わが国にとって最高の大統領だけど

「アベ一強」のほんとうの理由は、かつて、レーガン氏と中曽根氏が個人的関係を築けたように、トランプ氏ともプーチン氏とも個人的関係の構築に成功したからだろう。

わたしは安倍政権を防衛・外交いがいでそんなに評価しないが、このことは簡単に他人にできることではない。
逆にいえば、こうした首脳たちとの個人的関係があるからこそ、防衛・外交分野でそこそこの成果をだせるのである。

それで、東アジアにおける米国外交をささえる形ができたし、中国との「貿易戦争」によって、わが国に一目置くような変化が中国首脳にもみられることになった。

まさに、トランプ大統領は、アメリカ人にとってはしらないがわが国にとって過去最高の大統領、といえた。

発表されている「外交日程」をみれば、令和初の国賓は、5月にやってくるトランプ大統領だし、6月末には大阪でG20もあって、これにもトランプ大統領は参加する。

だから、この4月末に平成最後の日米首脳会談がワシントンであるのは、ずいぶんと回数の間隔がみじかいので、なにが話題なのだろうとおもったら、パンドラの箱をあけるようなはなしが飛び出した。

就任したばかりのトランプがオバマがやっていたしごとをちゃぶ台返しして、いっしょに「TTPはアメリカの陰謀だ」といっていたひとたちもすっ飛んでいった。
「TTP亡国論」は、もうすぐ文化遺産になるから、どこぞから特集して出版してほしいものだ。

しかたがないのでアメリカ抜きの11カ国ではじまったTTPに、わが国は戻ってきてくれるようにしたいのだろうが、トランプ氏の魂胆は二国間交渉にあった。

ここが、従来の延長でしかかんがえない官僚の限界で、ビジネスで鍛えられ成功したアメリカ大統領にはつうじない。

手順として、わが国の二倍になった経済規模の中国を先に締め上げて、白目をむいてギブアップをしそうな詰め段階にきたら、その次にでかいわが国に攻撃をしてきたのだから、まるでプロレスである。

わが国の基本姿勢は変化なしで、売りたい自動車の関税引き下げと、保護したい農業の関税維持、という「わざ」一本やり、なんとかの一つ覚えである。
これにたいして、大統領は、いきなり「農業」だけを貿易交渉のトップにあげたのだ。

わが国官僚は、農業における「維持」の基準は、TTPで決着済みとおもっていたから、この発言の破壊力ははかりしれない。
首相に随行する戦略なき奢りきった役人たちの頭脳が、まっ白になったのではないか?

「補助金」というものがいかがわしいものだというのは正しいが、農業保護を「関税」でおこなうというふるい手法に磨きがかかっているのが、ここでもガラパゴス化しているわが国である。

まるで、真空管で世界一だった東芝がトランジスタ時代になっても、真空管技術に固執して倒産危機をむかえたのににている。
世界はとっくに関税「ではなく」、補助金による農家の個別保障という制度に移行しているからだ。

「関税」方式では、国民全体が高い品物を買わなければならないからである。
すなわち、高いから買わないとか、買えない、という消費者の判断が、その品物の需要をへらして、そもそも輸入しなくなるところまでいく。

けれども、消費者からすれば、その品物本来の価格であれば、買っているのに、というのであれば、関税方式とは消費者の選択の自由をうばうやり方になるのである。

それよりも、消費者を守るためにも、輸入品から打撃をうける生産者に個別に補助する方式なら、消費者の選択の自由はまもられるのである。

どうして、わが国でこれができないのか?
関税方式にあるメリットとは、どんなものなのか?
それは、国の特殊法人や農業団体などが儲かる仕組みがきっちりとできているからだ。

つまり、利権、である。

だから、農業を保護するため、ということを隠れ蓑にして、じつはこうした利権を死守したいのである。

ネット販売なども独自にはじめて、高品質でがんばっている農家がたいへんなことになる、というはなしも、ウソではないが誇大妄想である。
ほんとうにたいへんなことになる農家は、そういう農家ではなく、農協に依存した専業ではない農家のほうなのだ。

わが国では、がんばっている農家がなかなかむくわれず、なんとなくやっている側に有利な状況がうまれている。

しかし、こんなことはアメリカ人だってしっている。
トランプというビジネスマンが、補助金をたっぷりもらっている農家の輸出をふやすために、どんな方法をいいだすのか?

もしかすると、わが国の農家保護の方策が、世界標準にならざるを得ないとしたら、じつは日本国民として、やっぱり最高の大統領になるのかもしれない。
わが国は、民主主義のはずなのに、政府と国民の利害が一致しない国になっている。

これを、外国から強制されないとできない国が、日本なのではあるけれど。

今日は平成最期の日、明日になっても、やっぱり外国から強制されないとできない国はつづく。

マグネシウムをたべる

ずいぶん前に「現代の栄養失調」というタイトルでかいたし、このブログではけっこうミネラルについてふれている。

国立がん研究センターの発表で、マグネシウムが注目されるようになっているから、くわしくはそちらで検索されることをおすすめする。

「ミネラル」というと「ミネラル・ウォーター」が連想されるほどに、日本人の生活に普及したのがボトル入りの「水」である。
「おいしい水道水」の普及があったから、わざわざお店で清涼飲料水ではなく、飲料水そのものを買うという発想があまりなかった。

「外国じゃ水道の水がまずくて飲めないらしいよ」
といって、日本にいることの幸せをかんじたものだ。

じっさい、エジプトのカイロでくらしていた35年前もいまも、彼の地の水道水をそのまま飲むのは、免疫力に自信がないと勇気がいる。
生活しているのだからと、着任後半年ほどしてから、多少の下痢はかくごして慣らしたけれど、観光旅行ならやめたほうがいい。

概して、地層の形成から、日本は石灰質の岩盤があまりないので、湧き水や井戸水にミネラルがはいっていない。
こうした水を「軟水」という。

反対に、欧州などの地層には大理石の産出があることでわかる、石灰質の岩盤があるから、カルシウムたっぷりのミネラル・ウォーターが湧いてくる。
こうした水を「硬水」とよんでいる。

それで、WHOは以下の基準をもうけている。
軟 水:硬度0~60未満
中軟水:硬度60~120未満
硬 水:硬度120~180未満
超硬水:硬度180以上

富士山の名前がついている日本の伝統的な「ミネラル・ウォーター」は、なんと硬度28という「軟水」であって、ミネラル・ウォーターといっているのに、ミネラルがあんまりはいっていない。

フランスの有名なミネラル・ウォーターは、硬度300をこえるものもあれば、軟水に分類されるものもあるから、表示で確認しないとわからない。

日本の水道水は、ほとんどが軟水だが、サンゴがある沖縄や鍾乳洞で有名な山口県では硬水なのが特徴だ。
ミネラルの多少が、酵母の活動に影響するから、酒や醤油づくりには、製品品質をきめる大事な要素になってくる。

さて、人間をふくめて、生命の起源をたどれば、海だったから、わたしたちの体内にも、海での生活のなごりがあることはしられている。
成分として、「塩(塩化ナトリウム)」がもっとも有名で、かつ、欠乏すると生命にかかわるから、宿敵どうしであっても「敵に塩をおくる」ことがある。

それに、カルシウムというミネラルも、骨や歯の主成分だから、不足するとこまったことになる。
そうやってかんがえると、マグネシウムは地味なミネラルである。

しかし、海水にふくまれるマグネシウムの量は莫大で、ほぼ無尽蔵という資源でもある。
だから、海からやってきたわれわれのからだには、マグネシウムは必須なのである。

人間もふくめた生命体の体内活動は、ほとんど無意識な化学反応である。
この化学反応を、スムーズに促進させるために「触媒」という役割の物質がさまざまに存在しているが、なかでもマグネシウムが、触媒として重要な役割をはたしているという。

その役割は、300とも700種類ともいわれる化学反応に関与しているというから、おどろきである。
だから、マグネシウムが不足すると、おもわぬ病気をひきおこすことがわかってきた。

がん、高血圧、糖尿病などがあげられているから、いいかたをかえれば「生活習慣病」そのものである。
それで、もしや「マグネシウム不足」が原因か?というはなしになってきているという。

マグネシウムを取り入れる方法はふたつ。
ひとつは、「食べる」ことである。
サプリではなく、食品からとりましょう、と推奨されている。
その食品とは、伝統的日本食におおいのも特徴だ。

蕎麦、海苔、ヒジキ、豆、雑穀、抹茶、ゴマ、ワカメ・昆布、青野菜、魚、椎茸、牡蠣、芋、トウモロコシ、果物。

なにげない食品にふくまれている。
それなのに、マグネシウム不足なのは、これらの「なにげない食品」を、そういえばあんまり口にしていない。

もうひとつの摂取方法は、入浴。
マグネシウムがはいっている入浴剤で、皮膚からとりいれる。
なるほど、むかしの海水浴の意味がわかる気がするではないか。

すると、これは、いがいと宿泊施設で応用できそうだ。

「マグネシウム摂取プラン」というアイデアになる。

なお、豆腐をつくるときの「にがり(塩化マグネシウム)」をそのまま飲む、というのは危険だという見解がある。
タンパク質を凝固させる作用があるから、そのまま大量に飲むと、内臓のタンパク質が硬化するからだというし、腎臓病患者には御法度だ。

伝統食の見直しは、地域観光の要であるから、やはり食品を料理してさしあげるのがよろしかろう。

「喧嘩」ができない

官僚主義という役割分担を重んじる価値感が、ほんらいの「効率性」を達成したかにみえた誤解、あるいは勘違いから、じぶんのことである、というリアリティをうばって、とうとう巨大な無責任をつくりだす。

じぶんの担当以外のものやことに、無関心でいられる鈍感さをそだてるからである。
これが、国家をつねに真似る民間企業にまん延して、とうとう家庭にまではいりこんだ。

わたしは、いまようのジェンダー主義者ではないし、むかしの「家」制度をなつかしむものでもない。ここでいう家庭内での官僚主義とは、家父長制をさすのではなく、家族のなかでの個人間としての無関心をいう。

家族内ですら、なのだから、ご近所もおなじで、それがどんどんひろがって、国という枠にまで無関心がひろがるのである。
身近な例でいえば、ほんらいは日本独特の「善意」からスタートしたはずの「民生委員」が、地域住人の重い負担になっていることもあげられる。

行政からの業務範囲のおしつけと、お世話する家庭の事情の変化、それに知りえた情報の厳しい守秘義務の遵守要請は、「善意」だけでは受けきれないし、専業主婦が壊滅して、業務をおこなう時間すら制約になってきたのは、主婦や高齢者をパート労働にかりたてる政府の政策と完全に矛盾している。

「縦割り」という役割分担の無責任がうんだ、制度疲労のひとつである。

ところが、こんな問題すら「選挙」の公約にあげるものがいないのが、地元議会の議員選挙というありさまで、まるで国政レベルのはなしか、単なる名前の連呼になっている。

そのおかげで、放送法一本の「ワン・イシュー」の政党が、ずいぶんと勝利した。
だれでもいい、どーでもいい、という有権者の無責任は、選択肢を提供されないという不満からと、世間への無関心が掛けあわさってうまれる。

本来の目的は、放送法の改正と巨大な公共放送をどうするのか?ということだから、地方議員になる意味が不明ではあるが、存在の「売名」ができないと国政選挙ではたたかえないという理屈だ。

このひとたちは、現行法の放送法でさだめる視聴料を支払っていないと公言しているから、違法状態をみとめている。
すなわち、わが国は、違法行為をしているひとたちが公然と政党をたちあげて、地方と言えども議席を得るという「モラル崩壊」がはじまっている。

これは、一種の「非合法政党」ではないか?
それに、国民受けするテーマをたくさん並べて「できっこない」を連想させるよりわかりやすい。
こうして政権を奪取した事例は、ナチスである。

このひとたちが、ただしい「喧嘩」のやりかたをしっているとしたら、あんがい巨大勢力になる可能性がある。
それでか、選挙後、地上波に出演した党首は、自分たちのイシューが達成できたら解党すると発言していた。

おそらく、別のイシューをかかげて、そっくりそのままあたらしい政党に看板をかけかえるのだろう。

すると、じつは有権者の側が、こうした手法についての予備知識をもっていなければならないのだが、この国の「民主主義」には、これをひろくおしえるという発想がない。

つまり、もっといえば、「喧嘩の仕方」をおしえない。

以前書いた「韓国発の英語教育革命」をひとりでやっているひとの言語と国民性の解説に、言語学習の前にその国の国民性をしるべきだというもっともな主張がある。

日本の学校で、英語をおしえない学校はないが、アメリカやイギリスの国民性をおしえているとは、寡聞にして聴かない。
彼女曰く、日本人はへりくだり。
韓国人は、せっかち。
英語を母国語にしているひとたちは、じぶん中心。

じぶんのことを「I(アイ)」としか表現できない言語であって、しかも、かならず主語が最初にないといけないルールだから、名前だってじぶんの名前が先で、所属する家の苗字があとになる徹底ぶりなのだ。

ついでにいえば、日本の学校で「アメリカ」という国のなりたちをおしえない。
最重要同盟国の相手がどんなふうにできているのかをしらないで、わが国の価値感だけでいろいろいうのは変だと気づかないのは、やっぱり変だ。

そんな彼らは、学校でさらに、議論の仕方をおそわる。
それが、ディベートだ。
あるテーマについて、賛成派と反対派にわかれて、あいてをねじこめる議論の方法をたたき込まれる。

じぶんの意志が賛成か反対かに関係なく、役割としてあたえられる。
日本では「論理力」が注視されているが、そんな「へりくだり」は無用で、たんに「喧嘩の仕方」をおしえているのである。

子ども時分からこれをおそわる国民の言語が、自分中心なのだから、どんなお国柄になるかは自明であろう。

日本では外交は外務省という役所がおこなうことになっている。
しかし、国民の参加意識がけっきょくは「外交力」となる。
外交の延長線上に軍事があって、その先に戦争があるとかんがえるのは世界の常識だ。

そんなわけで、国民意識が希薄な国の外交が「弱腰」になるのは当然で、国家間の「喧嘩」であるまともな外交ができるわけがない。
外務省の官僚がダメなのはあたりまえだが、それを叱りつける国民意識がなければ、官僚たちは国を売ろうがほおかぶりするばかりとなる。

そうやって、喧嘩の強い国に収奪されて、国民が貧乏になるのも因果応報なのである。

書店がきえる

またひとつ、近所の書店が閉店になった。

たしかに、近年、書店にいく機会がめっきりへったとはいうものの、なくなるのはこまるから、消費者とはわがままなものである。

アマゾンでの本の購入は、新刊だけでなく古書もある。
しかし、時間があるとき、散歩がてらに古本屋に寄るのが、あんがいたのしいのは、ほう、という発見のよろこびがあるからだ。

検索には、パッシブな検索とアクティブな検索の二種類がある。
潜水艦でいう、パッシブソナーとアクティブソナーとおなじだ。
パッシブは、むこうからやってくる情報をとらえることで、アクティブとは、じぶんからとりにいくことである。

だから、ネットでの検索は、基本的にアクティブで、書店での検索はパッシブになる。
ぶらぶらと書店を歩きまわるだけで、めずらしい本をみつけることができるのは、まさに「ならでは」だ。

ネット書店を猟歩しても、リアル書店のような「発見」はむずかしい。
それで、わるい消費者は、リアル書店で見つけた本をネット書店に注文したりして、リアル書店の売上に貢献しない。

そんなわけで、リアル書店の営業がたちいかなくなって、けっきょく不便を被ることになったのは、消費者の自業自得だろう。

いっぽうで、書店側はどうなのか?
世界をみわたすと、「美しい書店」というかんがえかたがある。
これらの画像や映像をみると、行ってみたい、という衝動がうまれる。
もちろん、そこで売っている本を読むためのじぶんの語学力は無視してだ。

そして、おそらく、なにが書いてあるかはわからないけど、「美しい『本』」をみつければ、購入するだろうじぶんが容易に想像できる。
つまり、書店が「観光地」になる、ということであって、そこで売られている「本」が、観光みやげになる、ということを意味する。

ただ本を並べれば「書店」なのか?
それは、ただ魚を並べれば「魚屋」なのか?
ただ野菜を並べれば「八百屋」なのか?という問いとおなじだ。

日本が貧しかったころ、ということなのだが、じつは、ついさいきんまで「貧しかった」のだ。
戦後の混乱期は圧倒的な「物不足」を経験していたし、そもそも、その前からふつうに「物不足」だった。

石油ショックのときは、まだ新規の珍しさがのこっていたスーパーマーケットに、トイレットペーパーをもとめる混乱があったのも、「物不足」経験からの反動だし、東日本大震災のときのコンビニから商品が消えた状態もおなじ心理からだった。

なんのことはない、あいかわらず、貧しいのであって、わざわざむかしを思いださなくても、こころのかたすみにDNAのように、しみわたっているのが日本人なのだ。

公共放送が「買いだめをするな」とよそ行きのことばで連呼しても、だれも聴かないのは、上の発想がきえないからだし、ことばだけの公共放送の無責任をしっているからである。

だから、「もの」にこだわる。
「ものづくり」の「もの」もおなじだ。
作り手もそうだが、売り手の商店だって、「もの」を売っていると信じている。

それで、品揃えが豊富でないといけない、という発想になる。
神田の古本屋が「専門化」しているのに、新刊書は百花繚乱の店づくりになっていて、各コーナーの専門ですら深くない。
売れ筋の取捨選択がそうさせるのだろう。

「本屋大賞」も、本屋がじぶんで読んで掘り出し物の作品を紹介したかったのだろうが、ジャンルがせまくて魅力に欠けるから、売れている本とおなじになって、なんだか全体がうすまった。

古書店には、所轄警察から「古物商」の許可をもらわないといけないから、新刊書の本屋とちがう。
新刊書には、再販制度という特権があって、売れ残りは取次に返品ができるようになっている。

一見、書店のリスクがないし、そのぶん、あんまり売れそうにない本もとりあえず出版できる。
しかし、流通取引での競争がないから、業界が硬直化してしまうのは、必然的なことである。

そこに、アメリカから「アマゾン」がやってきたわけだ。
書籍という商品が、「通販」で市場をかくも荒らされるとは、だれもおもわなかったのではないか?

これに、「グーグル」もくわわって、アマゾン対グーグルという奇妙な戦いになっている。
アマゾンは「ネット通販」が本業で、グーグルは「ネット広告」が本業だからである。

つまり、書店という「もの」をあつかう商売が、べつの商売に翻弄されてしまったのは、制度のぬるま湯に浸かったまま、じぶんたちは何者かをわすれた結果だともいえる。

「美しい書店」しか、生きのこれないのか?
しかし、そこには「美しい本」がなければならない。
けだし、ただそこに「本」がある、だけではもう成りたたない。

消費者が欲する本はどんなものか?
時代は、「あなたへのおすすめ」の精度を、アマゾンとグーグルが競争しているのである。

すなわち、アクティブからパッシブへの転換がとっくにはじまっているということだ。
「本」を売っているというかんがえと、消費者が「買っている」ものがちがうのである。

消費者は、じぶんの知見がふえることを買っているのだ。
「本屋」は「本」を売っているとかんがえてはいけないのである。

「時代」をつくる世代とは

いつでも、現役のバリバリと指導者が組んで時代をつくる。
キーになるのは、指導・管理する世代がじっさいに時代をつくっていることだ。
それは、かつて若さとバイタリティーで、上司をものともせずバリバリはたらいていた世代が、指導・管理しているからである。

そういう意味で,「時代」は「生命」に似ている。
わたしたちの細胞は、じつは毎日のようにあたらしい細胞がふるい細胞と入れ替わって、数ヶ月で完全に入れ替わる活動をしている。
髪の毛も、歯も、内臓も、すべてあたらしい細胞にコピーされているのである。

白髪は白髪のままに、虫歯も虫歯のままに、コピーされるから、入れ替わっているという実感はない。
しかし、これは間違いのない事実なのである。

さらに、食物として体内に取りこんだ物質を、「消化」というエネルギー変換をおこなって、分子レベルで吸収し、体内での化学反応によって分子レベルでの不要物質だけを排泄している。

したがって、福岡伸一博士によれば、生命とは「エネルギーの流れである」という定義になる。
だから、このエネルギーの流れが停止し、細胞の活動が停止した状態を「死」というのである。

個体としての人間があつまって、集団をつくると、社会がうまれる。
社会の細胞は、個々の人間であるが、さだめられた寿命によって、ふるい人間とあたらしい人間が入れ替わっている。

これを、「学校」というくくりでみれば、小学校6年、中・高3年とは、厳しい「定年制」が実施されているともいえる。
ことしの新入生も、いつしか卒業するから、たえず学校は人間という細胞が入れ替わっていながらも、あたかもおなじ姿をしているように見える。

企業組織もまったくおなじだ。
組織を構成する人間は、人生の大半をこの組織のなかにうずめて、生計をたてるが、やがては組織から引退することになる。

だから、引退手前の「頂点」のときに、指導者の地位をあたえられたひとたちが、そのひとたちの人生経験にもとづく「時代特性」があらわれて、それをおおくのひとがたんに「時代」とよぶのである。
天才・中島みゆきの「時代」における歌詞は、まさに以上のことをあらわしているから「すごい」のである。

「高度成長期の」昭和をつくったのは、明治の気骨だった。
財界をけん引していた、文字通りの財界総理は、石坂泰三氏そのひとだ。
明治19年(1886年)生まれにして、経団連会長だったのは昭和31年(1956年)から昭和43年(1968年)だ。
なお、昭和50年(1975年)に鬼籍にはいっている。

わたしがおもう最後の財界人、土光敏夫氏は、10年おくれて明治29年生まれ、昭和49年(1974年)から昭和55年(1980年)まで経団連会長をつとめ、第二次臨時行政調査会会長になったのが翌年の1981年だった。

石坂が30歳になるのが大正5年(1916年)、土光が1926年(大正15年・昭和元年)である。
敗戦の昭和20年(1945年)は、石坂59歳、土光49歳だ。

厚労省が発表している平均寿命で、もっともふるい昭和22年では、男50.06歳、女53.96歳だ。
「平均」のこわさをしったうえで、石坂と土光はすでに「長命」の部類に入る。

石坂は昭和13年に第一生命の社長になっているから、52歳のことだし、土光は昭和21年に石川島芝浦タービンの社長になったが、それは50歳のときだった。

いまでも、50歳のはじめで大企業の社長になるひとがいるから、寿命を無視しても、このひとたちが「時代をつくっている」のである。
いま本人たちに、その意識があるかどうか、はわからないから残念な時代ではある。

すると、30年でおわる「平成」の時代をつくったひとたちとは、ざっくり50年を引き算すると生まれ年がわかる。
つまり、まちがいなく「昭和」になるのだ。

すると、平成元年は昭和64年だったから、昭和10年代(よくいう昭和フタけた)生まれのひとたちによって、平成がつくられたことになる。
すなわち、戦争孤児や「ギブミーチョコレート」世代であって、教科書が墨で塗られた心神に傷を負わされた世代でもあるのだ。

そしてなによりも、あのバブル期を組織の指導者として仕切ったひとたちである。
わたしは、平成の停滞とは、このひとたちの人生や経験といったレベルまでさかのぼってかんがえないといけないとおもっている。

つまり、社会に出たときは高度成長に「なっていた」ので、それに便乗した世代でもある。
そういう意味で、ラッキーでもあり、経済は拡大するものと信じたひとたちだ。

これが、国家依存という弱い精神を呼びこんだのではないか?

「令和」とて、昭和からのがれることがしばらくはできない。
しかし、「令和」の途中で、「平成」世代がでてくることになる。

さて、バブル崩壊以降にうまれた平成世代は、浮かれた景気をいちども経験したことがないという特徴がある。
このひとたちは、アンチ昭和をただしく導くことができるのか?

「哲学」が問われる時代をむかえている。
ところが、1980年代からはじまる30年にわたる「ゆとり教育」世代でもあるのだ。

この世代をつくったおとなたちは、どの世代なのか?

もはや祈るしかない。

経済同友会はだいじょうぶか?

昨日、経済同友会代表幹事の小林喜光三菱ケミカルホールディングス取締役社長兼三菱化学取締役会長兼地球快適化インスティテュート取締役社長が、消費税率は14~17%まで引き上げないと国の(財政再建)目標は達成できないと述べたという報道があった。

このひとはもともと、化学人である。
三菱化成に入社した翌年に、東京大学から理学博士号をうけている。
それで、放射性物質の反応がすすむ福島原発をかかえた東京電力や、どうにもならないジャパンディスプレイの社外取締役も引き受けたのだろう。

冒頭の報道は、政府というフラスコのなかで、財政をおさめる反応には増税でのおカネを投下しないと、ちゃんといかないと発想しているのだろうとかんたんに予測がつく。

だが、この「実験」には、化学実験とことなる条件があって、それは、政府のコストをコントロールする政治の可能性をいう。
つまり、完全成り行きベースなら、財政再建にはおカネがいるといいたかったはずだ。

そんな政府よりのトンデモ発言をしていいのか?
と、経済評論家の百家争鳴議論はつづくだろう。

ジャパンディスプレイは、「中・台」の会社にバルクで売却されるのがきまったから、損は確定した。
しかし、問題は東京電力である。
福島の処理にいくらかかるのか?

そこで、おもいきり穿った視線で書いてみる。

2016年に経産省は、11兆円が22兆円になるとの試算結果を発表している。
この内訳として、廃炉費用が2兆円から8兆円になるといったのだ。

ところが、トリチウムの汚染水がたっぷりでてきていて、原発周辺がタンクだらけの状況で、間に合わない分は海に棄てるはなしまであったのはこの間のことだ。
もちろん、地元自治体と漁協関係者が、納得するはずがない。

外国も納得していないと、この間のブログで書いたし、じっさい韓国はふたたび「輸入拒否」を表明している。

それで、この処理をどうするのかというときに、画期的技術がないから、「ふげん」で開発された技術をつかえば、1トンあたり2000万円なので、すぐに兆単位の増加が計算できる。

わたしは、とある講演で国立大学の原子力技術の専門家である教授が、「わからない」けど「ざっと70兆円」というはなしを聴いたことがある。

じつは、この「わからない」には、金額の見積もりだけでなく、時間もふくまれていて、おなじ教授が「おおむね最低1000年」と発言した。
だいたい百年単位であたらしい技術が確立されるはずだから、1000年でも10回しかあたらしい技術に期待できない。

となると、1000年で70兆円なら、一年でいくらなのか?
とはいかないから、現在をもって、はっきりわからない、というのがほんとうなのだ。

むしろ、科学を志望する学生を、原子力事故の後始末というしごとに、1000年間ものあいだ人材をたやさずに供給できるのか?
それは、どんな仕組みで可能なのか?さえも、見当がつかない。
「源氏物語」は、1000年間読み継がれてきたが、ことはリアルな事故処理なのだ。

だから、きっと小林喜光氏は、化学人としての矜持をかけて、まずはおカネがかかるから、消費税の増税はすくなくても年金や医療費につかうのではなくて、事故処理に必要なのだと主張したにちがいないとかんがえる。

つらいのは、ここで述べた事実を、こわくてだれも言わないから、ただ「増税容認発言をした」という、部分を切り取っただけのはなしになってしまい、きっと労働界や消費者からも反発をうけることになるのが歴然だからだ。

「今日の事故現場」という報道などだれもしないし、「風評被害」になるといってむしろ遠ざけるのだろう。
中途半端な知識しか国民にあたえず、溶け出した「デブリ」を取りだす作業がうんぬんという報道も、わかったようなわからないような。

そもそも、放射能たっぷりの「デブリ」を取りだしてなにがしたいのか?
ひとが近づくことも触ることもできっこない。
それで、「廃炉」が進んでいる、とでもいいたいのなら、国民は「1000年」をどうやって耐えるのか?

わたしたちは、そういう国に住んでいるのである。

ダチョウは敵から逃れて、もうだめだと判断したら、すさまじいはやさであのちいさな「頭」だけがかくれる穴を掘って、そこに頭をいれて敵がどこかに行くことを待つという。
もちろん、敵がそれでダチョウを見失う可能性などありはしない。

見えなくなれば、こわくない。
一瞬の平穏ののち、このダチョウはエサになる。

わたしたちは、ダチョウになってしまったのか?

経済同友会は、この深遠なる代表幹事の発言を、ダチョウとしてではなく、人間として受けとめられるのだろうか?
おそらく、ダチョウの会員もいるだろうが、ぜひとも「だいじょうぶ」なすがたで、つぎは国民をダチョウから人間にもどしてもらいたいものだ。

経団連と政治という化学反応がとまってしまった国の、せめてもの希望が経済同友会である。

通信各社は反NHK議員をそだてるか?

悪法もまた法なり

最高裁判所は、NHK受信料についてのボールを国会に投げつけている。
しかし、おそろしく停滞しているわが国の立法府は、知らぬ存ぜぬでほおかぶりをきめこんでいるようだ。

先般の、ワンセグ放送にかかわる受信料発生の確定判決は、従来のNHK受信料支払いに疑問をいだいていなかったひとたちも、「なんだ?」とおもったらしい。
それで、ワンセグ放送を観ることが「できない」スマホが、いちやく注目をあびるようになった。

いわゆる「寝た子を起こす」判決になった。
すなわち、最高裁判所は、惰眠を貪っている国民を覚醒させようとしているのだとかんがえれば、民主主義国家なら、かならず選挙で争点になるはずの問題になると期待しているのだろう。

じっさいに、ずいぶんまえから元NHK職員だったひとが、受信料反対をうったえて、選挙にでていた。
この春の統一地方選挙で、彼の主張に賛同するひとたちが、出馬して、おもいのほか善戦しているのは、ちいさな「風」が吹いたともいえる。

ネット上で、各キャリアのスマホのうち、どの機種がワンセグに「対応していないか」が特集されるのは、機能はつけるもの、というわが国総合家電メーカーが常識としていた「セオリー」の完全否定が、あからさまにはじまった、ともいえる。

善良なる日本国民のおおくは、そんなに重要ではない、ただ付加されてしまっているこの機能が欲しくて機種を選定していたわけではないだろうから、じぶんがその機種を所有している「だけ」で、いつかNHKから請求が、しかも、購入時から訴求してくるかもしれないという「気持ち悪さ」にがまんができない。

もちろん、これは、いまどきのカーナビもおなじだから、どうしても必要な機能だと認識できなければ、わざわざ選択することもないのだが、なぜかもはやワンセグ放送の受信機能がない最新型カーナビを選べないという無理もある。

法人なら、従業員に配付している業務用スマホや社用車のカーナビについて、受信料を負債計上すべき事態なのに、国会でのガン無視はどうなっているのか?

これも、ほんとうはいらない機能を強制的に付加して、消費者に高単価で買わせようという、押し売りの果ての事態である。
メイドインジャパンとは、「消費者がもとめる上質を販売している」というのは、この意味ではとっくに「ウソ」になった。

だから、日本人の消費者は、単機能でも「上質」とみとめるなら、製造国にかかわらず、気に入った製品を購入する。
70年代のアメリカ人が、自国のテレビを買わなくてもぜんぜん気にしなかったことが、ようやくわが国でもはじまった。

しかし、だれでもしっているアイフォンやアイポッドは、もはやどの国製なのかなどの表記すらない時代だから、「メイドインジャパン」にこだわる、というのは、もはや時代遅れですらある。

経産省という役所が、この時代遅れの推進エンジンになっているのは、滑稽であり、国税を大量投下するのは国民にはおおいに迷惑な存在である。
どんなにおおきな失敗をして、損失の大穴をあけても、だれもおとがめがなく、減給すらされないのは、ふつうの民主主義国家なら許されない弛緩した状態だ。

だから、わが国はふつうの民主主義国家ではない。

NHKの受信料問題とは、この国の「伝統」になっている、国家総動員体制の一部にすぎない。

この、国家総動員体制とは、べつのいいかたをすれば、「戦時体制」のことである。

この「平時」に、戦時体制をつらぬいているのが、じつはわが国であるから、周辺国もいっしょに戦時体制をつらぬいているともかんがえられる。
周辺国がわが国を名指しして「軍国主義の復活を懸念する」などというのは、一部に認識のまちがいがある。

「復活」ではなく、「そのまんま」なのだ。

そんなわけで、あとだしじゃんけん状態になったワンセグ受信機能がついている機器の普及という事態での、受信料請求、という社会負担の無慈悲な増加は、戦時体制そのまんま状態打破の「蟻の一穴」になるかもしれない。

わが国通信業界の世界から乖離したガラパゴス状態とは、通信キャリアが機器メーカーを支配する構造にある。
マッチポンプのわが国総務省は、「見た目で」世界標準になるように、simフリー化を促すが、上記の構造にてはださない。

通信キャリアにとって、ワンセグ受信機能は果たして必須なのか?
むしろ、もはや通信業界のガラパゴス化によって、世界市場で壊滅状態になった端末製造事業を、どうするのか?に、例によって経産省さまがちょっかいをだして、よせばいいのに、液晶パネルや集積回路の失敗をくりかえすのか?

もはや、外国なかんずく中国製造業のための経産省になっている。
日本企業や技術を保護するという大義名分で、そのじつ外国企業に買いたたかれて、激安販売をしているのが経産省の「商売」になった。

ならば、議員をそだてるしか、生存の方法はないではないか。
ただし、それでも国家に依存したい、ならべつである。

被害しか被らない国民に、もはやリスクはない。
だまっていてもリスクがあるなら、投票行動してやる。

それが、統一地方選挙のちいさな「風」だったのだろう。
もしや「嵐」になるかもしれない。

過小報道の港湾ストライキ

ストライキが実施されることじたいが珍しくなったいま、ほとんど報道されないのはどうしたわけか?
しかも、22年ぶりという港湾ストライキは、長びいているから国民生活に影響がないはずはないのにだ。

ついうっかりすると,わたしたちは「島国」にすんでいることを忘れて、なんでも自給自足している錯覚におちいることがある。
簡単にいえば、わたしたちの生活物資のほとんどが、海のうえを船でやってくるのである。

「1000年間お祈りしたら、石油がでた」と、アラブ人がいっていた。
油田の探索技術と掘削技術の二つの技術がたいそう進化して、中東アラブの独壇場だった「油田地帯」が、地球上に分散してみつかった。

それでもなお、中東周辺で不穏なうごきがあると、原油価格が高騰するのはかわらない。
その原油をのせたタンカーが日本をめざすには、マラッカ海峡をすり抜けてくるしかない。

そのあとの海域の珊瑚礁を埋めたてて、領有権をいいだした国が困りものだとおもうのは、なにも日本人だけではない。
それを、「はるか遠い場所でのことだから日本には関係ない」といいはなって、訂正・撤回もしないひとが衆議院の予算委員長をつとめている。

スキャンダルで与党を責め立てるのが存立基盤になった野党のひとたちは、この発言を問題にしないから、なにをしたいのかその不純な怪しさだけが国民にインプットされるばかりだ。

しかし、与党とて、このような人物を要職に就けるのだから、なにを基幹価値としているのか怪しいのである。
そんなわけで、地方選挙で野党が勝って与党が負けても、大勢には影響ないから、国民はまんざらバカではない。

さて、マラッカ海峡を無事にすり抜けたなら、わが国を直前に、台湾海峡をすり抜けなければならない。
地図で見れば、なにもわざわざ狭くて大陸にちかい側を通らずともよさそうにおもえるが、そうは問屋が卸さない。

台湾という島の、東側、すなわち太平洋の荒波は「荒波」なんてものではない。
悪魔が宿る「三角波」のメッカで、とても危険で航行できない。
それが、中台関係に米日がからむ「台湾海峡」なのである。

だから、台湾海峡がもしも「封鎖」という事態になると、その北側に位置する港はどこも、東南アジア・中東・アフリカ・ヨーロッパ方面からの物資が遮断されることになる。
そこには、上海も、韓国も、極東ロシアもふくまれる。

当時のアメリカ人の青年トラックドライバーが、港での荷役作業にうんざりして、「コンテナ」を発明した。
おなじ規格の「箱」を運べばいい、と。
それなら、陸も海もそのまま運べて、荷役作業が機械化できる。

アメリカ政府(州政府だった)の役人は、この青年のアイデアを実現するのに奔走して、国内での実験をやった。
これはいける。

アメリカ人が立派なのは、それを「州」のものにせず、すぐさま民間に「どうやればいける」のかや、「実験での課題」を公開して、投資をうながしたのである。

日本では、港湾の整備は「自治体」のしごとだったが、県境や市境という「境界」で、管轄が分かれてしまって効率がすこぶるわるい。
もちろん、こうした制度をつくったのは「国」だから、アメリカ政府のように民間にわたすのか、とおもいきや、その真逆をいく。

つまり、国家管轄という、もっとも効率がわるい方法がえらばれたのである。
それで、横浜港、川崎港、横須賀港は、国土交通省関東整備局京浜港湾事務所がうけもっている。

ほんとうは、東京港と千葉港も一緒にしたかったのだが、東京都港湾局の猛烈な反対で頓挫した。

横須賀港は、いまでも軍港の色が濃い。
それで、横浜と川崎の港をみわたせば、目立つのはコンテナばかりである。

ベイブリッジの東京側から横浜側の左手には、灯台型をした「横浜港シンボルタワー」なるものが立っている。
ここへは、市営バスでもいけるが、内部は展望台になっている。
すぐ隣のコンテナヤードでの荷役作業をながめていると、時間を忘れる。

キリンのようなガントリー・クレーン、コンテナをそのまま夾んでうごかす特殊車両、それに大型トレーラーが、お行儀よく順番待ちをしている。
どの箱をどの順番で、どの位置におさめるのか?
いまでは、コンピューターが三次元での処理をする。

それで、ストをしているのはこうした「大手」さんの従業員だ。
需要がなくならないばら積みや、はしけをもちいた運搬方法の会社では、労働組合がないからストはない。

これが、もしやニュースにならない事情かもしれない。

従業員に本当のことがいえない

業績がふるわない企業ほど、従業員に業績発表をしない。
けれど従業員も、興味がない、から気にしない。
なぜ従業員が興味をうしなったのか?
いわれたことだけをやればいい会社だから、余計なことに興味を失っている。

会社の業績が従業員にとって「余計なこと」になったら、将来の業績の回復も見込めない。
もし、業績が回復しそうだとなっても、これらの従業員はけっして喜ばない。
「ああ、仕事がふえる」としかかんがえないからである。

もちろん、従業員に業績発表をしない会社なら、資本関係がない取引先にもおしえない。
それどころか、「秘密」あつかいにしていることだろう。

しかし、世の中のおカネをむかし「御足(おあし)」とよんだように、足がはえて勝手に歩きまわるような感覚があった。
経済は、連動しているのだから、「御足」といういいかたは、経済を適確にとらえた言葉遣いである。

だから、取引先は、入金だけでなく、自社が納入している物品の量と質をみれば、相手先がどんな状況かは把握できる。

これは、政府統計という巨大なデータでもおなじで、信用できない巨大な隣国政府の統計だって、「輸入」の量と金額はごまかせないのとおなじである。
輸出した元の国々の情報から、全体像がうかびあがるからだ。

そんなわけで、二流以下の経営者は、取引先からながれる正確な情報に、自社から「秘密」が漏れていると疑い、とうぜんに嫌疑を従業員に向ける。
こうして、人間関係まで崩れれば、組織の崩壊は目前となる。

業績の良し悪しにかかわらず、ちゃんとした経営者は業績発表に躊躇はない。
業績発表は、ある意味経営者の通信簿だというが、たとえオール1でも、恥を忍んで発表し、次期以降のバネとする。

納入業者もつかう従業員出入り口に、毎月の業績と将来予測を張り出すホテルがあった。
そこでは、パートさんも時間中に招集して、業績の「紙のみかた」をレクチャーし、どうしたらよくなるのかアイデアを募集すると公表もした。

どんなアイデアでも出したひとには金一封、そのアイデアが採用されたひとには表彰制度をもうけた。
それで、まずは「他人ごと」を排除したのだ。

すると、このはなしが取引先にも「漏れ」て、取引先からもアイデアがでてきた。
シーズン前に、地元名物の一次産品を集めたフェアをやるという「おふれ」をだして、あたらしい取引先まであらわれた。

さて、そうかんがえると、よくいう「情報の共有化」が、どれほど実務に役立つかの両極のはなしが上述のとおりである。
しかし、世の中には、まん中の事例もあるのだ。

現在の業績がそこそこ好調でも、「情報をださない」という爆弾をかかえている事がある。

なかでもそれが、就業規則や賞罰規定にかかわることだと、事あるばあいに示しがつかなくなることは容易に想像ができる。
にもかかわらず、これらの情報を従業員に提供しないのには、「中小企業」の甘えの構造がみてとれる。

従業員をもって一家を成す、という「家族主義」は、日本人のこころの琴線にふれる感涙主義でもあるのだが、うらをかえせば「なぁなぁ」なのである。

政治の世界なら、桂園時代という一時代がはるかむかしにあったものだ。
桂太郎と西園寺公望が、交互に総理大臣をつとめた時代をいう。
桂は陸軍出身で大将にのぼりつめたひとだったが、「ニコポン」というあだ名があった。

ニコッと笑って相手の肩をポンとたたく。
「頼んだよ、よろしく」という合図であって、けっして言葉にはしない。
それで、ことがなった時代だけど、いまでもあんがいかわらない。
言ってないから「忖度」ということになるからだ。

いわゆる「家長」としての社長が、わるいようにしない、と家族である従業員に約束すれば、それでよしとしたからで、あからさまに文句をいうなら、文句をいうほうが悪者あつかいされたのだ。

しかし、いまは、典型的な「家長」としてパターナリズムの権化だった、医師までもが、患者から「セカンドオピニオン」を請求されたらことわれないし、治療方針についてのわかりやすい説明と患者の同意である「インフォームドコンセント」が普及してしまった。

ならば、会社だって役所だって、ききたいことは確認する、というあたりまえがあたりまえになった。
それで、先回りして「説明責任」をはたすほうへ行くひとと、何もなかったかのようにするひととにわかれたのだ。

それで、後者たちは、ついに従業員から質問されることをこころのなかで「痛い」と感じるようになった。
そんなわけで、こわくて本当のことがいえないのである。

これは、父権の喪失ということとおなじで、「家長」の立場放棄なのである。

業績のよい会社ほど、傷が深くなる。

円満ではない円満家庭

「ポスト『団塊の世代』」である、さいきんの家庭の特徴を「円満家庭」という。
べつのいいかたをすれば、「ゆるい家庭」のことである。
よくいわれる、「理想の親子関係は友達のような関係」に象徴されている。

ことし2月に亡くなった、堺屋太一氏の通産官僚時代の作品が、『油断』と『団塊の世代』の二作に代表される。
なぜか時代のおわりには、時代を作ってきたひとが世を去る。

『油断』には、通産官僚の通産官僚たる感覚が充満していたが、『団塊の世代』を打ちだしてから、急速に官僚臭が抜けていったのはなぜだろう?
『知価革命』にいたっては、とうとう官僚批判に転じた。
「知価」を発揮するべきは民間であって官界ではないから、当然の帰結でもある。

元官僚にして、その後官僚を敵にまわす戦後の嚆矢となるのは、経団連を経団連たらしめた石坂泰三である。
このことは、別稿にて論じたい。

さて、「団塊の世代」という世代のこまったことは、とにかくその巨大なボリュームにある。
60年代のおわりから70年代初頭にかけての「若者文化」とは、この大量に存在するひとたちの、ある種ステレオタイプ的な「文化」をいった。

いまの「若者文化」とぜんぜんちがう。
いまは、価値感の「発散」で、それぞれが好きなようにすることになって、進化ならぬ深化している。
しかし、当時は、画一的で巨大だったのだ。

しかし、人口に見られるこの巨大なかたまりは、毎年、年齢をかさねるから、その都度、巨大な市場として、つねに購買予定者の中心だった。
30代の子育て世代になれば、開発されたばかりの「紙おむつ」が、発達心理学からの批判のまとになったし、40代のマイホーム購入世代になれば、住宅展示場にひとがあふれた。

そうやって、いまや後期高齢者世代という仮面にかわって、最後の影響力を巨大なボリュームがあいかわらず発揮している。

じつは、この世代のもうひとつの特徴は、父権の喪失なのである。
世の中から、「父」の存在がうすれていく。
それは、「ジェンダー」ということばすらなく「ウーマンリブ」がさかんにいわれた世代でもあった。

そして、これに、もうひとつ上、以上の中高年世代を中心とした「主婦連」が、眉をひそめて対抗した時期でもあった。
彼女らは、主婦として主人をささえる存在であったし、「地震雷火事親父」が、当然だったのである。
その象徴が、「サザエさん」の「磯野波平」というキャラクターだ。

ヨーロッパにおける「父権の喪失」とは、キリスト教の影響力衰退を意味した。
「天にまします我らの『父』」が、軽視されるということだ。
ニーチェの『アンチクリスト』が、いかに衝撃だったことか。

わが国では、とくに「70年安保」の盛り上がりをうけて、左翼がファッション性をおびた。
そこで、わが国の「父」にあたる「天皇」が、「天皇『制』」という左翼用語にそまって、「アンチ天皇」もファッションになった。

そうなると、家庭から「父」の居場所がなくなる。
その「父」とは、「地震雷火事親父」の「親父」のことだから、「父」は急速に「やさしい『パパ』」に変容しなければ、あいてにされないのである。

もちろん、これには、女性の高学歴化と社会進出がセットになった背景にある。
高校、あるいは短大をでて、就職しても数年で「結婚退社」し、あとは専業主婦としてすごす、という人生が「典型的」でなくなったとき、「主人」という概念もきえた。

主婦を低単価の労働力として「活用」する、というのも政府の戦略だったしいまでもそうだから、年収に事実上の制限をもうけた税法をつくって、「産業優先」の体制維持をはかった。
いまは、これに高齢者がくわわって、賃金単価の低減に貢献している。

当初は主婦の短時間労働だった「パートタイム」が、正社員とかわらない時間数と業務における「低単価」だけがのこった。
それで、用語も「パート労働」となって、本来の意味に気づかないようにしている。

CMが世相を反映するのは、CMが訴求したい層が「世相」をつくるからだ。
さいきんのCMにおける家族に、ほぼ「父」はでてこない。
もし「父役」の俳優が起用されていても、家事をする姿が印象づけられるようになっている。

これが、「円満家庭」なのだ。

しかし、この「ゆるい環境」では、秩序形成が困難になる。
「規範者」としての「権威」の喪失は、規範そのものの喪失を意味するからだ。
誤解のないように念のためくわえると、男が家事をしてはいけないといいたいのではない。

往年のアメリカNBCとCBSが放送していた『パパはなんでも知っている』が、「父」としてのギリギリの姿だったのは、ただしく「なんでも知っている」という「規範」があったからだ。

「規範を喪失した家庭」とは、いかなるものか?
円満になる基本要素を喪失したのだから、「不和」になることまちがいない。

これを政府が「家庭不和」の撲滅を命令したいからと、まさかの「令和」ではあるまいが、ことごとく個人の生活に介入したがる政府(地方自治体もふくむ)には、注意がひつようだ。

現代という時代はあたらしい「規範」を要求している。
伝統的な社会規範だった、「教育勅語」の完全否定を表明しているのは、現政権もおなじだ。
念のため現代語訳をネットで検索すれば、そこになにが書かれているかより、なにが完全否定の対象なのか?をかんがえさせられるにちがいない。

「狆惟ウニ」と、当時の国家元首にして大元帥のことばとしての「命令」だからいけない、というなら、おなじくその解答を現代の政府にもとめてはならない。

ちなみに、わが国の教育機関で教育勅語を設立理念や教育方針にしている学校は一校もないが、台湾にはある。