お彼岸前に桜が咲いた

開花予報は、ソメイヨシノを対象にするので、早咲きの桜についてはいちいちいわないことになっている。
けれども、近所の桜がとっくに咲いたので、いつもの年とはちがう、まばらな光景になっている。

いつもなら、ソメイヨシノとほぼ同時に開化するのである。
だから、べつの種類だったことにはじめて気づいた。

横浜市中心部からやや離れた場所、東海道の宿場でいえば「保土ケ谷」に、山と谷のエリアを整備して、高校球児には有名な、保土ケ谷球場もある県立公園がある。
このあたりは、「桜ヶ丘」といって、路線バスがまるで桜のトンネルを走っているようであったけど、ほぼぜんぶ伐採された。

太った老木が倒れる危険と、クルマの邪魔になるのもあるけど、沿道住民には、花びらと落ち葉の処理がきらわれたようである。
だから、伐採してもあたらしく植えることがなくて、地名だけがのこった。

桜がない桜ヶ丘という無惨になったのであるけれど、狭くて危険なバス通りでの掃除から解放された住民は、あんがいと、ホッとしていることだろう。
街路樹に落葉樹を選ぶときは、それなりの覚悟がいる。

道路を管理する側は、どうやって街路樹の選定をしているのだろう?
まさか気分ではないだろう。
でも、「お役所仕事」だからとすこしうたがう。
植えるときと剪定するときの予算は別にちがいない。

それに、管理者がちがう。
国道、県道、市道。
まぁ、勝手にうまくやっている。

地球が温暖化しているという「刷りこみ」が脳になされているから、今年は首都圏で交通マヒを起こすような積雪がなかったし、桜もはやく咲き出したから、「温暖化」なのだとおもいがちだけど、いかがなものか。

数十億年単位の宇宙に浮かぶ「地球」という惑星と、だいたい100年もない人間の寿命を一緒くたにしたら、でたらめになる。
太陽の黒点だって、11年周期だから、人間の寿命からしたら手の指の数で足りる「経験」しかできない。

それに、一般人は、「あぁ、あのときは黒点がたくさんあったから」という記憶方法はしていない。
ましてや、新聞に「昨日の黒点数」という記事もない。
ようやくネットで探せばわかる程度なのである。

地球表面の気温の変遷については、地層からかなり正確に推定できる。
その年代の植生がわかるからである。
シダ類がおおければ、湿潤で温かいし、針葉樹ならだいぶ冷え込んだ時代だとわかるのである。

面白いことに、温暖の限界もわかっている。
できたてホヤホヤの地球は火の玉だったというから、これは除く。
生命誕生からどうなっているのか?

だいたい40℃ぐらいまで、なのである。

60℃とか、70℃、ましてや、100℃なんてことはない。
こんな気温だったら、地上生物は絶滅して、いまの人類に進化なんてしない。
植物も生息できないから、エサがないこともある。

機械化された人類文明が原因とされる温暖化より、人類登場前の恐竜時代のほうがずっと暖かかった。
このときの二酸化炭素濃度も、いまよりずっと高い。
それで、巨大化した植物が草食恐竜のエサになった。

ではなぜ二酸化炭素濃度がいまよりずっと多かったのか?
それが、「わからない」のである。

一説に、植物が食べた、というものがある。

地球創世記の二酸化炭素濃度は、95%だった。
いまは、0.041%である。
植物が光合成で食べ尽くしたとすると、二酸化炭素は「減りすぎ」ていないか?

その植物が地層の中で変成したら、石炭とか石油になったのだから、これらを燃やす(酸化させる)と二酸化炭素にもどる。
放火でなくて、自然発火で大規模山林火災がおきるのも、足りない二酸化炭素濃度をあげるための「自然現象」だとすれば、人智を超えた世界での「調整」だともいえる。

これをまた、人為で「脱炭素」という「政治」がある。

むしろ、いまより寒い「氷河期」のほうがずっと深刻だ。
2018年、南極で「氷点下97.8℃」という理論的最低温度にちかい記録的な寒さが観測された。
ひとがそのまま呼吸したら、数回で肺が凍結して即死するという。

寒冷地は、すべての動物の食べものの基本となる植物が育たない。
だから植物がないところに、動物はいない。
しかし、「専門家」からしたら、いまだって「第二期氷河期」なのである。

氷河期なのに温暖化を心配するとはどういうことか?

まさに、「国際政治」なのである。
温暖化の恐怖には、めざす政策を後押しさせる効果がある。
たとえば、原発推進だ。
でも、原発だろうが、電気自動車だって、動いているとき「だけ」をみれば、「クリーン」だけど、建設や製造に要する資材のための資源やエネルギー消費を加えたら、ぜんぜん「クリーン」じゃない。

前に、「新幹線はエコじゃない」を書いた。
建設に要する資材は、原発どころじゃないし、「保線」は毎晩千人単位でおこなっている。
でもやっぱり、運転中「だけ」は、「クリーン」にみえる。

それでも、飛行機より「便利だから」利用するのである。
アメリカでは、純粋民間事業としてテキサス新幹線が着工になる。
これを、民主党政権が支援するという。
共和党の牙城テキサスだから、これも「政治」なのだった。

原子力を制御できない

むかし夢の船舶として、「むつ」という名の原子力船があった。

いま、世界でも原子炉をつかって動かすのは、もっぱら「軍用艦船」ばかりで、航空母艦と潜水艦に採用されている。
もちろん、わが国にはない。

軍用で、建造・運用しているのは、
・アメリカ
・ロシア
・イギリス
・フランス
・中国 の5カ国で、国連の安保理常任理事国「だけ」となっている。

このひとたちにできて、なぜわが国でできないのか?
もちろん、軍用に限ってのことではない。
商用船での実用は、世界のどこ(アメリカ、西ドイツ、ソ連、日本)もやめている。

西ドイツと日本という、国連の「敵国」も開発していたことが印象にのこるのだ。
つまり、これら主たる戦争当事者の7ヵ国「しか」手をだしていない分野なのだ。

目線を「陸」にあげれば、たちまち「原子力発電所」となる。

軍艦に積極的採用をしているアメリカは、「スリーマイル島事故(1979年)」以来、新規建設に消極的になっていたけれど、2012年に承認されて話題になったものの、やっぱり積極的ではないから既存原子炉の稼働率はかえって上昇している。

その路線でいけば、ドイツは原発の全廃を2011年に国会決議=法制化し、暫時撤廃をおこなって、いわゆる、「再生可能なエネルギー」へのシフトを全面採用した。
これで、電力輸出国から輸入国となって、民間レベルでかつての4倍の電気代が請求されることにもなった。

一方で、積極的なのはフランスと中国である。
そのフランスは、チェコとともに電力不足のドイツへ電力輸出をおこなっている。
両国の「ドイツの電源」という立場は、相手の産業や生活の首根っこを押さえることになるので、なにかと強力に作用するのだ。

しかも、フランスの原子力発電は全体の75%ほどもあるから、ドイツはじぶんの原発をやめたけど、結局、原発で発電した電気を外国から買ってきて使っていることになっている。

こうした、おかしさ、に妙に賛同するのがわが国の体質で、さすがはかつての日独同盟の心の繋がりは生きている。
わが国で、電気自動車への転換に積極的なひとたちは、充電のための電気をどこで発電しているのかに頓着しない。

もちろん、いまなら政府から補助金がもらえるので、いつもらえなくなるかはしらないけれど、太陽光パネルで発電した電気で自家用車に充電するのが、「持続可能」だという。
その太陽光パネル製造に、どれほどの電力を使うかにもぜんぜん頓着しない。

「世界の大企業ランキング50社」に、わが国企業でランクインしているのは、とうとうトヨタ自動車「一社だけ」になった。
まるで大学ランキングのような姿だけれど、国際会計基準を基にするので比較ルールは厳密である。

都合がいいルールをつくることに長けているのは、なんといっても「アングロサクソン」だ。
人種はちがうけど、アングロサクソンとたいへん親和性がある発想をするのが中華思想で、こちらは「じぶんだけ」がルールだ。

そんなわけで、電気自動車への「転換」がトレンドになっている。

これは、世界の業界が、トヨタ潰しを図ったという状況証拠なのであるけど、わが国を貧乏にしたい経産省やその取り巻きの政治家たちは、電気だ水素だといって、やっぱり自国の自動車(内燃機関)産業をいじめるのである。

どこかで観てきたような構造だ。

発症直後から、「ワクチン開発」を推進したのに、そっくりなのである。
国産の開発がないのは、学術会議という政府てづからの政治団体が、生物科学兵器になるとして、研究させなかったからである。

とはいえ、そもそもウィルスの存在からうたがわしい。
「環境にいい」という甘言も、そもそもをかんがえれば、エネルギー保存の法則も、質量保存の法則も無視した、エセ科学なのである。

あの「3.11」から、10年経った今年。
結局のところ、事故処理がどうなっているのか?の情報はなかったし、どうして事故が発生したのか?の冷静で、コンセンサスがとれる報道もなかった。

少なくても、「津波」が原因ではないのだけれど。

それでいて、政府は原発を「安全が確認された」と強弁し、再稼働させたい。

3.11以前から、「原子力行政」には不思議があって、推進する立場の経産省内に「原子力安全・保安院」なる「規制担当」の役所があった。
事故直後、作業着のうわっぱを着て毎日記者会見していた「えらいひと」は、技術にうとい文系だったことがあとからわかった。

これら一連の「お粗末」が、文系エリートだけの情緒によって準備されていたものを、根本から変えた、ということになってはいない。
そしてとうとう、裁判で再稼働か阻止かがあらそわれるようにもなった。
裁判官は、とうぜんに「文系」である。

ドイツ人の「合理主義」は、情緒に流れているのか?
でも、日本人の「情緒主義」は、なにも変わっていない。

これが、原子力船を失敗させた、両国民それぞれの「習性」なのである。
だから、原子炉を「制御」できないとしたときの対応がちがう。
ドイツ人は、合理的判断として原子炉を棄てた。
日本人は、情緒的だから、電気代が高くなるのを嫌がる。

ドイツ人は、トヨタにかなわないことをしって、電気自動車を推進し、日本人はトヨタが潰れることはないと「信じ」ているか、無頓着で、無邪気に「欧米追従」している。

外国には、日本がいう、電気自動車の「阻止」もある。

外国がいう、電気自動車とは、バッテリー搭載自動車をいう。
日本がいう、電気自動車とは、静止衛星で発電した電力を直接自動車の屋根パネルに供給して自動運転するものをいう。
だから、貴重資源をつかうバッテリーを必要としない。

なるほど、原子力を日本人は制御できないから、宇宙で電気を制御しようというアイデアは日本らしい。
けれども、これにも外国がついてこれない。

世界のほんとうは、おそるべき「トヨタ生産方式」なのである。
情緒と論理が融合した「方式」を、真似ても「できない」からである。

政治のプロレス化とゴジラ

みんなしっている、日本の政治は腐っている、けどやめられない。

腐らせた主犯が国民なのは、「民主主義だから」だけれども、その要因に、「小選挙区」という選挙制度もあるし、選挙区落選でも比例復活というインチキもある。
それに、参議院が独自の選挙制をとれないままになっている。

さらに、わが国の地方議会は、ぜんぶ「一院制」だ。
どうして「二院制」にしないのか?
「保守」を強く標榜する小政党も、そのほとんどが「一院制派」で、国会も一院制に「すべし」との主張には、まったく同意できない。

二院制を求めるのには、当然ながら理由がある。
そのキーワードは、「相互けん制」である。
議会が一院制だと、暴走した場合の制御が効かない。
あるいは、眠った議論を起こさせないといけないけれど、起こすひとがいない。

もちろん、議会には行政をけん制する役割がある。
そのための「立法権」がある。
すると、地方議会にだって、行政と分離した議会事務局が必要になる。いまの制度は、行政に議会事務局が属している。

だから、議会が行政に指示されてもそれが、「当然」になるのだ。
この「当然」を、議員自身が当然とするから、地方議会も死ぬしかない。

「市役所」が、信号機でも、「CITY HALL」と英訳されているのは、中世ヨーロッパから、都市の中心に広場があってそれを教会堂と市庁舎、買い物市場がそろっていることを指したからである。
いまでも、ヨーロッパに行けば、どこの街も「これらのおなじ構造」をしている。

そこで、ヨーロッパからの観光客が日本に来ると、この「ワンパターンがない」ことに、えらく新鮮さを感じるのである。
日本の役所にあるのは、せいぜい「広場と市庁舎」で、まず教会はないし、買い物市場もない。

財政難の横浜市が建てた、新しい市役所の設計は、この意味でヨーロッパ的だし、家賃収入を狙っている。
ただし、村野藤吾が設計して保存がきまった以前の市役所は、「魚河岸」の跡地に立っていた。

外国の歴史的建造物である市庁舎が、いまだに「現役」なのは、行政範囲がわが国のように肥大化していないだけでなく、「戸籍がない」から、戸籍課もない。
なので、市民が市役所にいく用事とは、議会への「陳情」なのである。

旧ソ連には、「ゴスプラン(国家計画委員会)」という、計画経済を仕切る=実際に資源配分をする役所が、いつもごった返していたのは、議会への陳情が無意味だからである。
就職してわずかの若い役人相手でも、とにかく自社の窮状を訴えて、配分の優先順位をあげてもらわないと原料が供給されないのだ。

ソ連が崩壊した理由としてあげられるやり方だけれど、70年もやっていたのは、「素晴らしい」から、この役所の研究がもっとあっていい。

この点、おなじ社会主義でも、わが国の役所はもっとスマートに資源配分を決めるから、さいきんの「接待」もちんけで済むのである。
そして、この方法を、隣の大国がしっかり学び取った。
教えたのは、当然わが国の役人である。

なにしろ、ソ連型のやり方では、大量の国民(8000万人ほど)を「粛正」しても、食べていけないことに気がついたのだ。
遺体処理をどうしていたのか?は表にでてこない。

つまり、テッパンの牙城が完成しているのがわが国の姿だ。
無理やり粛正せずとも、真綿で首を締めるのごとくだから、より一層国民は政府に依存し、よって政府は「生殺与奪の権限」を極限まで高めることができる構造になった。

ラッキーなことに、コロナがこの構造に加わって、なんの科学的根拠も、事前の基準発表もなく、驚くほどの暴力的政策で「自由経済システム」を攻撃・粉砕したのである。

敵はここにいる。

しかしながら、こんなモンスター化した「システム」の敵に向かっても、ゴジラに対する自衛隊のように、歯が立たない。
そんなわけで、「保守」というひとたちは、本来は自陣営のはずの「自由主義」を攻撃して、あろうことか「政府側」につくのである。

じつは政府と与党に、政策で一致している野党は、その存在意義がなくなったことをしっているし、逆に、その存在意義は、プロレスでいう「ヒール(悪役)」でしかなくなって、これを、「保守」がダメ出しすることになっている。

まったくのプロレス化だ。

本物のプロレスだって、ぜんぶが「八百長」ではない。
そこに、ファンの血が騒ぐのである。

すると、わが国の体制が、プロレス化した後、急速にシラケたのは、ほとんどが八百長だとばれたからである。
首都圏知事たちの無能と無責任すら、有権者の責任だとなるから、つぎは選挙そのものが無力化するのは当然のなりゆきである。

笑いが止まらないのは、ゴジラ化した政府であった。
すると、あの映画における自衛隊とは、無力化した国民の姿なのである。

「勇者」の登場

ここにきてようやく、勇者が登場した。

すでに、1月には、時短要請に応じない旨を公表していたけれど、グローバルダイニングの長谷川耕造社長は、「弁明書」を東京都に11日付けで提出した。
対して、都知事は16日、「命令に関する事前通知」をだして、「命令」発令を予告した。

大バトルの開始である。

そして、タイミングを計ったかのように、政府は緊急事態宣言の再度延長をせず、「解除」方針を決定した。
もちろん、相変わらずろくな「データ」も公表しないでの、「解除」だから、都を責めて国を責めないというわけにもいかない。

ただ、これまでの「文書」を読めば、長谷川社長の主張の論理は、筋が通っているのは当然だ。
なにしろ、相手は、ただの「権力行使」をしたいだけのひとたちで、科学的根拠はどこにもない。

初期のころ、「パチンコ店」がやり玉にあがって、法律もない状態で強権を発して、それがなぜか「喝采」された、弁護士出身の大阪府知事がいたけれど、いまだパチンコ店での発症事例もクラスターもない。

もし、新型コロナというウィルスがほんとうに存在するなら、パチンコ店は、かなり「安全地帯」だ、と判断するのが科学的である。
ただし、パチンコ店がふつうに街にあるという「異常」とは、べつの議論である。

いまに至っても、「コッホの4原則」があたらない、唖然とする状況はかわっていない。

1.ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
2.その微生物を分離(培養)できること
3.分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
4.そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること
※「微生物」にはウィルスを含める

この4つぜんぶを充たして、はじめて「感染症だ」と結論づけるルールがあるのだ。

今回の世界的騒ぎでは、ひとつも充たしていないという事実がある。
ようやく、1番目について、肺炎患者から採取したという「肺にたまった液」からみつけた、コロナ・ウィルスを「ゲノム解析した論文」を根拠にしている「だけ」なのである。

したがって、わかりやすい評価としては、「0.5」が妥当である。
にもかかわらず、「変異」とかいう。
オリジナルの特定も、分離もできていないで、なにが「変異」か?
もう、科学者が世界から絶滅した。

ワクチン製造には、2. が必須だから、いったいなにを「培養」してつくったものか?
ところが、旧来の方式でつくっている、アストラゼネカのそれが、各国で「使用禁止」になっている。

すると、ファイザー社製のメッセンジャーRNA阻害「新薬」が、唯一の「ワクチン」になってしまった。
陰謀論者でなくても、「あやしい」とおもってしまう。

日本政府は、アストラゼネカのものも大量購入しているけれど、「やっぱやめた」としたら、その損害はどうしてくれるのか?という、カネの問題にもなるのである。

これらは、ぜんぶ、いい加減な「病気認定」を基にしている。
ここに、科学の「かの字」もないのだ。
むしろ、「意図された情報」という、ひとびとの「脳=思考」を惑わす「情報ウィルス」が、がぜん危険な「蔓延」をしてしまった。

たとえば、温暖化だって、地球の「熱」のことだから、山本義隆『熱学思想の史的展開』といった名著を手に取って、「熱とはなにか?」ということをしるべきだ。
人類は、「熱」をとらえることに、たいへんな苦心をしてきたほどに、あんがい「熱」とは難しい概念なのである。

  

ちなみに、山本氏には、『磁力と重力の発見』という、これまたすごい解説がある。
「魔術」だった磁石が、物理現象の「磁力」として解明されていく。
ましてや、「重力」を意識することの困難さは、現代人だってかんたんに説明できやしない。

これを、「専門」というのである。
難しいことを、易しく説明してこその「専門」であって、難しいことを難しく説明することではない。
ましてや、ごまかして説明したら、専門職の倫理にもとる。

グローバルダイニングの長谷川氏は、ここを突いているのだ。
「似非科学」を基礎とした、驚くべき「茶番」が世界で起きた。
けれども、「論理」を基にすれば、その「邪悪さ」が解明できて、反抗もできるのである。

これこそが、「職業倫理」というものだ。

つまり、今回のバトルは、職業倫理と政治倫理との激突なのである。
これに、業界人は一斉蜂起しないのか?
労使ともども、「職業倫理」をかざすことで、世界にアピールするチャンスであるし、客たる一般人も同様だ。

まさに、日本政府も東京都知事も、グローバリズムをむき出しにしている、「DS(ディープステート)」の側に立っていることが判明した。

化けの皮がはがれたのである。

アメリカでは、3人の大統領経験者がそろって「ワクチン接種キャンペーン」をやっている。
クリントン(民)、子ブッシュ(共)、オバマ(民)だ。

子ブッシュは、「ネオコン」である。
「新しい保守」とは、武器商人と結託した、という意味だから、民主党の主流とおなじで、戦争をしたいひとなのである。

ここでも、化けの皮がはがれたと話題になっている。

社名にある「グローバル」が、玉に瑕ではあるけれど、このバトルは、国内だけの小さなものではない。
たとえば、ドイツとか、国際連携を視野にいれて、おおいに闘ってほしい。

グレート・ブックス・コース

「名著課程」と訳すようである。
「学校」が整備されていない時代には、家庭で教育するしかなく、そのための教材は、いくつもの「名著」だったことによる。

すると、活版印刷の発明がどれほどの恩恵をもたらしたかは、いまでいう「ネットの普及」に匹敵したか、それ以上だったろう。
なにしろ、「筆写」しか方法がなかったのだ。
だから、書き損じに気づかないと、いつの間にか書き損じも筆写のオリジナルになってしまう。

しかも、「紙」が貴重だったのだ。
古代エジプトのパピルスは、画期的な発明だったにちがいないけど、製造方法が復元されたのは意外にあたらしいし、その工程も意外と複雑なのである。

だから、やっぱり「大量生産」できない。

わが国で独自進化した、「和紙」は、ちゃんとしたものなら千年はもつ。
驚くべきは、化学インクではなくて、「墨」を用いることで成立するから、紙と墨はセットである。

これに、筆記具としての「筆」がないと話にならないし、それなら、墨をする「硯」がないと具合が悪い。
油を燃焼させて採取したススを固めるのが膠(にかわ)だけの炭素の塊なので、硯の「目」に墨が削られてはじめて「すれる」のである。

「摺る」ために硯の表面には、こまかい凸凹がないといけない。
それが最適の自然石は、こんどは、採掘場の「地質」が問われるので、適当な石でつくればよいというわけにはいかない。
有名な山梨県の雨畑硯(あめはたすずり)は、山梨県南巨摩郡で採掘される。

ここは、本州が曲がっている「フォッサマグナ」にあたるとはいえ、よくぞ「見つけ」て坑道を掘った不思議もある。
もちろん、筆も何種類かの動物の毛をつかうから、いい字を書くにはいい筆がいる。

奈良や京の都人たちは、ものすごく複雑な経路でできた道具を使っていたことになる。
ましてや、世界に類例がない『万葉集』に投稿したふつうのひとたちは、どうやって字を学んで歌を詠んだのか?

平安貴族が習得した教養も、どうしていたのか?という不思議があるけど、もっと前の万葉人の教養習得方法は想像もつかない。
言文一致は、明治のことだ。
口語と文語、残っているのはみな「文語」である。

いったいどんな会話をしていたのか?

ここに、「口伝」の出番がやってくる。
口伝えに、物語を継承するという方法は、口語の時代変化に対応するので、解読が必要となる「文書」とちがって、内容は意外と正確に伝授されることはわかっている。

ロゼッタストーンがみつからなければ、古代エジプトの象形文字を解読することはできなかった。
いかに、シャンポリオンという天才がいても、である。
なので、世界には、いまだに解読できていない「文字」は多数ある。

わが国の「カタカムナ」もそのひとつ、という主張がある。
古事記、日本書紀よりもはるかに古い時代のものだともいわれているが、よくわからない。

わかっているのは、昔の日本人がそんなに「野蛮」ではないことである。

むしろよほど「いま」の方が野蛮だ。
「法」を犯すのが、行政になった。

たとえば、根拠法がないのに、20時過ぎの営業を取り締まる。
飲食店にも警察官がやってくるけど、風俗店には機動隊がやってくる。
知事の権限がそうさせるのだ。

アメリカでもヨーロッパでも、政府のえらいひとたちが住民から糾弾されている。
これに、わが国も加わる「べき」となったのは、恥ず「べき」ことなのではあるけれど、それが、「欧米化」の顛末なのである。

もっといえば、グローバリズムの浅はかさ、である。
わが国の「伝統回帰」をいう「保守」が途絶えた。
ならばといって、政府からの「自由」をいう「自由主義」もない。

前者は、「歴史」で、後者は「輸入思想」である。
自国の歴史を殺めると、とんでもないことになるという「歴史」もある。
これらを、ぜんぶ「たにんごと」としてこれたのは、自国の歴史をしっていたからだ。

ところが、自国の歴史を忘れてしまった。
正しい、「本」がまるで「焚書」され、これを語る学者が「坑儒」されたからでもある。
その数、7000冊。

この7000冊の「リスト」とは、ひとつの国家=国民=生活を、おとしめるための、悪意をもった研究成果なのであって、これをすべて焚書処分した「政策」の根本になっている。
この意味で、学術が政治利用されたともいえるから、なにも原子力兵器を開発した「マンハッタン計画」だけではない。

すると、現代日本人にとってのグレート・ブックス・コースとは、焚書の再読ということになる。

古文訳J-POPの魅力

昨日の、『有隣堂しか知らない世界』の続である。

アルバイト歴3年の才媛が登場し、J-POPの歌詞を古文訳して実際に「歌う」という企画だ。
伴奏も、有隣堂のスタッフがおこなうので、「カラオケ」ではない。
しかも、歌も「うまい」ときているのは、合唱部だからか?

さいきんの若者たちの音楽について、かなり「うとい」という自信があるから、ふだん「J-POP」といわれたら、しぜんと腰が引けるのだけれど、『TSUNAMI』(2000年)や『プレイバックPart2』(1978年)がでてきて、安心した。

しかしながら、あの山口百恵、『プレイバックPart2』が、43年前なのだと気がついたら、こないだ書いた「懐メロの時間差」をあらためて自分で実感した。

歌謡番組の名司会者が繰り返していた、「歌は世につれ世は歌につれ」とは、みごとな表現だったけれど、まさしくぜんぜんいまのJ-POPについていけていないのは、自分が「時代についていけていない」ことを示すのだ。

されども、自分なりに一応の言い分があって、歌詞の薄さと、巻き舌での歌い方の違和感が、美しい日本語になっていない、という「うらみ」があるからだ、ともいえる。
このことが、クラッシック好きをやめられない理由でもあるし、クラッシックが好きになった理由だ。

もちろん、クラッシックのなかでも、人類最初の「8ビート」の曲を作ったのは、大バッハだから、彼の曲はずいぶんと、ジャズやロックの演奏家に好んで編曲されている。
バロックなのに、妙にあうのは原曲の構造が、ジャズ的・ロック的だからだろう。

それでも衝撃だったのは、グレン・グルードのピアノ演奏であった。
『ゴルトベルク変奏曲』(1955年)を皮切りにしたけれど、わたしにとってはなによりも、『平均律クラヴィーア曲集』の全曲(1962年~71年)が、ヴァルヒャのそれとぜんぜんちがう曲に聞こえたのであった。

彼のモーツァルトの演奏に、モーツァルトの大家、リリー・クラウスが「もっと上手に弾けばいいのに」といった有名な逸話がある。
クラウスにして、テクニックを誇示しているように聞こえたのか、音階の破壊に聞こえたのか。

ゆえに、「古典」の「現代語訳」とは、その「解釈」をめぐって論争になるものだ。
しかし、「現代語」のものを、わざわざ「古典」に訳すという作業は珍しい。

例によって、MCのR.B.ブックローが、厳しいダメ出しをするかと思いきや、回を重ねるごとにその「深み」にはまっていく。
これを、視聴者も同時に体験するのである。

聞けば、高校三年生のときに、古文の勉強をしていて「暗記」して覚えるよりも、好きな楽曲の古文訳をして楽しみながら勉強することをした、という。
このセンスが、光るのである。

基本的に、J-POPといえども、「恋の歌」である。
だから、これらの歌詞の「恋心」が問題になる。
上述したように、わたしの個人的イメージでは、歌詞よりも歌い方の違和感が、歌詞を聞き取らなかったのだ、と気がついた。

聞き取れない、のではなくて、もっと手前にある、拒絶感が、聞き取らないで全部を「雑音(ノイズ)」としていたのだ。
これを、「ノイズ」とせずに、イヤホンやヘッドホンで、周辺環境から離れた、自己の世界で「聴ける」ことの方が、もっと違和感がある。

まさに、世代間ギャップである。

ところが、これを、「古語訳」する工程で、現代語の意味と作者の意図とをあわせて選択したという言葉には、美しさがある。
そして、この工程上にうかぶ、重要な要素が、訳者自身の「恋心」なのだ。

ブックローがおもわず、「いい恋をしてきたね」には、大きく同意する。
すると、彼女も素直すぎる反応をするのである。
紹介に、「ハイトーンボイス清少納言」というのは、伊達ではない。

さてそれで、『プレイバックPart2』である。
もちろん作詞は、阿木燿子。
言葉の「プロ」である。
この題材をどう料理するのか?は、阿木氏の恋心の分析でもある。

しかも、「まっ赤なポルシェ」とか、曲名にもある、「プレイバック」をどうするのか?

驚くべきは、『源氏物語』の世界観をそのまま適用するという技をくりだしたことだ。
葵の上と六条の御息所との、激烈なる正妻と妾のバトルを描いた「車争い」の場を再現させる。

阿木氏の感想を聞いてみたいのは、桑田氏ほか、訳出された原作者たちもおなじである。
ただし、こまったことに、オリジナルより、グッとくるのである。
しかも、格調高い。

就職先は、有隣堂ではなくて、希望どおり高校国語教師だという。
やっぱりこの番組は少々ゆがんでいる。
こうした人材を手放すことに執着しない。

とはいえ、短歌集『サラダ記念日』でブレークした現職高校教師の俵万智氏のごとく、『古文訳J-POP』を自ら歌い、訳出説明をする出版をすれば、世間が高校教師にしてはおかないかもしれない。
ついでに、古語辞典も売れるだろう。

ただし、現代語 ⇒ 古語、の辞典が欲しい。

これも、有隣堂の「多核化」の一環になること請け合いだ。

「有隣堂」の辛口動画

横浜に住んでいて、「有隣堂」をしらないといったら、まちがいなく「もぐり」である。

伊勢佐木町が第一の繁華街で、横浜駅西口に砂利の山があったころ、「本」やら「文具」を買うなら、「有隣堂本店」が当たり前であった。

小学校に入学したときは、「お祝い」で、叔母さんから「コーリン鉛筆」を何ダースかもらったけれど、全部に自分の名前がひらがなで刻印されていて特別感があったのも、有隣堂で買って依頼したものだった。

この古いビルは、エレベーターが1台しかないから、上階にある文具売り場にいくのに、すこし息が切れる。
また、1階を見渡せる中2階は、そのむかしは専門書ばかりだった記憶があって、いまのような文庫や新書になったとき、ちょっとがっかりもした。

「いつかは、中2階」とおもっていたからである。
なんともいえぬ、図書館とはちがう「紙の匂い」が、空間全体に漂っていた。

世の中から「書店」が消えてきて、きっと「有隣堂」さんも経営が大変なのだろうけど、買った本にいまも変わらぬ紙カバーをつけてくれないと満足できない。

ネット書店をしのぐポイントなのである。

このブログでも書いたことがあるけれど、ユーチューブが突如「お勧め」にする動画がある。
これをだす、「アルゴリズム」はわからないけど、「へぇー」があるのは事実である。

そこで、突如『有隣堂しか知らない世界』がでてきた。
クリックすれば、驚きの「登録者数」であった。
その数、千数百人「しか」いないではないか?
なぜに、横浜人からしたら「天下の有隣堂が?」となった。

ちなみに、いまは2万8千人ほどだから、もう少しで3万人になる。
でも、少ない!
横浜市、370万人の人口が、いったいなにをしているのか?
と、自分だって突如「お勧め」されるまでしらなかったことを、棚に上げたくなる。

サムネイルをみれば、「フクロウの人形(「R.B.ブッコロー」という)」がキャラクターとして全面に露出している。
あゝ、子どもだましを有隣堂がやるなんて、と嘆きたくなるのを抑えて、まずは観てみた。

それはそれは、「超辛口」どころか、自社をディスっていないか?
しかも、この人形が「番組MC」なのである。
「R.B.」とは、「リアル・ブック」の意味とのことで、なるほどリアル書店の意地がみえてくる。

それに知の象徴、フクロウをキャラにした。
「ミネルヴァのフクロウは黄昏に羽ばたく」とは、ヘーゲルの『法の哲学』序文の言葉である。

 

さすが、有隣堂。
されど、このフクロウのセリフはぜんぶアドリブなのか?なんなのか?

商品説明にあたっては、有隣堂バイヤーからメーカー担当者に電話をさせて、日本人なら聞けない強烈な質問や、タブーに匹敵する感想を連発する。

どの商品で、どのメーカーかは伏せたけど、相手の「拒否」という事態まで発生したのは「事故」なのか?
果たして、この相手との商取引は収録後も継続しているのかさえも気になるところだ。

書店のなかにカフェがある、ということが、すでに新しいことではなくなってきた。
この「多角化」を「多核化」にするために、「多核家」を採用するという人事戦略も紹介されている。

そのひとつが、「料理」だ。
小説などの作品中に出てくる料理を再現して、実際に食べさせてくれる。
これを、「書店」がやるのは、新しい。
従来ならば、ホテルなどが企画したことである。

すると、ホテルなどの発信力が低下している隙に「つけ込んだ」ともいえるから、なかなかに戦闘的なのである。
しかも、書店の広大な守備範囲をもってするから、「料理だけ」が商品ではなく、作品との一体感を得る体験が商品になっている。

たとえば、『オバケのQ太郎』で独特の立ち位置にあった、「小池さん」がすする「ラーメン」を再現してみたり、『レ・ミゼラブル』で、ジャン・バルジャンを改心させた司教が提供した「スープ」など。

その食べものの、食材や時代背景、作者の意図などを、ある意味自由に解釈して作る工程も価値のひとつを形成している。

 

極限状態におかれた人間が、「ほっ」として人間性を取り戻すことができた「スープ」とはいかなるものか?
それを、このフクロウは味見で、「おぇっ」と表現し、つづく有隣堂社員も「おぇっ」という。

なんなんだ?
この「ゲテモノ」感。

ある種の「ゲテモノ」的としてしられるのは、やっぱり、「新解さん」である。
昨年11月に、9年ぶりの全面改訂がされていた。

 

上の画像ではわからないけど、左と右ではサイズがちがう。
右の小型版との値段差があまりないのは、老眼にはうれしいけれど、携帯となると、やっぱり「電子版」が気になる。
しかも、AndroidかiOsあるいはiPadOsかで悩むのである。

でもやっぱり、この辞書は、パラパラと紙をめくって「読む」楽しみが優先される。
それでもって懲りずにまた、三省堂書店の部長に電話をするのだ。
このインタビューでは、より欲しくなる内容でよかった。

書籍仕入責任者の、「わたしたちが売るんです」が、ずっとよかった。

意外と「日本」が影響している

文化にはいろんなパターンのきっかけと、三つの発達がある。
・自国で独自に発展する。
・外国からの影響を受ける。
・自国から外国へ影響させている。

たまたまではなくて、確信的に「鎖国令」をだして島国のなかに閉じこもったのが、300年弱もあったから、自国で独自に発展するのは必然的でもあるし、意図的でもある。

もちろん、むかしの交通手段・技術をかんがえれば、「島国」とはそういうものだ。
だから、世界で大陸に近い島国は、かならず大陸側と仲が悪いことになっている。

イギリスとフランス、インドとスリランカ、台湾と大陸、日本と大陸といった具合である。
巨大な大陸に、文化的にも「呑み込まれる恐怖」は、かならず「拒絶」になるからである。

しかも、拒絶感が「防衛本能」を呼び起こして団結するから、たいがい「島国」のほうが、文化的・軍事的優位性を保持する傾向が高い。

日本が鎖国できたのは、極東という地の利のラッキーもあるけれど、武士集団による強大な軍事力と、農業国家としての食糧自給があった。
いま、鎖国「できない」のは、これらの条件が希薄になったからでもある。

薩・長(アメリカなら「州」)ともに、外国艦隊との戦に「負けた」ことになっているけど、連邦政府たる幕府(アメリカなら「ホワイトハウス」や「国防総省」)の許可なく、勝手に外国と戦争をした「罪」のほうが強く問われることが重要なのだ。

そして、罪を問われて「征伐」されるはずの薩・長が、逆に連邦政府軍を打ち負かしたのが明治維新だ。
これを、アメリカの「南部」の州は研究している。
それでいま、南部各州が連邦政府に、むき出しの「対抗」をはじめた。

すると、もしや、アメリカで「維新」が起きるやもしれぬ。
その「徴候」として眺めると、なかなかに興味深いことがもう起きている。

現連邦政府・民主党の大票田、東部ニューヨーク州における知事罷免に対する超党派の動き、西部カリフォルニア州では、知事リコール請求署名が、必要150万筆に対して、すでに200万筆を突破した。
それで、トランプ氏の長男が、次期ニューヨーク州知事選への立候補を表明している。

これらの動きさえ、わが国の「民主党政権」の崩壊過程とその後の第二次安倍政権誕生のシナリオに酷似しているのである。
トランプ氏の「戦略的作戦」は、選挙に負けても政治で勝つ、であったろう。

極左的かつ強引な幹部たちに嫌気をさして、民主党員たちの共和党への「移籍」も、ジワジワと広がって、「運動」になりつつある。

しかし、肝心のわが国は、真似されたオリジナルのはずなのに、どういうわけか、アメリカ民主党化してしまった。
「産軍複合体」を支持基盤にすることの、「カネの魔力」に脳が冒されてしまったようだ。

話は変わって、昨日の「春雷」による豪雨もあって、各地で被害があることにお見舞いを申し上げながら、避難所における「感染予防」という「愚挙」が、相変わらずである。
とっくに、データは、ふつうの風邪を示している。

今日3月14日は、「ホワイトデー」であるとされている。
だれが決めたかといえば、日本のキャンデーメーカーの組合である。
前月、2月14日の「バレンタインデー」に対する、「返礼」という「需要を創造した」のである。

正確にいえば、1978年(昭和53年)に、全国飴菓子工業協同組合(全飴協)が、「創設」したのである。
もちろん、ターゲットは当時の「ティーン・エイジャー」だ。
二十歳になる1958年頃の生まれから若い層を狙ったので、それ以前の層には「なにそれ?」だったはずである。

見よ、この「商魂」。

しかし、「なにそれ?」が、すぐに「はは~ん」になったのは、「バレンタインデー」があったからである。
初見は、1936年(昭和11年)、神戸の「モロゾフ」だという。
戦後の「高度成長」まっさかり、昭和30年代になって、大手製菓メーカーが「キャンペーン」を連発する。

こうして、ローマ帝国のキリスト教聖人(殉教)のはずで、チョコレートとは縁のないひとの逸話を利用した、わが国「独自の文化」となった。
だから、キリスト教国に、チョコレートを恋人に送る習慣はなく、ましてや、女性からの「告白」という意味もない。

まことに、外国の宗教を、「効く」なら利用するとする、「機能だけ」を重視する奈良・平安の文化がいまに至る、おそるべき日本人の宗教観が背景にある。
むしろ、外国由来の宗教は「宗教とはみなさない」というわが国独自の宗教文化そのものなのである。

そんなわけで、昨今の「まんが輸出」が、各国の若者にこうした宗教観を伝播させていて、とうとうヨーロッパでも、女子によるドキドキの告白が、「チョコレート」を介して行われるようになってきた。

じつは、女性が主導するという文化も、あんがいと「日本独自」なのである。
異論もあるけど、なにしろ「最高神」は、女性とされる「天照大神」なのである。

女性を最高神にしている国は、日本以外に「ない」のだ。
これが、わが国における「フェミニズム」の胡散臭さの原因なのである。

外国製の「フェミニズム」が、日本では採用・普及されないのは、「効かない」からであって、その理由は、「フェミニズム」がいう「女性」より、もっと偉大な女性がとっくにいるからである。

天孫降臨後、男性の天皇が「最高位の祭主」なのは、主神たる女性を「崇めるため」である。
だから、天皇は男系でなければならぬ。
かくも、女性を絶対上位におく制度を、「男尊女卑」という専門家とは、なにを学んでどんな意図があるのかとうたがうのである。

世界を救うのは、天照大神だと気がついた外国の「まんがオタク」たちが増えると、ホワイトデーも世界に普及するにちがいない。
「白無垢」の「白」だから、外国では絶対に新郎が着ない、「白づくしのスーツ」さえ、文化輸出の対象になるのである。

還暦記念に

ガソリン値上げと首相の謝罪

ガソリン値上げが続いている。
「15週連続値上げ」がニュースになった。
カレンダーで数えれば、昨年の12月はじめから、ということである。

その辺りでなにかなかったか?
11月30日にOPECは定時総会を開催していて、翌年(つまり今年)の「協調減産」をテーマにしている。
これまでの減産幅を「縮小(つまり増産)」する案が、通りそうもない、という報道をみつけることができる。

それで、従来レベルの減産を2月から3月まで続ける、ということなので、結局、「これ」が主たる要因である。
しかも、アメリカの政権交代した日(1月20日)に、新大統領は、早速に「反・シェール革命」を実行した。

これで、アメリカが「産油国・純石油輸出国」から、「輸入国」へと転じてしまった。
より中東原油の「需要が高まった」のである。
もちろん、アメリカ国内のガソリン価格も急騰している。

だから、「自然」の成り行きによる、価格上昇ではなく、すべて、「人為」である。

石油価格があがれば、ほぼすべての商品・サービス価格も上昇する。
輸送コストが上昇するし、発電コストも上昇するからである。
従来からの、「デフレ脱却政策」における、インフレ目標は、石油価格上昇によって達成できそうなところにあった。

しかし、これは、「悪いインフレ」である。
経済の活況による「よいインフレ」ではないからだ。
しかも、政府は一丸となって、経済を悪化させる政策を好んで採用してきた。

もちろん、「コロナ対策」という欺瞞政策のことである。
なので、石油価格の上昇は、今後の日本経済どころか、世界経済に悪影響をあたえることは確実だ。

すると、日米の政府共通になった、経済政策課題である、国民の「貧困化」が達成できるかもしれない。
世界のGDP第1位と3位の貧困化こそ、地球規模での「社会主義革命」達成のための条件なのだ。

そんなわけで、姑息な日本政府は、「レジ袋」でうま味を得たのをいいことに、こんどは「プラスチック製のスプーンやフォーク」を有料化するとぶち上げた。

法改正を「しない」で、レジ袋の有料化に成功したのだから、あとはなんでもできる、とした予測が的中することになった。
まさに「蟻の一穴」的な、「突破」だったのである。

このようにして、政府によって国民の「自由が奪われる」という、物語が現実となっている。
これは、国民政府の崩壊であって、国民と政府の「分離」という現象を観察している、ということだ。

民主主義の終わり、なのである。

ちなみに、レジ袋とスプーンは材質がちがう。
レジ袋は、原料自体が「ゴミ」だった。
石油精製から生まれる「最終廃棄物の再利用」という「エコな発明品」を、なぜか目の敵にしたのである。

これも、国民貧困化のための「人為」なのだ。

すると、緊急事態宣言を延長したことを「詫びた」、首相の意図も理解できる。

ほんとうは、緊急事態宣言もなにもぜんぜん必要性なんかない。
でも、せっかく国民も思い込んだ「コロナパンデミック」が起きているから、これを国民を支配するための政府としては、利用しないでおけない、ということだ。

だから、「ごめんね、ごめんね」。

一国の総理として、本気で国民に「詫びる」なら、また責任ある立場であると自認すればするほど、「総辞職」がふさわしい。
なにしろ、「総理大臣」なのだ。
しかも、戦前の総理大臣とは次元がぜんぜんちがうほど、独裁的で「えらい」のが、日本国憲法下の総理大臣だ。

でも、総辞職なんかできないし、ましてや解散をや。

とはいえ、年内に衆議院総選挙はやらねばならぬ。
にもかかわらず、国民の意識は高まらない。

せいぜい都知事をいじめて、あわよくば失脚させるぐらいだ。
でも、神奈川県知事も、埼玉県知事も千葉県知事も、みんな「テキトー」に、政府に要請したことがばれたし、神奈川県知事にいたっては、それをばらしたことの自分の責任もわからない御仁である。

1989年、在任69日だった宇野宗佑首相のあとを継いだ、海部俊樹に、「シャッポは軽くてパーがいい」といったのは、小沢一郎幹事長。
30年経ったいまでも通じる「迷言」である。

黒岩氏は、このときすでに『FNNスーパータイム』でキャスターをしていたし、90年には「救急医療にメス」という報道キャンペーンで、第16回放送文化基金賞と日本民間放送連盟賞をダブル受賞している。

賞を贈った「放送業界」のレベルもしれるところだけれど、本人はなにを「取材」していたのか?
優秀な後輩の仕事を、横取りしたのか?と疑ってしまうほどの無能ぶりが、現在の体たらくなのである。

さてそれで、「悪いインフレ」がやってくる。
これを、「日銀のインフレ目標達成」と報道するのだろうと予想するのである。

このとき、首相は、「経済政策の成果だ」と胸をはるにちがいない。

ありもしないこと、をあることにする「成果」なのである。

『祇園囃子』の役人接待

わが国独立の翌年、1953年(昭和28年)大映製作の映画である。

川口松太郎の小説を、名匠、溝口健二監督が映画にした。
主演は、木暮実千代。
デビュー2年目の、若尾文子が眩しい。

また、この作品は、ブルーリボン賞で、助演賞を男女それぞれダブルで受賞している。
進藤英太郎と、浪花千栄子である。

いま話題の「役人接待」が、あまりにもちんけで小さいので、この映画にでてくる人間模様でも観て、すこしは頭を冷やしたがいい。

学歴エリートなのに、薄給の役人なんぞになってしまった。
ならば、権限を利用して、ちょいといい思いの少しぐらいしたってどうでもいいではないか。
もちろん、接待する側はむき出しの利益が欲しくてやっているのだ。
しかも、命をかけて接待している。

双方の下心がストレートすぎて、なんだか「すがすがしい」のである。

なぜか?
この接待を「きれい事」にする気が、毛頭ないのだ。
接待を受ける側も、差し出す側も、それぞれがそれぞれに欲がある。
またそれを、恥ずかしいともおもわない。

戦争と占領の相反する価値観が、一種のカタルシスとなって、「小事」と割切るこの感覚こそが、高度成長のエネルギーなのである。
むしろ、カネはもちろん食べものさえもろくにない敗戦国の「ないないづくし」が、役所とはいえ大規模予算を組めるはずもないから、所詮「そんなもん」であった。

こうした、「下心」は、年代がすこし進むと、『社長シリーズ』(1956年~70年)に変化して、こんどは「陽気」になるのである。
主演は、森繁久彌にいつものメンバーで、『駅前シリーズ』と並行制作された。

 

あらためて、役所の体制が、いまのように整備されていない、よき時代こそが、「高度成長期」なのである。
これは、明治の『坂の上の雲』の時代(国づくり)とおなじことを意味しているのである。

なんだかわからない、ちょっと秩序が甘い時代こそが、自由経済の「成長期」だと、歴史が証明している。
70年代、役所の体制が整うと、とたんに「中折れ」して、高度成長の季節もおわり、もう「二度とこなかった」のである。

何度も書くが、「月次統計」をみれば、オイルショックの「前」には、成長が急速に落ち込んでいた。
田中角栄内閣のラッキーは、「年度」で示して「オイルショック」が原因だと「言い張れた」ことにある。

それを、「経済の福田」が、「狂乱物価」といって煽ったのだ。
まことに、大蔵官僚の血は争えない。
戦後の大宰相は、まちがいなく池田勇人に相違ないけど、その「偉大さ」も、所得倍増「だけ」で誤魔化すのである。

一種の「歴史修正」がおこなわれている。
いわゆる、「歴史修正主義」を批判するけど、あんがい批判しているひとたちが、じつは「歴史」を修正どころか「捏造」するから注意がいる。

そんなわけで、『祇園囃子』である。
まじめに筋を通そうとするのが、浪花千栄子扮するお茶屋の女将である。
主人公からすれば理不尽この上ない態度だけれど、彼女の筋の通し方はちょっと、フローレンス・ナイチンゲールに似ている。

クリミア戦争(1853年~56年)での、「白衣の天使」は、権謀術数にすぐれた、わるくいえば手段を選ばない冷酷さがある。
ぴったり、『祇園囃子』の100年前のことである。
それに、彼女は統計学者だったから、いまようにいえば、データ・サイエンティストという側面もある。

つまり、データをあつかう彼女を味方につければ心強いが、いざ敵に回すと容赦ない報復を受けるのである。
現存している彼女の肖像写真に、笑顔がない(むしろ機嫌が悪い)理由。

それは、傷病兵のため、という一点を目的とした、徹底的な戦闘行動がつくった「顔」だった。
こうして、彼女は、母国イギリスの政界をも牛耳る、おそるべき「フィクサー」になるのである。

さて、花街(物語の設定は「上七軒」)のお茶屋の女将が守ろうとしたものは、ただ一点、「顧客からの信用」なのであった。
そのためなら、できることはなんでもやる。
他人から「狭量」といわれようがなんといわれようが、女将本人にとってはこれしかない、「業務範囲」に、まったく忠実一途な行動を「正義」としているのである。

この気概を失ったのが、現代の「甘え」の社会なのである。

接待をする側も、受ける側も、一途なる「矜持」がどこにもない。
非難されるべきは、これである。
「公務員倫理法」に抵触している、という「つまらない」話ではない。

しかし、なにが「独立直後」とちがうのか?
それこそが、戦争で失った役所の体制が、ほんらいの自由と責任を国民に意識させたのに対して、整備され巨大化ならぬ肥大化した役所が、余りある予算を好き勝手に差配して、従順なる国民を支配していることである。

接待される側も、この程度なら「法にふれまい」という判断があったはずだし、接待する側も、この程度ならの論理があったはずである。
だから、接待そのものが「ちんけ」になるし、だれもこれで影響力を行使してもらえるとかんがえなかったのではないか?

ならば、なんのための「接待」だったのか?

する側は、柔らかい雰囲気での「状況の説明」だったかもしれない。
される側は、「情報収集」だ。

なぜなら、「無謬の役人」が世間知らずだからである。

ではどうするのがよいのか?
過去二度の歴史を学べば、「役所の解体」がもっとも望ましい答えである。
優秀な役人を、ビジネスの世界に「解放する」ことでもあるから、日本経済、ひいては日本国民の幸福にひろく寄与すること、確実なのである。