「銃」がつくれない

わが国の工業技術の優秀さを自画自賛することは、「誇り」であった。
「ものづくり大国」とか、「世界の工場」という位置づけが、かつてあったからである。
もちろん、この基礎として「手先の器用さ」という、民族特性も自慢だった。

終焉のはじまりは、1985年9月の「プラザ合意(先進5か国 (G5) 蔵相・中央銀行総裁会議)」による、「円高容認」であった。
その後、ソ連東欧圏の政権崩壊と大転換が起きて、「要素価格」のうちの「労働(人件費)」が極端に安い旧共産圏へと生産がシフトをはじめた。

ちょうど、アジアでは改革開放路線の中国が注目されたのは、当然の成り行きであった。
しかし、ソ連東欧圏は、共産党が禁止になったけど、中国はそうではないし、また、話題にならないがベトナムも同様である。

SDGsなる発想で、地球環境を人類はコントロールできるという信じがたい傲慢なことを前提としだしたけれど、現実的な「地の利」からすれば、わが国には旧ソ連東欧圏を「工場」とするには、やはり「遠すぎた」のである。

発覚して報道された、住友重機械工業の自衛隊向け機関銃の開発にあたって、下請け会社が部品の調達に中国企業を選定し、その企業に設計図を渡していたことが発覚した。
ただし、貿易を管理する経産省は、外為法違反とはならない、という見解を示している。

また、元請けの住友重機械工業は、機関銃の生産からの撤退を表明しており、今回の「事件」とは別の経営判断であると説明している。
要は、「数量」と「単価」が採算に合わないということだ。
一方で、国産機関銃の品質は感心できないとの評価もあって、実態を正確に伝える報道が例によってない。

「国防」には、国産の武器・火器が必須だという意見が、保守系の論客からさかんに発信されているけど、こないだ書いたように「撃てない」ことの現実、がよほど深刻なのである。
物理的・技術的問題ではなく、人為的・法律的な問題だからである。

国産の銃が作れなくても、良好な関係がある国から輸入することは問題がない。
たとえば、アメリカ軍でさえ、全部がアメリカ製ではない。
ましてや、わが国の主力戦闘機はアメリカ製である。

むしろ、銃器本体よりも消耗品である「銃弾」の国産化の方がよほど重要だ。
銃器には「口径」などの「規格」があるから、その「規格」に則した「銃弾」しかつかえない。

たとえば、装填する火薬量が多いほど破壊力が増すだろうとして、規格外の分量の火薬をつかえば、銃身破裂事故を起こしかねない。
これは、銃を構えた顔先での「爆発」なので、射手の生命の安全に重大な問題となる。

そこで、火薬量を規格どおりにしながら、「弾」の破壊力を増すにはどうしたらよいのか?という問題を、火薬の「種類」を使い分けることで克服する技術もある。
燃焼速度のちがいを応用するのだ。

速く燃える火薬と遅く燃える火薬を組み合わせることで、ロケットでいえば、「二段階燃焼」させるのである。
これは、燃焼ガスがたまる「薬室」における、圧力を調整しつつ、発射におけるエネルギーを最大化させるというかんがえによる。

速く燃える火薬だけのときに発生する「燃焼ロス」を、遅く燃える火薬が打ち消して、「力」を与える。
野球でいえば、速いけど軽い球と、速度はそこそこでも打者のバットを折る重い球のちがいだ。

そんなわけで、「銃」という道具には、「銃」自体の機構設計と製造技術があって、これにあわせた、「銃弾」の機構設計と製造技術が必要なのである。
話題が銃の製造にばかり傾くのは、いかがなものか?

戦国時代、種子島にやってきた鉄砲を当時の世界最大数にまで量産したのは有名だけど、火薬が足りないことでの貿易が必要だったことも書いた。
「猟銃」についていえば、現状わが国には1社(ミロク製作所)しか専門メーカーは残っていない。

それも、製品のほとんどがアメリカに輸出されて、「ブローニング」、「ウィンチェスター」というブランドになって販売されている。
ちなみに、世界最大の銃器メーカーは、イタリアの「ベレッタ社」である。

つまり、「銃器」という分野では、わが国はイタリアに到底及ばない技術途上国なのだ。
イタリア、である。

伝統文化とおなじで、製造技術もいちど絶えると復活できない。
そのわかりやすい例が、京都「清水三年坂美術館」にある、明治期の「超絶技法」を駆使した工芸品にみることができる。

どうやって作ったのか?
もう、だれにもわからない、という時代の逸品がならんでいる。
それはまた、台湾の「国立故宮博物院」にある、「青磁」のごとく。

さてそれで、住友重機械工業の不始末は、技術ではなくて「マネジメント」にある。
「撃てない」ことと同様に、人為の「失敗」なのである。

これこそが、「撤退」の理由だろう。
すなわち、文系経営幹部(中間管理職もふくむ)たちの、不始末が組織に蔓延して、これを「防止」できない企業体質に陥ったということだ。

企業内スローガンとして、「まんぼう」を掲げるか?

問題は「撃てる」のか?

人類史上最大の詐欺とその「人為」による被害が「コロナ」であることがだんだんわかってきた。

この詐欺を仕掛けたひとたちの「次」を阻むのは、アジアの大国の「横暴」になりそうな様相である。

「クアッド」の枠組みに、どんどん「参加」する国が増えてきて、「連合軍」を形成しつつある。

「産軍複合体」と歴史的に「癒着」をしてきた、アメリカ民主党と共和党主流派は、戦争の仕掛け人であるから、アジアの大国の横暴を暴虐に格上げしつつ、武器消費の算段を立てているはずである。

ちなみに、共和党は、トランプ氏(共和党保守派)の巻き返しによって、主流派がいまでは主流でなくなってきている。
その証拠が、今月12日、反トランプの急先鋒、リズ・チェイニー(Liz Cheney)議員を、連邦下院の同党ナンバー3の座から解任したことだ。

彼女は、ブッシュ政権(息子)の副大統領で、父ブッシュ政権の国防長官だった、リチャード・ブルース・チェイニーの長女である。
いわゆる、「ネオコン」なのだ。
「解任」されても、「共和党はやめない」というけれど、来年の中間選挙で「共和党候補」になるための地元予備選挙で勝てる可能性は少ない。

とはいえ、清教徒の流れをくんで「信教の自由」に敏感な共和党保守派も、アジアの大国内で起きている「人権侵害」を許すことはできないから、「きな臭さ」を消す勢力がアメリカに存在しない。

また、18日には民主党のペロシ下院議長が、北京オリンピックへの政府関係者の不参加を世界に呼びかけた。
選手のことではなく、随行する外交官のことを指す。
ある意味、巧妙な「ボイコット」の呼びかけとなった。

はたして、トランプ氏が政権をさった後のアメリカは、誰が運営しているのか?という「うわさ」をいえば、退任直前に「限定的戒厳令」を発令したという「お話し」がある。
つまり、「軍政」である。

この件では別の「うわさ」があって、4月14日に、国防総省内で「将軍たちの反乱があった」という。

それは、バイデン・ハリス政権を「正統」とする、統合参謀本部議長のマーク.A.ミリー(Mark Alexander Milley)と、州兵局長官(陸軍)ダニエル・R・ホカンソン(Daniel R. Hokanson)の二人の4つ星将軍(大将)を、米海兵隊司令官デビッド・H・バーガー以下の大将たちが「逮捕」した、という「お話し」である。

軍内のことだから、即座に二人の将軍は、キューバにあるグアンタナモ基地(収容所・軍事法廷)に送致されたという。
よって、現在の米軍および政権は、バーガー海兵隊司令官が主宰しているとかんがえられている。

ここから派生して、ヒラリー・クリントン女史の処刑(4月26日)も「うわさ」されている。

そんなわけで、ペロシ氏もいつ逮捕されるのかわからない身だと「うわさ」されているし、すでに「別人」の女優が役回りを演じているという「うわさ」まである。

こんな「うわさ」が根拠をもつのは、アジアの大国とズブズブのはずのバイデン氏が、どういうわけか「対中強硬」なことである。
ここに、軍の操り人形ではないか?ということの「希望」をふくめた「お話し」が成りたつのである。

さてそれで、現代日本人がもっている「平和ぼけ」という点をいうと、戦争をやりたがるのは「軍人だ」という勘違いがある。
じつは、軍人は基本的に戦争を嫌う習性があることをしらない。
なぜなら、軍人の立場になってかんがえればすぐにわかる。

兵卒なら、命がけの危険にさらされる。
将校や指揮官なら、作戦の失敗はゆるされない。
ましてや、直接敵と対峙しない「大将」ともなれば、自軍の損害や勝敗に直接的な責任を負わされるばかりか、それが「歴史」になって死後も永遠に語られることになるのだ。

つまり、やるからには絶対に勝たなければならないのは当然で、現代では「圧勝」という状況も要求されている。
臆病なまでに「用意周到」になるのが、現代における本来の軍人の姿なのである。

しかし、それは、「軍」であることの発想である。

わが国に「軍」は存在しない。
だから、「防衛費」をいかに増額しても、敵に向かって「撃てない」という問題が突き刺さる。
「張り子の虎」とは、わが国をいう。

軍人であれ自衛隊員であれ、国民である。
職務として敵に対峙したとき、殲滅しないといけない、という状況になって、撃てない、というのは、「見殺し」を想定しているという意味となる。
日本国民は、自国同胞を見殺しすることを「正義」としている。

水面下で、すでに第三次大戦は、はじまっている。
その準備が、できないままに「開戦」となれば、あとは「超法規的措置」しか方法がない。

憲法によって殺される。

これを痛いほど味わうことになるのは、拉致被害者を放置したと同様の痛みの報いである。

戦後最大の政府の失敗?

コロナ禍が原因とおもわれる、経済成長率の「マイナス幅の大きさ」が、「戦後最悪」を記録したと報道されている。
この原因は、おしなべて「政府」に責任があることは間違いない。

第一に、政府がコロナ禍を「抑えられなかったこと」にあるのはいうまでもない。
ただし、コロナ禍のなにを抑えられなかったのか?と問えば、根本にある、「新型コロナウィルスの存在」への疑問に「答えていない」ことがあげられる。

「答えていない」ことの意味をかんがえると、「答えられない」という理由しか見当たらない。
ならば、「答えられない」と答えればよいものを、「答えない」のだから、なにか答えられない理由があるにちがいない。

もちろん、「答えられない」のは、衛生を司る政府の役所にとっては「恥」である。
でも、「恥を忍んでわからない」、と答えることはできる。
なぜなら、「当該ウィルスの存在を示して、これを確定する」学術論文が「ない」からだといえばよいのだ。

まず、「論文」がいまだにこの世にない。
すると、一般的に、「ウィルスの存在」も「ない」とするのが、「学術の常識」である。
だから、政府には学術の専門家を外部委員として雇ってもいる。

ところが、学術の専門家の外部委員代表が、公共放送で「エビデンスはない」と公言したのだ。
エビデンスとは、「証拠」のことだから、「ないものはない」ということになるのがふつうだ。

しかし、ぜんぜん「ふつう」ではない状態が続いていて、「戦後最悪の経済落ち込み」になった。
つまり、「政府が役に立たない」というエビデンスばかりが目立つのである。

厚生労働省の統括審議官は、昨年12月2日国会での質問(参議院)地方創生及び消費者問題に関する特別委員会での、柳ヶ瀬裕文議員(日本維新の会)の質問で、PCR検査の(陽性)判定についての、不確かさを答弁している。

「PCR検査の陽性判定イコール、ウィルスの感染性の証明ということではない、ということです」と。

にもかかわらず、「ワクチン担当大臣」なる役職を設けたのも「政府」である。
もとから、デカルト的機械論をぶっていた政治家が、この役に就いた。

ちなみに、機械論は唯物論と結合しやすいという「化学的特性」があるので、「機械論的唯物論」という、そっち方面のひとたちには絶賛されている、悪魔のかんがえ方がある。
そんな思考をしているワクチン担当大臣は、どういうわけか、親子三代の自民党代議士なのである。

だから、ウィルスの存在を疑う議論に目もくれず、ワクチン接種者の数を増やすことにしか興味がない。
まさに、「メフィストフェレス」なのである。

そんなわけで、この御仁は、ワクチンがどんなものか?にも興味がない。
とにかく、国民に接種をさせるのが仕事であって、それがどういう結果をまねくのかについては、一切の興味がないという、ふつうなら管理職になれないタイプの人物なのである。

これは、どこかで見てきたような人物像である。

ナチス党の組織である、「親衛隊」の中佐であった、アドルフ・オットー・アイヒマンを思いだす。
そういえば、自民党には親衛隊はないけれど、「党員」であることにはちがいはない。

「中佐」とか、「制服」がまるで軍隊のようだけど、ぜんぜんちがう。
あくまでも、「政党」の内部組織なのである。
しかし、政権党が政府を支配する構造なので、軍人よりも親衛隊員が「エリート」とされた社会をつくって、みな入隊を希望した。

アーレントのこの著作は、発表当時ユダヤ人社会から驚くほどの反発を呼んだけど、その副題『悪の陳腐さについての報告』にある、「内容」が重要なのである。
批判者とは、読まずに批判するものなのだ。

つまるところ、「凡庸な人物」が立場を得て、何も考えずにただ「命令を実行する」ことの恐怖と、だれの身にも降りかかる「あるある」の「ふつうさ」。
凡庸とふつうが合致したときに起きる化学反応は、おそるべき厄災をもたらすのである、と彼女は指摘した。

凡庸な人物とは、自分で考えることが「できないひと」という意味だ。

これは、いまでもどんな組織にも当てはまる。
役所であれ、企業であれ、学校であれ、あり得ないことが起こりうるのは、「人事」における「ふつう」の異動が、ときに怪物を作り出すことがある。

無責任なトップと部下が「つるんだとき」の、あの状態である。

巨大な組織や、組織が巨大になったとき、「あるある」になるのは、その役職での思考すべきことが問われずに、ただ暗黙の命令に機械的に従うものの「評価」があがる「評価方法」に左右される。
とはいえ、所詮、組織を構成するのは人間だから、人間を機械論で扱うと、とんでもないことになるという実例なのである。

しかし、この反省もなく、世界中の政府が同時に、おなじ「間違い」を起こしてしまった。
だから、一歩まちがうと、ジェノサイドになりかねない。

その手前で、経済活動の落ち込みになってあらわれたのである。

ありもしないかもしれないウィルスによって、死亡したひとや重篤化したひとの数が毎日発表されている。
「論文がない」ことをしっていて、まともな政府なら、まずこのような「報道」をやめさせなければならない。

これが「できない」とすることが、第二の原因なのである。
「言論の自由」があるからできないのだ、ということは理由にならない。
映画にだって、年齢制限があるのは、「有害」に関しての判断があるからである。

政府は「有害情報」という「認定」をすればよい。
営業制限に従わない飲食店に命令することの無意味は、「エビデンス」が示しているのだ。

さもなくば、大学生が就職できなくなる。
ただでさえ若者は貴重なはずなのに、若者を親世代より貧困に追いやる政策が実施されているとしかおもえない。
さすれば、貧困者を救うという「政府依存」を看板にする政党のためになる。

そんな政党が、連立与党にもある。

若者が選挙にいかないがために、こうなったのは自業自得ではあるけれど、そう仕向けているのが「政府」なら、一概に政府の失敗とはいえず、むしろ、「不穏化の成功」といえる。

ますます、全体主義の危険がせまってきている。

やけくそ解散なんだけど

もうなんだかわからない。

「浮き草」をずっとやって流されてきたけれど、その場その場をその都度しのいできたら、なにがどうなっているのか見当もつかない。

あたかも、「敗戦」とは、まさかの「アナフィラキシー・ショック」だったかのように。
碩学、小室直樹は、アナフィラキシーではなく、社会学用語の「アノミー」を用いて、国民的「ショック状態」を解説していた。

「アノミー」は、フランスの社会学者エミール・デュルケームが提唱した、社会の規範が弛緩・崩壊することなどによる、無規範状態や無規則状態を示す言葉、と定義されている。

わたしの知人に、元特別高等警察官だった父をもつ御仁がいる。
このひとの兄は、たいへん優秀で、陸軍大学校卒のエリート軍人だったけど、戦後になって恐るべき「アウトロー」になったという。
話を聞けばきくほど、「アノミー」の症状が個人に出たと思われてならない。

「軍高級将校たちの腐敗」という体験によるショックに続いて、「敗戦」という社会的第一次ショックがきたら、次に、「占領」という第二次ショックがやってきて、さらにまた、日本人の精神を腐らせる「占領政策」という第三次ショックが襲う。

個人でも、ナイーブなひとは、「津波」の波状攻撃ように「心」を破壊されたのだろう。
こうして、国は再独立したものの、ぜんぜん立ち上がれないばかりか、自身が進んで破壊者になった。

あたかも、佐木隆三原作『復讐するは我にあり』(今村昌平監督、1979年、松竹)のようである。

 

海軍幼年兵だったわたしの亡父も、「日本人を骨抜きにする政策が行われて、そのままになっている」と子どものときから聴かされた。
陸大卒のエリートならば、もっと深刻にかんがえたのは間違いない。
だから、兄貴は「人間が変わってしまった」ということの意味がわかるというものだ。

人間という動物のDNAがうんぬんされるようになったのは、「遺伝」の発見からである。
最初は、修道士だったメンデルの有名な「えんどう豆の色」。
いまからわずか70年ほど前の1953年、 ワトソンとクリックが「遺伝子の2重らせん構造」を発見した。

だからといって、いまだに「人間とはなにか?」の本質的な理解が完全にできているとはまったくいえない。
むしろ、いろいろと分かれば分かるほど、ゴールが遠のいていくように、「謎」は深まるばかりである。

「個体」としての人間がそんなありさまだから、「集団」となった場合の「社会」だって、かんたんに解明なんかできない。
それが、「エセ科学」のまん延で、あたかも「わかったつもり」になってきたから、より世の中が混乱するのである。

たとえば、「ビッグデータとAIの活用」に期待が高まっているけれど、目的と手段が逆転した議論になっている。
なんだかたくさんデータを集めれば、なにかがわかるだろう。
実際は、こんなことはない。

ところが、「あるように」宣伝することで、「ある」に変化するのが現代の人間社会なのである。
このような「壮大な実験」は、かつての「啓蒙主義の時代」から、断続的に人類は試みている。

「あるように」を宣伝することが、「啓蒙」だった。
それで、フランス革命になって、さらにロシア革命になった。
ヒトラーの実験も、このあとに続いて、いまは大陸の大国が引き継いでいる。

「信念がないことが信念」に「改造」されたのが、戦後日本人だから、物理法則のように、エネルギーが安定する方向に「自然」とすすむ。
それが、「安逸さ」という「安定」なのである。

昭和の終わりと平成の初め、つまり、「御代」の交代時期と、「戦後の頂点」の時期とが重なるのは偶然ではない。
戦後の昭和が内包した、「安逸さ」を追求させられたことの結論が、「バブル経済」とその「崩壊」であったのは、時代を支えた「人材の交代時期」でもあったからである。

戦後高度成長をけん引した経済人たちは、みな明治生まれだ。
でも、バブルのイケイケをやったのは、昭和の戦中か戦後生まれなのである。

高度成長期の経済人は、「昭和大帝」(1901年生まれ)とだいたい同世代なのである。
政界において「今太閤」といわれ、「若く」して頂点に立った田中角栄だって、1918年(大正7年)生まれだ。

つまり、田中角栄の同時代の実力者は、明治生まれだから「若手」といわれた。
ロッキード事件の宿敵、三木武夫は1907年(明治40年)生まれなのだ。

「平成」が、昭和のダラダラな延長だったのは、「安逸さ」からの脱却を一切しないという、「安逸さの保守」をしていたからである。
そして、この「安逸さの保守」のことを、ただ「保守」というようになったのが、「平成」という時代だった。

しかし、「安逸さの保守」は、戦後すぐに仕込まれたことだから、見事に「一貫」しているのである。
それが、「保守」としての「自由民主党」の素顔である。
だから、劣化しているようでそうでない。

いまを「劣化」というなら、それは、「戦後の日本国民全体」の劣化にほかならない。

そこにやってきたのが、「任期切れ」という期限である。
ほっておいても選挙をしないといけないのだから、なんでもいいから「解散」でもして格好をつけよう。

そんなわけで、「やけくそ解散」なのだ。

あとは、なにかの「きっかけ」さえあればいい。
たとえば、オリンピックの中止とか、たとえば、アメリカの政変とか、さすがに台湾有事で選挙はできないから、「任期切れ」での臨時政府になるかもしれない。

「やけくそ」だから、なんでもありなのである。

日野市議コロナ質問の核心

東京都日野市議会議員、池田利恵というひとである。
プロフィールに、「全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会・事務局長」と「新型コロナウイルスを考える会・事務局長」とあって合点がいった。

発端は、さかうえひとし(坂上仁志)というひとが、ネット動画で説明しているコロナの「事実」が、話題になっていることからの「発見」である。

わたしが驚いたのは、池田氏の「主張」でもある、市議会での「質問」内容が、これまでわたしがこのブログで書いてきたことと、ほとんどおなじ、ということなのだ。
「仲間がいた」というのが、ほんとうの「発見」である。

わが国には、国家の立法機関である国会に、地方の立法機関である地方議会がある。
地方の立法機関では、憲法に従って、あるいは国の定めた法に従って、「条例」を定める権能を有している。

この「条例」には、罰則だってあるのだから、地方議会をバカにしてはいけない。
なので、都道府県警察は、組織内の管轄地域自治体が定めた「条例」の取締も職務範囲にあって、警察署長がこれを管轄することになっている。

もちろん、地方議会といえども議事に「虚偽」があってはいけない。
質問する側、答弁する側それぞれに、「真実」が求められるのは、当然のことである。
これを、「公人の責任」というのである。

ときに、昨年6月8日の定例市会において、「コッホの原則を考えてみると新型コロナウイルスの存在は証明されていると思いますか?」と核心をついた質問をした。

市当局の答弁は、「この件に関しては短期間にいろいろな変遷があり、社会的に影響が大きくなっております。今後も国や都の動向に注視しながら情報収集してまいります。」と、国家中枢の官僚と同様の「意味不明」な答弁をした。

これに議員は、「担当としてはその回答しかできないことも一定の理解ができます。」とおとなの対応をしている。

この質問にあたって、議員は、上海公衆衛生臨床センター張永振教授の研究チーム提出の「A new coronavirus associated with human respiratory disease in China(中国のヒト呼吸器疾患に関連する新しいコロナウイルス)」という論文を資料として議会に提示している。

さらに、なんと、発信の根源である、この上海公衆衛生臨床センターは、1月11日にウイルス情報サイトに掲載し、その「翌日に閉鎖」になっていることを曝露している。

この質問は、まさに「核心」なのである。
もしや「ありもしないウィルスに翻弄されてはいないか?」

それは、この「論文」という「情報ウィルス」という意味だ。

日野市議会での4日後、12日(金)では、第2回大阪府新型コロナウィルス対策本部専門家会議が開かれた。
吉村大阪府知事の質問:(第一回目の)緊急事態宣言も営業自粛も全く効果がなかったということですか?
専門家(大阪大学核物理研究センター長中野貴志教授)の回答:なかったとおもいます。

やっぱり「ありもしないウィルス」か?

その後、「12月定例日野市議会」において、11月30日に同議員はまた質問に立って、「以前よりお伺いしておりましたが、PCR検査が新型コロナウイルスを検出している科学論文はあるのか?新型コロナウイルスの存在を証明する科学論文があるのか?二つのエビデンスを出して下さい。」と質問した。

なんだか日野市職員がちょっと気の毒になるけれど、議会で正当な質問には回答の義務がある。

答弁は、「議員より予てから調べるよう要請がありましたPCR検査が新型コロナウイルスを検出する論文、及び、新型コロナウイルスの存在を証明する論文は、国や関係機関にも問い合わせておりますが、探すことが出来ておりません。引き続き、調べてまいります。」

うそでしょ?
論文がない。

これを議員は、自ら事務局長の「新型コロナウィルスを考える会」として、「10月22日の段階で厚労大臣宛てに行政文書開示請求をしておりまして、同様の質問「新型コロナウイルスが存在するという事を証明するエビデンスの要求」を提出しました。これに対する回答が 11月20日に「開示決定等の期限の延長について」と云う通知で再度、回答を本年12月21日に60日間延長する、と云う文書で受け取った」、という。

「不開示情報該当性の審査に時間を要するという事ですが、情報公開法は原則開示だが、例外として不開示にすることが認められる場合があり、その例外に該当するか?という事だと存じます。これはワクチンを接種する国民にとって大変重要な問題です」。

開示延長された「その後」について調べてみたが、ネット上で検索できなかった。
「例外」とされたかの確認もできていないので、念のため。

つまり、もっとも重要な「ウィルスの存在」が、わからないままになっている、ことだけは、「事実」なのである。

さて、地方議員による場外ホームランどころの話ではない。

国会はなにをやっているのか?

政治「音痴」の譜系

前に、資本主義「音痴」について何度か書いた。
よくよくかんがえれば、これは、「近代民主主義社会音痴」のひとつの事象にすぎないことがわかる。

近代民主主義と、自由主義(経済)は、双子のようにセットではあるが、この双子は、決して一卵性ではなく二卵性なのである。
なので、似ても似つかない。
そして、この双子が協力し合って、はじめて資本主義ができる。

これらの歴史的背景は、ヨーロッパ・キリスト教社会にある。

だから、本来ならばわが国では、とうてい「自然発生」なぞしないはずである。
ところが、トインビー博士が明言したように、ヨーロッパ・キリスト教文明とはぜんぜん別物の、「日本文明」においては、「資本主義らしきもの」を発明していた。

織田信長による、「楽市・楽座」の発想と政策は、近代資本主義における「独占禁止法」の趣旨と同じなのだ。
これによって、「堺」という商業都市が、あたかも独立国のようにふるまえるようになって、大発展した。

今様にいえば、「経済特区」である。
しかも、いまよりずっと「自由」だったはずである。
政治の「真剣さ」がちがう。

戦国時代という大競争時代は、末期になるほど戦国大名の「勝ち残り=生き残り」における領地治政の「総合力」が決め手となったからである。
だから、たとえ滅亡しても、歴史に残る戦国大・大名たちの治政に優れた面があったのは、当然といえば当然なのであった。

それをまとめ上げたのが「徳川政権」だった。
果たして、家康ひとりの力とはかんがえにくく、驚くほどのブレーンと事務官僚がいたはずである。
しかし、これらを統率した家康の力量は、やはり尋常ではない。

たとえ家康とおなじスタッフが揃っても、凡人にはとうてい成せないのである。

またこれはある意味、アメリカ合衆国の大統領制のようなものだ。
将軍が代替わりすると、スタッフも入れ替わる。
江戸城は、まさにホワイトハウスであって、これが各藩(州)を統合していた。

アメリカ建国(独立宣言は1776年)よりもはるか前(1603年)に、江戸幕府がはじまっている。
まさに、「日本文明」の真骨頂でもあった。
鎖国ができたのも、当時世界最大の鉄砲保有数が物語るように、南蛮諸国を圧倒する防衛力としての軍事力(これを支えた技術力も)があったからである。

種子島で大枚の金貨を払って購入した鉄砲は、なんとたったの「2丁だけ」で、これを刀鍛冶がコピーした。
できないものは、「ネジだけ」だったのだが、これも製造方法を学び取ってしまって、あっという間に完全国産化に成功した。

ただし、火薬の材料「硝石だけ」は足りずに輸入しないといけなかったので、プロテスタントのオランダとつき合った。

それでいよいよ「鎖国」して、国内における取引に、「内国為替」や世界最初の「先物市場(大阪堂島)」を開設していたけれど、「資本主義」にはならなかった。
「堺」以来の、自由取引(主義)はあったけど、民主主義がなかったからである。

民主主義の歴史をみれば、象徴的なのは英国における「名誉革命」(1688年)だ。
議会による「王権の制限」が行われたのは、「王の行動」に問題があったからだ。

すると、皮肉にもあちらの「王」に匹敵する、わが徳川「将軍」の行動に問題はなかった(ことになっている)ので、「名誉革命」の原因がないし、そのまた原因の「清教徒革命」(1640年)による「カソリック」との対立も、わが国にはない。

「一向一揆」と「島原の乱」は、「革命」にいたらなかった。
それに、一向宗は「浄土真宗」となって、家康に「大谷派」と「本願寺派」に分裂させられた。
また、島原の乱の後は、日本人奴隷売買をいよいよ厳しくして、これをやっていたキリシタン信徒を厳罰とした。

つまり、ヨーロッパとは比較にならないほど「うまくやっていた」のである。

この成功体験が200年続くから、成功体験の「保守」が「自己目的化」した。
それで、「黒船」のショックに「保守」では対抗できなかったのだ。

成功が失敗のもとになる、みごとな経験を日本人はしている。

あわてて、当時の先進国に学んだのは周知の通りだ。
しかし、このヨーロッパ先進国とは、かつて悪辣三昧をしたひとたちの子孫である。
これを、安政の大獄で処刑された英傑、橋本左内は見通していた。

井伊直弼の大罪とは、千年にひとりの逸材、橋本左内(享年25歳)を処刑したことにある。

そんなわけで、わが国では、無理クリ近代化を図ったけれど、国民があまねく資本主義に傾倒したわけではない。
むしろ、「開発独裁」の政府によって、音痴が甚だしい。
「武士の商法」を嗤うけど、明治政府の役人だって元武士たちなのだ。

役人が商売をしらないのは世界共通だ。
アメリカの猟官制が、民間人を役人にする優れた仕組みだったけど、カーター政権が屋上屋の「高級官僚制(SES:「シニア・エグゼクティブ・サービス」(1979年))」を作って、これが、「ディープステート」になった。

わが国は、明治政府の官僚にふさわしい武士不足を回避するために、国史上初の「科挙:高等文官試験」をやって、明治維新の元勲が絶えた後は、官僚組織が「DS」になって今に至る。
だから、双子の一方、民主主義にえらく「疎い」のも当然といえば当然なのであった。

さてそこで、官僚たちの「失政」が、コロナ禍ではっきりしてきた。
とうとう、悪辣三昧の欧米「並み」に落ちたのである。

わが国で、「名誉革命」が起きるか?
ネーミングはどうであれ、時間の問題になってきているなら、まだ救いはあるのだけど。

効果は「95%」の意味

「誤解」を「誤解とも思わぬ」なら、勘違いを通り越してなにやら「悲惨」な気分になるものだ。

しかしながら、何故かくも大勢のひとが「誤解している」のか?を問えば、やっぱりだれも「報じない」ことに原因がある。
もちろん、自分でかんがえることが重要なのだけれど、分業化がすすんだ「現代社会」に報道が必要な所以でもある。

そして、国民の多数がこんな状態にあることをしらないはずがない「政府」も、とうとう「だんまりを決め込む」態度をとり続けている。
したがって、政府も立派な「共犯者」になるのだ。

ところが、
「ワクチンの有効性は95%です」。
と、政府がいっている。
すると、「報道」が鵜呑みしてこれを報じる、という構造になるから、じつは国民が誤解していることの「主犯は政府」なのだ。

そこで、学問(数学)的にはどうかんがえるのか?を解説したい。

まず、誤解の誤解たる解釈から。
「ワクチンの有効性は95%です」。
すると、分母はなにか?ということをかんがえないといけない。
この「文章から」は、ワクチンを打ったひとを分母にしている、とかんがえてしまうのだ。

つまり、ワクチンを打ったひと100人中、95人が罹患せず、5人が罹患する確率だ、と読んでしまう。

ほんとうはどういう計算だったのか?
まず、計算した時点での「事実の数字」を使っていることに注目しよう。
・ワクチンを打ったけど、罹患したひとが8人いた。
・ワクチンを打たなくて、罹患したひとが162人いた。

よって、
8 ÷ 162 × 100 = 4.9% ≒ 5%
1 - 5%(0.05) = 95%(0.95)
ということで、「なんだそうだったのか」になればいい。

ここで面倒なのは、「罹患した」ということが、従来なら「発症した」ということでの社会的コンセンサスがあったけど、今回は、人類史上初めて「PCR陽性」をもって、無症状でも「感染者」と定義したことだ。

何度も書くが、わたしは、このこと自体が「医療崩壊」だとかんがえている。

基本的に、新型コロナによる病気とは、広い意味の「風邪」のことである。
だからふつう、発熱や咳、あるいは関節痛、味覚障害などの「症状」があってから、医療機関におもむいて、医師から「診断」を受ける。

この「診断」をもって、「罹患したひと」=「患者」と認定されて、指定病であれば地元保健所に報告義務が医師に課せられていたのだ。
しかし、今回は何故か?(これもだれも説明しない)「PCR検査」なるものが突然登場し、医師の診断より「正確」ということになった。

もちろん、医師は自分で診断し、目のまえに出現した「患者」に対しては知る限りの医療行為を駆使して、患者を治療する義務を負う。
ところが、医師の診断よりも、検査の方が上になった。

ここに、「専門」としての逆転がある。
人間の医師よりも、検査技術を上に置くのは医師の存在の否定だ。
おそらく、「AI」もこうして「のさばる」ことになるだろう。
けっして、人間型ロボットの世界ではない。

そういうわけで、民間医療機関(主に開業医)でつくる医師会は、公共の医療機関に「偽性の患者」を振って診療を拒否しているのは、「一理ある」ということになってしまったのだ。

すなわち、「検査陽性者=感染者」を診療拒否する、という、そのままでは医療倫理に抵触するような「異常事態」になったのだけど、だれも文句をいえないのは、根底にあるこの病気の認識が、はなからおかしいからである。

さて、計算にもどる。
「95%」の意味がわかったところで、次があるのだ。

上記の8人とか、162人とかは、調べた対象者という集合のうちの、という意味がある。
では、何人を調べて、そのうちの8人やら162人だったのか?

18,000人なのだ。

すると、分母には、18,000人を用いないといけない。
8人 ÷ 18,000人 = 0.0004(0.04%)
162人 ÷ 18,000人 = 0.0090(0.9%)

この数字の意味を分かりやすくするには、1(100%)から引く。

・ワクチンを打ったけど、罹患したひとが8人とは、99.96%のひとがワクチンを打って罹患しなかったひと、ということ。
・ワクチンを打たなくて、罹患したひとが162人とは、99.1%のひとがワクチンを打たなくて罹患しなかったひと、ということ。

すると、ワクチンを打つことの効果は、これらの「差」から求めることができる。

99.96% - 99.1% = 0.86%

文章にすると、「ワクチンを打って罹患しない効果の確率は、ワクチンを打たないよりも 0.86% 上がる」、ということである。

この確率を高いとみるか、低いとみるか、はたまた、副反応の確率とくらべてどうなのか?を判断するのは、本人の価値観による。

例によって、こうした解説を高校数学教師がやっている。
おそらく、予備校講師もやっているはずだ。

高校理科では、『科学と人間生活』という科目ができている。
実生活に科学がどのように応用されているのかを学ぶことで、科学の有用性を先に学習し、生徒に興味を持たせようという趣向だ。

この趣旨からすれば、上記の「計算」は、数学が実生活に役立つという「証明」にもなる。

しかしながら、政府・文部科学省という役所に「忖度」すれば、こんな事例の計算問題を入試で出題する根性がある学校はない。

げにおそろしきは、やっぱりコロナではなく政府なのであった。

素晴らしき「きたなシュラン」

見た目は汚いけれど、料理は美味しいレストラン、というアイデアを「お笑い番組」でやったことが見事だった。
世界的レストランガイドに引っかけた、「ネーミング」も見事で、フランス人には意味がわかるまい。

じつは、一種の「ドキュメンタリー」なのである。

これを真似て、自分の個人的人生経験から、勝手に「きたなシュラン」を見つけて、勝手に認定する、ということもできる応用が効くことも、あんがいとうれしいことになる。
これは自分の「秘め事」にすることだから、SNSで紹介したりはしない。

前にも書いたけど、わたしはネットのレストラン・ガイドをみない。
みても、もっぱら場所と営業日・時間の確認であって、本来の「書き込み」は「みない」ということだ。
「参考にならない」というのが、結論になっている。

なので、自分で「書き込み」もしない。

たとえば、「ものすごく美味い」とたくさん書かれているからといって、「ものすごく美味い」とはおもえなかったり、その逆に感じることがある。
また、インスタントラーメンの方がよほど美味い、という書き込みがあるのに、ぜんぜんちがうこともある。

書き込むひとの正直さがわからないけど、最初に疑うのは「味覚」である。
それでもって、書き込んだひとの正直さも疑うことになるから、最後は日本人の劣化を嘆くことになって、なんだか大袈裟になるのが嫌なのである。

まぁ、どうしょうもない日本と日本人を「これでもか」とこき下ろしながら、だからこそ「伸びしろ」がある、という希望的観測を書いているひともいらっしゃるから、やっぱりひとそれぞれなのである。
むしろ、フランスのように何度も革命で世の中がひっくり返るような、グダグダを経験しないといけないとした、小室直樹の方がわたしの性に合うのも、「好み」なのだ。

それでもって、前から気になっていた店に行ってみた。
何度も前を通過しているのだけれど、コンサバなわたしは遠くの行き慣れた店に入ってしまっていたのである。
しかし、今日はちがう。

腹が減って、いてもたってもいられない。

まるで、『孤独のグルメ』の主人公になったようだ。
いまいる場所から、最も近いのが、「あの店」である。
駐車場は幸いにも1台分だけ空いていた。
それにしても、「近接」して気づいたのは、入口の窓に貼ってあるメニューの「値段」だった。

あまりの「安さ」に、気が引けるだけでなく腰が引けた。
300円台からある。
しかし、もうどうでもよくなって、ままよっと入店した。
なるほど、常連とおぼしきひとたちの店であった。

そこに、妙に人懐っこい親父さんがやってきて、自分ひとりで切り盛りしているから時間がかかる、なので、無料だからコーヒーでも飲んで待っていてくれという。
ちゃんとしたコーヒー・マシンが、きたない店内の奥にあった。

セルフなのでとりあえず、アイスコーヒーを選んだけど、それが「ふつう」のアイスコーヒーなのに、すこしだけ驚いた。
ふつうの喫茶店のように「うまい」のである。
なんだか、異空間である。

壁には、緑のメッシュのジャケットが掛けてある。
「◯◯小学校」と背中にあるから、登下校時の「緑のおじさん」をやっているのだろう。

メニューから「最高額」の「トマト・ラーメン650円」が目に飛びこんだ。
「ソース焼きそば400円」、ぜんぶ税込みである。

両方とも注文した。

先に出てきたソース焼きそばは、意外なボリュームで、しかも、意外な美味さだった。
またまた、ふつうのソース焼きそばなのだ。
具材もちゃんと入っている。

すると、おもむろにトマト・ラーメンができた。
自分でとりにいくと、匂いが「イタリアン」なのである。
スープは、バジルが効いた、およそラーメンどんぶりに入っているとはおもえない、濃厚なトマト・ソースである。

そこに、ラーメンが沈んでいる。
しかしながら、この麺に腰があって、けれどもパスタではない、不思議な感覚だ。

気がつけば、親父さんが横にいて、「トマト・ラーメン初めて?」という。
いやいや、この店が初めてでしょうと内心おもったけれど、構わずに出てきた言葉が、「セットの半チャーハン」だった。
この味にチャーハンはないとおもったら、案の定、ご飯と粉チーズの「スペシャル・セット」があるよ、という。

この際だから、一通り経験しておこう。
たしかに、このスープというかソースにご飯をからめたら美味そうである。
それで出てきたのが、小皿に山盛りの粉チーズとご飯だった。
「リゾットみたいでしょう?」

おっしゃる通りである。
壁の写真にある、特製ピザは昼でもできるかときいたら、うれしそうに、大丈夫、パリパリで美味いよという。
どうやら、親父さん本人がイタリアン好きのようである。

ならば、どうして中華食堂なのか?

「井之頭五郎」のごとく、おおいに食べ過ぎたけれど、美味かった。
しかし、パルメザンチーズをあんなに出して、原価と見合うのかが心配になる。
こんなに食べて、これだけの価格。

だれにも教えたくない、「きたなシュラン」を発見した。

12歳~の接種を親が認めるか?

わが国の「親」(いまは「保護者」という)、の「知見」と、子への「思い」が試されることになった。

いわゆる、「孫」がかわいいのは、祖父・祖母からした「無責任」の軽さがそうさせる。
自分の子ではないということでの、どうでもよさが、とにかくかわいい、に転換される。

国民のほとんどが「戦後教育」か「戦後生まれ」となったので、これに「個人主義」がひっついた。
夏目漱石が、違和感を示した欧米の個人主義が、無条件にもてはやされてきたのである。

伝統的日本人の系統にある、漱石からすれば、欧米の個人主義は神経衰弱になるほどに受け入れられない。
すると、欧米の個人主義が「ふつう」になった、いまの日本人は、伝統的日本人とは「別系統」にあるということでもある。

漱石のこの文章を、「現代国語」という科目で習った。

わが国には、「哲学」という科目はなく、せいぜい「倫理社会」にとどまっている。
本来ならば、「自由主義」は、哲学として必修にしないといけないのに。

それもこれも、大学受験の仕組みが変だからである。

それでいま、近所だけでなく地域の病院に行っても、高齢者が気にしているのは「ワクチン接種」のことである。
どんな薬なのかをしらずとも、早く打って楽になりたい。

ついでにいえば、家族全員が接種をしないといけないと、「テレビ・ウィルス」に脳が冒されて、どうなっているのかという質問を看護師に迫っている光景をみることができる。
テレビこそが危険なのであるとよくわかる。

いまどきの「家族」で、どの程度が三世代同居なのか?住宅事情があるから都心ほど少ないはずである。
だからこそ、家土地の大きさに余裕のある「地方」ほど三世代同居はあるだろうし、そんな地方ほどまたテレビをよく観ている。

そんなわけで、祖父・祖母世代のみならず、親世代もテレビ・ウィルスに冒されている可能性がある。
それだから、12歳~のワクチン接種に熱心かもしれない。

厚生労働省を英語では、「Ministry of Health, Labor and Welfare」と「正式」にはいう。
しかしながら、「薬害」が相次いだとき、日本に住む外国人は、「Ministry of Kill(殺人省)」といっていた。

このいいまわしは、『1984年』における、「真理省」のパロディである。
国民に嘘しかいわない、宣伝をする役所のことである。

日本の厚生労働省(旧厚生省)がやってきた、「悪さ」は歴史的にいろいろある。
「森永ヒ素ミルク事件」や「サリドマイド事件」などの教訓を活かしているのか?

となると、がぜん怪しくなる。
なかでも「薬害エイズ」の問題では、ときの厚生大臣(橋本内閣:自社さ連立:1996年)だった菅直人が、原告から「土下座」を要求されてこれに従ったことがあった。

穿ってみたら、菅本人からすれば他人がやったことの始末に、土下座しても心の痛みはなかったかもしれない。
それが、「カイワレ事件」にあらわれたのだったけど、役人による「説明責任(アカウンタビリティー)」を一般化させたという、彼が意図しなかったものの、結果としては評価できることもあった。

しかし、この手の「よい点」が、有職故実になって前例主義の「前例」になかなかならないのが、わが国官僚制の確信犯的問題なのである。

それが、「子宮頸がんワクチン」の被害である。
残念なことに、おおくの女子高校生が被害者となってしまい、取り返しのつかない副反応を誘発した。
このときも、政府は、「説明責任」を果たしてはいないばかりか、因果関係を「調査中」といっている。

接種をとにかく「推奨した」のに。

安全性=裏返せば危険なリスク情報について、表裏一体となった「説明」が事前になかった、ということである。

PCR検査の現在の状態は、5個のウィルスの「付着」をもって、「感染」と報じている。
これを、政府は「正そうともしない」でいる。
マスコミ各社に、「誤解をまねく」旨の注意をいうべきだ。

発症には1万個程度の「増殖」が必要なのだ。
ウィルスの増殖とは、体内における自身の細胞分裂を「乗っ取られる」ことによる。
宿主の細胞をもちいて増殖するしかないのが、ウィルスなのだ。

いかに感染症でも、感染にあまりにも敏感な対応をしながら、ワクチン接種における「リスク」には、あまりも無頓着すぎる。
これが、政府の「ふつう」なのである。

だからこそ、国民自身が「慎重」に判断しないといけない。
残念ながら、「副反応」の被害者は国民個人にやってきて、補償金で治るものではない。

祖父や祖母ではなく、親が叡智を絞らないといけない状況になっている。

「自己責任」という冷徹な時代がやってきた。
お国を信じて従えばいいのだ、という時代は、完全に過去になった。

これはこれで、困った時代になったものだ。

グローバルダイニングは勝てるか?

東京都を損害賠償で訴えてから、もうすぐ2ヶ月になる。
果たして、原告は勝てるのか?

ところで、この裁判、ロックオンされたのはなにも「東京都(知事)」だけとは限らない。
周到な「仕掛け」がこめられているのである。

このことをしるには、本件で2月1日衆議院内閣委員会で足立康史議員の質問に立った近藤正春内閣法制局長官の「カミソリ」のような、キレのある答弁である。
これを、倉山満氏と弁護士の横山賢司氏が指摘、解説している。

要は、「新型コロナ特措法案」にある、「過料などの強硬措置」に対して、「国家賠償」を問われ、「敗訴」することはないのか?という、たいへん「よい質問」への、これまた「よくできた答弁」なのである。
その全文は以下のとおり。

「過料を科するということで、特に今回、わたしの方からお願いしましたのは、これまでの措置の、都道府県知事が行われる前に、特に専門家の方の意見を再度聞くようにということを法律で義務づけていただきまして、より科学的知見で、不用意に広がらないように、本当に疫学的な見地からここはどうしてもやらなきゃいけないというところにある程度絞っていただくというところで、より過料との見合いで、厳重、慎重な発令というものをお願いするように今回の条文ではなっております」

本題にはいる前に指摘しておきたいのは、これが、「わが国法治だ」というおそろしい「現実」のことである。
つまり、「内閣法制局」という、法律製造所がある、ということの「問題」である。

それが、「わたしの方からお願いしました」、つまり「加筆した」ことなのだ。

国会が「唯一」の「立法府」なのだから、国会が法律製造所でなければならないのに、本当は、内閣法制局にその機能を奪われているというのが現実なのである。
しかも、ここは、各役所から出向した「官僚の巣窟」なのである。

現・長官職の近藤正春氏も、元は「通産官僚」(昭和53年入省)であった。

だから、この「質疑」がおかしいのは、質問者の足立議員も、元通産官僚(平成2年入省)だから、後輩が先輩に質問して、先輩が後輩を諭すような答弁をした、という、まことに「内輪話」ともとれるところが滑稽でもあることだ。

さらに、コロナ担当大臣の西村康稔氏も、元通産官僚(昭和60年入省)だということを覚えておきたい。
じつは、「防疫」担当の厚労省の影がうすく、なんだかコロナ対策が経済政策になることの原因がここにあるのだ。

本題に戻る。
近藤長官がかんがえて構築した本法の、「コンセプト」は、倉山・横山両人が指摘しているように、「4つの基準」をもって「過料」の正統性を確保する建て付けになっている。

1.専門家の意見を再度聞く
2.科学的知見、疫学的な見地
3.必要最小限(どうしてもやらなきゃいけないというところにある程度絞っていただく)
4.量刑比例の原則(より、過料との見合いで、厳重、慎重な発令)

そして、重要なのは、この4つをすべて充たさないといけない、ということだ。
もし、ひとつでも欠けると、「違憲」もしくは「違法」となる、と「説明した」のである。

さて、国会が立法府である、ということに戻ると、「国会答弁」自体が「法解釈」となることにも注目したい。
つまり、議員からの質問に、国会で答えた内閣法制局長官の言質とは、べつに内閣法制局長官でなくとも「法解釈」として「正式」なものとなるのだ。

これが、「2月1日」であった。
グローバルダイニング社が訴えたのが、「措置命令書」が発出(3月18日)されたあとの「3月22日」なのである。

ここに、原告弁護団の「用意周到」を感じるのはわたしだけではあるまい。
権力の行使にだけ邁進する、東京都の「脇の甘さ」もあるけれど、原告がロックオンしているのは、東京都の担当部署の役人ではなく、「都知事」そのひとにある。

また、内閣法制局が「可」とした法律である、とした「形式上」の正統性「しか」いわない、西村大臣もロックオンしている。
彼の脳内は、官僚のままであって、国会議員・政治家脳に進化していない。

もし、このひとに議員・政治家としての「読解力」があれば、法制局長官というよりも、通産省の大先輩が諭してくれたことの意味を重く受けとめるはずだからだ。
都知事とおなじく、権力行使に陶酔しているから気づかないのだろう。

そんなわけで、内閣法制局がからむ「行政訴訟」における、裁判所の「忌避行動」(原告が負ける)は、今回、いつもとはちがうことになる可能性がある。
いつもなら、地裁勝訴 ⇒ 高裁逆転敗訴(被告勝訴) ⇒ 最高裁棄却(高裁確定)なんだけど。

つまり、かなわないと裁判官が内心おもう、内閣法制局の論理が、その長によって「解説され」て、大ヒントになっているのである。
しかも、原告弁護団は、かならず「4つの基準」を突いてくるはずだ。
なにしろ、専門家の代表が「エビデンスはない」と、公共放送で公言してしまったのだから。

業界人は、よくよくこの「論理」を研究すべきである。
目が離せない裁判なのである。