社長のリスクと部下のリスク

人間だから、だれでも「じぶん中心」に物事をかんがえる。
「自己中」は、あたりまえなのである。
しかし、そこで、一歩たちどまって再考することができるか、できないかが、ほんとうに物事をきめる。

社長にもとめられる「無謬性(まちがえないこと)」は、カリスマ性につながっているから、この間まで従業員だった人物が「社長」になったとたんに、神様のようなふるまいを要求されるようになる。

そして、社長に選ばれるような「まじめ」な人物であるほどに、その要求を「理不尽」とせず、きちんと受けとめようとして、「権威主義」の誘惑に負けるのである。

あたりまえだが、上述の誘惑をものともしない「人物」もいる。
「社長」とは、なにをする役割なのか?について、たちどまってかんがえたひとである。

こういうひとは、情報に敏感でかつ飢えている。
いわゆる「丸投げ」を嫌う。
それで、会社に持ちこまれるさまざまな情報に、みずから直接接することを「ふつう」だとかんがえるのである。

資本集約的な産業(高度な機械設備などを要する)にいれば、その導入について部下まかせにしない、という意味だ。
みずから積極的に良否を判断するための勉強をする。
そんな会社は、「小田原評定」をきらうのはあたりまえである。

労働集約的な産業(人間による仕事が主になる)では、ひとの採用について、担当者まかせにしない、という意味だ。
ホテルや旅館業は、土地と建物がないと成立しないから、資本集約的な産業であるけれど、接客のための従業員が不可欠だから、労働集約的な産業でもある。

だから、ほんとうは製造業の社長よりも、かんがえなけれなならない範囲がひろいのだ。
これに、かんがえる深さもあるから、ものすごく難易度がたかい。
その責任者としてのリスクもおおきいのだ。

一方で、社長以外の「部下」をみると、自己中でいられる立ち位置でもある。
じぶんは社長になる、とおもわなければ、よりその立場がはっきりする。
だから、現状維持が重要なのだ。

たくさんいないはずの、じぶんは社長になる、とおもっているひとは、もちろん現状維持を優先などしない。
それよりも、じぶんのしごとにおける失敗をきらう。
これは、社長のイスが近くなればなるほどにでてくる傾向で、さいごは同僚の失敗を歓迎するのである。

あたかも、現状維持とそうでないひとのかんがえかたはちがって見えるのだが、じつは本質的にはおなじなのだ。
つまり、失敗をしてはいけない、という強い思いがあるということだ。

これが、「大企業病」の病根である。
その病気をより悪化させるのが、トップによる権威主義の存在である。
だから、トップがみずからの役割に忠実で、かつ誠実ならば、大企業なのに大企業病に罹患すらしないでいられる。

ひとは、こういった会社を、尊敬をこめて「優良企業」とよぶ。
たんに、業績がよい、という意味ではないから、区別のために「超」をつけることもある。

大企業でないのに「大企業病」になってしまっている会社もたくさんあるのは、上述の「メカニズム」がおなじだからである。
だから、規模の大小はとわない。

すると、どうやって「優良企業」のようになれるのか?ということの方法論がみえてくる。

「失敗をしていい」という風土を、トップがつくればいいのだ。
しかし、これだけでは言葉遊びになってしまう。
「もの」や「こと」の本質をみるめをやしなう訓練が、組織的に必要になる、という認識がなければならない。

たとえば、「もの」の売りこみならば、採用したばあいのメリットとデメリットのかんがえられるかぎりでの比較検討だ。
ふしぎなもので、かんがえられるかぎりでの比較検討、を繰りかえしていると、かんがえる範囲の「かぎり」がひろがるのだ。

その「もの」を導入した部署いがいにも、影響がおよぶことがある。
すぐれた「もの」ほど、影響がつよい。

すると、人物評価や査定における基準が、従来の「あたりまえ」ではなりたたない、という影響もみえてくる。
その「あたりまえ」が、「失敗はゆるされない」をつくるからだ。

そうやって、居心地のよい、けれども業績がふるわない企業ができて、従業員から見放されれば、人材もあつまらないという循環になる。
人口が減っているからしかたがない、のではなくて、そういった循環を自分たちでつくっているのだ。

なぜなら、応募がたえない会社はたくさんある、という事実がしめしているからである。

韓国発の英語教育革命

国家間の軋轢は横にして、個人の情報発信が「時代を変える」なら、それを「革命」と表現しても、許されるだろう。

「がっちゃん」と名乗る女性が、ついこの間、ユーチューブに動画をアップしてすぐにシリーズ化し、別途有料チャンネルまでできた。

本人の流暢かつ早口な日本語ナレーションと、日本語字幕に手描きイラストだけの映像ではある(つまり「顔出し」していない)が、ここで展開されているのは、彼女曰く「英語戦死者」のための英語学習講座なのである。

だから「革命」なのは、その解説の中身にある。

彼女の主張によると、どうやら韓国における英語教育方法がわが国と「そっくり」らしく、「やたらと文法用語を多用して」英語初学者の頭脳を混乱させているという。

それは、すでに英語を理解できたひとたちによる「後付けの文法解釈」なので、初学者にとっては意味不明だから、つぎつぎと「英語戦死者」を量産しているというのである。

東京の外国語大学に留学経験があるというから、両国の言語教育事情に通じているのだろう。
さらに、前提として「日本語(≒韓国語)の特徴」を強調しているのが「新鮮」なのである。

むかしから、日本語と韓国語の類似性は指摘されていた。
わたしは、韓国語をしらないから、深入りせずに彼女のいう「日本語の特徴」をトレースすれば、語順が変わっても意味が変わらない、ことだという。

これは、「助詞」(が、も、の、を、、、)による機能性の特徴で、欧米系の話者が日本語や韓国語を学ぶときに、最悪の困難さにランクづけされていることからもわかる。

欧米系の言語は、助詞による機能を「場所」によってあらわすからだ。
すなわち、「語順」が、そのまま「日本語の助詞の意味」をなす。
だから、主語(だれが)+動詞(なにをする)+なにを+(どうやって)+どこで+いつ+(なぜ)という順番のルールが厳密なのだ。

すると、さんざんいわれてきた「基本五文型」でいいたいのは、じつは、
主語(S)+動詞(V)
主語(S)+動詞(V)+補語(C)
主語(S)+動詞(V)+目的語(O)
主語(S)+動詞(V)+目的語(O)+目的語(O)
主語(S)+動詞(V)+目的語(O)+補語(C)

のうちの共通部分である、主語(S)+動詞(V)「だけ」であって、補語や目的語がどうつながるかは、ほとんど初学者が気にすることはない。
+なにを+(どうやって)+どこで+いつ+(なぜ)という順番のルールをさいしょに理解するほうが、はるかに有益で、この順番がわかってから、ゆっくり五文型を学べばいいのである。

ちなみに、(どうやって)、(なぜ)をカッコで表記したのは、中学校ではならわず、高校英語の範囲になるからである。
この場所の配置方法がわからない生徒に、五文型をやるとますます混乱することに気がつかない教師のほうがおそろしい。

整理すれば、語順を変えてしまうと「意味が崩壊する」という特徴があるのが英語、語順を変えてしまっても「意味がつうじる」という特徴があるのが日本語≒韓国語ということをあらかじめしっていることは、とても重要なことなのだ。

それをおしえずに、徹底的な「和訳」をさいしょからおしえるのは、幕末の武士たちがなんとしても知ろうとした「なにが書いてあるのか?」にたいする執念の因習なのだ。
だから、「暗号解読」のようなことになる。

たとえば、This is a pen.
This=これ、is=は、です、a=一本、pen=ペン、とならうから、あとになって、Be動詞と一般動詞だけでも混乱するし、数えられる名詞と数えられない名詞にたいしての「冠詞」のつかいかたでも、大混乱することになる。

新学期がはじまって、いまごろはまだ、みんなついていけているだろうが、徐々に生徒に混乱がうまれること、確実で、これがついに、そして、毎年のように英語脱落者=英語戦死者の山を築くことになる。

この惨状に、教師たちはいったいどんな「反省」をしているのだろうか?
この疑問すら、ナンセンスなのは、百年以上も英語戦死者の山を築いてきたかれらに、203高地の責任をとった軍人の爪の垢ほどの感覚もないからで、何年も「おなじ教授法」が一子相伝のごとく変更されないのだ。

最悪なのは競争がない、公立学校。
つぎに、文科省の軍門に降るしかなくなった私立学校。
これらの「ダメ」を補うためにできた、学習塾・予備校。
そして、ついにユーチューブ動画における「画期・革命」がやってきた。

学習塾・予備校・ネット動画、これらの共通点は、文科省と関係なく自由であって、顧客獲得競争・顧客満足度競争がおこなわれているということにある。

画一的な教育にたいする批判は、ずいぶんまえからされているが、学習行為である「授業」の画一性をこわすことができないなら、授業の「品質」こそが勝負なのだ。

これを、「サービス・品質」という。
教育も、サービス業だからである。

教職は「聖職」とされてきた。
将来の国家をつくる、人材養成とは、まさに「人間形成」という崇高な理想があったからである。

しかしながら、「科挙」である「高等文官試験」という、開発独裁国家が採用した、わが国歴史上はじめての方式こそが、出世の手段、とみなされるようになって、「人間形成」という崇高な理想をうしなった。
まさに、トレードオフの関係のようになってしまったのだ。

成績優秀者は、国家あるいは地方「公務員」になる。
なかんずく「上級職」となれば、とうぜんに民間への人材供給が枯れるのである。

付加価値をつくるのは民間のしごとだから、民間が枯れれば国家が枯れる。
もう、国家優先という価値感もやめたほうがいい。

その意味でも、「がっちゃん」による革命は「画期」をなすのだ。

チャンネル登録者10万人突破というのは,「シルバー・クリエーター」として位置づけられている。
100万人でゴールド、1000万人でダイヤモンドとなっている。

日本語による英語学習者が対象だから、限界はどこまでなのか?はあるけれど、つぎのステージに期待したい。

ドレスコードがない

日本人は、自由の「はきちがえ」をしている、とずいぶんまえから指摘がある。
「本来の」自由と、「にせものの」自由とは、なにがどうちがうのか?

ガラパゴス化した日本の自由とは、なにをしてもいい自由、のことで、枕詞に「他人に迷惑をかけないかぎり」がくっついて、親が子どもにいいきかせる小言とおなじになる。

自由の本場、英米を中心とした国々では、「他人からおしつけられることなく、じぶんでじぶんの人生を決める自由」をいう。

これが行きついたのは、スイスにおける麻薬摂取所の開設だった。いまでは、30カ国、オランダやドイツ、カナダ、スペイン、デンマーク、そしてフランスにもある。

スイスではもちろん「国民投票」できまったから、行政が各町の町はずれに、あたかも日本の交番のようなちいさな建物をたてて、ここに専門家を配置し、やってきた常習者が希望する麻薬を無料で打ってあげる。

その後は、この施設内の休息所にて至福の時間をすごすことになっているから、幻覚がある時間、本人は外にでることはない。
「乱用」となって急死しないような配慮と、入手のため犯罪に手を染めることを防止する、という社会的機能が必要だとみとめられたわけだ。

しかし、この決定には、じつにドライな概念があって、麻薬常習者を救うというよりも、社会に対して安全に、しかも確実に世を去ることを、本人の選択だ、としていることである。
いうなれば、社会が「廃人」を認めたのである。

誤解がないように添えるが、もちろん、本人が悔いて「治療したい」と希望すれば、すぐに病院に行けるが、中毒症状の完治まで病院から出ることはできない。それも、本人の選択だからだ。

自由の「本家」たちは、自由について厳しいのである。

これを裏返したのが、ソ連にあった「自由剥奪」という刑罰だ。
人間が動物として持っている「欲(生理的・本能的:食欲・飲水、排泄、睡眠、体温調節)」に対しての自由を国家がうばう、という刑罰とは、人間性の否定でもあった。

つまり、たんに「自由」といっても、たいへんに守備範囲がひろいことばなのである。

そんなわけで、電車の床に直接座りこんだり、車内で化粧をしたりするのが「自由」だという主張は、自由の「本家」からしたら、たんなる「マナー違反」にすぎない。

電車の床は人間が座る場所ではないし、電車の車内は化粧室ではない。

マナーとは、人間社会における相手を思いやる最低限のルールだ。
だから、マナー違反は、他人に迷惑をかけているから、「自由」にしてはいけないのである。

お行儀よくすることと、マナーが混同されて、ぐちゃぐちゃになってしまったのが昨今の日本社会である。
それが、自己主張と権利という概念につながって、もはや、こうしたマナー違反を他人が注意することもはばかれることになった。

注意した側が、相手からどんな攻撃をされるかわからなくなった。
いきなり刺されることだって起こりうるのである。
とにかく、みなかったことにする、なかったことにする、ということが、もっとも安全な対策になったのだ。

そんなわけだから、高級ホテルに「ドレスコード」がない。

服装というものは、身だしなみだけでなく、TPOに応じた場所ごとのルールがある。
酷暑なら、短パンにTシャツでいたいところだが、そんなときの婚礼や葬儀にそんな格好で参列するひとはいない。
周囲からあやしまれて、じぶんが恥をかくからだ。

中身のじぶんは変わらないのに、服装が決定的な役割をになっている。
だから、一方で「コスプレ」が世界的に認知されるのだ。

このことをわかりやすく書いてあるのが、マーク・トウェインの傑作『王子と乞食』である。

児童文学だからといって、ほんとうに子どもの時分に読んだものは、「原作」に忠実な訳だったのか?というと、あんがいあやしい。
かなり省略されていることもある。

その省略は、現代の(日本の)価値感が基準になっているばあいもあるから、それなりにおとなになってから読み返すのは、意味のあることだし、あたらしい発見もある。

たとえば、『ロビンソン・クルーソー』もその好例だ。

 

見よ、この分量とページを埋めつくす段落なき活字の海を。
絶海の孤島から、アヘン貿易で儲けた主人公は日本をめざす冒険もする。
これが、「児童文学」なのか?

もちろん、『王子と乞食』の時代背景を理解するには、シェークスピアの『ヘンリー八世』は不可欠だ。

こうした、歴史から、カーライルの『衣装哲学』がうまれたのだろう。

かんたんに「衣装」とはいうものの、奥が深いのである。

先進国の高級ホテルで、ドレスコードを明確にしない、できない国になっいるのは、恥である、という「恥」をもわすれてしまったのか?

世界に通用することではない。

フルサービスの理髪店

散髪の需要は、ひとに髪の毛がはえるかぎりなくならない。
それに、少ない資本で開業できるので、個人事業としてうってつけでもあるから、夫婦で営む店がおおいのは当然だ。
また、売上が「現金」だし、その本質は「技術料」だから儲かるのである。

理容と美容の垣根は、ざっくり「顔そり」ができるかできないかである。
ほんとうにひとがサルから進化したのかどうかしらないが、ひとの顔は毛でおおわれていないようにみえるけれど、じつはうぶ毛がけっこうはえている。

ひかりの加減で、可愛いかおをしたひとにうぶ毛があるのはまだしも、あんがい若い女性でも「ヒゲ」が濃いひともいる。
そんなひとは、理容店にいって顔を剃ってもらうとスッキリするし、化粧の「乗り」がよくなるという。
だから、理容・美容には、利用するのに男女の区別はない。

歴史をさかのぼれば、ちょんまげと日本髪だった江戸時代まで、「床屋」といえば「髪結い」のことだったが、すでに男女の区別があった。
ちゃんとしたちょんまげは、月代(さかやき)を剃らないといけない。

時代劇で、青々と剃っているかつらをつけるのは、役柄もちゃんとしたひとで、これを好き放題にのばしたままだと、浪人や博徒など、ちゃんとしていないひとのキャラクター・シンボルとなった。

だから、男性には「剃り」がつきものだったけれど、髪は女の命だった女性側は、そもそも「結う」ことはあっても切ったり剃ったりはない。
それで、女性のための髪結いは、店をもつより顧客先に出向いていたようだ。

明治になると、西欧文明的でない「日本髪」が、なんだか「恥ずかしい」ことになった。
岩倉使節団が伝統的スタイルで欧米を歴訪して、絶賛されたことは、新聞すらもなかった時代に、関係者以外だれもしらなかったのだろう。

世にいう「断髪令」がでたのは、明治4年だが、同じ年の岩倉使節団が出発する前で、これは誤解があるがちょんまげ禁止令「ではなく」髪型自由令だった。

しかし、明治6年に福井で3万人からなる「散髪・洋装に反対する一揆」がおきた。
時代の変わり目にたいする、文化のちからが、良くも悪くも「あった」ことは、あんがい重要なことだ。

いまのひとはこんな一揆を「笑う」かもしれないが、100年後の子孫たちが、いまの時代を「笑う」かもしれない。
明治だといっても「一揆」だったから、首謀者は6人も死刑になっている。

かれらが命がけで守ろうとしたものは、なんだったのか?
わたしたちが忘れてしまったものにちがいない。

牛丼チェーンのすきやには、文明開化当時の絵が壁にある。
ちょんまげに着物のひと、散髪のひと、ドレスをまとった女性。
これは、いまよりもかなり服装や髪型に「主張」があったことをしめしている。

女子大生の卒業式で定番となった「ハイカラさん」スタイルは、洋装と和装のハイブリッドであるが、日本以外ではみることができないから、まちがいなく「和装」の範疇になるのだろうが、なんともすさまじい主張の「発明」である。

ひとむかしもふたむかしも前までは、床屋談義は落語の世界だけでなく現実の、ごくふつうの風景だった。
町内にだいたい床屋は一軒あって、ご近所さんしかお客がいないから、待ち時間がおしゃべりタイムになるのである。

組合がさだめた料金で統一されていて、たいていが「フルサービス」の散髪・洗髪・顔そりをしていたから、ひとりのお客に最低30分はかかる。
子どもでも手間はおなじだから、じっと座っているのはつらかった。
だから、「運がわるいと」一時間待ちはふつうだったのだ。

ちょっといってくる、といって混みそうな時間にじぶんの家から散髪屋にきて、くつろぐ商店街の店主たちもたくさんいた。
もちろん、髪を切ってもらいながらも、会話はつづくのである。
そうかんがえると、客にも店にも余裕があった。

ちょんまげの「さかやき」は、ヒゲと同様すぐにのびるから、これを剃るのも毎朝の身だしなみである。
この「身だしなみ」という伝統で、紳士たるもの月一度の散髪は、おしゃれというより社会的義務だったのだ。

35年前、エジプトのカイロにすんでいたころ、やはり散髪はひつようだから、町の床屋へいっていた。
「へー」とおもったのは、フルサービスの中身がおなじだったからで、やっぱり「床屋談義」をやっているのだ。

かれらが床屋に足しげくかようのは、身だしなみ以前の「衛生」という需要がつよかった。
アラブ人には成人男性はヒゲをたくわえるものという常識があるから、ヒゲをそり落とすわたしは「あやしい男」だったようである。

それでか、二回目からは「顧客」になって、だまっておなじ髪型にしてくれて、それからは町や国のいろんな事情をおしえてくれるようになった。
これに、待っているお客もはなしにくわわるから、おわってもなかなか帰れない。
ちゃんと紅茶もだしてくれて、くつろげるのである。

最近は外国人旅行者に、日本の理容・美容室が人気だという。
日本的なこまやかなテクニックが話題になるが、会話「こそに」魅力があるのではないか?

じつは、いろんな事情をしることができるから、理容・美容室は「情報産業」なのである。

日本の中途半端なやさしさを否定したWTO

日韓関係は「最悪」になっているが、政治ではなく「科学」でかんがえると、本件はまっとうな判断なのではないか?
むしろ、これをそれぞれの政府が政治に利用したがるだろうし、それを支持するひともでてくる。だから、やっぱりまっとうなそれぞれの国民には迷惑なことだ。

日本では相手が韓国だからという理由なのか、このたびのWTOの「逆転敗訴」が、あたかも「不当」のような主張がなされている。
しかし、福島原発事故による八県(青森、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、千葉)の水産物輸入にかんして、いまだに禁輸措置をしている国・地域は23もあるのだ。

ほんとうに「不当」なのであろうか?

問題の核心は、「安全性」にあるのは当然だが、「日本政府が『安全』宣言している」から安全だということは「科学的」にいえない。
さらに、日本政府は「科学的」だと一審で事実認定されたこと自体は維持されているともいっている。

「科学」にもとづいているから、「安全なのだ」という「主張」なのであるが、今回の上級委員会は、「WTOでは食品の安全性について科学的証拠が不十分な場合、暫定的に規制を認めている」との韓国の主張に対し、日本は反論しなかったとも指摘」しているのだ。

すると、あたかも「反論しなかった」日本側の落ち度が「痛い」ことに矮小化されそうだが、「反論『できなかった』」のではないか?という疑問すらうまれるのである。

なぜそんな疑問がうまれるかというと、日本政府は事故以来一貫して(民主党政権から現行政権になっても「一貫して」)、放射線物質による汚染状況をほとんど発表していないどころか、隠蔽しつづけているからである。

この態度は、100億円以上かけて開発していた「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(System for Prediction of Environmental Emergency Dose Information、通称:SPEEDI)」というものの存在すらひろく国民が認知していたわけでもなく、しかも、「試算」であって「誤解をまねくおそれがある」という理由で、事故後に計算結果の発表もしなかった。

のちに、政府は発表もしなかったことを「謝罪」しているが、放射線による影響という問題だから、「ごめんなさい」ですむはなしではない。
国民の「被爆」について、まったくの無責任を貫いただけであった。

さらに、愕然とさせたのは、事故後、放射線の安全基準が「変更された」ことである。
「一年間に1ミリシーベルト」まで、を金科玉条のごとくまもってきていたはずなのに、なんの根拠かわからないうち(いまだにわからない)に、「20ミリシーベルト」になった。

この根拠不明のあたらしい基準で、ものごとがかたられるようになったけど、国内では「基準内だから安全」となって、マスコミもこの情報をたれながした。

いわば、「大本営発表」になったのである。

むかしの戦争の「反省」などぜんぜんしないで、ただ「戦争はいけない」と唱えれば戦争にならないという「宗教」だけでやってきたから、あっさり「大本営発表」にのってしまうのは、脳の劣化である。

日本政府は国内がおさまれば、あとは関係ないという「鎖国」をモットーとしているから、国内情報操作に成功してホッと息をついたら、おおくの外国が「安全性に疑問がある」と、「禁輸」の措置をとったので、あわてて国内での「成功体験」で押したのである。

それで、とうしょ禁輸を54カ国がしたが、上述のようにいまは23に「おさまって」いる、という具合である。
大親日でしられる台湾すらいまだに禁輸していると、韓国を前面に出すマスコミは「そっと」伝えるのも、いかがなものか?

そんなわけで、われわれ日本国民は、どんなふうに「汚染」されているのかもしらず、基準値の「科学的根拠」もしらず、政府や農協が「安全」というから「安全」なのだ、といってWTOがおかしいといっているのだから、冷静にみればどちらがおかしいのかはあきらかだろう。

これは、中途半端な「やさしさ」が諸悪の根源なのである。

漁業従事者の生活をどうする?
農業は?水は?なかんずく除染ができない山中の山菜や野生動物は?
そもそも、ひとが住みつづけていいのか?

事故後のネット上のニュース番組で、保守系論客を自認している有名女性ジャーナリストと、自由な報道をめざす若いジャーナリストとの対談があった。
若者が、「放射能の影響を報道しないのは犯罪的だ」と発言したら、「そんなことをいったら当人たちが可哀想だから、ぜったいに報道してはいけない」といいきって、若者が絶句していた場面がある。

すくなくても第一次産業はなりたたないとか、もう住めないから永久避難だとかいったら、可哀想だということだ。
それに、汚染でどこまで「放棄」しなければならないかを「厳密」にしめしたら、東日本全体になるかもしれないし、そうなったら「パニック」になって国家がもたない。

この有名ジャーナリストは、政府のお先棒をかつぐのが「『保守系』ジャーナリズム」だと自己定義しているにちがいない。
それなら、わが国の報道機関のありようが、たしかに見えてくるから「失言」ではないが、こんな人物の発言をありがたがることはない。

可哀想なのは、なんにもしらないで発病してしまうひとたちである。
もちろん、このなかにわたしもふくまれる。
かつての「水俣病」や「イタイイタイ病」の教訓が、ぜんぜんいかされていないどころか、ガン無視されているのだ。

こころを鬼にしてでも、事実を事実として伝えるという愚直さがなければならないが、もうそんな気概すらないのだろうか?
最初から無責任な政府に期待はできないが、気概をもって国民が求めないからこうなるのだ。

健康な国民がいるかぎり、国家がもたない、という理屈はないのだ。

ことばだけで科学をいう国が、これからの将来、「科学技術立国」などできるはずがない。
そんな基盤がない国で、もっと高度な「観光立国」など、夢のまた夢である。

Capitalization Rate がしめすバブル

金融における異次元緩和という「麻薬」をたっぷり吸い込んだために、じぶんでかんがえることができなくなった日本の経済は、財界もなにも、こぞって政府依存していると批判をくり返してきた。

日銀の金融緩和「しか」中身がない、「アベノミクス」なるものは、たんなる「イリュージョン」であるし、むしろ政府が富を分配する役割を負うことを推進するから、社会主義経済を強化する「トンデモ」政策である、と。

だから、アベ左翼政権が、「一強」になっているのだとも書いた。
もともと左翼政党しかない「野党」にあって、かれらの主張を丸呑みしているのがアベノミクスだから、政権批判の対象がスキャンダルしかなくなってしまうのだ。

そういう意味で,「野党はアベノミクスにかわる経済政策をしめせ」という、もっともらしい有名評論家の「評論」は、的を外している。
野党の本音は、アベノミクスの「もっと強力な推進」になるからである。

すなわち、もっと「麻薬をくれ」という、悲劇的な叫びになる。
だから、野党の支持がぜんぜんない、ということになって、まるで自民党の一人勝ちにみえるが、単純に「選択肢」がない、というだけの、やっぱり国民には悲劇的な現象なのだ。

アベノミクスの「イリュージョン」は、おカネを市場に大量供給すれば、デフレからインフレになる、という説明だが、この目的にみあった現象が実現しないから、いつのまにか看板をさげた。

その前に、あまったおカネで株価があがって、株式投資しているひとたち「だけ」が、得をしたようにみえた。
ところが、いろんな事情から株価が「やばく」なって、株価を支えようと大量買いして、とうとう日銀が日本株の「大株主」になってしまった。

こうして、市場に供給された、ヘンテコなおカネが、企業の設備投資ではなく、例によって不動産にむかっている。
しかし、静岡の銀行がしでかした「不正融資」で、事業用不動産に貸し出すな、という命令を金融庁さまがだしたから、居住用不動産に集中しているのである。

人口が減るトレンドが消えるわけもないわが国で、とっくに新築住居が世帯数を超えているのに、みなさまのご近所では住宅建築のつち音も消えていないだろう。

自動車に次ぐすそ野が広い産業は、住宅産業である。
家具などの動産をふくめ、さまざまな物品の需要がうまれるからだ。
それで、これが「景気対策」になっている。
「空き家」には、目もくれないのが特徴だ。

Capitalization Rate というのは,いわゆる「キャップレート」といわれるもので、不動産投資の利回りをしめすものだ。
用語として、「還元利回り」とか、「収益還元利回り」とか、「期待利回り」ともいうが、みな「キャップレート」のことである。

計算方法は単純で、純利益(年間) ÷ 不動産価格、である。
これを、逆算して、年間「期待」利益 ÷ キャップレート、で「収益から見込んだ不動産価格」が計算できる。

なお、「純利益」とは、必要経費を差し引いた利益のことだから、あいてが不動産だと「管理費」や「修繕費」などの大物経費を引き算する。
これらは、人手不足の昨今、増加傾向にあるから、いくらぐらい稼げるのか?という「期待」との関係では、マイナス要因になっている。

いま、東京の居住用不動産のキャップレートは、リーマンのころから半減して、おおむね3%台にある。
これだけ金融緩和してもインフレすなわち物価があがらない、物価のなかには「賃料」もふくまれている。

つまり、賃料はかわらないかむしろ下がっている状況にあるから、キャップレートが下がっているということの理由は、不動産価格が上昇している、という意味になる。
すなわち、バブルではないか?

政府がバブルをつくりだす、というのはあんがい伝統的な政策手法だから、いまさら感があるのだが、昭和の終わり=平成のはじまりの「バブル」をおもいだせば、この「政策のワンパターン」に、あきれるほどのお気軽さを感じずにはいられない。

令和における「バブル崩壊」は、どんな事態になるのだろうか?
もはや余裕のない金融機関が、はたして耐えられるのか?どころか、日銀すら耐えられるのか?

ちなみに、キャップレートをもちいる「収益還元法」は、投資家にとっての正攻法だから、不動産売買の対象ににもなる旅館やホテルにさんざん適用された。

いまどき、自社ホテルが、簿価で売れる、とかんがえる経営者はいないだろうが、純利益がいくらだから、いくらの不動産価値になるという計算はたまにでもやっておくとよい。

周辺のアパートやマンション賃貸業より利回りがわるいなら、よほど経営がうまくないという指標になる。
また、簿価が現実に役に立たないことをしれば、なんのための「簿価」なのか?ということにも気がつくものである。

渋沢栄一をしらない

紙幣のあたらしいデザインが発表された。
世界が電子マネーをつかう時代に、紙幣に投資するとはなにごとか?という意見もあるようだが、19世紀をひきずるわが国としては、当然の「新札」投資である。

わが国の歴史上、最初の銀行は「第一国立銀行」で、創設は1873年(明治6年)であるから、19世紀なのだ。
前年の12月には、太陽暦が採用されたので、本格的に太陽暦になった最初の年になる。

そもそも、明治政府が太陽暦を採用した理由に、膨張した官吏への俸給支払いを「節約」するため、といういまでは想像もつかない財政優先政策であった。
明治5年の12月がほぼなくなったことで1か月分、それに、旧暦にあった「閏つき」をなくして1か月分の合計2ヶ月分の給与支払いを停止した。

役人が対象だったけど、「こよみ」の変更なので民間もおなじだったと想像できるが、この時代の日本は「農業国家」だったから、サラリーマンなんてほとんどいない。

政府がみずからを「正す」常識と良識とプライドがあったのだろう。
そういう意味で、現代の政府とはぜんぜんちがう。

そんな政府が発した「国立銀行条例」にもとづいて創設されたのが「第一国立銀行」で、「国立」とあるけれど、わが国最初の「株式会社」である。
それで、「株式」の売買のために、東京証券取引所も創設されている。

だから、わが国資本主義の「誕生」といっても、おおげさではない。
これをなした、中心人物が渋沢栄一だ。

歴史の連続性をかんがえると、渋沢は資本主義を表面にだして、これを実際にうごかしたひとだった。
だから、その前に、資本主義の精神を説いたひとがかならずいるはずだ。
これを、準備段階、といってもいいだろう。

それは、まちがいなく「二宮金次郎(尊徳)」である。
二宮金次郎の「偉業」すら、いまはすっかり忘れられてしまった。
小学校の校庭にかならずあった金次郎の銅像も、見向きもされない。

薪を背負って、本を読みながら歩いている姿の銅像が、「ながら歩きは危険である」という、表面しかみない価値感でかたられるのは、「悪意」しか感じない。
その「悪意」の根源は、資本主義を憎む思想から発生するにちがいない。

アメリカにおいて資本主義のエバンジェリストとしていまだにあつい尊敬をうけているのが、ベンジャミン・フランクリンである。
むかしは、わが国でも10代で読むべき図書にランクインしていた『フランクリン自伝』の著者でもある。

アメリカ人をしらなかったのに、日本で資本主義に気がついた稀有な人物の評伝は、当然だが読むにあたいする。

小田原藩の財政立て直しから、全国にわたる金次郎の活躍は、「学びたい」という純粋な欲望からはじまる。
当時、彼の「身分」では、学ぶことが決して立身出世とむすびつかないからだ。
ここが、現代の「勉強しろ」と、根本的にことなる。

それで、渋沢栄一だ。
彼にはひとつ名著がある。
それが、『論語と算盤』だ。

いまさら、マックス・ウェーバーの「プロ倫」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)をもちだすまでもないが、渋沢は資本主義の本質を「論語」にもとめている。
金次郎が熟読していたのは、「四書五経」のうちの「大学」だった。

「偉人」が、なぜ「偉人」なのかもわからない、これは「知的衰退」といいたくもない「廃退」である。

わが国の教育が、すでに「廃退」しているから、かたちのない電子マネーではなく、肖像をかならず目にする「偉人」をえらぶのは、意義のあることではないか。

しかも、紙幣刷新の理由が「偽造防止」である。
この安心感こそが、紙幣だけでなく「貨幣」に求められる、もっとも重要な要素なのだ。

では、いったいだれが「偽造」するおそれがあるのか?

そんなことをして「採算」にみあうのか?

そんなことをしても「利益」があると、かんがえる国が近隣にあるのである。

「偉人」たちがおしえてくれることの、奥深さである。

「人材」がいないことの驚き

議席占有率で、衆議院の61%、参議院の約半分を占める与党自民党の議員数は、284名(衆議院)+65名(参議院)=349名 となる。

制度がぜんぜんちがうし、陳腐な比較ではあるが、アメリカの連邦議会は、上院が100名、下院が435名=535名が「議席数」である。
わが国は、衆議院465名+参議院465名=930名 である。

人口は、アメリカ合衆国3,272十万人、わが国1,268十万人だから、ずいぶんと議員数がおおいのはわが国のほうになる。

ただし、上述のように政治制度がぜんぜんちがうのは、「州」というほとんど「国家」といえる地域の「連邦」がアメリカ合衆国だから、単純比較がむずかしいのである。

たとえば、日系移民だけでなく、さいきんのシルバー移民に断然人気である「憧れのハワイ」州をみると、下院51名(任期2年)、上院25名(任期4年)で、人口は13十万人ほどである。

これは、山口県、愛媛県、奈良県、長崎県とほぼおなじ人口数である。
「州」はふつうの「国家」に相当する権限をもっているから、中央政府のいいなりが原則のわが国「都道府県」とは、単純比較はできないことを強調するが、念のため各県議会の議員数をしめす。

山口県:47人
愛媛県:47人
奈良県:44人
長崎県:46人 となっている。

市議会ならどうか?
ニューヨーク市の人口は86十万人だから、わが国最大の横浜市37十万人と比べるべくもなく、しっかり倍以上あって、わが国都道府県3位の大阪府の人口に匹敵する。

ニューヨーク市議会は、定数51名(任期4年)だが連続3選禁止になっているから、2期務めた議員は4年間以上議員をはなれないと再び選出されることはない。
高校生のマーチング・バンドが、コンテストでの「全国大会金賞」受賞校が、3回連続して大会出場できないことにている。

なお、議員の基本給もきまっていて、年給で112,500ドル(約12,375千円)で、委員会の役職などで追加になる。

「市」といっても、やっぱり日本のような「弱い」自治体ではないから、単純比較はできないが、議員数と民主主義の成立には、数がおおければよい、ということではないとおもえる。
大阪府の議員数は、88名、二重行政が話題の大阪市は、86名なので、あわせるとニューヨーク市の3倍以上の議員がいる。

もっとも、議員報酬にかんしてはさまざまで、ヨーロッパにはほとんど「無報酬」ということもある。
これは、議員というものが職業ではななく、職業人が議員になる、という発想があるからである。

働かざる者喰うべからず、を追求したというより、効率に関係なく全員をなんらかの職につけた社会主義国では、職業人が議員になる、のは当然だった。

そんなわけで、むかしは、社会主義国の入国審査(イミグレーション)で、入国審査官から「職業は?」と質問されて、「議員」と胸を張ってこたえたら、入国拒否されたという笑えないはなしがあった。
「議員」は「職業」ではないという「建前」からである。

わが国に議員はたくさんいる。
国会からして、学校なみにいる。
だから、人材がいるのだろうとおもうと、そんなわけではなさそうだ。

「大臣」や「入閣」ということが、こんなにも軽いものになっていいのだろうか?
あるいは、こんなにも緊張感がなくていいのだろうか?

「五輪相」の辞任と就任は、こんな素朴な疑問をつよくする。
世間から、かくも浮き上がったひとが、国民の代表だということのいいようのない閉塞感は、「不安」という感情をよびおこす。

しかして、千葉県の当該選挙区の住人も、選挙で人材を選べない、という閉塞のなかで、だれかに投票せよといわれてしかたなく、があったのかもしれない。

ニューヨーク市のように、多選を禁止するのはよいことだ。
「休職」しているあいだによいひとが立候補してくれるかもしれない。
しかし、個人的希望をかけば、選挙で「不信任」の意志表示をしたいのだ。

信任された数と、不信任の数をくらべればよい。
トップ当選のひとが、不信任になれば、選挙はやりなおし、というルールはできないものか?
次点が当選ではいけない。

こうでもしないと、緊張感がまるでないことがどうしてもつづくだろう。
それは、人材の「枯渇」ではなくて「埋没」を促進させるのである。

企業組織においても同様の現象がある。

ひとがいない、とぼやくなら、「埋没」している人材をさがしだす努力をしなければならない。

適当なコストコの勝ちかた

国内では「消費不況」といわれて、小売業の軒並みの不振がつたえられているけれど、巨大なアメリカのスーパーというあたらしい概念で成功しているのが「コストコ」である。

年会費という入場料をあらかじめ納めないといけないから、厳密に安さ「だけ」をかんがえると、あんがい元をとるには大量買いがひつようになる。

それに、しらないうちに、年会費が値上げになっているし、提携カード会社も勝手に変えて、さんざん入会キャンペーンをやっていたカードすら使用不可になった。

日本的発想なら、顧客からのクレームがこわくて、こんな一方的なことは極力避けるか、社内で提案しようものなら「バカあつかい」されそうだ。
じっさいに、どのくらいのクレームがあったのかしらないが、店内でトラブルめいたことを目撃したことはない。

これは一体どういうことなのか?

消費者は直接的な価値を買っているの「ではない」、というマーケティングのセオリーをあらためておもいだせば、ふと気がつくのだ。
アメリカの生活という「疑似体験を買っている」のだとおもえば、それはもう「アミューズメント・パーク」だからである。

東京や大阪にある、本物のアメリカのアミューズメント・パークの入場料は、べつに消費者の意見をきいて決めているものではないし、支払方法だって一方的でも文句をいわない。
客が文句をいうのは、「陳腐化」に対してだろう。
つまり、事前期待値が達成されないときに発生する。

ふつうの主婦なら、コストコの商品が「すべて」どこよりも安いとおもっていない。
それよりも、「アメリカらしさ」がうしなわれたら、たいへんな不満がおきるはずなのだ。

ヨーロッパを制したはずのカルフールが、日本の西友を買収しても、そこに「ヨーロッパの香り」はなかった。
おそらく、これがカルフールが不振の原因だとおもうのだが、実際のヨーロッパのカルフールの店舗も、日本の大型スーパーとあまり変わらないから、もともと「ヨーロッパの香り」なんてものはなかった。

「旧大陸」のふるい流通、そして、日本のふるい流通という古いものどおしが「近代的合理性」を追求したのが共通にある。
だから、もはや「新味がない」ということになったのだかんがえれば、これはもう「文化論」になる。

日本にきたときのコストコは、世界ランキングではそんなに目立った存在ではなかったけれど、「アメリカの消費文化伝道師」として、圧倒的な支持をえることに成功し、会社も急成長した。

それは、「大雑把なアメリカ」というイメージと、「個人の大量消費」とがむすびついた、常識破りの「物量」が、細かいことに気を配る、わるくいえば「ちまちました」日本文化との対極にあったから、はじめてこれを体験した日本人は「ぶったまげた」のである。

みたこともない巨大なパッケージの洗濯洗剤や、牛肉のかたまり。
なによりも、ショッピングカートの冗談のような巨大さが、まるで別の世界を演出した。

それは、従業員たちの「人種」もふくまれる。
日本人だけで構成される売り場しかみたことがなかったから、外国そのもので、しかも、かれらの胸には「ファーストネーム」だけが大きくアルファベットで印字されている。

こうなると、細かいことに気をつかうことがすっ飛んで、「大雑把」のお気軽が快適になるのだ。
そうなれば、「個人の大量消費」にはしって、巨大ショッピングカートが満杯になるまで購入する。

スロープ状のエスカレーターでは、みせびらかしの消費に満足するひとたちを見つめながら、これから売り場にむかうひとたちが他人のカートの中身を無言で評価するのだ。
そして、自分たちも一杯になったカートでエスカレーターに乗る姿を想像している。

おどろいたことに、コストコでは「欠品」がふつうにある。
それで、ヘビーユーザーたちが、かってに情報サイトをたちあげて、お勧めの品と、欠品・入荷情報を提供してくれる。

これが、どのくらいコストコ本体の業務量を削減させているのだろうか?
かつてのアップルコンピューター「マッキントッシュ」が、純正品だけではなく、ぜんぜん関係ない「サードパーティー」というひとたちが、欠けている機能を埋めていたような現象とおなじなのだ。

コアなファンを満足させれば、あとからいろんな価値がついてくるのである。
コストコは、この構造をポーカーフェイスでつくりあげているのであって、もはや簡単に他社がまねできないレベルになっている。

適当な大雑把さが周辺を巻きこんでうまれた、あたらしいビジネス・モデルである。

「おもてなし」文化に依存する、日本のサービス業にはできない、と言い切れる。
ということは、「おもてなし」文化に依存するのをやめたら、できるかもしれないことをおしえてくれている。

これは、製造業でいう垂直分業ではなく、水平分業に勝機があるのとおなじことなのだ。
つまり、なんでも自社でかかえこむ従来型のビジネス・モデルを継続することの困難さをしめすのだ。

おしえ方をならわない教職課程

そういえば、教職課程というものが大学にあった。
ふつうの卒業単位とは別に取得しなければならないけれど、教育実習もちゃんとこなせば、学士卒業といっしょに「教員免許」がもらえる制度である。

この免許があれば、一般大学出身者も、中学校や高等学校の教員に採用される可能性がある。
小学校は、教育学の専門学部や専門大学出身者になるから、別扱いにする。

免許があるからといって、教員に採用されなければ教師にはなれないから、自動車運転免許があってもクルマを運転しないのと同様に、「ペーパー化」することだってある。
むしろ、生徒数も減っているから教員採用数もすくなくって、「ペーパー・教員」はふえているのではないか?

そうすると、高学歴化と「ペーパー・教員」の関係はどうなっているのだろうか?
つまり、教員免許をもっている親が、学校にたいしていろいろ発言するのと、なんらかの関係があるのだろうか?という疑問である。

その目線で、世の中の話題をながめると、学校と保護者との問題で、「授業でのおしえ方」が話題になっているのを聴かないことに気がついた。

教職課程では、専門の「おしえ方」をおそわらないのだ。
だから、授業参観でも、授業のテクニックについて話題にならないのではないか?

すなわち、教員オリエンテッド(志向・優先)なのである。
これは、以前に「教え諭す」と書いたとおりだ。
つまり、教師 → 生徒 という一方向の矢印であらわせる。

おしえ方を大学でならわなかった新任教師は、どうやってじぶんの専門授業をするのか?
それは、教師用の教科書である「手引き」がおしえてくれるようになっている。

学習指導要領と教科書検定は、セットものの定食のようになっていて、どの出版社の教科書を選定するのか?が新聞ネタになっている。
しかし、新聞ネタになるような、たとえば「近現代史」では、なにが教科書にかいてあろうが、授業ではどうせやってもせいぜい昭和のはじめまでである。

授業での場面でしか、生徒のほとんどは教科書を読まないから、日本国民のおおくが、近現代史の「戦中と戦後」をしらないで、とにかく「戦争はいけない」とおそわるのである。

だから、セットものの定食の中身はどうなっているのか?について、たとえ議論されても「教科書」のほうだけで、「学習指導要領」とその「手引き」が話題にならない不思議がある。

ここにも、教員オリエンテッド(志向・優先)が存在している。
すなわち、先生用の虎の巻には、なにが書かれているのかを保護者も、世間もしるよしがないのだ。

無気力な教師がいるのはむかしからだが、無気力でもいちおう授業が成りたったのは、この「虎の巻」のおかげではないのかとおもえば、やはり気になるのは人情だ。

しかし、一方で、上手の手から水が漏るような情報をえることもある。
来日したオーストラリア人一家が、日本でみつけた珍しいものの筆頭に「鉛筆」があったのだ。

母親は、オーストラリアの学校では、全員がタブレットをつかうので、ペンや鉛筆すら子どもは持ち歩かないし持っていない、という。
ましてや、もう店で鉛筆を売っているのをみたことがない、と。
それで、「懐かしい」といっていたのが印象的だ。

道具(ハードウェア)が問題なのではない。
だから、日本ではいまだに黒板と鉛筆がつかわれていることが、「遅れている」といいたいのではない。

これは、何度か書いている「教育用電卓」の授業での活用が、先進国で日本だけ導入されていない、ということの本質である。
なにをおしえ、理解させるのか?
についての「研究」とその「成果」が気になるのである。

つまり、生徒にぜったいにわからせる、という決心の表現なのだ。

子どもへの教育は、その国の将来をきめる。
官僚になれ、などという野暮なことではない。
よきクリエーターであり、ビジネスマンたるには、よき教育が必要不可欠だからである。

わが国がアジアのなかで唯一の成功体験ができたのは、教育にあったとはだれでもしることだが、明治期からのほとんどおなじ教育方法で、21世紀にも成功体験ができるとはかんがえられない。
これには、学校制度もふくまれる。

なのに、あいかわらずの変わらない発想で、プログラミングを重視するというのは、あまりに貧弱すぎる。

もはや、学校はレジャー化がすすんで、小学校までもレジャーランドになっている。
一方で、学力のほうは、民間の「塾」がたよりだ。

さらに、ネット空間では、動画再生回数が報酬をきめるというルールで、すぐれた「教員」が、免許の有無にかかわらず、すぐれた「授業」を制作して無料視聴できるようになっている。

そこには、ぜったいにわからせる、という決心にあふれているから、生徒が陥るだろう「わけわからん」の分岐点を先回りして、しっかり捕捉し、すっきりと「わかった」に導いている。

おしえ方がわかるのは、わからないがわかるからだ。

ネット動画の「ぜったいにわからせる授業」が、教育分野における「イノベーション」なのであって、学校でおこなうパソコンをつかったプログラミングの授業なのではない。

おとなはこのちがいを、ちゃんと認識しなければならない。