,経営者の無能が明らかになったところで,きちんと解任も,提訴や告訴もできるだろう.

さて,以上のはなしのなかに,ルールをつくってもうまくいかないことが組みこまれていた.
「ガイドライン」があっても,なかなかその通りにはいかない.
これは,そのまま公務員にあてはまる.

とくに,「キャリア職」で採用された一般に「官僚」と呼ばれる上級職公務員には,ほとんどリスクがないし,組織内で「ガイドライン」を策定する側になる.
だからよほどの「倫理観や使命感」がないといけないようになっている.
ここに問題の本質がある.

個人の「倫理観や使命感」に依存した組織は,組織ごと腐る可能性が高くなるからだ.
下級武士がつくった明治政府は「幕府」の復活をなによりもおそれた.
それで,上士(位の高い武士)に後ろ指を指されることがないように,高い倫理観と使命感で新政府をつくった.そして,これがいつしか「建前」になった.

本質的に,わが国の官僚制は,明治政府を継承している.その証拠に,敗戦で責任をとった軍人や政治家はいたが,官僚はひとりもいない.
つまり,この「建前」があるかぎり,高級官僚はどんなに傍若無人なふるまいをしてもゆるされる,と勘違いするのである.

法治国家の官僚には,この「建前」は必要ない.
だから特権もない.
だったら,だれも官僚になんかなりたがらなくなる.
それでいいのである.
優秀な人材は,官ではなく民にこそ輩出しなければならない.

そのためにも,まず「第三者委員会」は,株主が立ち上げなければならない.

ぬるい温泉が人気

銭湯で熱い湯に水をいれると怒るひとがいたりするから厄介だ.
水温計が50度を示していることもある.
源泉の熱さで有名な,群馬県草津温泉でも,湯もみで48度にして,それでも湯長の号令で入浴する時間湯があるくらいだから,監視人がいない50度の湯への入浴は危険ではないかとおもう.

熱い湯に浸かるのは,ある意味精神統一がひつようだ.
「心頭滅却すれば」の心境になれる,というメリットはあるだろう.
緊張で頭がスッキリすることは,あるかもしれない.
しかし,「過ぎたるは及ばざるがごとし」であって,けっしてくつろげないのは確かである.

数年前から「人工高濃度炭酸泉」が人気になった.
炭酸ガス,硫化水素の二種類が,人体に皮膚から影響をあたえる気体で,どちらも「毒」だから,皮膚呼吸がとまる.人体はこれではいけないと,全身の血管が毛細血管まで開いて肺からの酸素を届けようとするメカニズムがはたらくという.
これが,血管の運動になるから,高血圧などによいという.

それで炭酸ガスボンベから,こまかくしたガスを湯に溶かす方法がかんがえられた.
病院でも,高濃度炭酸泉が治療につかわれている(医療点数がつく)から,スーパー銭湯から採用され,いまでは街の銭湯でも珍しくなくなった.
炭酸ガスが皮膚に無数の気泡をつける.これが,皮膚の感覚器を刺戟するから,2度ほど高く感じるという.だから,40度を適温とすれば,高濃度炭酸泉は38度でよい.

おそらく,温浴施設のなやみは,人気の高濃度炭酸泉の提供者からみたコスト・パフォーマンスだろう.
炭酸ガスは高価である.だから,おおきな浴槽を用意すると,コストがかかる.
一方で,加温するのに2度低く済むというのは,光熱費では助かる.
利用人数と,浴槽の大きさ,温度,という連立方程式を解かなければならない.

温度を上げれば,利用者が多くても熱くなって回転がいいが,長時間はいっていたい利用者は不満を感じてしまう.
温度を適温にすれば,利用者の回転が悪くなるから,浴槽を大きくするひつようがある.
水光熱費は温度を下げた分たすかるが,浴槽が大きくなった分での比較と,炭酸ガスの使用量を比較して,それと利用者の満足度の関係はどうか,をかんがえることになる難しい問題だろう.
しかし,数ある温浴施設からリピートされて選ばれつづけるようにしたいのだから,この関係式にはさらなる検討項目がふえることになる.

この,温度を下げて長時間はいる,ということに注目したのが「無感風呂」だろう.
体温とかわらない温度の浴槽だ.
これは,はじめ冷たく感じるが,そのうち「無感」になって,いくらでもいられる.
長時間であるから,湯上がり後のポカポカ感は,これも長時間続く.

それで,むかしからあったのだろうが,このところ「ぬるい温泉」が人気になっているようだ.
ぬるいから,長時間はいっていられる.
時間があるひとにはちょうどいいだろうし,からだにもムリがかからない.
ところが,「ぬるい温泉」は,入浴専用施設であることがおおい.つまり,「宿泊できない」のだ.

仕方がないから,ビジネスホテルに宿泊して,また「ぬるい温泉」にいく.
こうして,ビジネスとは関係ないひとたちが,「温泉」を楽しむために別の場所に宿泊するようになっている.
移動は,自動車だから,離れていてもそんなに気にならないのも加わる.

温泉宿に,あらたなライバルが現れている.

ラテン語教育がはやるヨーロッパ

「EEC」から「EC」になって,とうとう「EU」になったヨーロッパ.
最初の「E」はぜんぶ「Europe」の「E」だから,そんなにかわったようにはみえないけれど,次元がちがう変化をとげたといっていいだろう.

「EEC」がはじまる前から「懸念」し,「EEC」ができたら,悪い意味でまだできてもいない「EC」の失敗の方向性は「EU」だと論破して,1993年11月のEU発足直前,92年3月に死去したのがハイエクだった.死去一ヶ月前に欧州連合条約が締結されているから,死んでも死にきれない想いがあったかもしれない.

その意味で,EEC発足以来,ヨーロッパはハイエクの主張をことごとく否定してきた歴史になっている.
「それでも地球は回っている」と言ったというガリレオの名誉が回復されたのは,同じく1992年のことで,それは「ガリレオ裁判」から385年が経過したのちのことだった.

ハイエクは,EU失敗の経路とその理由を書き残した(失敗を決めつけていて,その理由を示した)ので,ガリレオより早くに名誉が回復することだろう.
実際に,ほとんど「予言」のごとく示し的中しているから,当事者の焦りは尋常ではないはずで,さらなる間違いの深みにすすむから悲壮感さえある.

それが,古代ローマ帝国の公用語だった「ラテン語教育」にいきついたのだろう.
もともとラテン語教育はされてはいたが,現代ヨーロッパのよりどころとしてのラテン語になっているそうだから,おそらくEUの不振と無関係ではないだろう.

最大の難事は,共通通貨「ユーロ」をどうするか?である.
ギリシャ危機や,イタリア,スペインの経済危機も,「ユーロ」の矛盾がうみだしたものだ.
これら経済弱者にとっては,自国通貨より信用のある「ユーロ」は実力より背伸びができるし,ドイツのような経済強者にとっては,自国通貨より安いから輸出に有利である.

だれにとっても「有利」にみえるが,それは錯覚にすぎない.
ヨーロッパというエリアでの各国貿易にもどしてかんがえれば,通貨安で輸出に有利なドイツ,通貨高で過剰消費ができたギリシャとすれば,構図はわかりやすい.
だから,ギリシャ人はドイツ人に儲けた分を負担しろと要求し,ドイツ人はこれ以上面倒見られないと突き放している.

ハイエクは,「もしEUが発足したら,かならず統一通貨を模索し,統一通貨のための中央銀行をつくるだろう.そして,安定しない通貨価値の維持のために中央銀行はさまざまな権限をつくり,それを強力に実施するはずだ」と,歴史はそのとおりになった.
それで彼は「貨幣論」で「通貨発行自由化論」を提唱した.IT技術で通貨をだれでも自由に発行して,競争させればよい,と.これは,さいきんのFinTechのことだ.さすが,インターネットによる「知識分散型社会」を「予言」したひとの頭脳は,おそるべき先見性がある.

サッチャー政権以来,ハイエクに学んだ英国は,とうとう「ユーロ圏にはいらない」ままEUからも脱退する.
その意味では,筋金入りのハイエク主義だ.
ドイツとフランスにしか有利でないEUの本質をみれば,島国の英国は離脱に有利な立地だ.
しかし,その英国にしてさいきん,ラテン語教育が一部の有名校でみなおされているというから,これは英国からみた「舫い綱」なのだろう.大陸とのあきらかな温度差がそれをしめす.

ひるがえってわが国は,教育委員会という官僚組織が存立理由をわすれた不始末をしながら,一方で,「超教育協会」が設立された.
協賛企業は300社ともいわれるように,かなり影響力がありそうな団体である.
こちらは,設立趣旨に,「第四次産業革命」がある.つまり,ITの専門家をどうするか?
それは,このブログでも書いた,「未来投資戦略2017」を踏襲しているということでもある.

「EU」をなんとか維持したいドイツ・フランス中心のヨーロッパが仕組む「ラテン語教育」に対して,わが国の英知とトップ企業が仕組む「IT教育」の対決だ.
ハイエクには悪いが,「ラテン語教育」の格調高さに,なんだか共感してしまう.
哲学ではなく「機能」に向いてしまうわが国の「薄さ」こそ,焦りの反映なのだろうか?

スエーデン元首相のカール・ビルト氏が寄稿した記事のような,知見を披露する政治家も,それをもとめる国民もいない日本は,これからどうなるのだろうと不安を感じるのはわたしだけではあるまい.

科学実験番組の過小演出

放送法改正の議論があったりなかったり,「地上波」という国民の財産を例によってもてあそぶ議論がかまびすしい.
「ラジオ」ができたときは,ラジオ受信機を持つことがステータスであったろうが,物理原理の「エントロピー」のように,かならず広がって「コモディティ化」するから,いまどきラジオが買えないひとはいない.

しかし,ラジオをいつでも買えるからといって,持っているかといえば,あんがいラジオを持っていないひともいるだろう.
あたりまえすぎると,とくに欲しくないし,そこから鳴ってくる音(これが欲しくてふつうはラジオを買う)に価値をみいださなければ,「不要」という結論になる.

まったくおなじことがテレビ受像機(NHK的には「テレビジョン」といったが,さいきんの劣化したNHKは「テレビ」という)にもおきた.
日本経済の不況を救おうと,かならず姑息なことをかんがえる政府は,家電の「リサイクル」を公式に「有料化」したうえ,買い換える理由をデジタル化でむりやり作り,さらに「エコポイント」で補助金をばらまいて,麻生政権から民主党政権も引き継いだ.

それで,なかば強制的な買い換えが一巡すると,おそるべきテレビ不況がやってきた.
こうして,政府の介入が経済に不都合をもたらすのだが,強欲な国民はもっとよこせと要求する.
ところが,財源がないから無い袖は振れないということで,メーカーは自主的にテレビを4Kから8Kへと「技術的進化」はさせたものの,番組(コンテンツ)の劣化がはげしいから,だれも観ないということになった.

「東芝劇場」や「ナショナル劇場」のように,メーカーが人気番組をつくってそれを観たいひとたちがテレビを買う,ということをしなくなったのは,つまらない番組ばかりをつくるNHKのせいだ,とはいえなくなったから困りものだ.

高額所得者がとくにテレビを観なくなったので,テレビの作り手がさぐったマーケット(視聴者)調査の結果から,かつて「ゴールデン」と呼ばれた時間帯にも,パチンコなどのギャンブルと消費者金融のCMが進出した.
これらの業界のCMは,かつては深夜帯だけにかぎられていたが,背に腹はかえられぬ.

それで,高額所得者がさらにテレビに嫌気をさすという負のスパイラルがうまれた.
地上波がアナログだろうがデジタルだろうがそんなていたらくだから,高額所得者はどうしているのかといえば,ネットの動画を好きなように検索して観ているか,定額払いを自ら申し込んでいるのだが,プライム会員なら無料という本当は有料のアマゾンTVが人気なようだ.これは,年会費を支払うと書籍の送料が無料になる,というサービスからスタートしたから,元々の会員からすれば,事実上無料にみえる.

つまり,視聴者は価値をみとめれば,「有料」でもいいとおもっているから,強制的に徴収されるNHK受信料の問題とは,「価値がない」とおもっているひとが払わない・払いたくない,という原点にいきつくのである.だから,NHKは,価値がある番組をつくって放送すれば,受信料の問題で悩むことはない.

そのむかしは,リーダーズダイジェストがアメリカ文化を紹介するメディアとして有力だった.
いまは,地上波ではやらない,アマゾンTVでアメリカの人気番組が事実上無料で視聴できるから,価値がある.
たとえば,リアルな社会派ドラマで人気をはくした「ホームランド」は,絶体に日本人の発想ではつくれないだろう.

そんななかで,地味だが興味深いのは科学実験番組「雑学サイエンス」である.
材料の意外性と科学という組合せで,一般人が素直に驚き感心する姿は,なかなか日本的でない.むしろ,日本の番組なら一本の実験だけで特番枠ぜんぶをつかいそうな大規模な実験を,ものの数分で終わらせ,つぎのテーマに移行することに驚く.
なんと贅沢な.

それにしても,この番組の進行役は英国人である.
アメリカで英国人が,ちょっと上から目線の言い回しで,「ほらね」とやる.
それで,ちょっと田舎くさいアメリカ人が感心するのだから,大英帝国も健在である.
実験前の予想選択肢に,「該当なし」があるのもよい.

英米人の発想が,大胆さと,日本なら過小演出になる淡泊さで表現されている.
そして、なにより,人間らしい人間が観客である.
こうしたひとたちが,日本を観光している,とおもうと,なるほどとおもうことがある.

「護衛艦いずも」をみにいってきた

6月1日は,横浜開港記念日だ.
むかしは仮装行列やバザーが同時におこなわれたが,いま仮装行列は5月のGW実施になったから,開港記念日にちなんでいるのかどうかわからなくなった.

この日,横浜市立の学校はぜんぶ休校になる.
それで,小学校の鼓笛隊で二回,仮装行列の中のひとになったことがある.
「スニーカー」がまだない時代,運動会では足袋を履くのがふつうで,ふだんは底のうすい運動靴しかなかった.

その靴で,4キロほどの行程を演奏しながら半日かけて歩くのは,けっこう難儀だった.
沿道は,運動会とおなじで,ゴザや新聞紙をひいて座ったひとたちが弁当をたべながら一杯やって見物していたから,目線と声援は下からやってきた.
貧しかったむかしは,沿道との一体感があった.

大桟橋にいくのは何年かぶりだが,あたらしく変なデザインになってからは一度もなじめない.
むかしは素っ気ないものだったが,土産物売店に往年の賑わいのなごりがあった.
小学校1年生の遠足が,大桟橋で,接岸していたキャンベラ号の船員さんに「ハロー!」と叫んだら,手を振ってくれた.客船の外国定期航路があった時代である.
明治のむかしのころの大桟橋を描いた絵が,桟橋の入口にある.
よくみると,いまと機能面での違いはないから,そんなものである.

わたしが通った小学校は高台にあった.
授業中だれかが「ビルが動いている!」と叫んで,先生をふくめ全員が窓に注目すると,横浜駅のデパートがほんとうに動いているようにみえて,教室は騒然となった.
それが,当時世界最大といわれた「クイーンエリザベスⅡ世号」の入港だった.
週末,大桟橋に行った.大きすぎてよくわからない.山下公園からみると,大桟橋がみえなかった.

わが国最大の「護衛艦いずも」は,設計時には将来も問題ないと専門家が太鼓判を押して,完成してすぐに世界最大級の客船がくぐれなくなくなったベイブリッジをくぐってきた.
そういえば,中学生のころ,遠足で横須賀の安針塚をハイキングしたら,高台の公園からちょうど入港中の米空母エンタープライズがよくみえた.

その大きさは,クイーンエリザベスⅡ世号の比ではなかった.
ひとはなぜか巨大なものに興奮する.
たまたま,入港に反対するひとたちが,おなじ公園からシュプレヒコールをあげていたが,われわれの歓声にいらだちを隠せなかったらしく,「君たち,ちがうだろう.かっこいいものではない!」と言ってきたのを思いだす.
興奮した子どもが集団で,「かっこいいものはかっこいい!」と言い返したのは言うまでもない.

すると,このおとなのなかの数人が,「たしかにこうしてみるとかっこいいなぁ」といったから,内輪もめがはじまった.
そのあと,どうなったかはしらない.
冷酷な子どもの集団は,注意してきたおとなに冷笑をあびせて立ち去ったからだ.

きっといるだろうと期待したら,JR関内駅で「空母入港反対!」というひとたちがいた.
「いずも」は,ヘリコプター空母だろうから,省略すれば「空母」になるが,表現としていかがなものか?
また,垂直離着戦闘機対応のための改造反対!とかも言っていた.

1時間待ちで,いずもに乗艦すると,その小ささに驚いた.
床は滑り止めのゴムのような特殊な塗料が塗られていたから,このままなら素人でも垂直離着戦闘機はムリだとおもう.ジェットエンジンの噴射で溶けてしまうだろう.
それなら,どんな改造で可能になるのか?
格納方法だけでなく,運用は?

海上自衛官候補募集のテントには,若者たちが座って説明をきいていた.
おそらく,少子化という問題は,すでに「定員」にたいしても深刻な影響をあたえているのだろう.
これは,「人口問題」だから,若年層の人手不足,として容赦なく,すべての職業にあてはまるから例外はない.

つまり,若者の争奪戦は,完全ゼロサム・ゲームである.
決められた数しかいないから,だれかが採用すれば,だれかが採用できない.
「官」だろうが「民」だろうが,総力をあげての争奪戦となる.
新人が入らない組織は,なくなるしかない.

自衛官とてその例外にないのだ.
だから,これまで以上に,市民に愛される自衛隊を強調した活動がさかんになるにちがいない.
今回の,横浜港入港も,その活動のひとつだろう.

出港は,本日6月3日午前10時である.
おそらく,行き先は横須賀だろうから,東京湾にいることに変わりはない.

こっくりさん

学校で「禁止」を命じられた遊びに「こっくりさん」があった.
必須の鳥居に,数字やひらがなの五十音表などを書いた紙の上に10円玉をおいて,三人以上の指を10円玉に置くと,勝手に10円玉がうごいて,さまざまな質問に回答するというものだ.
あんまり流行ったものだから,「経験者」はおおいだろう.

お狐様の「こっくりさん」が降霊するという触れこみだが,科学的に何故かというとさまざまな説があって,なかでも「潜在意識説」が有力なようである.
要は,参加者の「潜在意識」が,指に力を与えて10円玉を動かす,というものだが,本人たちは,力を入れるどころか,勝手に10円玉が動く,という感覚のほうが強いから,大流行した.

ふだん,力を入れるという感覚を意識しているとおもっているから,力を入れていないのにものが動く,ということにものすごく違和感がある.
しかし,逆に,力を入れようとしているのに,体がおもうように動かない,ということもある.
つまり,無意識のなかと意識のなかとでそれぞれに「動く・動かない」があって,ひとは自分の体をあんがいコントロールできないものだ.

お稽古事も,スポーツも,そのために練習・訓練するとかんがえれば,納得がいくものだ.
達人がさりげなくおこなう所作も,素人にはとてもではないが簡単にはできない.
狂言の「釣狐」は,その典型である.

さて,個人の世界から社会集団に転じると,社会にも「潜在意識」がある.
だから,個人と社会の中間にある,企業という集団にも潜在意識がある.
その潜在意識が,ある一点にあつまると,「こっくりさん」のように,勝手に動いてだれにもどうすることもできなくなることがあるし,ふだんではかんがえられない集中力を発揮することもある.

だから,有能な経営者は,従業員の潜在意識に対するすり込みを重視する.
それは,よいことをしている,社会に役立っている,ということだと,もっとも強いすり込みになる.
ここには,「金銭」である「損得」が入り込まない,という特徴がある.

日本人は,かつての「武士」の価値観が一般にまでひろがったため,むき出しの「金儲け」を嫌うどころか嫌悪する習性がある.
その最たるものが「役所」で,役所が有料でするサービスでは,「儲け」をいかに出さないか?に気をつかう.それで,赤字分は当然に税金で補填するから,結局は住人が負担している.このとき,そのサービスを享受しないひとも負担させられるから,「平等」とは難しいものだ.

ヤマト運輸をいまのヤマト運輸にした,故小倉昌男氏の「経営学」には,上述したすり込みの極意が記述されている.
「サービスが先,利益は後」というかんがえ方は,みごとに日本人の琴線に触れる.
これは,たいへん重要なことだ.

アフリカ諸国や,ラテン・アメリカ諸国では,なにを言っているのか理解されないかもしれない.
いわゆる「ぼったくり」というのは,その時々の価格交渉の結果,という理屈にたつと,あとで気づいた購入者がマヌケだったということになる.

なにかのTV番組で,わらしべ長者のごとく物々交換しながら旅をする,という企画ものがあった.
そこで,アフリカのとある国で,欧州で交換した高価な物品が,交渉の挙げ句,残念なものと交換した.それで,返してくれと再交渉したものの,応じてもらえないという場面があった.

あたかも,この強欲なアフリカ人が悪い,と感嘆役のタレントが言っていたが,そうではない.
世界はそんなものだし,いったん合意して契約したら,その取引は成立する.
だから,相手のアフリカ人からしたら,マヌケな日本人,という印象が深まるばかりだろう.
これを,日本人視聴者の潜在意識に訴求したから,いっきに下劣な企画に成り下がった.

「サービスが先,利益は後」の前に,だれもが納得する「適正価格で」をいえば,世界で通じる普遍的な価値観になるだろう.