「お目こぼし」の裁量

人口の8割以上が農民だった江戸時代、「年貢」こそが「税」の根本だった。
この意味で、完全消費者の「武士」を除くと、都市部に住んだ「工・商」に対する税収は大きくはない。

ただ、支配者たる武士も貧乏だったのは、「格式」という「強制」で、「石高」に応じた「家人」を雇わなければいけなかったことによる。
この家人が、いざというときの「お伴」になるのであるから、武士として拒否できるモノではない。

この「制度」の「設計思想」が、世界にも稀な「権限と責任の合致」だったのである。
つまり、武士は政権を担うだけでなく、責任も担うことを「公然のこと」とした。

これを集大成したのが、『武士道』だったから、絶対的権力者たる徳川将軍家をして、ヨーロッパのような「絶対王政」を、自らすすんで不可能にしただけでなく、自分の上に朝廷を置いて、これを崇めたのであった。

これにはまた、世界にはない日本独特の歴史があった。
それは、古代より天皇が詠んだ歌にある、「大御宝(おおみだから)」としての国民があったからである。

このことを、庶民でもしっていたのは、「和歌集」の「御製」にあるからで、家康が農民を「百姓」といったのは、大和言葉を漢訳した意味でのことだったのではないか?

「おほみたから」は、漢字で、「百姓」「蒼生」「衆庶」「人民」「民」といった字が当てられたのである。
つまり、「百姓」とは、蔑視語ではぜんぜんなく、むしろその逆で「リスペクト」の表現だった。

すると、幕府の位置づけは、朝廷と庶民の間にあって、朝廷に代わって「大御宝」を預かるという意味になる。
朝廷と庶民をつなぐのが、各地の「神社」だったので、寺社奉行の地位が高かったのは、支配の機構として重要このうえないことがわかる。

あの織田信長が、「弾正台」の家系を自慢したのも、朝廷の組織にあって、行政の中心たる「太政官」を弾劾できる地位にあったからである。
それは、天皇直属で、太政官の政治が、「大御宝」への統治に失敗したときの保険機構であったのだった。

これが、信長絶頂期にあった、弾正にして右大臣という地位の意味である。
上司に当たる、左大臣と太政大臣を、いつでも断罪・罷免できることの重みは、現代にはない「スーパー権力」なのである。

しかして、そんな信長が、「楽市・楽座」を敢行した意味も、「大御宝」に通じるものだったとかんがえれば、まったく筋が通っているのである。
それがまた、安土桃山時代という、絢爛豪華な時代の背景となる経済繁栄のおおもとにある思想なのだ。

そんなわけで、勘定奉行の配下にあった「お代官様」は、幕府直轄地における「税務署長」であったし、各藩においてもおなじであった。
ただ、支配される側として、なんだか、天領が上で藩領が下とかんがえる思考構造におかしみを感じるのである。

それがわかりやすいのが、京都から電車で10分の大津だ。
詳しくは書かないが、この街を歩いていると、天領という自慢と藩領という後ろめたさが同居しているのである。

さてそれで、年貢の納め時は、代官屋敷に米が運ばれてきて、これを一升枡で計測しながら、あたらしい俵に米を入れていく。
あたらしい空の俵が、「税収袋」になるのである。

このとき、代官は立ち会って作業をみているのだけれども、手慣れた配下の役人が作業のたびに、土間の床に米をこぼすのである。
このこぼれた米は、「穢れた」ことになるので、あとから履いて集めても税収袋には入れずに、農民に持ち帰らせる。

これが、「お目こぼし」だ。

豊作のときにはお目こぼしも増えるけど、不作のときはどうしても厳しくなる。
それで、代官はふだんから管轄地をくまなく見回りして、収穫予想を上司に報告する。

そうやって、勘定方では税収予測をたてないといけないし、代官の側はお目こぼしの許容量を決めていたのである。
なので、地元からしたら「堅物」が赴任してくると困ったのである。

いまは、「大御宝」という概念が政府からすっ飛んでしまった。
これは、戦後教育の成果なのである。

どのくらいの日本文化破壊をやられたのか?もはや想像もできないけれど、古代からの「大御宝」の喪失が、国民生活を苦しめるもっとも基本的な「問題」なのである。

日本政府の役人は、朝廷の役人であることを「失念」したので、誰のための「裁量」かも忘れて、もっぱら役人たちの都合によるから、一般国民を虐めてもなにも感じない。

これを、かつては「悪代官」と呼んだのである。

しかも、代官には「監査の目」が厳しく、まさに「目付」から監視されていたし、その「目付」も、「大目付」から監視されていた。
それでもって、もしも不正が発覚しようものなら、たちまちにして切腹を仰せつかるだけでなく、家門の廃絶という処分を受けた。

もちろん、この「不正」とは、私腹を肥やすという意味だ。

すると、いまの役人は、切腹も家門の廃絶という処分もないので、自由気ままなのである。
たとえば、国家の教育制度を司る役所の事務方トップを務めたひとが、法律違反をして解職されたことを逆恨みして、テレビ放送に出演する不思議がこれである。

これゆえに、末端の「木っ端役人」すらも裁量権を振り回す。
法律のどこに書いてあるのか?と質問しても回答はない。
勝手に立法するなといっても、自身の「解釈」を曲げないばかりか「脅迫」もするのである。

江戸時代が、高度文明社会であって、かくも「退化」したと嘆いても、悪代官様はとりあってくれないのだった。

人間をダメにする「昼呑み」

天気がいいので散歩に出たら、ついうっかり「歩きすぎて」昼食時間帯をはずしかけた。

いつしか、「空腹感」すら忘れていたのである。

それで、腰を据えて「飲食しようと」横浜中心部にある初めての中華料理店に入った。
厨房からの洗い物の音が「小物じゃない」ので、店員さんに問うてみたら案の定、昼食時間と夕食時間のあいだに「休憩時間」があるという。

時計をみたら、まもなく「休憩閉店」となるのであった。
なんだかせわしく、つまみとセットだった2杯目のビールを飲み干して店を出た。

中途半端な腹具合だが、ふだんは2杯もやらないビール腹になってしまった。

それで、横浜人として(さいきんは「浜っ子」とはあまりいわない)、「昼呑みの聖地」とされる、桜木町駅前「ピオシティ」の地下2階の飲食街、通称「ピオ地下」を久しぶりに探訪することとした。

いわずもがな、ことしは「鉄道開業150年」の節目だ。

横浜でもなにかイベントをやっているらしいけど、桜木町駅の変遷についてはあまり語られていないようにおもう。
ただ、JR駅構内には「常設」で、往年の駅の様子が写真展示されていて、小学校の同級生にそっくりな子供の写真もあるから気になる。

もしや?◯◯君では?

なんだか、青森駅の橋上通路にある、「青函連絡船」の思い出写真展示に似ているのである。

東急東横線の廃止に伴う、駅舎の大改修工事で、なんと駅そのものが横浜駅寄りに「移動」した。
いま「北口」といっている、横浜市役所側の改札が、往年の桜木町駅なのである。

ここには、「鉄道開業100年」を記念した、土台に蒸気機関車の動輪を置いた「碑」があって、「落成式」も盛大に行われた記憶がある。

東横線の旧駅舎の解体だけでなく、JRの移転工事によってその「碑」も30mほど、「移転」したけど、わざわざ「ここ」という地図表示と、地面にはオリジナルの跡地と移転先とが点線矢印で示されていた。

いまでも「碑」はあるけれど、そんな「丁寧な扱い」を受けてはいない。

これが、文化破壊をやる「JR東日本」という会社の体質なのであって、これを許す現在の横浜市は、とっくに市民から「乖離」している。
ただし、役人だけが悪いのではなくて、市議会議員の劣化がそうさせているのである。

こうしたことがわかるのは、市議会議員がつかう「敬語」である。
彼らは、役人に対して「謙譲語」を用いるのだ。

おとなとしての「対等」という意味ではなく、役人のほうが序列が高い、という感情表現になっている。
偉ぶればいい、というものではないけれど、なんのための「議会」なのか?についての意識がないことを自己表現している。

それで、とってつけたような「後援」とかのポスター印刷をさせて、あたかも市役所だって関わっているのだ見せるけど、ならば「市役所口」となった駅前の「歴史遺産」を何故にないがしろにするのか?を質問する地元議員すらいないのである。

もちろん、全国で最悪の市民税流出が起きている横浜市にあって、「ふるさと納税」なるめちゃくちゃな「税制」をやらせた、張本人たる菅義偉氏も、この桜木町がある選挙区から当選しているひとだから、有権者の「間抜け」が糾弾されても仕方がない。

市民税の枯渇が、カジノ誘致になって、これを拒否するならば市民は市民税を横浜市に納めよう!という議員もいないのである。

そんなわけで、産業道路の「中州」にできたのが、かつて「ゴールデンセンター」で、いまの「ピオシティ」ビルなのである。
このビルが開業(1968年:昭和43年)してから、横浜市営地下鉄の桜木町駅ができた(1972年:昭和47年)。

なので、「野毛」に行きたいひとは、たいがいがこのビルの横か中を、地下通路で通り抜けることになっている。

東横線の終点だった時代の野毛は、まったくもって「おじさんの街」で、家族で賑わう伊勢佐木町とも、そのすぐ裏の夜の街、福富町ともちがう、より怪しげな雰囲気があったものだ。

これは、京浜急行のガード下に日ノ出町あたりから黄金町まであった、「旧赤線」の名残でもあったけど、新人類的だった中田宏市長によって完全排除された。
よって、横浜からいかがわしい「戦後」の姿がまた薄くなったともいえる。

そのいかがわしさを、これほど「地獄」として描いた映像はないのが、黒澤明『天国と地獄』であった。
若き山崎努の演技が光る。

野毛地区はいまや若者が中心になって、なんだか「おじさん族」には居場所がすくなくなった感がある。
その玉突き状態で、「ピオ地下」は、「聖地」的な要素でおじさんが蔓延しているのである。

まだ明るいうちなのに、どうしてこんなにたくさん呑んでいるひとたちがいるのか?
まったく不思議だが、自分もそのひとりとなって景色の中にあるのだから、妙な安心感に包まれるのである。

こんな時間からアルコールを入れるのは何年ぶりだろうか?と思いつつ、空腹にいれた2杯のビールが効いて、眠くなってしまった。

家に帰ったのは夕方6時前。

ふとんに包まれたら朝になっていた。
こんなことでは、人間がダメになる。
呑兵衛の鉄則は、やっぱり暗くなってから、を痛感したのである。

NY連邦地裁の判決とEU議会

25日、ニューヨーク州連邦地裁が「画期的」判決をくだした。

あのワクチン接種を拒否して、職場を解雇されたひとたちが起こした裁判で、原告勝訴となったのだ。
雇用主には、再雇用の義務と解雇されてからの給与の支払いを命じたが、もっとすごいのは、州が決めた「強制接種」に「違憲」の判断をしたことだ。

つまり、「接種の強制」は、「行政権の濫用」だと。

さらに、形だけのはずの「EU議会」で、これまた画期的な公聴会が開かれて、証言台に立ったファイザー社の国際広報担当役員が、オランダ代表議員からの、「この薬の伝染防止機能は確認されたものか?」という質問に、「そのような機能を確認する実験は行っていない」と答えたことで、

「ファイザー・ゲート」という言葉が生まれて、ヨーロッパで大騒ぎになっている。

対して、接種を煽ってきた大手マスコミは、ファイザー社は当初から「伝染予防効果」について、まったく言及していない、とわけのわからない「擁護」を報じている。

ならば、どうして強制接種する必要があったのか?

各国政府、なかでも「ワクチン・パスポート」なるものを作って、これがないと買い物も、レストランにも映画館にも入場できなくしたことは、単に「強制」するための手段にすぎず、「他人へうつさない思いやり」というキャンペーンも、ワクチン接種させたい「だけ」の話になる。

と、この議員は強調した。

コロナ感染が大騒ぎになった2020年の当初から、ファイザー社の元副社長(技術担当)がその危険性を告発したように、しっているひとはしっている、という状態であっても、だれも「報じない」ことでの接種はすすんだ。

つまるところ、情報操作があったのだ。
だから、しらないひとを単なる「情弱」とはいいがたい。

しかしながら、「いまごろになって」その化けの皮がはがれだしてきた。
残念ながら、世界一の接種率を「誇る」わが国では、その「情弱」も手伝って、善良なる国民は粛々となんども接種を受け入れたのである。

おなじように、わが国の国会でも、この夏の参議院通常選挙「後」に、本格始動した超党派議連で、専門家4人(接種反対派、慎重派、推進派、厚労省担当者)を招聘しての説明会が18日に開催された。

なお、この議員連盟の正式名称は、「子どもへのワクチン接種とワクチン後遺症を考える超党派議員連盟」で、与党議員の参加がほとんどないのは、党からの締め付けか?と疑われている。
与党側が、無視しているために、「真意」がわからないからだ。

ちなみに、この議連の会長には、薬害エイズの川田龍平参議院議員が就任している。
「今後」ではなくて、「いま」をかんがえても、「薬害」の懸念が強いからである。

厚生労働省は、ほんとうに日本国民の厚生のために存在しているのか?が疑わしい状態にある。
これは、「設置法」のうえでも「違反」となる懸念があることを意味するから、「存在意義が問われる」という深刻さになるのである。

組織として、その存在意義が問われることになるのは、役所も民間も問わない。

京セラの創業時メンバーで相談役だった伊藤謙介氏は、「経営理念が希薄になったとき、企業組織の命運も尽きる」という言葉を残している。

この言葉の深淵を理解するには、「修羅場経験」が必要だけど、それだけでは「十分」ではない。
「修羅場」の原因分析ができるか?できなかったか?が分岐点になるのである。

もちろん、ここでいっている「経営理念」とは、その組織の「存在理由」を指すから、なにも企業組織という営利団体だけを指してはいない。
むしろ、「すべての組織」に通じる洗煉されたことばゆえの、迫力がある。

「すべての組織」とは、たとえば、町内会や自治会、あるいは学校の部活にもあてはまる。

政治なら「近代政党」も、あるいは、上述した「議連」も、「組織」である。

組織の成立についての定義は、わたしはチェスター・バーナードの「二人以上の人々の、意識的に調製された活動または諸力のシステム」がもっともシックリくると書いた。

よって、「理念が狂う」と、組織は暴走してとうとう自滅するのである。
これが、「命運も尽きる」という意味だから、じつに恐ろしいことを「サラッと」表現している。

「自分は理念経営なる硬直したものは嫌いだ」と公言していた、とある人物が、結局は「ハラスメント」を理由に、組織から追い出されてしまったのを目撃したことがある。

このとき、この人物がじっさいにハラスメントをしたのか?しなかったのか?の事実関係は、ある意味無視されて、組織からの「排除」こそが目的になったのである。

このようにみると、日本政府は大丈夫なのか?という巨大なはなしになる。
もちろん、その責任は「政権党」である、「与党」が一番重い。

NY連邦地裁の判決とEU議会での出来事が、大騒ぎになっているのは、「英語圏」あるいは、「英語を解する地域」における、情報の「拡散」があるからだ。

それでまた、Twitter社を買収した、イーロン・マスク氏は、意図的(政治的)情報操作をしてきたとして、経営陣を全員解任・解雇した。

はたして、トランプ氏の「Twitter復帰」はあるのか?
中間選挙目前の、英語圏における「大サプライズ」になるかもしれない。

知らぬは日本人ばかりなり、ともいかなくなるのは、時間の問題になってきた?

自殺願望の宗教

「旧統一教会」という宗教団体は、「現・世界平和統一家庭連合」になっていて、あんがいと「国連」の正式サポート団体なのだ。
もちろん、「国連」を権威づけるものではないし、「国連」に権威があるはずもない。

なんでも、安倍晋三氏を狙撃した「らしい」ひとの母親が、この宗教団体に多額の寄付をしたことが、「風が吹けば桶屋が儲かる」の論法で、犯行の「動機」になっているらしい。

けだし、容疑者とされたひとは、ただいま精神鑑定中なので、なんだか話が先走っていて、例によって例のごとく、マスコミが張り切るほどに「嘘の匂い」がプンプンするのだけれど、読者のみなさんはいかがおかんがえだろうか?

もっとも、鑑定によって精神に異常があるとなれば、「風が吹けば桶屋が儲かる」論法も、本人が思いこんでいたとしても不思議でなくなる。
ただ、だからといってあの銃撃が「ホンモノ」だったことの証明にはならない。

救急で診た医師団と、県警の解剖結果の相違が、あまりにもあんまりだ。
銃弾がまるで自動制御されているかのように、弾道が曲がって飛んだほどの「相違」なのに、この詳細を報道せずに「宗教団体」の「異常」を報じていることに、おおいなる違和感があるのだ。

なお、このことを指摘して国会質問しようとした青山繁晴参議院議員に、警察庁高官が「議員のためになりませんよ」と脅迫したことが、青山氏本人が曝露して、謝罪を得たという。

ただし、青山氏はこの不届き者が誰であったかを「武士の情け」として、秘匿している。
青山氏は、武士なのか?それとも相手を武士として認めているのか?が不明な、なんだか元共同通信記者というお里がしれる話になっている。

対して、物理学者が「複数狙撃犯説」を、「音声解析」と「画像解析」を根拠に詳細な主張している。

銃弾の角度から、最低でも2人か3人の狙撃手がいて、指揮官を入れれば4人とかんがえられ、ただいま精神鑑定中のひとが撃ったのは二発とも「空砲」だとしている。

なんにせよ、元首相の暗殺という歴史的大事件の捜査に、野党の政治家もマスコミも突っ込まない「闇」がある。
もちろん、捜査当局が捜査しない、という状況は、アメリカにおける政治的行動をしているFBIとおなじで、さすがは日米同盟、だ。

とはいえ、情報がない、状態なので、本件は「わからない」から、わかるテーマとして、「宗教問題」をかんがえたい。

いま、世界の先進国と呼ばれる国々で、「脱炭素」よりも進行して成功しているのが、「脱宗教」なのである。

たとえば、「建国の理念」にキリスト教があるのは、アメリカ合衆国だし、その元宗主国の英国も、「イギリス国教会(聖公会)」の国だ。
イタリアは当然にカソリックで、ドイツはプロテスタントと相場は決まっている、とおもわれてきた。

しかし、おそるべきスピードで、「脱宗教」が進んでいるのである。

これが、「同性婚の許容」であり「LGBTQ」になって表面化しているのである。
つまり、伝統的宗教観を基点とすれば、「ありえない」ことが、堂々と主張されて社会が許容していることこそ、「脱宗教」の成功を示している。

もちろん、「無宗教」をよしとするは、共産主義・全体主義の「宗教性」が原因にある。
しかし、歴史の皮肉は、スターリンのソ連がヒトラーのドイツと死闘を繰り広げたとき、スターリンは「ロシア正教」に祖国防衛の価値観を求めたのだった。

共産主義は、国境をなくす「世界共産化」を旨とする宗教だから、「祖国防衛」という概念がそもそも矛盾する。
しかも、スターリンは「賢明にも」、ソ連国内の母親とその若者が共産主義のために死ぬことに納得しないことを知っていた。

そんなわけで、このことが共産ソ連に「ロシア正教会」が残った原因であり、結果となったのである。
プーチン氏が、自身をロシア正教会の敬虔なる信徒だと自己紹介するのには、こんな国民性を熟知しているからでもある。

一方で、トランプ氏は、急速に信者数が減衰している、プロテスタント「長老派」の敬虔なる信徒である。
西城秀樹の『ヤングマン』ならぬ、オリジナルを彼の集会で定番としたのは、「ミサ」をしているからだと前に書いた。

このふたりが「馬が合う」のは、キリスト教つながりなのである。

なお、何度も書くが、故岩里政男氏(通名が「李登輝」)も、コーネル大学留学中に「長老派」の信者になって、生涯を貫いた。
ついでに念をおせば、「長老派」とは、「清教徒」で「建国の父たち」の直系にあたるのである。

そのキリスト教を「邪教」と糾弾したのが、ニーチェであった。

「近代」には、「脱宗教」というトレンドが隠されている。
しかし、人間にとっての宗教の重要性は、「教義」よりもずっと「規範の提示」にあるのだ。

この「規範」とは、社会に「倫理」と「道徳」をもたらす。

すなわち、宗教は(たとえ共産主義・全体主義でも)、その宗教の教えるところの「規範」があることで、社会の安定をもたらすという効用があるのだ。

逆に、「脱宗教」が成功すると、その国や民族から「規範」が失われる。

このことにマルクスの天才は気がついた。
よって、「革命」を目指すものは、かならず「宗教」を批判するばかりか、「解体」をしないといけないという「セオリー」になったのである。

わが国の明治の大発明が「日本教」で、天皇を「現人神」に据えることでの「平等」が、「あたかも」キリスト教社会のように「自由社会」を構築させて、大発展の基礎としたことをGHQは詳しくしっていたがゆえに、「人間宣言」を強制させて、「日本教」を崩壊させたのであった。

つまり、俗にいう「天皇の人間宣言」こそが、日本の死亡宣告、であった。

そのGHQを支配したのが、アメリカ民主党だったから、今度は自分の国でもおなじことをやって、アメリカを崩壊に導き、結果的に(富豪による)共産革命(=人民の奴隷支配)を達成しようとしている。

あのオウム真理教は破産したけど、ちゃんと後継団体はいまもあって、「監視対象」ではあるけれど、「解散命令」にはいたっていない。
なのに、どうして旧統一教会「だけ」が騒ぎとなるのか?

いま、わが国における「特定宗教」への「弾圧」とは、かならずや「すべての認可された宗教」にブーメランとなって、全面的な「脱宗教」がはじまる予兆にすぎないのではないか?

だとしたら、新興宗教どころか、伝統的な神社仏閣も、はたまた与党の一角も、他人事ではないはずなのに他人事でいられる脳天気が、まったく滑稽にみえるのである。

よって、現存する「有形文化財」を、観光資源として「拝む」だけとなり、歴史的価値がないと役人や審議会に判断されれば、たちまち解体される運命になる。

こんなことも、与党の一角をなす政党がわからないのか?
いや、自分たちは「別格」だと思い上がっているのかもしれない。
しかし、「脱宗教」の完成とは、そんな甘いものではない。

ひとびとから、規範を奪うからである。

お宝の価値とディズニーランド

テレビ東京の人気番組、『開運!なんでも鑑定団』は、1994年4月(平成6年)からの放送なので、もうすぐ放送開始30年にならんとする「長寿番組」である。

家庭にある「骨董品」を中心に、様々なアイテムが登場し、その価値を「金額で表現する」というわかりやすさが人気の理由にちがいない。
「高額」はさることながら、「低額」のばあいのずっこけ感がまた、視聴者の「他人の不幸は自分の幸せ」にもなっている。

なので、高額評価が続くと「そろそろ」という期待感がうまれて、いったん観だしたら最後まで、という具合につくられている。

もう20年以上前に、台湾への旅行に「はまっていた」とき、名物のマッサージ店の施術台にある個別設置のテレビで、日本の衛星放送をそのまま観ていたことがある。

台湾人のマッサージ師が日本語で、「これおもしろいね。日本にはたくさんお宝があるね」といって「毎週観ている」と笑っていた。
ちなみに、沖縄向けのNHKも視聴できるけど、だれも受信料を請求されていない。

台湾人が日本の誤った事情に詳しいのは、きっとこのせいだ。
タダほど高いものは、やっぱりない。
でも、NHKが台湾人に受信料を請求したら、いまでは日本人より金持ちになったから、あんがいと歓んで支払に応じるかもしれない。

ならば、「相互主義」として、台湾のテレビ放送も日本で、日本語字幕付きで放送すべきだろう。

マッサージ師のことにもどると、この会話だけで、このひとが「台湾人=本省人」だとわかった。
蒋介石が北京の紫禁城から持ちだした、歴代皇帝のお宝が「故宮博物院」にあるけれどぜんぜん自慢しないからである。

台北の故宮は、膨大なコレクションを少しずつ半年ごとにローテーションさせているので、全部を観賞するのに替わる度に通っても50年以上かかる。
これを、「自慢」するのは、「外省人」というわけだ。

さて、高額評価に期待して出演するひとたちのなかには、「売ってしまいたい」というひとがいる。
いろんな事情があるのだろうけど、鑑定士による「これからも家宝として大切に」という本人事情を無視した発言も多数ある。

これはこれで、「テレビ」だから気にしなくてよいのだが、「売って家族旅行をしたい」というひとがいることには、なんだか気にかかるのである。

むろん他人の所有物なので、これをいちいちいうのも変だが、どうして「旅行」になるのか?という「価値観」が気になるのである。
それだけ、鑑定対象の「モノ」へのこだわりがないのだろう。

しかし、旅行希望で高額評価だったひとが、二回目に出てきてその後を聞けば、やっぱり「家宝」として保持することにして、旅行は別におカネを出して行ってきた、というエピソードの披露もあって、なんだかホッとするのである。

さてそれで、25日の放送で最後の鑑定は、清朝最後の「文人」といわれた、呉昌碩(ごしょうせき、1844年~1927年)の掛け軸だった。

依頼人は8歳になる孫からの一言、「うちにお宝はないの?」に応じて、嫁入りからここまで、箱はあっても中身は一度も観たこともない品の存在を思い出して出品に至ったという。

どうして婚家にこれがあるのかさえも、その由来についてなにも聞いていないから、まったく不思議だ。
しかし、当時の日中関係(辛亥革命は1911年で中華民国成立は1912年)をおもえば、日本側がずいぶんと援助していたのである。

このことは、現在のわが国が置かれたアメリカの属国状況とぜんぜんちがう。
1894年(明治27年)に不平等条約が撤廃されて、第一次大戦が終わった1918年(大正7年)に、わが国は「列強入り」していた。

もちろん、第一次大戦はヨーロッパの戦争だったけど、ドイツがもっていた青島を攻略して「戦勝国」になったのが日本だった。

そんなわけで、なんらかのかたちで呉昌碩氏と日本人の交流はあったにちがいない。
すると、依頼人の「家系」おける「歴史」こそが、ミステリーで「価値」があるのである。

さてそれで、依頼人となった祖母は、いいだしっぺの孫の希望、「高額評価だったらフロリダのディズニーランドに行きたい」を叶えるための売却を口にした。

どこまでも、「孫の希望優先」の優しいおばあちゃんなのである。

しかし、この孫が成人したときに、「どうして売却したんだ?」と逆恨みされないかが、どうでもいいけど心配になった。
この子がもしも「まとも」に育ったら、世間にも自家にも歴史的価値のある掛け軸を現金化して、ディズニーランドで消費したことを恨むにちがい。

それで、驚きの評価になったら、おカネは別に出してディズニーランドに行くことにするのは、やっぱり「賢明」な判断だろう。

ところがどっこい、問題はその「ディズニーランド」なのである。

この会社の方針は、完全に党派性を帯びていて、それが急進的民主党(共産主義・全体主義)支持を隠さないことにある。
なので、映画にしても、もはや文化破壊の先陣を切っている。

もはや、ディズニーなら子供にみせても安心だ、ということにはならないばかりか、「毒」が仕込まれている。

その例が、ミュージカル『美女と野獣』における、「ポリコレ」だ。

とうとう、「美女」が、肥ったひとで、黒人女性が配役された。
ここで、わたしは「黒人差別」をしたいのではないし、「白人礼賛」をしたいのでもない。

ただ、「ポリコレ」に傾倒して、それが「革命的」といいたいのである。

この革命とは、とうぜんに「文化革命」のことである。
すると、おとなとして、いま、子供をディズニーやその「ランド」に連れていくことの「危険」をかんがえないといけないのである。

それに、2019年7月には米ディズニー本社の副社長が、子供への4件の強姦容疑で6年の有罪判決を受けたし、同年11月には、「ワールド」と「リゾーツ」それぞれで、従業員と管理者が児童ポルノに関連して逮捕されている。

さらにあろうことか、今年3月には、本社の「CEO:社長」が、「児童の人身売買」の容疑で逮捕された。
じっさいに、「ランド」内における子供の「行方不明=失踪」が問題視されていて、園内での「確保では?」という「うわさ」まであったものだ。

なんだか、危ない会社、なのだ。

だから、まったくの余計なお世話だが、優しいおばあちゃんには、毅然として孫にのぞむことで、きっと将来感謝されることだろうとおもうのである。

あくまでも余計なお世話だけど。

「歴史認識」の難しさ

このブログでは、たびたび「犬」の話を書いている。
昨日もそうだった。

人間と万年単位で付き合いのある「犬」だけど、どうして他の動物と比較してこんなに相性がよいのか?といえば、「犬」には「感情を理解する能力が長けている」という特徴があるからだ。

群れで暮らして群れで猟をする野生の犬は、そのむかしオオカミだったというけれど、この動物がつねに「序列」を気にする性質がDNAに埋めこまれている原因に、序列による「狩りのフォーメーション」があって、さらに序列によって獲物を食べる順番が決まるからだ。

つまり、序列が上位にないと個体としての生存が危うい。
この生存をかけた序列へのこだわりを、人間が利用した。
また、序列を決める「心理」が、群れの中のボスの感情をいち早く理解することにつながった。

こうして、「感情の動物」になったのである。

また、犬には思考力を司る「前頭葉」が、人間ほど発達しないので、彼らの思考力は人間に比して著しく低い。
むしろ、ほとんど「ない」のだ。

ただし、「条件反射」についての有名なパブロフの実験にあるように、定型的な刺戟に対する行動は訓練で教えこむことができる。
それで、人間の猟の相棒としてやってきたのだ。

ところが、いわゆる「洋犬」と「和犬」は、おなじ「猟犬」として人間と生きてきたのに、ぜんぜんちがう「性質」になった。
「洋犬」は、いちいち人間が指示することで命令に従うようにつくられた。

一方、「和犬」はこの逆で、犬が「狩りをする」のを人間が最後のトドメを刺すように仕向けてくるのである。
なので、和犬の飼育は専門家でも困難という。

それで、さいきんのDNA分析で、和犬の「柴犬」がもっともオオカミに近い犬種だとわかった。
比較的小型ゆえに家庭犬として一定の人気がある「柴」は、じつは洋犬と比較して愛玩犬としての飼育がもっとも困難なのである。

されども、突出したプロの調教師は、感情によって行動する犬の心理を利用した訓練方法で、どんな犬種でもたちまちに「愛玩犬」にしてしまう。
「所詮、犬は犬である」というのが、このひとの結論なのだ。

犬のもつ、序列の意識を人間からの愛情を受けとめさせることで、「従順化=人間への依存」させるのである。
だから、一切の暴力的なやり方はとらないで、「本能」を制御させる。

しかし一方で、「猟犬として育てる」場合は、むしろ、犬の本来もっている「本能を表に出す」訓練をする。
闘争心を磨く、ともいえるし、飼育目的に愛玩の要素はまったくなく、使役犬として徹底することが重要なのである。

とはいえ、犬は犬として、「今を生きる動物」であることにかわりはない。

思考能力がほとんどないために、日常の記憶も不完全なのである。
それと忍耐力でも、はるかに人間に劣るから、「時間をかけた」場合には、かならず人間が勝利する。
犬は、根負けする。

よって、トラウマになるような「恐怖の記憶」は別として、一般に犬は過去10分程度しか記憶できない。
一生の出来事をぜんぶ記憶しているという「象」と、決定的にちがうのである。

余談だが、それで、ぜんぶ記録する、という謳い文句の「Evernote」のロゴが「象」なのだ。

さてそれで、現代人間社会を観たときに、人間が犬化していないか?と疑うのである。
そこで参考になるのが、「歴史認識」なのである。

あたかも「歴史認識」というと、政治的で他国と自国の歴史認識のちがいが、外交問題にまでなるイメージがあるけれど、ここでいう「歴史認識」とは、個々人がいま生きているこの時代、この瞬間の認識をいう。

つまり、「この瞬間」の積分が歴史になるという認識のことだ。

たとえば、シーザーがルビコン川を渡った、という歴史とか、黒船がやってきた、という歴史とか、みんないまとはちがう次元の過去の出来事としての「知識」として「記憶」している。
受験生なら、年号もいえるだろう。

もちろん、ふつうにいう「歴史認識」ならば、その解釈と、それで現在にどんな影響があるのか?が議論になるものだ。
けれども、ここでいいたいのは、その当時のひとたちには、「日常の一部」だったという「認識」のことなのである。

すると、いま起きていること、たとえば、ウクライナ紛争が戦争になったこととか、イタリアの新政権やら英国の新・新政権の発足(なんと「インド系」=大英帝国のいよいよ終末の歴史的できごと)とか、はたまた、よくわからない宗教問題でのわが国経産大臣の更迭とか、これらが「歴史」になることの「認識の欠如」があることをいいたいのである。

なんと、大局的にみれば、「犬」とかわらない。
ただなんとなく今を生きる動物に人間が成り下がったといえないか?

べつに身分社会を礼賛するわけではないけど、むかしなら、高貴な身分のひとには、ここでいう「歴史認識」があった。
そうでない身分のひとたちには「歴史認識」なんか関係ない暮らしがあったのだ。

それでバランスをとっていた。

「平等社会」のいまは、社会構成員の全員に歴史認識がなくなった(全員が低い身分になる平等)から、為政者の行動に責任が薄まって、ひどいことになっている。

つまり、ちゃんとした平等社会にするには、全員が「高貴なる」ちゃんとした「歴史認識」をもっていないといけないのである。

ところが、こんなことになったら困るひとたちがいる。

それこそが、現代社会の「大病」で、不治の病かもしれない。
だとすると、歴史認識の欠如がもたらす破局の到来は、「時間の問題」になっている。

犬と人間の区別がつかない

犬に向かって話しかけるひとをみかける。

むかしのひとは、「犬畜生」という常識があったので、犬に話しかけるのは「命令」だけであったけど、いまは「赤ちゃん言葉」や「幼児語」だったりする。

もしや、「幼児回帰願望」だろうか?
それとも、自身を「いいひと」に見せたいがゆえのことなのか?
どちらにしても、かなり「病んでいる」ことはまちがいない。

それはそうで、わが国の飼育状況は、とっくに人間の子供の数より愛玩犬としての数の方が多い。
とくに、猟師の高齢化で、猟犬の数はかなり減っているはずだし、室内飼育が当然になったので、番犬の数も減っていることだろう。

ただし、躾ができないことによる残念な「番犬化」はよくある。
これは超小型犬を中心にみるけれど、玄関先に気配を感じると、とにかく「吠える」のである。

そういえば、うるさい犬の代名詞が「スピッツ」だった。
いまはあんまり見かけないのは、「吠えない犬」がつくられているからだ。
なので、「吠えない犬」を買ったのに、「吠える」といって「返品」するひとがいる。

それでもって、「売れ残った」らどうするのか?をかんがえることはない。
にもかかわらず、こういうひとほど「動物愛護」とか口ではいうから、人間とはげに恐ろしき動物である。

ぜひとも、「aibo」で我慢するくらいの精神力を持って欲しい。

さて、犬は、「自身の大きさ」の認識力がどれほどあるのか?
大型犬が超小型犬より序列が下、という現象をみかけるからだ。
これは、小型犬の方が「防衛本能」が強く出て、「気性」が荒いのが特徴であるからだろう。

なので、家庭内の序列形成に失敗した人間との生活で、犬の方が「上」、あるいは、自分が「ボス」だと思いこんだ場合、番犬化するのである。

つまり、小型犬が飼い主たち人間のボスとして、よそからの攻撃に警戒・対抗している姿なのである。
これは犬にとっては、たいへんしんどい。
24時間。気を抜いていられないからである。

このストレスが、飼い主たち人間に向けられると、典型的ダメ犬になる。
しかし、ダメ犬だと思っているのは躾ができなかった人間なので、これを「因果応報」というのだけれど、そうはいっていられないほどに犬が君臨すると、もはや「同居」が不可能になる。

食事と排泄の世話をすることも、飼い主には恐怖を伴う面倒になるからだ。

そんなわけで、わが国における「殺処分」の実績は、世界から非難されるレベルになっているけど、例によって「産業優先」という戦時体制が継続しているので、「動物愛護法」の改正もままならない。

ペット業界優先という悪政の結果なのだ。

そこで、姑息なことをする自治体は、殺処分数をごまかすために、自治体が殺処分するのではなくて、「ボランティア団体への譲渡」という方法をおもいついた。

もちろん、ごく真面目な団体の方がおおいだろうが、なかには怪しいものもある。
それでいまでは、一部の「引き取り専門業者」が、極悪の環境下で「飼い殺し」するという方法までやっている。

近代の生活は、「文化住宅」の普及にはじまった。
むかし、「家庭科」で、文化住宅の典型的構造を習ったものだ。
その特徴は、便所と台所が共用ではなくて、各戸ごとに独立させたのを「文化的」といったのだった。

いまではとっくに、「死語」だろうけど、日本人が文化的になったわけではない。

しかしまだ、文化住宅の普及がはじまったころでも「くみ取り便所」がふつうだった。
なので、街中を「バキューム・カー」が走っていたし、路地にはホースが転がっていたものだ。

もちろん、わが家もそうだったので、汲み取りの現場をふつうにみていた。

これが大変革を遂げたのが、下水管の敷設による「水洗化」だったのである。
タンクのレバーをひねれば、たちまちにして流れ去って、どこにもなかったことになる。

よって、ついいましがたまで、自分の体内にあった物の「その後」について、いちいちかんがえることをしない。
たまに、大型下水処理場の近くを通ると、ここにくるのかな?とおもうのである。

そんなわけで、飼育放棄した場合の「愛犬だった犬」のゆくえも、元飼い主たち人間は気にとめないのだろう。
けれども、こんな具合だから、人間の子供についての教育も怪しくなるのである。

ここでいう、「教育」とは、「生き方」とかのまさに、「躾」をいう。

日本人は、「教育」を、「学校教育」とか「受験教育=勉強」だと思いこまされた。
しかし、教育の根幹には、「人間として生きていくための学び」があるし、これがない教育はただの「プログラミング」だ。

法律は最低限のルールを書いたものなので、教育基本法も「最低限」のことだし、むしろ、「人間として生きていくための学び」については、守備範囲にしていない。

この理由はかんたんで、「人間として生きていくための学び」は、家庭教育が基本になるからである。

しかしながら、その家庭教育が崩壊しているのである。
なぜかといえば、さいきんの母親の言動をみていると、自分の子供を子供として扱っていないのでわかる。

ではなにとして扱っているか?といえば、「もう完成された人間として」、なのである。
この「倒錯」は、学校教育からのものなのか?なんなのか?

ひとりふたりのことではないから、なにか組織的な「母親教育」でもあるのだろうか?
しかも、こうした場にいる「祖母たち」の同様な態度が気になる。

なるほど、こうやって犬と人間の区別がつかないのだ、と気づいた。

まったくもって、人間側の劣化なのだ。
そうやって、水洗便所の汚物のように、時間が流れていって気がつけば、「成人」するのである。

成人とは、脳の発達が止まるので「成人」なのである。
だから、「人間として生きていくための学び」を成人にさせる「再教育」は、もはや「刑務所内」でしかやらない。
その効果と成果は、再犯率にあらわれる。

「人間の親の責任」は、「飼い主」としての「犬への責任」とかわりがないばかりか、人間相手なら重大なのは当然なのである。
それでもって、社会に出たら今度は、企業が「育成」責任を負わされることになったから、そのコスト分、給料が増えないのだ。

しかして、若手の部下は上司を真似るものである。

なので、もし、上司が情けなくて、自分の子供ばかりか新人の躾ができないでいるなら、いまは居心地が良くとも、将来は危ないとかんがえた方がいい。

自分が「猟犬」や「警察犬」のようなむげなる扱いを上司から受けているとしたら、それはあんあがい「ラッキー」なことなのかもしれない。
そんな環境で時間が経てば、人間なら、自分でかんがえることも「強要」されるから、「成長」する可能性が高まるのである。

これが、命令だけの刑務所に期待できない、「娑婆」にいる有り難さなのだ。

犬は飼い主の鏡なので、ダメ犬とは、飼い主のダメを表現して歩いている。
同様に、子供は親の鏡だ。
子供への「人間として生きていくための学び」を教えない親は、おそらく「老後」にとんでもない扱いを受けることだろう。

これも、因果応報で、それがいま、負のスパイラルになりはじめて、「相続」されているのである。
このことは、意図された「教育制度・システム」になって「文化破壊」しているので、文部科学省こそまっ先に廃止すべき「廃棄物」なのである。

習氏は天に逆らっているのか?

日本でもNHKが放送して大人気をえたのが、『宮廷女官 チャングムの誓い』(2004年10月7日から2005年10月27日)だった。
本国の放送から、約1年遅れで放送された、NHKとしては初の「韓流時代劇」であった。

このドラマの歴史的事実は、王朝の記録に残る「たった数文字」の、「王の身体はひとりの女医がしっている」である。
この記述の発見から、1年にわたる「大河ドラマ」をつくりだした、そのファンタジー創出力には感心するしかない。

また、その「時代考証」のめちゃくちゃも、研究者が目をむくファンタジーで、およそ日本が舞台では通用しないともいわれた。

わたしが子供だった時代には、さまざまなファンタジードラマが次々とできてきて、なにも『ウルトラマン』だけではなかった。
時代物なら、『河童の三平』とか、『仮面の忍者赤影』とかが忘れられない。

 

これら作品にも「時代背景」はあって、あんがいとちゃんとつじつまは合わせていたから、『チャングム』のハチャメチャは、やはり日本人にはやれといってもできないのかもしれない。

おなじハチャメチャでも、歌舞伎ともちがう。

「幕」と「場」の展開のなかでのドラマ作りは、たとえ七変化であろうともいきなり「近代」に化けることはない。
観客すら、劇中の時代における想定を共有しているからである。

まさに感覚の相違というか、歴史を創り出す能力というか、その民族性のちがいは計り知れない。

しかし、その朝鮮を実質的に治めていたのは、ずっと大陸の大国だったのである。
一応、『チャングム』では、相手国を「明」としている。
あの大国には、「国名がなかった」ので、王朝名をいう。

朝貢国の悲哀が所々にでてくるけれども、ドラマにあるような「まとも」な生活を一般人がしていたという「記録」はない。

さて、どんな汚い手をつかおうとも、一族の繁栄のために歴代がそうしてきたように、「王の台所」である、スラッカンの責任者たる位につくための悪だくみをして、「正義」のチャングムたちを無実の罪に追い込んだヒール役に、高齢のため引退が間近な現職が放った台詞が、

「そこまでしてお前は天に背くのか?」であった。

習氏が実質的に「終身皇帝」の座についた、この度の共産党大会では、党中央人事を決める最後の最後に、驚くべき「クーデター」が起きて、この瞬間を外国人記者たちが目撃したのだった。

それが、前総書記だった胡錦濤氏の「強制退場の場」だったのである。

このとき、舞台上のひとたちには、「一幕の終わり」での「幕間」での出来事にみえただろう。

なぜならば、外部への秘密大会が終わって、休憩を挟んで「公開」するための準備時間中であったのだ。
つまり、外で待っていた外国人記者たちが入場しているさなかの出来事だった。

しかし、習氏にとっては「本番中の本番」なのだった。

党中央委員から選出される、「常務委員」候補の名簿に、前日までは「李克強氏」ら胡錦濤派の名前があったという。
それが、最終局面で配布された紙に「なかった」のである。

それでもって、胡氏が異議を申し立てようとしたところ、「健康を気遣う」という名目で退場を促し、胡氏がこれを拒否すると、強制的に退去させたのであった。
なお、胡氏の発言は、マイクが切られており広い会場では聞こえなかった、という。

すなわち、会場の音声さんも「加担」した、習氏によるクーデターなのだ。

これが、「前代未聞」というのは、メンツを重んじる彼のひとたちだから、どんなに激しい権力闘争でも、大衆の面前ではさもなにもなかったこととするのが常識なのだ。
しかして、まさか外国人記者たちの目前でやるとは?ということだ。

ここから見えてくるのは、習氏側の焦りともとれる強引さだ。

すると、これからあからさまな権力闘争が起きる可能性が高いし、これを武力で制圧すると宣言したも同然だ。
胡氏からしたら、「そこまでしてお前は天に背くのか?」であろう。

しかしながら、しょせんは共産主義・全体主義者のなかでの話だし、そもそもが共産主義・全体主義を「天」が許すはずもないのだ。

われわれが注目すべきは、習氏の天下が長続きするのか?どうなのか?だ。

少なくとも、英国では、反グローバリズムの旗を掲げた新政権が、レタスより早く腐ってしまった。
習氏が微妙なのは、共産党というグローバリズムにあって、ナショナリストという立場だからである。

彼は、一見、バイデン氏と同じく、自国経済を崩壊に導いているようにみえるのだが、グローバル全体主義を世界にもたらしたいバイデンがやる「ぶっ壊し」とちがって、中国経済をグローバル全体主義にしてきた者たちの「排除」にあることだ。

それで、中国が貧しくなっても、元が共産主義・全体主義だからどうでもいいのである。

しかし、どうでもよくないのは、バイデンや民主党、EUからなにからの「富豪社会主義者たち」なのである。

中国国内だけでなく、強烈な闘いが習氏降ろしとなって炸裂するはずである。
その「流れ弾」が、台湾・尖閣・沖縄に飛んでくるのだろう。

わが国産業界は、自らすすんで「人質」になったけど、どうやって脱出するのか?
駐在している社員を見殺しにするのが、いまのエリート経営者だけど、果たして耐えられるものか?

アップルとダイキンは、もう脱出したけど。

おまけは、この「大会」の参加者たちの「口元」だった。
胡錦濤氏も含めた「ひな壇」のひとたちの口元にマスクは一切ないけれど、他の全員が「おなじデザインのマスク」を着用している。

なるほど、真の支配者は、マスクを必要としない「神世界」だと、全世界に披露したのだった。
わが国の「国会」で、マスクをしない議員に、マスクを強要する与党は、「平等」を最優先する、もっとも進化した共産主義を披露している。

おそらく、このことが、中国共産党に対するわが国与党の唯一の心の拠り所となる「優越感」なのだろう。

石油を求めて何千里

「スタン国」の中央アジアが熱くなってきた。

資源探査技術が進化して、なお、採掘技術も進化したから、かつては誰も見向きもしない「見棄てられた地域」の地位が、急速にあがって注目度が増している。

「SDGs」などと「浮かれた」ことをやっていたヨーロッパが、冬のエネルギー危機を目前にして、こんどはがむしゃらに「炭素」を求めだした。
すなわち、「石油」と「ガス」である。

このひとたちは、ずっとむかしから、「独り占め」する習性があるので、日本人のようにおっとりと「分け与える」という発想はしない。
自分のものは自分のもの、他人のものも自分のもの、なのである。

カスピ海に眠る巨大な資源が発見されて、沿岸諸国の政府は当然に「開発」をして販売利益を得たいと行動している。
しかし、カスピ海自体が「内陸」にあるから、とれた石油やガスをどうやって移送するのか?が問題になる。

まさか、日本のように内陸部の県に、タンクローリーでちまちま運ぶ、ということでは採算にあわない。
なので、やっぱり「パイプライン」という、巨大なホースで液体を送り込むのが効率的だ。

これをどうして山梨県とか、長野県まで引かないのか?はわからない。

もちろん、静岡県も、名古屋港にちかい浜松まではなんとかしているけれども、それ以東の地域にはタンクローリーで運んだり、あるいは地元企業に遠慮してかしらないが、ガソリン価格が相対的に高くなるようにしている。

住民がこれにどんな興味があるのかもわからないのが、また不思議なのである。
地方にいくほど鉄道網やバスなどの公共交通がなくなるのは、人口密度が薄くなることの必然である。

その結果、自家用車がないと買い物にもいけず、生活できない。
なので、密度の濃い都会よりも地方での生活にこそ、燃料は欠かせない。

にもかかわらず製油所がある沿岸部と比較して、どれほど割増料金を負担させられているのか?に興味がないはずはないとおもうのだけど、かんがえるのをやめたのか?

それとも、地域の名士がやっているスタンドでガソリンや軽油を買わないといけない、という「掟」があまりにも強い同調圧力だからなのか?
どちらにせよ、経産省が推測する製油所の廃止が、石油会社の経営権を侵害していることもある。

もちろん、尖閣問題の根底には、このエリアの大陸棚で発見された大油田の採掘をしたいだけでなく、ぜんぶ自分のものにしたい国が隣にあることが原因なのである。

つまり、資源国は、自動的に防衛力を高めないと「奪われる」という状態になるのだ。
このときの「防衛力」には、軍事力だけでない「あらゆること」をいうから、軍事音痴になった日本人は気をつけたい。

そんなわけで、中央アジアも、自動的に「きな臭くなる」のである。

これは、砂漠で見た目なにもなかった中東がずっときな臭くなったのとおなじだし、石油の前の時代に「胡椒」のために東南アジアが奪われたのもおなじなのである。

しかし、これらの「事例」は、「海」でつながっていた。
中央アジアは、「陸」でつながるので、かならず「周辺を巻きこむ」ことになる。

なんだか、ヨーロッパ人が舌なめずりする感じがするのである。

それで、世界最大規模の油田・ガス田がみつかったのは、カスピ海の西岸にある街、バクーである。
国としては、アゼルバイジャンだ。

ここから、パイプラインがあって、トルコまでつながっている。
カスピ海の東岸にある油田からは、タンカーに船積みされてバクー港までやってきて、このパイプランを使うことになっている。

あんがいと日本も頑張っていて、このパイプラインの敷設には、欧米企業だけでなく日本企業も参加しているのである。

今年、EUのフォン・デア・ライエン委員長自らがアゼルバイジャンを訪問して、大統領と契約したのは、従来の倍の石油供給なのである。
今月になって、この契約が履行されている。

それでもまだ「SDGs」の看板をおろさない、じつに「二枚舌」が得意技なのである。
狙いが、「日本潰し」だとはっきりしてきたのは、EV強行による「トヨタ潰し」と似ている。

日本人が「SDGsバッジ」を襟に付けているのをみるにつけ、「あほかいな?」とおもう根拠がここにある。
これも、「役に立つ白痴」の部類なのだ。
本人はぜんぜん自覚していないだろうから、やっぱり「白痴」だ。

もちろん、ヨーロッパは、このパイプラインの「増設」を画策しだしたのも当然の成り行きで、ロシア領内を通さないルートが考慮されていることも当然なのである。

しかして、アゼルバイジャンは、ずっと前の1988年から「カラバフ戦争」を、アルメニアとやっている。
こないだ亡くなった、ゴルバチョフ氏がまだ、ソ連共産党書記長で、調停に失敗してからのことだ。

いわゆる「コーカサス地域」が不安定なのである。

ついこれまで、世界が関心も示さなかった「戦争」だけど、この地域をかすめるように「パイプライン」が通っていて、アルメニア武装勢力は「標的」だと公言している。

ここにもまた、軍産複合体が舌なめずりするタネがある。
けれども、国際石油資本と軍産複合体の利害が対立する。

背に腹はかえられないEUは、先に石油の確保を優先させるだろうけど、世界秩序を破壊したい勢力はどうするのか?が問題なのである。

はるか彼方で、石油を求めても「平和裡に」にはなりそうもない。

過剰スペック高額化のiPad

新型ipadが19日深夜に、こっそりと発表されて話題になっている。

新たに販売されるのは2機種で、最廉価の(無印)iPadと、iPad Proで、日本では26日から発売されるという。

詳しいスペックはアップルのHPをご覧頂ければと思うが、その価格の上がり方に衝撃が走ったのである。
それが、「入門機」ともいえる、(無印)で、4万9800円だったのが、6万8800円~になったのである。

38%の値上げだ。
なので、多くの「記事」には、「約4割の値上げ」と記載されている。

ハイエンド機のiPad Proは、アメリカでの価格は「据え置かれた」けど、日本では「円安」のために、12.9インチが17万2800円~となった。
わたしが愛用している二世代前のが、10万円程度だったから、約7割増しである。

来年には、待望の14インチが出るとの噂があるけれど、はたして購入の決断は、やっぱり現物を見てからだけでなく、懐具合と相談して決めることになるだろう。

ぜんぜん「買い替え需要」にいたってはいないけど、今回の「過剰スペック」と「高価格化」について、例によって穿った見方をしてみようかとおもう。

まず、廉価版の(無印)だが、これは所持したことがない。
初めて購入したのが、中位のiPad Airだったからである。
しかしながら、すぐに12.9インチProの中古を買い増しした。

これには、ちょっとせこい理由があって、アップルペンシルの第一世代が、共通して使えるからであった。

「読書ノートを書く」という遣い勝手がメインなので、Airの画面サイズでは「老眼」に適せずに、強烈な肩こりを発症したからである。
しかしながら、とある出張で、新幹線にての作業中に「システムが落ちる」という致命的な問題が起きてしまった。

そこで、しぶしぶ型落ち(といっても最新といえなくもない)のProを購入し、しかもWi-Fiモデルではなくて、セルラーモデルにして、「SIM契約」までした。

おカネをかければ快適になる、というのは、その通りである。

アップル信者とかの話は、たいがいが「若いひと」の感想なので、iPad Proの12.9インチを使うというのは、もっぱらデザイナーとかのクリエーターが職場で使うもので、重くて大きいから持ち運びなんかしないことを前提にしていることがおおいという不満がある。

これは、わたしが想定している使い方とはまったくちがう。

老眼のロートルには、この大きさが必須であるから、重いのは我慢の対象なのである。
もちろん、長文を作成したいときにどうするか?の問題は、過去に書いたように、アップルのマシンでは困る。

M1Macに「WZエディター」をいれて、下書き環境はできたが、「納品環境」としての「Word」はWindowsマシンに依存している。
「文字フォント」がちがうためである。
しかも、MacBook Airは、ぜんぜん「Air」というほど軽くない。

だから、もっと「重い」MacBook Proを喫茶店に持ち込んでいるひとからしたら、iPad Pro 12.9インチなんて「軽い」だろうに、と思うのである。

とはいえ、iPad Airもお蔵入りしたのではない。
特に、紙の書籍を非破壊撮影してPDF化(同時にOCRも)するときの、撮影マシンになる。
これを、12.9インチでやるのは、やっぱり重い。

アップル社はメーカーでありながらソフトウェア開発会社でもある、いまどき珍しいビジネス・モデルで、自社製の「CPU」開発にも成功した。
それが、主力の「MacBook」のみならず、iPadにも搭載したから、その「高速化」にファンはワクワクしたのだった。

しかし、パソコンならまだしも、ipadはあくまでもタブレットなので、ipad用のアプリが、「M1チップ」のネイティブではなかったので、ぜんぜん高速化の効果は体感できないという。

むしろ、「内蔵メモリ」の増大の方に効果がある。

そんなわけで、自社開発した自慢のCPUをなにがなんでも搭載しないと、「ハイエンド」にならない、という製品ラインナップの矛盾が問題になってしまったのである。

それで、最廉価の(無印)iPadにも、ついこないだまでのハイエンドマシンが搭載していたチップを採用することになったのである。
だから、ふるくからのユーザーにしてみたら、なんだか選択肢の範囲が「縮んだ」ようにみえる。

ところが、最廉価の最廉価たるゆえんは、画面の構造とリフレッシュレート、それにメモリの少なさとアップルペンシルの第一世代しか使えないことが「残っている」のだ。
これでまだ、ライトニング方式が残った唯一の機種となったことでもある。

とくに、文字を書く、というニーズの場合には画面の構造が決定的に遣い勝手に影響する。
これが当たり前なので、おおくのレビュアーは、アップルペンシルの第一世代が残ったことにブーイングの声を挙げている。

けれども、「書く」という行為でかんがえたときに、アップルペンシルのオリジナルが「細身」のために、シリコン製のカバーで「太軸化」できるのだ。
これが、マグネット式の充電をやる第二世代のペンではできない。

そんなわけで、わたしは画面の構造で、Air以上を選ぶものの、アップルペンシルの世代にはあまり興味がない。
確かに第二世代のペンの便利さはあるけれど、「決定的」ではない。

結論をいえば、タブレットPCなら、残念ながら、iPad Pro 12.9インチの過去モデルが、わたしには「最高」なのであって、しかも他のメーカーとは比較にならない。

この「一人勝ち」が、アップル社をして、「進化」の罠にはまった、といえるのだろう。