「塩」はどこまでブランドになるか?

「塩化ナトリウム:NaCl」を主成分にした食品を、「塩:しお」という。

地球の生命が「海」で生まれて、両生類から陸上生物へと「進化」したので、動物としての人間の身体も「海」での名残があって、「塩」がないと生きていけない。

それがわかるのは、熱中症や日射病になったとき、水分とともに塩を摂取することで「回復」するからである。

むかしエジプトにいたとき、よくピラミッド周辺で、顔を赤くして休んでいる日本人観光客をみかけた。
「同胞」として、ホテルの朝食テーブルにある塩が入った紙袋をわたしてあげたことが何度かある。

もっとも「効く」のは、貴重な「フリーズドライの梅干しタブレット」で、これを差し出したら、「わたし梅干しが嫌いなんです」といわれて、呆れたことがあった。

ただし、帰国後「初版」の執筆をしたのが、『地球の歩き方』だったので、この当時の日本人観光客のほとんどは、『ブルーガイド』を手にしていて、遺跡の情報は豊富だけど、「過ごし方」を知らなかったのである。

日本人は、島国の住人だから、「塩」は海から汲んだ海水からつくるのだと思いこんでいる。
しかし、あんがいと大陸では、陸で掘った「岩塩」が一般的なのだ。

もっとも、その岩塩が、塩の岩になったのは、太古の海が干上がったのと地面が隆起したのとが重なってできたものだ。
それでまた、さまざまなミネラル分を含有することになって、それが「色」にも反映されている。

ミネラル分とは、もちろんミネラルウォーターにも入っているミネラルのことで、なんだか「貴重な成分」に感じるけれど、ミネラルとは、「無機物」のことをいう。
つまり、「炭素」がない物質のことをいう。

「炭素」があると、「有機物」になって、われわれの身体の構成物質となる。
もちろん、「無機物」も、ないと生きていけない。
それは、金属、塩(えん)類、水、水素、酸素、窒素などだからである。

要は、「炭素:C」の有無で、物質を二分しているのである。

水(H2O)とは、「純水」のことだ。
これは、「飲んでうまい」ものではない。
なぜかスパーに「純水サーバー」があって、容器代はとるけれど中身は「無料」となっている。

掃除用に使っているのだろうか?
洗車に適しているけど、量がたりない。

「うまい水」には、大雑把にいえば、ふたつの特徴がある。
・適度な不純物(ミネラル)が含有している
・分子クラスタが細かい

「山の清水」がうまいのは、このふたつが満たされているからだ。

ちなみに、水の分子クラスタは、「のどごし」に影響する。
グビグビ飲んだとき、のどに水が引っかかって痛いことがあるのは、その水の分子クラスタが「大きい」とおもわれる。

「水」自体も、じつは不思議な物質だけど、「塩」もありふれていながら特徴がある。
いわゆる「塩化ナトリウム」は、よくある電子の「共有結合」ではなくて、「イオン結合」によってできているので、水にふれると、共有結合している水分子の電子による電気作用で「結合」がはずれてしまう。

それで、塩はかんたんに水に「溶ける」のである。

しかしながら、「純水」と同様に、塩化ナトリウム「だけ」の塩は、人工的・工業的な製品だから、「自然塩」となると、他のミネラルを含有しているのがふつうだ。

なかでも、マグネシウムは、「にがり」成分であるから、海水塩の自然塩ほど、なめるとやや苦いのである。
塩なのに「甘い」ことがあるのは、カルシウムのはたらきで、もしも「酸味」があったら、カリウムのはたらきだ。

1㎏100円の塩は、ほぼ塩化ナトリウムだから、とにかくしょっぱい。
むかしは「専売」だったから、日本人の生活では、これしかなかった。
いま、たくさんの塩が販売されているのは、「専売廃止」による、自由化のおかげだが、選ぶための知識を学校で教えないから、戸惑うのである。

しかも、販売価格も「ピンキリ」なのである。

生活が豊かになるとは、「選択の自由が増す」という意味があるけれど、選択肢が多すぎるとひとはその品への興味もなくしてしまう。
これは、心理的に追いつめられることでの、「欲求不満行動」なのである。

「塩なんかどれでもいいや」となる。

いってみれば、塩化ナトリウムと各種ミネラルの配合具合は、無限大の組合せになるけれど、塩の産地は限られている。
それで、それをどうやって「売るのか?」となれば、どうしても「成分の話」になるものだ。

しかし、受け手側の「化学知識」が欠けていたら、それが何なの?となって、心の琴線に届かない。
ゆえに、「教育」をしかけないといけない、ということになる。

一方で、難しいことはどうでもいい、「美味いが一番」ということになると、またまた厄介なのが、料理に合わせた「塩の種類」を用意しないといけない。

これは、産地からしたら「一択」なので、他の産地のものとの「比較」とか、用途についての紹介が欠かせないのだが面倒である。
そんなわけで、知る人ぞ知るはあっても、なかなか「ブランド化しない」のだ。

長野県大鹿村は、村立中央構造線博物館と中央構造線の真上にある。
ここの「鹿塩温泉」の湯は、世にも不思議な、山中の「塩水」で、その成分が「絶妙」という。
マグネシウムが「適度」な含有だという。

おそらく、太平洋プレートが沈み込んで、プレート中や海底を移動中に堆積した物質が、大陸プレートの強烈な圧力で「搾られて」、岩石内のもとの海水が出てきているとかんがえられている。

「岩にしみいる」のではなくて、岩からしみだすのである。
こうした岩石は、分子レベルまで粉砕される、おそるべき圧力なのだ。

それで、「塩畑」が復活されて、つくるのに1ヶ月かかる「塩」が販売されている。
1㎏、2000円。
安いのか高いのか?

そこは、まずは「お試し」が、困難なわが国屈指の「秘境」にあるのだった。

「顧客カード」を廃止して欲しい

世にいう「ポイント」や「スタンプ」のカードもおなじである。

前に、顧客カードで財布が膨らむのがいやだ、と書いた。
だから、「お得なポイント・カードをお作りしますか?」とお店のひとにいわれたら、断ることにしている。

それで次回から、「カードをお持ちですか?」とレジでいわれて「ありません」といえば、ポイントが付かないことで、妙に損をした気になるのである。

それでもこの手のカードを持ちたくない。
財布以外に、「カード入れ」を買って、そこに様々なカードを入れたら、驚くほど入りきれずに「膨らんだ」ことがある。

多分使わないだろう、と持ち歩かずにカード入れに保管していると、なぜか、財布にない状態で当該店舗にて買い物をしてしまう。
それで、「ポイント・カードをお持ちですか?」といつものように聞かれて、「忘れた」とこたえると、レシートにポイントを書いてくれる店と、その場で権利落ちの店とに分かれる。

レシートにポイントを書いてくれる店は、このレシートとポイント・カードを持ってくればポイントを付与しますというし、場合によっては2週間以内とかの条件が付くこともある。

ポイント付与しか用事がない店にわざわざ行く気がしないから、たいがいは「権利放棄」するのである。
それでまた、思い出しては「損をした気になる」のである。

つまり、「お得なポイント」とは、お店にとっての「お得」ばかりで、客にとっての「お得」はない。
いつ気分で、買い物するかわからないからといって、あのカード入れをふだんから持ち歩くのは、獲得ポイントに見合わないと思うからである。

それでも財布には何枚か入っている。
だから、当該店舗のレジ前で、トランプのカードを自分で引くようなことをするのだ。

家電量販店は、「ポイント・サービス」として、たいがいが「スマホ・アプリ」にもなっている。
それでも「カード」を持ち歩いているのは、スマホを「読み取り機」になるべくかざしたくないからである。

残念ながら、「アプリ」をダウンロードしたときに、認証しないといけない「利用規約」をしっかり読んでいないから、自分がなにを「許可した」のかが自分でわからないままなのである。

これは、「LINEの話」でも書いたけど、利用者はその「リスク」を認識してはいないから、「安心して」利用しているにちがいない。
すると、企業がさまざまなサービスを「LINE」を媒介して行うことの、「社会的責任」をどうかんがえるのか?

LINEユーザーがたくさんいるから、自社のマーケティング上、LINEを介したサービスを提供する、という発想では、「順番」がちがう。
自社の大切な顧客の個人情報が、プラットフォーム提供者にも「抜かれる」ことの重大性を鑑みれば、企業としてそのような手段を選んで、顧客に使わせていいものか?になるからである。

しかし、いまの「法務部」は、企業にしろLINE側にしろ、顧客自身が、「利用規約」を「読んで」から、「許可ボタン」をポチっていることをもって、利用者の「自己責任」としているのである。

これをまた利用者が、「しらない」という「暗黒状態」なのである。

つまるところ、やっぱりぶ厚くなる「紙のカード」同様に、たとえスマホ一台の携行で済むにせよ、客が損をする構造になっている。
支配と被支配の関係が、こんな身近なところにもあるのだけれど、被支配者の「企業への信頼」が、自身を無防備にさせているとは。

しかし、一方で、自分の個人情報なんて「どうでもいい価値なのだ」という割り切りだって、「あり」なのである。
それなので、レジでスマホをいじって「なんとかPAY」を決済手段にしているひとを、わたしは眺めているのである。

確信的か無知かのどちらかだけど、もちろんわたしには関係ない。

ところで、こうした決済手段が「増える」ことは、店舗側にも負担になる。
それでもって、対応機器を設置した店舗側に、どんな情報が提供されるか?が、なぜか無関心のばあいがある。

これは、「満願」となったスタンプ・カードを差し出せば、商品交換できるようになっている「紙のスタンプ・カード」にもいえて、ここに「個人情報の記載」を求めないことが多いのだ。

もちろん、その情報をなにに使うのか?とか、得た情報の管理とか、店側の負担になるような説明表記をしないといけないのが面倒だ、ということもあるだろう。

けれども、せっかくのスタンプ・カードが、商売にとっての「無料券」に転換される「だけ」でいいのか?という疑問もあるのだ。
たとえば、「満願」になるだけ通ってくれたお客様の、せめて「苗字だけでも」欲しくないのか?

あるいは、「市町村までだけ」の住所とか、あるいは、地方や郊外立地ほど、駐車場にとめた自動車のナンバーと「お名前」の情報連携とか。

政府は、「DX:デジタルトランスフォーメーション」なる、横文字をつかいたがって、予算をばらまいて利権化したいのだろうけど、紙のスタンプ・カードの情報利用だって、十分立派な「DX」なのである。

せめて、名前で呼ばれるとうれしい、を実現してほしいものなのだ。

「ノーパン」回帰の女性たち

「リスクがあるタイトル」であると自分ながらに思うけど、あえて書いておこうと思ったのは、それが「歴史的なこと」でもあるからだ。

わが国の歴史では、男女とも下着といえば「襦袢:じゅばん」であった。
男性は「下帯」としての「褌:ふんどし」を着用したが、女性は「腰巻き」が通常で、江戸時代前期までの「銭湯:蒸し風呂」では、男女とも「風呂褌」を着用していた。

この「褌」は、男女ともに「はきかえ」たというが、やっぱり男性は「褌」で、女性は「腰巻き(別に「湯文字」ともいう)」であったという。
なお、濡れた風呂褌を包むため、あるいは身仕舞いをするために敷いたのが、「風呂敷」である。

男性は、「褌を締めてかかる」ように、しっかりしておかないと、「(たまが)揺れて」それが続くと苦痛になってくるという事情があるのは、構造上そうなっているからである。

また、小便後に褌の前垂れで「露」を拭き取る行動は、誰かが「父の思い出」として書いている。
もちろん、これを書いたのは、幼かった女の子の目線での「思い出」なのである。

女性の方は、なにしろ「月のもの」がある。
洗ったばかりの赤い腰巻きを、何枚も戸板に貼りつけて乾かしている光景は、長屋住まいの男の子でも、顔を赤らめて通り過ぎたという。
実際問題として、再生和紙を褌に挟んでいたというから、生理の女性用の褌もあったのである。

しかしながら、それ以外の生活で女性が褌をつけることはなかった。
あくまでも、腰巻き、だったのである。
だから、日本人の歴史で、ついこないだまで、「パンツを履いたことはなかった」のである。

それに、和服でパンツを着用していると、しっかりパンティラインが出てしまうのもお困りなので、そうさせない工夫がされる。
その究極にして、昔からふつうが、ノーパンなのである。

太宰治の『斜陽』には、貴族出の「お母さま」が、公園で放尿する場面が描かれているけれど、和服だからできる「技」である。
わたしが子供だったむかしは、あんがいとお婆さんがそのへんで着物をめくって放尿していたふつうがあった。

もちろん、男性の立ちションは、あまりにもふつうだった。
それで、町内の電信柱とか板塀に、赤い鳥居の絵を描いた木札をかける家があった。
やっぱり、匂ったのだろう。

「軽犯罪」となって、立ちションが禁止されたのは、あんがいとニュースになったものである。
いまでは、「公然わいせつ罪」までにもなるから、よりいっそう「厳しく」なってきている。

そういえば、いまでは「伝説」の俳優、故萩原健一が演じた『太陽にほえろ!』での「殉職シーン」は、まさに立ちションの最中での出来事になっている。

さてそれで、「ノーパン睡眠健康法」がじんわりと流行っているとか。

日本では、丸山淳士医博がラジオを通じて1990年代あたりから提唱したというけれど、コロナ禍での自宅待機と健康ブームが重なって、女子高生にも拡がっているらしい。

その効果は、ゴムによる締め付けからリンパが解放されて、熟睡できる、というものだ。
もちろん、「睡眠」の健康効果は否定できないけれども、腹部の圧迫がなくなることで、「便秘解消」も期待できるという。

便秘といえば、むかしから女性の悩みの一つで、それがまた、「お肌」への影響となるから、まさに諸悪の根源なのである。
それに、酷暑による「蒸れ」も、ノーパンならない。

そんなこんなで、一度経験すると、適用範囲が就寝時から徐々に生活行動時間に拡大するという順をたどるのは、人間のサガである。
また、個人のプライバシーが家族内でも保たれるようになったことも、あるいは、「結婚しない」ことも、「普及条件」として重要な点である。

巷間にいわれる、「白木屋火災」(1932年12月16日)における女子従業員の大量死が、和装によるノーパン状態が窓からの飛び降り避難を阻害した、というのは、後付けの洋装下着メーカーによる「デマ」だと証明されていることは何度か書いてきた。

しかしながら、この事件以降、日本人女性はパンツを履くようになったのは、事実なのである。
つまり、昭和7年をエポックにしているのである。

これから、ちょうど90年の時を経て、日本人女性が「ノーパン回帰」しているのだ。
しかも、その理由が、わが国伝統の「健康感覚」との一致がみられることに注目したい。

すると、その次に「和装の復活」はあるのか?に興味がうつる。

いや、その前に、なぜに洋装でパンツを必要とするのか?に考えを向ければ、アウターを汚さないためであった。
しかし、それがたとえ洋装であっても腰巻き状のものであれば、その必要性は裾の長さに依存する。

ロングスカートならまったく腰巻きと形状は似ているので、ミニスカートにおける「見させない」が優先するのである。
ゆえに、「見せパン」なる「防御策」がとられている。

すると、もっと密着する「パンツ:ズボン」が、汚れ防止としての必要性において最大の問題になるのだ。
ならば、メーカーは、ノーパン用の製品を出すのだろうか?
そのための、モニター調査はもう行われているのか?

だったら旅館は、「はだけない浴衣」をもって、ノーパン睡眠を奨励するのか?

妙に、興味は尽きないのである。

いまさら『おしん』を読破した

NHK朝の連続テレビ小説で、空前のブームを巻き起こしたのが、昭和58年(1983年)4月4日から翌59年(1984年)3月31日までの放送だった『おしん』である。

そしてこのドラマは、最初TBSの昼ドラマとして持ち込まれ、NHKでも「ボツ」になったというドラマがある。
それから3年して、NHKテレビ放送30周年記念ドラマとして企画が復活したという。

作者の橋田壽賀子氏によると、シナリオを出版することの抵抗について触れている。
シナリオは本来活字にするものではない、と。
映像になってこそ生きてくる。

しかしながら、台詞を読んで自分なりのイメージをつくるのは、それなりに意味があるのかもしれない。
それで、シナリオを出版することにした、と「序」にある。

もっとも『おしん』は、別に「小説版」もある。
今回読破したのは、「シナリオ版」(全4巻)の方だ。
ちなみに、上述した「ボツ」の経緯は、『おしんの遺言』「はじめに」に橋田氏が書いている。

個人的にわたしが『おしん』を観たのは、「奉公編」だけで小林綾子ちゃんの圧倒的な演技に見とれていた。
丁度、田中裕子にバトンタッチするときに、エジプトへ赴任してしまった。

だから、『おしん』のその後をぜんぜんしらない。
でも、エジプトの空の下にいても、その「大ヒットぶり」だけはしっていた。

テレビを観ない生活をして、10年以上になる。
ニュースも天気予報も観ないで、ふつうに生活にも職業上も困らない。
BSで『おしん』が放送されていると知人から聞いても、観ることができないという事情があって、やっぱりまだ観ていない。

ならばどうして、いまさら『おしん』を「読む」ことにしたのか?ということが、拙稿のテーマである。

それは、わたしの「資本主義研究」の一環なのだ。
わたしには、いまの「資本主義社会」が、「資本主義社会ではない」のではないか?という疑問があるのだ。

このきっかけは、昭和13年(1938年)に出版された、チェスター・バーナードの名著『経営者の役割』における、経営者と労働者の関係にある。

われわれは、てっきり経営者と労働者は「対立するもの」という概念を疑わない、というマルクス主義からの「洗脳」を受けている。
しかし、バーナードはこれを、「完全否定」して、経営者と労働者は「協働する」ことで一致すると証明したのである。

その一致点が、「付加価値創造」であった。

経営者の目的は企業利潤の最大化にある一方で、労働者の目的は賃金の最大化にある。
だから、利益と経費の関係から両者は対立する、という浅はかなかんがえが生まれて、「対立構造」となるようにみえる。

しかし、これこそがマルクスが仕組んだ「破壊工作」そのものであって、付加価値を最大限に創造することに注視すれば、経営者の目的も労働者の目的も同時に達成できるのである。

なぜならば、「付加価値」には、「賃金も含まれる」からである。

わが国の「失われた30年」における、賃金低下は、他の先進国にはみられない「惨状」となっている。
それが逆に、労働者をして「付加価値創造」の意味を気づかせたのに、経営者が相変わらず「人件費削減に躍起になっている」情けない状態なのである。

これは、わが国の経営者が「社内昇格」するということから、新入社員から管理職になるまで、じつは労働組合員だったことに遡ると、「当時」の労組が「対立構造」を信じていたことの恐るべき「記憶」が、いまの経営者に残存しているからであろう。

それが、「こびりついて」はがれない。

すると、わが国の経営者は、いったいどんな研鑽を社内で積んできたのか?ということが、重大な疑念となるのである。
それが、「育ち」という問題になる。

ここに、『おしん』の「育ち」との連関が生まれるのだ。

とくに、酒田の米問屋「加賀屋」の大女将から手ほどきをうけたことが、おしんの一生を左右する「基礎」となったことは、その後の経営者としての絶対的カリスマ要素の根幹を成している。

すると、「大女将」とは、一体何者だったのか?
シナリオには一切ないけど、1900年(明治33年)生まれのおしんからしてどうかんがえても、江戸時代の生まれになって、このひとの「育ち」を想像せざるをえない。

それがまた、酒田という、東京から離れた地域における、江戸時代の残照とその繁栄を想えば、より一層の輝きをもっている。
このことと、山本七平が指摘した『日本資本主義の精神』が合致する。

すなわち、大女将の商売は、信頼を基礎に道徳的な儲けでよしとした、今様の「がめつい儲け主義」ではぜんぜんない。
むしろ、マックス・ウェーバーがいう「禁欲的」でさえある。

すると、アメリカで聖書の次に読まれた、アイン・ランドが主張した、「未完の資本主義」とは、ヨーロッパ、アメリカという「先進国」のことをいうけど、「完成された資本主義」を世界で唯一経験したのは、江戸期から第一次世界大戦の「大戦景気」前までの期間における「日本」だったのではないか?

だとしたら、わが国のいまの凋落は、首相がいう「新しい資本主義」ではなくて、かつての「資本主義」を復活させればよい、ということになる。

これこそが、アイン・ランドが理想とした、「資本主義とは道徳的である」ことの、唯一の具現化であって、それが基盤となる「道徳社会」を構築できるのは、やはり世界で日本人しかいないのである。

橋田壽賀子氏が、「明治生まれの母たちを知っている最後の世代の私たちのつとめだし、母たちへの鎮魂歌なのである」、と『おしん』を書いたことの理由が重いのだ。

そうやって「読む」と、『おしん』は、『ロビンソン・クルーソー』をはるかに凌ぐ、「経済人」なのであって、すくなくとも「ホームドラマ」ではない。

園児置き去りの悲劇をかんがえる

まずは亡くなった子への哀悼の意を表します。

さて、話が超拡大して、とうとう総理の指示で「子供担当大臣」と「内閣府の役人」とが会議を開かされて、全国にある「送迎バスがある園」を、緊急点検することになった。
岸田氏は、まったくもって「政治家」なのである。

しかし、一方で、「大きなお世話」でもある。

すでに、全国の県や市が「総点検」モードに入っているので、「二重行政」となるし、国が乗り出せば、県や市の仕事から、「手柄だけ」を奪って、責任は押しつけることが行われるものだ。

さらにいえば、全国の園では、当然に「自主点検」も行われているはずだから、「自主」、「県・市」、「国」と、三重のチェックが入ることになる。
「二度と起こさせない」という意味での、「安全」を図るのは、もちろん結構なことだけど、送迎バスにはどんなリスクがあるのか?という「リスク管理」という視線だけの話しか出てこない不思議がある。

もちろん、直接的な原因は、「安全確保」に対する「うっかりミス」だった。
世の中の「事故」の多くが、この「うっかりミス」が原因だ。
だから、「気をつけましょう」ということになる。

すると、「何を気をつけるのか?」、「何に気をつけるのか?」ということが、本来は議論されないといけないのだけど、「気をつけましょう」で終わってしまうことが多いのである。
なにも「労災」だけが問題ではなく、ひろく心して「安全学」に取り組む必要がある。

それで、一般的に「業務の現場」では、その「チェック・ポイント」については、おおくの場合「指差点呼」が実行されていて、指差点呼をするための「訓練」が先に実施される。
また、社内の安全指導員は、これらの「指差点呼」が行われているかも、「業務点検」のなかで行うことで、「習慣化」させるのである。

ところで、今回の「悲劇」は、運転していた理事長が語った、「園児の確認は同乗の職員がするものだと思っていました」に最大の原因があったと、筆者はかんがえている。
だから、安全指導員的立場からしたら、「なっちゃいない」という感想を抱くことだろう。

そうなると、「バスの運転手」と「乗務員(車掌)」の、「職務分掌」がどうなっていたのか?という問題になって、たとえばこれが「航空機」なら、全責任は「機長が負う」ことからしたら、運転手だった理事長の責任は免れるものではない。

とはいえ、客席の第一次管理者を「乗務員」としたら、運転手は乗務員からの「報国」をさせて、さらに自ら点検することで二重チェックするという体制を構築できる。
相手が「幼児」の場合は、「おとなの常識」だけではリスクがあるという「チェック・ポイント」を設けていなかっただけでなく、職員からの意見もなかったということも、間接的な原因ともなるだろう。

これは、安全を超えた「組織論」である。

すなわち、「組織」の定義にある、「目的・目標をおなじくする」ということの根本が問われるという意味だ。
なお、わたしは、組織の定義に、チェスター・バーナードが提唱した、「二人以上の人々の、意識的に調製された活動または諸力のシステム」であるとおもっている。

目的や目標にむかって「意識的に調製された活動または諸力のシステム」が、組織なのだと。

すると、残念ながら、理事長の発言から、この「組織の定義」を基盤にして、園という組織を運営していたとはおもえないのである。
もしも、このことを深くしっていたら、組織メンバーである職員にも、思考を促すことが日常的に行われていただろうとおもうからである。

こうしたことの「訓練」が、MTP(Management Training Program)なのである。
わが国の製造業に従事するひとには、「おなじみ」だろう。
戦後、マッカーサー指令にもなって製造業界に導入された、より良い組織にするためのマネジメントについての「訓練」なのである。

しかしながら、残念なことに、就労人口がもっともおおい、サービス業に「ほとんど普及していない」のが、MTPなのである。

だから、今回の悲劇は、MTPをしらないがゆえ、ともいえる。

とうぜんだが、組織マネジメントをするには、組織の活動が、何を目的・目標としているのか?という疑問点が必ず現出する。
だから本件の場合は、「送迎バス業務」としたときの、業務フローがある、ことを前提にしないといけないのだが、それも「甘かった」となるのは、けっして「後出しじゃんけん」ではない。

これが、業務設計であり・サービス設計、ひいては「サービス品質管理」となるからだ。

メーカー業務にたとえたら、「検品業務」が穴だらけで、とうとう決定的な「不良」ができてしまって、それが最悪の「死亡事故」になってしまったと捉えるべきなのである。

そんなわけで、マネジメントからの「点検」だけでなく、防止には「訓練実施」が必要な事態に、国家行政はどうしようというのか?が問われているのに、相変わらずの上から目線で「指導してやる」という態度だから、実務を知らないひとたちがよってたかって現場の邪魔をしに行くようなものだ。

すぐさま、MTPの実施をすべきなのに、である。

「職業連鎖」の頂点

「食物連鎖」の頂点に君臨する、のは百獣の王「ライオン(肉食動物)」だと習う。

むかし、テレビで散々やっていた「大自然もの」(もちろん今でもやっているらしいけど)は、各社が独自製作のものと外国から買ってくるものと、いろいろあった。

その中で、重要なフレーズが、「人間が食物連鎖を壊している=自然破壊」だった。

悪いのはぜんぶ「人間」だから、これが嵩じて「機械に人間が殺される」というSF作品がたくさんできた。
子供には「害悪」だとして、日本にも「映倫」があるけれど、ゲームは対象にしていないから、かぶれたひとが犯罪を起こす。

それでか知らないけれど、ウィルスを利用して人間の虐殺を実行する人間が出てきたのは、ただの「金持ち」ではなくて、「良心」だということに「リアル」でなったのである。

悪いのは、人類の存在そのものだ、と考える人間が、自分の「良心」に従って、人間を虐殺することの正義を主張する、という倒錯である。
まぁ、とりあえずこないだ書いた、英国の弁護士が、首相以下をICC(国際刑事裁判所)に提訴して、受理された件がそれである。

今回の話は、「観光立国はあり得ない」ことの補足だ。
「産業連鎖」の頂点に君臨するのが、「観光業=人的サービス業」である、からだ。

ライオンをはじめとする、肉食動物「しか」いない状態になったら、野生の動物界は成り立たない。
これと同じで、すべての産業からの恩恵を受ける、「観光業=人的サービス業」だけでは、産業界が成り立たないのである。

だから、結論をはじめに言えば、重要なのは「産業の裾野」だと言いたいのである。

これは、「六次産業」という概念を意味する。
「産業分類」のことである。
食糧や食料に深く関するのは、第一次産業たる「農林水産業」である。
文明の利器を生産しているのは、第二次産業の「鉱工業」だ。

「鉱工業」に「鉱」の字があるのは、材料を「鉱山」とかの「資源」に求めるからである。
また、その「資源」を採取するにも、「工業力」の賜物である機器がないといけない。

我が国は、明治のむかしから資源がない国とされてきたけど、たとえば、世界最大だった「佐渡金山」を江戸時代だけで掘り尽くしてしまった。
これを「黄金の国:ジパング」として、狙ったのが英・蘭などの欧州列強で、幕末の超インフレは金・銀の流出による。

現在の世界の金の3分の2が、日本産出だという理由だ。

それにわが国は、「国際海洋法」ができて、「領海」と「排他的経済水域」を足せば、極東の小国どころか、世界6位の面積となるのである。
もっと言えば、メルカトル図法の「歪み」を修正するソフトを用いて、たとえばヨーロッパ大陸に日本地図を移動させたら、実は我が国の「巨大さ」、逆に言えばヨーロッパ(旧大陸)の「狭さ」が確認できるというものだ。

つまり、「小さい」「狭い」国土だという思い込みを、子供のときから刷り込まれている。
これは、一種の「危機感」を煽って、「努力せよ」というポジティブな発想ならまだ良いけれど、自身を卑下するようなことになったら現実逃避になってしまう。

小さくて狭い、という思い込みが、海洋資源を放置して、本来の国際取り決めである、「資源管理義務」まで放ったらかしにしているのである。

それで、思い出したように「南鳥島の水没阻止」とか、外国船による勝手な資源採取を問題にする。
前提となる常識がズレているから、そのときそのときの「都度、都度」になるのは、「法治」の概念からしたら異常なのである。

そんなわけで、一次産業と二次産業は、分かりやすい「分類」となっている。
逆に、第三次産業が分かりにくいのは、第一次産業と第二次産業「以外」という、荒っぽい分類だから、第三次産業「自体」のせいではない。

どうしてこうなったかは簡単で、今でこそ「三次産業」と言われる「産業」が、産業分類を作るときに「産業」とは言えないレベルだったから、「その他」になっただけである。

ところが、今や「先進国」の産業構造は、就労者の6割、産出価値の「7割」を、第三次産業が担っている。
それで、もっとも効率よく稼いでいる「金融」と「IT」を除いて、「人的サービス産業」と再分類している。

そして我が国では、国際比較でのその生産性の低さ、が問題視されているのであるけれど、なにせ稼ぎ頭のはずの「金融」の生産性が低いのである。

しかし、よくよく考えれば、食物連鎖の頂点に君臨する肉食動物の生産性は「高い」のか?

草食動物の数を適正化させる、という意味での「生産性」という意味だ。
基本的に「大自然」というときの「自然」は「放置」の意味だから、人間の価値観である「生産性」はあてはまらないけど、「かわいそう」だからと言って草食動物しかいないのも、「自然破壊」になるだろう。

雑草取りを「山羊」にやらせるのを「自然農法」とはいうけれど。

すると、ライオンのような観光産業を持ち上げるのは、「百獣の王」と同じで、「産業の王」といえばそれでいい、としか意味はない。
けだし、ライオン自身がそんなことを「思考する」能力を持ち合わせてはいないだろうけど。

結果的に、「票が欲しい」というだけになるのは、就業者がたくさんいるからだ。
観光業を「補助金漬け」にするのは、公的「買収」だといえるし、業界ごと網掛けされた「奴隷化」ともいえる。

これが、「観光立国」の正体なのである。

消えるソウル・フード

商店街が消える。
ずいぶん前からの「問題」だ。
しかし、これはもっと「ミクロ」でいえば、「お店=個人経営」が消えてなくなっているのである。

商店街の商店には、いろんなお店があるけれど、どこに行っても目立つのは「八百屋」や「魚屋」だった。
そして、「肉屋」といえば、「惣菜」も定番の一つである。
もちろん、「惣菜専門店」もあった。

ランダムに、衣料品店と電気屋、酒屋にお菓子屋が並ぶのも、商店街ならではだった。
小学生がお世話になったのは、文房具屋で、小さな書店も成り立っていたのは、定期刊行物の予約販売があったからだ。

いまのように「おしゃれ」とはいえない、質素なパン屋では、質素なパンを売っていた。
自宅兼用の豆腐屋もなくなって、作りたての豆乳を空瓶を持って行って買っていたのは遠い昔のことである。

靴を売るだけの靴屋ではなくて、修理を前面に出しながら売っている店もあった。
修理といえば、時計屋とか仕立ての洋服屋でも扱っていたし、クリーニング屋も染み抜きをしてくれた。

大物では、家具屋があったし、カーテン屋とか布団屋もあった。
洋品店だって、竹の定規を手早く使っていた生地屋もふつうであったのは、「洋裁」ができるひとがたくさんいたからである。

だから、毛糸やボタンの専門店もあった。
足踏みミシンだけでなく、「編み機」もふつうに家にあったのは、主婦の内職ではなくて、趣味と実益だったのである。

そうやって考えると、あんがいふつうの家庭も、家内工業のまねごとをしていて生産的だった。
毎日同じセーターを着ているから、肘の毛糸が細くなってほつれたのを、「アップリケ」でカバーしていた。

それがなんだか羨ましくて、自分のセーターにもつけて欲しいと母にねだったら、穴が空いていないからいらない、と言われてガッカリしたことがある。

高学年になったら、学校で使う「雑巾」を自分でミシンで縫っていた。
「買うもの」になったのが、驚きでもある。
ミシンがある家の方が珍しいのかもしれない。
すると、ミシンがふつうに家にあった時代とは、凄いことなのだ。

国内であろうが海外であろうが、商店街を歩くのは楽しい。

手軽なのはスーパーマーケットだけれども、何をどんなふうに売っているのか?というのは、十分な「観光」になるのである。
その意味で、海外の方は、ヨーロッパでもむかしの「市場(marché)」が残っていて、見て歩くだけでも楽しい。

日本にもなくはないけど、なんだか「観光名所」になっていて、肝心の「生活臭」が乏しいのである。

国民皆兵で、核シェルターの設置義務があるスイスでは、景観のために窓辺に花を飾らないといけないし、洗濯物を外に干してもいけないから、どこを歩いていても生活臭がない、という「問題」がある。

ターミナル駅の裏側地域は、その例外だけれども、今度は「身の危険」という問題がある。
国土全部を「公園」として、料金をとって「見せる=魅せる」ことをやったから、外国人や一見さんの観光客に、スイス人の素顔は見えないようになっている。

この点、まったく「無防備」で、料金をとって「見せる」ことすら考えないのは日本人の良いところでもある。
他人に見せるためでなく、自分の快適のための清潔が、欧米からの訪問客を驚嘆させた。

しかして、あまりにも日本人の当たり前だったので、これを「観光資源」だと、いまでも考えることができない。
観光大国になれない理由である。

だから、観光立国なんて絵に描いた餅よりひどい。

なぜなら、どんな状態が「観光立国」ということかも「描いていない」からである。
だが、このことは「悲観」にも値しない。
最初から、なかったことだからである。

それよりも、「日常」が消えていくことの方がよほど問題なのだ。

その典型が、商店街にあった「定番の惣菜」と、それを提供していた「お店の廃業」なのである。
理由の多くが、「後継者不足」だ。
血縁者であろうが、他人であろうが、商売を継いでくれない。

その理由は何か?
「多様性」を口角泡を飛ばして騒ぐようになったけど、それは、「一元化」を隠すための方便だからだ。

つまり、「就職せよ」と。
どこに?
エリートこそ、大企業に、という具合である。

その「エリート」とは、ぜんぜん「選民」なんかではなくて、ただテストの成績優秀者で、言われたことや書いてあることに「忠実」なる訓練を、歯を食いしばって頑張った者、という意味になった。

だから、これはこれで、たしかに「たいしたもの」なのだけど、結局は大企業に就職して「安定」を得ることが「人生目標」になってしまった。
それで、民間の大企業すら安定が不安定になったから、公務員という安定に喜ぶのが「親」なのである。

そして、その親の典型が、商店主なのだ。

ところが一方で、政府も、「生産性向上」のため、という余計なお世話で、企業群の「業界」に命令する。
これが、「効率的」だと信じて疑わないのは、個人商店を政府が管理できないからである。

そうやって、ソウル・フードも消えて、「工業的規格品」をスーパーマーケットの惣菜コーナーで買うしかなくなって、「フード」はあっても「ソウル」がなくなった時代を生きるしかなくなったのである。

だから、ひとは、他地域のものでも残っているソウル・フードを探す旅をしている。
けれども、「観光関係者」という俗物たちは、これに気づかないのであった。

なんで「LINE」なのか?

SNSの「便利さ」は承知しているけれども、「無料」なのが気にさわる。
いまや「無料の天下」になってしまった。

むかしの日本人は、「無料を怪しむ」精神の健全性があった。
「ただ?」そんなはずはないだろう。
どうして「ただなの?」なにかいかがわしいことがあるのか?と。

それでやっぱり騙されたり、へんに相手に気を遣うことになって、結局は損をする。
だから、ただほど高いものはない、といったのである。

価格に見合う対価は払う。
じつは、これが、経済学が前提に置く「経済人」の経済感覚なのだ。

もう30年前にもなろうむかし、とある地方のスーパーマーケットが、顧客カードを利用客に登録させて、レジでの提示で購入額に見合ったポイントを付与するサービスをはじめた。

いまでは、どこもかしこもポイントサービスをやっているから、財布がぶ厚くなる困ったになって、なるべく新規の店ではこれを拒否している。
数円のためにぶ厚い財布を持ち歩きたくないからだけど、ポイントが付かない当たり前に、なんだか損をした気にもなる。

さてそれで、最初のポイントサービスの意味とは、顧客の買い物情報を店が買った、ということだった。
つまり、顧客は自分の購買履歴を、レジで店に売っている、と。

これは、「ただ」で情報をいただくわけにはいかない、という経営者の精神が決めさせたことだった。
こういう経営者が経営している店なので、しっかり分析をしてより顧客サービスを充実させて、双方の「Win-Win」にしたから、繁盛店になったのである。

けれども、そんな「精神」を意識もしない経営者にも、「ポイント管理システム」という商品ができれば、おなじサービスがかんたんに実現できる。
それで、猫も杓子もとなったのである。

しかしながら、アメリカからやってきたSNSを提供する会社は、もっと貪欲で、自分たちの「Win」しかかんがえていないことがわかった。
それでも、「便利さ」という「誘惑」に駆られて、使わざるを得ない状態に置かれたのが、いまの「庶民」の立場なのである。

ここに、欧米的な「支配と被支配」ができあがって、それが「勝ち組・負け組」という言い方でわが国に伝播した。
「被支配者」の代表が、現職の大統領だったのに、SNSから永久追放されたトランプ氏なのである。

彼の政治的立場は、あくまでも「被支配者の側」にあるのに、日本では「憎悪」の対象としてプロパガンダされるのは、わが国マスコミが「支配者の側」に立脚しているからである。

しかし、こんな「単純な構図」すら理解できないのが、日本人の大半になったので、支配者からコケにされたりイジメの対象になっているトランプ氏を笑いながらバカにすることができるようになっている。

だから、アメリカでのトランプ支持の盛り上がりを「赤いビッグウエーブ」と呼ばれていることの意味が、まったくわからない状態になるのだ。
つまり、日本人は唯一の「同盟国」の実情を、ぜんぜん理解していない。

トランプ氏の政治的「復活」は、SNS企業には非常に都合の悪いことになるのは明白で、その「自由裁量」にきっぱりとメスが入るのは、彼自身の報復なのではなくて、現職大統領さえも言論の場を失うことの、アメリカ人一般がかんがえる「自分もやられる」ことへの共感があるからだ。

現に、「ダボス会議」は、世界的な言論統制を行うべきと提言した。
その手段は、A.I.による、という他人事としている。
これに、フロリダ州知事は、だれがそのプログラムを書くのか?として、反ダボス会議を明確にした。

そんなわけで、アメリカは一般人に主権があるという憲法に従った「反撃」が用意されてきているのだが、わが国は、ぜんぜん脳天気なままにいて平然と生活できるのは、幸福なのか不幸なのか?

韓国と中国に個人情報がダダ漏れだと指摘された、「LINE」が、相変わらずの猛威を振るっている。
これに、支払決済の「pay」機能が、さらなる個人情報抜き取り手段になっているとの指摘も無視できる状態なのである。

「LINE」の危険性が社会を騒がせていたときに、神奈川県は県民サービスとしての「LINE」を開始するという「快挙」を遂げた。
行政への批判だけでなく、県議会議員の質が低すぎるか、行政とグルなのかのどちらかだ。

いまや、日本郵政の再配達も、二次元バーコードからなら「LINE」に接続されるから、電話の自動音声で申し込んでいる。

そんななか、岐阜県八百津町は、SNSからの町指定ハッシュタグをつけて発信したら、町内宿泊施設の料金を2000円補助するという「観光政策」をやっている。
夫婦二人でやれば、4000円の補助になる。

こんな補助がありますと教えてくれた宿の女将さんに文句をいってもはじまらない。
とにかく、行政と議会が、あまりにも無防備なばかりか、自分たちの提案がどれほどの利益をSNSに与えるのかも、ノーマークにちがいない。

ただし、この制度では、「LINE」は排除されていた。
知らないひとへの「伝播力が弱い」、という理由だった。

なんにせよ、おそらく国やら県を通じて降ってくるおカネ(予算)だから、四の五といわずに「やっちまった勝ち」で決まったのだろう。

わが家はこれを「拒否」して、支払を済ませたのだった。
ことは、4000円の問題ではないのである。

「最新」の旅館だった

3年ぶりの八百津の三勝屋に二晩行きたくて、同町内にある宿に予約した。

評判は良さげだけれど、今どきとくだんHPがあるわけでもないので、予約は電話でした。
女将さんが出て、朝食付だけを伝えたら、夕食はどちらで?というから「三勝屋さんが目的」だと申し出た。

すると、日付の曜日から、「大丈夫、定休日ではないですよ」と教えてくれた。
こうしてわたしの中にある、旅館の女将の第一条件である、「地元情報通」にあっさり合格したのであった。

以前泊まった「妻籠」の宿も、居心地の良いところに「当たって」、一晩目の翌日に「宿場」にあった「本日の空室」看板には、当該の宿が「満室」だったので、その気になって帰館したら、我々夫婦だけの貸切状態になっていた。

「満室」と表示されていたことを女将さんに伝えたら、お客さんたちが気に入ったから他の客を取らないようにした、と。
どうやら「合格」したのは、我々の方だったのである。

それに、妻籠の「昔の面影保存」に尽力したのが、この宿の主人だったこともあってか、宿場内の居酒屋で宿の名前を答えたら一目置かれたことを思い出した。
あそこのお客じゃ安心だ、と。

食い逃げの心配ではなさそうだ。

そんなこんなで、三勝屋さんでは二晩連続でお邪魔すると、こちらも名物女将に伝えたら今度は、どちらにお泊まりで?と聞かれた。
「まつや旅館さん」というと、いい宿にお泊まりで、と返されて、「女将さんがちゃんとしているひとだから」と。

ご近所同士で仲がいいのは、どちらも贔屓したくなるポイントだ。

さて、その旅館は、さいきん私が気にしている分野での「最新」だったので、書いておこうとおもう。
それは、「食」にまつわる「安全性」のことである。

ちょうど1年経ったと話題のパラリンピック報道はあるけれど、オリンピック・パラリンピックでの「食」についての特集報道は地味だった。
「世界基準」を満たしていない、我が国の「食品」は、見事な「ガラパゴス状態」をその後もキープしている。

もちろんこのブログの読者ならお気づきだろうけど、わたしは「世界基準」が「正義」になっている状況も、「完全」とはおもっていない。
もっといえば、「食品」も、実体は、「デファクトスタンダード」なのである。

それは、世界大手といわれている、巨大流通企業たちによるものだ。

すなわち、パソコンのOS同様に、民間企業がつくるスタンダードで、パソコンのOSが「一社で支配した」のに対して、「食品」は複数社による「連合」となっている違いがある。

それがまさに「グローバル」な「仕入れ調達」のために、一国政府も及ばない状況なのである。
この意味で、ドンキホーテのような日本政府(とくに農水省)は、一国政府として挑んだものの、ものの見事に「世界から」相手にされなかったのだった。

この「世界」とは、各国選手団を統括したというよりも、種目別の世界団体が、「ドーピング」同様に「食材の安全」を要求したからである。
そして、それに、たとえば「JAS規格」が通用しない、という事態になったのである。

これは、日本人として由々しきことで、我々が食べている基準の大元が、世界から否定されたことでもあった。

じっさいに、我が国の食品安全基準としての「食品添加物認可」は、世界一「緩い」と指摘されており、それは、農薬の安全基準にも及んでいる。
なので、「日本製食品」あるいは「農産物」の多くが、ヨーロッパで「輸入禁止」措置が取られている。

この点で欧米基準は、過剰なるセンシティブだという意見もあろうが、これらの地域で「ガン発症率の減少」が見られる中、我が国だけが増加している現状をどのように解釈すべきか?という議論は、「速やか」に必要だろう。

そんなわけで、わたしがいいたい「最新」とは、食の安全についての見識だけでなく、じっさいの提供に及ぶことはいうまでもない。
すなわち、「ポスト・コロナ」としての、インバウンドに対するための「重要戦略」なのである。

このことは、何もセンシティブな欧米人(彼らは一般に高単価だ)ばかりをターゲットとしていない。
なぜなら、習政権が推進(強制)した、「自然農法」での作物が、アジアの富裕層にも浸透したからである。

むしろ、親中のスリランカ政権が失敗した「自然農法の強制」こそ、アジア諸国への輸出を睨んだことが原因だった。

すると、インバウンドの対応に、「食」の分野で追いつかない状況にあるのが、我が国の宿泊・外食業界なのである。

この度お世話になったこの宿は、ほぼすべての食材が「自家製自然農法」のものだった。
それは、米であり、野菜のことだ。
自家の田と畑を、ご主人が管理しているのは、客用ではなくてあくまでも自家用の延長なのである。

肉と魚、あるいは鶏卵などをどうするか?はある。
けれども、本格的な「和食」でみれば、これら動物タンパク質の比重は軽いという幸がある。

ホッとする食事の提供は、もっとも重要な宿の機能だ。
それは、たとえ「木賃宿」でもそうだった。
煮炊き用の「木賃」を払って、客が自炊したことをはじまりとする。

自然農法の宿は、だから「あたらしい」のである。

奈良県と愛知県の「反乱」

県民の健康について、画期的調査を断行したのは奈良県だった。
この調査は、医療機関と患者数のバランスを図るもので、毎年1回、厚生労働省へ報告されて、これを国がまとめて国策の基礎とする建前があった。

まだNHKに「まともさ」が残っていたとき、総合テレビの討論で、厚生労働大臣と日本医師会の副会長をコメンテーターとして、全国都道府県の担当課超級を集めた番組があった。

このときNHKの「仕込み」は、炸裂して、医師会はしどろもどろとなり、厚生労働大臣は身動きが取れなくなったから、視聴者には「NHKの快挙」にみえたのである。

しかし、この「快挙」をやったのは、奈良県の保険担当者であった。
彼らは、県の「基本政策」となる従来からのこの調査の根本を問題視して、数年をまたぐ「独自調査」に専念したのである。

よって、この間、奈良県は国に調査結果の提出をしなかった。
それでもって、番組前半は、省内の事務方から吹き込まれた大臣より、厳しい叱責が奈良県に向けられた。

大臣の叱責を待っていたかのように、その他の都道府県の担当者たちも、全国版が不十分なままになることに不満を漏らしたのである。
まさにこの瞬間、奈良県は、針の筵に座らされることになった。

そこで、司会者が、奈良県がこの間、何をやっていたかを取材しました、とさえぎって、VTR報告になったのである。

そしてなんと、奈良県の職員が、しらみつぶしに県内の開業医も含む医療機関全部を訪問し、患者とその疾患の状態をもとに、地図に落とす、という作業をしていた。
つまり、どの医療機関にはどんな病気の患者が、どの地区からやってきているか?の分布図を作成していたのである。

もちろん、医療機関には、県へのそのような「報告義務はない」ので、調査協力を断られる事例も多数あったという。
なぜなら、カルテの読み込みまでやったからである。

しかして、奈良県は数年をかけて、県内の各地における病気の状況と、専門医療機関の密度を確認することができた。
これぞ、この調査の本来的意味である。

新しく課長になった人物が、従来の「作文報告」に意味がない、と結論づけたことからの快挙なのだ。
その結果は、県民の病状に対応する医療機関の分布のズレが深刻だと確認できたことにある。

ただし、当時の県知事がどこまで承知していたのかは不明だ。

それで、政策的に、新規開業許可と廃業とのバランスを、分布図に沿うようにして、密度のギャップ改善を試みたのである。
もちろん、その効果は、時間とともに発揮されるのは当然だし、これが本来のこの調査の意味だ。

画面がスタジオに戻ると、司会者は畳み掛けるように奈良県の担当者に質問した。
調査の意義を説明しがらも、医療機関から協力拒否されたという実態は、医師会の協力がなかったという意味か?と。
そこで、担当者は即答して曰く、「はい、その通りです」。

さらに司会者は、前任まで「作文報告」をしていたことについて、他の都道府県についてはいかが思われますか?
担当者は、「こうした調査をやったと聞いたことがないので全国で作文報告をしているはず」と答え、スタジオが凍りついたのである。

容赦ない司会者は、前半で奈良県を非難した他県のひとに、「ご覧のような調査をされているのか?」ときいたが、誰も応えるものはいなかった。

そこで、前半に「べき論」を語っていた医師会代表に、奈良県医師会の態度についてどう思うかも聞いたし、大臣へは、「全国で作文報告をしている」のに、奈良県を叱責した大臣は、これら実態と報告書を読んだことがあるのか?と質問した。

結局、全国版の報告書を書き上げることだけの自己目的化していた実態を、大臣は認めるしかなかったのである。
おそらく、この大臣は、帰りの車で、担当官を怒鳴りつけたことだろう。

さてそれで、コロナについての対応も、奈良県は独特だったのは、こうした「過去の実績」の賜物であろう。

17日、中日新聞が、愛知県の驚愕すべき発表を伝えた。

「第7波」における、愛知県内の死亡者数は、「ゼロ」である実態があるにもかかわらず、「死亡原因を厳密にしないでよい」とした、国への報告と異なることに正式抗議した、と。
つまり、遺体にPCR検査を行なって、「陽性」であればコロナを死因として報告せよとする、「あれ」である。

この「あれ」とは、2020年6月18日に厚生労働省コロナ対策事務局が出した、全国「事務連絡」のことである。

これは、「統計法違反」の疑惑もあるから、本来ならば検察が動いて良さそうな「行政による犯罪容疑」だ。
また、法的根拠のある「通達」ではなく、「事務連絡」としたことに、高等行政官たちの悪知恵が見てとれる。

アメリカでは、FBIや司法省が、民主党の片棒を担いでいることで、かえって民主党員まで共和党へ鞍替えするような事態になったけれど、我が国では、国家行政の容疑を追求するのが「行政機関の検察=法務省」に委ねられている。

自民党が問題だけど、これに対抗する勢力が国家レベルで存在しない、つまり、「想定外」なのである。

奈良県と愛知県の反乱に、他の都道府県はどうするのか?
これが「地方の時代」の本当なのであった。