起訴と不起訴の好き勝手

わが国は、だれでもが「法治国家」だと思い込んでいる。
でも、実態は、かなりあやしい、のである。

「民事訴訟」と「刑事訴訟」が別れていて、さらにこれらとは別に「行政訴訟」もある。

そもそも論でいえば、国会で審議中、あるいは通過・成立した法律に対する、憲法判断を最高裁判所が「しない」ので、法律製造のたれ流しが行われている。
製造業で発生した、かつての「公害」が、法律の側面で発生しているのを止められない国になっている。

最高裁判所が知らんぷりして、他人事になれるのは、「事前」に内閣法制局がチェックする、という「掟」があるからである。
議員立法なら、衆議院、参議院それぞれにある、「法制局」がやはり事前チェックをしてから「法案」になっている。

わが国では、あまりにも「議員立法がすくない」ので、国会両院の法制局は、「なんでもいらっしゃい」という姿勢なのだ。
べつにいえば、「暇を持てあましている」。
議員立法「しか」ないアメリカ合衆国との違いは、ここからはじまる。

「たぶん」だけれど、権威主義の最高裁判所判事たちにとって、内閣法制局の官僚を敵にまわしたくない、とおもわれる。
「論破」されることを回避する、もっとも有効な手だては、関与しないことなのだ。

昨年の大統領選挙から、アメリカの連邦最高裁も息をひそめてしまったので、かなり深刻な事態になっているけど、わが国にてらせば、その深刻さの深さと広さは、わが国の側にある。
ずっと前から「常態化」しているために、目立たないだけだ。

裁判所がそんな具合なので、検察が好きにできる。
2001年に放送された、フジテレビ『ヒーロー』は、当時、全局対象で最高視聴率をたたき出したドラマである。

フジサンケイグループの産経新聞がどちらかというと「保守系」なのに、フジテレビの「進歩系」というコントラストは、より強化されて現在に至っている。
「楽しくなければテレビじゃない」がキャッチのテレビ局だった。

それで、楽しく観ていたひとたちに、「検察=正義」という、驚くべき勘違いをさせたのだから、このドラマ・シリーズの意図とはなんだったのか?
一種の、「褒め殺し」だったのではないかとうたがう。

ファンタジーを現実だと国民が思い込めば、あとは好きにできる。

これは、「狂気」だ。
国民が狂人に仕立てられて、政府がこれを支配する。
あたかも、『羅城門』のごとく。
なにが真実なのか?がわからなくなる。

さて、30日に、「検察」に関係するニュースが3本同時に配信されてきた。
・カジノ疑惑で逮捕された国会議員が、公判に及んで無罪を主張。
・通行人に催涙スプレーをかけたのに「不起訴」になった。
・泥水客から現金をだまし取ったのに「不起訴」になった。
⇒このふたつの不起訴について、理由を明らかにしていない、という共通点がある。

「無罪の主張」は、裁判でのことだから一応は公になっている。
ここで、「検察」による「逮捕」の不当が主張されることになるので、なんらかの判断を裁判所はしないといけない。
その意味で、裁判所は逃げられない。

ところが、あとの二つはどういうことか?
「不起訴」だから、裁判所に書類もやってこない。
つまり、警察に逮捕されたけど、検察の判断で「なかったこと」になったのである。

ならば、処分されるべきは「不当逮捕した」警察になる。

わが国には、国家警察はないことになっているから、都道府県警察のトップは、知事である。
すると、知事は、みずからの責任において、警察幹部から事情をきかないといけないのではないのか?

なぜなら、市民の安全をまもるのが知事に要求される最大の職務だからである。
その市民が被害者なのだ。
そして、犯人を逮捕した警察は、知事の配下にある。

念のため書けば、都道府県の警察本部長は知事の部下にあたるのだ。
いい方がちがうけど、警視庁の警視総監だっておなじだ。

すると、国家行政の法務省に属する検察が、不起訴の理由を明かさないということ自体が、「不祥事」である。
少なくとも、知事は検察に理由を公開質問しなければならない。
「起訴」したら、かならず起訴理由を公判で述べるのに、不起訴がその対象にならないということはあってはならない。

いかなる「法理」で不起訴にしたのか?

たとえば、「初犯だから」とか、「反省いちじるしいから」とかでもいいし、逮捕にあたって不法行為があったでもいい。
ならば、処分対象のひとだけでなく、警察も、二回目を許さない、とか、不法行為はまずい、ということになって、それぞれの防止に役立つのだ。

検察が裁判所の仕事を奪ってはならない。
であれば、裁判所は検察に「不起訴の実態を報告させる」ぐらいのことはしていい。

弁護士や検察官出身の議員はいるけれど、裁判官出身者が見当たらない。
あんがいと、「やめ裁判官」はいるものなのに。

これは、リクルートしない政党の怠慢なのか、なにか不都合でも?

欺瞞の「戦犯」

戦争犯罪人、略して「戦犯」なる「ことば」と「罪」が、戦後にうまれた。

人間の思考は、ことばによってなされるから、日本人ならふつうは国語たる「日本語」、アメリカ人ならふつうは国語たる「英語(米語)」をもって、思考する。

もし、本人が理解できない外国語をもって「思考している」というひとがいたら、周辺のひとたちはこのひとを「病気」だと認識するはずである。

だから、その言語の特性(文法)が、その言語を常用するひとたちの思考を支配している。
アラビア語を話して、イスラム教を信仰していれば、「アラブ人」という定義があるけど、日本にやってきて禁断の豚肉(とくに「トンカツ」)を食して、イスラム教から密かに離脱するひともいる。

すると、本人はアラビア語を話すひと「だけ」になるから、もう「アラブ人」ではない。
けれども、やっぱり日本人とはちがう思考をする。
ところが、長く日本に住みついて、日本語を習得したり、子どもや孫が日本語「しか」はなさなくなると、たちまち「日本人」になるのである。

「日本人より日本人らしい外国人」を、結構みかけるのは、日本文化ではなくて、日本語の威力なのであって、後から日本文化がやってくる。
すると、いつの間にか、日本文化の意味が体感的に理解できて、そこに「どハマり」することで形成されるのである。

日本人にも難しくなった、日本語特有の「敬語」の混乱は、尊敬したり謙譲したりする「場」を失ったためだとおもわれる。
この「場」の雰囲気が、尊敬語の使用を決めるのであって、暗記するものではない。

外国人には、もともとこうした「場」が自国文化に存在しないから、当初は日本語習得の「壁」になる。
しかし、「場の意味」を理解すると、おどろくほど日本語が上達する。

それが「茶道」や「武道」での「礼」なのだ。
さいきんではアニメによって、この理解を助けているから、まんがの文化的重要度はたかい。

ここまでは、日本自慢になるけれど、あんがいと古代からの伝統世界のことである。
そして、近代の自慢は、いきなり「産業国家」になってしまうのだ。
ここを、外国人は突いてくる。

木造の大寺院の借景が、ガラス張りの高層ビル。
そして、その高層ビル建築の「薄さ」や「安易さ」と、伝統世界とのギャップを、不思議がって楽しんでいる。

そうしてみると、戦後すぐにやってきた「戦犯」という概念の、「薄さ」やら「安易さ」やらに、日本人も気づかないといけない。
かえって、日本人らしい外国人の方が、よほど「気にしない」という正しさがあるのは、日本以外の「自国」にある「欺瞞」をしっているからだろう。

第一に、わが国に法的な意味の戦犯は「存在しない」のだ。
独立後、すぐに招集された国会で、全会一致をもって「戦犯の名誉回復」が決議されている。
ちなみに、この決議の発議は、日本社会党の女性議員であった。

第二に、「べき」が二つある。
占領軍による、「日本国憲法」の無効と、新憲法制定の「べき」。
わが国から無理矢理切り離された、サハリン(樺太)、朝鮮、台湾の軍人軍属に対する、国内法適用の「べき」である。

第三に、「戦犯」を糾弾する報道の欺瞞だ。
法治国家として、法的根拠のない「戦犯報道」は、深刻な誤解を国民に刷り込むことになる。
つまり、「占領」による欺瞞の意識的継続は、「従属の継続」を意味する。

簡単にいえば、独立国家として筋を通す「柱」がいまだに「ない」、のである。

だから、防衛問題が「経費負担の損得勘定(感情)」になる。
奪われた竹島や北方領土、それに拉致被害者は無視されて、なぜか尖閣だけは「本気で守る」という。

この島々の住人を強制退避させて無人島にしたのは、アメリカ軍の意向であった。
「射撃訓練場」として、陸地をボコボコにするからである。
なので、この島々の管理責任はいまでもアメリカ軍にある。

これが、政権交代してもアメリカ政府が「守る」という、法的根拠なのだ。
大陸の大国が、おいそれと「上陸しない」のは、アメリカ軍の「射撃訓練の標的」とされることをおそれるからである。

そんな下地のなか、元日本人でBC級戦犯で最後の生き残りだった、韓国人の李鶴来(イ・ハンネ)氏が96歳で亡くなったと報道された。
彼は、日本政府に「名誉回復と補償・謝罪」を求めていたが、1999年に最高裁は棄却した。

ここにも日本政府と韓国政府、それぞれの「欺瞞」がある。
・「元日本人」を切り捨てる日本政府と裁判所に、国会も動かない。

・日本はなんでも悪いという「だけ」の韓国政府。

当事者には、まことに気の毒なことである。

昨年8月、ロイターが伝えたところによると、オーストラリア国立大学のロバート・クリッブ教授は「自国民にだけ恩給を支給し、日本軍の一部だった朝鮮人に支給しなかったのは」不公平だと指摘している、と。

ここにも、むかしの日本人らしい外国人がいるのかもしれない。

ふつうの電卓考・再び

もう3年も前に「ふつうの電卓考」を書いた。
そのとき心配した、いまでは貴重な「置数式コンパクト電卓」がいかれてしまった。

代替機は存在しない。

これは、この機種のユーザーからしたらあきらかな「劣化」である。
メーカーを怨むより、売らなくなったのは皆が買わなかったからだと、べつの恨み節をいいたくなる。
もっと変態な、「逆ポーランド式」がまだ買えるのは、変態電卓好きのおおくのひとがいるからだ。

「数式どおり」という関数電卓や、そのスマホアプリもでてきたので、ちょっと複雑にカッコがある計算だと、そのままスマホに式を入力してしまえば、だまって正解をだしてくれる。
確かに、これはこれで「便利」だけれど、それでは「能がない」とおもってしまう。

せっかくだから、ふつうの電卓の機能を駆使して計算したい。
結果が不安だったら、スマホで確認すればよい。
わたしには、「逆ポーランド式」の方が手間がない。
これも、スマホのアプリになっているけれど。

さてそれで、ふつうの電卓を買うのにどうしよう?ということになった。
前に書いたのは、「√(ルートキー)」の有無だった。
今回は、「クリアキー」と「ゼロ」の位置関係が見た目の問題で、もうひとつが「定数(じょうすう)計算」のための「キー」の押し方がテーマである。

わが国の二大メーカーといえば、カシオとシャープだ。
じっさいに、知り合いの会計士たちもこの二社について、それぞれのこだわりで選んでいる。
だから、カシオ派とシャープ派にかならずわかれる。

カシオ派は、数学的厳密性を根拠としていて、シャープ派は利便性を根拠としている。
なので、いったんカシオ派、シャープ派になると、ほぼ一生、これを変えることはない。

電卓を常用するプロは、一定数いるし、新規の合格者(税理士や会計士)もいて、市場規模は確保されている。
なので、メーカーは、こういったターゲットに「選ばれる電卓」をつくらないと、たちまち衰退してしまう。

それに、電卓というのは電池交換以外で、蓋を開けることはない。
それも、太陽電池が常識化したから、電池交換もいらなくなった。
関数電卓だと、パソコンにつなげてシステムの更新ができるものがあるけど、ふつうの電卓にはこれがないのが「ふつう」だ。

つまり、もし計算プログラムに「バグ」があると、いきなり欠陥商品になるリスクがある。
パソコンや関数電卓のように、パッチ・プログラムをユーザーに配布して修正する手当ができないのだ。

だから、いったん発売された電卓は、なかなかモデルチェンジをしない。
その「完成度」が、プロたちからの「信頼」と同義なのである。
逆に、発売まえに、どんな計算の試験が社内でおこなわれるのか?

プロの卵たちは、資格者養成校の指導もあって、まず「電卓選定」というプロセスをかならず通過する。
学校側は、講義の円滑なる遂行のために、メーカーばかりか機種を指定する。

ここで、本人の一生涯に影響する「派」が育まれるのである。

「ふつうの電卓」の使い方を、ちゃんと説明書をみて確認するひとはすくない。
けれども、あんがい「奥深い」計算ができるのである。
もちろん、養成校ではこれを習得させるのに機種を統一するのだ。

いまの時代に、中学校で「ふつうの電卓」を採用して、操作方法と計算の妙をおしえないのはどういうことか?とおもうのだ。
「へぇー、べんり~」という応用をみせてから、定理や証明をおしえることが、よほど教育的である。

小学生にパソコンを配布するのは、ただの「利権」だろう。
給食にパンをだしたのはアメリカ農民の利権だったし、米に転換したのは、コメ消費のための農協利権だった。
そしたら、コロナでパソコン生産が間に合わなくて、全国一律の小学生向けパソコン配布ができなくなった。

高校生になったら、関数電卓やグラフ電卓をつかわせるのが、より理解を深めさせる「道具」であるのに普及しない。
予算が少ないと利権もないから採用されず、教師も教え方をしらないから、ここで「利害が一致」するのである。

さて、カシオか?シャープか?
結論は、「慣れ」と「好み」である。
こんな選択肢があることの幸せが、資本主義にはある。
役人の好みだけで生産規制がされたら、一生選べない。

まず、「キー配列」の見た目と遣い勝手ということでいえば、シャープに分がある。
「クリアキー」が、右上に配置されているのは、パソコンのキーボードの「デリートキー」、「バックスペースキー」位置とおなじだ。

カシオのは、「ゼロキー」の近くに配置されているので、ミスタッチで計算過程がおじゃんになる。
そして、その「ゼロキー」の位置が、整然としているのがシャープなのだ。

この時点で、シャープ派が形成される。
ただし、ブラインド・タッチを習得すると、特に右手にペンをもったまま左手で電卓を操作する技を得たばあい、人間工学的にカシオの配置が理想だというから、一概にいえない。

つぎが、「定数計算」で、決まった数の繰返し計算をするときに便利な機能だ。
シャープは「=キー」、カシオは「計算命令キー:+、-、×、÷ のそれぞれ」で、計算を繰り返したいときその回数を押せばいい。

ここで、カシオが有利にかわる。
計算させる感覚的にカシオは合致するし、数学的にも合致する。
もちろん、シャープが計算を間違える、ということではない。
「数式」としてのかんがえ方のちがいである。

理論的に几帳面なひとは、カシオ一択で譲れない根拠になる。

一般ユーザーからしたら、そんな厳密さはいらない、と思いがちではあるけれど、「定数計算」の便利さに慣れてくると、やっぱり「=キー」に違和感がでてくるかもしれない。

さて、「名機」と誉れがたかいライバル両社のどちらを選ぶべきか?
それとも、100均?
いやいや、ほんのちょっとでも「業務用」なら、100均はない。
おそらく、わたしの残りの人生時間をかんがえれば、今回が最後の選択になるのである。

さほどに長持ちするのが、プロ仕様だから、使用予定年数で割れば、高い買いものではない。
それでも、カシオはシャープの二倍のお値段。
フラフラっと、シャープかな?

 

スエズ運河の座礁事件

またまた「日本船」の不祥事のような報道である。

この船は複雑な契約形態になっていて、今回のばあい、持主である「船主」は日本企業の「正栄汽船」だけれど、定期貸船していて運航は台湾の「エバーグリーン(長栄集団)」であり、座礁した船の乗組員はドイツの会社(ベルンハルト・シュルテ・シップマネージメント)に委託していて、インド人乗組員25人が乗船していた。

当然だが、運河を航行するときは、スエズ運河庁の許可を得て、水先案内人が「かならず」操船することになっている。

26日、船主として正栄汽船の社長が「謝罪」したことが報道されたけれど、はたして船主にどれだけの「責任」があるのかは、事故原因の分析を要するのでまだはっきりしない。
その意味で、「とりあえず謝った」ということになろう。

しかし、この「謝罪」が、はたして国際的にはどのように受けとめられるのか?
もしや、船主に責任などないのに、先に非を認めたとなれば、責任が「あることにされる」ことだってありうるから、厄介なのである。

問題は、原因とされる「砂嵐」の予見可能性という自然現象に対する人間の「判断」なのである。

エジプトというか、広くは「サハラ地方」には、春先に年にして数回の砂嵐がやってくる。
日本でいう、「春一番」のようなもので、アフリカ大陸の南方からの暖かい風が、北の地中海に向けて「吹き荒れる」のである。

そして、地中海を越えてイタリアに到達すれば、それは、「シロッコ」と呼ばれ、ギリシャでは、「ガルビス」という。
フォルクスワーゲンの「シロッコ」も、この嵐に由来する命名だ。
春先にローマで強いジメジメの南風と雨が降るのは、海の湿気を得るからである。

アラビア語で「サハラ」とは、「砂漠」のことだ。
だから、「サハラ砂漠」とはいわず、ただ「サハラ」という。
「砂嵐」といっても、その「砂」は、まるでパウダーのようで、二重サッシの窓でも家に入り込み、テーブルや床に指で絵が描ける。

なので、口や鼻を布などでおおわないと、呼吸できないほどなのだ。
そして、もっと悪いことに、エジプトでも雨が降るのである。
すなわち、年にして数回の砂嵐とは、その回数だけ、雨が降るということだ。

これが、わたしが経験したもっともひどい雨で、パウダー状の砂を含んだ水なので、服につけばシミになって洗濯してもなかなか落ちない。
ふだんの大気汚染の物質も、包み込んでいるのだ。

自動車のフロントガラスは、たちまちにして視界不良。
ぼたん雪のように落下してくる。
そして、真昼でも一天にわかにかき曇って、暗くなる。
砂混じりの雲が、太陽を遮断するからである。

ワイパーだけでは排除できない。

本物の雪とちがって、水分をふくんだ砂なので、ワイパーゴムがフロントガラスを引っ掻くのである。
だから、ワイパーの往復数回で、ウォッシャー液をがんがん吹きかけて流さないといけなくて、吹きかける水が底をついたらもう運転は不可能だ。降り出したら、せいぜい30分が限度である。

しかし、ワイパーを装備している自動車がすくない。
もちろん、新車購入時でもワイパーは「オプション」なのだ。
年に数回しか必要ないなら、わらえない。
つまり、砂嵐の日に自動車に乗るばかりか、外出してはいけないのは、たちまち大渋滞が発生して、家に帰れなくなるのである。

日本人が想像する霞のような光景の後にやってくる雨が最悪なのだ。
ガラスに付着した濡れた砂が積もって、視界がゼロになるのである。
これは、船の操舵室だっておなじだろう。
しかも、船にウオッシャー液なんてあるのか?

そんなわけだから、砂嵐がやってくるという天気予報は、はずれない。
エジプトの天気予報は、これ以外ぜんぶ「晴れ」なのだ。
だから、エジプト人は天気より気温予報をすこしだけ意識している。

民族には、距離感や数の概念で特徴がある。
とくに日本人は、なんでも数えるという、やや病的な特性があるのだけれど、外国人には理解できない。
日本語には、やたら数の単位があるのだけれど、複数形がない。

アラビア語も、ご多分に漏れず、複数形はあるけど、やっぱり数の単位はない。
タンスを「ひと棹、ふた棹」なんて数えないのだ。
そのかわり、「たくさん」という意味で、「40」をつかう。

両手両足の指の数の2倍をもってして、「たくさんになった」という説がある。

『アリババと四十人の盗賊』と聞けば、日本人はきっかり40人の盗賊たちがいると想像する。
でも、本場のひとは、「アリババとたくさんの盗賊」というイメージなのである。

『千夜一夜物語』は、日本語版で、ほんとうに「1001話」になっているけど、アラブ人には、ほとんど永久というイメージだ。
40の何倍なのか?

だから、砂嵐のことをアラビア語で「50(ハムシーン)」という。
「40よりすごい」という意味だ。
天気予報が、「巨大な低気圧の砂嵐」と予報すれば、「50の2倍=100だ」といって大騒ぎする。

すると、事故当日、確実にあたる天気予報はあったはずで、雨が降るとどうなるか?もしらないエジプト人はいない。
インド人乗組員がどうかはしらないけど。

わたしの疑問は、なぜにスエズ運河庁が「航行許可」を出したのか?にいく。
もしや「袖の下」で、江戸時代の「川止め」を回避しようとした行為に同意したのか?

1956年の「第二次中東戦争」は、別名「スエズ戦争」といわれたものだ。
ナセル大統領が、スエズ運河の国有化を一方的に宣言したことに反発した、イギリス、フランス、イスラエルが仕掛けた戦争だ。

ナポレオンのエジプト遠征以来、フランスはエジプトにちょっかいをだしていたし、そのフランスを追い出したのがイギリスだ。

ちなみに、ナポレオンは、古代エジプト・プトレマイオス朝時代に「あった」とされ、すぐに砂に埋まった、スエズ運河の「可能性」を近代測量させて確認したが、地中海と紅海の高度差がある、と誤認して着工を断念している。

そして、イギリス人は、「エジプト人にスエズ運河の運営なんてできっこないから、われわれが管理してやるのだ」と言い放ったものだ。

ところが、スエズ運河には、日本企業が深く関与している。
それが、国内では準大手ゼネコン扱いされている「五洋建設」だ。
この会社の真の姿は、海洋土木に特化した「マリコン」なのである。
その浚渫(しゅんせつ)技術は、世界一の定評がある。

五洋建設の技術がないと、古代のように砂に埋まる。
おそらく、座礁船の救出にも、五洋建設が活躍しているはずである。

さては、当日のスエズ運河庁の判断の意味は?

そして、正栄汽船の社長に「落ち度」があったとすれば、上述の現地事情もしらなかった、ということになる。
船主として、スエズ運河をみたこともないのだろうと推察する。

まさか、こんなひとが、ふだんから「現場主義」をいっていたら、それはもう「まんが」なのであるけど、かんがえすぎか?

官僚の劣化は「幸い」である

「前代未聞」の事態である。
政府提出の24本もの法案にミスがあったことがわかったのだ。

法案に「政府提出」があるとは、アメリカではありえないことだと、念のため認識しておくことも重要だ。
つまり、「行政府」から「立法府」にあたらしい法律が提案されて、立法府がこれを採決すれば、それが、「法律」になるとは、行政府による立法府の「乗っ取り」にもみえるからである。

ところが、わが国には順番がおかしなもう一つの「仕組み」があって、それが「与党」における事前の検討会である「政調会」と「総務会」があることだ。
ここに各省の立案担当者がやってきて、「説明」する。

これが、事実上の国会内「委員会」にあたる。
そうやって、事前に政調会が承認すると、こんどは「総務会」で党の意志としての決定をするはこびとなって、重要な決定には「党議拘束」という所属議員への「強制」もある。

すなわち、総務会決定とは、事前の「閣議決定」になっている。

ここからみえてくるのは、議員に法案立案能力が「問われていない」、ということである。
お膳立てはぜんぶ官僚が用意する。
それを、与党内で承認決定すれば、もう国会決議で決まったも同然になるのである。

そして、左官屋でいう親方の独壇場である「仕上げ塗り」のごとく、政府法案そのものの仕上げをするのが、「内閣法制局」なのである。
自民党をふくめてわが国の政党に「法案策定」の機能がないのだ。

この「致命的欠如」こそが、いわゆる「政治改革の本丸」なのである。

これを無視しつづけて、各省庁から出向してくる高級役人(エリート中のエリート)が、最終チェック(過去の法律と整合性をとる)をして、これが、「閣議決定」を経て国会に提出される。

つまるところ、政府提出法案の「親方」は、内閣法制局なのであって、党の独立はなく、政府に依存したままなのである。
この点、中国の体制は、ずっと「近代的」で、政府は党に逆らえない。

しかしこれは議員にとって、たいへん便利な仕組みである。
と同時に、各省庁の役人にとっても、たいへん便利な仕組みなのだ。
じぶんたちのやりたいことを、党の有力者と「つるんで」すれば、できないことはなくなる。

わが国は、中国と逆方向から、政治と役所が結託しているのである。

頭脳明晰な犬種や個体で、主人とおぼしき人間を、じっさいにコントロールしている犬がいる。
おやつ欲しさに吠えたり(おやつをよこせ)、頭をなでさせたりする(なでろ)だけなら、まだ序の口なのである。

そんなわけで、中国人はこのような人物を蔑むけれど、長い時間、わが国の主人は、選挙で勝った政治家のようでいてじつは、公務員試験に受かった役人が仕切ってきたのである。
これを、逆転させた「かのように」振る舞ったのが、天才、田中角栄だった。

生涯「33本」という、「空前絶後」の議員立法を成立させたことが、上記の「仕組み」からしたら、いかに「異常」なことであるか?
けれども、田中は、自分の事務所に官僚を呼んで、法案立案のアルバイトをさせたのだった。

「学歴がない」ことから、政調会も総務会も信用しない。

そのために、自派を拡大させる必要は、他派よりも「強い切実さ」があったのである。
そこで、カネをつかった。
地元への予算配分で、集票・集金マシーン化させて、それが自派議員によって全国に拡大し、とうとう自民党ぜんぶに浸透した。

こうして、知事は事実上の「留守居役の家老」になって、地元有力国会議員が、江戸表で予算を得るのに依存した。
しかし、二つの理由で体制がゆらぎはじめたのである。

第一が、「財政危機」という財務官僚がいう「絵空事」にからめ捕られて、「マシーン」の燃料である中央からのカネが減ったのである。
第二が、優秀な学生が官僚になりたがらない、という現象がはじまって、「起業家」になりたがるようになった。

優秀ゆえに、一度の人生をみずから開く自信もあるし、それなりの「制度」が整備されて、資金調達ができるようになったのだ。
たとえば、「クラウドファンディング」がそれである。
硬直化した銀行から、ありもしない不動産担保を要求されることもない。

しかも、「ブラック企業」の典型こそ、役所なのである。
駆け出しの高級官僚ほど、地獄のような労働環境におかれる。
「超」長時間労働だって、むかしは「天下国家」を支えるという気概でやっていたけれど、とっくにそんなものはなくなった。

省益追求の実態と業務が合致したのである。

学校の先輩訪問をすれば、役人なんかになるな、といわれて、その先輩も退職して民間に就職するか起業するのをみているのである。
おそらく、その心は、「割に合わない」ということだろう。
民間やらで同級生が稼ぎ出す年収にかなうはずもない。

これは、「親藩」と「外様」の概念が消滅したからである。
親藩には年収は少なくても、重い職務と権力が与えられることで満足できた。
でも、国家の衰退がはじまって、そんな状態の将来に重い職務と権力なんてぜんぜん魅力がなくなったのである。

緊急事態宣言で、とうとう「留守居役の家老」に強大な権限が移ってしまった。
それでもって、うれしくて、知事たちが余計な権力行使にはしっている。

雪に喜ぶ犬のよう、なのである。

けれども世の中、悪いことばかりではない。
政府法律案が間違っていても、そもそもの「仕組み」が変なのだ。
政策立案をじぶんでする「近代政党」がでてくるきっかけでもある。
優秀な学生が付加価値創造を決してしない、政府に勤める理由もない。

わが国復活の「必然」がはじまったとおもえば、「幸い」なのである。

ロンドンオリンピックの怪

拝火(ゾロアスター)教の流れをくむ、「聖火」リレーがはじまった、とニュースにある。
興味がないものだから、オリンピックで記憶があるのは、ロサンゼルス大会(1984年)ぐらいまでである。

その後の、ソウル、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ、北京/香港、ロンドン、リオデジャネイロ大会は、ほとんどなにも観ていないので、当然だが記憶もない。
冬の大会は、札幌(1972年)以外、同様に記憶がない。

オリンピックや各種スポーツ競技に興味のあるひとからは、相手にされないか、ばかにされるだろうけど、仕方がないことである。
趣味にしている「クレー射撃」は、世界選手権のDVDなどを購入して観たことがあるけれど、ぜんぜん上達の参考にならないのだ。

レベルがちがいすぎるからであるけれど、一流選手の「構え」には基本の「きの字」もなく、その独特さは真似もできない。

プロ野球は、横浜居住だから、ではなくて、本拠地が川崎の時代から、「大洋ホエールズ」のファンだったのは、その試合が「大味」で、いつも負けるけど勝つときは「バカ勝ち」のメリハリが好きだった。

それに、川崎球場にいけば、かならず外野方面での「けんか」が観られた。
酔ったおじさんが、他球団ファンに「からむ」からである。
このワイルドさ。

すると、警官隊がやってきて、おじさんを連れていく。
おなじひとではないだろうに、「かならず」酔ってけんかをするひとがいたのである。
それでも魚肉ソーセージとか、大洋らしいお土産をもらえた。

横浜にやってきたら、スマートな大洋ホエールズになって、観客もスマートになった。
だから、けんかの現場を観ることはなくなった。

弱小広島の黄金時代を築いた、古葉監督が、横浜にやってきて「細かい野球」をやろうとしたけど、できなかった。
もっとも、大洋ホエールズをつまらない時代にしてくれた。

オーナー会社が大洋漁業でなくなってから、ホエールズの名称もとれた。
そんなわけで、プロ野球にも興味がうせたのである。

さて、いま、ネット界隈では、「ロンドンオリンピック開会式」が話題になっている。
いったいぜんたいどういうことかといぶかったけど、せっかくだから探してみたら、4時間にわたる動画がのこっていた。

2012年、7月28日「公式」のライブ配信とおもわれる。
再生回数は、1430万回を超えているけど、そんなものか?
いいね、10万。逆は9000弱。

女王陛下の入場もふくめて、さまざまな行事がとりおこなわれているけれど、だんだんと不可思議な演出になっていく。

たまたま、だとはおもうけど、空撮されているスタジアムの電光装飾が、なんだか見馴れてきた「コロナウィルス」とかさなる。
そして、どういうわけか、フィールドにたくさんの白いベッドがあって、そこに子どもたちがパジャマ姿で跳ねている。
看護師の姿をしたおとなたちが、こちらも踊っているのである。

ところがそこに、『仮面ライダー』のショッカーのような黒いひとたちが這うような不気味な格好であらわれて、なんだか『ばいきんまん』のようなのだ。
すると、とあるベッドが子どもごと空中に吊り上げられて、その横には巨大な悪魔が立っている。

もっと不思議なのは、ジョンソン首相にそっくりな人形も、ベッドの中で寝込んでいるのだ。
このとき、彼はロンドン市長で、オリンピックの準備をしていたのだった。

だから、でもないが、現職市長をイギリス風にからかったというのが当時のこの演出なのだろうけど、その後に首相になって、コロナで生死をさ迷ったこととこのシーンが妙につながるのである。

祝典としての開会式が、どうしてこんなに不気味なのか?
あまりにも、グロテスクなのである。

日本語でこの映像をどう解説していたのか?

さらに、このとき、日本選手団は飛ばして放送されている。
「ジャマイカ」のつぎに日本選手団の入場行進がちらついてみえるけど、そのつぎが「ヨルダン」の紹介になっている。

もっとおおきな「事件」は、トラックを行進して周りながら、日本選手団は「会場外」に誘導されたのである。
これに、JOCは「困惑した」と、別の動画にある。

ぜんぜんしらなかった。

さまざまにいわれているのが、「放射能汚染」が理由だという説があり、真相ははっきりしていない。
なお、ドイツ選手団も封鎖されたということがあったので、「日独」という意味深な見方もある。

興味深いのは、イギリス人のイギリス人たる「常識」や「教養」がテーマになっていて、それを解説なしにわれわれはにわかに理解できない、ということである。
だから、ぜんぜんユニバーサルではない。

むしろ、大英帝国という「ローカル」の強調こそが、「らしさ」をつくる要因であると、あらためてわかるのだ。
はたして、イギリス人のひとりよがり、といって批判はできない。

東京オリンピックの演出はどうなるのか?
現代の「日本らしさ」とはなにか?
「ハレ」ばかりでなく、「ケ」を表現するのか否か?
それを、国をあげての演出としてどうするのか?

気になるのは、ここだけなのである。

継続困難の国民皆保険

健康だと損をする。

これが、「国民皆保険」の本質である。
医学の進歩なのか迎合なのか?
「保険適用」がどんどんされるから、やっぱり健康だと損をする。

うそみたいな不平等なのに、あたかも平等主義の理想郷だと信じて疑わないのが日本人だ。
それもこれも、会社に雇用される、という被雇用者に適用される「源泉徴収」という方式が、負担感をなくすブラックボックスになっているからだとおもわれる。

わかりやすい例として、「住民税」がある。
この税の徴収方法は二種類。
・普通徴収
・特別徴収

「普通」の方は、納めるひと本人が、自宅に送付されてくる「納税通知書」に基づいて自分で支払う方法をいう。
「特別」の方は、勤務する会社が毎月の給与から住民税を控除(天引き)して納める方法をいう。

「働くひと」という側からすると、圧倒的多数の「被雇用者」には、「特別」が、「被雇用者」よりすくない「個人事業主」には、「普通」が適用されるという、ことばの妙がある。

これは、「国家総動員法」によって源泉徴収制度ができる以前からの、「尾てい骨」のような、過去の常識の「遺跡」のようなことなのである。

つまり、その前の日本人は、住民税を「普通」のやり方で納付していた。
後からできた、源泉徴収制度が「特別」だったのである。
なぜなら、会社に雇用される、という被雇用者だって、みんな「確定申告」をしていたからである。

それに、工場に勤務する職人も二種類いて、むかしは「渡り職人」と「子飼い」といった。
日露戦争後でも、職人の異動率は100%だった。
つまり、おなじ場所で働く職人は、1年で他に異動したということだ。

いわば、自分の腕と条件次第で、企業を「渡って歩く」のがふつうだったのだ。
しかし、技術の進歩という機械化もあわせて、大規模工場ほど「渡り」をきらった。

条件次第の条件が、だんだんと労働争議になっていくからだし、それまでの職人の伝統的技術だけでは機械化に対応できない。
そこで、大企業ほど、自社内で訓練をして職人の養成をはじめた。
これを、「子飼い」といったのである。

第一次大戦による好景気を機に、定期採用という方式もうみだして、自社からの職人流出と、他社からの職人の流入を止めた。
これが、日本的長期雇用のはじまりである。
「子飼い」を重視して、「渡り職人」を排除したのである。

そうやって、年功賃金制もできたし、企業別組合もできた。
つまり、あんがいと第一次大戦は、その後のわが国に重要な時期にあたるのである。

その後、昭和になってからの「戦時統制」を経て、戦後体制に移行した。
しかし、現代にも「戦時統制」が続いているのがわが国で、あまりにもそれが「ふつう」なので、気づかないで生活しているのである。

すなわち、わが国は、いまだに「国家総動員体制」が連綿として続いているのだ。
この体制を、強烈にとんがらせたのが、「北」だとかんがえれば、こちらにも「旧日本」の一部として、尾てい骨のようなものがある。

政府の「働き方改革」が、実質には残業対策でしかなったことは、この「国家総動員体制」を崩したくないからである。
しかし、そもそも「働き方改革」がひつようになってきたのは、「働かせ方」に変化がうまれたからである。

その理由は、経営者が「人件費」を「費用」とかんがえることが、常識になったからである。
これは、経営者たちが「渡り職人」になったからできる発想だ。
それで、「損益計算書」という「計算書」にすぎないものを、「利益」創出の情報源だと勘違いしたことが最大の「原因」だ。

いい悪いでいえば、「お粗末」なのではあるけれど、残念ながら経営者にはなにかしらの権力がある。
これを推進しても、はたらく側が自己防衛しても、どちらも結果は「雇用の流動化」ということになった。

「デジタル・スキル」とかがさかんにいわれていて、自己研鑽につとめるひとが多数なのは、日露戦争前の「渡り職人」の時代にもどったからである。
すると、現代の「新しさ」とは、はたらくひとと経営者たちの「両方」が、渡り職人になったことだといえる。

つまり、どちらも「請け負い」という方式での「働き方」になったのだ。
これに、労働者不足からの外国人雇用も常態化すれば、第一次大戦後にできた「日本的雇用慣行」が維持できるはずもない。

すると、その先にある、「国家総動員体制」が成立しにくくなることは、ほぼ確実だ。
そのためにいま、政府(中央も地方も)それに野党も、全力をあげて国家総動員体制の維持に邁進しているとかんがえることができる。

わが国では、これを、「保守」という。

たとえば、「オリンピックの開催」とか、「コロナ」に、「生理の貧困対策」とか、あらゆる方面に「行政が介入する」ことを正義として、国民に「甘い飴」を与えながら、全体統制をするという「鞭」をかくすのである。

しかし、稼ぐ手段の大変化は、政府の思惑とは逆の方向にすすめる原動力となる。

古典的社会主義政策の理想、「国民皆保険」も、根底から問われるようになるし、市民税の「普通徴収」が「ふつう」になる。
「副業」が許されれば、「特別徴収」の計算が崩れるからである。
「労災保険」だってどうなるものか?

すると、健康なら得をするという、「正常化」も達成する。

記者会見とワイドショー

グローバルダイニング社が、とうとう東京都を訴えた。

ネット上で、評価できるのは「TBS NEWS」だけが、会見の様子を「編集なし」でぜんぶをアップしていることである。
とはいえ、33分程度の短さだから、これは業界関係者ならずとも、一般人だって「観るべき」ものだ。

その理由は単純で、戦後最大の「事件」が、コロナ・パンデミックだし、この対策にまつわるまっとうな「反抗」であるからだ。
にもかかわらず、報道他社の対応には誠意がみじんもない。
せいぜい「3分」程度にまとめているけど、「まとめ」になっていないのだ。

法律論では、憲法における「言論の自由の侵害」も提訴理由に挙げている。
このことに「言及しない」のは、報道の対極にある「ワイドショー」であった。

「損害賠償」という狭い世界でのはなしにしたい。
そんな「要望」が、出演者たちに指示されて、「敗訴」をにじませたムダな抵抗にしたいらしい。
「支持」ではなくて、「指示」である。

だから、日本人は、ぜったいにワイドショーを観てはいけない。

あいにく、テレビがないから、念のためにチェックしたワイドショーも、そのままぜんぶを編集なしでネットにアップしているのを観たのである。

誰かが録画してネットにアップをしても、すぐさま削除させるから、NHKの放送はネット上でも観ることはできない。
受信料を払っていても、オンデマンドだって有料なのだ。
二重請求ではないのか?

グローバルダイニングの社長は、業界仲間と一緒に訴えることも模索したらしいけど、かなわなかったという。
ある意味、業界の「ふぬけ」を曝露した。
しかし、かれのいう業界とは、飲食業界のことだろう。

6万円/日のお金がもらえて、「助かる」お店と、「はなしにならない」お店がある。
経営規模による対応策に差がないのは、行政側が仕組んだ「わざとの分断策」であるのに、「緊急で時間がなかった」という言い訳がまかり通っている。

日本の官僚がその気になれば、どんなに細かいことだってやり遂げるのに。

飲食店よりもっと「密」な、理美容やマッサージなど、いっさいの補償がない業界は、じっとガマンするしかない。
「中小零細企業」が、どんな就業分布なのかを政府がしらないはずはない。

つまり、見殺し、という結論を導いたのである。

それは、ウィルスに罹患することでの「見殺し」ではなくて、社会的抹殺という意味での見殺しである。
今回の提訴理由で、トリガー(引き金を引いたきっかけ)となったのは、「時短命令」発令理由として都が文書でしめしたことが、言論の自由に抵触するのである。

SNS等で、「時短要請に応じない」ことを拡散し、他社に悪影響(応じないことの拡散)を及ぼす恐れがあるから、当該店舗を経営する会社に発令したのだ、と。
すなわち、社長がいう「みせしめ」なのであって、これは、「見殺し」ではなくて、積極的に営業妨害する、という権力の濫用のことだ。

そこで、社長は、命令の「科学的根拠の提示」も求めている。
「立証責任」は、命じる側にあるからである。
このことは、重大である。
なぜなら、科学的根拠はほぼない、とかんがえられるからである。

すると、都は国への責任転嫁を図ることになるだろう。

しかし、国は国で、都がいう「病床の数」が、国家基準でなく都の独自基準だったことを盾に、言い逃れを図るにちがいない。
緊急事態宣言の発令根拠は、「病床の不足」による、「医療崩壊の回避」でしかないからである。

このことから、本提訴の「狙い」がわかるというものだ。

国と都を「分断させ」て、どちらも「論理破たん」に導くこと。
損害賠償として請求したのは、「104円だけ」なのは、こうした「狙い」からすれば理解できる。
そして、狙い通り論理破たんが明らかになると、雨後の竹の子のように、いっせいに訴訟が起きることだってありえる。

ドイツで200兆円の集団訴訟(テドロス氏ほかへの「個人賠償責任訴訟である」)が準備されていることの日本版である。
そうなると、たとえば尾身氏とか、大臣としてではなく個人としての西村氏とか、おなじく日本医師会の会長個人とか、さらにワイドショーで煽った専門家とかプロデューサーが、相手になるかもしれない。

なるほど、それでワイドショーは、この提訴をあくまでも「損害賠償訴訟」として扱って、「敗訴」してほしいと要望しているのだとすれば、つじつまがあうのである。

ならば、この裁判は、今後のニュースでもちいさく扱われることになる。
これを、「弁護団」はどうするのか?
一方で、個人賠償責任がとわれる可能性がある立場のひとたちは、とにかくパンデミックを拡大しないと自分たちがやばい。

そんなわけで、国は解除したけれど、ますます国に依存する県などは、これを援護するべく、ちいさな数字を巨大化させて、できるだけ大袈裟にしようとするだろう。
そのご褒美は、国からの「予算(予備費)」なのである。

さっそく、宮城県が?

追伸:
グローバルダイニングでは、裁判費用支援のクラウドファンディングもはじめていて、サポーターは、1800人をこえて、すでに目標額(1千万円)を達成した。
けれども受付はおわっていないので、念のため。

天気と冬の水羊羹

お彼岸の「春の嵐」がようやく過ぎた。
20日土曜の「中日」にお墓参りにいったひとは、ほっとしていることだろう。
あるいは、「天気予報があたった」と。

いい悪いの議論をやってもいいと思うことのひとつに、天気を国家が独占することを決めた、『気象業務法』(昭和27年8月1日)がある。
わが国が独立したのは、同年4月28日だから、独立後にできた法律である。

しかも、「附則」をみると、7月31日に2本出ていて、1本目が「公社法の施行の日から施行する」とあって、同日2本目に、翌日の「8月1日から施行する」となっている。
気象業務は「公社」扱いで「専売」を意図したのかもしれない。

ついでにいえば、ゴールデンウィークに「独立記念日」を入れない理由もしりたい。

昨年9月の巨大台風10号の「予報」にあたって、ネットではアメリカ(ハワイ太平洋軍)とヨーロッパの気象情報を訳して、衛星写真付きでつぶやいたひとに、「気象業務法違反?」の「返し」があって、台風そっちのけで大議論が巻き起こったものだ。

おもしろいことには、この法律に疑問を呈するニュース記事が、なんとあの「NHK」がだしている。
しかも、「WEB特集」という形態なので、ネットブラウザで検索しないとでてこない。

放送局が放送しないで、記事としてだす不思議。

気象庁やら日本気象協会に忖度したのだろうか?
それで、東大とJAXAが開発した「洪水予報」を、気象庁が「許可しない」ことを報じている。
この理由がまた、論理破たんをしているけれど、東大でも理系は文系卒業者にかなわないことをおしえてくれる、「好例」になっている。

そういえば、小学生が難関という「気象予報士」に合格したという、明るいニュースがあったけど、本人が予報をするときに、おとなの世の中の理不尽にあたること確実だから、おじさんとしてはなんだか哀しくもある。

気象予報士が予報していい「範囲」が、この「業法」でさだめられているからである。
それらの規制は、ほとんどが70年前基準なのである。
そんなわけで、ちゃんとした気象情報は、アメリカ軍が発表するものがいちばん正確なのである。

さてそれで、すっかり、空気もゆるんで春の気分になってきた。

季節の贈り物によく選ばれた「水羊羹」は、お中元の定番でもあった。
つめたく冷やして食べるので、夏向けの贈答品になったのだろう。

すると、冷蔵庫が普及しないと冷やせないから、あんがい最近の「常識」なのだ。
それに、缶切りを必要としない、パカッと開けるちいさな「缶詰」が、いっそう贅沢さをあらわしていた。

かつて来日した外国人が驚いたことの定番に、どこにでもある自動販売機とそこにある、ちいさな「缶コーヒー」(かれらは「コーヒーの缶詰」といっている)がよく指摘されていた。
そうなのだ、ほんのちょっとで食べきったり飲みきるものに、わざわざ「缶」をつかう贅沢。

前にも書いた、「丁稚羊羹」は、正月休暇の丁稚さんが故郷に帰省するときに、店の女将さんがよこしてくれた、ボーナス代わりのひと品だった。
いまでも、練り羊羹が高級品なのは、小豆と砂糖のかたまりだからである。

むかしとちがっていまは、国産小豆のほうがよほど高級になったけれど、むかしはとにもかくにも砂糖が高級だった。
とくにサトウキビからとれる「白砂糖」は、精製して白くなる逸品で、わが国では沖縄の名産だし、北は北海道のてんさい糖がこれにつづく。

どういうわけか、北と南の先端でしかとれないから、貴重だったのである。
もちろん、北海道でとれるようになったのは、開拓使が渡ってからのことであるし、台湾が日本だったときは、台湾の砂糖「台糖(台湾製糖株式会社)」がなんといっても有名だった。

後に三井製糖になって、「スプーン印」はいまも健在だ。
ちなみに、台糖はペニシリン培養技術から、後にファイザーと組んで、1955年に台糖ファイザー社ができて、ファイザーの日本法人となっている。

そんなわけで、国産砂糖の生産は、原材料の生産がないとできないので、高額な「関税」とともにある。
沖縄と北海道の農場を保護する名分で、そうなっている。

色が似ているけれども異なるもの。
それは、チョコレートだ。
さいきんは、「生チョコ」がとにかく高級で、好まれている。
材料はカカオと砂糖、それに乳。

こうしたものが、贅沢だから好まれるのを否定はしない。
でも、どこからやってくるかを、どうしたことか、地球環境や人種差別とかに過敏なひとたちがぜんぜん発言しないのも不思議である。

ここに、ご都合主義の匂いを感じる。

石垣島とか、伊豆でも挑戦がはじまっているのは、国産カカオの栽培である。
いまでも、カカオは西アフリカのガーナを中心に栽培されているけど、それは気候「だけ」が適しているからではない。

人力による管理と収穫が必要だからである。

チョコレートの苦味とは、このひとたちの労苦の味なのである。
西アフリカがどんなところか?
ほんのちょっとでもいいから、かんがえるのがいい。
ガーナのひとはチョコレートを常食しているのか、も。

すると、女将さんからもたされた羊羹を、溶かして薄めて水羊羹にした、かつての日本人の気持ちもわかるのである。

「やめられない」ことの本質

「惰性」のことである。
わたしはをこれを、「社会的な『慣性の法則』」と呼んでいる。

「慣性の法則」は、物理でいう「運動の第一法則」といういい方もある。
『物体に力が働かない場合、物体は静止し続けるか、等速度運動する』。

結論を先にいえば、社会的な慣性の法則がはたらいて、「自己目的化」する。
これが、「やめられない」ことの本質だ。

たとえば、わが国には「NHK問題」がある。
このための「政党」だって複数設立されて、国会議員だっている。
国営化とか民営化とか、むかしから議論はかまびすしいけれど、ぜんぜんそうならないし、NHK自体はこの間もしっかり肥大化している。

「受信料」が問題になるのは、いまでは納得できない強制ばかりか、強引な契約勧誘があるからだ。
さらに、ネット環境が「受信料請求の根拠」になりそうな雰囲気が漂っている。

しかし、ことの本質は、「存在の自己目的化」なのである。

きっぱりいえば、「廃止」がもっとも望ましい。
その上で、どうやって解体し、残余の資産を受信契約者に返還・分配するか?が問われるのである。
ために、「オークション」をすればいい。

とくに番組コンテンツは、ひとつずつオークションにかければいい。
さすれば、数年もかからずに、「NHKの番組」という記憶も消え去るのである。

こうしてかんがえると、「白紙化」という作業は、あんがいと「生産的」なのである。
この効果を狙って、「業務(仕事)の棚卸」をおこなうことがある。
そのために、「業務フロー図」を書き出すことが有効とされている。

たまにでも、定期的でも、職場ごとに「業務フロー図」を書くのがいい。
初めてのばあいには、驚くほど時間と手間がかかるので、経験者はだれもが「驚く」のである。

毎日やっていることを紙の上に書き出すだけの業務フロー図が、はたと止まって「書けない」ということの発見が、実はおおきな「気づき」になる。
これを見た経営者が、唖然とするのは2パターンある。

1:うちの従業員はバカばかりだ。
2:なんてこった。これは経営がなっちゃいないということだ。

だいがいは、「1」のパターンである。
そんなひとほど、経営者としての自分の業務フロー図をまったく書けない。
それにはもっともらしい理由があって、「ルーチン業務がない」すなわち、定式化できない、というのも「パターン化」されている。

しかも、書く気もないから、書く前に上記の理由をあげて、ぜったいに書こうとしない。
直感的に、書けないことがばれるのを畏れるからではないか?とおもわれる。

そんなわけで、ほぼほぼ確実に、業績不振が恒常化している企業や、業績は悪くないけど社内の人間関係がなんとなくうまくいかない会社の、典型となるのである。
そして、やがて悪くなかった業績に陰りがやってくるものだ。

これぞ、「惰性の経営」なのである。
経営者が会社経営に、「影響力」という「ちから」を行使しないので、物体ならぬ「組織」が、完全に「運動の第一法則」に従うことになるのである。

こうしたばあい、経営者個人のかんがえも、たいがいが整理されていない。
ようは、「なにをしたいのか?」という、運動のもとになる思想がない。

人間行動のエネルギー源は、動物としてのエネルギー源である食べ「もの」のほかに、欲求という脳がもとめる「こと」がある。

日本語だと、「もの」と「こと」が、妙に曖昧になるのは、日本語は目的語の語順を問わないからだともいえる。
この点、英語などは、日本語の「助詞」にあたることばがない代わりに、語順がその役を担っている。

もっといえば、日本語は主語からして、ぜんぜん語順を気にしない。
どんな語順であろうとも、意味がおおきく変化することはない。
ところが、おおくの外国語は、そうはいかないのであって、語順に「厳密さ」がもとめられる。

だから、「ひと」⇒「もの」という順番が固定されている。
人間が「もの」やら「こと」を、かならず制御するという、言語的な特性は、そのままその言語を母語とする人間の思考パターンなのである。

歴史学の大家トインビー博士が、世界文明の分類に、「日本文明」を独立して示したことの背景には、こうした言語特性もふくまれる。
これを、トインビー博士の日本贔屓と解した日本人学者がいたのは、悲喜劇であった。

すると、曖昧さの良い点をもっと意識していいのだけれども、その前に、他文明との「ちがい」をしっていないといけない。

どうやら、「慣性の経営」が、わが国をとりまく人たちとの競争で不利になるなら、それを改めるのはきわめて重要なことになる。
しかし一方で、上記の「2」だって、立派な気づきなのである。
江戸時代の大店の主人でも、きっと気づくことだろう。

すると、こないだ書いた、自分の考えを整理するマインドマップが、やっぱり「便利」なのである。

緊急事態宣言は解除になったけど、かならず「惰性の政治」は続くから、じっくり観察することも、マインドの整理に役立つのである。