「護衛艦いずも」をみにいってきた

6月1日は,横浜開港記念日だ.
むかしは仮装行列やバザーが同時におこなわれたが,いま仮装行列は5月のGW実施になったから,開港記念日にちなんでいるのかどうかわからなくなった.

この日,横浜市立の学校はぜんぶ休校になる.
それで,小学校の鼓笛隊で二回,仮装行列の中のひとになったことがある.
「スニーカー」がまだない時代,運動会では足袋を履くのがふつうで,ふだんは底のうすい運動靴しかなかった.

その靴で,4キロほどの行程を演奏しながら半日かけて歩くのは,けっこう難儀だった.
沿道は,運動会とおなじで,ゴザや新聞紙をひいて座ったひとたちが弁当をたべながら一杯やって見物していたから,目線と声援は下からやってきた.
貧しかったむかしは,沿道との一体感があった.

大桟橋にいくのは何年かぶりだが,あたらしく変なデザインになってからは一度もなじめない.
むかしは素っ気ないものだったが,土産物売店に往年の賑わいのなごりがあった.
小学校1年生の遠足が,大桟橋で,接岸していたキャンベラ号の船員さんに「ハロー!」と叫んだら,手を振ってくれた.客船の外国定期航路があった時代である.
明治のむかしのころの大桟橋を描いた絵が,桟橋の入口にある.
よくみると,いまと機能面での違いはないから,そんなものである.

わたしが通った小学校は高台にあった.
授業中だれかが「ビルが動いている!」と叫んで,先生をふくめ全員が窓に注目すると,横浜駅のデパートがほんとうに動いているようにみえて,教室は騒然となった.
それが,当時世界最大といわれた「クイーンエリザベスⅡ世号」の入港だった.
週末,大桟橋に行った.大きすぎてよくわからない.山下公園からみると,大桟橋がみえなかった.

わが国最大の「護衛艦いずも」は,設計時には将来も問題ないと専門家が太鼓判を押して,完成してすぐに世界最大級の客船がくぐれなくなくなったベイブリッジをくぐってきた.
そういえば,中学生のころ,遠足で横須賀の安針塚をハイキングしたら,高台の公園からちょうど入港中の米空母エンタープライズがよくみえた.

その大きさは,クイーンエリザベスⅡ世号の比ではなかった.
ひとはなぜか巨大なものに興奮する.
たまたま,入港に反対するひとたちが,おなじ公園からシュプレヒコールをあげていたが,われわれの歓声にいらだちを隠せなかったらしく,「君たち,ちがうだろう.かっこいいものではない!」と言ってきたのを思いだす.
興奮した子どもが集団で,「かっこいいものはかっこいい!」と言い返したのは言うまでもない.

すると,このおとなのなかの数人が,「たしかにこうしてみるとかっこいいなぁ」といったから,内輪もめがはじまった.
そのあと,どうなったかはしらない.
冷酷な子どもの集団は,注意してきたおとなに冷笑をあびせて立ち去ったからだ.

きっといるだろうと期待したら,JR関内駅で「空母入港反対!」というひとたちがいた.
「いずも」は,ヘリコプター空母だろうから,省略すれば「空母」になるが,表現としていかがなものか?
また,垂直離着戦闘機対応のための改造反対!とかも言っていた.

1時間待ちで,いずもに乗艦すると,その小ささに驚いた.
床は滑り止めのゴムのような特殊な塗料が塗られていたから,このままなら素人でも垂直離着戦闘機はムリだとおもう.ジェットエンジンの噴射で溶けてしまうだろう.
それなら,どんな改造で可能になるのか?
格納方法だけでなく,運用は?

海上自衛官候補募集のテントには,若者たちが座って説明をきいていた.
おそらく,少子化という問題は,すでに「定員」にたいしても深刻な影響をあたえているのだろう.
これは,「人口問題」だから,若年層の人手不足,として容赦なく,すべての職業にあてはまるから例外はない.

つまり,若者の争奪戦は,完全ゼロサム・ゲームである.
決められた数しかいないから,だれかが採用すれば,だれかが採用できない.
「官」だろうが「民」だろうが,総力をあげての争奪戦となる.
新人が入らない組織は,なくなるしかない.

自衛官とてその例外にないのだ.
だから,これまで以上に,市民に愛される自衛隊を強調した活動がさかんになるにちがいない.
今回の,横浜港入港も,その活動のひとつだろう.

出港は,本日6月3日午前10時である.
おそらく,行き先は横須賀だろうから,東京湾にいることに変わりはない.

こっくりさん

学校で「禁止」を命じられた遊びに「こっくりさん」があった.
必須の鳥居に,数字やひらがなの五十音表などを書いた紙の上に10円玉をおいて,三人以上の指を10円玉に置くと,勝手に10円玉がうごいて,さまざまな質問に回答するというものだ.
あんまり流行ったものだから,「経験者」はおおいだろう.

お狐様の「こっくりさん」が降霊するという触れこみだが,科学的に何故かというとさまざまな説があって,なかでも「潜在意識説」が有力なようである.
要は,参加者の「潜在意識」が,指に力を与えて10円玉を動かす,というものだが,本人たちは,力を入れるどころか,勝手に10円玉が動く,という感覚のほうが強いから,大流行した.

ふだん,力を入れるという感覚を意識しているとおもっているから,力を入れていないのにものが動く,ということにものすごく違和感がある.
しかし,逆に,力を入れようとしているのに,体がおもうように動かない,ということもある.
つまり,無意識のなかと意識のなかとでそれぞれに「動く・動かない」があって,ひとは自分の体をあんがいコントロールできないものだ.

お稽古事も,スポーツも,そのために練習・訓練するとかんがえれば,納得がいくものだ.
達人がさりげなくおこなう所作も,素人にはとてもではないが簡単にはできない.
狂言の「釣狐」は,その典型である.

さて,個人の世界から社会集団に転じると,社会にも「潜在意識」がある.
だから,個人と社会の中間にある,企業という集団にも潜在意識がある.
その潜在意識が,ある一点にあつまると,「こっくりさん」のように,勝手に動いてだれにもどうすることもできなくなることがあるし,ふだんではかんがえられない集中力を発揮することもある.

だから,有能な経営者は,従業員の潜在意識に対するすり込みを重視する.
それは,よいことをしている,社会に役立っている,ということだと,もっとも強いすり込みになる.
ここには,「金銭」である「損得」が入り込まない,という特徴がある.

日本人は,かつての「武士」の価値観が一般にまでひろがったため,むき出しの「金儲け」を嫌うどころか嫌悪する習性がある.
その最たるものが「役所」で,役所が有料でするサービスでは,「儲け」をいかに出さないか?に気をつかう.それで,赤字分は当然に税金で補填するから,結局は住人が負担している.このとき,そのサービスを享受しないひとも負担させられるから,「平等」とは難しいものだ.

ヤマト運輸をいまのヤマト運輸にした,故小倉昌男氏の「経営学」には,上述したすり込みの極意が記述されている.
「サービスが先,利益は後」というかんがえ方は,みごとに日本人の琴線に触れる.
これは,たいへん重要なことだ.

アフリカ諸国や,ラテン・アメリカ諸国では,なにを言っているのか理解されないかもしれない.
いわゆる「ぼったくり」というのは,その時々の価格交渉の結果,という理屈にたつと,あとで気づいた購入者がマヌケだったということになる.

なにかのTV番組で,わらしべ長者のごとく物々交換しながら旅をする,という企画ものがあった.
そこで,アフリカのとある国で,欧州で交換した高価な物品が,交渉の挙げ句,残念なものと交換した.それで,返してくれと再交渉したものの,応じてもらえないという場面があった.

あたかも,この強欲なアフリカ人が悪い,と感嘆役のタレントが言っていたが,そうではない.
世界はそんなものだし,いったん合意して契約したら,その取引は成立する.
だから,相手のアフリカ人からしたら,マヌケな日本人,という印象が深まるばかりだろう.
これを,日本人視聴者の潜在意識に訴求したから,いっきに下劣な企画に成り下がった.

「サービスが先,利益は後」の前に,だれもが納得する「適正価格で」をいえば,世界で通じる普遍的な価値観になるだろう.

英語力がないからリベラル

「リベラル」は,「Liberal」であって,「Liberty」に通じる.
いくつかの英和辞典で,「自由主義の」の後ろに「進歩的」という訳をつけているのは,戦後日本の事情を介したものか,それとも「第一次」(二次ではない)大戦後の英国の事情を介したものか?の説明はないから,あんがい不親切である.

ハイエクの名著「隷従への道」の新訳が日経BPクラシックスから出ているが,そのはじめにハイエク全集の編集者ゴールドウェル教授の序文がある。
「左派は第3章を、(中略)右派はアメリカペーパーバック版序文(本書に訳文掲載)を読むといい。そこではリベラルと保守のちがいが述べられていて興味深い。実際に読んでみたら、右も左も驚くことだろう。」

  

この序文には,出版当時(第二次世界大戦中)の英国で,著名な書評家が「読んでいない」(と告白している)のに,この本を酷評したエピソードも綴っているから,どちらさまも「そんなもの」なのかもしれない.
しかし,正反対の意味をもつ言葉をつかいわけるのは大変だ.
日本で「リベラル=進歩派」を自称するひとが,アメリカにいって自分は「Liberal」だと演説したら,けっこうブーイングの嵐に巻き込まれるだろう.

そういう意味で,日本語の「リベラル」は,「和製英語」になっている.
つまり,ネイティブに通じない「英語のようなもの」,なのであるが,通じないから「英語」ではない.
だから,「リベラル」というとちょっとかっこいい,気取った感じで言いきりながら,言葉の内容が「Liberal=自由主義」とは正反対の「進歩主義=社会主義」であっても,聴衆に英語力がないから,ぜんぜん問題にならない.

日本には,「和製英語」を研究している「英語圏」のひとがいる.


「バリバリウケる!ジャパングリッシュ」は,あたらしい「日本文化論」だろう.(残念ながら,本書は「Kindle版」だけの電子出版物である.)
ことばは文化そのもので,思考までも左右するからだ.
日本語しかできない日本人は,日本語でしかかんがえることができない.逆に,英語しかできない英米人は,英語でしかかんがえることができない.
ここに,決定的な文化の差がうまれる.

「ネイティブ」と呼ばれるひとたち,(日本人だって日本語ネイティブである)からすれば,和製英語はいけないもの,間違ったもの,と指摘するのは「親切心」からである.
むかし,わたしがエジプトにいたころ,日本人が大挙訪れていた時代で,観光客の外貨が欲しいエジプト政府から手始めにカイロ空港内での「日本語案内表記」についてアドバイスを求められたことがある.「手始め」というのは,街中でも「日本語案内」を計画していたからである.

当時,すでにいくつかの日本語案内表記があったが,だれが監修したのか不明の,どちらかというと「中国風」だった.郵便局には,「郵便」.トイレには,「便所」とおおきな案内看板があったが,文字が楷書でも行書でもなく,たいへん不思議なかたちをしていたのに,しっかり電飾看板だったから違和感もひとしおだった.

「表記内容」と「文字フォント」という問題よりも,きちんと届く郵便制度や,清潔なトイレが優先ではないか?というのが本音であった.
市内ですら郵便は届かないのが常識だったから,観光ガイドブックにも「注意書き」があったくらいで,だれも郵便物を利用しない.
国際空港としてあるまじき状態のトイレは,あしを踏み入れただけで我慢をしたくなったし,靴の裏さえ汚れた感じがしたものだ.だから,とにかく「清潔なトイレ」を主張した記憶がある.エジプト人の担当者は,それがいちばん難しいと言っていた.

さて,この「ジャパングリッシュ」で素晴らしいのが,和製英語のなかに英語として,「これはいけるかも」とおもえるものがある,という指摘である.
この発想はこれまでなかった.
「いけないもの」「恥ずかしいもの」としてしかの価値観だったのが,そうではないかも,というだけで変わる.

つまり,「日本の暮らし」のなかにあって,外国にないものが「輸出できる」ということだ.
これは,いままでもあったというが,あんがい「輸出」などしていない.
せいぜい,「お土産」の範囲をこえないものがおおい.
外国における,需要のリサーチというビジネスが,もっとあっていいだろう.

大企業向けでない,中小零細向けで,かつ,信用できるパートナーを探すことができれば,事業承継のおおきな助けになるはずだ.
縮む国内だけをみていたら,廃業したくなるだろうし,息子に強制もできない.
しかし,「売れる」となれば話は別である.

こうした点での,ネットワークづくりが,日本の弱みになっている.
個々の英語力よりも,ネットワークでなんとかする.
「リベラル」のひとたちに,がんばってもらいたい.

「机上の空論」のうそ

江戸末期,黒船以降のニッポンを観察した外国人が書き残したものは,いま読んでも価値があるものがたくさんある.
「日本文化」を売り物にしたい旅館や観光業のひとたちは,これらの本とともに,研究成果をよく識っておくと,売れる「商品開発」ができるはずである.

にもかかわらず,不思議と再生の現場では,先月や昨年の「損益計算書」の分析にいそがしく,過去からの延長線上の方策に磨きをかける,という絶望的な努力がまじめにおこなわれている.
それで,とうとう力尽きると,二束三文で売却されるか,地元民が眉をしかめる廃墟になる.
いまどきの買い手は,そういった施設の栄光の過去をあっさり否定して,少ない投資でかつ短期間で,ぜんぜんちがう施設へと変貌させてしまう.

どちらに知恵があるのかは,いまさらいうまでもないが,なにが過剰でなにが足らなかったのか?が,さいごまで理解できなかったひとたちが,経営権を失うのは,ある意味従業員にとっては幸いである.
しかし,だからといってあたらしい買い手のビジネスが,どれほど素晴らしいか?についてもたっぷり議論の余地はある.

こうした問題の本質に,金融があることがあまり議論されていない.
金融機関が決めることだから,「仕方がない」といってあきらめているのだろう.
ところが,いま,その金融機関が存続をかけた危機に直面している.
従来どおりのビジネス・モデルがほとんど通用しなくなってきているからだ.

借り手にとって重要なのは,自社のビジネス・モデルが世間に通じるか?であって,これが支持されるなら,商売でつまずくことはない.
つまり,商売でつまずいてしまっているなら,それは、自社のビジネス・モデルが世間に通じていない,というメッセージを世間からもらっていると理解すればよい.

残念なことに,金融機関は国からの監視がきびしいから,なかなか独自経営が難しい.それで,全国津々浦々の金融機関が困っている.
おなじ土俵で競争せよ,というのはいいが,おなじ土俵の意味がおなじサービスだから,本来の競争にならないことに,ビジネスで競争したことがない役人は気がつかない.

それにくらべて宿や観光事業は,よほど自由がきくから,かんがえるのに規制官庁からの難癖はあまりない.
だから,どうしたいかをジックリかんがえて,あたらしいビジネス・モデルを最低でも机上でつくることか大切だ.

よく,「机上の空論」といってバカにする人がいるが,自社のビジネス・モデルを机上で紙に描けないなら,じっさいにそれがうまく動くことはない.
正反対の軍事だとて,机上演習,が重要な訓練なのは,じっさいを想定してサイコロという偶然からの判断ができなければ,本番で部下を死なせてしまうからだ.

だから,「机上の空論」はたっぷりやったほうがいい.
そのとき,江戸時代の生活をどこまでも研究するのが望ましい.

たとえば,当時の日本人の生活には「食卓テーブル」はなく,「お膳」だった.このお膳が簡略化されて,「お盆」になって,食堂の「トレイ」に変化したのではないか?
西洋にはテーブルがあって給仕されたから,「トレイ」を自分でつかうのは,学生食堂のイメージだろう.

だから,それなりのグレードのホテルや日本旅館の朝食ブフェで,プラスチックの「トレイ」を最初に渡され,これを使うのをなかば強制されることに抵抗があるようにみえる.
たしかに,外国のちゃんとしたホテルの朝食ブフェで,トレイが用意されているところをみたことがない.みなさん,「皿」を複数手に持って,何回も取りにいくことに抵抗はなさそうだ.

さて,この「トレイ文化=略式お膳文化」について,高単価外国人客をターゲットにしたとき,サービス方式としてどうするか?あるいは,あなたの宿としてどうあるべきであろうか?
あくまで,日本方式を貫くのか?それとも?

わたしのイメージは,ブフェ式なら必要ない.
定食式なら,「お膳文化」がわかるような形状のトレイを選びたい,といったところだ.
なお,ブフェ式でトレイをやめて,皿にいくつかのくぼみがついている食器が用意されていることもある.これこそ,外国の学食のようだから,個人的には余計なお世話=過剰サービスだと感じる.

ほらほら,異論がありそうだ.
そのとおり,正解はないからかんがえ方次第でいくらでもバリエーションがあるのだ.
日本のお膳文化と,外国のテーブル給仕文化のちがいが発端だからだ.

さて,この議論,机上の空論なのだが,サービス・スタンダードとして現場要員数まで決まることになるから,どうでもよい話ではない.

「机上の空論」を従業員とたっぷりできる企業文化あってこそ,自社のビジネス・モデルを他人に説明できる素地ができるのである.
この,自社のビジネス・モデルに,本来は融資という信用がつくのだ.

バンカーは,顧客のビジネス・モデルを読み解きそれに価値を見いだせるかが問われるはずが,相変わらず不動産担保が融資根拠なのだから,AIに追い込まれるのは当然である.
しかし,「机上の空論」ができない企業は,実業として追い込まれてしまう.
ムダの代名詞としての「机上の空論」は,うそである.

「愛校精神がない国」がある

どこの学校を出たのか?を気にするのは,いがいと万国共通ではない.
ましてや「出たのか?」に,「中退」も含まれるのがわが国の特徴でもある.
だから,初対面で出身校の名前をきいても失礼なことだという認識がうすいひとがいる.
また,企業内でも,出身校ごとにまとまって,「派」をつくることもある.

以上は,「愛校精神」の表面上のあらわれでしかない.
しかし,たとえば,東京にある「学士会館」にいくと,学士とは旧帝大卒業者のことである,という定義に触れることができるから,なかなかの「選民(エリート)」意識にあふれている.

わたしは,「選民(エリート)」を否定しない.
しかし,「選民(エリート)」には,かならず「ノブレス・オブリージュ」がなければならない,と前に書いたとおりである.
また,学歴による身分社会をあたらしくつくったことも,前に書いたから,ここではくり返さないが,「学士会館」は,明治の価値観が戦後も残ったことのひとつであるにちがいない.

「価値観」となると,どちらが正しいのか?という選択は,たいへん難しい.
良い面もあるし,悪い面もあるだろうから,決めがたいのだ.
ただ,「価値観」をつくった「背景」をしることは大変重要なことだとおもう.
そういう意味で,日本における「愛校精神」の形成に,「身分」という要素があることをしっておきたい.それが,「学歴社会」の基礎をなしているからである.

注意したいのは,このときの「身分」が意味するものは,「大卒」という「学歴」を示すものではなく,まさに「社会的階級」を指すことだ.
華族も武士も,とっくに存在しない「平等社会」であるようにみえる日本だが,じつは深いところに「階級」としての「身分」がある.

だから,わが国は,最先端の近代資本主義社会のようでありながら,ほんとうは封建時代の価値観を色濃く残している国である.
近年激増した外国人観光客のおおくは,その構成をみればわかるように,アジア圏からの人びとで,ある意味ありがたいことに,表面ずらの(近代)日本,でいまは満足してくれている.

一方,そんなに構成上はおおくはない,欧米からの人びとは,深層の日本(文化),を識りたがっている.こちらも,伝統文化という側面での表面を識って満足しているようだが,ほんとうの「深層」に気がつくひとも,そろそろ現れることだろう.

もう30年以上前になるが,ホテルのフロントマンをしていたときで,築地市場の見学が外国人にブームになりかけていたころの話だ.
まだ暗い早朝にわざわざ出かけるひとが,ポツリポツリといた.ホテルのスタッフは皆,マグロの解体が珍しいからだと思っていた.

そこで,あるお客様に質問してみた.
築地市場のなにがそんなに興味があるのですか?
当然,マグロの解体,というこたえが返ってくとおもっていたら,「西側自由主義経済の国で,『公設市場』があるのが珍しいだけでなく,それが世界最大級であるから興味があるんだ」と.

ソ連・東欧圏は,まだ崩壊していない時代のはなしだ.
その,ソ連・東欧圏の社会主義体制が崩壊してなお,日本には「公設市場」があって,移転ばなしがかまびすしい.築地であろうが豊洲であろうが,職員は東京都の公務員である.
どこに移転するか?ではなく,公設市場がなぜ存在するのか?の議論がないことの不思議に,外国人観光客はとっくに気づいている.

社会主義の「平等原則」は,決定的な物資の不足を招いた.
国民に「平等」に「配分」するために,国家が「計画」しなければならないが,そんな計画はだれにも作れないからだ.その理由の大半は,「価格がない」ことにある.

「価格」というかたちで,需要と供給の均衡「情報」が伝わるから,「価格」を政府が決めたら,需要と供給の状態がわからなくなるのだ.
中学校でならう,こんな単純な「経済原則」を,70年も無視したら,貧困化するに決まっている.

東欧圏だったポーランドの大学は,いまだにすべて国立で授業料は無料である.
大学入学資格試験に合格すると,どこの大学にも無料で入学できる.
どこの大学も,基本的におなじカリキュラムでおなじレベルが原則だから,「大学を卒業する」ということの難易度も「平等」になっている.だから,だれも「どこの大学を出たか?」に興味がない.

これには,もう一つの条件がある.
それは,授業料が無料であるかわりに,一単位でも「不可」をとれば,即「放校処分」になることだ.それで,「卒業レベル」が「平等」になっているから,「どこの大学を出たか?」ではなく,「大学を出た」だけに絞られる.だから,「愛校精神」というウェットな感覚は育ちようがない.

入学者の20%ほどしか卒業できない.5人に1人である.
大学が「レジャーランド化」して久しい,わが国で,ポーランド式を実行するのはまず不可能だろう.

社会主義をやめたポーランドは,支配層以外,全国民の垂涎のまとだった「自由」を重視している.
だから,大学には「校章」はあっても,「校歌」などない.
入学式もない.スポーツや愛好会・同好会それに軍隊以外で,おなじ服を着ることもないし,昼食すらおなじ時間がない.
小学校だって,昼食のための休み時間がないから,給食もない.

「同じ釜の飯」という意味の「仲間意識」もない.
徹底的に「個人の自由」が優先されるのだ.
「学士会館」さえもないのは,かえって潔すぎるようにもおもえる.

常識やぶれの目標達成方法

ダイエット食品の宣伝に,「今のままなら今のまんま♪」という文句があった.
言い得て妙である.
なにか変化させなければならない.
そのために,これを食べてみましょう,というわけだ.

ダイエットであれ,企業経営であれ,これまでとちがう成果を期待するなら,これまでとちがうことをしなければならないのは,別に他人から言われるまでもないことだ.
しかし,あらためて言われて,はじめて「その気になる」ことがないと,じっさいの行動にならないのも確かなのである.

そこで,問題になるのは,「ゴール」である.
どんなゴール・イメージを描くのか?あるいは,どんなゴール・イメージが描けるのか?ということが,いきなり問われることになる.

じつは,問題をかかえたままでもがいている企業のおおくが,ゴール・イメージを「描けない」という状態になっている.
かんたんにいえば,どうしたらよいかがわからない,のである.
ところが,ここに重要な錯綜があって,どうしたらよいかがわからない,ということの意味には,日常活動も混じってしまっている.

つまり,ゴール・イメージと日常活動がかさなることで,はなしが「こんがらがる」のである.
この「こんがらがった」状態から抜けるには,こんがらがった糸を一本一本きれいになおすことが必要なように,はなしの筋を一本一本なおす作業がいる.
ふだん,丁寧な仕事をしている企業ほど,この作業を面倒がる.
それは,現状でも仕事がまわるからである.

ほんとうは,いまのままではいけない,とおもいつつ,現状はまわっている.
すると,余計なことをすれば,現状がまわらなくなるかもしれないし,たいがい,現場はいやがる.まわっている現状を変えるのは,現場にとっては余計なことだからである.

そこで,仕事の棚卸し,という作業が必要になる.
その仕事の名前と,その仕事が存在する理由すなわち目的と,今のやり方との整合性の確認だ.
これで現状が肯定されれば,その仕事は「変えてはならない」と決められる.
「もっとこうしたら」があれば,検討すべきだから「変えなくてはならない」仕事となる.

並行して,それで,なにがわれわれのゴールだったっけ?をかんがえる.
もちろん「利益を出すこと」がでてきてもかまわない.
とにかくたくさん,なんだっけ?を出すことだ.
ここで,「常識」にとらわれてはならないのが「コツ」である.

だから,複数の人間で,なんだっけ?をかんがえるなら,他人がだしたことに反論してはならないのだ.
むしろ,そんな突飛なことなら,こんな突飛なことでどうだ!でよい.
すると,「夢が膨らむ,あなたの胸に」という具合で,これまでかんがえたことがないゴールが見えてくるだろう.

さて,でてきたゴール・イメージを,端的にまとめてみる.
すると,たいがいのひとが,「えーっ!」と思うようなことになる.
ここで,一息.冷静になる.「こんなのできっこない」を鎮めるのだ.
そして,「どうしたらできるのだ?」に話題を集中する.

たとえば,何年かかる?
百年か?千年か?
十年ならどうだ?

もし,十年もあれば,ということなら,ここで紙に十年間の空白年表をつくる.
そして、十年後からこちらに向かって,この年になにをどうする?を書いていく.
一回できれいに年表ができるはずがないから,書き直しはいとわないことだ.

ここで,重要な発想法がある.
そのゴールが常識やぶれであれば,やり方もおのずと常識やぶれになる,ということを識っておくことだ.

すると,これができる企業とできない企業のちがいがみえてくる.
自由にものが言えるか言えないか?というちがいなのだ.
それで,自由にものが言えない企業こそ,現場から以上のやり方でやってみるとよいのだ.

わたしは,これぞ労働組合のあたらしい常識ではないかとおもっている.
働くひとが,みずから働き方をかんがえなくて,なにが働きかた改革なのか?
かつての組合員が,いまは経営者という企業は,大企業ほどあてはまるのが日本企業の典型だろう.

「安全地帯」にいる企業内昇格した経営者が,不思議と上から目線で,しかも,人件費は抑制されるべき,という「常識」に凝り固まっているのだ.この理由はかんたんで,そういう「常識」を言っていれば自身の身が「安全」だからである.
ここには,「いかに自社の付加価値を増やすか?」という経営者の役割に対する責任は微塵もない.

ならば,労働組合が,「いかに自社の付加価値を増やすか?」をかんがえなければ,誰がかんがえるのか?だれもいなくなってしまうのが,悲しいかな日本企業なのだ.
ところが,所詮,組合員から昇格して経営者になるのだから,時間の経過とともに,「いかに自社の付加価値を増やすか?」をかんがえる経営者になる可能性がいまよりも高くなる.

「ただしき」人民管理のチャンスである.

組織崩壊はめずらしくない

人間は理性的であると同時に感情的な動物であるから,その行動には,これらをみなもとにする「動機」がある.
マスコミがある意味どーでもいいことばかり意図的に連日報道しているうちに,興味深い事態が発生していた.ちなみにわたしは,この意図的に連日報道することを,「二分間憎悪」と呼んでいる.

さいきんの「組織崩壊」のひとつが,JR東日本労組の崩壊,である.
今年の2月1日には組織率80%だったものが,5月1日には25%になった.たった3ヶ月での55ポイントもの減少は,「崩壊」といっていいだろう.
こうした事態をまねいた執行部を,まるごと解任して新体制でのぞむことが決まったというが,誰のための労働組合か?からつくりなおすのは,容易ではなかろう.

ことのきっかけは,「春闘」における「賃上げ要求」闘争に,国鉄分割民営化以来封印していた「スト権」をもちだしたので,会社は「JR発足時」に締結した,「労使共同宣言」の破棄を通告したことだ.
むしろ,不思議なのは,スト権行使を嫌うおおくの組合員の声が,事前の決定要件になっていないことだ.つまり,「民主的ではない」という事実だ.

国鉄時代といえば,「国労」と「動労」という労働組合が,政治闘争に明け暮れていて,あまりの傍若無人ぶりに,国民の目線は冷たかったことをおもいだす.
これらには,「セクト」と呼ばれる政治的な活動集団が入り込んでいて,それが「労働組合」の本来あるべき姿から乖離してしまったことが当時も報じられた.
今回の大量脱退に,このあたりが臭うが,詳しい報道がないのは先に書いたとおりである.

一般に,日本の企業労働組合は,「ユニオンショップ」であることがおおいのだが,この事例では,労働組合を労働者の意志で脱退しても「解雇」にならないから,JR労組はユニオンショップ制ではないことがわかった.

会社側の労務政策も,「労使共同宣言」を廃棄したところまでしかわからないから,これからどうするのか?不明である.
そもそも,労働者がひとりだけでは,会社という組織に立ち向かえないから,不利益をこうむることになってはいけない.それで,労働組合法によって,組織とすることが認められている.

だから,このまま脱退した労働者を放置することも望ましくないだろう.
すると,またまた複数の労組ができるのか?
破たんしたJALには,労組が8つもあって,経営再建の妨げになっていた.
毎日乗る電車の会社が,これからどうなるのか?興味深いことである.

つぎの「組織崩壊」は,またまた,あの「雪印」である.
雪印メグミルクの子会社,「雪印種苗」が,牧草などの種子の品種を偽装販売していた.
これは,一気に組織崩壊したあとも,壊れつくしてしまったのではなく,ところどころでいまだ「崩落」が続いている事例だ.

このグループの不祥事の特徴は,あの「雪印(牛乳)事件」もそうだったが,死人がでないどころか,軽い下痢と異臭だったから,なんとなく「軽い」のだが,連山のように連なって不祥事を引き起こすまれな事例だ.
わたしが,この「雪印種苗」が気になる理由は,「雪印」というブランド以外に,「種苗」会社が種子の品種を偽装したこと,つまり「本業」でインチキしたからである.

つまり,これは,製造業でいったら,完全に製品偽装であって,安全基準を満たすみたさない,JIS基準を満たすみたさないという次元の問題ではないことだ.
タネ屋が売ったタネが,別の品種だった.しかも,インチキして,となれば,これを「偽装」と言っていいのか?きちんと,「詐欺」と言うべきで,刑事事件ではないのか?

捜査当局の裁量によって,これが立件されないなら,とうとう,刑事事件までもが「偽装」されていないか?と疑うのだ.
まじめなタネ屋からしたら,おとがめなし,では納得できないだろう.
すると,わが国は法治国家なのだろうか?という疑問すらうまれるから,注目したい「事件」だ.

最後は,連日報道の日大である.
これは,現在進行形だから,これからどうなるかわからない.
しかし,登場人物の意外さもふくめて,いよいよ「劇場化」してきた.
元えらい記者のありえない高圧的な司会ぶりは,ある意味,特攻精神にあふれていて,みごとな「二分間憎悪」を自ら演じた.

これで,大マスコミにとっての「スポンサーとしての日本大学」から,記事にして「売れる」日本大学に昇格したのは間違いない.拮抗していたであろう,マスコミ各社の広告営業の声が小さくなって,編集のイケイケの声がきこえる.
それを,大学広報部の人間という立場で,内部からやりのけたのだからたいしたものだ.

終わってみれば,日大改革の最大の貢献者は,このご老体だった,ということになるのではないか.すると,彼に依頼した広報部も,けっしてマヌケではなく,確信犯的である.
これが,「危機管理学部」の凄みだとしたら,こちらもそうとうな逆転劇になりそうだ.

たしかに,大学のあるべき姿,からすれば,「膿」をぜんぶ出す組織の大掃除が必要だ.
しかし,内部を知ればしるほど,「闇」は深かろう.
まともなやり方では,とても「闇」を追放することはできない.
そのための,近年稀な捨て身の大作戦が,あの記者会見だとすれば,司会者の言説もつじつまがあうから,驚くべき「役者」がいたものだ.

これで,翌日,とうとう「学長」が表に立たざるをえなくなった.
それで,記者から「理事長が出てこない」,という核心がはじめて飛び出したが,これは「編集」からの宣戦布告の号砲であろう.

学生が決死の記者会見をしているときに,理事長がパチンコに興じている姿はYouTubeにある.
各種「闇団体」とのおつき合いもチラホラ言われる「理事長」こそ,本命中の本命である.
内部からの包囲網構築に,この理事長はぜんぜん気づいていない様子だから,劇的な展開が期待できるというものだ.

しかし,まさかこれに水を差すかもしれないのが,「国家」である.
すでに「議員連盟」が,文科省と子会社のスポーツ庁に圧力をかけている.
かれらは誰のために行動するのか?理事長や「闇団体」側に有利なことにならないか心配だ.
今すぐにではなく,大学運営の「正常化後」を見すえて,私学助成金の減額をする,という嫌がらせの有無が,ひとつのバロメーターになるだろう.

盤石にみえる組織も,人間の集団にすぎない.
その人間は,理性と感情の動物であることを忘れると,ある日,突然の崩壊がやってくる.
しかし,ほんとうは突然でもなんでもなく,必然なのである.
人間の理性と感情は,化学反応でもあり,物理法則でもある.

だからこそ,「育ち」が重要なのだ.

自治会と自治体

むかしながらの「町内会」のことを,あたらしく開発された住宅地だと「自治会」という.もちろん,現代的立体長屋である団地やマンションも,「自治会」がある.
「自治会」は,「任意団体」だから,入会も任意だし,規約も任意である.
それで,入会したくない,といったらご近所からゴミ出し禁止や回覧板からはずされたりしていじめられる.

たまらんと訴えたら,最高裁が「任意」だと決めてくれた.
だから,自治会に入らなくてもいいし,いじめはいけないということになった.
それでは,会費だけ取られてバカバカしいから自治会になんか入らない,というひとも確実にふえているらしい.

ところが,定年して自治会なんてぜんぜん興味なかったひとが,あんまりヒマでやることなくて,自治会に集まってくる,という現象もある.
それで,むかしからの面倒なしきたりが改善されることもあるから,あんがい結構なことである.
じっさいに,自治会の役員というボランティアをやると,役所がぐっと近くなる.

もちろん,役所から近づいてくるのではない.
動くのは自治会の役員の方である.
こまごまとしたことが,とにかくたくさんあるものだ.
どうしてここまで住民のボランティアがいるのか?とさえ思うことがある.

もっといえば,自治会がないと暮らしにくい.
さすれば,自治会活動こそが自治体の重要な活動だとわかる.
ところが,すでに役員が高齢化しているから,回覧板のデジタル化なんてできっこない.
会費の徴収も,自動引落ができないから,相変わらず各戸をまわって現金で集金する.
それで,金銭トラブルになる自治会があとを絶たない.

これらの困ったをどうやって解決しようかとかんがえれば,役所の仕事が肥大化して,自治会を支えることとは別のしごとにずいぶんな資源が使われていると気づく.
あきらかに,パーキンソンの法則が有効になってしまっている.

これからの人口減少で,いかに役所のしごとを減らすか?ではなく,役所のしごととはなにか?から見直さないと,通常生活が厳しくなるだろう.
まっさきに,産業政策にかかわる部署は廃止して,資源の組換えにつかうとよいだろう.
商工会があれば十分.経済活動にとって,役所のからみこそ,邪魔でこそあれ役に立たないものはない.

ちなみに,商工会に農業者をいれないのは,幕府による「士農工商」の伝統でもあるのか?
「農商工会」にすればスッキリするのではないか?
そうすれば,日本型「コルホーズ」である「農協」から逃げてこられる可能性もある.
農業と商業・工業のつながりが,ないことのほうがおかしい.

住民は生活者であるのだから,地元の「農商工会」の活動が,自治会の活動とリンクすることで,より「地元」を理解できるようになる.
組合員に逃げられてはたまらんと,「農協」もなにかをはじめるだろうから,役所が余計な介入をしなければ,いいことずくめだ.

70年代に,東京の中野区役所が当時として画期的なシステムを運用した.
戸籍係の窓口番号が,ぜんぶ「1」番になった.
戸籍にかかわる手続きなら,どの窓口でも全部できるようにした.
これで,謄本も,印鑑証明も,転入も転出も,学校の転入学も転退学も,一箇所に一回並べばすむようになった.

これらの手続きが,番号で振り分けられていて,それぞれに並ばなければならなかった当時,全国の自治体から見学にやってきたというはなしがある.
住民からすれば,下手をすると,半日しごとになっていた.最悪なのは,順番待ちでお昼になると,容赦なく一斉に昼休みになったから,追加で一時間のムダもうまれた.それで食堂にいけば,フライングの職員の最後尾に並んでまた待たされた.

このときのシステム設計思想は,「なぜ住民は役所にやってくるのか?」ということからかんがえたのだった.
もちろん,この問いのこたえは,「そこに住人がいるから」である.

つまり,住人からの目線でシステム設計をしたら,ぜんぶ「1」番窓口になったのだ.
すると,全国の役所が見学にきたのは,それまでが,「役所の効率」という目線でシステム設計されていた,ということの証左でもある.
さらに,大挙して見学にはきたものの,中野区のシステムを真似た自治体は,しばらくの間この国のどこにもなかったのである.

住みやすい町は,自治会が最小単位になるから,自治会にとってのハッピーという目線がなければ,じつは自治体が自治体である必要をうしなう.
すると,おどろくほどのムダが見えててくる.

ヨーロッパの地方議会には,議員は無報酬,議会の開催は金曜夜8時からというところがふつうにある.
これは,そのへんのどこにでもある町内会・自治会の役員会に似ているではないか.
原点回帰という問題が,突きつけられている.

経営も,原点回帰レベルでの見直し作業が,おもわぬ発見をみちびくことがある.
数年に一回つくる,経営ビジョンなどは,まさにそのための手法である.
成功と失敗の分岐点に,誰のため?という自問があるのだ.

あやしい「正義」

大学世界ランキングでトップ5から漏れたことがない,アメリカの有名大学教授が書いた,「これから正義の話をしよう」が6年程前に大ベストセラーになった.

 

わたしが学生時代だったころは,「選択の自由」(1980年)と「第三の波」(1980年)が印象的だ.

 

「選択の自由」は,いまでいうバリバリの「新自由主義」というよりももっと過激な「自由放任主義」のほうだが,1976年のノーベル賞受賞時のさわぎが嘘のような売れ方だったとおもう.「売れた」から,その本の主張に「正義」があるとはいえないが,「共感」ぐらいはあったろうから,まさにいまからすれば隔世の感がある本である.

わたしには,鉛筆がどうやってできるかを知っているものはだれもいない,という「鉛筆の話」が印象的だった.これは,大変長い引用であったが,リアリティある話だった.
そのフリードマンのマネタリズムは,「スタグフレーション」に苦しむレーガノミックスに採用され,「ケインズは死んだ」と言われだしたのがこの時代だった.

30年後,ずっと黒田日銀は,金融緩和でのインフレ誘導をしている.「緩和」の意味は,貨幣供給量を増やす,という意味だから,フリードマンは日本では生きている,といえるのだろう.
ここにきて,原油高と円安の「効果」で,ガソリン価格が高騰している.
コントロールできるインフレではない,「悪性インフレ」が心配だが,えらいひとで言うひとはわずかだ.日本で,「スタグフレーション」が発生しないか心配だ.

「これから正義の話をしよう」のよい読者ではないが,「正義」の概念は「思想」によって変わるから,「絶体」ではないことがわかる.
その点,「善の研究」の「善」は,あんがい「絶体」なのである.

世の中でおきる「結果悪」という,わるいことの原因のほとんどが,「善意」からうまれる.
悪意をもってなにかすれば,それはたいがいわるいことになるのだが,「塞翁が馬」ということもあれば,「シンデレラ」のようなこともある.ところが,ふつうは,さいしょから悪意をもってなにかすることはすくなかった.

だから,よかれとおもってしたことが,結果的に取り返しがつかないわざわいになると,深く記憶にきざまれる.
それが,さいきん「いじめ」という悪意が世の中にあらわれて,救いようがないわざわいを他人にあたえている.

「いじめ」はいけない,といって「撲滅運動」をする.
このての社会「運動」が加害者や被害者本人に役に立つことはほとんどないが,「何かやっている」ということでの「安心感」が与えられるから,「正義」を実感できる.

不思議なもので,こうしたことに熱心なひとたちは,あんがい学校教育での「道徳」に反対する.
「家庭や地域での活動が重要なのだ」というのだが,その家庭や地域での活動が現実にできなくなっているから困っている.

じつは,「いじめる側」には「快感」がある.他人をいじめると「気分が晴れる」.
だからやめられない.
これは,「道徳」の問題だろうか?

さいきんの脳科学では,脳内物質の研究が進んできて,精神と脳内物質の関連性がだんだん見えてきたようだ.
脳内物質をつくる(合成する)材料が,腸でつくられることが証明されたから,「腸内フローラ」の重要性は高まるばかりである.

しかし,誰でもしっている「腸」の機能は,「消化」である.
つまり,脳内物質をつくる材料の材料,すなわちおおもとは,「食べ物」だということがわかる.
そこで,精神活動の異常で疑うべきものは,本人の「食生活」なのではないか?

「栄養バランス」を欠いた食生活が,いじめの加害者をつくる,という可能性は,専門家にぜひ研究してもらいたい.
それは,成長期の子どもにとってと,成人にとってどのような「ちがい」あるいは「共通点」があるのか?も興味深いことだ.

おとなの世界の「理不尽」も,もしかしたら?と思いあたるふしがないでもない.
「正義」のみなもとに,「食」がある可能性がでてきた.

「コンテナ」はシステムである

港湾の「荷役」というと,どうしても肉体労働のイメージがつきまとう.
建設工事現場ではたらくのと同様か,それ以上の過酷さが連想された.
作詞家,なかにし礼氏をして,戦後日本歌謡の最高傑作といわしめたのは,美輪明宏の「ヨイトマケの唄」であった.「とうちゃんのためならエンヤコラ」と,うたで拍子をとりながら力作業をしていたリアルな光景があった.

トヨタ生産方式による「七つのムダ」のひとつに「運搬のムダ」がある.
材料部品が工場から運搬されて,それを一時保管し,ひつようなときにまた運搬する.
あるいは,完成品を一時保管し,出荷を待って,また運搬する.
これらの「運搬」に,付加価値はない,と定義したことから,あの「ジャスト・イン・タイム」がはじまる.

その運搬の世界で,「コンテナ」が発明され最初に使われたのは1956年だから,意外とあたらしい.
発明者は,当時20代の若い長距離トラックドライバーだった,マルコム・マクリーン氏である.氏が設立した海運会社,「マースク」社は世界最大の海運会社として有名だ.

発明のきっかけは,長旅でたどりついた港湾で,トラックの荷物を船に「積みかえる」作業が過酷で,かつ,不効率におもえたからだという.
「だったら荷台ごと船に積めないか?」
さすがのアメリカでも,このかんがえは大胆すぎた.

本人は,丈夫だが簡単な構造の「箱」をつくって,強度をためすこともしている.
ところが,たちはだかったのは,「港湾の輸送システム」そのものだった.
どうやって,その「箱」を船に積み,どうやって行き先の港で降ろすのか?
専用のクレーンと,専用の船がいる.

専用のクレーンは,行き先のすべての港になければならないから,驚くほどの投資が必要になる.
アメリカには殊勝なお役人がいて,「これはつかえる」とのってきた.
それで,最初はおっかなびっくりの実験がおこなわれたという.

このはなし,いまのわが国に置き換えるとどうなるだろうか?
おそらく,まずまちがいなく「ありえない」だろう.
既得権にまみれた「業界」と,その既得権益の維持をはかることしかしらない「監督官庁」によって,アイデアそのものが葬られると想像できる.

それで,外国で発明された便利な仕組みに呑み込まれることになった.
「コンテナ」は,「箱」を製造すれば実現できる運送方法ではない.「箱」がどこにあって,どこに行くのかを管理し,行き先と重さをコントロールした積み方を決め,それを最終的には陸上輸送しなければならない.つまり,「システム」なのだ.

コンテナは地球規模の巨大な運送システム,である.
現状に満足する業界と,それを支える役所のシステムは,一時的には効率よくみえた.だが,それはみごとな錯覚であって,わが国は,「箱」を効率よくつくることはできても,運送システムをつくることはできなかった.

このことから,役所の限界がみえてくるのだが,懲りないどころか,エリートを気取って民間をバカにする役人が,たかだかサブカルだとたかをくくって「やっちまった」のが,「クールジャパン戦略」の大失敗である.
ズルズル・ガボガボの会計検査院をして,「ムダ」と決めつけられた失敗のツケは,国民が負担する.

民間ならば,「失敗のツケ」という借金は,自分で清算しなければならないが,このひとたちがお金を負担するはなしを寡聞にしてきかない.
つまり,最初から「責任」がない.
ふつう「有限責任」をもって会社というが,社長一家の個人資産も根抵当にして会社に供出するから,ぜんぜん「有限」ではないのがむかしからの「問題」なのに,役人のやる「事業」は,責任がないから「無責任」である.

その「無責任」な状態の組織が,あたかも責任があるように振る舞う.
これは,「イリュージョン」である.
本物の「イリュージョン」には,驚くほど単純な「タネ」がある.
しかし,この「無責任」な状態の組織には,なんと「タネ」がない.あるのは,「仕掛け」だけだから,これをふつうは,「詐欺」という.

しかし,民主主義のしくみは,これを「詐欺」とはいわない.
「無責任」を承知でカネを出すのは役所だが,その役所にカネをださせる命令は議会がする.その議員は住民である国民が選ぶから,「無責任」の失敗の「責任」は国民がかぶるのは,当然なのだ.

こうして,愚かな国民の国は,自業自得というブーメランばかりが飛び交って,ズタズタになる.
かくして,「国家依存」はかならず「国家の衰退」を約束することになっている.
それではいけないと,ふつうは,これに真っ向反対する「野党」があって,自業自得のブーメランを回収したり,あたらしく飛ばさないようにすることを主張して,政権奪取をはかるのだが,なんとわが国には,もっとブーメランを飛ばして,国家依存せよという野党しかいない.

これに気づいて,あきれ果ててしまった人たちが外国に「移住」しだしている.
それで,外国で優雅に暮らす人たちを憎むように仕向けると,あたらしい「税」にも愚かな国民は賛成する.
そのはじまりが,「出国税」である.そうして,「帰国税」が準備されるにちがいない.

コンテナ・システムをつくれなかった「国」は,「国民統制」という別の巨大システムを生み出そうとしている.