地元密着スーパー

簡単そうで難しいことのひとつである。

そもそも「地元密着スーパー」とは、地元の銘品を地元で販売する店のことをいう。
だから、地元に銘品がないといけない。
それに、それが銘品だとしっていても、地元の住民が買える価格でないと売れない。

「銘品は高いです」ではなくて、納得の価格設定が必要だ。
すると、仕入れ値との関係から、すぐさま赤字になることもかんがえられる。

ましてや、スーパーという業態は、基本的に食品を扱っているから、おおくが「生もの」になる。
売れ残ったら、たちまち「廃棄」の決定をしなければならない。
すると、いかほど「売れる」という量の「予測」を正確にする必要もある。

単価 × 数量 の数式内にある「項」を突きつめることができてこその「地元密着スーパー」なのである。
だから、あんがいと「地元密着スーパー」はすくない。
真似ようとしてもなかなかできないのだ。

それで「ふつう」の店は仕方がないので、低価格に走ることをやってきた。
いつからかといえば、顕著になったのはバブル崩壊以降の「デフレ」からである。
もちろん、価格破壊の代名詞だったのは、流通革命をやりとげた「ダイエー」だった。

しかしながら、全国規模の大企業にして、メーカーに仕入価格をいわせない価格決定権まで持ったのに、「多様化」という価値観の発散についていけず、とうとう消費者から「買いたい物を売っていない店」という評価になって世の中から消えた。

わずか30年あまり、文字どおりひと世代の「うたかたの夢」であった。

にもかかわらず、街の「ふつう」の中小スーパーは、「ダイエー・モデル」の「低価格路線」を真似てしまって、ずいぶんと破産・倒産・廃業した。
「安い」という「だけ」の地元密着スーパーの悲惨である。
買い物客は別の店に行けばいいだけなので、なくなってもあんまり困らないということも特徴にある。

ここが、小売商売のいちばん難しいところなのである。

さて、一方で、もっと業態として辛酸を嘗めることになったのは、「問屋」であった。
「複雑な流通経路」のなかの「無駄」という位置づけにされたからである。
基本的に、問屋は「B to B」なので、卸先がまたべつの「問屋」だったりした。

そうやって、だんだんと小売店に近接する。
この流通の「整理工程」上に、いくつかの問屋があったのは、それはそれで役割があった。
しかし、問屋を通過する都度にかかる「手数料」は、最終消費者の負担でもあったから、「無駄」と批判されたのである。

だから、流通に詳しい問屋からしたら、何も知らない消費者の横暴な言い分に聞こえたにちがいない。
この問屋を経ないで直接仕入れる、というやり方を「大量発注」の名分でやって、手数料を安くしたぶん売値を下げるというモデルが、ダイエーであった。

すると、ダイエーが行き詰まったのは、その有利とした「大量発注」が原因だとあらためて認識できるのである。
ところが、これまでの時間軸のなかで、こんどは問屋がいない時代になった。
「淘汰」という言葉のなかで、ほんとうにやめてしまった。

そんなわけで、小売に問屋の機能が必要になったのである。

これを、「情報化」といっている。
問屋は、その筋の情報屋でもあった。
品物の変化だけでなく、取引価格や取引先の変化も把握していた。
いわば、流通の要としての情報を問屋に行けば教えてもらえたのである。

問屋がない今、これを自社でやらないといけなくなった。
つまり、「小売」における要求機能は、30年前のそれとはおおきく違う。
難易度がより高度になっているので、おいそれと「実店舗」を開業できないのである。

これが、サイバー商店花盛りとなった理由である。

ところが、サイバー空間「だけ」では、消費者が満足できない。
人間とは、そういうものなのだ。
そこで、情報機能を併設した「地元密着スーパー」が繁盛する。

あそこに行けば、なにかある。
それが、必要品でなくていい。
生活の彩りとなる、「なにか」であればいいのだ。
その「発見」こそが、存在意義なのである。

だから、小売店には発見がないといけない。
つまり、消費者に「発見させる」ための「仕込み」という手間を売っている。

必要品ならなるべく安く買いたい。
それが、サイバー空間でも違和感がないのはこのためだ。
でも、「発見」がないことに飽きがくる。
これを、サイバー空間で追求するひとはすくない。

天気もいいし、たまには電車に乗って、ちょっと遠いけど「地元密着スーパー」にでも行って、地元民になりきってみる。

これも、リアルな観光なのである。

古語の「音」がわかった

むかしの記述は、残っている書類をみればわかる。
高校での「古語」の範囲が、平安時代から江戸時代までと、えらく広い時代をカバーしているのも、基本的な「記述」が似ているからである。

しかし、どうやって読んでいたのか?
これは意外な落とし穴であった。

たとえば、『枕草子』の有名な冒頭。
高校生はテストに出るから暗記させられているものだけど、その「読み方」が当時とぜんぜんちがう。

春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は、夜。月の頃はさらなり。闇もなほ。螢の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。

まず、「やうやう」を「ようよう」と読むように教わるし、「飛び違ひたる」の「ひ」も「い」と読むように教わる。
しかし、当時は「言文一致」だったので、仮名の通り読んでいたという。
それは、一切の書き間違い(例外)が「ない」ことで証明される。

どうして当時の「音」を再現できるのか?
これには、ちゃんと理由があって、数々の「文献」が残っているからだ。
驚くのは、安土桃山時代にやってきた「宣教師」が書いた、日本語の教科書で、当時の発音を「ローマ字」で記載していることだ。

日本人を信者にしないといけないから、宣教師は現地の言語に通じないと職務を果たせない。
だから、なによりも現地語の習得は重要な任務だった。
なので、秀逸な教科書を作っているのだ。

そして、なによりも「ローマ字表記」であることが、決定的に「音」を再現しやすい。
ただし、ポルトガル人の耳を通した当時の日本語の「音」である。

ちなみに、ポルトガル人が日本にやって来たけど、スペイン人ではなかった理由は、1494年にローマ教皇承認のもとに締結した、「トルデシリャス条約」によっている。
大西洋に線を引いて、西がスペイン、東をポルトガルの支配地と決めたからだ。

その後、両国はアジア支配をめぐって争ったので、1529年に「サラゴサ条約」を結んだ。
トルデシリャス条約で決めたことを「本来」というなら、フィリピンはポルトガルだけど、なんだかスペインに取られた。

なお、フィリピンの由来は、当時のスペイン国王の名前「フェリペ」からつけられた。

さて、宣教師の教科書を補足するのが、ハングルで書かれた日本語の教科書である。
ハングル文字とは、発音記号が組み合わさったものなので、「音」の再現に適している。
それに、漢字で書かれた日本語の教科書も残っている。

そんなわけで、あんがいと平安時代の日本語発音は、解明されてきた。
ただし、文学として残っているのはほぼぜんぶ「王朝文化」のたまものなので、平安貴族たちの話し言葉としての「音」になる。
庶民はいったいどんなふうに会話していたのか?興味はつきない。

そこで、あらためて音読している「はちあ」というひとがいる。
これぞ、ネット時代の恩恵だ。
発音のベースは、京都弁。
あたりまえだが、江戸時代末まで京都が首都だったから、「京都弁」ということも本来ではない。

京都のひとが、江戸言葉を「関東なまり」というのは、「標準語」の正統性としての問題である。
だけれども、平安貴族が京都の発音・音韻だったのは「当然」すぎる。
今よりも、もっと強烈に「はんなり」しているのである。

50音図で習う現代語が、古語になると「いろは歌」になるけれど、これを50音図にして比較すると、現代との「ちがい」がはっきりする。
それが、「さ行」と「た行」、「は行」、「わ行」にあらわれる。
「あ行」の母音は、現代の「え」が「や行」に飛んで「いぇ」になる。

以下は、文字と(発音)を示す。

さ行は、さ、し(すぃ)、す、せ、そ。
た行は、た、ち(てぃ)、つ(とぅ)、て、と。
ハ行は、は(ふぁ)、ひ(ふぃ)、ふ、へ(ふぇ)、ほ。
わ行は、わ、ゐ(うぃ)、-、ゑ(うぇ)、を。

さらに、濁音は、
ざ、じ(んずぃ)、ず、ぜ、ぞ。
だ、ぢ(んでぃ)、づ(んどぅ)、で、ど。
「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」は、発音がぜんぜんちがうので書き分けた。

これが、「ローマ字表記」における、「ヘボン式」と「訓令式」の違いに影響している。
「ヘボン式」は、ヨーロッパ人の発音表記なのに対して、「訓令式」は、日本語の音韻表記なのである。

そもそも「音韻」とは、漢字の「音」のことだ。
音声としての違いがあっても、意味が変わらなければよしとする。
それが、「サ行」の「shi」・「si」、「ji」・「zi」、「タ行」の「tsu」・「tu」、「ハ行」の「Fu」・「hu」のちがいになっている。

たとえば、「富士山」は、「Fujisan」なのか「Huzisan」なのか?

すでに、外来語の侵入によって、現代日本語には、50音図に追加すべき「行」があるともいわれている。
それが、「ハ(H)行」に対して、「F行」を加えるという案である。

漢語が公式文書に採用されて以来、言文不一致が明治までつづいた。

21世紀になって、「言行不一致」がますます問題になってきた。
このときの「行」とは、50音図の「行」であってほしいものである。

境界のない「自然」

「自然」がだいすきだ。

ところが、「自然」とはむずかしい言葉で、なにをあらわすのかよくわからない。
その都度ちがう場面で、「自然」をいう。

たとえば、明治期の「自然主義文学」。
フランスのエミール・ゾラを源流にするけれど、日本人はこれをすっかり「日本化」させて、ゾラの魂胆とはちがう方向へといって、それをまた「自然主義」だと言い張った。

「わたしは自然が大好きだから、自然のなかで馬に乗る」ということを、「自然派」をうたう企業の宣伝で流している。
あたかも、出演している女優の「素顔」のような表現をしている。この女優にはなんのうらみもないけれど、言葉をよくかみしめれば「意味不明」だ。

「自然」という言葉が、なんとなく「自然」に耳に入る。
でも、馬術クラブらしき背景映像と合致しない。
整備された馬場で馬に乗ることが、自然が大好きだから、といわれても、ちょっと意味がわからない。

もちろん、「自然」といえば、「自然科学」がある。
人間の手が及ばない世界の生きものたちやら、現象を「科学」する。
典型的「理科系」の世界でもある。

日本庭園の「自然」は、おそるべき「設計」と「作庭技術」とによって、人工的につくられているのに、鑑賞者はこれを決して「すばらしい技術」とはいわず、かならず「理想的自然美」といって礼賛する。
それが、「盆栽」や「箱庭」としてヨーロッパが輸入した。

世界帝国をつくったイギリス人は、その豊かさをもって真似たのが「ガーデニング」で、オリジナルの日本庭園とは似ても似つかぬものとしたのは、「自然主義文学」の逆パターンである。
それで、「英国式ガーデニング」が輸入されて、日本家屋の庭を飾っている。

日本の「盆栽」や「箱庭」の専門家からしたら、「逆輸入」なのだけど、趣味の世界に目くじらを立てる気はない。
それよりも、日本庭園の「人工」に驚くのである。
アスファルトの道路から、塀一枚を隔てるだけで別世界がある。

これを、意図して作っている。

自然に放置して、日本庭園ができるわけではない。
たとえば、「棚田(千枚田)」をみると、ひとは農業で暮らしてきたDNAが感情を湧き起こして、感涙にむせぶほどに感動する。

そこには、何年もかけて作り上げた作業の重みと、これを維持する作業の重みがかさなって、「米を得る」ための執念を読みとるからだろう。
すると、「水」はどうやって確保したのか?とか、畑じゃダメなのか?とか、さまざまな憶測が浮かんでは「粉砕」される。

人の手による「立体的造形美」がパノラマとなって、圧倒的な迫力となるからである。
10や20世代ではない時間の継続性も、追い打ちをかける。

だからいま、機械を入れられない、上部の小さな面積の「棚」ほど、耕作放棄されていると聞けば、農作業の辛さをしらない都会人は、「傷つけている」と残念がるのである。
しかし、おそらくその「棚」からの収穫は、「これだけー」なのである。

すると、農家の経済として、投下する労働力と収穫の見合いから、「放棄」という結論が出たものに、外部の「景色」を楽しむひとから文句をいわれても、対処の方法がないとしていた。
しかし、それならと、外部のひとに「耕作募集」をかけている。

水は高いところから低いところに流れるのは、「自然」である。
すべての「棚」に引く水をコントロールするには、最上部が重要なのだ。

いま、人類は聖書で懲らしめられた驕り高ぶった人々のように、「科学万能」に酔っている。
ところが、肝心の科学のレベルを、一般人はしらない。
それで、専門家のいうことを鵜呑みにすることになった。

専門家は嘘を言わない、ということが「信仰」になったからである。
ところが、あらゆる分野・業界の専門家は、研究予算というおカネがないと生きていけない。
それでもって、とうとう「魂を売って」しまった

はてさて、水が高いところから低いところに流れるのは、「重力」がはたらくからである。
しかしながら、人類はいまだに「重力」がなんだかわかっていないのだ。
りんごが木から落ちるのは、「万有引力(重力)だ」まではいい。

それがどうして「力」になっているのかがわからないから、重力をコントロールすることができない。
「自然」まかせなのである。

あと何年したら、重力をしることができるのか?
1000年ぐらいだろうか?

その前に、耕作放棄地の雑然を、「自然」だとおもわないことの反省がいる。

あんがいと、「自然」は「醜い」ものなのだ。
「美」と「醜」の境界はなにか?
それは、人間側の事情できまることであって、「自然」はお構いなしなのである。

だったら、いまでは死語になったように使わないけど、「天然」という概念が前面にでてきていい。

天然ガスの天然だし、天然ボケの天然である。
自然は「愛でる」ものだけど、天然は?

「理念」が間違っている

新聞社やテレビ局の経営が厳しを増してきた。
どういうわけか、どの社も同じ「理念」に取り憑かれているように見える。
それが、「社会主義」だ。
この「主義」が、ここにきて貪之神のように取り憑いているのである。

「商業主義」も批判の対象になって久しいけれど、もはや商業主義すらかなぐり捨てて、「社会主義」実現の夢を夢遊病者のように追いかけはじめたようだ。
だから、赤字をものともしない。

昔、盛んに言いふらしていた「社会の木鐸」とか、「啓蒙主義」は、ぜんぶウソだった。
民衆が拍手喝采する記事ばかりでも困るけど、瓦版のことを「読売」といった江戸っ子の、本質をついた言い方がなんだか正直の申し子という気にさせる。

買う側が言った「読売」を、売る側が言ってウソになった。

売る側が「権威」を意識したからである。
所詮「売文」だから、暇つぶしなのだという買う側の用途を忘れて、大上段から見下して「そら、すごいだろ、記者は優秀だろ」とひとりよがりに耽っていたら、とうとう読者が見切りだしたのである。

それがついに、魚の仲買人がネットではじめた「放送局」でおきた仲違いになって現れた。相手は、政治部一筋40年のキャリアをもって自認する「ご意見番」だ。
原発から出る水を薄めて海に流すと魚はどうなる?と、あろうことか仲買人本人に質問した。

それで聞かれた仲買人がブチ切れた、という次第である。

あまりにもあんまり。
自分の頭で考えろ。
しかしここで仲買人もハタと気がついた。
新聞記者は、自分の頭で考える訓練を受けたことがない動物なのだ、と。

ましてや、政府がいうことはぜんぶ「記者クラブ」という談合制をもって仕入れるから、取材とは、広報担当の役人が書いた紙をそのまま書き写すこととなっている。
こうして、一社が出し抜くことを「防止」しているのである。

だから、「ピューリッツァー賞」のような賞がない。
わが国の「新聞協会賞」というのは、お行儀がよい記者が選ばれることになっている。

読者からしたら、受賞歴のある記者ほど、質が悪いことを現するという皮肉がある。
例えば、救急医療についての取材で、若くして受賞した現・神奈川県知事のように。

そんなわけで、売れるなら何でも書く、という必死さがどの新聞にもなくなった。
「飽食の時代」とは、「文屋」や「聞屋」も絶滅させた。

ところで読者は、自分の意見と同じ記事を読みたいのである。
「正しい」情報がほしいのではない。
そんなものは、ネットにいくらでもある。

コロナでさえ飽きてきたのは、「どうも変だ」という感覚を追認させる記事がないからである。
おなじ系統の記事ばかりとなって、売る側のリスクは「売れない」リスクに変容してきた。

その「穴」を、ネットが埋めている。

ほんとうに、ネットが情報の入手場所になったので、ネットに公開している「新聞」も観る必要がなくなった。
まもなく、新聞の終わりがやってくるのは確実である。

おなじことが、「銀行」でおきている。

4月30日、みずほ銀行のHP更新で、今月17日より、全店舗で外貨両替の停止を案内している。
外国送金、トラベラーズチェックの買取等は、一部の店舗で継続実施するとある。

高級ホテルのフロント窓口で行ってきた、外貨両替サービスはどうなるのか?
お客から受け取った外貨を、ホテルは銀行に持ちこんで両替していたのだ。

メガバンク(都市銀行)にして、この体たらく。
全国の都道府県に一行ある、地銀のやばさは、半端がない。

銀行とはなにか?という定義の問題になってきたのだ。

経済哲学的な議論に基盤をおいて政策を立案し、実行したのが、サッチャー政権下のイギリスでやった「金融ビッグバン」(1986年)だった。
なにごとも「哲学的要素を欠く」のが、わがエリート官僚を育成する「最高難易度」といわれる大学である。

だから、教授陣ばかりか学生・卒業生に「哲学的要素を欠く」のは当然で、これが政策立案の元になっている。
すなわち、わが国の政策は、ことごとく哲学的要素を欠く、「その場しのぎ」か、外国事例を引きだして「流行に追随」することになる。

それが、「日本版」という「枕詞」がつくものになる。
古典でならう「枕詞」には、とくに意味はないと教わったけど、「日本版」には意味がある。
それは、「本家」と似ても似つかぬ「変化」を持たせた、「鵺(ぬえ)」のような変異をしたもの、という意味だ。

そんなわけで、1996年(平成8年)、本家イギリスに遅れることちょうど10年、わが国で「日本版金融ビッグバン」という、正体不明の政策が実施された。

これが、日本人が知っている「銀行」を定義している。
もちろん、イギリス人が知っている「銀行」を意味するものではない。

気の毒だけど、日本で銀行に就職すると、酷いめにあう。
「気の毒」なのは、自社のビジネスの根本理念を、自社で定義できないからである。

「日本版」を取り払わないといけないのだけれど、これがまた、貧乏神として取り憑いているのである。

反面教師ナチスに学ぶ

民主主義国家として、国民の素養を高めることは「死活問題」のはずだけど、これを積極的に「しない」のは、民主主義を本気で継続される意志がないからではないか?とうたがう。

民主主義とセットになっている「自由主義」についても同様のことがいえる。
それぞれに「主義」がついているから、「別物」なのだ。

たとえば、われわれの「細胞」は人間なら、ひとりひとりが60兆個の細胞で個体をなしていて、その1個1個の細胞にある「ミトコンドリア」は、古代の原始生物時代に取りこんだ「別生物」であることがわかっている。

二分割した受精卵がさらに46回分裂すると、70兆を超えるまでになる。
成人になるまで、おそるべきスピードで細胞分裂の回数をこなしている。
ちなみに、PCR検査におけるCT値とは、分裂の回数ともいえるから、40で2の39乗のこと(1⇒2で一回カウント)である。

そして、人間は、ミトコンドリアが作り出す「エネルギー回路」がないと生きていけない。

人間社会にも生物のような特徴があるのは、生物体として自分たちの身体の構造とおなじ仕組みをつくることが「自然」だから、かもしれない。
それで、民主主義と自由主義の、別物同士が1個の社会を形成している。

このことはあんがい忘却されている。
人間の形成もおなじで、父のDNAと母のDNAとが混じって「遺伝」されたのが、「子」だという「勘違い」がある。
ここには、ミトコンドリアが別生物だったことがないのだ。

しかも、1個の人間が生存しているのは、おどろくほどの種類と数による微生物やウィルス、あるいは原虫などの、別生物が体内にいることを条件としていることを、すっかり無視していることがある。
じつは、人間の身体の半分は、これら「別物たち」によってできているのだ。

たとえば、口中には、500~700種類の細菌が、少なくても1000億個生息しているのが「ふつう」で、免疫機能とともに共生しているから、別個体である他人とキスもできる。

私事ながら、わたしの母の直接の死因は、「腸内細菌の逆転」であった。
すなわち、「悪玉菌」が「善玉菌」を上回ったとき、消化機能が停止して生命の維持ができなくなったのである。
なぜ、腸内細菌の逆転が発生したのか?には、「免疫」にかかわる別の病気の理由がある。

これを商業利用した典型が、「ヨーグルト」の宣伝だ。

「腸内細菌」を改善するというのは、腸内環境とも腸内フローラともいわれて、脳内物質は唯一腸で作られることが判明した。
ただし、食品として食べる場合、ヨーグルトの乳酸菌は胃酸によってほぼ死滅する運命にある。

乳酸菌の死骸が腸内善玉菌のエサになるという意味で、ヨーグルトは役に立つかもしれない。

しかし、日本人にとって乳製品は善か悪かを問えば、基本的に「体質にあわない」ということがわかってきている。
平安時代の「酪」や「蘇」は、あきらかに「乳製品」なのであるが、われわれの食卓の「定番」にはならないばかりか、その後廃れたのである。

それが、日本人の身体にあわない、という相性問題である。
「定番」は、味噌・醤油、そして、ぬか漬けとなった。

その地域の風土によって、さらに長い時間をかけて人種や民族が形成される。
だから、合う、合わないも作られるのだ。
たとえば、白人が服用する薬の量の約半分で日本人には十分に効く。

逆にいえば、白人が服用する薬の量をそのまま服用すると、日本人には「薬害」となりかねない。
それで、外国製の薬品についての安全性には、年単位での慎重さをもって「認可」してきた。

新型コロナ・ワクチンは、アメリカのFDA(食品医薬品局)も、「認可していない」のに、なぜかアメリカ政府は国民に接種を勧めている。
アメリカでも「特例」なのだ。
これを、ファイザー社の元技術担当副社長が、警告している。

けれども、ファイザーの売上高は大幅に増加している。
「思想」というウイルスが人間にはあるのだ。

さて、かつて「同盟」を結んだわが国で、ナチスをどのように評価していたのか?
そもそも、「ファシズム」と「ナチズム」のちがいはなにか?
もっといえば、「ファシズム」の意味さえもしらない。

日独伊三国同盟。
ファシズムは、ムッソリーニ率いるイタリア「ファシスト党」が掲げたものだし、ナチズムは、ヒトラー率いる「ドイツ国家社会主義労働者党(ナチス)」が掲げた。

わが国は?というと、よくわからないので、教科書では「ファシズムの時代」ということになっている。
ほんとうなのか?
ファシズム思想の意味を教えないで、ファシズムの時代とは、ずいぶん粗っぽい。

認可がなくて接種を勧めるようなものだ。

すると、わが国の国民性と、欧州などの統治の思想や仕組みは、わが国と相性として合致するものなのか?という疑問がうまれる。
あたかも、「酪」と「蘇」のように。

ナチスが政権を得るために、どんなことをしたのか?
ということも、日本人はあまりしらないでいる。
たとえば、「国会放火事件」がある。
今年、1月6日にワシントンD.C.で起きた、「連邦議会議事堂襲撃事件」は、これを真似ている可能性がある、とアメリカでは議論されている。

このことは、重大だ。
欧州、とくに英国を思想の基点としているアメリカ合衆国の「自由と民主主義」が、ナチス方式で攻撃・破壊されているとすると、その「変異株」であるわが国も、同様の危機にさらされていることになる。

今年中にかならずある、衆議院議員選挙は、時代の分水嶺になることまちがいないけど、国民の側の準備があまりにもできていない。

与野党ともに既存政党が役立たずで、「たまたま」か「わざと」かしらないが、野党の無様が与党の無様を隠している。
まるで、無様な野党が、おとりになって与党を支援しているようである。
野党第一党の支持率3%の意味は、これしかない。

無能をさらけ出した政府は、またまた緊急事態の延長をやるというのも、制度疲労の限界までの挑戦だとすれば、準備のできていない国民は、不幸になるしかない。

コロナ専用ベッド数を減らしていながら、「医療崩壊」をいう。
分母を減らして、分子が増えればどうなるか?
これも、ナチス流のやり方だ。
しかも、医師会はいまだに受け入れを拒否しているのである。

そのお仕置きが、ワクチン接種の医療従事者への「優先」か?

反面教師として、もっとナチスに学ぶ必要がある。

常連客を優先させる「品切れ」

「いい店」をみつけた。

たまたまそれは、県外の「焼き鳥屋」である。
人気メニューの「つくね」を注文したら、しばらくたって「品切れ」をいわれた。

しかし、後からやってきた「予約客」が、その場で「つくね」を注文したら、ふつうにオーダーを通して品物もやってきた。
クレームをいいたくなる状況ではあったけど、その他の注文で満腹になったのが効果的に「寛容さ」を発揮した。

いい店である。
常連なら注文するであろう数を、あらかじめ確保しておいてくれる配慮は、そのときには気づかなくても、いつかわかるだろう。

だから、こんな店の常連になりたい。
そう思わせることに成功している。
これは、来店客全員を幸せにしたいのだけど、どこかの早い時点であきらめた店主の経験に、なにか、があったはずである。

店は小綺麗で、新しい。
それはなにかはわからないけど、客の動きと予約、そしてなによりも商品の出方を、体験的につかんだからかもしれない。

新規の来店には、厨房からかならず顔をせり出して確認するか、自ら接客・席案内をしていた。
繁盛店とみて、予約なしのわたしは滑り込みセーフで、少し遅れてきたひとは満席で断られていた。

コロナの影響なのかなんなのかはしらないけど、客席側の窓がおおきく開いている。
しばらくすると、店内空間がモクモクの煙につつまれた。
それからやってきた男性は、テイクアウト客で、なんと1万円では足りない額の焼き鳥を持ち帰った。

これが、モクモクの原因だ。
1本の単価から想像するに、どのくらいの人数分があるのか?

感染症の感染経路は、徹底的に追跡調査されることになっている。
もちろん、感染経路の調査目的は、感染経路から感染の遮断をはかることにある。

「SARS」の「亜種」が今般の「新型コロナ」だと判明してきたらしい。
「らしい」というのは、あいかわらず、「特定」も「分離」もできていないからだ。

そこで、「とりあえず」SARSの亜種としてかんがえると、台湾での被害が参考になる。
台湾は、SARSの感染でおおきな打撃があったからである。
しかし、当時、わが国での発症者は皆無だった。

台湾での「発見」は、SARSの感染経路がホテルで判明したことだ。
それは、客室清掃における「雑巾」が原因だった。
つまり、「接触感染」である。

もちろん、当時「PCR検査」などというインチキは実施されなかった。
あのとき、PCR検査が実施されたら、パニックになったろう。
すると、PCR検査はパニックをつくるためにあることがわかる。

「接触感染」は、「触ること」で感染する、という意味だ。
それ以外は関係ない。
だから、マスクは無意味であって、むしろ安心感から油断させてしまう危険がある。

ドアノブやテーブル、電車の手すりなど、複数人が触るところの消毒が効果的だとされた。
台湾での清掃では、石けん液ではなく、水だけで雑巾を洗っていた。
日本で流行しなかったのは、日本のホテルの客室清掃には、石けん液がふつうだったし、消毒スプレーなどが多用されていたからである。

そんなわけで、「エビデンス(科学的根拠)」としては、店内の消毒に努める飲食店での感染事実はほとんどなく、じつは、つい油断してしまう「家庭内」がほとんどなのである。

「接触」なので、「密」も関係ない。

にもかかわらず、飲食店の営業を制限することに躍起になったため、肝心の家庭内が放置されている。
これはなぜか?

おそらく、「タバコ」ではないか?
神奈川県の前職知事がいいだした、「禁煙条例」。
それと、東京都の現職知事がいいだしたもっと強力な「禁煙条例」には、「家庭」が「鬼門」になっている。

つまり、行政権力が「家庭内禁煙」をしようとしら、たいへんな反発があって、とても家庭内は「介入」できない、という経験値からのだれかの「意見」が、これら知事たちをしばっているのではないか?
だとすれば、まともな「家庭内感染防止指導」がされない理由もみえてくる。

そして、方法を失った行政ができること、として飲食店などの営業制約に血まなこをあげるしか、政策オプションがなくなってしまった。
この行政の阿呆加減が、とうとう経済的困窮による「自殺者」を増加させて、病気による死者数を上回る被害を社会に与えている。

だから、ほんとうに必要な「社会的ワクチン」とは、行政に一連の政策をやめさせることなのだ。
そのエビデンス(根拠)なら、政府発表の「人口統計グラフ」がある。
コロナ前の月別死者数推移と、コロナ後の月別死者数推移は、とくだん変わらぬカーブを描いている。

わが国全体の死者数という観点では、コロナ・パンデミックは、見てとることができないのである。
もっといえば、「誤差の範囲」だということだ。

そんなわけで、1万円以上も焼き鳥を買い込んで、連休の一夜を家庭内で楽しもう、ということの危険は、だれにも注意喚起できないことになってしまったのである。

このことを、除けば、また行きたい店である。

こどもの日のこども

今日は「こどもの日」。
世界に類例をみない、「国民の祝日(ナショナルホリデー)」である。
再独立した年に、さっそくできて、翌年からはじまった。
これには、当時の子どもの署名27,000人の「請願」もある。

祝日法に定めた趣旨は、

「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」。

だから、「母の日」でもある。

「端午の節句」が女性の日だったこともあわせると、「母の日」というのは間違っていない。
菖蒲風呂とは、女性の生理を清めるための「沐浴」だった。
これがだんだんと、男の子の日へと変移した。

さてそれで、「こども」とは誰か?
「児童」といい替えると、法律用語としてはややこしくなる。
「学校教育法」では、小学校卒業までをいう
しかし、あんがいと18歳までとする法律はたくさんあって、20歳未満とする法律もある。

18歳までは、
児童福祉法、虐待防止法、風営法、子ども子育て支援法、労働基準法、などがある。

20歳未満は、民法、母子及び父子並びに寡婦福祉法、少年法、がこれにあたる。
なお、刑法だと満14歳となっている。

「凶悪犯罪」について、何歳までなら「罪にならない」ということを、当事者年齢に近いこどもはあんがいと知っていて、おとなよりも詳しい者もいる。
小学校高学年を侮ってはいけない。

それにしても、「母の日」というイメージは、ぜんぜん普及していない。
それは、やっぱり外国製で、アメリカはウエストバージニア州知事が1910年(明治43年)に定めたことを起源とする説が有力だ。

こちらでは、5月の第二日曜日、ということになっている。
だから、ほぼ毎年、日付がかわる。
カーネーションを送るのも、アメリカ発祥のようである。

しかしてわが国では、明治の終わり頃に伝来して、大正の初めにはキリスト教会でイベント化させていたという記録がある。
おそらく、この教会とは、プロテスタントの方であろう。
この伝来スピードは、けっこうなもので、現代的なのだ。

すると、再独立した当時だって、「母の日」は定着していたはずだ。
アメリカ軍の占領は、むしろ普及を推進させたにちがいない。
ならば、なおさら、日本独自の「母の日」を定めたというのは、わずかながらの「抵抗」だったのかもしれない。

これを、「こどもの日」に忖度した。

そんなこんなで、全体としては「家族の日」になる。
ところが、その家族があやしくなってきた。
テレビのCMだって、お父さんが出てこない。
もはや、親子3人が標準世帯になったけど、その構成はさまざまなのだ。

ゆったりと、菖蒲風呂にでも浸かって、あれこれかんがえてみるのもこの日にふさわしいことになってきた。

すでに第三次大戦は勃発か?

【憲法記念日】記念

わが国周辺の波が、いよいよ高くなってきている。
はたして、わが国は戦後体制を持ちこたえることができるのか?
もちろんそれは、「日本国憲法」がつくる秩序のことである。
けれども、またしても「黒船」によって崩壊させられそうなのだ。

その発端は、「戦狼外交」の「成果」にある。
これで、アジアの大国は、自分から世界の嫌われ者になってしまった。
自業自得を他人のせいにするのも、あちらの権力闘争で生き残るための重要条件だから、すぐさま修正がきかない。

自国内の都合が優先される。

このパターンをよくしっているのが、旧ソ連とその衛星国たちだ。
また、真剣に軍事対峙してきた「西側諸国」もしっている。
もちろん、日本国政府もしっているけど、「憲法」という自国の都合を優先させないと、政権が崩壊する。

そこで、他人事を装って、ひそかに(国民に気づかれないように)対処方法を準備するのである。
しかし、国内のマスコミは黙らせることができても、海外の報道を自由にすることができないから、漏れてくるのである。

先月28日(といっても5日前)、オーストラリアは軍事基地の増強に630億円を投じると発表したけど、兵を集める役割がある連邦内務省事務次官は「戦争に軍を派遣する準備を開始」と述べている。

この5日前の23日、わが国は幕僚広報室名で、今月11~17日までの日程で、日(陸自)・米(海兵隊)に仏(陸軍)の三国共同実動演習を実施すると発表している。
「フランス陸軍」だ。

さらに、英国は最新かつ最大の空母「クイーン・エリザベス」の処女航海で、年内にわが国に寄港する旨発表し、潜水艦をふくむ空母打撃群の艦船は、1日ポーツマスを出航した。
なお、本打撃群の「護衛」に、米海軍は駆逐艦とドイツ海軍はフリゲート艦を差し出してあたると発表されている。

英国海軍の「本隊クラス」が、アジア・太平洋海域に出向くのは、わが帝国海軍が真珠湾奇襲と同期をとったマレー沖海戦で沈めた、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス以来の、「戦後初」なのである。
ましてや、ドイツ海軍とは!

なんだか清朝末期の義和団事件のときの、「八ヵ国連合軍」と様相が似てきているのである。
当時の8ヵ国とは、オーストリア=ハンガリー帝国、フランス、ドイツ、イタリア、日本、ロシア、イギリスとアメリカ。

今回は、フランス、ドイツ、日本、イギリス、アメリカ、オーストラリア、インド、そして、台湾。
さらに、デンマーク、ギリシャ、オマーン、UAE、シンガポール、ニュージーランド他といった比較的小さな国々もこれに加わり、あわせて18ヵ国になっているのである。

ここにないのは、ロシア。
しかし、水面下でどうなっているのかはわからない。
なぜなら、上述したように、いまのロシアは「反共」なのだ。
すると、グルリと「包囲網」ができるのである。

穴があくのは、ミャンマーということになる。

さて、わが国の動きとして重要なのは、先の「日米首脳会談」だ。
「バイデン政権」の「正統性」への疑いと、「実質米軍支配」という「うわさ」は除いても、政府間の「共同声明」という「証拠」を得たことが重要だ。

ここで、「台湾有事」に関し、日本は3段階の構想を示したと外国メディアが報道している。
1.単純なアメリカ軍への後方支援
2.米軍との共同作戦
3.単独で全面的に戦う

2.だけでも大騒ぎだろうけど、3. はどういう内容なのか?
ただひとつ、「台湾有事」とは、事実上のわが国の「直接的有事」にほかならないことを失念してはならない。

大陸と台湾島の間にある「台湾海峡」こそが、わが国近海における最大の「喉元」にあたる。
ヨーロッパ、アフリカを起点に、東南アジア経由でやってくる物資の全部がこの海峡を通過しているのである。

だから、ほんとうにわが国の「喉」なのだ。
絶対に武力行使を阻止しなければならない。
この海峡が戦闘海域になった瞬間、われわれ日本人は「輸入」も「輸出」もできなくなる。

じつは、アメリカをめざす太平洋航路の比ではない物量なのである。
それは、ほぼ全部の石油・天然ガスが、ここを通過していることでわかる。
台湾島の太平洋側は、黒潮の急流があって複雑な「波」が絶えずうまれる危険海域だ。

なので、巨大船ほど沈没のリスクが高いのである。

そんなわけで、かつてない軍事力が世界から集結してきている。
彼らの意図の一片に、日本防衛があるのは、幸いかなわが国経済力がいまだに巨大だからである。
西側諸国が、日本を失うことの自国への打撃を案じているのだ。

圧倒的な実力差で、大陸の野望を押し止める、という意志がはたらいている。
すると、これは戦闘なき戦争がもうはじまっていることを意味する。

生存の危機にあるのは、わが国と韓国である。
しかし、それは世界経済の終わりでもあるのだ。

さてそれで、日本国憲法をどうしたものか?
もはや、机上の空論ではすまされない現実となってきた。

2021年は、大戦が勃発した年といわれるようになるにちがいない。

「連合」は維持できるか?

【2021年メーデーにあたって】
日本労働組合総連合会を略して「連合」という。

いまさらせんないことではあるけど、わが国の労働運動には、悪い「思想」が入りすぎてしまった感がある。
もちろん、「労働組合」という組織のありようは、経営側と対峙することだから、仕方がないことではあるのだけれど。

「資本家」という概念が、新貴族的なのは、個人や特定家族による企業の所有から生まれた。
「株式」が、だれでも自由に購入できるようになると事情が変わるけど、その間の時間差があったのは、たしかなことである。

その意味で、占領軍がやった「財閥解体」の意味を、もっと日本の資本主義に応用できなかったものか?とかんがえると、ちょっと残念なのである。
当然だが、当初の狙いは「日本企業の弱体化」にあったはずではあるけれど、「合気道」のような「順手の技」をもっとくりだせば、会社と労働組合の関係も、ずいぶんちがった発展をしたのではないか?とおもうのである。

現状の連合をながめると、従来からの組織率やらの状況や、中小零細企業への普及では、残念ながら、という変わらぬ状況にあるだろう。
以前書いた、「36協定」のための「労働協約」も「従業員代表」すらない企業に、いまも依然として動きはない。

個々の企業の経営者も、「36協定」に詳しくはなく、ゆえに従業員も、従業員代表を選ぶことすら発想しないままでいられる。

これを、「日本的労働慣行」といっていいのか?

美しき伝統日本の労働慣行なら、以下の話に集約される。
幕末から明治初期にやってきた欧州人たちは、日本人女中の細やかな働きぶりに目を見張り、書斎の机に置いたままの小銭すら手をつけないことに驚愕していた。
旅先の宿では、チップを拒絶する理由が、お給金はちゃんといただいております、だったのだ。

小銭の例は、「盗まない」ということで、チップの例は経営者だって「サービス料」を請求していないときのはなしである。
この意味で、「盗まない」のは当然として、チップの例ではサービス料の「還元」が放置されている。

ところが、日本経済だけでなく世界経済が発展して、企業の事業分野がこの百年をみても専門化した。
そして、国内だけでなく国際競争にさらされるのがふつうになった分野と、国内競争だけとか、地域内競争で済んでしまう事業など、産業界はおどろくほど「まだら模様」になっている。

なので、むかしは発言に迫力があった「財界」も、いまではなんだかなぁになってしまったのだ。
なのに、「統合」すれば「強力」になると百年前の「常識」を勘違いして、財界も無理矢理統合したら、内部調整ができなくて発信力をうしなった。

これが、「連合」のカウンターパートたる「経団連」の無様だ。
いまだに「経団連」をよしとする経営者のレベルがしれるのである。
だから鏡のように写し出されて、統合された労働組合側も無様になった。

業界内の思惑が損得となってあらわれる。
ある業界にとっての得が、別の業界にとっての損になれば、働くひとたちの損得にも影響するのはとうぜんだ。

たとえば、電力業界がわかりやすい。
電気代が高くなっても構わない業界と、それではコスト増になる業界とでははなしがちがう。
産業構造がまだ単純だった百年前なら、経産省のような役所が差配できたろうけれど、もはや役所内だって担当部署間の対立をさけられない。

すなわち、ハイエクが予測したとおり、「自由主義」でしか調整ができないので、役所が変な介入(柔術的関節技)をすればするほど全体の効率は悪化する。
バブル崩壊以降、日本経済が衰退の一途を辿るのは、「反ハイエク」を一生懸命やってきた、みごとな「成果」なのである。

30年以上つづけてうまくいないのに、まだ気づかない。

これが、「教科書どおり」しかできない受験エリート集団の破滅的習性なのである。
ならば、受験エリート集団から遠いはずの労働組合がなぜ乗っかったままなのか?

ナショナル・センター(中央労働団体)をいいことに、組織指導者たちが受験エリート集団になっているにちがいない。
たとえば、連合のHPには堂々と、加盟組合員は約700万人とうたっている。

わが国の総労働人口は6000万人以上いる。
その1割しかいないのを自慢する神経。

経営者・労働組合指導部・役所が、三位一体「受験エリート集団」の、同じ発想で議論すれば、ふつうこれを「談合」というのである。
別のいいかたをすれば、「よきライバルがいない」のである。
経営者と労働者が切磋琢磨して、いかに「付加価値を増大させるか?」しか、労働条件の向上も企業の発展もないのに。

このことに最後まで気づかない習性は役人にあるのだけれど、その役人たちに労使双方が補助金をおねだりするから、これを堕落というのである。

労働者のためのちゃんとした労働運動・活動がない。
これも、わが国の不幸のひとつになっている。

連合は組織維持に汲々とせず、さっさと分裂して、組合の本分にたちもどるべきだし、政治ではなく、働くことの意味を経営者にも教育普及してほしいものだ。

「社会の許容範囲」という枠

制限速度を超えると「速度違反」になるけど、制限速度にぜんぜん達しないでいても「速度違反」になるのは、高速道路や自動車専用道のばあいである。

「例外」があって、一般道でも観光地などで、渋滞が予想されるばあいは、最低速度に制限をかけてよいと、警察庁は通達している。
しかし、最低速度制限を設定している一般道路はないから、いまのところ幻である。

あおり運転が社会問題になっているなか、「逆あおり運転」というドライバーもいる。
とにかく低速で走行(10Km/hとか)したり、カーブや交差点で極端に減速、または停車してしまう。

これはこれで、後続車には迷惑で、かつ、危険だ。

こんな運転を意識的にしているひとと、無意識でやっているひとがいる。
どちらも、「法的」には問題ない、ということになるけれど、できれば遭遇したくない。
「流れ」にあわないといけないのは、「許容範囲」の問題となる。

つまり、「安全」を最優先しているというばあいでも、そこには「社会的な許容範囲」があって、このことが「基準」になるのである。

スクールゾーンだから、制限速度30Km/hを厳守せよ、は理解できる。
しかし、スクールゾーンだから安全のためにと、だれも歩行者がいないなかで、とにかく5Km/hで走行されては困る、ということだ。

すると、弱者の側の安全教育がどうなっているのか?も気にかかる。
とくに自転車の暴走による死亡事故があることだ。
昨今、両耳にイヤホンを装着している歩行者も、自転車もよくみかける。
中学、高校における安全教育はどうしているのか?

自転車で老人を跳ねてしまった高校生や、小学生は、億円単位の賠償金を一生かけて払わなければならなくなる。
自転車に賠償保険をつけることが義務化されたからといって、事故による加害の責任は消えてなくなるものではない。

絶対安全は理想であって、手前にかならず「社会の許容範囲」がある。

そして、その手前に、「安全努力」が要求されているのだ。
この努力が、業務遂行をさまたげることもある。
ならば、業務の通常遂行にその手間分をあらかじめ含めておかなければならない。

安全努力のせいで業務が30%ダウン(1-0.3)するのが通常なら、そこがあたらしい100%達成点になる。
これを無視して、110%や120%、あるいは元の水準にもどすなら、1.43倍の効率化を、安全努力とは別の改善で達成しないといけない。

1/(1-0.3)=1/0.7≒1.43

さてそれで、鎖国しているわけではない現下の経済生活にあっては、「国際的」な「社会の許容範囲」の合意がないと、なにも「貿易」できない。
A国産のテレビは発火しないが、B国産のテレビは発火する、となったら、だれもB国産のテレビを買わない。

しかしもし、B国産のテレビとA国産のテレビとが、おなじ方法での製造や、おなじメーカーの工場のちがいだけだったらどうなるか?
このことがしれたら、どちらも買わないという選択が、世界でおきる。

こんなことを防ぐため、「製造(安全)基準」が設定されている。
この基準は、各国政府の話し合いで決まることもあれば、メーカー各社が合意づくりをして決めることもある。
各国政府の話し合いには、国連という場も含まれる。

そこで、こうした「基準」が決まる落としどころはどこかといえば、やっぱり「社会の許容範囲」なのである。
ここでいう「社会」とは、国内ではなく「各国」の社会のことである。
「国際社会」ともいうし、ばあいによっては「人類社会」ともいう。

そうやって、現在の豊かな生活が確保されている。
とくに、口に入れるもの、からだの健康に影響するものには、国際基準が適用されて、これによって貿易がおこなわれている。

リカードがいった「貿易モデル」における、「比較優位」の原則は、「経済原則」のことだけど、いま、わたしたちが生きている世界では、「国際基準」という「社会の許容範囲」を前提にした、「比較優位」による貿易で物品が動いているのである。

その恩恵の典型が、輸入食材であり、国産農産物の輸出なのだ。
つまり、わたしたちがふつうにフランスやイタリアなどから輸入した、ミネラルウォーターやワインをなにげに飲めるのも、日本の米や野菜が東南アジアで人気なのも、ぜんぶが「国際基準」をクリアしているからである。

しかし、日本国民がしらないところで、日本の「不正」が問題視されるようになってきた。
それが、とくに顕著なのが「農薬」と「放射性廃棄物」による「汚染」の問題なのである。

農薬は、欧米基準の数百倍の緩さが「国内基準内」であったりする。
国内消費だけなら基準内だけど、輸出となると不可能になる。
そこをなんとかしろ、とごねている実態がある。

これに、「放射性廃棄物」が加わることになった。
もちろん、「国内基準」では問題ない。

こうした「迷走」が、どこへ向かっていくのか?
わが国の「社会の許容範囲」が曖昧になったことに原因がある。

民主主義ならありえないけど、民主主義ではないからこうなった。
メーデーが5月1日でなくて、4月29日(昭和の日)に開催されたのも、「社会の許容範囲」が曖昧になったからであろう。