温泉の化学

「温泉宿の温泉知らず」
むかしからいわれているフレーズである.
現代において,これは「自社商品」にたいする決定的な「理解不足」になるから,経営に致命的なダメージをあたえて不思議ではない.

「温泉宿」や「天然温泉温浴施設」の業界団体が,スポンサーになってその「効果」にたいする「研究を支える」ほどの支援をしているはなしを聞かない.
また,「温泉税」を徴収する「自治体」という「地方政府」も,そのような研究にいかほどの支援をしているのだろうか?

たとえば,少子で生徒募集に窮した昨今の私大を,自治体が「公立大学」に経営変換させて生き残りをはかる事例がみられるが,「コンセプト」に乏しければ,自治体の財政負担が重くなるばかりで,経営変換の目的合理性を失うことは確実だろう.
本来,文科省の役割がどうあるべきかの議論が必要だが,文系ではなく理系重視,という方針からすれば,地方の元私大で理系のなかに,「温泉研究」があっていい.

テーマは,「温泉と健康」がのぞましいから,理系でも医系である.
西洋医学という主流医学は,「温泉療法」をどうみているのか?
ヨーロッパでは,入浴よりも「飲泉」が重要視されているらしいが,日本での伝わりかたはゆるやかな気がする.

温泉がややこしいのは,地下から湧いてくるからだ.
残念ながら,いまこの瞬間に地表にでた「温泉の湯」が,どのような経路でやってきたかを知る方法がない.
だから、基盤として地質学の知見が必要となるだろう.
これはある程度素人でも想像がつく.

たとえば,わたしの住む神奈川県には丹沢山があって,そのふもとには「強アルカリ性」の湯がでる温泉地がある一方,箱根には硫黄分が強い「火山性温泉」がある.丹沢山系を八王子当たりで地図を対象に折り込むと,笹子トンネルを抜けたあたりにある,山梨県の笛吹川沿いにも「強アルカリ性」の温泉郡がつづく.

伊豆半島を代表する,三島の「三嶋大社」は,そのむかし,「伊豆島」が本州と衝突してできた山々をまつっている.さらにそのまえには,「丹沢島」が衝突したというから,あんがい神奈川県の丹沢温泉と笛吹川温泉は兄弟筋にあたるのではないか?
じっさいに入浴すると,その類似性に気がつくし,温泉成分表の中身も似ているようにおもえる.

このブログでも書いたが,「ミネラル」とは,元素のなかから「水素」「酸素」「炭素」「窒素」の四元素を除いたものすべて,にあたる.
「温泉成分表」の「陽イオン」と「陰イオン」の表示から,温泉の効能も導き出すことができるから,中高の「化学」の授業で是非あつかってほしいものだ.

それで,大学では,造山運動と地質を背景にして,温泉成分の知見を健康に応用してもらいたい.
とくに,温泉のミネラルについては個人的にも興味がある.
入浴による皮膚からの吸収,飲泉による経口からの吸収が,どのような作用をするのか?
それが,健康医学的にどういう効果なのか?の実証研究である.

「ミネラル不足」という「現代の栄養失調」につて本ブログで書いたが,「キレる子ども」や「引きこもり」などの原因として,臨床から指摘されてきている.
また,外国の研究では,「認知症」「自閉症」への効果もあるという.

すると,「温泉」をたのしむ,というのは「レジャー」として捉えがちであるが,そうではなく,かなり「湯治」のイメージへとシフトするから,経営にこまった温泉宿などの,あらたな「本業」がみえてくる可能性があるとかんがえる.

特許は役に立たない

ニュース記事で,特許取得件数や申請数が話題になることがある.
しかし,ほんとうに「特許」にはメリットがあるのだろうか?
最先端の技術にかぎっていえば,かなりの研究成果が「特許申請」をしていない.
そのかわり,「極秘」あつかいになっている.

特許を申請するには,その技術を図面等であきらかにしなければならないから,特許制度を悪用する不届き者にとっては,盗み放題になるという側面がある.
もちろん,このようなことにならないように,不正をしたものにはペナルティーが用意されているのだが,国境をこえて他国での「不正利用」となると,かんじんのペナルティーを要求することに多大なるコストを要して,泣き寝入りとなることがでてきた.

つまり,「特許制度」がグローバル化というなかで,崩れだしているのである.

いっぽう,「特許制度」そのものに反対の姿勢を表明したのがハイエク「個人主義と経済秩序」である.

「自由」を最上位の価値感とする彼には,「発明者を保護する」と称して,「発明」そのものを「国家管理」にしようとする「自由への侵害」とみえたのだった.

だれもが「特許制度」の有用性を認めていた時代の「異論」であったから,ハイエクの主張はみごとに無視されたが,上述のように,国境をこえて悪用されるようになった昨今,ハイエクの見直しがおこなわれだしている.
これに,「商標権」や「著作権」もくわわると,「知的財産権」というおおきなかたまりになってきて,その提示する問題はたいへんやっかいな様相をしめすから,なおさらハイエクが再読されるようになった.

残念ながら,飲食業では,「料理レシピ」は知的財産としてみとめられていないから,「著作権」の対象にならない.
実務では,「料理レシピ=作り方」が問題なのではなく,作り方にかんたんには表現できない「技術」が重視されるからだ.
つまり,料理人の「腕前」ということであって,それは,「無形文化財」という方向になる.

そのわりには,料理人の地位は高いとはいえまい.
これは,まだまだ社会が,料理人のすごさ,を認識していないということなのだろう.
かつてヨーロッパの宮廷では,使用人のトップが「料理長」だった.
あのモーツァルトやベートーベンも,宮廷おかかえの作曲家であり演奏家であったが,宮廷における音楽家の地位は,ほぼ最低クラスだった.
だから,食卓の音楽は,料理長が指示していたにちがいない.

国家が介入すると,まずは「資格制度」にてをだす.
すでに「調理師」は国家資格だから、この細分化がテーマになるはずだ.
「級」や「段」を設けるかもしれない.
さらに,栄養士との結合もありえる.
とにかく,人口が減少するから,そのうち「栄養士」だけでは生活がなりたたなくなるかもしれないからだ.

「自由主義」的な知的財産権の特許制度論があるなかで,無形文化財という分野の国家介入は,ずっと介入しやすい分野だろう.
ほんとうにちゃんとした料理が,これからも食べられるのか?

しかし,ファストフードやコンビニ・スーパーのお惣菜のなかにある「添加物」によって,味覚が破壊された現代人は,伝統的なダシにふくまれる「うまみ」を感じなくなるかもしれない.
すると,伝統的日本料理の分野で,政府がみとめる「有段者」の料理を,はたして「さすが」とみとめることができるのか?単に,権威主義によって,「おいしい」とことばにするしかないのか?ということがおきるかもしれない.

ましてや,幼少時から「添加物」で味覚が破壊されたひとばかりとなれば,料理人すら「味覚」があやしいということになる.
すると,味の調合はAIの役目になるのか?
それで.本格的料理が「まずい」とされたら,問題になるのはひとではなくAIの方だろうから,本格的料理の運命はもはや風前のともしび状態になる.

だから、「自分事」なのだ.
ぜんぜん別の問題のような,知的財産権の問題然り.
あんがいはやく,正念場がくるかもしれない.

「食育」は成功しているか?

喫煙禁止を家庭内に持ちこもうとする「健康増進法」と,それによる都道府県条例が話題になっている.
わたしは,10年前まで喫煙者であったから禁煙には賛成だが,国家権力や公権力が家庭内や個人の自由にまで侵入することについては,強い違和感をもっている.

役人のやることは縦割りで,しかもオリジナルをコピーする.
これで国会を通過しているのだから,おなじパターンなら反対できない,という論法だろう.
議員はそうした理屈によわいから,官庁ごとににたような法律がたくさんできる.
「食育基本法」というものもそのパターンだろう.

この国は,国民が国家に依存しているが,愚民化がうまく行きすぎて国家による統制が,あんがい困難になってしまうこともあるから皮肉なものだが,「愚民」というキーワードでかんがえれば,やはりほめられたことではない.
国がさまざまな「組織」や「資格」をつくって,「食育」を「国民運動」にする,
この「国民運動」という手法は,戦前・戦中のやりかただという認識をもつひつようがある.

「戦争反対」を強く主張するひとたちでも,「国民運動」には熱心なことがある.
どちらの行動も,どこまでかんがえて行動しているのか不明だが,「よいこと」におもえてしまうのが恐いことなのだ.
それは,古今東西,国家は「国民の善意」を利用するからだ.そして,国家権力を強化する.

小学校の給食で,いったいどういった「食育」がおこなわれているのか?と問えば,管理栄養士が組み立てた「献立」をもって,食べさせている,だけではないか?
その献立が月単位で一覧になっている「献立表」すら,親がどこまで読み込めているのか?
クラス担任の教諭とて,子どもたちと一緒に「食べる」というだけで,どのくらいの「説明」をしているのか?

つまりは,教室では「うまい」「まずい」だけが本音であって,まさか外国人が絶賛する「配膳」と「後片付け」をもって「食育」といっているなら,それこそ茶番である.
しかし,「親」世代も,給食世代だから,じつは「食育」世代なのだ.
「献立表」の記載が読み込めない,つまり,じぶんの子どもがどんなに考えられたメニューを食べているのかに興味がいかない親だから,給食の自己負担分すら支払わないのではないか?と想像するのだ.

中学や高校の「化学」で,生活のための「化学」を学ぶようになっていない.
「消化」というのは,完全に化学反応だから、そのもとになる「食物」や「食材」が,どんな組成で,それを「食べる」とはどういう意味なのか?
「女子高生」も卒業後10年もすれば「母」になる可能性がある.
「男子高生」も「父」になるが,「イクメン」などといっているわりに,子どもになにを食べさせるのか?ということの知識が,学校で教育されないのだ.

それなのに,「食育」といってはばからないのは,いったいどういう精神構造なのか?
「だから予算をつけなければならない」
これが,役人の発想になるのだが,自分事ではなくて他人ごとになっていることが問題なのだ.

「なにを食べるのか?」は自由である.
しかし,おとなとちがって,自分で選択することができない子どもに,「なにを食べさせるのか?」は,おとなの責任である.

休日の朝,ファストフード店にいけばよい.
離乳食レベルの赤ちゃんから小中高生が家族の朝食として,あるいは若いお父さんと来店している光景をみることができる.
こうした顧客層に対する,店員たちの献身的なサービスは,一見きもちのよいものなのだが,顧客が自分からすすんで購入した「食べ物の正体」をかんがえると,不気味なものがある.

人生の早いうちから,味を覚えさせろ!
さすれば,一生涯にわたっての顧客になる.
一回300円の購入でも,(週に何回)×(70年間)では,300万円をゆうに超える支出となる.

インスタうけという価値

ネット社会も,インターネットが珍しい時代から,あっという間にSNS全盛に進化した.
これは,技術的な進化にはちがいないだろうけど,文化的にはどうなのだろう?
見た目が勝負,ということの意味は?と,インスタうけ優先を横目からみると,無邪気によろこんでいいものかうたがいたくなる.

それは,内容ではなく「外観」がすべて,になってしまう危うさをかんじるからである.
ちょっとまえに指摘されたのは,「ランキング」だった.
情報があふれて,どんどんやってくるし,ネットで検索しても,似たような情報がたくさんある.
だからといって,それらの情報が,「正しい」のか「間違っている」のかの判断が,個人ではわからないことがふつうになった.
そこで,「ランキング」が重視される世の中になった.

その,「ランキング」も,むかしのように百位とか五十位からのスタートではない.
十位すら冗長で,トップ三しか数えない.
四位以下は,あっさり切り捨てられてしまうのだ.
それで,消費者向けの商品のおおくは,寡占化することになった.
だから,たいがいの商品は,みんなおなじものを持っている(コモディティ化)ので,極端なニッチか超高額なブランド品がいよいよ目立つようになった.

大メーカーは,あいかわらずの大量生産志向がやめられない.
それで,たいそうな「ビッグデータ」解析という趣向をもって,「マス」のうごきをつかもうとしている.
しかし,その「マス」自体が,「ランキング」に依存してとっくに流動化しているから,「過去分析」をいくらやっても傾向はつかめないだろう.

だれかが,「ランキング」にたいして新しい方向を示して,それを多数のひとがフォロアーとなって動けば,あっという間に流れがかわってしまう.
これは,想像以上に危険な世の中である.
「ちゃんとした」ものやことが,「ちゃんと」評価されるとはかぎらないからである.

すると,「ちゃんとしよう」ということのインセンティブがなくなってしまうことだってありうる.
ふつうに「正直者が馬鹿を見る」なら,それは、「不道徳な社会」である.

商売人が,売るために「インスタうけ」を意識するのは「本能」ともいえるだろう.
これに,まんまとはめられてしまうのか,知っていてそうなのか?
つぎのステージで,「本物を見分ける目」が,もっと注目されることになるはずだ,と期待したい.

経営を「効率化」したいけど

およそ経営者ならだれでもがなんとかしようとかんがえるのが,「経営の効率化」なのだが,なかなかおもうようにいかない,ということがおおいだろう.
ことばで,「効率化」とはいうけれど,なにをもって効率化の「評価」をするのか?をすっかりわすれてしまっていることがある.

こたえをさきにいえば,「総資本回転率」の変化をみればよい.
これは,「売上高÷総資本(=総資産)」で計算できる.
ようは,手持ちの資本すべて(=資産すべて)を一年間でつかって,いくらの売上金(=収益)を得たのか?を「倍数」で知ることができる,という意味である.

ホテルや旅館などの宿泊業は,とくに「高級」を標榜するするほどに,この数値は小さくて,場合によっては「小数点以下」のこともあるという傾向がある.
つまり,計算結果が,たとえば,「0.98」とかになることである.この意味は,一年間の売上高よりも総資本のほうが大きい,ということだから,自社がもっているものを使い切らなかった,ということでもあるし,自社がもっているものをもてあました,ということでもあって,じつに「効率が悪い」ということだ.

しかし,現実には,昨年が,「0.98」であっても,ことし,「0.99」になったなら,それはそれで「よい評価ができる」というものだ.
だから,「小数点以下」だからといっても,あきらめることはない.

ところで,このブログでも何回か書いたが,「損益計算書の誤謬(勘違い)」にはまってしまっている経営者はあんがいおおいから,「総資本回転率」をあげるために,まっさきに「売上高」をふやそうとして,従来の売上増のやりかたを「強化」しようとこころみることがある.
おそらく,その結果が,「低い倍率」であらわれているはずだから,この方法は,もっと数字を悪化させる可能性があることに気づくべきだ.

まず,第一に,分母に注目すれば,それは「総資本」なのであるから,貸借対照表には,調達方法が書いてある.そこで,自社の資本の調達方法について検討しなければならない.
第二に,さまざまな方法で調達された資本が,どんな形態で社内に存在しているか?をしめすのが「総資産」だから、こちらにおかしなものはないか?を検討しなければならない.

第三に,「財務諸表」には記載のない重要な資産である,「社員」について検討しなければならない.
社員(就業形態は問わない)を,どのように調達しているのか?
その社員を,どのような部署に配置し,どのような業務をおこなっているのか?
この,「どのような業務」のなかに,販売活動もあるはずだし,ムダな業務があるかもしれない.
「ムダな業務」とはどんな業務をいうのか?も決めなければならない.

つまり,経営者が自社の「効率化」をかんがえるとは,その基礎に,上述の内容がなければならない.
これをせずして,物理的強制的に退勤させ,残業を削減させたところで,本来やらなければならない業務もできなくなるから,かえって仕事が停滞することがあるのは,もうじゅうぶん経験済みだろう.

さて,人的資産の活動には,販売活動もあるのだから,こんどは,分子の「売上高」の検討になる.
世の中が,損益計算書の順番でない,ということに注意すれば,
「販売活動」(経費の使用)⇒「売上高」(使用した経費=資本の回収)
という,当然の順番であることに気づく.

だから,いかなる「販売活動」が,もっとも自社に最適なのか?という命題を解かねばならない.
「販売活動」には,「商品」も含めれるから,壮大なはなしである.
つまり,「新商品開発」までもが対象になるからだ.

「総資本回転率」は,たいへん重要な指標であるが,式が単純であるかわりに,式のなかの「項」がおおきなかたまりであるために,一種つかみどころがないようにみえてしまう.
これを「分解清掃」するのが,経営者たる「職人」のなせるわざなのだ.

生産性向上のための労働協約

人口減少や少子で人手不足がすさまじいから,生産性向上というはなしが,さかんになった.
そのために,最低賃金を大幅にあげるとよい,という議論まであるようだ.
たしかに一理ある.
そうすれば,売上単価をあげなければならなくなるから,生産性は向上するだろう.

しかし,単純にそれができない.
その理由は,経営者の無能にあるというひともいる.(わたしもそのうちのひとりだ)
ところが,もっと困ったことに,無能なひとほど他人のはなしをきかない.
それゆえ「無能」なのだ,とはなしがループする.

そこで,目線をかえたい.
そもそも,なんで貧乏なのか?というはなしだ.

「日本人は総じて貧しい,だがかれらは高貴である」と評したフランス人がいた.
このフランス人は,日露戦争がはじまることがいよいよ迫って,高貴なる日本人が地上から滅亡してしまうと嘆いたのだ.まさか,あの大ロシア帝国との戦争に,日本が勝つとはおもっていなかった.

このはなしよりも前,幕末にあの有名なシュリーマンが来日している.
「シュリーマン旅行記 清国・日本」は,かれがトロイの遺跡を発見する「前」のはなしだから,それだけでも興味深いが,横浜の港に着くところからはじまっている.

 

当時の船旅は,引っ越しをするようなものだから,とてつもない荷物がある.へんなヘアースタイルで,みすぼらしい木綿のスカートのようなものをはいた役人が,おそろしくゆっくりと丁寧な所作で,荷物検査をはじめたから,彼はどこの国でも役に立つ「袖の下」作戦をこころみるが,そんなことをしたら「ハラキリだ」といって相手にされなかった,というエピソードからはじまる.
「わたしは西洋人がしらない文明国にやってきた」と感嘆する.

だから,日露戦争までの開国期,日本人は上から下まで,「総じて」貧しかったのである.
しかし,この貧しさはずっとつづいて,ヨーロッパが第一次大戦で疲弊したとき,大戦景気で「成金」が雨後の竹の子のようにでたが,戦争がおわるとみごとに破産して,やっぱり貧乏になった.
これに,シベリア出兵が引き金で全国に米不足の不安で米騒動が起きるから,当時の世相はいまとはぜんぜんちがうとわかる.

政府は不足の米は補助金蒔いて朝鮮で開墾させた.このとき蒔いたのが「亀ノ尾」で,この米の曾孫が「コシヒカリ」だ.それで,安くてうまいと評判になって,首都圏流通の四割が朝鮮米の亀ノ尾になる.東北の米はまずくて高いが,東北出身の工場労働者が故郷のためにと購入した.
それから,関東大震災で首都が壊滅し,この復興にとんでもない費用をようしたが,アメリカで株が暴落し,世界恐慌になったらなぜか円と金の交換を再開して昭和恐慌になる.

昭和恐慌は,米の凶作とあわせて東北は深刻な飢餓になり,娘の身売りが風物にもなった.これが軍をしてクーデターへの行動となる.
ちなみに,震災のときの朝鮮人虐殺事件は,朝鮮米の怨みを東北出身者が晴らしたとのはなしもある.

日本では食えないと,ハワイ移民がはじまるのが明治18年,南米は明治32年だが,昭和4年に震災の後始末(ひとあまり)もかねてブラジル移民がはじまる.昭和7年に満州国が成立すると,やはり移民政策がはじまる.もっとも,明治元年には,ほとんど奴隷として日本人が連れて行かれている.それより前,慶応3年に,後の総理大臣,高橋是清はオークランドで奴隷の身でいた.
「狭い日本にゃ住み飽きた」とはいえ,食えないほどに貧しかったのだ.

ということで,資源のないわが国のひとびとは,国内においても低賃金であることを前提にして生きてきた.それで,なんとか外貨を得た.だから,長時間労働もふつうだった.
低賃金,長時間労働は,近代日本国の「国是」だった.
これが,資本主義発祥国の英国という島国と,決定的にことなる点である.かれらは,先行者有利のなかで,自国に資源がなくても,海外植民地からの収奪によって富を得ることができた.

余裕の資本主義国は,社会主義からの批判と攻撃で,自国労働者の権利が確立していく.それは,海外労働者の犠牲によるものではあったが,可能な福祉を享受できたのは事実だ.
英米の労組が,わが国とちがって職業別になっているのも,「資源国」のなせるわざであり,戦後本格化するわが国の労働組合結成が企業別になったのは,企業ごとに労働条件がちがいすぎたし,とにかく社内で結束しなければ,食えなかったからである.
これが,わが国の薄っぺらな豊かさの原因であり本質である.

英米とは,前提条件がちがうのである.
そこで,現代日本における生産性向上の策は,労働協約をきちんと締結させることではないかとかんがえるのだ.
「36協定」の意味さえしらないで働いているひとがたくさんいるのだ.

そんなことをしたら「事業が成り立たない」と叫ぶ経営者もたくさんいるだろう.
しかし,「事業」とは「ビジネス」のことである.
労働基準法を遵守したらビジネスが成り立たない,と正々堂々といえるものなのだろうか?
つまり,それは「ビジネス」ではない.

さらに,勘違いされてはこまるのだが,なんのための「労働協約」なのか?ということをちゃんとかんがえたい.
それは,真の労使協調を意味しなければならないとおもうからだ.
「法」は最低限である.だから、好調な企業は,法の基準のはるかうえの条件をはたらくひとびとに提示できるのだ.

人手不足が恒常化する人口減少時代,企業の競争力は顧客獲得競争よりも,優秀な従業員獲得競争に転移する.なぜなら,富を生み出すのは人間だけだからである.
従業員がいない会社は存続も存在もできない.
こんな条件ではたらけるものか,といわれるのは,なにも賃金だけではないだろう.
「労働協約」すらない企業に,だれが就職するのだろうか?

だから、政府は余計なことをやるまえに,現行法でもじゅうぶんだから,労働協約を締結させることをすればよく,労働団体は,中小零細企業の従業員に,教育,というサービスをおこなうべきである.
かんたんにいえば,政府は企業の採用活動に,労働協約の有無や内容,労働組合の有無や加入基準についての表示義務を課せばよいのだ.金商法や不動産賃貸契約でさえ細かい規定になっている.
労組は,かつての政治闘争を「教育」サービスに加えてはならない.だから,労基署の入口にかいてある,所管地域登録の社労士を講師に依頼すればよい.つまり,労組による労働教育ファンドの立ち上げだ.労働協約から労働組合設立にまでいければ,ファンドにお金が還元できる.

はたらくひとは自分が「はたらいて稼ぐ」ということの意味を,はたらかせるひとは,「他人の労働力を買う」ということの意味をきっちりかんがえることができるようになる.
これが,生産性向上のための重要な条件ではないかとおもう.

逆にいえば,このままでは,低賃金・長時間労働という明治以来の「国是」が変わらないし,それではわが国の繁栄は,百年ほどのつかの間の「奇跡」という「人類の歴史の一部」になってしまうだろう.
大企業ばかりが企業ではない.
むしろ,大企業をささえる中小零細にこそ,一見厳しくても変化が必要なのである.

千葉の◯の乳搾り,とは?

ずいぶんまえ70年代のギャグである.
ストレートコンビという漫才師がはやらせた.
このフレーズ,子どもにはどういう意味かはっきりしないが,大人は吹き出して笑っていた.

その千葉県は,全国四位の農業県(北海道・茨城県・鹿児島につぐ)だが,生乳の生産では全国三位である.
それで,牛の乳搾り,のイメージが強かったのかもしれない.

しかし,一説には,朝早くからはたらくのを苦とせず,嫁をとるなら千葉のひと,というくらいの評判で,しかも千葉県人は「巨乳」揃いという前提が知られていたというから,なるほど「乳」がかぶっている.当時の大人が笑った理由がわかろうというものだ.

農業全国トップは北海道が一桁ちがいで圧倒しているが,二位茨城と四位千葉,三位鹿児島と五位宮崎という組合せは,奇しくも隣接県同士だから,これらをまたぐ観光はおよそ「食」についていえば,全国水準を相当に高いレベルで超えているはずだから,旅行者は格段の体験ができるはずだ.
だから,農協をふくめた「県」単位という行政の枠で競争(という足の引っぱりあい)をすると,方向をまちがえるだろう.

生乳の取引価格は政府が決めている.
飲用からさまざまな加工用で価格がかわる.なかでも飲用がもっとも高い値段設定(公定価格と事実上の取引価格も)になっているから,酪農組合は飲用で売りたい.
すると,チーズやバター向けの生乳が不足するようになる.

もとの生乳が物量的に不足しているのではなくて,加工用に売ると安くなるから売らないという仕組みが原因だから,政府の政策介入が「失敗」しているという典型例になる.
これを,「政府の失敗」という.(政府の恣意的な経済介入政策は,自由な市場をゆがめるからかならず失敗する,というのがいまや世界標準の「新自由主義」だが,日本人は戦前から「大嫌い」で,政府の介入が大好きだ)
これが,わが国でバターが入手困難になるおおきな理由ではないかといわれている.

それで,国産バターが「不足」すると,外国から輸入するのだが,これがまた「国家貿易」になっている.
農水省HPで,いぜんは1ページをつかって,「わが国は国家貿易をしています」とあっただけだったから,それにくらべると「説明」がふえた.

しかし,ひろく国民に知らしめよう,というこころを感じる書き方とはいえまい.
しかも,「国家貿易」として自由でない「輸入」が全国民にとっての問題なのに,「輸入」の方に説明の重心を置くという「姑息さ」である.
「参考」としてとぼけている「輸入」国家貿易をじっくりみてみよう.

「枠外輸入につきマークアップを徴収」とは,ありていにいえば,たとえばバターを緊急輸入しようとしたとき(枠外あつかい),「入札」をおこなって,もっとも安い値段で(政府が)買って,もっとも高い値段で(民間に)売ることで,国が利益(マークアップ)を得ますよ,ということだ.

なお,このときの「政府」とは,ちょっとまえの「畜産振興事業団」のことで,いまは「独立行政法人農畜産業振興機構」という.
だから,この「機構」が,自動的に大儲けできるようになっている.
日本は,21世紀になっても「輸入」の「国家貿易」をして,消費者という国民に負担を強いることを原則としている国なのだ.

かれらが儲けた分は,国民が世界価格より高く買わされることで負担している.
生乳のはなしにもどると,むかしとくらべてさまざまな飲料が販売されるようになったから,牛乳が牛乳として飲まれなくなった.

くわえて,少子で人口も減っているから,飲用牛乳の需要も減っている.
それで,一部の生乳産地では,値段がつかないから生乳を捨てることで価格の維持をはかったりしている.
この方法は,生産者とてやるせないだろう.

食生活がちがう,とはいうものの,欧米諸国を旅行すれば,ホテルの朝食でふんだんに出るチーズやヨーグルトなどの乳製品やハムなどの畜産加工品が,どうなっているのかとおもうほど豊富だし,パンのお供はバターに決まっている.
コーヒーミルクも本物のクリームで,椰子油を「コーヒーフレッシュ」とはいわない.
食品店にいけば,「本物」のその安さにおどろくものだ.

すると.欧米人が豊かな生活をしているのは,「物価」にも原因があると気がつく.
さいきんなぜかいわれなくなった「内外価格差」というダムが,日本市場にはあった.
戦前からの政府の産業優先策で,日本人の消費者は世界価格より高い値段を負担していた.
わが国で,先進国唯一のデフレがつづいているのは,このダムの決壊がつづいているからではないか?

とにかく,日本はどうなっているのだと思いたくもなるが,あんがい千葉に光があるかもしれない.

トルコのイスタンブールは,地中海から黒海につながる場所に位置して,ヨーロッパとアジアにまたがっている.この境目がボスポラス海峡である.
フェリーしかなかった時代から,長大な橋をかけて,海底トンネルも掘ったしまだ新しいのを掘っている.
日本は援助で橋とトンネルを一本ずつ完成させている.

東京湾は湾だからどん詰まりだが,これを横断すると,ボスポラス海峡のような気分があじわえる.
神奈川県側の工業地域が,千葉県側の田園地域とつながるからだ.
アクアラインを通って,圏央道で房総半島を横断すれば,あっという間に太平洋側にでる.

そこに,いすみ市という街がある.
かつての「夷隅郡」の一部だが,この街にはいま五軒のチーズ工房がある.
筆頭格で,チーズ作りの指導員でもある駒形氏のはなしによると,市内の酪農家にもチーズ製造指導をしていて,すでに弟子は400人をこえるという.
だから,チーズ工房の数は,もっと増えること確実である.

不思議なもので,共産中国において鄧小平がはじめた改革開放政策で,目玉だったのが「経済『特区』」であるが,なぜかそれが自由主義ニッポンで政権の目玉政策になっている.
日本が社会主義国である証でもあるのだが,だれも指摘しない.

だったら,いすみ市に,「チーズ特区」ができてもいい.
これを真似れば,どこかに「バター特区」もできるかもしれない.
さすれば,アクアラインで酪農大国千葉県に,買い出しにでかけるひとがふえるにちがいない.

いすみ市には,いすみブタという畜産資源もあるし,じつはたいそうな米どころでもあるから,ヨーロッパのような食生活ができるしかもしれないし,飽きたらバッチリ漁港直送のごはんもある.
買い出し旅行で,そんな宿泊経験もしてみたい.
ああ,夢はふくらむ.

残念なのは,市が標榜するキャッチフレーズが,「人と自然の輝く 健康・文化都市 いすみ」という,「いすみ」を入れないとどの町なのかさっぱりわからない凡庸さである.
まぁ,これは全国津々浦々でいえるのだが,もっと「田舎」や「田園」を売りにだして「いすみ」オリジナル感がほしい.どうしてこうなるのだろう?

それにしても,千葉の◯の乳搾りは,ますます忙しくなるかもしれない.

害虫被害がやばい

宿泊業は,基本的に「旅館業法」の免許がいる.
その管轄は,保健所だから,旧厚生省が主管している.
これに,ことしの6月から「民泊」がはじまる.
根拠法は,「住宅宿泊事業法」で管轄は観光庁だから、国土交通省が主管しているのだが,省令になると厚生労働省も顔をだしている.

いろんなひとが出入りするのが宿泊施設なので,衛生,という側面はたいへん重要だ.
ホテルや旅館でチェックインのときに書かされる「レジストレーション・カード(宿帳)」記入義務も,伝染病発生時のトレーサビリティ確保がそもそもである.

役所の肩をもつ気はさらさらないが,公衆衛生,というしごとは,当面役所の存在意義がありそうだ.
もっとも,日本の役所はどこも「産業優先」というDNAをもっているから,「公衆衛生業界」を行政が優先する悪癖には注意したい.

近年では,2002年から翌年にかけて東南アジアで発生した「SARS」が記憶にあたらしい.
このときは,裕福なかなりの人びとがわが国に避難してきた.これで,高級ホテルはずいぶんと部屋が売れた.
しかし,なかには感染者がいるかもしれないから,とくにフロントと客室清掃係のひとは,予防に注意をはらったものだ.

宿泊業や飲食業にとって,なにより困るのは害虫と害獣である.
「食」に関していえば,これに「菌」がくわわる.
営業停止処分にもなりかねないから,対策をしていないなどということはないだろうが,残念な事故は毎年発生している.

ここにきて,これまでなかった「敵」があらわれている.
トコジラミ(南京虫)である.しかも,「スーパー」が頭につくのが最近の特徴で,市販の殺虫剤に抵抗性を持つようだから,たいへん厄介である.

日本での被害は,外国人観光客が持ちこんだことから発生している.
そもそも,「南京虫」は,戦後のDDT大量散布などにより,わが国では撲滅していた.
近年,ニューヨークでの大量発生が報告されてから,日本に上陸しているので,ルートはアメリカと中国系になるという.
それが,主に旅行カバンや段ボールの隙間にくっついてやってくる.

この昆虫は,吸血することでエネルギーを得る.
卵を産むには,最低一回は吸血しないといけないらしいが,産み出すと日に6個程度を生涯産み続けるから,爆発的に増殖する.

成虫になると,5分から10分かけて吸血するというから,一回でかなり大量の血を吸う.
血液にはそうとうな栄養があるらしく,一度吸血すると,そのご一年以上生存できるというから,たいへん省エネルギーな虫である.
また,こまったことに,天敵があの「ゴ◯ブリ」なので,天敵をつかって駆除するという手がつかいにくい.

何カ所か刺されるのは,満腹になるまでやめないからだ.時間がたってかゆくなると刺されたとわかる.吸血を旨とする生きものは,ヒルやコウモリも吸血のあいだ相手には気がつかないような工夫をもっている.

生涯ではじめて刺されたひとは,抗体がないからかゆくない.
二度目以降は,はげしいかゆみとなって,そのへんの虫刺され薬では効かないことがしばしばだ.
それで,とある宿泊施設で全身の複数箇所を刺され,かゆみとむくみで仕事ができなくなったひとが訴訟をおこしている.

被害者もお気の毒だが,被害をだした宿もお気の毒である.しらないうちに,どなたかが持ちこんだとしかいえない.
この虫の根絶には,困難をともなうから,時間と経費がかかる.
たいへん扁平な形なので,せまい隙間にかんたんにはいれるし,夜行性だから昼間はいないようにみえる.くわえて,上記のように繁殖力がすさまじい.
とくに外国人観光客がふえてきたという宿は注意がいる.

予防方法は確立されていないが,被害がないうちに専門家へ相談するといい.
発生したときの根絶にかかわるリスク,訴訟リスク,ネットで書き込まれるリスク,などなど,やばいことだらけになる.
少しでも予防措置をすることが重要だろう.

いがいと長い「ゆとり教育」期間

新年度をむかえて,新入社員というひとたちが社会にでてきた.

「ゆとり世代」というと,平成14年(2002年)度から平成25年(2013年)度までつづいた「亡国教育時代」とおもっているひともおおかろう.
しかし,あにはからんや,昭和57年(1982年)に,若林俊輔・隈部直光共著「亡国への学校英語」という本が上梓されている.

著者のひとり,故若林先生は「闘う英語教師」として名を馳せた,中学校の英語教師でもあった東京外大教授である.
初版で改訂版がでることなく「絶版」となりながら,いまだ人気おとろえず「中古」で取引されている,三省堂「VISTA英和辞典」の編者である.

 

「英語嫌いのひとを英語好きにさせる」という目的の辞書だから,いまはおおくある「読む学習辞典」の最初である.
「まえがき」と「使いやすい英和辞典を目指して-この辞書で工夫したこと-」を読むだけで,一種の感動すらおぼえる.改訂版が出ないのはなぜかと,不思議におもう.

冒頭の本をながめると,文部省の教育行政がいかにずさんなものであるかが「英語科」をつうじて告発されている.
教職課程には,「教育行政学」がひつようではないかと提案があるのは,現状の教職員が行政のしくみを「知らない」ままに先生になるという指摘である.

大学の教員養成課程で,教えない,というのは,一種の愚民化であり,教育行政の立場からはたいへんなアドバンテージだ.
教えない,ことも行政側が関与しているのではないかとうたがう.
大阪の私立小学校の土地問題より,よほど重要な行政の関与ではないか?

ようは,昭和55年(1980年)度あたりから,「ゆとり教育」ははじまっているのだ.
そして,中曽根内閣による「臨教審」が,昭和57年(1982年)に「ゆとり教育」を「方針」として決定している.

ここで,わすれてはならないのは,「ゆとり教育」の嚆矢は,昭和42年(1972年)の,日教組によることだ.
すなわち,一般に「タカ派」とか「右翼的」と評価されることがおおい,中曽根康弘氏の正体はなにか?といえば,実績からするとかなり「左派」なのである.当時の帝国陸海軍軍人のおおくが「アカ」かったことの証左かもしれない.

昭和55年(1980年)に小学校にはいった子どもは,昭和48年(1973年)生まれになるから,ことし45歳になる.高校は昭和57年(1982年)度からだから,昭和41年(1966年)生まれなので,ことし52歳になる.

じつは,社会の中心的世代が,第一次「ゆとり教育」世代になっているのだ.
その世代が,「本格的」になった「ゆとり教育世代」をつめたい目でみているという構図である.
「脱ゆとり」は,小学校で平成23年(2011年)度,高校で平成25年(2013年)度からはじまる(中学校はその中間)から,小学生1年生だったひとはことし13歳の中学生,高校生1年生だったひとはことし21歳になるので,すでに社会にはいりはじめている.

中学校の数学で「統計」を復活したのは,「脱ゆとり」の平成24年(2012年)度からで,これが「30年ぶり」だから,昭和57年(1982年)の中教審による「ゆとり方針」と合致する.
すなわち,いまこの国の中心的世代になっている,第一次「ゆとり世代」は,「統計リテラシー」が基本的にないひとたちになっている.もっとも,本人たちのせいではないが,これが,むこう30年間つづくことは確実である.学校で「教えなかった」のだから,そうなる.

しかし,大人が「学校で教わらなかった」と開き直っても,「脱ゆとり」世代は教わってしまう.
30年間というひと世代分が,すっかり愚民教育を受けてしまった.
これを推進したのは,政治(与野党とも)であり行政であるから,なんのことはない,この国が民主主義国家なら,われわれ国民の選択であった.

さて,冒頭の書籍にはなしをもどすと,日本における英語教育の「成果」についても当然に解説されている.もちろん,日本人のおおくが英語を話せない.この現象を,若林先生は,「外国語教育」と位置づけていないことが主因だとしている.

英語の授業が,読解に偏ってしまい,それが「暗号解読」状態になるのは,日本語=英語にしてしまうからだとの指摘だ.なんでも「和訳」しないと気がすまない.
「暗号解読」なら,いっそのこと本物の「暗号」を科目にしたほうが,生徒の将来にやくだつだろうとも書いている.

さらに,問題提起はつづく.
そもそも,教育はだれのためか?こたえはもちろん生徒のため.
生徒の将来と人生が,明るくひらけるように準備するのが教育である.
「顧客志向」の欠如.
これが,教育行政の本質である.

その欠陥を,教師に責任転嫁し,「教師の資質の問題」にするのは,経営がかんばしくない宿事業主が従業員のせいにする体質のコピーのようだ.
さらに,生徒という顧客層の劣化をなげくなら,まさに国営事業が失敗したパターンとおなじだ.
先生は,英語という外国語を教える教師には,英語を話せる,という条件が必要だという.そのために,顧客志向の再構築なくして,教育にはならないというのは,ビジネスの世界では当然すぎる.

そうかんがえると,国家が親に子どもの教育を義務とし,子どもは教育をうける権利があるまではよしとして,国家が直接教育内容に関与するのはいかがなものか?
憲法89条の私学助成禁止を骨抜きにしたのは,私学にも国家が関与するから,という解釈である.

これで,わが国には,独自教育をほどこす「私学」は事実上存在できなくなり,独自教育を看板にするだけで実際は国家管理という無競争状態になっている.もはや,いかなる「私学」も,国からの助成金がないと経営できないからだ.

小学校で英語教育をはじめるという.
ますます,英語嫌いを拡大生産するのではないか?と英語嫌いのわたしすら心配だ.

未完の妙

世の中には「未完」がたくさんある.
あの「未完成交響曲」も,もしかしたら「未完」ゆえの「名曲」なのかもしれない.
無限の可能性すら秘めているのが「未完」である.
これは,うらがえせば「完成させたい」という欲求があるからだ.

ということは,先に「完成」のイメージがある.
そのイメージが受け手によってさまざまに想像できるほどの出来映えだから,「未完」といっても価値があるのだろう.
建築では,ガウディのサグラダファミリア教会がそれだ.

1882年に着工され,完成に300年はかかるとされてきた.
しかし,音楽では「絶筆」ゆえに「未完成」となるが,建築には「設計図」がある.
だから,工事をつづければ「いつかは完成する」.
その間は,「未完成」の建造物を「見学」しているのだ.

あまりに壮大な設計ゆえに,この建物完成には数世代もの時間がかかるから,現代の我々は完成をみることはないと思われた.ここに,ある種のロマンがあった.
しかし,報道によれば,最新の3D技術の投入で,あと十年もすれば「完成」するというから,奇妙な気分になる.

人間の一生はみじかい.
それを,宗教建造物が形にしてしめしていたから,「完成が望まれない」こともある.
現代技術の,なんと無粋なことか.

その人間を,「合理的な行動しかしない」という条件で構築されたのが「現代経済学」であった.
しかし,あんがい「合理的でない行動」を望むことがある.
あるいは,自分のなかのえも知れぬものによって突き動かされることがある.
そのとき,ひとは「損得勘定」をしてはいない.それは,ビジネスの場面であってもいえる.

人様に役立つことはなにか?
これをかんがえることが,ビジネスの成功のタネである.
そして,これをやりきると,人様から尊敬をえることになる.
そうしたひとが,人生の成功者である.

宿泊目的が「絵を描く」というひとを集めれば,「絵画の宿」になる.
ササッとスケッチを描き上げる腕前があって,それをじっくりあとで「作品」にできるひとは,たいしたものだ.
ある場所が気に入れば,そこに住んで絵に没頭する.これができるひとは,ふつうのひとではない.

だから、おおくのひと,という「マーケット」をかんがえると,未完の作品を預かるという「サービス」があってもいい.
風光明媚な場所は,たいがい不便なところだから,そこに「画材店」があってもいい.
それで,土産物をあつかう宿の売店をやめて,画材店にかえた.
店員に知識がないとこまるから,県庁所在地の画材店に研修を依頼した.

近所に画家はいないかとしらべたら,やっぱり住んでいる.
絵画目的の宿泊客に「教室」講師を恐る恐る依頼したら,一つ返事だった.
広めの部屋を,アトリエに改装しようと計画したが,そこにリーマンショックという「大津波」がやってきた.

結局,意図せざる事態にあがなえず,あえなくオーナーチェンジとなりはてて,「未完」のまま,低価格が信条の新オーナーへと引き渡された.
いまでは,「未完」どころか影かたちもなく「お得感」だけの宿になったろう.
「苦い」思い出である.