現代日本の「あゝ無情」

パンを盗んだ罪で、とんでもないことになるのは、『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンだ。
ヴィクトル・ユゴーのあまりにも有名な小説にして、何度も映画やテレビ・ドラマ、それにミュージカルになっている。

フランスでは、『聖書』の次に読まれているという「国民文学」だけど、その物語と筆致の「長さ」が、日本人読者には「読破に忍耐力」を要求される「大作」にもなっている。

およそ、ヨーロッパ文学の「冗長さ」は、ストーリー展開はもとより、作者の「説明文」の長さによる。
そのまた引用が、ひろく「古典」に言及されるので、それを知らない読者には「苦痛」を強いられることになるのである。

すると、すでに現代からみたら古典になっている作品の難易度は、必然的に高くなる。
「当時」の時代背景も、現代とはちがうからで、これも「読みとらないと」全体把握ができない、という事態に陥る。

そんなわけで、「お手軽」な、映画やテレビの連続ドラマ、ミュージカル上演に何回もなるのは、作家の説明文を省いているのが、「わかりやすい」からとなる。

このブログで、『レ・ミゼラブル』を何度も取り上げているのは、「フランス革命前夜」という巨大な時代背景があって、さらに、この「革命」のグダグダが、ナポレオンやら王政復古やらだけでない、現代のフランス、ひいてはヨーロッパ(EU)のグダグダにつながっているからである。

すると、作家による冗長な説明を理解することが、じつは「深読み」のもっとも簡単でお手軽な手段に様変わりするのである。
5分冊になっている、「ちくま文庫版」の訳者がこれを別途解説しているのが、西永良成『「レ・ミゼラブル」の世界』 (岩波新書)である。

貧しい生活の中で、姉の子供が飢えて泣くのを救おうと、パンを盗んだことを発端に物語は始まるけれど、「国家権力」の象徴として、「ジャヴェール警部」に生涯をかけて追跡捜査されるという「理不尽」が、王政ゆえの悪行・慣行として描かれる。

蛇足ながら、「革命」に親和的なヴィクトル・ユゴー自身、革命後には「亡命」を余儀なくされて、本作の完成は亡命先でなされたという、グダグダもあるのである。

  

マクロン政権のグダグダも、こうした歴史の延長線上にしっかりあるので、「外交的ボイコットをしない」とした決定も、次が「パリ・オリンピック」だから、という意味不明のグダグダにもなっている。
もちろん、わが国のグダグダ度合いはもっと深刻だから、あんまり他人のことはいえない。

高校の同級生が、校内の売店で「パンを盗んだ」ことで、無期停学になった想い出がある。
これが、「メロンパン」だったために、なんだかマリー・アントワネットの「パンがなければお菓子を食べればいい」という話の方がもっぱらの話題になって、いちおう「レ・ミゼラブル男」という異名をとった。

「ジャン・バルジャン」にしなかったのは、盗んだものが「メロンパン」という間抜けさだったためで、だれも「悲惨な貧困」とは思わずに「同情しなかった」ばかりか、ただの「笑い話」だったからである。
「無期」とはいっても「2週間」程度で「復学」し、本人は自主退学もせずに無事卒業、進学したし、クラス会にも参加している。

この意味で、まことに的確な判断を「皆で」(同級生たちも学校当局も)したものだ。
同級生たちは、「一生の笑い話のタネ」をもらって、学校側は「教育的指導」ということで済ませ、本人の人生に影響はないようにしているからである。

ネットの「妙」に、突然表示される項目があって、それがどういう「アルゴリズム」になっているのか知らないけれど、「へー」と思う「当り」が出ることがある。

昨年といっても1ヶ月前、三重県警の警察官(42歳の巡査部長)が、管轄内の神社で「賽銭泥棒」をしたとして、逮捕・停職3カ月の懲戒処分を受けたところで、同日依願退職したという。
警察は、容赦なく「書類送検」したけれど、「余罪」もあったらしい。

盗んだ額は、「200円」。
余罪は2回のおなじ神社での賽銭泥棒で、1,800円。
あわせて、「2,000円」だ。

しかして、その理由とは、結婚以来10年、「妻に全部の給料」を渡していたが、自分の「お小遣い」をいっさいくれないために、「タバコとコーヒーを買いたかった」と、驚愕の供述をしたという。

すると、給与の指定振込口座が、「妻名義」だったということか?
いまどきの警察で、現金封筒で渡すということはない。

2000円で職を失うことをどう考えるのか?という「命題」が、この「事件」にはある。
はたしてこのひとの「再就職」はどうなるのか?
「私文書」にあたる、「履歴書」の「賞罰欄」に、「停職と書類送検」を書かないといけない。

当然だが、警察組織としては「あってはならないこと」にあたるのだろうけど、「上司」として部下を観察すれば、妻に対して、「少しはお小遣いをあげてください」と指導できなかったのか?

これは、「民事不介入」という問題ではなく、「組織のマネジメント」の問題だ。
10年間も手持ち現金がないことに気づかない「上司」(管理職)こそ、部下を犯罪者に仕向けた「犯人」だといえる。

それに、捕まるべきは本人ではなくて、「妻」ではないのか?
お小遣いがゼロ円では、自力でなんとか工面するということにならないから、他人のものに手を出す「教唆」にならないかと疑うのである。

とにかく何が何でも責任をとらない、という組織は、フランス革命前夜となにがちがうのか?

三重県警に就職したら、ろくな人生にならないと教えてくれる「事件」なのであった。

葬儀の「革命」とは?

わが国では、年々高まる「高齢化」で、年間の死亡者数は130万人を超えているから、月間にして10万人以上だ。
これに、新生児の数は年々減り続け、既に90万人も切っていて、その差が「人口減少」となって現れる。

高齢化の「ピーク」を作り出すのは、いつもの「「団塊の世代」(1947年~49年生まれ)で、この三年間の出生は、ざっと260万人/年超えである。

1947年:約268万人
1948年:約268万人
1949年:約270万人 この3年間の合計:806万人

すると、47年生まれのひとたちは今年75歳となって、あと10年もすると「平均寿命」に達することは、確実なのである。
ただし、おおかた「正規分布」するはずだから、早いひとも遅いひともいて、全員が平均寿命で亡くなるということはない。

もちろん、「厳密」には、これらのひとたちの「実態」が、平均寿命の計算にも影響するから、「そうはいえない」というひともいるだろうけど、おおよその一般論としては、「大間違い」とはいえないはずだ。

それにしても、わが国総人口のうちの6.4%という「かたまり」が、この3年間の「生まれ」に集中していることは、事実である。

「人生百年時代」という「甘言」も、過去のたとえば、70年代を「若者文化の時代」としていたのと同様に、その「巨大マーケット」に対する媚びへつらいである。

この世代の「時代」では、「金の卵」という、カネを生みだす「(若年かつ低賃金)労働力」として「重宝」されたのが常識で、中学卒での「集団就職」という「風習」すらあったのだ。
だから、高校進学だって「憧れ」で、大卒ともなれば文字どおり「エリート」だった。

よくよく意識しないといけないのは、当時のわが国は、「発展途上国」だったという歴史的事実なのである。

その記念碑が、井沢八郎が歌う『あゝ上野駅』だし、ノスタルジックなファンタジー『ALWAYS 三丁目の夕日』であって、自身がなれっこない「高校生」への憧れは「5回(1949年・1957年・1963年・1975年・1988年)」も作られた『青い山脈』で「疑似体験」したのだった。

集団就職が終了しても、夏休みになると「家出」した少年少女を「補導」するために、警察官が特別配置されたのも、「上野駅」であった。
このことも、息の長い「歌」になった理由だろう。

ここが、「東京駅」との決定的なちがいなのだけど、東京駅にも集団就職で上京したひとはたくさんいただろうし、「家出」だってあったはずだろうに。

   

しかし、メタファーとしての「上野駅」が重要なのであった。
それなのに、ただの「通過駅」にした、JRの「文化破壊」こそ、これから記述することの「大問題」の一部なのである。

この時代は、どの家庭でも、「人寄せ」があって、狭くても座敷で宴会をやっていた。
「冠婚葬祭」だって、自宅でやるのがふつうだったけど、都会での婚礼が先に「会館」や「ホテル」になったのは、一堂に会する人数が自宅にとうてい収容できないという理由もあったからである。

それで、一堂に会する人数が親戚縁者だけでよくて、それ以外は道路端のテントでいいとした「葬祭」は、「畳の上で死にたい」という本人の「遺志」もあって、自宅でおこなったものである。
ここで活躍したのが、町内会の婦人会で、その家の台所を仕切るだけでなく、分担してつくった料理を提供したものだった。

これに、近所の魚屋や寿司屋、それに酒屋が加わって、町内の大イベントになっていた。
そしてそれが、「お互い様」でもあったのだ。

とっくに「病院で死ぬ」ことがふつうになったのは、酸素吸入とか点滴やらの各種器機とか薬剤を自宅にレンタルする面倒がそうさせる。
だから、「終末医療」という覚悟があってのことに限定されるので、「末期癌」は「幸せな死に方」になってきている。

「コロナ禍」という「人為」で、とうとう「面会禁止」という、なんでも「禁止」の新しい常識ができた。
人生の最後の時を過ごす、ということが、十分に制限される、という事態になったのである。

五類にしない、という人為も、本人がPCR検査陽性者ならそのまま袋詰めにされてしまうので、遺族は「死に顔」を見ることさえもできない。
むかしは、危篤状態になったら、家族が交代で病室に泊まり込んで「見守った」もので、これを病院も許したのだった。

その意味で、本人の人生への敬意と、命への尊厳を重視していたのは、ずいぶん昔のことになって、「いまは口先だけ」のきれいごとですますことになったのである。

つまりは、「命は大切」というひとほど命を大切にしていなくて、「唯物」的な考え方の「隠語」になったといえる。
その「唯物」は、「materialism」(マテリアリズム)であるから、日本人がかんがえる「物」とは概念が異なって、「材料」から「原子」につながる「物質」の「物」なので注意したい。

そして、決定的に残念なのは、「宗教界」なのである。

良くも悪くも、わが国最大の宗教は、仏教、ということになっているけど、これを、「葬式仏教」といって憚らない巨大宗派の管長がいた。
「科学」による「宗教弾圧」に、キリスト教が最初に「犠牲」になったのは、それ以前の「悪行」からの反動だった。

なんでも「欧米が上で日本が下」という、「思想」が、キリスト教の無様に真似て、伝統的な宗教を破壊したかに見える。
ほんとうは、あまりにもすさまじかった「一向宗」の反乱に懲りた、家康がつくった「檀家制度」が、宗教家を「安逸」の生活に押し込んだのである。

以来、400年。
「コロナ退散」を祈祷も祈願もできないほどに、宗教は堕落し、わが国は「ホッブス」がいう「唯物」を信じるに至った。
これは、「科学信仰」でもある。

それが、「感染予防」という名目で人寄せしない「葬儀」になって、「葬送の儀式」そのものが陳腐化しても、対抗できる能力を失ってしまった。
通夜・告別式というセットから、「通夜」が削除されて、「一日葬」という簡素が費用節約の本音を隠して普及しているのである。

もちろん、「家族葬」という名目で、故人の縁故あるひとも「呼ばない」で済むのは、近所づきあいの衰退もさることながら、寿命が延びすぎて、社会的つながりの希薄さが、これを可能にしているし、なによりも家族自体が「簡素化」したのだ。

すなわち、すべてが「分断」という「一個集中」になっていて、みごとな「(アトム化)革命」が進行していたものを、まさに「コロナの人為」がこれにトドメを刺して完成させようとしているのである。

ここに、なぜ「五類」にしないのか?という疑問の答がある。
とっくに「科学」を利用した、「社会操作」なのである、と。

そんな「変化」を気にせずに、「戒名代」やら「法事」のお布施をむしりとって、宗教が成りたつのも限界に近づいてきていると考える。
超高齢化による「葬儀」の回数は「空前」であっても、このことが却って宗教を「衰退させる」原因になりそうだ。

「先に死んだひとが羨ましくなるほどの悲惨がやってくる」、という「預言」をするひとがいて、「A.I.」が新しい信仰対象になるというひともいるのだけれど、唯物的に「恐怖」が支配しても、「宗教の時代」がやってくることはなさそうだとみる。

そのうち、「葬式」すらやらない社会になるやもしれぬ。

新バージニア州知事の逆転

昨年の州知事選挙で、「大どんでん返し」をやって話題になってから、その後の動静がぜんぜん報道されなかったのは、大手(左翼)マスコミから、無視されていたからかもしれない。
アメリカのマスコミが伝えないものを、日本のマスコミが伝えるわけもないので、「沈黙の勝者」とも言われていた。

15日(日本時間で16日)、「そのとき」がやってきて、就任式が執り行われ、その直後に「知事行政命令:9本」と「行政指令:2本」の、一気に11本も署名して即刻発令した。

なんだかバイデン氏が、就任式の後に50もの「大統領令」に署名して、トランプ氏の政策をひっくり返したのに似ている。
ちなみに、日本人のイメージでは、知事行政命令は大統領令に比べて「格下」に見えるけど、州民にとっては「おなじ」なのが「合衆国」だ。

それに、ヨンキン氏の経歴も、「ビジネスマン」だったトランプ氏と同類とされて、トランプ氏は不動産オーナーで、ヨンキン氏は世界最大規模の投資ファンドの社長だった。
もちろん、人生初の立候補でそのまま初当選したのも似ている。

そんなわけで、日本のマスコミだったら「行政手腕が問われる」とかなんとか書くのだろうけれど、ほんとうはそんなものはどうでもいい。
組織の「マネジメント」ができれば十分なのである。

しかして、わが国には「マネジメント」ができる、企業経営者も政治家もいないから嘆かわしいことになったのである。
これは、「マネジメント教育」がないためで、おおくの場合が、行政の役人にマネジメント「されてしまう」からである。

さてそれで、ヨンキン氏が「奇跡的」な勝利をおさめた理由は、「争点」が「教育」だったから、といわれている。
それは、「州内」で起きた「事件」が、選挙途中で争点になり、ふだんから左翼的な志向の有権者が、自分の子供をイメージしたとたんに「保守回帰」したからだ。

この事件とは、公立高校の校内トイレで、女子生徒がふだんからスカートを着用している「自称女子」に性的暴行を受けたことをいう。
さらに、学校側の説明会に出席した被害者の父親が、学校の責任を追及したら、待機していた警官に逮捕され、そのまま2週間も「拘束」されてしまったのである。

挙げ句に、その間に、加害者の生徒は秘密裏に州内の他校に転校となってしまったが、なんと転校先でも「おなじ手口」で事件を起こしてしまったことを、こんどは転校先の学校が「隠蔽」していたのがバレたのである。

選挙序盤では圧倒的な強さを示したのは、元職の民主党候補だったけれども、民主党が、親に子供の教育に関与する権利はない、と公式に主張していることに「賛同」の意思表明をしてから、様子が変わったのである。

対するヨンキン氏と共和党は、親に子供の教育に関与する権利があるのは当然としているし、学校教育において、政治的な「差別的人種論」の禁止を求めている。
当然だが、民主党候補は「継続・強化」を訴えた。

「差別的人種論」とは、アメリカ建国の歴史に遡って、白人による黒人支配の「原罪」を問うもので、未来永劫、白人は黒人に「謝罪」し黒人が優位な社会にしなければならないと「教育する」ことをいう。
国民の人種的「分断」を図る、共産主義の典型的手法だ。

これらのことが、長年民主党が支配してきたバージニア州を共和党に転換させる原動力になったのである。

実際に、アメリカでは州や郡レベルでの「公職」の多くが、「選挙」で選ばれる仕組みになっている。
それに、ふつうの「国家」にあたる「州」は、州知事だけでなく副知事や州司法長官、州務長官なども選挙で選ばれる。

バージニア州での「どんでん返し」は、これら重要ポストの選挙も全部が共和党の勝利になったことだ。

知事行政命令が発令されたこともしかりだが、司法長官も就任後すぐさま、知事と「連携」して、上述の「事件」についての「再調査」を行う旨を宣言した。
これには、州仮釈放委員会の調査も含まれる。

州法では、被害者への報告なくして加害者の免罪措置をしてはならない、という規定があるけど、これが護られていないことの「調査」だ。
知事は、教育委員会についても、別途専門スタッフを就任させて、事件への対処だけでなく「根本的」な改善を図るとしている。

それが、子供にマスクを着けさせるかどうかは「親が決める権利」だということで、これまでの「学校の権利」を取り消した。
州経済についても「正常化」をとなえており、ロックダウンなどの措置はとらない、とした。

「州」に国家レベルの権限があるのは、「善政競争」という概念があるからで、どこに住まうも移動するも「自由」ということと相まって、悪政の州からの住民移動を「よし」としている。

それが効果で、2020年の国勢調査によると、カリフォルニア州やニューヨーク州の人口が30万人以上も減って、テキサスやアリゾナ、フロリダ州が増加したのは、国内「難民」が民主党の州から共和党の州へと「退避」して居住地を変えたからであると分析されている。

連邦下院の議席数は国勢調査に従う「人口割り」の規定になっているので、カリフォルニアとニューヨークの議席が減って、テキサスなどの議席数が増えることにもなる。

選挙公約を就任当日に一気に果たしたのは、当選後の2ヶ月間でつくった「州知事内閣」が機能して、すっかり準備を整えていたことを示している。
これが、「ビジネス」における「マネジメント力」の有無による「ちがい」なのである。

やられたら「やられっぱなし」

人気ドラマ『半沢直樹』の決めゼリフが、「やられたらやり返す。倍返しだ!」だった。

この「幼稚園児」が言いそうな言葉に、当初違和感があったけど、何度も見聞きしていくうちに、「無感覚」になるばかりか、水戸黄門の「印籠」のごとく、どのタイミングで「言うのか」に興味が移った。

つまるところ、視聴者の「幼児化」という策に「まんま」とはまっているわけである。

やられたらやり返す、というのは、難しい言葉にすれば、「意趣返し」である。
これの究極が、「仇討ち」ということになる。

世の中が「単純」で「素朴」であったけど発展していた江戸時代には、「仇討ち」も高度化して、「許可証」の有無が、犯罪と正義の境界線になっていた。
つまり、「私怨」は「法」として許されず、「公(おおやけ)」の仇討ちこそが「名誉」となったのである。

もちろん、「公・私」に関係なく、相手によって「返り討ち」されることだってある。
それでも、「仇討ち」を実行して死んだということの「名誉」は残った。

この「名誉」の価値が、「家(名)」の価値だったのである。
個人は連綿と続く組織としての「家」に属するので、「家名を穢す」ことは許されない、という「制約」がもっとも身近なものであった。
なお、「けがす」が、「汚す」でなくて「穢す」なのは、「神仏に対して」も含むからである。

封建制の世の中が「単純」だったことの理由のひとつに、「身分社会」という常識があった。
人々は、自分が属する「身分」の中で生きていたので、他の身分の出来事はある程度無視できた。

これが「単純」な社会を作ったのである。
だから、身分が取り払われると、社会は必然的に複雑化する。

そして、身分社会では「ない」のに、持てる者と持たざる者の「差」ができて、持てる者が持たざる者を支配するということが「暗然と」行われれば、その複雑性が内向きにもっと増すのである。

この意味で、共産主義は、持たざる者の政府になるという「複雑」が、一方で「かつての」持てる者を「排除」しながら、持たざる者の内輪における「複雑」も増させるのである。

メカニズムとして、共産主義は思想「だけ」ではないからである。
一般的に、「マルクス・レーニン主義」と言われる理由がこのことを指すのだけれど、一般人は用語としてだけを聞いていて中身をしらないものだ。

思想は、「マルクス主義」のことをいう。
そして、重要なのが「組織化して革命を実行する」方法を「レーニン主義」というのだ。
この「方法」が、「まずい」のである。

レーニンは、「革命のため」という理由があれば、「なにをしても正当化できる」という無茶苦茶を「理論立てた」のだ。
この「なにをしてもいい」には、殺人も含まれる。
「生きている人」も「物」として考えるのが、「唯物論」なのである。

そんなわけだから、政治権力「すら」持たざる者は、完全に支配される身分に「固定される」のは、その世代だけのことではない。
政治権力を持つものは、必ず自分の一族を優先させて「固定化させる」から、ポストを独占するのも必然なのである。

こうして、支配される者は、やられたらやられっぱなし、という身分に永遠にとどまる。
全員が平等の共産社会に、「格差」がないとは、支配される者の階層のこと「だけ」をいうのである。

無論、支配する側には、権力闘争という別次元がある。

これに比べたら、民主主義の方は、ずっと「流動的」だ。
このことが、たとえ表向きであっても身分制がない社会の場合に、民主主義に代わる「ベター」な制度が見つからない理由であるし、旧東側諸国のひとたちが、「反共」で一致する理由でもある。

やっぱり、やられたらやり返す、という可能性を排除していないことに「魅力がある」からだろう。

さて、スエーデンという小国で、この国を代表する大手新聞社が、「反省」の大見出しを掲げた記事を出して話題になっている。

この2年間、自社の「コロナ報道」について、政府発表の数字や対策「しか」書いてこず、新聞として「政府に批判的な情報」を読者に提供しなかった、ことへの「反省」だという。

それは、政府が発表する「感染者数」の「根拠」とか、「対応策」の第三者的立場(たとえば「科学」)からの「妥当性」とかという、生活密着の「重要情報」であるから、これを読者に提供しなかった、ことの「反省」に読者が驚いているという。

もちろん、もっと驚いているのは「政府」であるけれど、「プロパガンダ機関ではない」という新聞社としての歴史的宣言となっている。

さては、「なにを今更」という「国内読者」からの意見に対して、各国からのコメントが寄せられていて、それぞれの国の「ダメさ加減」大会になりつつも、「ニューヨークタイムズよりはマシ」という意見で締め括られている。

きっとニューヨークタイムズの読者が投稿した、「意趣返し」に違いないけど、世界中に「いいね!」という輪が広がっているのに、ニューヨークタイムズは「沈黙」するしかないという体たらくを、これまた世界に示しているのであった。

日本語の特異性から、日本の新聞社が「やり玉に挙がらない」のは、「ローカル」の証拠で、それだけでも「意趣返し」にはなるかもしれない。

果たして、ニューヨークタイムズの発行部数の「倍返し」になっている。

「電子ペン」のあれこれ

紙を減らしたいから電子化をする、というのは、ヘンだと思う。
便利で効率がいいから電子化をしたら、「ついでに」紙も減る、という順番でないとおかしいからだ。

「紙を減らしたい」という優先づけには、あたかも「地球環境にいい」という根拠希薄な「言い訳」があって、なんだか「いい子になりたい」という幼児性を剥き出しにするので「気持ち悪い」のである。

そもそも、森林を伐採してはならない、という刷りこみがある。
大規模な伐採で、環境が悪化する、という事象は確かにあるけど、それが全地球的危機だというのはいかにも大袈裟で、インチキ臭い。

国土の7割が山地で、それがそのまま森林であるわが国は、ほんとうなら、かなりの「資源国」のはずなのに、「林業」が成りたたなくなって久しい。
これから「花粉」の季節がやってくるけど、わが国の森林を「杉だらけ」にしたのは、「自然」ではなくて、「儲けるため」だった「はず」なのだ。

せめて、成木になるまでの時間は、間伐材を現金化するのが、ひと世代分以上の時間を要する「林業」として重要なのだけど、杉の割り箸すらも使わずに、プラスチックで洗浄の手間がかかるものを「エコ」という、鉄道会社系の「駅ソバ」なんかは、この意味で犯罪的な環境破壊をしても「自慢」をするようになった。

もちろん、「家」にしても、「鉛筆」にしても、つかう木材は外国製と決まっていて、とうとう「バイオマス」という言い方で、木を燃やすようになった。
このときの「木」とは、「木くず」のことだというけれど、木を細かく切ればどれもみな「木くず」になる。

そんなわけで、便利だから電子ペーパーを使う、ということになったら、電子ペンの「書き味」が、次の問題になるのである。

いわゆる「タブレット」でいえば、「iPad」の完成度は高いのだけれど、やっぱりバックライトでの「眼精疲労」に辟易するのである。
それが、「E-INK」の「電子ペーパー」を使う最大の理由で、なんでもPDFにする『クアデルノ2』(A4版)を選んだのだった。

パソコンとの「同期」は、単独で出来ないという手間があるけれど、同期先を「クラウド」にすれば、「iPad」との連携も簡単なので、あまり気にしていない。

電子版がなかったり、図書館の貸出で「紙の本」でなければならいことがあるので、この場合の「読書ノート」は、手書きでつくることにした。
どうしてもの場合は別だけど、非破壊スキャンが面倒だからである。
それに、手を動かすのは、記憶に残すという効果もある。

しかしながら、大部冊の書籍の読書ノートもページ数が増えるので、後から読むのに面倒だ。
それで、iPadの『リキッドテキスト』というアプリ(有料版)に流し込んでしまう方法が気に入っている。

手書きのノートを、原形のPDFにするのである。
『リキッドテキスト』でまた書き込んだものも、PDFに保存できるから、それはそれで、『クアデルノ2』に再度取り込めばいい。

このアプリは、長文を読んで、論理の構造を理解するのに役に立つ。
なので、この作業ではバックライトを覚悟するしかない。
「E-INK版のiPad」が欲しい最大の理由がこれだ。

「アンドロイドのE-INKタブレット」は既に世の中にあるけれど、残念ながら「アプリ」の遣い勝手が比較にならない。
動画視聴は無視して、読んで書くことに特化したデバイスがないと「困る」のである。

そのiPadの弱点は、アップルペンシルで「書く」のに、「ペーパーライクフィルム」を別途購入して画面に貼らないと、どうしようもない「書き味」となることで、逆に、このフィルムは、トレーシングペーパーのようなものだから、素晴らしいディスプレイの発色を制限することになる。

優先順位は、「書くこと」なので、「ペーパーライクフィルム」を貼ることに躊躇はない。
一方で、『クアデルノ2』には、「書き味」が考慮されているので、最初から紙のようにザラザラしているのが特徴だ。

付属の電子ペン(『クアデルノ2』から電池不要になった)は、驚くほど「チープ」なペンだが、ペン先の書き味は悪くない。
そこでドイツ、ステッドラーの『ノリスデジタルジャンボ』を、ボディーの書き良さそうなイメージから購入した。

三角軸で1.3ミリの超太シャープペンを持っていて、愛用していたからである。
左がデジタルペン、右がシャープペン。
デジタルペンの尻にあるのも、シャープペン同様に「消しゴム」機能になっている。

 

『クアデルノ2』との互換性でいうと、『ワコムONE』で使えることが条件のようだ。
すると、「鉛筆型」では、以下の二種類があって、さらに『三菱鉛筆9800』という緑色の「あれ」もある。

なお、ステッドラーの方は「新品」を削った「長さ」が長すぎるという不評だ。
ハイユニや9800は、使いこなした「長さ」という設定になっていて、木部の材質は、「本物」の鉛筆とまったくおなじである。

  

さて、書き味の「好み」という点で言うと、「ペン先」の材質によるようだ。
ポリアセタール樹脂(要はプラスチック)と、エラストマー(ゴム様のフェルト)に大別される。

樹脂はボールペン的、エストラマーはサインペン的な書き味となる。
画面を傷つけないために、ペン先は自身が削れるようにできているから、「替え芯」がひつようになるのは、アップルペンシルとおなじだ。

ステッドラーは、「ジャンボ」だろうが一種類の交換芯だけでエストラマー製。
三菱鉛筆は、デフォルトで、ハイユニは樹脂、9800はエストラマーだけど、互換できて「ハイユニ」には本体購入時に3本の樹脂交換芯が付属している。

これが9800との値段差なので、本体の値段はおなじなのが「電子」だ。
ワコムの「特許」が大元なので、様々な筆記具メーカーが、オリジナルデザインで出してくれるとうれしい。
なぜかドイツ人は「お好き」のようで、「ラミー」が万年筆様のデジタルペンを出している。

さては、電子ペン沼?

プラスチック文明を破壊する

大不評の「レジ袋有料化」は、国民に負担を「強いる」ものなのに、「法律」がないままで行なわれていた。

役人が勝手に決める、「省令」を変える「だけ」で実施されたのだ。

もちろん、「省」のトップは「大臣」で、その下には「副大臣」とか、「政務官」とかいう「国会議員」がいるけれど、首相の意向で大臣を民間から呼ぶこともある。
ましてや、「国会議員」が就く役職だからといって、それ「だけ」で、国会の承認を得る、ということにはならない。

つまるところ、「省令」でレジ袋有料化ができるのは、「国会」が機能していない証拠なのである。
国会が決めるべき事を、役人に強奪された、と考えるのが民主主義のルールとして「ふつう」だからだ。

そんなわけで、昨年6月4日に、「プラスチック資源循環促進法」が成立した。
一種の「追認法」であるから、「追認」と後ろ指をさされることがないように、「屋上屋を架す」がごとく、「対象範囲を拡大」した。

そもそもが、2020年(延期になった21年ではない)の「東京オリンピック」に、外国人が「大挙して」やってくると勝手に考えたことでの先進国としての「見栄」が、レジ袋有料化の話の発端だった。
発想が「韓国風」な貧弱があるのは、こうした発想を、ほんとうは日本が大好きな韓国が真似るからである。

嫌い嫌いも好きのうち。

それにこの考えが、最初からヘンなのは、コロナでなくとも、外国人観戦者が大挙してやってくる訳がない、ということだ。

オリンピック「観戦チケット」の外国人販売「枠」が、そんなにあるはずがないからである。

もちろん、「地球環境のため」とかという世迷い言に欺されてはいけないのだけれども、知能が低い「保守派」は、あんがいとコロッと欺される。
要は、「お人好し」ということなのだ。

このことを、「利用されている」ことにも気づかない。

地球環境が人間によって破壊されている、と言っている人間がいる。
このひとたちの、人間性を疑うのは、「正義を押しつけるのに容赦がない」ことだ。
これは、「フランス革命」時の、一般人をギロチン台へ送り込んだ論理とおなじことに気づかないといけない。

そしてそれが、「恐怖」を生んで、社会全体を支配することを目論む独裁者に利用された。
ヒトラーしかり、スターリンしかり、毛沢東しかりで、カンボジアの「クメールルージュ(ポルポト派)」になったのである。

「プラスチック」のことを、日本語で「樹脂」というのは、石油から作られるからである。資源としての石油の重要性は、「原材料」になることで、ただの「燃料エネルギー」ではないことにある。
石油や石炭などの天然エネルギー資源は、太古のむかしの「植物」だったから、その「樹」の「脂」ということだ。

最近になって、エネルギー危機が逼迫したという「苦し紛れ」で、ヨーロッパは「原子力」も再生可能エネルギーに「加え」て、これも「SDGs」だと真顔で定義して決めた。

要は、どうでもいい、のである。

それで当然ながら、放射性物質の危険(ウラン濃縮、発電中、廃棄物処理とえらく長い期間:10万年を要する保管)という方向からの「環境問題」をいうひとたちが「納得しない」ということになって、「分断」を深めている。

「天然ウラン」も、そのままでは「燃料」にならないので「濃縮」するし、発電中の危険はフクシマで明らかになった。
廃棄物については、これから10万年もして人類が科学技術を「進歩」させたら、「うまい方法」をみつけるだろうという可能性に依存している。

なんでそんなに時間がかかるのか?といえば、放射能の半減期間を「人為」で速めるなり、放射線を無害化する「原理」が、当分の間(おそらく向こう10万年ぐらい)みつからないだろう、という「予測」があるからだ。

『宇宙戦艦ヤマト』の、イスカンダルなる惑星に、「ワープ航法」を繰り返しながら、放射能除去装置を受け取りに行くことの方が「現実的」かもしれない、という程の、「厄介」なのである。

はたして「それに比べたら」、プラスチック問題とは、ちゃんと「ゴミ箱に捨てる」ということと、しっかり「燃やす」ことで解決する。
「無害」が証明された、ダイオキシンを気にするのは、マスコミ「洗脳」されている証拠なので気をつけたい。

横浜市資源循環局(むかしは「清掃局」といった)は、「燃やすゴミ」と「プラごみ」を、市民にしっかり分けさせていて、燃やすゴミの主たる「生ゴミ」を燃やすために、A重油や都市ガスなどの「資源」を使って燃やしていて、決して「プラごみ」を一緒にして燃やさないことを「自慢」するから、工場見学の小学生が「?」になって、おとなを信じるとロクなことにならないという教育効果をあげる、「世代間分断」の促進に貢献している。

「ダイオキシン問題」がかまびすしいときに、市内のゴミ焼却炉を億円単位で改修して、プラスチックからの有害ガスを発生させない高温燃焼に対応したという説明もしている、のに、であるから、ちゃんと係の話を聞いている小学生ほど、「?」になるのである。

しかしながら、そうはいっても、「法律」ができて、14日、岸田内閣は対象品目などを閣議決定した。
まさに、国民生活を痛めつける、国会と内閣の共同作業が4月1日からはじまる。

レジ袋の関連からか、「コンビニ」のストローやスプーン・フォークの話が多いけど、ホテルの「アメニティ」や、クリーニング店のハンガーとか、引き渡し時のビニールカバーといった、生活密着への「嫌がらせ」がスタートする。

ホテルなどの「アメニティ」に注目すると、「世界標準」は、せいぜい「シャンプー」と「リンス」ぐらいしか部屋にない。
これは、「エイズ」が流行したことでできた「業界標準」だ。
歯ブラシやカミソリは、「自分のもの」を持ち歩く、というのが「世界標準」の旅行者の常識になったことを「受けて」のことだ。

この常識が「ない」のが、わが国の「業界」である。
それは、日本人「客」にエイズ対策の常識がない、という「幸せな」意味であった。

だが、歯ぐきから出血する歯ブラシや肌が切れるカミソリであっても、「無料」を魅力として、それが競争力に変化する、「貧困な思想」がこれを支えていることが「なくならない」ことが大きな理由だ。

提供側は、とにかくコストを削減したいから、どんどんシャビーになるのだけれど、「手ぶら」同様で旅行ができることに「便利さ」を感じるひともいる。

そんなわけで、日本の宿泊施設からアメニティが消える、という世界標準は、30年遅れの「別次元」が理由となって達成されることになりそうだ。

なにせ、「有料ならいらない」という客のこたえが、これまでの「貧困な品質」を証明するからである。
とすれば、どうやっていまの「在庫」を3月末までに消化するか?が、直近の経営課題になるのであった。

まさか、従業員に配ってしまって「プラゴミ」削減をするかもしれない。

終末の人工「ブラックホール」

世の中にはたくさんの「終末論」が言われている。
ほとんどが、伝統的「宗教」からの「終末論」で、その宗教とは、『聖書』を元にする、ユダヤ、キリスト、イスラムの「最後の審判」と「復活」の思想を根拠にしている。

世界が終末を迎えると、天使が吹くトランペットの音を合図に、過去の死者たち全員が、全知全能の神による「最後の審判」を受けて、「天国」に行くものたちが「復活」し、そうでない「地獄」に行くものは「業火に焼かれる」ことになっている。

だから、これらの宗教では、「死んだら必ず天国に行く」ことはないし、この世で善行を積んでも天国へのパスポートを神からもらえる確実性もない。
仏教のこの世での「修行」と「輪廻転生」の考えが混じり込んだ日本人の、宗教的ご都合主義をあてるのは間違いだ。

「中間」がない「二択」、というのも忘れがちな重要事だ。
ただし、選択するのは神であって、自分は「まないたの上の鯉」同然だ。
この意味で、「ゾンビ」はあり得ない。
元は西アフリカの「ブードゥー教」で、『聖書』とは縁もゆかりもない。

なので、『聖書』の宗教を信じるひとたちには、絶対に「火葬」はあり得ない。
「復活」のしようもないばかりか、全員を最初から「焼いてしまう」のはあんまりだ、という考えがあるからだ。

そこで、絶対的必須要件が「土葬」なのである。
ちなみに、人類最古の経典宗教、ゾロアスター教は「鳥葬」だ。
中東アラブやらの地域なら、その乾燥した気候によって衛生問題は回避できるけど、そうでない地域ではそれなりに問題になる。

ヨーロッパの料理に使われるハーブのひとつ、「ローズマリー」には、独特の芳香があるけれど、この植物があちらの「墓地」によく植えてあるのも、「臭い消し」の効果からだという。
だから、プレゼントとして、ローズマリーのタネやら苗を他人に贈るのは、立ち止まって考えた方がいい、ということになる。

日本だと、「彼岸花」がこれにあたる。
ただ、彼岸花は「球根」から生えるので、毒抜きをすると「緊急食料」になる。

縄文時代から食されていた、「栃の実」を食べるための工程は、おどろくほどの手間の連続で、なかでも「あく抜き」は流水で1週間という時間も要する。
なので、地方の山間部に行くとある、素朴な「栃餅(とちもち)」は、いまどきの家庭で拾った実から簡単に作れるようなものではない。

すると、縄文人がこの実を食べられるように「する」のに、いったいどんな時間と工夫を要したのか?
なんだか、必死さが伝わってきて、おそらくその食べるための完成した方法は、あっという間に伝わったのではないか?

これが、「栃の木」がある地方に共通の「お土産」となっている。
「どこでも見かける」のに、そんなことに想いを馳せてしまうから、ついうっかり買ってしまう自分がいるのは、縄文の血なのか?

『2001年宇宙の旅』のように、一気に時代を「現代」に飛べば、「物質のなり立ち」の研究から、スイスとフランスの国境をまたいで作られた、ドーナツ型の加速装置(LHC:Large Hadron Collider)がある。
作ったのは、ヨーロッパ共同原子核研究機構(CERN, セルン研究所)だ。

地下100mをくり抜いて、山手線とほぼおなじ距離のトンネルがそれだ。
ここでの「実験」で、陽子と陽子を光速近くまで加速して衝突させたら、「素粒子」が飛び出す、という成果があった。

「理論」を「実験」で確認したのである。

けれども、人間の探究心は「無限大」なので、その次、その次、ということに終わりはない。
終わるとすれば、物理学の最終目標、「統一理論」が完成したときになる。

「統一理論」が完成すれば、「宇宙のすべてが解明される」というけれど、本当なのか?
また新しい「謎」が出てくることはないのか?と疑ってしまう。

それでもって、「危険な実験」だとして、「裁判」で中止を求める訴訟も起きているのは、「人工ブラックホール」をつくる実験のことである。
この件は、故ホーキング博士も「懸念」を表明していて、その危険性に言及していたのである。

「光」を含めたすべての物質を吸い込んで、いったん吸い込まれたら二度と出てこられないのが「ブラックホール」なので、「極小」といえども、いったん生成したらどうなるのか?

博士いわく、周辺の物質を吸い込んで、「成長」してしまったら、「地球」すら吸い込んでしまうかもしれないし、「太陽系」すらも吸い込まれる可能性がある、と。
もちろん、「極小」だから問題はない、という議論もある。

だから、やってみないとわからない、「実験」なのである。

つまり、やってみないとわからない、ものに、「やるかやらないか」を裁判所が裁くという事態になっているのは、「科学者同士で決められない」からである。

すると、いったいどんな「法律」が適用されるのか?「以前」の問題として、「科学者の良心」が浮かび上がって、決められないのは「危険を顧みない」一途なので、「マッド・サイエンス」の境界にある。
「未知」ゆえに「知りたい=実験をやってみたい」という欲求との葛藤ともいえるけど。

しかるに、「人類」どころか地球という「天体」も終末を迎える可能性がある問題が、こんな「極小議論」でいいのか?が問題にならない不思議がある。

それは、「知らない」、「知らせられていない」という、もっと別の大問題がそうさせている。

少なくとも、地球環境論議なるものが「吹っ飛ぶ」実験の「可否」なのだ。

世の中には、「取り返しの付かないこと」があるけれど、この実験の「最悪の事態」とは、人間の「神経回路」よりも速く、自身を構成するすべての物質がばらばらになって、ブラックホールに吸い込まれるから、それは「一瞬」のことである。

神経の電気信号が脳に届く前に、脳の物質が崩壊するので「痛くない」ということ「だけ」が唯一の「救い」である。

その後のことは、観察者が存在しない。

美人は得をするものだけど

わが国の「フェミニスト」を代表する、上野千鶴子東大名誉教授が、「女性の外見をブス、美人というのは男性が女をランキングする傲慢だからダメ」だけれども、「男性の評価尺度は多元的で、一番強力なのは金力なのでイケメンというのはよい」と言ったことが物議を醸している。

国立大学で、一方的非難を浴びて、とうとう大学当局が「本学には関係ない」と学長名で突き放したのは、徳島大学名誉教授の大橋眞氏への「非難の同調」として支援者から非難されているけれど、マスコミは一貫して無視を決め込んでいる。

大橋教授は、同大学医学部でずっと「細菌免疫学」の講座を担当していて、定年退官して「名誉教授」を授与されたから、授与を決めた大学側が「無関係」という表明をするほど、無責任なことはない。
そうはいっても、いったん授与した「名誉教授」の称号を、ソ連みたくに「剥奪」もできないから「逃げる」しかないだろう。

細菌免疫学の専門家として、2年も経ったいまだに「病原体としてのコロナウィルスを確認した者がいない」という事実をもって、コロナ騒ぎを、「医学」あるいは「科学」とは別の、「社会現象」として最初に定義した科学的思考をする人物だ。

この意味で、上野千鶴子氏への「東大名誉教授」という称号があるのは、いまとなっては仕方がない。
すると、「現役」の教授として、よくも東京大学に在籍できたものだということになるのは、「名誉教授」の名誉が、「勤続年数」で与えられるからにちがいない。

すると、「社会科学分野」における教授職の「椅子」をひとつ独占したことにもなるので、勤続期間が長いという意味は、他の学者を同職から排除し続けることに「成功した」という意味でもある。

別にこんな深読みをしなくとも、東京大学は北京大学と「提携」していると正々堂々表明しているので、とっくに「レッドチーム」の大学なのだ。
総長以下、さぞや「晴れがましい」にちがいないから、上野氏が現役教授で何ら問題なく、その筋の思想を学生の脳に埋めこんだ成果を「顕彰」して、名誉教授の称号を差し出したのだろう。

だから、東大総長は、「本学とは関係ない」といわない。

上野氏の有名な発言に、「日本人はみんなで貧乏になろう」というものもあったのは、日本経済の衰退を「当然」とした、鋭い分析、のようでもあるけれど、ご本人は都内タワーマンションの上階にお住まいで、なお、高級外車を乗りまわしている日常が、これまた批判の対象となったものだ。

つまり、ぜんぶ「他人事」なのである。
この点が、「上野千鶴子」という「ブランド」を形成している。
すなわち、彼女は決して「フェミニスト」ではなくて、ただの「現状破壊」を目論む裕福な「活動家」なのだ。

さて、「ブス」とか「美人」という評価は、男性が女性にする「だけ」なのか?ということをわざわざかんがえると、あんがいと女性から女性を評価するのに、いちばん「きつい」ものではないのか?と思える。
このあたり、社会学の本筋は、どんな統計的な解析をしているのだろう?

しかも、女性の「それ」は、外見もさることながら、「内面」における評価も含むので、男は欺せても女は欺せないわよ、という強い意志まであるものだ。
これは、いわゆる女性を敵視する「ゲイ」の評価とはちがうことがあるけれども、「ゲイ」の目線の鋭さは、本質を衝く、という意味では確実性があるものだ。

こんなことからも、社会学者としての上野千鶴子教授の「研究成果」は、いったいどんな方法論を用いたものなのか?という基本的な疑問まで、素人が抱くのだから、やっぱり「活動家」だとしか評価できない。

一般的に、動物の世界では、「雄」が着飾る傾向があって、「雌」は地味である。
この意味で、人間には「倒錯」した感覚がある。

だから、男性が着飾るのは決して女性化しているのではなくて、「雄化」しているという「当然」がある。
すると、女性が着飾らないで、地味さを好むなら、それは男性化しているのではなくて「雌化」しているともいえる。

きわめてプリミティブなことだけど、そもそも論からすれば、「生殖」のための「構造」だといえるのが、「見た目」における「雌雄」のちがいとなっている。

すると、「民族」という区分の中で、日本人やその周辺の東アジアにおける、深刻な人口減少に、生命体としての「本能的対応」をしはじめたから、雄が着飾り、雌が地味になってきている、のだとも考えられる。

これに、多くが「美人」だと思う、「美人の定義」とは何か?を考えると、時代や地域によって異なるのは、その地の環境とか、栄養状態とかが影響するというのは納得できる話だ。

たとえば、中東アラブ世界なら、男女とも「豊満=デブ」が好まれたのは苛酷な環境と栄養状態の「豊富さ」をもって価値基準としたからだという。
それが最近では、「欧米的スリム」に取って代わりだした。
つい30年前なら、「スリム=貧弱さ=貧困層」という社会評価だったのだから、「隔世の感」がある。

太陽の力が弱い「北」の地域では、光の吸収のために肌が白くなって、寒気を緩めるラジエーターの役割をする鼻が高く(鼻腔の容積拡大)なった。
それで、穀倉地帯では、人口確保のために女性が美人に進化したという説がある。

ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ、ポーランドあたりがその地域にあたるけど、年月による「血の交わり」で、中央アジア(シルクロード)には「絶世の美女」も現れる。
その一例が、楊貴妃で、隋帝国をたった二代で滅ぼすことにもなったのである。

ところが、美人なのに自分が美人だと認識しない(できない)ひとも国もある。
ベラルーシでは、ファッション・モデルが「国家資格」を要するのは、国家が美人を決めているからで、上野氏が卒倒しそうだけれど、このことのコメントは聞いたことがない。

そういえば、自分が美人だと気づかないひとの悲劇が小説や映画になっていた。
物語の舞台はイギリスだけど、主演のナスターシャ・キンスキー(ドイツ出身)の「美しさ」で有名な、『テス』は、監督、ロマン・ポランスキーもポーランド人であるところが、「ミソ」なのである。

名前に「スキー」が付くのは、祖先が「ポーランド貴族」の証拠なのだった。

  

しかして、容姿とは、人生体験や自己の内面からの感情も「変化」に作用するので、「心の美人」という見えないモノを見る「眼力」が、見るものに要求されて、その見るものの「心の美人」さが、感情としての結論をだすのである。

美人は得をするものだけど、「千差万別」、「蓼食う虫も好き好き」ということになって、他人からどうこう言われるものではない。

「スタン国」の反乱

「中央アジア」という、日本人には馴染みの少ない地域の国々の国名には、「スタン」がついている特徴がある。
蛇足だけれど、「中央アジア」も「東南アジア」も「極東」だって、みんなヨーロッパからの目線での言い方であることは意識していい。

なので、日本目線だと「西アジア」と言いたくなる。

ロシア帝国の化学者にして作曲家、ボロディンの交響詩、『中央アジアの草原にて』(初演1880年)は、日本人にも郷愁を誘う名曲だけど、「ご当地」は、黒海とカスピ海の間にある「コーカサス」(北はロシア、南はジョージア:旧グルジア)の辺りを指す。

「スタン国」は、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタンの6カ国だけれども、キルギスも、こないだ(1993年)までは、キルギスタンといっていた。
なお、新疆ウイグル自治区を「東トルキスタン」と歴史的な表現をすることもあるのは、「トルコ族(今のトルコまで「西へ移動した民族)」発祥の地だからだ。

「スタン」の元は、ペルシャ語で「地域」を意味する「語尾」だという。

アラビア語とペルシャ語は「似て異なる」言語だけれど、どちらもアラビア文字を使って、激しい「語尾変化」をする共通がある。
ただし、ペルシャ語にはアラビア語にない「国字=発音」が4文字あるから、これを綴りに見つけたら、それはペルシャ語だと、読めなくともわかるのである。

なので、アラビア語の文字数28字に4を足して、ペルシャ語は32字である。

なお、アラビア語とペルシャ語のちがいを、外務省は「中国語と日本語程度」と説明しているから、ぜんぜんちがうと言いたいのだろうけど、あんがいと、複雑難解なアラビア語(文語)に「挫折」したひとがペルシャ語に「逃げる」ことがある。

年始早々、「スタン国」のなかの、カザフスタンでエネルギー値上げに抗議した暴動が発生し、あっと言う間に「全国に広がった」から、大騒ぎになっている。

この国は、天然ガスなどの資源国で有名で、今回キルギスに逃れたという、元大統領は、その40年もの施政下で国内ではエネルギーをほぼ「無料」で提供していたから、反動が大きいともいえるけど、世界最大の「ウラン」を産することもあって、暴動の「裏」についてあれこれ噂が広がっている。

もちろん、値上げをせざるを得なくなったのは、国際的なエネルギーの「逼迫」が原因で、輸出すればするほどに「儲かる」ことの余波となったのである。
その大元は、バイデン政権の、アメリカ国内での「シェールオイル・ガス」の開発禁止に端を発したことは、言うまでもない。

ちなみに、わが国でも石油は値上がりしていて、電気代も3割ほども上がっているのは、「痛い」からみんな知っている。
国民を痛めつけることが「趣味」を超えて、主たる「業務」になったわが国政府は、ガソリンの二重課税をやめないことは前に書いた。

しかし、こんなもんじゃないのはかつての同盟国ドイツで、「極端な」脱原発と再生可能エネルギーへのシフトで、メルケル政権の最初と終わりの16年間で、ドイツの一般家庭の電気代は、おびっくりの「4倍」になったのに、ここにきて「6割」も上昇して、ついに「6倍を超える」状況になった。

これは、年率にして「12%以上」もの上昇にあたる。

しかも、なんだか「宿敵フランス」と蜜月になったのは、フランスの原発で発電した電気をドイツが買い取ることで、自国内の原発を停止させたから、「電気のフランス依存」ができたからなのである。

それで、ロシアの天然ガスにも依存して、あたらしいパイプラインをバルト海の海底に敷設した。
これで、すっかりプーチン大統領の言うとおりが完成するのを、バイデン政権が待ったをかけて、その余波が「ウクライナ危機」になるという、すさまじい「風が吹けば桶屋が儲かる」状態になっている。

太陽活動が400年ぶりに「停滞」しているなかで、どういうわけか「地球は温暖化している」という根も葉もない「与太話」にはまりこんだのは、ドイツ人がナチスにはまりこんだ「反省がない」からであろう。
戦後に生まれた「東西ドイツ」は、「新生国家」なのである。

連合軍の「ベルリン宣言」によって、伝統ある「ドイツ」は、「滅亡した」と国際的に「認定」されたから、ここに「歴史の分断」が本当に起きて、新生ドイツはそれまでのドイツとは「関係ない国」として出発したのである。
だから、統一してもドイツは、周辺国に戦禍の謝罪も賠償も一切していない。

唯一、「人道的」として謝罪したのは、「ホロコースト」だけなのである。

実際の観測データで、地球は温暖化ではなく「寒冷化」しているきらいがある。
それでか、は知らないけれど、この冬は寒い。

しかも曇天と雪で、持続可能エネルギーの「エース」だったはずの、太陽光発電がぜんぜん機能しないから、ドイツのエネルギー危機は、生活と産業を直撃しているのに、残った原発の運転を停止させて、さらなる「電力危機」を自分でつくっているから、もはや「自虐が快感」になっているような、変態的な嗜好に陥ったのである。

これを、「信号機」と揶揄された新政権でもやっている。

なお、イギリスでも風力発電が無風でとまって、昨年の「COP21」では、開催中に電力危機になってしまうという、英国らしい「ブラックジョーク」が起きたのは記憶に新しい。

さてそれで、カザフスタンの話である。
地図でみればわかるけど、この国はロシアと4000㎞も国境を接しているけど、なにせ元は「ソ連」だった。
それは、ウクライナも同じで、やっぱりここにも重要な軍事施設がある。

ウクライナには「核ミサイル」をたんまり配置していたけれど、カザフスタンには、最先端の「宇宙基地」があって、上述のようにウランの産出で世界最大なのである。
しかも、国民は「イスラム系」なので、隣の新疆ウイグル自治区問題に、ようやく敏感になってきている。

だから、露中の2ヵ国からしたら、放置すると「まずい」ことになりかねない。
それでか、プーチン大統領は素早くもロシア軍を「治安維持」のために送り込んでいる。

なんと、ウクライナ、カザフスタン、台湾という、「大東亜」に近い範囲できな臭くなってきた。
このほかの「スタン国」の「安定」は、大丈夫なのか?

インドの動向次第では、親中のパキスタンがなにをするやら?

寝た子を起こすようなことは、くれぐれもやめてほしいものである。

人間だけがつくる「基準」

動植物とかの生き物だけでなく、広く宇宙や細かな原子にも「法則」がある。
これを総じて「科学法則」と人間は呼んでいる。

ただし、その法則の主人公たる、動植物とか宇宙とか原子が、この法則を自己認識しているとは限らない。
なので、あくまでも人間が発見した法則「だけ」を、法則と言って、それ以外の「未知」を、見つける努力をしているのも人間だけだ。

たとえば、「最新」の宇宙論では、宇宙は11次元(時間を含む)で出来ていて、われわれが生きている時空の次元を超えた「高次元」は、とても小さくまとまっているから、「見えない」という理屈になっている。

それで、「一個の宇宙」は一枚のパネルのようなもので出来ていて、そのパネルが何枚もあって、これらが衝突と離散とを繰り返しているという。
従来言われてきた「ビッグバン」とは、このパネル同士の「たった」1回の衝突のことを言う、との解釈である。

もちろん、これまで、何回の衝突があったのかはわからないけど、ずっとむかしから何回もあった、と考えるのが「最新」なのだ。

すると、パネルの衝突でできた「宇宙」は、何度も「再生」されるのかしれないので、なんだか、後に「お釈迦様」と言われる、ゴータマ・シッダールタがイメージした「宇宙」に似ている。
そして彼はこれを、「輪廻転生」の概念にしたのだった。

人類が宇宙にロケットを飛ばす時代になってから、最先端の宇宙工学や天文学を勉強すると、おおくの研究者が「仏教徒になる」という話は聞いたことがあるけれど、いよいよ宇宙論が仏教になってきた感じがする。

色即是空、空即是色

ゴータマ・シッダールタがいつ生まれたのかは、諸説あってわからないけど、紀元前7世紀がいちばん古い説で、紀元前5世紀がいちばん新しい説である。
要は、紀元を基準とするイエス・キリストよりか、最低でも500年古い。

「信じる」ことを要求される「宗教」であったものが、「科学法則」だということになると、「話」は変わってくる。

結局は、人間には言語あるため、「話」とか「物語」が「伝わる」のである。
だから「定義」とか、「基準」も、人間「しか」つくることができない。
それがあたかも「法則」の「顔」をしていれば、「法則」になったのだけど、何事にも「行き過ぎ」があって、おかしなことになるのである。

前世紀の終わりから「先進国」では、文明が進み過ぎて、人為である政治と科学法則らしきものが合体して、おかしなことが起きてきた。

このことの「実験」は、人為だけでつくった国家の「ソ連」で経験済みだったけど、西側諸国ではあんがいと知られていない。
その悲惨な末路は、シベリア送りになった科学者の人生の悲惨だけでなく、ロシアになったいまでも、遺伝「学会」の遅れに痕跡が残るほどの「被害」をつくった。

それが、何度も指摘している「ルイセンコ問題」なのである。
独裁者の「政治意図」と、「(エセ)科学」が結合してできた「化学反応」は、社会主義の畑でつくる小麦の優位性という「神話」を無理やり信じこませて、農業に大被害を出しただけでなく、万人単位の死者を出したのだった。

スターリンの政治意図とは、人為的な「人口削減」であったから、見事な「達成」をとげたのである。

こんな「実験」があったのに、半世紀以上がたった西側社会は、見事な「繰り返し」を意図している。
それが、EUによる「グリーン認定」の「基準見直し」である。

まるで悪魔に取り憑かれたような、「地球温暖化」という「エセ科学」に支配されて、「脱炭素」なる、視野狭窄症という病に罹ってしまった。
もちろん「目の病気」ではなくて、「精神病」が原因である。
ただし、この精神病の発症とは、利権がつくる生活習慣病の合併症なのだ。

連合国が決めた「SDGs」の根本にある思想が、地球温暖化対策という欺瞞の政策だから、これを「曲げない努力」とは、嘘の上塗り、しかない。
それで、もっともらしくするために、学術界の権威におカネを払って、政治目的に合致した「見解」を発表させるのである。

このときの「政治目的」とは、「利権」そのもののことをいう。

日米の「二極」に対抗して生まれたのが「EU」で、当時、彼らが着目し研究した「日本の強み」が、勘違いの「官僚制」だったのだ。
それでもって、日本以上に強大な官僚機構(「EU委員会」という)をもってヨーロッパを管理することに決めたのである。

EU委員会は、EU議会の「上位」に位置することが、ミソなのだ。
よって、EU議会の議決は「参考」とされるけど、それ以上でも以下でもない。

もちろん、いまでも旧田中派に「恩義」を表明する、中国のひとたちも、「日本型」の(利権)統治機構を学んで「パクった」のであったけど。

そんなわけで、原発を「グリーン認定」するばかりか、天然ガス発電も「グリーン認定」することにした。
石油より炭酸ガス排出が「少ないから」という理由で、申し訳なさそうに「化石燃料だけど」と言っている。

こんな「グダグダ」なヨーロッパを尻目にして、わが優秀な(文系)官僚機構は、震災以来止めていた原発を稼働させるのに躍起である。
ところが、電力会社が悲鳴を上げだしたのは、「運転要員」の技術者がいない、という深刻だ。

10年で「要員」が劣化する。
文系脳には思いも付かない事態が、現場ではできていた。
しかも、国立大学でさえも「原子力学科」を廃止してしまっているのだ。
経産官僚が、同級の出来の悪さで有名な文部官僚を「叱咤」していることだろう。

ゴータマ・シッダールタは、漢字で「瞿曇悉達多」と書くから、「叱咤」とは書かない。