ギネス更新のトラックデモ

カナダ人の「お怒り」が、アメリカに「伝染」して、ヨーロッパにも、という具合になってきている。

『コンボイ』(1978年)は、「トラック」が集まってできる「船団」の意味だと知らなかったので、ポスターを観てもピンと来なかった。
「ふとしたことをきっかけに」という、ドラマの発端は、ストーリー展開で重要なことだろうけど、後からできた『ランボー』(1982年)の方が「先」にイメージ付けがされている。

この2作に共通の、理不尽な「保安官=権力」に対抗する、という意味では、「西部劇」とおなじなので、幸せだった日本人には単なる「娯楽」にしかみえない設定だったけど、不幸にも「権力の横暴」が見えてきた昨今、妙に「リアル」な「怒りの爆発」なのである。

やっぱり、「ふとしたことをきっかけに」トラックに「煽られる」恐怖を描いたのは、スティーブン・スピルバーグの『激突』(1971年)で、NBCが放送した『警部マクロード』(1970年~77年)役のデニス・ウィーバーが、こんな役をやっていたのかと、やっぱり「順番」が逆になっていた。

『激突』は、その後の『ジョーズ』(1975年)の「先行作品」とも言われていたけど、ちょっと「後出しじゃんけん」のような気もする。
1975年から79年という、意外に短い期間に10作もできた『トラック野郎』シリーズは、やっぱり日本が「幸せな時代」を描いていて、もう決して戻らないから、妙にノスタルジックになれる作品集になってしまった。

   

23日に西海岸のバンクーバーあたりからはじまった、トラックの抗議デモは、東海岸側の首都オタワを目指す、「大陸横断」超長距離の「旅」となっている。
その距離は、約4000㎞超。
鹿児島から稚内までの「往復」よりも遠い。

それで、カナダのトラックデモは、『Freedom Convoy』という名前がついて、参加する台数がどんどん増えた。
5万台を超えて、「パレード」の総延長は70㎞になり、沿道で応援するひとは140万人に達したという。

過去の車列のギネス記録は、エジプトでの7㎞ほどだったので、一気に10倍の「記録」になったけど、アメリカ側からも続々と「参加」していから、どこまで伸びるかわからない。

いまは「冬」で、関東地方も寒いけど、カナダではマイナス20℃~30℃がふつうだから、「沿道で応援」というのは「ふつうじゃない」ことだといえる。
それに、参加するドライバーたちを援助するための「基金」もできて、毎日約1億円が集まっている。

当初、マスコミは「無視」を決め込んでいたけれど、あんまりにも巨大化して、とうとう無視できなくなった。
それで、こんなことになった「理由」の「矮小化」というプロパガンダを開始している。

それは、「ワクチン義務化への反対」という「だけ」の理由説明である。
「トラック運転手」という、職業に対する「差別」もにじみ出ている。
低学歴で高度な仕事に就けない、あらぶれ男たちの「我が儘」だということにしているのだ。

「事実」は、ぜんぜんちがう。
特に「冬期」のカナダは、新鮮な野菜の9割も、南側のアメリカに依存しているから、陸路でかならず「国境を越える」ことが必須となる。
それでもって、「8割」のドライバーは、とっくに「接種済み」だった。

「8割」という数字は、彼らの常識ではありえないほど「高い」のだ。
日本人の「潔癖症的全体主義」をあてはめてはいけない。
そこに、カナダ・アメリカの双方が「義務化」ということを言い出して、未接種者には国境での2週間の隔離を決めた。

温度管理ができないから、荷台の野菜が凍って傷む。
運送業の職業倫理に照らして、加えて「自由」の概念にも照らして、いい加減にしろと、「堪忍袋の緒が切れた」のだ。

なんども説明するけれど、「自由主義」の「自由の概念」とは、「他人から命令されない」という意味の自由のことで、自由放任・好き勝手ができる、という意味ではない。
自由の「本場」では、このちがいを誰もが知っている「常識」だ。

残念ながら、日本では、自由放任・好き勝手、という意味が「上」をいく常識がある。
彼らが諸手を挙げて「自由を叫ぶとき」と、日本人が「自由を主張するとき」の、意味がぜんぜんちがうことは、特に意識すべきことだ。

自分たちの仲間への「攻撃」という意味もあるけど、両国の「左派=社会主義」政府の強権的な理不尽に「ぶち切れた」というのが本当の「理由」なのである。
だから、一般人の共感を得て「沿道」にひとが集まって、自分の財布から寄付をしているのである。

これに「共感」して、アメリカからもカナダに向かうトラック野郎がいるのは、そういう意味で、マスコミの説明のような「浅はか」ではない。
そして、ヨーロッパにも「伝染」しようとしている。

「イケメン」だけど独裁的傾向がある、首相のトルドーは、自身が「感染」したとして、「家族みんな」で秘密の場所に「自主隔離」して、行方がわからないから、「濃厚接触」はどうするのかも適当になっている。

けれども、オタワへの「橋」の一部を「封鎖」する、という「姑息」をやって、周辺住民に不便を強いる「強権」も発動している。
英国の女王陛下の代理人たる、「カナダ総督」が、伝家の宝刀を抜いて「トルドー解任」をするのでは?という「噂」があるのは、国民の「期待」があるからだ。

いまさら「まんぼう」をやる、日本政府には、「保身」しかないことがわかるし、あおれば儲かることを知ったマスコミの「強欲」が、ギネス更新のトラックデモを伝えない理由がここにある。

ロシアには媚びないのか?

ロシアが「ソ連」だったころは、「媚びる」ひとがたくさんいて、おかけでロシア語教室で食べていけるひとも多かった。

国名を「ロシア」に戻したときに、前政権時代の秘密文書が、いきなりオープンになって、「スパイの噂」があったひとたちの疑いが晴れて、詳細に「スパイだった」ことが晒された。

なかでも有名人は、向坂逸郎というひとで、日本社会党の理論的指導者とも言われていた。
なお、秘密文書で「最高度のスパイ」と指定されていたのに、一切語らず世を去った、瀬島龍三というひともいる。

向坂はいかにも「頭の良さそうな」老人風情で、共産社会の理想像を真顔で語っていた。
ただし、共産党のえらいひとのように、「豪邸住まい」という共通がある。

突然だが、向坂の「ソ連には、売春がありません」という話が、理想社会の「象徴」だったのは、特に敗戦後の貧しかった日本では、戦災で夫や親を失った女性がはじめる、よくある「個人事業」だったからで、顧客は貧しい日本人ではなく、「強いドル」を持っていた米軍将兵であった。

横須賀を皮切りに、特に横浜で「活躍」した、「メリーさん」は、日本が豊かになるにつれ、日本人でお世話になった紳士も多かったというけれど、「士官」以上しか相手にせず、日本人でも背広にネクタイを着用していないと断るという「ドレスコード」設定の気高さも「伝説」となったのである。

それが象徴は、昭和22年のヒット曲、『星の流れに』だった。
作詞、清水みのる、作曲、利根一郎、歌は菊池章子。
この「悲劇」を題材にしたのが、ブームとなった森村誠一の『人間の証明』で、映画は松田優作の出世作でもあった。

  

確かに、向坂が言うように、ソ連には、「公娼」は存在しない。
しかし、「私娼」はたくさんいて、衛生管理もままならないため、外国人が持ち込む「ペニシリン」が、闇取引されるほどの需要だった。
「AIDS」という病気がなかった時代のことである。

社会主義・共産主義の「建前上」、存在しない商売の結果としての治療とか、予防に必需品だからといっても、「正規」での入手が困難だったのである。
けれども、当時、モスクワなどに駐在していた外国人(日本人も)なら、公然の秘密、いや、常識だったろう。

実際に、企業は「経費」で、これらの薬品を購入して、駐在員に渡していた、と聞いたことがある。

だから、向坂の発言は、駐在経験のあるひとには、「お笑い草」であったけど、思想に染まったひとたちは、向坂を持ち上げても、決して「嘘つき」とは呼ばなかったという、お笑い草がある。

これに「輪」をかけたのが、戦前に活躍していた女優の岡田嘉子であった。
恋多きこの女優は、演出家で共産主義者の杉本良吉と、シベリアからソ連に「亡命」したけれど、昭和42年に日本のテレビに突如出演し、その後の昭和47年に美濃部亮吉都知事らの「運動」で帰国した。

まことに、都民は「まとも」な人物を都知事に選ばない、という習性がある。

長く杉本は、なぜか「英雄的な獄中死」とされていたけど、岡田の証言で、すぐさま銃殺されていたことがわかった。
イタリア共産党創設者のグラムシならば、資本主義政権下の獄中死としてまだ意味があるけど、共産党政権下の獄中死とは、「スパイ」を疑われて荒っぽく始末された、という意味だ。

彼女が生き残ったのは、当局から極秘任務をおびていたからという。
実際に、戦後、モスクワ放送の日本語アナウンサーをやって、プロパガンダを仕掛ける側にいた。

こんなふうに、なんだか暗い話になるのが、旧ソ連だけれども、それが「共産国」というものだから、仕方がない。
兄弟国として「蜜月」だったけど、中ソが激しい「仲違い」をしたのは、左翼界隈でかならず起きる「内ゲバ」の拡大版にすぎない。

「内ゲバ」が発生するメカニズムは、思想的な観念でしかないのが「共産主義」という「宗教」だからで、活動家は、かならず自分の「思想=理論」が正しい、という主張をもって、けっして譲らない。
今様で「1ミリも」譲らないのは、譲れば「全否定」されて、下手をすれば命がないからである。

それで、この体制には「自由剥奪」という「刑罰」がある。

岡田嘉子も、10年の自由剥奪を言い渡されたというけれど、幸いにも3年ほどで出てこられた。
だが、人格がどこまで「破壊」されたかはよくわからない。
一般人なら、3ヶ月で発狂するというのは、ソルジェニーツィン氏の言葉であった。

この「邪悪」は、どこからやってくるのか?と問えば、それは、「共産主義思想そのもの」にあるから、ソ連のこうした「現実」は、思想の賜物である。

しかしながら、人間を欲望で支配する、という、「より邪悪」な発想は、素朴なロシア人ではなくて、「酒池肉林」をリアルに実行したことのある中国人ならではの壮大すぎる歴史と民族的趣味からやってきた。

そんなわけで、ソ連に「媚びる」のとはちがって、格段に「うまみ」があるのが、中国に媚びることで生まれたのは、意識的にそうさせて「役に立つ白痴」をコントロールしているからである。

だから、いま、ロシアやプーチンを「悪者」扱いにするのである。

こうしたなか、昨29日、サントリーホールでのコンサートに久しぶりに行ってきた。
アマチュアオーケストラとはいえども、けっして侮れない「東京グリーン交響楽団」の年2回ある定期演奏会の本年初回だ。

今回の演目は、なぜかすべてロシア人作曲家(ボロディン、カバレフスキー、チャイコフスキー)という「選曲の妙」を感じながら、「農奴」の土臭くて、ロシア的過剰な装飾のサウンドに浸ってきた。

「スキー」が付くのはポーランド貴族の系統だとわかるのだけど、ボロディンとチャイコフスキーは、革命前ロシア帝国時代、カバレフスキーは、ソ連時代の作曲家だから、当局の指導のもとに作曲したのである。
どんな「政治的解釈での要求」にこたえたのだろうか?

全部で10曲の組曲『道化師』の第2曲『ギャロップ』は、小学校の運動会でかかる「定番」の3大音楽のひとつだから、日本人もソ連共産党の指導を受けたと同然なのだ。
ちなみに、他の2曲とは、オッフェンバック『天国と地獄』、ハチャトリアン『剣の舞』である。

もちろん、ハチャトリアンもソ連の作曲家だ。
これを、子供の脳に埋めこむことを、文部省がやったことは記憶していていい。

そんなわけで、ウクライナ情勢で、プーチンのロシアを「悪者」にして、「邪悪」な戦争を仕掛けているのは、残念ながら「産軍複合体」とお仲間の、民主党政権と共和党主流派なので、「うまみのない」ロシアに媚びる者がいなくなったのであった。

「音楽に国境はない」けれど、だから利用するという「邪悪」は、経済力がずっとある国で、より進化していると思いながら、熱演を聴いていた。

一曲目の『歌劇イーゴリ公序曲』の出だし、弦楽器の「枯れた感じ」が、なんだかウィーンフィルを彷彿とさせたけど、だんだんと「澄んで」しまった。
個人練習が音量的に困難な金管楽器も、その響かたがプログラムの進行に沿うように「向上」したのは、集中力のなせる技だろう。

その意味で、どこで練習するのかわからない、ティンパニの「切れ味」が秀逸で、見事な「思い切りのよさ」があったのは、演奏者が女性だったからかもしれない。

やっぱり生で聴くコンサートっていいものですね。

「祝?」国家警察の誕生

今年度発足予定の、「サイバー警察部隊」は、「国家管轄」の特別部隊になるという。
すなわち、戦後初の「国家警察」の誕生である。

わが国を代表する「日本経済新聞」での報道記事の「初見」は、昨年の6月24日「朝刊」で、翌25日には、「社説」でも扱っていて、基本的に「歓迎」の主張をしていた。
そして、昨28日夕刊に、「いよいよ」という記事がでた。

社説の「主張」が、もっともなのは、従来の「縦割り」体制の不備と、被害実態の把握が出来ないこと、それに、被害企業が「公表しないこと」を挙げていることだ。
もちろん、「諸外国の事例」は、はなから国境の概念が希薄な「サイバー上」のことだから、「国家警察」が扱うという事実もある。

国境の概念がないから「国家警察」というのは、なんだかよくわからないけど、「地方警察」では間に合わない、ということしか「それらしい」理由はない。

警察組織がややこしいのは、階級と所属が合致しないことによる。
最高の階級は、所属組織としては、「東京都警察」にあたる「警視庁」のトップである「警視総監」だ。
しかし、東京の治安に関する「最高責任者」は、「都知事」なのである。

これは、その他の各道府県もおなじで、道府県知事の下に道府県警察本部長がいる「建て付け」だからだ。
なぜなら、各都道府県警察の「予算」は、それぞれの各都道府県の管轄だからである。

それで、警視総監の上に、「警察庁長官」というひとをつくって、このひとが「警察庁」のトップとして、「管区警察局」とか、各都道府県警察の「連絡役」ということになっている。

上から見ると複雑だから、下の「採用」という目線でいけば、各都道府県警察の直接採用か、国家採用かで分かれる。
もちろん、各都道府県警察採用なら、いわゆる「地方公務員」のなかに分類されるし、国家採用なら、当然に「国家公務員」だ。

一般職の公務員と同様に、「上・中・初」の三段で別々に採用が行われるが、都道府県警察採用では、「上」がない。
ただし、「術科(柔道・剣道)」という枠での「中・初」がある。
「上」は、いわゆるキャリア、「中」は一般大卒、「初」は高卒だ。

つまり、「警察官僚」とは、キャリア採用の国家公務員を指す。

なお、国家採用の「中と初」は、「皇宮警察」に配属となることがある。
警察庁直轄なのだ。

すると、都道府県警察の直接採用者たちは、おおむね「警視」あるいは「警視正」までで定年退職となる。
警察署長、あるいは本部の部長級である。
それより「上」が、国家採用の「上」のひとたちで占めることになっている。

ちなみに、警視正の「上」は、警視長、その「上」が警視監、その「上」が警視総監である。

東京の警視庁を除いて、残りの「警察本部長」は、たいがいが「警視監」の階級だけど、警察庁「本庁」の役職的には、「課長級」である。
なにしろ警視総監を除くと、「支店長」が46人いるので、長官が出席する全国本部長会議は、「ロの字型」にずらーっと並ぶ。

これは、「日本銀行」の「支店長会議」とおなじだ。

なので、警察庁の「部長級」とか「局長級」の凄みは、県警本部長が雑魚になることで理解できる。
「本庁(本社)」には、「警視監」がうじゃうじゃいるのである。

だから、『踊る大捜査線』の織田裕二演じる「青島クン」と、柳葉敏郎演じる「室井審議官」との関係とか、デフォルメし過ぎではあるけれど、北村総一朗以下「スリーアミーゴス」は、まんざらではない話なのである。

とはいえ、キャリア官僚の世界は、なんでもあり、なので、「他省庁との人事交流」という名目とかで、「出向者」の受け入れや「差し出し」もやっているけど、地方の「中」から国家への「出向」もある。

都道府県警察採用の警察官が、警察庁や内閣情報調査室に「出向」するし、「在外公館」の警備担当書記官は、警察庁から外務省への「出向」なのだ。
ただし、国際慣例上、「軍」(自衛隊)からの「駐在武官」は、直接派遣されるので、外務省への出向という「オブラート」での在外勤務ではない。

それでもって、キャリアなら、「本部長」とか、そのほかの役職が、たとえば、財務省とか外務省とかという、ぜんぜんちがう「畑」のひとがいきなりやってくることも珍しくない。

これで「業務が廻る」のは、「組織だから」であるけれど、そこが「官僚」という「テクノクラート」の仲間うちの世界なのだ。
わからないことは、若い警察キャリア官僚が、そっと教えてくれるから、支障がない。

むしろ、いいなりで「個性を出さない」努力をすれば、無事任期をまっとうして、出身省庁に帰れるし、それが、また「キャリア」となっていく。

そんなわけで、エライひとは山ほどいるから、「部隊」として実動するのは誰なのか?という問題になる。
「本庁」に設置の「サイバー警察局」には240人、そしてなぜか「関東管区警察局だけ」に設置の「サイバー特別捜査隊」には200人体制とするようである。

こんな「人材」がどこにいたのか?
とりあえず、自衛隊のサイバー部隊から出向させるのかしらん?

けれども、「どんな法律」で検挙の根拠にするのかということが、あんがいと「灯台もと暗し」なのではないのか?
なぜなら、「警察法改正」という「手段」をもって、「捜査権限を持つ」ことの根拠としているからである。

法務省(=検察)が所管する、「刑法改正」ではない。
それに、さんざんに「スパイ防止法」の制定を言っても、いっこうに立法の議論にならない。

根っこをたどれば、おのずと「憲法」の話に行きついて、例によっていつもの野党たちは、審議に応じない、という戦術をとって、なぜか「絶対安定多数」の自民党が、これを、「認める」ということをやっている。

実は「55年体制」のままなのである。

つい先日は、「スパイ防止法」がダメなら、「ハニトラ防止法」を制定せよという、笑えない提案をした評論家がいた。
両者とも、反対するひとたちは、「おなじ理由」が思い浮かぶから、なかなか「スパイス」が効いたものではあった。

どちらにせよ、「特別高等警察(特高)」と「憲兵」の苦い想い出があるひとたちが「絶滅」したので、このへんで「国家警察」をつくるには、それなりのタイミングである。
ただし、捜査分野が拡大すること必定なので、「特別高等警察」と「憲兵」の歴史を紐解くことぐらいはしたほうがよさそうだ。

なお、戦後の占領期における「軍の解体」と、「警察の再編」をGHQはセットで実行した。
アメリカ軍の意向で「日本警察」は生まれて、さらに、軍に対抗した日本監視のためにCIAがつくったのが「東京地検特捜部(=法務省)」であったことは、脳の中にあっていい。

要は、アメリカの「縦割り」が日本に持ち込まれたのである。

この「矛盾」をいまだに解消できないばかりか、ずっと「上塗り」をしているので、なんだかわからないことになるのだ。
「サイバー」といえども、他国からの「攻撃」ならば、「軍」の管轄で「防御」と「反撃」となるのが、「諸外国のふつう」だけど、そうはいかないからこうなった。

そもそも「インターネット」は、アメリカ軍が開発して、「その一部」を民間に「解放」したことがはじまりだ。

とはいえ、いろんな「理由」をつくって、関東管区警察局から全国の管区に広げるのが当然なのは、国内犯なら、関東以外でやればいいからだ。
でも、「警察法改正」で「捜査」をしても、どうやって「起訴」するのか?
外国にいる外国人をどうやって逮捕して、どうやって日本の裁判にかけるのか?

むしろ、検察にサイバー捜査隊をつくらないことの不思議があるのは、GHQ(軍)とCIA(国家安全保障)の対立を、いまだに引き摺っているからなのかと疑う。

「特定野党」は、この「改正」にどう対応するのか?はかんたんに予想できるけど、暗いご時世になること確実である。
それは、なんだかよくわからないけど、「別分野」で理由をつくれば、「国家警察」を編成できる、という「前例」ができたことは、確か、だからである。

社会主義国を目指す、と明言した首相方針に従えば、「警察国家」になるというのは、「セット」だ。

だからどんどん「警察国家」になっていく。
そのための、「憲法改正」は、間違いなく「改悪」なのである。

施政方針演説の「怪」

17日、岸田文雄首相の初となる、施政方針演説があった。
その後の、野党「代表質問」のグダグダは、相変わらずなので実は内閣を援護射撃していることになっている。

国会「演説」が、演説だったのはずいぶん昔になるかもしれない。
ラジオもテレビもなかった時代には、「生」で演説を聴く、という当たり前があったので、「原稿の棒読み」なんて絶対に許されなかった。

むしろ、政治家たるもの、演説で聴衆の引きつけができなくては、そもそも選挙に勝てない。
どういう「訓練」を受けるのか知らないけれど、初出馬で初当選して大統領になったトランプ氏には、当選前の「一般人」の夫人と愛娘の「演説」が、実に「お見事」なのだから、プロの政治家も一目置くことになるのである。

「話芸」というジャンルでいえば、落語、講談、漫才といったバリエーションがあるわが国では、「演説」というジャンルも生まれて、それが、学生には「雄弁会」という倶楽部で「弁舌」と「論理」を鍛えることになったのである。

だから、「雄弁会OB」たちが後に政治家になるというパターンができたけれども、「しがらみ」のせいで、ぜんぜん「雄弁」な演説ができないばかりか「意味不明」になって、なんだかなぁを後輩たちに見せつけた。

こんな「劣化」を自分はしないと、心に誓って政治家になっても、やっぱり「しがらみ」に負けて、なんだかなぁに「感染」してしまう。
それで、とにかく出世すればいい、という安易が論理に優るようになっている。

衆・参の「両院制」という高度な議会制をとる、わが国は、年初にはじまる「通常国会」冒頭で、首相が向こう一年間の「政府方針」を表明するのが、「施政方針演説」だ。
臨時国会や特別国会での首相演説は、「所信表明演説」といって区別する。

「両院」なので、同じ内容の演説を2回行う。
両院議員が参集する方式で1回としないのが、なんだか「権威主義的」なのだ。
まぁ、両院議員の数が多すぎて「一堂に会せない」ということもあるかもしれない。

国会議事堂は、昭和11年に完成したけど、この年は第19回衆議院選挙があった。
このときの議員定数は、466人。
現在は、465人なので、数は変わらないが、いまのように年齢がくれば自動的に選挙権を与えられる「普通選挙ではなかった」ので注意がいる。

選挙制度がぜんぜんちがうけど、もしや、国会議事堂の「キャパ」が議員数の、優先的制約条件になっている?

そんなわけで、2回、きっかり同じことを言うために、「原稿」を「読む」ことが演説となった。
つまり、「音読」ができないといけないのである。
それでも読み違いがあって、「議事録」に残るとこまるから、読み終えた「原稿」を速記者に手渡すのである。

企業とかの「議事録」とちがって、国会やら地方議会の議事録は、テープレコーダーがない時代からのものだから、誰が何を言ったのか、について淡々と書き記す。
かいつまんで「編集」してはいけない。

しかも、国会は「国権の最高機関」にして「唯一の立法府」なのだという「建前」があるので、ここでの「発言」には、法的な意味がある。
マスコミが「あげ足を取る」のは、ここに根拠があるのだ。

だれが原稿を書いているのかは知らないけれど、読み間違えないように1回は読んで、難しい字には「ルビ」を振ったりするだろうから、内容の理解は別としても、「文責」は首相にあるのは当然だ。
もちろん、「内容の理解」だって、している「はず」だということになる。

だから、本人が理解しているかしていないかは、もう問われない。

しかして、何を言っているのか不可思議な箇所が随所にある。
冒頭からの新型コロナ対策は、前提としての病気の実情を相変わらず無視している。
北野武がいう「ふつうの風邪」発言に、「勇気ある」という評価がつくことに政府の「強権」を嫌う「国民の声・本音」がある。

しかも、「水増し」指示している死亡者数といった「統計の不適切」をどうするのかに言及はなかった。

「新しい資本主義」は、首相の経済ブレーンが何者かを「自己紹介」したようなもので、それは、「資本主義」という左派用語をそのまま用いたことで確認できる。
自由経済のわが国首相なら、正しくは、「産業資本主義」を指さなければならない。

当然に、「新自由主義」の定義すら、左派が都合よくいうものであって、この点、「新自由主義」を常識とする世界とは別に、国家が分配する「社会主義国」として生きていく、という「歴史的表明」になった。

新しい資本主義だから、経済安全保障が重要なのではなく、どんな体制であれ「国」として、経済分野でも安全保障を重視するのは当たり前すぎる。
むしろ、軍事的な安全保障の前提として、もっとも重要な国家課題だ。
この認識が薄すぎることの表明は、外国政府が「安堵」したことだろう。

それで、社会主義をやるから、科学技術やイノベーションも、政府主導だというのは、「筋が通っている」けど、それこそが「衰退」を加速させる。
スターリンの「5ヵ年計画」が用語として登場した。

国家・政府が仕切る経済だから、賃上げもしろ、と企業にいうのは「アベノミクス」と新味はない。
ただし、「労働力の流動化」を入れたのは、新しい。
人の能力を、「スキルだけ」に求めるという、デカルト的「機械化」が、「人への投資」なのだというから、日本的見地からならどうかしている。

「国家公務員試験」を通ること、という感覚そのままだ。

そしてこれを、「非財務情報」として企業に「開示させる」という。
民間が「唯一の」価値産出分野だということを知らない、官僚が書いた原稿だとバレるのだ。

それにしても、演説内にもある「歴史的スケールでの経済社会変革」という、「にっぽん社会主義人民共和国」にしたいと宣言した、おびっくりな「施政方針演説」であった。

世界最大の「邪悪な民間団体」、『ダボス会議』が、あたかも公的機関のごとく登場したのにも、唖然とする。

この「ぶっ飛んだ演説」に、既存野党のツッコミに迫力がないのは、野党の野望を飲み込んだからである。
みえない「大政翼賛会」になっている。

それで、身内の自民党からの「代表質問」が、なんだか「健全野党」のような、的を射る内容で、内閣を右往左往させてしまった。
首相からしたら、「敵は内にいる」ことを実感したことだろう。

なお、岸田氏は「ひっそり」と、つまり、「発表なく」広島県日中友好協会の会長職を辞していて、後任は同じく広島の従兄弟、宮沢洋一自民党税調会長になっている。

自民党は「本気で」この内閣を支えるのか?

だんだんと、方向が定まるのだろう。

本格的搾取の「パリ協定」

マルクスがいう「搾取」をもって、「資本主義」は「悪」だと批判するひとたちが、本格的搾取を用意している「パリ協定」を批判しないのはなぜか?

この、本格的搾取の仕組みに気がついたトランプ大統領が、協定からの即時脱退と、国内で準備中の「政府グリーン・ファンド」も中止したのは、「愛国的」であったと評価するのは、インド系のシバ博士であった。

1997年12月に締結された、「京都議定書」に「京都」がついたのは、誘致したとはいえ、「たまたま」京都で国際会議をやったからである。
正確には「気候変動に関する国際連合(連合国)枠組条約の京都議定書」という。※( )内は筆者

時の日本政府は、第二次橋本龍太郎内閣であった。

橋本龍太郎といえば、「ハニートラップ」の噂が、死去後に「鮮明」になってきた御仁で、我が国の「花街」では、「最も嫌われた男」としての異名もあった。
「面倒を見ない」ということである。

その意味では、8年ほど遡る「宇野宗佑内閣」が、記録的「超短期」で終わった情けない理由を思い出す。
宇野氏が懇意だった「芸者から刺された」のと似たような話である。

簡単にいえば「せこい」に尽きる。

宇野氏のとき、「花街のルールにあるまじき」として、関係を暴露した芸者が一部から非難された。
「夜の話は昼に持ち込まない秘め事」だというルールである。

しかし、これを「破戒」するほどの理不尽な「せこさ」が、とうとう芸者をして語らせるまで追い込んだのだから、やっぱり「情けない」を通りこして「醜聞」となったのである。

プロから刺される、という前代未聞の「退陣劇」となったのは、一般人を「政治不信」の頂点に追いやったから、その意味で宇野氏は我が国政治史における特異な「汚点」を残した政治家であった。

橋本氏は、言わずと知れた「経世会のプリンス」と呼ばれてはいたけれど、呼んでいたのは「マスコミ」だから、その意図は「逆神」的だ。
すなわち「こんなヤツ」という意味だったろう。
なぜなら、花街どころか自身の「派閥」でさえ、まったく面倒を見ないことで有名だったからである。

こうした「自己中の権化」のようなひとは、たまにいる。

これが、マスコミの意図と結合すると、ヘンテコなキャンペーンが堂々と展開されるものだ。
それが、京都でやるから日本がどんなに不利となっても「破談」にさせてはならない、というハチャメチャな論理だった。

「協定の論理」が、自国に不利なら、そんなものは「蹴る」のが、国益保護という「政治判断」になるものだ。
ここでいう「国益」とは、「国民の利益」の略である。

これをしなかった橋本氏のようなキャラを首相に選んだ日本人の悲劇の始まりである。

そんなわけで、まるでイエス・キリストが、全人類の「原罪」を背負って処刑されたように、我が国が「たった一国」で温暖化対策を背負うことになったのである。
しかし、世界で誰ひとりとして、「日本」を崇めるものはいない。

日本という「カモ」に、京都という「ネギ」を背負わせただけなのであった。

それから20年の時を経て、2016年に、もっと過激な「パリ協定」が締結された。
端的にいえば、この協定は、全世界に「炭素税」を課す仕組みなのである。

2030年、「炭素クレジット」なる「債券」を各国は購入しないといけない取り決めだ。
もちろん、その債券を購入する費用は、各国の「税収」だからあまねく国民が負担することになる。

では、一体「発行元」は誰なのか?

「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)」なる「学術」組織となっている。
しかし、これには各国政府以外の「出資者」がいるのである。
それは、個人なら、アル・ゴア氏、ブッシュ家、それに「商品先物市場」関係者、グローバル・エリート、自称科学者、といった人たちなのだ。

あたかも、WHOの「予算」がたったの2者で半分(ビルゲイツ財団30%、中国20%)になったかのごとくである。

すなわち、莫大なカネが、2030年にこの機構に流入することが「約束されている」のである。
さらに、2030年に大量販売されると、その後「炭素クレジット」は、商品先物市場での自由取引債券となる「仕組み」なのだ。

これを、ウィキリークス(WikiLeaks)が、関係者のメールから暴いたのだ。
「出資者たち」が、絶対にしかも圧倒的な額を「儲ける」ことができるようになっている。

その規模は、数百から数千兆円規模になる。

「盗人に追い銭」となるのが、各国政府がつくる「グリーン・ファンド」で、アメリカだけで10兆円規模を予定している。
このファンドは、反対者を「パリ協定参加」への合意に向かわせるためのバラマキのためにある。

それは、「環境運動」や「環境アドバイザー」といったNGO組織を通じて支払われることになっている。
つまり、これらの組織は「中抜き」することを前提にしているのである。
もちろん、マスコミもその「恩恵」に期待している。

これが、「環境ビジネス」の本質だ。
どこにも「地球」に関する話は出てこない。

仕組みは、コロナ対策とそっくりで、かつてない「邪悪」な「詐欺」が準備されているのである。
だから、以上の「仕組み」を解説するものは、冒頭のシバ博士以外いないのだった。

日本の「過ち」は避けられたか?

なにも外国人が言っているから「正しい」ということではないけれど、「自由主義」の立場からと、自身の研究成果の「正直な披露」ということがあって、なかなかに「スッキリ」するスピーチの動画がアップされている。

しかしながら、その翌日に、スピーチをした人物の名前をタイトルに加えようとしたら、「拡散制限」がかかるという「制裁」を受けてしまったという。

時間をかけて丁寧な翻訳をして動画をアップした本人は、あくまでも「拡散希望」だから、このブログが少しだけでも役に立てば幸いである。

動画から分かるオリジナルの撮影は、2012年で、登壇したアメリカ人歴史学者にして経済学者のロバート・ヒッグス博士は、特に「リバタリアン・アナキスト」を自称するほどで、経済学者としては、「オーストリア(ウィーン)学派」に属している。

この学派の、徹底した「自由主義」は有名で、それゆえに、いまでは「バラバラ」という状態の「派」になっている、というほどの「徹底ぶり」なのである。
それで、「主流派(アメリカ経済を中心に研究している)」からは、煙たがられて、なんとなく「反主流派」になっているのである。

もちろん、自由を必ず損なう「社会主義・共産主義」とは、まじわるはずもないのだけれど、政府という自由を束縛する存在に対抗して、「アナーキスト(無政府主義者)」になる、という皮肉が「共通」にある。
ただし、社会主義・共産主義からなってしまう「アナーキスト」とは、口もききたくないだろうけど。

この動画には、会場や講演の主催者についての説明がないけれど、ヤジもなくおとなしく聴いていて、スピーチ後の「拍手」の様子から、ハイエクが1947年に創設した、「モンペルラン協会」の会合ではないかと勝手に推測するのである。
あくまで「勝手」なので念のため。

彼の講演内容は、日本人研究者のものとおなじなので、特段の「新味」はないのだけれど、おなじことを日本人が言うのとアメリカ人が言うのとでは、「当事者の譜系」からの意味が出てきて、「新鮮」なのである。

これは、「誰が言っているのか」ということが、おなじ内容のものであっても「意味がちがう」ということになる事例だといえる。
残念なことに、ロバート・ヒッグス氏の著作で、日本語になっているものはないから、余計に「意味がちがう」ことが印象づけられる。

このことをして、「拡散制限」にしたのなら、YouTubeの中のひとの「読解力」は相当なものだ。
「A.I.(人工知能)」には、読解力がないことが証明されているから、きっと「人力」で、制限の操作をしたはずなので、これはこれで「ご苦労」なことである。

かつての「ソ連」が崩壊したのは、経済効率の悪さ、ということに集約されているけれど、それはなにも「ゴスプラン(ソ連邦国家計画委員会)」がやった「計画経済」だけが原因ではなくて、国民の「思想」を確認するための「監視」に対するコストに耐えられなくなったのである。

だから、その「反省」をもって、熱心に「画像・音声解析技術」で、安く国民を監視するシステム作りに熱心な国があるのだ。
来月からはじまる、世界最大の「サーカス」も、各国から参加する選手を「監視」することで、完成度の確認をするのが「開催目的」だと考えられる。

むかしは、「サーカスに売り飛ばされる」と言って、言う事を聞かない子供を脅かしたものだったけど、いまは、売り飛ばされたくてサーカスに「参加することに意義がある」ことになったのである。
それで、外交的ボイコットをするのを「アリバイ」として、自国民を差し出しても「個人の責任」ということにしたのを、だれも「ずる賢い」とは言わなくなった。

「おとり」に引っかけて、一網打尽にする、というずる賢い考えは、ヨーロッパ的な、あるいは白人の発想で、各個攻撃を旨とした日本的発想とは異なる。

これは一種の、大陸的発想と、狭い島国の少ない資源を確保する発想とのちがいである。
だから、「猟犬」すら、役割がちがって、それがいまだに「和犬」がペットになりにくい原因にもなっている。

「洋犬」は、主人の命令に忠実に獲物を追い込む遺伝子を保存したけど、「和犬」は、主人に獲物のトドメを楽に刺せるように仕向ける遺伝子を保存した。

そんなわけで、民主党ルーズベルトとチャーチルがやった、日本そのものの「追い込み猟」に、まんまとかかったのが日本人だった。
ならば、この「おとり猟」を、どうやったら回避できたのか?が、「反省」となるはずだけど、「絶対的平和主義」という「おとり猟」に、ふたたびまんまとかかったままなのが今の日本人なのだった。

なので、相手を追いつめてトドメを刺すように仕向けることは、やったことも考えたことないままで今に至っているのである。

トンガの噴火で寒冷化?

15日に起きた、トンガの噴火は、その後どうなっているのか?
噴火「後」に、地下10㎞あたりでの「地震」が頻発しているので、まさかの「大噴火」があるかもしれない。
すると、15日の噴火が前兆の「小噴火」になってしまう。

噴煙が上がったのは、最高で55㎞、多くは35㎞の高さで「横」に拡がった。
「成層圏」が11~50㎞の間というから、成層圏を突き破って「中間圏」にまで達したということになる。

なお、「オゾン層」とは、ほぼ成層圏にある「層」で、25㎞あたりが一番「濃い」というから、「横」に拡がったというのもオゾン層の濃い層の上で拡がっていることになる。

われわれが目にする「雲」は、「対流圏」という成層圏の下にできるものだから、高度12㎞ほどの成層圏を巡行飛行するジェット旅客機の窓からは、雲は見えないのである。

何年か前、沖縄付近にダブル台風が接近しているときに、北陸の金沢から飛行機で帰京するにあたって、たまたま飛行ルートが本州を横断して伊勢湾付近で太平洋に旋回したら、右窓側にいたのでこれら台風の姿を目撃することができた。

みごとな「エリンギ」形をしている雲が二つあって、対流圏と成層圏の境界で、平らになって拡がっていた。
以来、台風の衛星写真は、エリンギを真上から見ているのだとイメージしている。

そんなわけで、噴煙の中にある「小石」大の噴石なら早速に落下するけど、ミクロン単位のものは、長い期間空中にあってなかなか落下してこない。
対流圏にあるのなら、それは早めに雨に含まれるだろうけど、「中間圏」や「成層圏」なら、数年かかるといわれている。

もちろん、これが超巨大噴火ともなれば、数千年から数万年間、強烈な寒冷化となって、動植物の「絶滅」という事態にもなるのである。

ときに、噴煙には大きく二種類の物質が含まれている。
・二酸化硫黄、硫化水素
・火山灰

二酸化硫黄と硫化水素は、太陽光によって化学変化を起こし、周辺の水分と結合して「硫酸エアロゾル(aerosol)」になる。
このエアロゾル粒子は、たいへん細かくて、その生成過程のちがいから、一般的に、粉じん(dust)とかミスト(mist)とかがあって、気象では「霧(fog),もや(mist)、スモッグ(smog)とかという。

それで硫酸エアロゾルには、太陽光を「はじく」効果があるという。
これに、火山灰の中でも細かいものは、「粉じん(dust)」(4マイクロメートル以下程度)にあたる大きさだ。
これが、太陽からの熱を「吸収する」効果がある。

つまり、太陽光をはじく効果と熱を吸収する効果のダブルで、地球を寒くさせるのである。

今回の噴火でどの程度の範囲に影響を与えるのかが問題になるが、少なくとも「南半球」が対象地域になるという。
それがどのくらいの「被害」になるかは、まだ不明だけれど、農産物の収量に影響するとなると、他人事ではない。

地球の自転によって、偏西風が吹いていることが、これら物質の「拡散」に影響するので、広く薄くなることは確実だ。
世界中の気象学者が、さまざまなシミュレーションをもって、被害予想を立てることになるのも確実である。

火山噴火で、「平成の米騒動」が起きたことを思い出させる。

これは、平成3年(1991年)6月のフィリピン・ピナツボ山の噴火が原因だった。
それで、2年後の93年に、「記録的冷夏」になって米が大不作となったのである。

日照時間が減ったので、例年の、2~3℃、夏の平均気温が下がったのだった。

日本政府はタイ(インディカ種)米を緊急輸入したけれど、これが「国際米相場」を「高騰」させた。
日本国内では、バンドル販売されて、国産米を買うにはタイ米も一緒に買わないといけなくなったのである。

日本人には食べ慣れないインディカ種は、粒が長くて粘りがないため、「ふつうに炊いたら」美味くない。
それで、「廃棄」することが、国際的に非難を浴びて、バングラデシュ政府やらが、「不道徳である」とした日本非難声明を出したのだが、国内報道機関はこれを「伝えない」という不道徳なことをした。

実はわが国は、昭和6年の「冷害」によって、タイ米を緊急輸入した「実績」があって、やっぱり「美味くない」として廃棄したから、当時でも輸出してくれたタイ側に日本への不信を生んだのだった。

カネにものをいわせて現地人には「御馳走」の食糧を粗末に扱う、傲慢な日本人への「食い物の恨み」となったのである。

してみると、「自己中な日本人」という、自分は謙虚だと信じて疑わないのに、外国からは「傲慢そのもの」に見える姿が浮き上がってくるのである。
さては、他国から「侵略の欲望を促す」効果しかない、「平和憲法」が、地域の平和を乱す元凶だということに気づかいないことと似ている。

被害が少ないことを祈るばかりだが、火山噴火を人類がコントロールできないのは、太古のむかしとなんら変わりがない。
これを、あたかもコントロールしようとする、「脱炭素」なる「愚挙」への、天からの警告とみるしかない。

1250発の中距離核弾頭

「媚中派」の「媚」は、自らかかった「ハニートラップ」やらなにやらの「罠」によって、外国にコントロールされる立場になってしまった、ということがあるのだろうけど、表向き「国民には言えない」、国防上の「絶望」が、その外国による、この1250発の中距離核弾頭であって、わが国の主要都市をターゲットにとっくに配備されている、ということだろう。

前にも書いたが、「核ミサイル ターゲット 日本」に、想定される「国名」を追加して検索すれば、たちまち「配備図」までもがヒットするし、わが国を代表する新聞社は、「被害想定」の記事(見出しは「日本1800万人即死」2020年8月3日付け)まで出している。

つまり、「公然の秘密」という状態になっていて、これを「正式に認める」ことは、国民が「パニックになる」とかなんとかいう理由をつけて「言わない」ことにしているのだろう。

いまさらコロナがどうでもいい「風邪」だった、とは言えないから、効果がまったくないことが世界の「ロックダウン政策」の結果でもわかっているのに、「まんぼう」なるムダな政策をやるのは、もはや「バレたら」パニックになるという「恐怖」からでしかないのとおなじだ。

国民がパニックになるのではなくて、薄々気づいていることが「おおやけ」になることで、「正論」になることが、「政府の無謬性(決して間違えない)」を崩壊させてしまうことの「恐怖」なのである。

だから、2年も経って、「未知の病」だということで「固定」して、新たな知見を無視した政策をとるしかない、ということに政府が自分で追い込んでしまった。
「科学を無視」したことの「つけ」が廻ってきたのである。

では、この「核ミサイル群」はどうなのか?といえば、「事実を無視」したことの「つけ」である。
国民が事実を知らない限り、自分たちの主張の自己欺瞞の言い訳が、「国民を護るため」の「媚」なのだ、という心理でいられる。

これは、脅迫に屈した、ということでの「媚」である。

さらに、昨今開発されたという、「極超音速ミサイル」という最新兵器は、「北」すらも成功させたという報道がされている。
「迎撃不可能」という「事実」は、このミサイルの飛翔スピードが「極超音速」というスピードだから、ではない。

大問題なのは、「軌道を変える」ことなのである。

早くからオリンピック競技になっている、「クレー射撃」の難易度は、クレー撃破「ロボット」が存在しないことでわかる。
その理由は、初速100㎞程度かそれ以上で射出されたクレー(素焼きの皿)の到達予測地点に向けて散弾を撃つことを、およそ0.8秒内で行うことの「困難」なのである。

これには、散弾の到達時間があるからだ。
つまり、目に見えている、いまこの瞬間の位置にあるクレーをめがけて撃っても、散弾が到達するまでに、もはやその位置にクレーは存在せず、放物線上の先に移動してしまうのだ。

よって射手は、目に見えない放物線とその先を予測して撃つことができないと、けっして当たらない。
しかも、散弾の射程距離とクレーの飛翔距離から、以上の動作を0.8秒以内で終えねばならないから、「機械」ではできないのである。

これを、「ミサイル迎撃」ということで考えれば、発射されたミサイルが「放物線」上に落下する従来型であれば、落下地点までの軌道は計算可能で、しかも、数分間の時間があるから、迎撃ミサイルを放物線上の予測地点に発射すれば、「当たる」のである。

しかも、「迎撃ミサイル」には、「目」があって、予測地点に近接したら、「目視」しながらターゲットを確実に撃破するよう、自らの軌道を修正することで、誤差数センチ以内の精度まである。
鉄砲の弾とは大違いなのだ。

けれども、「軌道を変える」という相手には、まったく通じない。
それで、「迎撃不可能」ということになる。
ならば仕方がない、では済まないから、発射前の「止まっている」ミサイルを破壊するしか、方法がないのである。

ましてや、「核弾頭」を乗せているので、通常型でも「誤差数センチ以内の精度」をもって撃破するのは、確実に「核弾頭」を破壊するためである。
放射性物質による「汚染」を理由に、「反対」するひとがいるけど、都市上空で「爆発」したときの被害とは比較にならない。

そんなわけで、発射前のミサイル撃破は「ミサイル防衛」に含まれる、という定義のもと、2015年の日米防衛ガイドラインでは、「日本が」これを主体的に対処する役割を負っていて、米軍は「サポート」となっている。

それで、わが国には発射前のミサイルを撃破するための手段はあるのか?を問えば、「つくるべきかつくらざるべきか」で止まっている。
なんだか、ハムレット状態なのだ。

 

なるほど、ならば相手に「媚びるだけ媚びる」という方法で、「命乞い」をしているのがわが国の姿なのであるけれど、国民は知らずに「平和」を享受している。

1億人の悲惨をもっての「教訓」として、22世紀の人類に「愚民の平和」という「逸話」を残すしか、貢献できないのかもしれない。

戦争を望むひとたち

事前に「キャラクター」のチェックをして確認すれば、その「キャラ」がどうやって交わるのかを想像すると、なんとなく「ストーリー」が見えてくるものだ。
なので、「作り手」は、そうした「ストーリー」の期待に応えるようで、上手に「裏切る」と、「人気作品になる」ことを知っている。

だから、「駄作」と評価されるものは、そもそも「キャラ」の設定が曖昧なままだったり、事前に想定できる内容の「まま」で、なんら「ストーリー」に工夫がみられないものとなる。

現実世界にあてはめると、戦争を望むひとたち、という「キャラ」は、グループを作っていて、グループ内での「役」を分担して演じている。
だから、これが見えてくると、「面白くもなんともない」ということになるのだけれど、本物の「戦争」を画策するから、「現場」は命がけになる。

今年は、大きなイベントのスケジュールが決まっている。
2月は、北京オリンピック。
6月は、日本の参議院(半数の)議員選挙。
11月、アメリカ「中間選挙」という名の連邦下院(衆議院)「総選挙」。
そして、「秋」には、中国共産党大会での「習氏3選」が注目だ。

良くも悪くも、世界を動かすアメリカの中間選挙が、一種の「クライマックス」となっている。
しかし、「秋の大会」も、世界に影響を与える大イベントだ。

ちなみに、アメリカ合衆国の「序列」は、大統領、副大統領(連邦上院議長兼務)、そして、連邦下院議長の順になっているから、下院選挙における多数派党の権限は強大になるように出来ている。

世界の軍事バランスは、「最強」のアメリカ軍(5軍:陸・海・空・海兵隊・宇宙、の各軍)であることに異論はないだろうけど、「欧州方面軍」という「下請け」を「NATO」が請け負っている。
ちなみに、和訳すれば、「北大西洋条約機構」という名前になっているものの、「北大西洋」という地名に意味はない「軍事機構」である。

「経済力」という点では、わが国に対してもはるかに「劣る」ロシアが、軍事面では頑張っていて、そのNATOに対抗している。
元は、ソ連とその衛星国の「ワルシャワ条約機構」に対抗するためのものだったけど、「衛星国」が揃ってNATOに加盟してロシアと対峙している。

英語の「PUT]は、「置く」と習って久しいけれど、「in」を後に着けると、「差し込む」という意味になるとは、中学で教わる。

日本語では「プーチン大統領」というけれど、英語表記では、「PUTIN」なのである。
だから、欧州方面では、「ごり押し男」というイメージが彼の名前を見たとたんに「浮かぶ」ようになっている。

そんな「名前の音韻」からくるイメージが、マスコミにも利用されて、旧東側のいまは高齢になったひとたちには、「スターリンの再来」として怖れられている。
これが、旧衛星国までNATOに加盟した、国民感情である。

「ロシア」には、バルト海に面した「カリーニングラード(州)」という、「飛び地」があって、西はポーランド、東はリトアニアに挟まれている。
元は、東プロイセン、で「ドイツ」だったものが、第二次大戦後に、ソ連へ「割譲」された土地である。

ちなみに、ポーランドもかつては、バルト海側の全部が東プロイセンで、その背景には「ドイツ騎士団」の支配地という歴史もある。
それが、「マルボルクのドイツ騎士団の城」として「世界(文化)遺産」に登録されている。

ロシア帝国を含む欧州列強(プロイセン、オーストリア)に、二度も分割されて国を失うことになったポーランドの歴史は、1回も国を失ったことがない、という「欺瞞(しっかり「占領」という経験があるのに)を信じる」日本人には、とくに学ぶ価値がある教訓にあふれている。

このポーランドから見たら、その隣の「ベラルーシ(白ロシア)」とウクライナは、ともに「隣国」だ。
「ベラルーシ」は、「ベラ:白」と「ルーシ:ロシア」で、「白」とは光の反射から、「南」という意味があるので、「南ロシア」ということである。

この国に入るには、日本人でも「ビザ」が必要なので、なかなか入国しにくい、「独裁国家」である。
マスコミは、「欧州最後の」をつけたがるけど。

さてそれで、ロシアがずっと軍事大国なのは、海と陸とで「殲滅された」という「恐怖の体験」があるからだ。
海は、「日本海海戦」で、いわずと知れた日本海軍による殲滅。
陸は、「タンネンベルクの戦い」で、第一次大戦のドイツ軍による殲滅。

ロシア海軍は、主力のバルチック艦隊のほぼ全部を失ったし、陸軍は50万人が「全滅」した。

そんな歴史的トラウマがあるので、ロシア人は敵の3倍の兵力を準備しないと、「動かない」という「習性」がある。
「好戦的」に見えるのは、犬もそうだが、「臆病」ゆえの防衛本能がでてくるからである。

バイデン政権の「キャラ」は、アメリカ民主党という「好戦的勢力」だ。
このひとたちは、歴史的に「産軍複合体」と連携して、これを、「資金=利益」とする集団だ。
トランプ氏が「RINO」と厳しく批判する共和党主流派も、資金源をおなじくする。

オリンピック前のこのタイミングで、ロシアにウクライナ侵攻の「警告」を発したのは、「戦争を望むひとたち」に対する「やっている感」のアッピールにちがいない。
もちろん、これには、マスコミも含まれる。

11月の選挙に向けて、アメリカ民主党が戦争を始める「前兆」を演出している。
つぎは、オリンピック後の「宴の後」にも、きっと「警告」を出すにちがいないけど、米中ともに、それぞれの「秋」、を目指していることはまちがいない。

「プラットフォーム」がない

ないのなら創ればいい、にならないで、せっかくつくった「ミクシィ(mixi)」を事実上崩壊させたのは、なんだったのか?

そんなわけで、「つくること」に長けていたはずのわが国では、外国製の「プラットフォーム」に依存するようになった。
「5G]だなんだといっても、それは、「線路」のことで、「駅」がないから乗車できない。

アメリカ製:YouTube
韓国製:LINE
中国製:TikTok

特に、「LINE」は、個人情報が抜かれる問題がうやむやになったけど、問題の最中でも、地方自治体(たとえば、神奈川県)が「採用」して、住民への通知に利用するなどしている。
そして、もっとも「怪しい」中華製の「TikTok」を、この度「法務省」が採用して、国民への啓発に利用を開始した。

当然だけど、これら「プラットフォーム」を利用するには、「利用者登録」をしないといけない。
そして、この「利用者登録」にあたってでてくる「承諾確認」で、いろんな「承諾」をさせられる。

「承諾」しなくても、スルーできる「承諾」もあるけれど、結局「承諾」しないならば申込み手続きが完了しなかったりして、再び申込みの「振り出し」から操作しないといけないことになっている。
それで、利用したいという意思があるひとは、なにを承諾しているのかを読み飛ばして、全部の「承諾」ボタンをポチるのである。

この中に、プラットフォーム提供者が個人情報にアクセスすることの承諾もあるから、あとで気がついても「被害者」とはいえない仕組みになっている。

ところが、「中華製」の問題は、「承諾」の有無すら無視して、利用者が知らないところで「利用者情報を抜く」ということにある。
これを総じて、「バックドア」と呼ぶ。
日本語では、「裏口」とか「勝手口」となる。

得体の知れない「デジタル庁」という役所は、やっぱり「得体が知れない」ので、きっと「放置」しているにちがいない。
その「放置」には、「YouTube」の勝手な規約に基づく「日本国内での言論弾圧」の容認も含まれる。

むかしは、「免許」の関係で町内に必ず1軒はあった、酒屋さん(『サザエさん』なら「三河屋さん」)とかが、「御用聞き」に各家を廻って配達と注文をとるときには、決して「玄関」のベルさえも鳴らさずに、「勝手口」から声をかけたものである。

つまり、どの家にも「勝手口」があったのだ。
だから家を建てるときには、道路との関係から「勝手口」の場所もおおかた北側などと決まっていて、必ず「造った」から、初めてでも信用ある商人は必ず勝手口を見つけて、そこから声かけしたのである。

むしろ、まともな一般家庭で、御用聞きが玄関から入ってきたら、その家の「主婦」は、血相変えて「失礼」だと怒鳴ったことだろう。

これは、「身分制」の名残でもあるけれど、「玄関」は正規の入口という意味なので、謙譲した商人は「玄関」の敷居をまたぐことはなかった。
今に残る「文化財級」の住宅では、「(客用と主人用)正面玄関」と、「(家族用)玄関」が別にあって、さらに、「勝手口」が別にあるのが「ふつう」である。

こうしたことは、近代の「長屋」でも踏襲されたので、たいがいが「玄関」の裏側にある台所の横が「勝手口」で、さらに横に便所があった。
男子用小便器と、大便器を別にして、おなじ汲み取り口とした。
これを、「文化住宅」とも呼んだのである。

それが、現代の「長屋」である、集合住宅(いわゆる「マンション」)では、こうした「身分差」を打ち消して、勝手口どころか玄関が一箇所しかない「邸宅」となった。
なんだか、江戸時代の長屋と構造がおなじだ。

さて、中華製の「バックドア」の存在については、英国政府も「確認」して、政府調達品リストから中華製のデジタル器機は排除された。
オバマ時代は曖昧だったけど、トランプ時代には、「プラットフォーム」のプログラムにも「バックドア」があるとして、これを法的排除の対象としたのだった。

その最も厳しい規制対象が、「TikTok」だったから、こたびの「日本政府・法務省」の「TikTok採用」は、それなり(同盟国)の方面に「波紋」を投げかけている。
むろん、アメリカやイギリスで「LINE」はメジャーではないので、対象外のように見えるけど、その「危険性」が弛んでいるものではない。

そうしてみると、メイドインジャパン!の唯一の「プラットフォーム」にならんとした、「ミクシィ」への攻撃が、なんだか「陰謀論」ではなくて、「陰謀」に思えてくる。

ほぼすべてのSNSから「排除」された、トランプ氏は、その排除が「現職大統領」であったときからはじまったのであるけれど、ようやくにして、自身の「プラットフォーム」をスタートさせるに至りだした。

新年6日の記者会見が中止(15日に変更)になったのも、「切り取り報道」の被害を再確認したからだという。

古今東西、「独裁者」とは、情報管理もその「独裁権」に含んだモノで、自身への非難中傷を絶対に許さないばかりか、最大の刑罰を持って処する共通がある。
だから、大手報道機関ばかりか、SNSから完全排除されたトランプ大統領を、「独裁者」と呼びつけて、いまも無事でいられる方が、よほど「独裁」といえるのだ。

さては、情報が世界を制する、といわれて久しい現代にあって、SNAプラットフォームを「敵対する外国」に依存するわが国は、もう、とっくに中韓勢力の「植民地」となったといえる。

このことに気づかずに、「LINE」と「TikTok」に興じている多数の日本人が、政府を動かしている、のである。

なるほど、この意味でわが国は、「民主主義」なのだった。