年初に書いたのは、「日本語再考」であった。
再考できたのか?をまず自問すると、それどころではなかったという言い訳がでてくるのである。
ただし、『ルポ 誰が国語力を殺すのか』と『日本を殺すのは誰よ!』という、二冊で、より一層、自分でつくったテーマの重要性だけは理解が深まっている。
もう一つの「発見」は、いまさらながら、「経営学の母」とも、「経営思想家」ともいわれている、メアリ・P・フォレット(1868年~1933年)という、今では古典的な人物の発見である。
この人物をわが国に紹介した功績ある人物は、三戸 公(みと ただし)立教大学・中京大学名誉教授(1921年~2022年)だ。
なお、三戸教授はドラッカー研究の第一人者で、そのドラッカーが高く評価したのがフォレットだというつながりになっている。
アメリカやヨーロッパの「古典的著作」が、わが国でも「有用」とされていた理由は、ついぞ「理系」の研究成果をもっぱらとしていたことでもわかる。
『解体新書』もそうだけど、科学(Science)には、普遍の法則があるからだ。
なので、科学における定説が新しい発見に取って代わるのは、上書きできる法則の発見があるからで、特段の人為による政治的な理由は排除されることになっている。
これをソ連では、しっかり政治利用して、「ソ連邦科学アカデミー」なる政治団体を組織し、その長に、科学者を装った政治化を配置したのであった。
そうやって、特定思想(共産党に都合がいい思想)を、科学の上位に君臨させたのは、ガリレオを有罪にしたローマ・カトリック教会とおなじ論理構造なのである。
こうしたことの不幸を知り尽くしているプーチン氏が、「反共」を掲げる理由は明確で、ためにわが国は、「敵国認定」されるに至ったのである。
ソ連と革命前ロシア・自壊後のロシアとを区別できないのではなくて、区別しないのである。
そのロシアでは来年3月に大統領選挙がある。
すでに10人が立候補しているけれど、プーチン氏はこれから、となっている。
そのプーチン氏を後方支援する「頭脳」は、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・カラガノフ博士(経済学、政治学:モスクワ大学)で、彼は、日本とドイツがアメリカからの「独立」「自主核武装」をすべきと公言している。
それが、今の混沌世界(戦争屋たちの好き放題)から安定をもたらす、というのである。
民主党のアメリカが戦後の教育を支配した日本やドイツにおいて、人文系(「人文科学」と科学をつけていいものか?)で、その普遍性をいうのは、どういうことか?を突きつめると、結局は、グローバル全体主義に行きつくのである。
当然ながら、カラガノフ博士は、ナショナリストで、反グローバル全体主義だ。
それなのに、岸田政権は、パトリオット・ミサイルをアメリカに「輸出」するとサッサと決めて、これがアメリカを通じてウクライナ戦争に使われたら(おそらくそのため)、ロシア外務省が公式発表している「警告」が発動されて、わが国もロシアと戦争状態になる。
こんな重大なことが、大騒ぎにならない今の日本人は、完全にイカれていないか?
平時ではない、紛争当事国の一方に、武器を供給したら、相手国から「同類」とされて当然ではないか。
ヘルメットや防弾チョッキ、あるいは現金供与までなら、すれすれだったけど、一線を越えてしまったのは、日本側となる。
恐るべき、岸田政権の「実行力」なのだ。
それもこれも、与党が絶対安定多数を持つ、国民のおかげ。なのである。
幕末の日本人たちが、なぜに外国人をかくも毛嫌いしたのか?は、民族としての価値観が水と油だったからに相違ない。
この点で、不可思議なのはアメリカ民主党の子会社、岸田政権がやろうする、日本学術会議の「民営化」だ。
この真の意図はなにか?がよくわからないから、手放しで「ざまぁ」とはいえない。
さていま、訪日外国人たちが、自国との違いに、わが国を「別の惑星」と表現しているのは、よほどの洞察力だと思っていいのである。
自国(文化)とは何か?を彼らはちゃんと定義している。
やや自虐的な共通はあるが、日本文明に対する「全く別」という評価の結論が導きだされるのがあんがいと論理的思考の順番になっている。
なので、外国の社会を探究したひとが書いたものが、そのまま日本で通用するとかんがえるのは、かなりのおっちょこちょいである。
それが典型は、『資本論』なるものに代表される、インチキ思想にはまり込んだおっちょこちょいたちなのだが、このひとたちは暴力的なので始末が悪いのである。
どうして暴力的になるのか?といえば、マルクスが革命を言っているからではなくて、勝手に定義した人文科学としての「解釈」が、ひとそれぞれであるものだから、自分だけが絶対に正しくて、残りはぜんぶ間違っているから、排除するのが社会のためだと、これまた勝手に思いこんでいるからである。
こうして、はじめは徒党を組むが、たいがいが内輪もめしてそれを、これらに与しない外野が、「内ゲバ」と呼んでいたのである。
そんなわけで、フォレットの論文の凄みとは、日本がまさに「欧米化した」ということであって、江戸期の学者ならなんと評価したのかを知りたくなるのである。
ところが、もはや漢籍(「崎門(山崎闇斎が発祥の朱子学派)」とか、「水戸学」とか、橋本左内)に通じたひとを見つけるのが困難だから、あたかも100年前にフォレットが書いたことが、いま、そのまま日本に適応できることが、ヤバイと感じるわたしがヤバいのか?
この意味では、ドラッカーも同様だし、その前のバーナードも同様である。
来年は、三戸教授の、『恥を棄てた日本人』でも読んでみたい。
読者の皆様には、良い新年を!