本当のことをいうと罰せられる

26日、最高裁第2小法廷(岡村和実裁判長)が、日本における司法の死を宣告したので、「司法が腐ると、民主主義が死ぬ」と書いた、昨日の続きとしたい。

マッカーサーのGHQが、日本語での発売を禁止したいわくつきの書籍、『アメリカの鏡・日本』(原著は、「Mirror for Americans: JAPAN」で、1948年、日本語訳初版は、『アメリカの反省』文藝春秋、1953年)で、その後、1995年に再出版されてからも何回か「再出版」されている。

 

著者の、ヘレン・ミアーズ女史は、元は東洋史と地政学の研究者であったが、戦争中には日本研究をしていて、戦後、GHQのもとで「日本の労働法」をつくりに来日したという人物である。

もちろん、この書籍は、一種の「日本無罪論」であるから、マッカーサー自ら、「日本人はこの書籍を日本語で読むことはない」としたのである。
しかしながら、出版の自由も言論の自由も、アメリカ人にはあったので、英語での出版を阻止することはできなかった。

このことを、日本側からえぐったのが、江藤淳の、『閉ざされた言語空間』(オピニオン誌『諸君!』1982年)であり、西尾幹二の、『GHQ焚書図書開封』(1~12、徳間書店)がある。
なお、いまになって徐々に「復刻」がでているけれど、GHQが焚書にした戦前・戦中までに出版された書籍は、7000冊あるといわれている。

かんたんにいえば、この7000冊を、戦後の日本人に読まさせないことで、戦前・戦中と戦後の歴史を人為的に分断したのである。

 

敗戦とその後の「主権回復」で、どういう取り決めになっているのか?日本国民はぜんぜんしらされないでいるけれど、アメリカの植民地になった、と前提すれば、辻褄があう。

念のため、わが国が主権を回復した日は、昭和27年4月28日なのである。

どうしてゴールデンウィークの開始日が、この日でないのか?ということに、日本の主権は回復していないからだ、としても、やっぱり辻褄があうのである。

わたしは、安倍晋三氏の暗殺理由に、安倍氏が「主権回復の日」を国民の祝日に法定化しようとしたことも含まれるとかんがえている。
どうしてトランプ政権のときにやらなかったのか?ということが悔やまれるのである。

そんなわけで、わが国の「三権(立法:国会・地方議会、行政:政府・地方自治体、司法:裁判所)」のぜんぶが、独立のベールを脱ぎ捨てて、植民地としての素顔を表してきた、というのが、21世紀の「改革」なのであった。

たまたま、アメリカでは、FOXニュースの筆頭人気アンカーだった、タッカー・カールソン氏が突然解雇され(24日)て、さまざまな憶測が流れるほどのショックがはしった。
FOXコーポレーションは、一日で五億ドルが吹っ飛ぶ株価の下落があったけど、RINO(Republican In Name Only:名ばかり共和党)の、オーナーにして、メディア王、ルパート・マードック氏はブレないでいる。

このあたり、ちょっとだけよみうりグループを仕切る、渡辺恒雄氏と似ているのは、渡辺氏本人が、東大生時代に共産党員であったことを認め、同志の宮本顕治と対立して、党を去ったと告白したからである。

もちろん、読売新聞の中興の祖、正力松太郎は、CIAのコードメーム付きエージェントだったことが、アメリカ公文書館からの機密公開文書で明らかになっている。

マードック氏にも、似たようなことがあるのではないのか?
日米が「鏡」の関係だというなら、そうなっているはずなのである。

それで、カールソン氏の憶測の解雇理由には、選挙投票機のドミニオン社からの損害賠償請求裁判があって、マードック氏が和解したのが、8億ドルだとわかって、この損の責任をカールソン氏にも負わせたのではないか?という説が流布されている。

でも、わたしは、マードック氏が8億ドルを合法的に寄付したとかんがえている。
それで、次回の大統領選挙でも、ドミニオン社が「活躍」して、トランプ氏の再選を阻止しようとしているのではないのか?と疑うのである。

カールソン氏に関する話題は、別に書こうと思う。

さてそれで、日本の司法が腐っているのではなくて、自殺したのが、冒頭の裁判なのである。
『ニュース女子』という、東京MXテレビが放送していた番組で、沖縄の基地反対運動を特集し、人権団体の共同代表、辛淑玉氏が名誉毀損で製作会社の「DHCテレビ」を訴えたものだった。

これで、原告勝訴の東京高裁判決が確定した。

わたしは、当該番組をネット配信で観たけれど、どこが名誉毀損にあたるのか?よくわからなかったし、その後『ニュース女子』で、再度、「検証番組」も放送し、これも視聴した。

アメリカの鏡としての日本のテレビ業界(基本的に地上波は地方新聞社の子会社という世界的珍奇がある)も、アメリカ同様、ほぼ全社が「左派」だから、一切の容赦をしない報道をしているのは、ネット記事検索すれば様子がしれるのである。

この点で、アメリカよりも「曇っている」のは、アメリカの方は堂々と「支持政党」やらを公表するのに対して、日本の場合は「不偏不党」とか「公平」と、ウソをいう悪質があるからである。

しかしながら、とうとう、「裁判所」も、傾いたのである。

深刻な、「ソ連化」が、静かに、だが確実に進行している。
念のため、岡村和実という名前は記憶しておきたい。

バイデン一家は逃げ切れるのか?

「腹黒い」ことを、とうに超えて、限りなく黒に近い灰色の一家が、あろうことか現職アメリカ合衆国大統領であるバイデンとその家族たちである。

よくもこんな恥知らずのひとたちが、同じ血筋で集まったものだと感心するが、この一家の顛末も、まちがいなく人類の歴史に書かれることになる。

もちろん、合衆国大統領の家族、という意味もあるし、もしかして大犯罪ファミリーだということで、かもしれない。
とうぜんに、歴史的な犯罪ファミリーだと公式認定されることに期待するけれど、そのしらばっくれる態度が、まったく日本人的ではない異質なのである。

さすが、欧米人はちがう、といいたいが、欧米化したわが国にも、ミニ犯罪ファミリーで政治家をやっているひとたちはいくつかいる。
けだし、スケールの大きさがちがいすぎる。

共和党トランプ派が支配する、連邦下院にある、「政府監視委員会」は、3月16日に中国がらみのカネ百万ドルがバイデン一家に流れていることを掴んだと発表していたが、大統領本人との関わりについては「不明」であった。

しかしながら、財務省に対して、バイデン一家の銀行取引開示請求が、ようやく通ったのと、長男が亡き後の、実質長男となった次男のハンター氏が所有していたいわゆる「地獄のパソコン」解析から、衝撃的な事実がでてきて、いまや一族で12人もの人物が「疑惑のひと」になっている。

また、上記委員会の委員で熱烈トランプ支持者でもしられる、マージョリー・テイラー・グリーン(略して「MTG」)下院議員が、2000ページにわたる「報告書」を読み終えたところだ、とTwitterにビデオを載せた。

それが現職アメリカ合衆国大統領一家による、人身売買の証拠なのである。

こんな「大事件」に対して、地味だが、ハンター氏には、いったん認知した娘の養育費を打ち切ると言い出して、裁判になり、5月1日に裁判所への出頭命令が出たとニュースになっている。

なんとも、このひとの行動は、一貫性がないために、なにをかんがえているのかわからないけど、そんな生き方をしても、父親の権力でなんとかしのいできた人生なのだろう。

※上記リンクは、「マネロン疑惑」になっている、「ハンター画伯」のパロディを、「分断のアメリカがわかるドラマ」とおなじくハラノタイムズさんが日本語訳をつけている。

しかし、この裁判がやばいのが、養育費認定には、養育費を支払う側の「全所得確定」が必要なのである。

だから、「本件は」いったん、2億五千万円の一時金と、毎月の支払とにわけた「示談」がおこなわれている。
それは、彼自身の全所得を明らかにしたくない、という事情だったはずといわれている。

なのに、今回、その合意を自分から破ったので、裁判になった。

身から出た錆ではあるけれど、彼の全所得が明らかになるのか?全米が固唾を呑んで待っているのである。

なぜならば、大統領の父が、上院議員時代から絡んでいるという、黒いビジネスと直結するからである。
その最大の疑惑が、副大統領だったときの、ウクライナを舞台にした汚職だし、中共とのあやしいエネルギー・ビジネスなのである。

むかし、「疑惑のデパート」だとして、日本でも糾弾された政治家がいたけれど、なんだか子供のおままごとのようにみえるのは、こんな派手ハデの犯罪行為をしても、その地位をもって誰からも捜査の手が伸びてこなかったことの驚きがある。

司法が腐ると、民主主義は死ぬ、という教訓を世界に示しているのである。

しかも、バイデン氏は今週火曜の25日、次回2024年の大統領選挙への出馬を表明したばかりなのである。

もはや、選挙に勝利して二期目をやる、どころか、いつ「弾劾」されるか?になっているけど、民主党が多数の上院で、どうなるかはわからない。
しかしながら、民主党には、「裏切り者」の、ジョー・マンチン上院議員がいて、彼も24年には「改選」となる選挙事情があって、地元ウエストバージニア州では、「保守性」を主張しないと勝てそうもない。

とはいえ、アメリカ人の不幸は、もしもバイデンが弾劾されたら、副大統領の、カマラ・ハリスが昇格してしまう悲劇がみえている。

う◯こ味のカレーと、カレー味のう◯このどっちがいい?とおなじ、「究極の選択」なのだ。

さらに、民主党内では、一種の反乱があって、バイデンより早い19日、あのジョン・F・ケネディの甥にして、実弟でやっぱり暗殺されたロバート・ケネディの息子、ロバート・ケネディJrが、大統領選挙出馬を表明した。

果たして現状では、公開買収されたバーニー・サンダース上院議員やらが、とっくにバイデン支持を表明している「から」、勝算は薄い、といわれている。

けれども、その「勝算」に、このたびの一連の疑惑は無視されているので、1年半もある長丁場でなにが起きるのかはわからない。

なんにせよ、副大統領だったバイデン氏本人が絡んだウクライナの汚職を隠蔽することも、戦争の理由に挙げられるほどだから、もしも「全容解明」となれば、大統領解任どころか、「国家反逆罪」が適用される前代未聞にもなるのである。

アメリカ史における、「大汚点」が、民主党とバイデン家という両者に付くことは、人類の光明であるから、他国のことなんて悠長な態度ではなく、「宗主国」のえらいこっちゃだから、われわれの生活にも直結するのである。

バイデン一家は逃げ切れるのか?は、「道徳」の存在証明にもなっている。

都合が悪い「国民経済学」

映画『マトリックス』の第一作は、1999年(平成11年)の作品だった。

以降、シリーズとなって、その哲学性の深さゆえに、「難解」=「つまらない」という評価をするひともおおい。
なお、監督・脚本のウォシャウスキー兄弟も、進化して、性適合手術をうけて「姉妹」へとかわったのも、「マトリックス的」なのである。

この作品について、このブログで何度も取り上げているのは、わたしのお気に入りであるからだけれど、その理由は、やっぱり「内容の深み」にあるからだ。
物語の構造として、「世の中の二面性(たとえば、表と裏)」を、かくもハッキリみせたものはない。

その意味で、単なる消費対象としての「娯楽映画」ではないのだ。

ではなにか?を問えば、まさに、レビ・ストロースの「構造主義」そのものによる、「社会の構造」の解説をドラマ仕立てにした作品だとおもうのである。

この意味で、「学術ファンタジー」なのだ。

その証拠に、2012年(平成24年)に、米国議会図書館のアメリカ国立フィルム登録簿に登録されたが、その理由が、「文化的、歴史的、美学的に重要な作品」だからであった。
なお、受賞が当然のアカデミー賞では、4部門(視覚効果賞、編集賞、音響賞、音響編集賞)と、なんだか表面的なのが、いまどきの「アカデミー賞」だからか?

さて、この作品のはなしから、経済学をかんがえるひとはあまりいないのだろうけど、「表・裏」という構造を意識すると、表の「主流派経済学」をよく観察すると、おかしなことがみえてくるのである。

わたしが学生だった80年代はじめの、大学における経済学には、マルクス経済学(「マル経」)と近代経済学(「近経」)が対峙していた。

わが国の「経済学部」が、「文系」扱いされていて、受験に数学がないのも、戦後のGHQが定めたなかで、主流になったのが、「文学としてのマル経」だったからである。
それでもって、ファンタジー文学をあたかも「理論」だと勘違いさせて、学生を世に出しつづけた。

そうやって、官界(国家・地方の公務員)と財界(民間企業)だけでなく、学界(大学教師)を、マル経で染めて、将来の共産化を謀ったのである。

しかし、巧妙な手口は、公務員試験とか、企業の入社試験の「問題」に折り込んだ。
それが、「近経」からの出題で、「ミクロ経済学」と「マクロ経済学」からの設問として、あたかも「マル経」を無視したように見せかけたのである。

だから、わたしを含めた安易な学生は、「近経」をもって、正統なる経済学だと信じたのであった。

それが変だと思ったのは、『サミュエルソン 経済学』なる、有名な教科書で、どういうわけかマル経を徹底して推しているはずの、岩波書店からで、訳者が、バリバリのマル経学者、都留重人であったことだ。

 

もちろん、都留重人は、東大で、ときの「経済学会」を仕切っていた重鎮どころか、各大学の教員配置にも権力をふるって、わが国の大学を文部省と共に破壊した工作員である。

サミュエルソンは、天才的な数学の才能をもって、「数理モデル」を経済学にあてはめて、文学だった経済学を、あたかも「理系」にしたけれど、そもそも人間の欲望から発する経済活動をすべて数理モデルで示すことなんかできっこない。

その悪乗りの成果として、「経済物理学」なる、マルクス経済学の変種がでてきた。
数学を無視したマルクスの補完というべきで、根幹に「唯物論」があるから、「物理」なのだ。

ちなみに、われわれがずっと学ぶ「算数」や「数学」は、数式があって解が存在する分野でしかないけれど、世界は、数式が書けても計算できないことや、数式すら書けない事象が、ふつうなのである。

むしろ、経済学は、心理学に近いはずなのに。

それでもって、近代経済学の本質とは、古典派から発展した、「新古典派」のことを、「主流派経済学」と呼んでいる。
これがまた、人間とその心理をまったく考慮しないときているし、アメリカ経済の分析ツールでしかない、という問題がある。

なので、日本経済にあてはめても、なにもないのは、日本経済が特殊なのではなくて、よくみれば、アメリカ経済すらわからないことがわかるのである。
また、日本の政府は、ケインズが大好きで、ずっとケインズ政策をやって成果をだしていない。

あらためて、国民目線からの、つまり、国民生活を向上させる、というかんがえからの、経済学が、ないようにみえるのが、国民にとって悲劇的なのである。

しかし、だからこそ、政府は国民を支配できるのである。

そこで探ってみたら、「国民経済学」という、忘れられたものをみつけた。
言いだしっぺは、ドイツ人の、フリードリヒ・リスト(1789年~1846年)である。

 

岩波書店からもでているのが、ほぉ!、という感じがする。

これが、経済学の「裏」になっているのである。

やっぱりこの世は、マトリックスなのである。

常套手段のプロパガンダ「敵の非人間化」

英語では、「dehumanization」という手法は、プロパガンダ(政治宣伝)のなかでも、かなり「伝統的な手法」である。

以下、渡辺惣樹氏の『戦争を始めるのは誰か』(文春新書、2017年)を参考に、書いておく。

もっともこの方法を効果的につかったのは、もう100年以上も前になる、第一次世界大戦(1914年~1918年)を目の前にした英国で、この当時の国家機関(外務省の外局)に、「War Propaganda Bureau:戦争プロパガンダ局:戦争宣伝局」(1914年設立)があった。

「第一次世界大戦」として、学校では、オーストリアのフェルディナント皇太子夫妻(オーストリアは「帝国」なので、「皇太子」でよい)がサラエボで暗殺されたことが「原因」だと教わるが、この戦争はそんな単純なはなしではなく、えらく複雑な各国の思惑が交錯して勃発した。

充満したガスに、サラエボ事件は、「点火」したにすぎない。
その複雑なヨーロッパの状況を背景にしたサスペンスが、ヒッチコックの『バルカン超特急』(1938年)で、この映画の制作時は、今度は第二次大戦の前夜にあたる。

「戦争宣伝局」とは、あまりにもストレートな部署名なので、スマートな英国らしくないとの印象を得るが、こういったまったく悪びれずに「正々堂々」であれたことこそが、英国の邪悪な「素顔」なのである。

その事務所の場所が、ロンドン市内バッキンガムゲートの、ウエリントンハウスにあったために、そのままこの組織のことを「ウエリントンハウス」と呼んでいた。

ソ連のモスクワ市内にあった、泣く子も黙るKGB本部があったのは、「ルビャンカ(広場)」だったから、ただ「ルビャンカ」と口にするのも恐怖ではばかれたのであった。
それで、隣のビルがデパートだったから、KGBのひとは、「デパートの隣の者だ」という風習ができて、それを聞いただけでも肝が冷えたという。

日本だと、さしずめ「霞が関」といいたいが、ちょっと範囲が広い。

さてそれで、ときの首相は、ハーバート・ヘンリー・アスキス氏(自由党:首相在任は1908~1916年)で、同僚の財務大臣、ロイド・ジョージ(後の首相)によって、デイリー・メール紙の文学担当編集者のチャールズ・マスターマン氏を、ウエリントンハウスのトップに据えたことで、H・G・ウエルズやら、コナン・ドイルなどの有名作家もメンバーに取り込んでいた。

つまるところ、プロパガンダとは、自国民や敵国を相手にした「情報戦」(政府に都合よく欺しまくる)のことでもあるから、文学の素養は絶対条件なのである。

それでもって、第一に欺かないといけない相手が、自国民になるのは、「戦意高揚」のためでもあるし、そうでもしないと母親は自分の子供を兵になんぞ提供しないのは洋の東西を問わないからである。
なので、巧妙な「世論形成」をもってして、政府に協力しない(いうことを聞かない)者たちを、「非国民」として差別することを「善」とするのも、洋の東西を問わない。

「学徒」として出陣した長男を戦死で失い、予科練の次男はひとが変わって帰宅したのは結果だが、その前の状況も、橋田壽賀子は「おしん」のドラマでしっかり描いている。

こうした下地ができたところで、敵国については、その非道を非難して、「非人間化」の宣伝を通じて、「やつらは人間じゃないから、殺していい」とする価値観にまで導くのである。

ちなみに、こうした「非人間」という発想は、非キリスト教徒のことだったから、宣教師の役目とは、皆殺しのステップの露払いだったのである。

まったくもって、萬屋錦之介が演じて一世を風靡した時代劇、『破れ傘刀舟悪人狩り』(NET、1974年~1977年、全131話)の決め台詞、「てめえら人間じゃねえや!叩っ斬ってやる!」でもって悪党たちを皆殺しにするのだが、その前段における「被害の悲惨」があるから、視聴者は間違いなく「溜飲を下げる」ことになって、刀舟と同化してスッキリしたのである。

それゆえに、だんだんとスッキリしたくてこのドラマを観る、という順番にかわる。

これこそが、作り手の「狙い」なのであったけど、この手法の巨大な仕掛けこそが、国家がおこなうプロパガンダのプロパガンダたるゆえんなのである。

そんなわけで、敵のドイツに対して、すさまじき「非人間化」のための、欺瞞(うそ)だけの情報提供が、国民に浴びせられた。
ちなみに、このときの「ドイツ」とは、ヒトラーのドイツではないので念のため。

あくまでも、「第一次」世界大戦でのはなしである。

それで英国軍は、まずはドイツとアメリカを結ぶ通信線を切断した。
こうして、ドイツの声を、ヨーロッパ問題不介入とするアメリカ人の耳をふさいだから、アメリカ人は、「盟友」であるはずの英国からの情報「だけ」を頼りにした。

当時の英国は、いまとちがって、本物の「大英帝国」だったことも忘れてはならないし、アメリカはまだ駆け出し中の新興国だった。

次に、英国は、ドイツ軍の非人道的な行為をでっち上げた。
それが、ドイツ軍による占領地での一般人の虐殺とか、婦女子への陵辱で、ちゃんと「(偽)写真」をつけて、大々的に報道させたのである。

なんだか、ウクライナ、ブチャの虐殺、のような?

いや、ぜんぜん「ような?」なんてものではなくて、まったくそっくりな偽情報だった。

ロシア側の言い分が、マスコミの情報統制によって、われわれの耳目に一切入らないのは、通信線を物理的に切断した英国軍よりも、ずっと巧妙なやり方の「目隠し」なのである。

しかして、ちょっとした手間だけど、ネット検索でロシア側のニュースを自動翻訳させれば、一貫性があるのはロシア側であることは、素人でもわかる。

しかしながら、こんなことをやる個人がどんなに発信しても、「マス」にはかなわない。

わが国の荒廃した教育の再生は、もはや望むべくもなくなった。
「国」(政権与党に従う文科省)が率先垂範して貶めているからである。

それゆえに、個人でプロパガンダの手法を学んで、免疫力をつけることが、残念なレベルではあるけれど、ひとつの「教養」になったのである。

病院の輸出ができない

日本人が当たり前とおもっている、「公的健康保険制度=国民皆保険制度」の、おカネの面での良し悪しは、「政府財政負担の強烈さ」をもって、やんわりと問題視されている程度のことになっている。

なぜに「やんわりと」なのか?を問い直せば、だれしもが、「医療費の保険からの補填」を求めるからで、勤め人なら、収入の多寡に応じて給料から天引きされる「医療費」では足りなくて、消費税から補填されることも「賛成」することに疑問がないからである。

なにしろ、わが国最大の労組、「連合」すら、税と社会保障の一体化に納得したことだった。

なので、いったい「保険」にいくら掛けているのか?ということも不明になって、医療機関での支払時だけ、割引を受けてよろこんでいる。

「確定申告」をふつうにさせない、「源泉徴収制度」が、わが国で導入されたのは、昭和15年のことで、「国家総動員法」の成立による、国家総動員体制=戦時体制の重要な基盤となったのである。

つまり、日本人は、昭和14年までは、収入のあるもの全員が確定申告をしていたのだった。

ゆえに、税金の使い途における論争がさかんだった。
それがまた、国会論戦になって、都会の勤め人をターゲットにしながら三菱財閥が背景にあった、民政党と、地方地主とそのほかの財閥が背景の政友会とに分かれて、「二大政党制」ができたけど、結果は衆知のズブズブであった。

それだから、税負担の痛みをしっている国民は、軍に過剰なる期待をして、大コケしたのである。
所詮は、国家依存にちがいはなかったのだけど、戦後も懲りずに続けているのは、GHQにも都合がいいからだった。

いまは、税負担(社会保障費を含む源泉徴収で)の痛みが、勤め人には緩い(まるで「麻酔」のごとく)ので、かえって「乞食=国民皆保険」にさせられている。

ちょっと計算すればわかるけど、自分が負担している保険料より、命に別状のない疾病での医療機関で割り引かれた合計は、だいたいにおいて少ないから、「とられっぱなし」なのである。
それでも、老化して「大病したら」という将来不安から、いつかは「回収できる」と信じて、だまって徴収されている。

この意味で、とっくに「税」に同化しているのである。
それでもって、可処分所得が強制的に減らされて、経済的自由が侵害されているとかんがえる日本人は、皆無という驚きがある。

もちろん、経済的自由の侵害とは、憲法第13条に違反する。

しかしながら、前にも書いたように、公的健康保険制度の「公的」ゆえの大問題は、「保険点数」という、医療費計算のための、「料金表=メニュー」にすべて従うということにある。
「保険適用」される医療行為であれば、ぜんぶが、このメニュー表による「行為」なのだ。

もしも、「特別な医療行為」を受けたいなら、「自由診療」を選択しないといけないけれど、いったん自由診療を受けようものなら、「報復」として、もう「保険診療」に戻れない。

もちろん、保険診療を管轄している、厚生労働省からすれば、自分たちが認可していない「薬」とか、「治療法」をもってするのが、「自由診療」だから、あたかも自由診療は「胡散臭いもの」として、プロパガンダしている。

国民の選択の自由を阻害するから、このことの問題は、「自由診療」のなかでの的確な情報を、国民に提供されない、という理不尽もある。
よって、「ぼったくり」のような被害にあっても、これを無視するのが、いまの日本政府の邪悪なのである。

逆に、「名医」の存在も、国民にはわからない。

そんなわけで、わが国の、ほとんどの医療機関は、「保険診療しか」やっていない。
つまり、完全国内ローカルなのである。

だから、「医療ツーリズム」なる、外国人の患者受け入れが、「これからのツーリズムの一分野になる」というのは、かなり「独善的」なプロパガンダなのである。

唯一、「ツーリズム」というなら、入院してしまう患者本人ではなくて、「付き添い」で来日する家族とかが泊まるホテルとか、息抜きで訪問する観光地をもっていうから、なんだかショボいのだ。

単純に、外国人の患者は、「健康保険が適用されない全額自己負担だけ」が、日本人患者とのちがいでしかない。
三割負担ではなくて、十割負担、ということだ。

ついでに書けば、「医療通訳」という専門職があって、外国人に外国語で病状を説明できない医師や看護師のための「通訳」を、患者負担で雇わないと、日本の医療機関は受け入れもしない。
そこまでしても、日本の医療機関でないとダメだ、というのはどういうことか?

外国人の患者やその家族、あるいは当該国の担当医が、日本での治療をどこまで推奨するのか?にかかっていることになる。

ところが、国民皆保険という、社会主義制度を実施ている国は、ヨーロッパ(ドイツ、フランス、イギリスや北欧)にあって、さいきんでは経済状況が深刻なイギリスの「医療崩壊」が、話題になっている。

たとえば、風邪で診察を受けたくとも、3ヶ月待ち、とか。

原則、自由診療しかないアメリカが、やっぱり「治療するなら行きたい」とおもうのではないか?
これは、「留学生」としての医学生受け入れについてもいえて、優秀な医師の養成は、やっぱりアメリカになっているからである。

日本政府は、観光政策を、「数量から単価」に変更したけど、単価がとれないのが、わが国の医療機関だから、「輸出」もできないのである。

そのうち、アメリカの医療機関が、「自由診療」をひっさげて、これ見よがしにやってきたら、富裕層はこぞってそちらを受診するのだろう。
そのとき、アジアの富裕層もようやく、来日するのか?

それとも、自国にもアメリカの医療機関ができて、日本は用なしになるのだろうか?
そうなると、南国の気候のいい場所が、日本人富裕層高齢者たちの、終の棲家になるのだろう。

歴史をあばく「史観」の存在

「通説」というのは、その時代時代での、常識でもあるけれど、遺跡やら文書やらのあたらしい資料の発見で、何度も覆されてきた。

だから、「通説」は、単に「通説」として受け止める、一種の軽さを求められるのだけれども、自分に都合の良いものとか、ついうっかり信じきってしまったものを否定されると、不快になるのも人情というものだ。

もちろん、どんなに立派な学者でも、人間にはちがいなから、自説を曲げられて気分がいいひとはあまりいないか、いたとしたら「本物」だともいえる。

ただ、自然科学を専門にしたら、相手が学者(人間)ではなくて、研究対象の自然現象そのものだから、通説も自説も、新たな実験などで覆されるのは日常茶飯事のことだ。
そうやって覆したはずの説も、あくまで「仮説」なのであるから、別の方向から覆されても文句はいえず、そうやって「進歩する」ことだけが事実として残る。

残念なのは、「社会科学」とか、もっと適当なのが、「人文科学」で、これらに「科学」をつけていいものか?から疑わしいのである。
そこに、「仮説でしかない」ことの意識がないからである。

「歴史科学」という下位にある分野も、この意味でかなり恣意的で、怪しい。
この用語は、マルクスのいう、「唯物史観」なる「空想」を基礎にして、あたかも「科学」だと強弁したことから生まれた。

わたしが大学生だった時分には、歴史好きだった友人(希望の文学部歴史学科にめでたく合格した)が、「科学」の用語に吸い寄せられて、あろうことか「民青(民主青年同盟)」に絡めとられてしまった。

それが、「歴科研(歴史科学研究会)」という学生クラブへの安易なる入会がきっかけであったのである。

はなから真面目で、かつ、理屈好きだったために、よせばいいのに多勢に無勢どころか単独で先輩諸氏に反論を試みて逆襲され、わたしからいわせれば、「洗脳されてしまった」のだけれど、一度洗脳が完成すると、もう元には戻れないのも、「脳」を犯されたためである。

それで今度は、わたしに洗脳を試るようになったので、残念ながら付き合いをそれっきりとしていまに至るのである。

この意味で、わたしは友人をひとり失った。

そういうわけで、特定の「思想」を刷り込むのにもっとも効果的な方法が、「歴史教育」なのである。
それで、一方的な価値観からの、「歴史観」を刷り込めば、滅多な証拠をあげてもびくともしない。
これには、日常でもさりげなく、しかも断続的に繰り返し教育することで、本人には無意識のうちに「染め上げる」ことができることもおなじなのである。

それが、敗戦後GHQによって意図的な計画によって行われた、日本人骨抜(無能化)策の、「ウォー ギルト インフォメーション プログラム(War Guilt Information Program:WGIP )」であって、さらに、「3S(Screen、Sports、Sex)」が道具であった。
スクリーンが、映画、テレビ、ラジオのマスコミを意味し、スポーツは娯楽の提供、そしてセックスとは、あらゆる欲望(煩悩)の満足、たとえば食欲をそそるグルメ番組がこれにあたる。

これを進めるための、基盤とする「史観」こそが、国際リンチの茶番劇でしかなった「東京裁判」を利用した、「東京裁判史観」なのである。

しかし、グローバル化したいまでは、その上位概念といえる、「リベラル国際主義史観」をもって、「正統」とされている。

国内では「東京裁判史観」、外国がからめば、「リベラル国際主義史観」へと変容させて、これ以外の「史観」を許さない。

あろうことか、この「史観」をもって、我が国を運営しているのが、自民党・公明党連立政権なのである。
もちろん、既存の全野党も、この史観であって、原点に共産主義がある。
よって、共産党が我が国の政治シーンの、正規分布の中心にある、と前に書いたのである。

なかでも、「維新の会」なる政党の躍進(2023統一地方選挙の結果)は、完全なる利権優先の「第二自民党」かつ、もっとも強力な「親中派」なのに、あたかも「保守的」な言動をするから、オリジナルの自民党に比べて、悪質なのである。

この点で、衆議院補欠選挙があった和歌山で、二階氏が推す自民党候補が維新の候補に敗れたのは、二階氏の本音として、笑いが止まらないはずなのだ。
気の毒な和歌山県民の、はなから選択肢がないことに、神奈川県民として同情するのである。

だから、「リベラル国際主義史観」に反対する、「史観」は、ぜんぶ否定され、「悪の根源思想」だと断ぜられるのだ。

その中心に、「歴史修正主義史観」がある。

この「史観」は、正規分布図からした、両辺の「外れ値」にあたるから、たったひとつの用語として、「歴史修正主義史観」といっても、水と油ほどもちがう「史観」もさしてしまう粗っぽさがある。

一方は、たとえばナチスのユダヤ人虐殺を正当化する「修正史観」だったりするが、一方は、「リベラル国際主義史観」が隠そうとする歴史事実に光をあてて、より鮮明に歴史の背景から過去の事象を再構築する作業をさすこともある。

当然ながら、「後者」の態度こそが、「主義」として正しく、しかも無理やり歴史の修正を試みるものではない。
むしろ、「リベラル国際主義史観」の、とっくに科学から乖離して、「政治の道具」とする態度(主義)こそ、人々を欺く邪悪な意図が隠れている。

これをまた、「相対主義」だと批判するのは、「リベラル国際主義史観」の「絶対視」からでる、勇み足であって、身から出たサビなのである。

職業学者ではない、市井のひと、渡辺惣樹氏の力作、『英国の闇 チャーチル =世界大戦を引き起こした男』(ビジネス社、2020年)なぞは、職業学者の拠り所である「学会」となんら関係のない、いわば、バイアスがないからこそ追求できた、ひとつの傑作なのである。

  

すなわち、「リベラル国際主義史観」こそ、エセ科学だと、一般人が筆の力で鋭く突きつけた刃なのだが、エセ歴史学者を相手にせず、読者たる一般人は素直に読めばそれでいいのである。

「分断のアメリカ」がわかるドラマ

このブログで何回か引用している、「Harano Times Official Channel」さんによって、紹介されている日本語字幕付き「短編ドラマシリーズ」(全6回)がある。

その記念すべき第一回目は、 https://www.youtube.com/watch?v=B52OfzweZ0g でタイトルは「引っ越しの日」だ。

第三話では、ハラノタイムズさん自ら事前にドラマの背景説明をしており、その後の本編を鑑賞していて驚いたのは、共和党有力上院議員のひとり、テッド・クルーズ氏本人が出演していることだった。

急進左派の州としていまや「イカれているアメリカの典型」となったのが、カリフォルニア州で、その過激ぶりは、東部の「ニューヨーク」と双璧をなしている。

しかし、たとえば、日本のフジテレビで放送されたドラマ、「木曜劇場シリーズ」開始第一作になった、『オレゴンからの愛』(1984年)で、予算がないいまではかんがえられない現地ロケ撮影された!ことも話題になった、「オレゴン州」の麻薬汚染ぶりも、民主党が支配することで実現したのだった。

それがいまや国境を越えて、カナダのブリティッシュ・コロンビア州(州都はバンクーバー)でも、麻薬が合法化されて、さらに「無料」で州政府が投与してくれるから、市民はこぞって麻薬中毒者になっている。

行政がいう「無料」とは、集めた「税金の使途」のことなので、納税の義務をきっちり果たすと、自分や自分の家族が麻薬中毒になることを促進させる意味となる。
かくして、その対象がなんであろうが、行政による「無料」とは、住民にとっての「麻薬」なのだということの、もっともそのまんまな例なのである。

ならば、なんでこんな「政策」を極左は実行するのか?といえば、当然ながら、「共産化」を目的とするための手段だからである。
「共産化」とは、市民・国民を政府(一部の支配者)の奴隷にすることなので、そのための「エサ」が、「無料」なのである。

すると、邪悪な英国からしたら、アヘン戦争の原因をつくった、とされる清朝の官僚(進士)、林則徐の正しさがわかるというものだ。
彼は国民が阿片中毒者におちいる悲惨を阻止すべく立ち上がった、現代でこそ「希な」高級官僚なのだった。

「戦争」では、清は敗れ、香港を割譲するに至るも、その精神は、永遠なのである。
ゆえに、林則徐の名は、「清代最高の官僚」という評価に揺るぎはない。
惜しむらくは、彼の上司たる「皇帝」に、意志がなかったことだった。

これは、官僚が歴代の世継ぎを幼少時から育てるにあたって、「無能化する」ことを目的としたからであった。

くらべて、アメリカ民主党やカナダ自由党の政策の邪悪さは、歴史に残るほどの「汚物」なのである。

人間の価値観を曲げるのも正すのも、教育、なので、民主党の支配する「州」では、住民の価値観が歪められるのである。

しかして、このドラマの主人公夫妻は、カリフォルニアで「まじめ」に育ったがゆえに、その急進左派性を、自慢するレベルにまで「洗脳」されていることが、その後の「落ち」につながる重要な要素なのである。

一方で、主人公たちが引っ越してきた「テキサス」は、アメリカ合衆国の歴史で唯一、「テキサス共和国」として独立国だった(1836年~1845年)経緯がある「州」なのである。
ゆえに、バイデン民主党連邦政権のむちゃくちゃに、再度独立すべきか?がまじめに議論されるのもテキサスの風土なのだ。

ところが、テキサスとは、典型的な「南部」だから、南北戦争(アメリカ人は「シビル・ウォー:内戦」という)からしたら、「南軍」なのである。
1861年に合衆国から離脱、アメリカ連合国7カ国(サウスカロライナ州、ミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州)に参加する。

奴隷解放のリンカーン大統領率いる共和党=北軍、という単純な見方には、難があるのだ。
実態は、リンカーン共和党は、保護主義で北部の工業を育成しようとした(当時は英国にかなわなかった)のに、南部連合は自由貿易を望んだのである。

それで、戦費を賄うために、「政府発行通貨」を導入したのが、リンカーン大統領をみるときの最重要政策なのである。
いまでは、このことが、暗殺の理由ではないかという説があって、それは、ケネディ大統領にも適用されている。

アメリカの歴史は、日本史のような一種の「リニア」ではない、人造国家アメリカの厄介なところで、建国からの時間数は、いまや世界最古の国である日本とは比べようがないけれど、その複雑さにおいては、アメリカの方がはるかにややこしいのである。

そんなわけで、このわずかな時間にまとめられたドラマは、セリフの一語一語にもしっかりと歴史的な背景を負った意味があるので、単に、カリフォルニアとテキサスのローカルな対抗を表現したのではない。

まさに、「風刺」なのである。

また、みごとな「パロディー」といえるのだけど、その「パロディー」に対する「大本:オリジナル」が、上に述べた「複雑な事実」だから、そのおかしさを理解するには、それ相応の知識がいる。

「テキサス病」に感染した、主人公たちは、この環境にどっぷりと浸かることの快適さを認識して、とうとうテキサス人になるのだけど、これがハッピーエンドにならないのも、このドラマの「余韻」が示している。

それは、とっくに現実になっていて、カリフォルニア州の人工減少が深刻で、その原因が、国内移住先としてのテキサスやフロリダ州の人口増加なのである。

すると、カリフォルニア州の極左性は、どんどん蒸発した分煮詰まっていくほどに濃厚となるから、極左州とテキサスやフロリダなどの共和党の州との「対立」が、尖鋭化していることを示唆する。

そこに、共和党トランプ派が支配する連邦下院で、先週末にとんでもない「宣誓証言」が飛び出して、極左民主党がやった組織犯罪のシッポをさらけ出して、首都ワシントンは大騒ぎになっているらしい。

ゴールデンウィークという、日本ローカルの連休前に、2023年4月最後の週は、大荒れになるのだろう。

絶滅危惧種の町中華

「町中華」なのか「街中華」なのか?
「町」を使いたいのは、「町内」を強くイメージしたいからである。

テレビがないから情報番組というものを観ないのではあるけれど、研究テーマとしてブームの中にあることは、なんとなくしっていた。
けれども、空腹感をもって町や街を歩けば、たちまちにしてその貴重性を体感できるのが「いま」なのである。

ここであらためて、「わたし流」として勝手に定義すれば、日本人家族経営の小規模飲食店で、「中華料理」を標榜していること、だとする。
「広東料理」までは、許容範囲なのは、「上海料理」とか「四川料理」になると、たいがいが日本人の料理人ではなくなるからである。

かつて新宿区四谷に、「済南賓館」というズバ抜けて予約困難な町中華があったけど、こちらは「国宝級」だった。

なにせ、当時中国全土でも何人もいなかった「中国特級厨士」の資格を持つ日本人夫妻が腕を振るう店で、特に夫人の佐藤孟江さんは、戦争前に現地で育った日本人貿易商のお嬢様で、自宅で雇っていた料理人の、その幻の調理法の伝承者でもあったのだ。

よって、「ラーメン屋」ではないし、差別ではなく区別として、「日本人」としたいのは、「本場」とか「本格」とかとは一線を画すからである。

しかしながら、その「味」は、ちゃんとしていることが条件で、たいがいは店主が若くして小僧から修業した経験をもっている。
だから、この意味では「本格」なのは当然だが、いわゆる「外国の味」ではない日本の「中華」にこそ意味がある。

こないだ書いた、「横浜・伊勢佐木町」に、なんとわたしが定義する「町中華店」は一軒もないのである。
ただし、通りの延長にある、「お三の宮通り」に、ようやく一軒を見つけることができるが、こちらは、微妙にメニューの重心が「ラーメン」という恨みがある。

念のため、売りは、横浜名物「サンマーメン」で、4種類ものバリエーションがある、じつは名店だ。

一応、サンマーメンとは、醤油味ラーメンに肉野菜炒めの餡かけが乗ったものだが、変種として「塩ラーメン」の場合もある。
また、横浜市でなく、神奈川県が、いつの間にか「神奈川県名物」としているのが、横浜人からすると妙なのである。

だから、横浜市内では見かけないが、「県内」になると、店舗前に「神奈川サンマーメン」なる幟旗を散見するのは、県の予算で作ったものか?

この手の幟旗に、外国語表記は見たことがないので、インバウンド向けの予算ではないのだろう。
だが、漫画文化の世界的普及のおかげで、気の利く外国人は、平仮名とカタカナは理解していることがあるので、役人から「インバウンド向け」だと強弁されたら、そうかもしれない。

なにをもって「なりわい(生業)」とするのか?

むかしは、「手に職をつける」ことがとにかく重視されていて、職人ならばなんでもいいという風潮がふつうだった。
なので、高学歴でないといけないような職業には、それなりの身分の人の家の子がなる、というのもふつうだったのである。

これを破壊したのが、「学歴」で、学歴さえあれば、それなりの身分の人と同様な職業人生が送れるようになった。
それでもって、「猫も杓子も」みんな学歴の購入に邁進した。

この需要増に、学校経営者も悪乗りして、「儲ける」ために、学歴を大量販売したのだった。

職人は企業に入っても、「終身雇用」には目もくれず、働きやすい企業を渡り歩くのが、一人前で、あとからこれを、「渡り職人」といって、時代遅れの象徴にした。

職人にならずとも、商人になって、商店を構えることは親戚縁者の横のつながりで資金調達できたから、銀行の世話にならないでも開業できた。
あるいは、大店(おおだな)に丁稚から奉公して、評価されたら、「のれん分け」で商店主にもなれたし、場合によっては取引先からの援助で独立もできたのだ。

こうした人間の生活が、だんだんと遮断やら分断されて、社会が窮屈になったら、個人商店も衰退して、シャッター街がうまれだして、町中華の跡継ぎも絶えたら、それが自然淘汰とおなじようにみえるのである。

しかし、ぜんぜん自然淘汰なんかではない。
継続できない理由が、「店を持つことがリスク」になったからである。
それでもって、作業服よりもスーツ姿が「上位」に見えるように、まちがった教育をした。

そうやって、とうとう、「町中華」を探さないといけない時代になったのである。
すると、どこも繁盛店ばかり、という当然になった。

人間の味覚は10歳までに決まるから、町中華の味を子供に覚えさせないといけない。
そうなると、そのひとの生涯をかけて、何気だが、しかし、食欲として我慢できないのが一生続くのである。

なので、「M」がつく世界的ファストフードチェーンのハンバーガー屋は、とにかく子供をターゲットにする。

この意味で、町中華は、世界に類のない日本人のソウルフードとしての、まごうことなき「和食店」でもあるのだった。

リヒテンシュタインと藩制

「歌」とは危険なもので、おおくのひとが、無意識にヒット曲に影響されるものだ。
逆に、無意識に影響されるから、ヒット曲になるのかもしれない。
そこにはまた、宣伝という、売る側の思惑もあるのだけれども。

いまの若い世代はどうだかしらないけれど、歌謡曲がふつうだった時代に生きてきたので、耳についている歌詞はそれなりにある。
「歌謡曲」とは、たいがいが「恋の歌」だから、あんがいと「和歌」に親和性があるものだ。
それゆえか、「歌謡曲」が「Popular Song」という英語になっても違和感がある「和風」なのである。

恋を歌い出すと、人生の機微に触れることになる。

これがまた、日本でも「シャンソン」が流行った理由なのだろう。
なんだかしらないが、ふだんは明るいラテン系のひとたちは、いったん落ち込むと、哀愁を帯びて深刻になるのである。

おそらく、落ちるところまで落ち込んで、きっと元気を取り戻すのではないか?
その意味で、関西圏はラテン系だとおもうのである。
古典芸能でも、「上方」と「江戸」では、おなじ演目でも表現がぜんぜんちがう。

その「粋」が、きっと「人形浄瑠璃」になったのだろう。

ただし、日本人としての統一性では、「浮き草人生」のごとく、あるいは、「時の流れに身を任す」ようなところがあって、どこか他人まかせなのだ。
これを、丸山眞男は、「イマ(今だけの刹那)主義」と呼んで批判した。

こんな性格にどうしてなったのか?
「縄文時代」から話をするひとがいるけれど、庶民のことは、あんがいとわからない。
貴族や武士の価値観や行動が、庶民と一体とはいえないからである。

学校で習う日本史なる教科が、歴史なのか?なんなのか?と問えば、社会科の延長にすぎないという意見に賛同せざるを得ない。
何年に何が起きたのか、を暗記させるのは、「史実」であっても「歴史」ではない。

現在から逆に歴史をさかのぼることはせずに、むかしから現在に向かって語る「ストーリー」が、「ヒストリー」になった。
本来は、現在の意味をしって将来に活かすはずのものを。

わたしが日本の「おおむかし」に疑問があるのは、たとえば、「口分田」の制度が、何事もなく広がって整備されたことだ。

ほんとうに誰も抵抗しなかったのだろうか?

でも、そもそもこの制度をやりたかったのは、朝廷にとって豪族の存在が邪魔だったからで、その筆頭格の「蘇我氏」を滅亡させた、大化の改新(いまは「乙巳の変」いっしのへん、という)であったという。

ところが、「三世一身法」を制定せざるをえなくなって、とうとう、「墾田永年私財法」にまでなって、今度は支配者たる貴族たちが、この制度から合法的に「荘園」にして、事実上の領地としてしまう。

なんだか、現代的な「法執行体系」が基盤として完成しているようにみえるのが、そうなの?とおもうのである。
もちろん、その基盤の重要要素が、「戸籍」の存在だ。

世界中を見渡して、「戸籍」がある国は、日本、台湾、韓国の三カ国でしかない。
要は、ぜんぶ「日本」なのである。

つまり、「戸籍」という、個人情報を国家に握られたら、古代人にして国家に逆らえなくなる?ということだ。
『マイナンバーカード』のヤバさが、ここにある。

さてそれで、いきなりだが、リヒテンシュタイン公国(人口39000人)に話題が変わる。

この国は、外交や防衛をスイスに委託しているから、ちょっと日本に似ている。
わが国も、外交と防衛をアメリカに委託して、これを、「吉田ドクトリン」なぞといっている。

しかし、わが国とちがって、おそろしく「豊か」なのだ。
1人あたりGDPは、157,755ドル(2020:世界銀行)で、日本の39,312ドル(2021年:世界銀行)とは、ケタ違いで比較にならない。

その原因のひとつに、「租税回避地:タックス・ヘイブン」としての特別がある。
不思議と、わが国と国交が結ばれたのは、1996年であった。

この国の政体は、「立憲君主制」だけど、完全なる民主主義国家である。
人口数からしたら、日本での「市」とか「町」にあたるのに、だ。
なお、国民は、中央政府が近いので、すぐさま「大臣」とも直談判できるのである。

ただし、リヒテンシュタイン公国の国民は、政府におねだりばかりする、けっして「乞食」ではない。
そんな国民教育をしていないのが、わが国との決定的な「分岐点」なのである。

なにをベンチマークにするのか?という、一種の「目標設定」で、どういうわけか日本人は巨大なアメリカを相手にしてきたけれど、このベンチマーク設定がそもそも間違っていないか?

明治からの中央集権(奈良時代への回帰)が、どうも怪しいのである。

この意味で、「藩」が覇権を争った戦国時代、戦を奨励はしないけど、「善政競争」が各地であったことに注目すると、戦国大名たちによる、生き残りのための財力を得るためにした施政に興味が移るのである。

その中の「圧倒」が、織田信長の、「楽市・楽座」であり、関所の廃止だった。
つまり、ハイエク的な、自由競争を、計画的に実施したのである。
御屋形さま(織田家家臣団の政府)が、計画経済を実施したのではない。

このことが、なんだかリヒテンシュタイン公国と似ているのである。

概ね日本は、人口が3000万人ほどであったのは、農地から得られる収量が、これ以上の人口を許さなかったからである。
だから、先進国最低の食糧自給率(3割台)ではあるけれど、人口が4分の1になると、だいたい自給水準になるのである。

ただし、耕作地を維持してのことなので、いまの「農政」は、「口分田」よりも稚拙なのであって、コオロギを食えとは、笑止である。

リヒテンシュタイン公国を眺めながら、「廃県置藩」を改めてかんがえたい。

トランプの安倍離れ

やっぱりね!

トランプ氏の「演技」が、とうとう「演技でした」と本人が打ち明けた。
それが、安倍晋三氏との「蜜月」である。

「大統領記録法」に基づいて、安倍氏から贈られた「金のゴルフクラブ」を、国立公文書館に引き渡す、と発表したのだ。
つまり、この物品は、トランプ氏個人に贈呈されたものではなくて、アメリカ合衆国大統領「職」に贈られたものである、という意味である。

そうなると日本人からしたら、この物品の購入代金は、日本国からなのか?安倍氏のポケットマネーからなのか?ということが気になるが、マスコミが報じないから、わからない。

これまで、このブログでは、トランプ氏と安倍氏の「なかよし」は、トランプ氏側からの一方的な押しつけだと論じてきたが、とうとう本人が認めてくれたので、「やっぱりね!」なのである。

なにしろ、大統領選挙期間中に、ヒラリー氏有利と観た安倍首相は、自らアメリカに出向いて(政府専用機で)本人と面談してしまった。

これは、アメリカの選挙法に違反する行為である。

選挙期間中に、候補者が外国人の要人(この場合は日本の安倍首相)と面談することは、アウトなのだ。
夫が大統領経験者で、自らも国務長官を務めた人物(元は弁護士だ)が、これが違法行為だとしらないはずはない。

本来ならば、選管が違法認定しないといけないのに、なぜかだんまりを決め込んだ。

せめて、対抗する共和党トランプ候補とも面談していれば、「公平」ともおもわれるが、もしやトランプ陣営から断られたかもしれない。
なにせ、違法だから。

すなわち、安倍氏のこの訪米は、ヒラリー氏落選によって、安倍氏の肝を冷やしたはずだし、わが外務省の役人たちも、「まさか?どうしよう!」と狼狽したはずだ。
でもその前に、まともなアメリカ国民には、この外国要人による選挙介入に嫌忌して、よりトランプ氏が有利になった可能性もある。

日本とおなじく、選挙民はバカだと信じていることが、裏目に出たのではないか?

そんな事情から、おそるおそるトランプ大統領と初会談に及んでみたら、なんと、トランプ氏から積極的ラブコールを受けたのである。
おそらく、安倍氏も外務省も、またまた驚かされて、「?」が脳裡に浮かびながら、「まぁいいか」になったのだろう。

この「浅はかさ」に、トランプ氏はホワイトハウスのスタッフたちと爆笑していたにちがいない。

なんだか、ネズミを捕らえた猫が、もてあそんでなぶり殺しにするかのようなものだった。
しかし、学歴エリートでしかない、外務官僚たちは、「結果よければ全てよし」と、自画自賛して、あたかもビクついていたことすら、忘れる努力をしたのである。

もちろん、学歴エリートでしかないから、すぐに忘れることができるのは、次の試験で間違えなければいいし、そもそも、自分たちが間違えるはずがない、という、一般人にはありえないほどの、「致命的な思い上がり」があるからだ。

なにしろ、子供時分から、必死で勉強してきたことだけしか、取り柄がないし、とにかく試験に合格(難関大学受験や外交官試験とか)したことの「実力」こそが、全人格的な優秀さの証拠だと思いこんでいる、阿呆たちなのである。

しかるに、その「学習の目標=カリキュラム設計=科目設定」自体が、GHQによる、日本人無能化計画によるものだから、やればやるほど「無能」になるようになっている。
そんな操作をされたことすらしらないで、アメリカと外交をしよう、なんて本気でかんがえているなら、やっぱり、絶望的な阿呆集団になるのは当然なのである。

だから、このたびのトランプ氏の行動は、安倍氏亡き後なので、第一に日本外務省(政府)に向けた「一撃」なのである。

ところが、この「裏」にあるのは、トランプ氏と敵対する、軍産複合体の民主党や共和党のなかのRINO(Republican In Name Only)たちだから、その手先に成り下がっている、自公政権も、「敵」なのである。

いまさらだけど、安倍氏はその自公政権のトップだった。

トランプ氏のビジネスマンとしての狡猾で巧妙な政治手法は、まさに、目的のためなら方便も辞さないことにあって、安倍氏との蜜月を演出したのは、安倍氏の政策を共和党寄りに見せさせるための手段にすぎなかった。

それで、阿呆なマスコミも、「アベがー」を煽って、あたかも安倍氏が「自民党の右派」にして、いまどき珍しい「保守派の重鎮」という、ウソを宣伝したのである。
対して安倍氏は、トランプ(=合衆国大統領)との蜜月を演じることが、かつての「ロン・ヤス」のごとく、自身の国内政治における強固な権力基盤にもなるから、こうしたウソに便乗したのである。

だから、安倍内閣の主要政策が、どんなに「社会主義的」でアメリカ民主党内の急進左派とおなじであって、ぜんぜん「保守とはいえない」にしろ、トランプ氏はお構いなく、日本をコントロールしているのは自分だと、ワシントントンの沼の住人たちにアッピールして利用した。

しかし、もはやトランプ氏も、明確に軍産複合体を「敵認定」してはばからなくなって、まともなアメリカ人から圧倒的な支持を獲得しているために、ナショナリストとしての仲間であるプーチン氏のロシアをいじめる、日本の政権と政府に対しても「敵認定」の発表をしたのである。

まったくもって、政府与党には災難だが、日本国民には喜ばしいことで、救世主なのである。