日本をリセットできるのか?

「日本史」をみれば、この国の一貫性が、世界のどこにもない「特殊」だということに気がつく。

世界は、たいがい戦争での興亡があって、滅亡したり征服したり征服されたりを繰り返しているからだ。

いったん征服されると、その後は長い年月と世代を奴隷の身におかれるもので、たとえば、古代エジプトの最後の女王、クレオパトラ7世の時代にローマの属国になってから、ざっと2000年間、エジプトは一度も独立したことはなかった。

王国として独立を回復したのは、1922年に英国から独立してからのことで、ここ100年の出来事なのである。

しかし、わが国の戦後史を振り返ってみれば、占領期を除いて独立を果たしている、というウソがまかり通っていて、ほんとうは1945年以来、わが国は連合国の植民地のままにある。

これは大変なことで、いわば「古代から続いていた日本」は、とっくに滅亡したのである。

つまり、ざっと80年も「独立ごっこ」をしているのである。
もちろん、「占領時代」という時期があったことさえも、学校で教えないから、なんの話かもわからない日本人が多数になっている。

それで、一度も外国の侵略を受けたことはない、なぞという「神話」を真顔で口にしても、だれもおかしいといわなくなった。

これは、国家総合職の官僚もおなじで、官僚養成学校はもっと酷い教育をして、エリートを育てていることにしている。
だから、国家総合職試験の問題は、たいへん難しい問題ばかりが出るのだけれど、そこに「国家観」が欠落していても、誰も不思議とも思わないで、エリート官僚が採用されている。

これが毎年の採用で、年輪にようになって、国家の組織がつくられているので、全体が腐るのは道理なのである。

どう腐るのか?

総合職ではない、いわゆる「ノンキャリ」が実務を仕切ることになっていて、「総合職:キャリア」が、ノンキャリの仕事を監督することになっている。
これが、「上」というものだ。

『刑事コロンボ』が畏れた、「うちのかみさん」ともうひとりが、「うえ」とか「おえらいさん」だったことを思い出せば、官僚とはそういうものだとわかる。

けれども、日本の官僚は、悪い意味での日本人だから、「まじめ」さを強みにしている。
だれもが「まじめ」にノンキャリの仕事を監督している風情で、かつ、政治家も「まじめ」に相手にしないといけないし、政府調達にかかわる民間企業にも、「まじめ」に相手するはめになるのは、相手が訪問してくるからである。

このとき、政治家の口利きがあれば、なおさらノンキャリの仕事ではなくて、キャリアの仕事になるのは、ノンキャリの分際だとなにをしでかすかわからないからである。
じっさいに起きたへんな接待で籠絡されたのは、たいがい「国家・係長」というノンキャリであった。

民間企業だと、企業内のさまざまな仕組みの「改善」は、現場からなにから、基本的には自己提案させることになっていて、これを仕切るのが、よくある「社長室」とか「企画部」という部署の社内官僚達だ。

しかし、国家なり地方なりの公務員の世界は、これができない。
たいがい、「規則」が明文化されていて、これに則った業務をしないと「いけない」からである。
国家なら、そもそも「省庁設置法」からはじまり「大臣令」とかと続く体系になっている。

なので、たとえ大臣に就任しても、おいそれとこの体系を変更することは、大臣にもできない相談になっている。
ならばどうするのか?

なにもしない、のである。

これこそが、「お役所仕事」の究極的本質なのである。
国民に対しては、あれこれと「法令」なり「通達」やらをもって、いろんな事を押しつけてくるけれど、役所内部に関してはなにもしない。

「綱紀粛正」で粛正されるのは、ノンキャリで、キャリアは責任をもって粛正をする側になるという無責任が、当然の世界なのである。

だから、国民も、いろんな押しつけでもって不便さを強要されればされるほどに、役所がなにかをやっていて、それが「進歩」であると勘違いしているけど、じつはなにもしていなくて、ただキャリア役人の楽なことをしたら、国民への押しつけになる、という構造になっているだけなのである。

もちろん、国家観が最初からないので、ただ目先の問題を、受験感覚で処理しているのである。

世界が安定しているなら、これはこれでも機能した。
しかし、世界が不安定化しはじめたから、これはこれで機能し続けるのは、国家存亡の危機となる。

国民にとって、レジ袋を強制的に買わされる不便とは、次元のちがう、「命」にかかわる事態なのである。
この改善を、在日アメリカ軍がやってくれるはずもないから、日本人が自分たちでやらないといけないけれど、それがこれまでのエリートたちにも不可能な役目なのである。

つまり、日本にエリートが絶えて、だれかいるはずと思っていたら存在していなかった。

結局、自助努力でなんとかできない、奴隷のエリート国家だったのである。
しかし、いまあきらめたら、永遠なる奴隷にされる。

日本人は日本をリセットできるのか?
向こう1000年を決める危機が、いま、目の前に迫っている。

ソロス財団の宣戦布告

富の集中が、産業の成功ではなくて、ヘッジファンドなる不労所得になったのは、マルクスにも想像できなかったことだろう。

にもかかわらず、マルクス主義が盛んなのは、色あせて使い物にならない「資本論」からの結論ではなくて、単に、全体主義が好きな、一種の倒錯した性的嗜好にも似た変態が跋扈している、ともいえるからである。

日本語で、「H:エッチ」とは、「へんたい:HENTAI」の「H」をさす。

ハンガリー人ではあるけれど、母国ハンガリーから嫌われまくって、実質的な国外追放をされたのがジョージ・ソロスとその財団である。
ハンガリーでは、「反ジョージ・ソロス法」まで立法されている。

日本人はハンガリーといっても遠い国でしかないけれど、ヨーロッパで特別視される国なのは、あのハプスブルク帝国の一翼をになった、オーストリー=ハンガリー二重帝国のひとつだったからである。

その意味で、ヨーロッパの中心なのがハンガリーだ。

第二次大戦後、ソ連の衛星国にされた悲劇は、ハンガリー人にとっての不幸にちがいないけれど、ハッキリ隷属させられることの意味を体感したのは、不幸中の幸いであった。
それがまた、ソ連の衰退を目の当たりにしたときに、「ヨーロッパ・ピクニック」という計画を実行したハンガリーの矜持にもなったのである。

「ピクニック」を装って、オーストリア側国境を開放して、東ドイツ人を西側に大量亡命させたこの計画は、後のベルリンの壁崩壊に直結する歴史的快挙であった。
もちろん、この間のソ連時代には、ハンガリー動乱を潰された痛い経験すらあったのだ。
それはまた、他の東側諸国への「みせしめ」の意味もあった。

ジョージ・ソロスという人物が、どうして全体主義を推進しようとするのか?については、わたしにはよくわからない。
彼の家系の安泰(支配者層に永久に留まる)を夢見ているのか?それとも、社会的な正義だと信じているのか?あるいは両方なのか?

どちらにせよ、金持ちの身の程知らずにほかならない。
国際刑事裁判所は、プーチン氏に逮捕状を出したけど、ジョージ・ソロスがもっともふさわしい人物なのではないか?

将来、BRICsが世界の主流になった際、この逮捕状を出した裁判官達に逮捕状がでるやもしれぬが、それはまちがいなく「正義」を名乗るのであろう。

さてそれで、ソロス財団は、息子に会長職が譲渡されて、いよいよトランプ氏とMAGA運動への宣戦布告をした。

これはたいへん奇妙なことだ。

社会(福祉)活動を旨とする財団が、完全なる政治団体として活動するなら、「政党」を名乗るべきだからである。
おなじく、ビル・ゲイツ財団しかり、ザッカーバーグ夫妻に至っては完全なる選挙買収を行った。

こうした仲間を通じて、さらに、世界経済フォーラムも含めて、大富豪達が一般人の生殺与奪の権を握ることの正義は、まったくもって理不尽でかつ暴虐な発想だけど、彼らのいいなりになることで、政治家も富を得るという世の中になった。

ゼレンスキー氏の親戚名義で、エジプトに豪勢な別荘を購入したのも、わが国ではニュースにならず、ウクライナにこれまでの西側援助金の使途を説明せよ、というヨーロッパ議会の動きについてもニュースにならない。

ロシアが圧倒する戦況からしても、現物支給したはずの武器弾薬が、どこかに横流しされている噂は絶えず、ましてや現金支援であるなら、ウクライナ政府内での分配が行われているという噂は、はなから汚職国家だったことで、だれも驚かないのである。

つまるところ、戦争の継続とは、究極の国際マネロンにして、公金チューチューなのである。

これが、グローバル全体主義のもっとも大きな「うまみ」なのである。
各国の金や資産を、個人のものにできる。
しかし、その個人とは、グローバル全体主義者に限定されるから、そうでない一般ウクライナ人たちの生活だけが破壊されている。

ロシア軍の仕業だとプロパガンダしていた、数々の遺体放置などの事件がウクライナ側の仕業だと奇しくもわかるようになったのは、ウクライナ軍兵士達の遺族が、キエフのマイダン革命広場で行った大規模デモで明らかになった。

ウクライナ軍は、戦死者の遺体を現場に放置しているため、遺品のひとつも遺族のもとに返ってきていないのである。
これにさしもの軍人遺族も、我慢の限界を超えたのである。

どんな形で終戦となるのか?は、プーチン氏次第になってきている。

彼の頭脳からしたら、ゼレンスキー政権の崩壊がもっとも望ましい平和的解決なのかもしれないが、そのために、北部ロシア語圏の占領とオデッサの港を確保することで、ウクライナを内陸国に閉じ込めるのが、もっとも軍事的には合理的であろうし、そもそもの戦争目的に合致する。

もうこの戦争の決着が見えてきたから、いよいよソロス財団がトランプ陣営(MAGA運動)への宣戦布告をしたのは、「背水の陣」ともいえる。

ただし、しぶとく悪あがきをするひとたちがグローバル全体主義者なので、東アジアにあたらしい戦争を起こして、戦時には大統領選挙を行わない、という伝家の宝刀を抜くやもしれぬ。
そこまでしないと、アメリカ民主党・戦争屋政権は生き残りができまでになっている。

ならば、アメリカは「第二次シビル・ウォー」に突入するのか?
内陸部共和党の支配する州や地域には、すでに多数の私設軍が組織されているのである。

とばっちりを喰らうような立ち位置にいるのが、わが国なのである。

盛り上がるアルゼンチン大統領選挙

先月、8月13日に実施された、アルゼンチンの予備選挙で、第3勢力と見なされていた、例によって「極右」の、ハビエル・ミレイ氏が大躍進してトップに躍り出たので話題になっている。

アルゼンチンの選挙では、大統領選挙だけでなく、予備選挙が行われて、「足切り」をやっている。
これは、わが国の世界一バカ高い「供託金制度」よりはマシだろう。

現政権と左派勢力が結託して、ミレイ氏に対抗すると予想されるが、はたしてどうなのか?

ミレイ氏は、熱烈なトランプ支持者だという。
そのために、超大胆な公約を掲げている。
なによりも、自国通貨の放棄で、アメリカ・ドルを唯一の法定通貨にするのも、中央銀行の廃止を訴えているからである。

これは意表を衝く案だ。
ただし、そこまでアルゼンチン経済はズダズダなのだろう。

すると、こないだのBRICs首脳会議で決まった、来年からのBRICs加盟はどうなるのか?
ドル離れを進めるBRICsとは反対方向になるからで、ミレイ氏は「加盟しない」旨を発言している。

そうはいっても、大胆な公約には、石油公団の民営化ばかりか、中央政府の多くの省庁の廃止も訴えている。
ようは、国民の役に立っていない、と。

これが、国民の拍手喝采を得ているのである。

マフィア化した政府をぶっ壊す!といった感じだろう。
なんだか、アルゼンチンだから、どれほどのマフィア化なのかを想像すると、そら恐ろしくなるけれど、わが国のしれっとしている分スマートなマフィア化の方は、より有効度という意味で恐ろしい。

やっぱりアルゼンチンだから、荒っぽいにちがいない。
これに、国軍の利権がからむ。

さらにいえば、アメリカへの不法移民の供給源でもあって、移民ビジネスが跋扈しているし、当然ながら「お薬」とか、「児童人身売買」もセットにあるだろう。
供給源を断つ、という意味で、どんな連携をトランプ氏ととるのだろうか?

それに、石油に関しては、プーチン氏がやった国益確保という意味の石油政策を、ミレイ氏は参考にするのか?
いまや、BRICsが世界の石油の8割をもつに至っているので、完全加盟ではなくとも、この点では無視できない。

単なる民営化では、アメリカの石油資本にすきにされてしまう。
ただ、ドルを法定通貨にするための条件にされるかもしれないから、しのぎを削る攻防戦となろう。

さてそれで、「金価格」に異常がみられるようになってきている。

歴史的に、ロンドンやニューヨーク市場での金価格形成に、かならず「金利」がまとわりついていたのに、ここ最近、金の独歩高となっているのだ。
金には金利がつかないので、金利が高くなると金価格は低下し、金利が安くなると上昇するということが繰り返されてきたのである。

しかし、いま、金利の動きから金の価格は切り離されて、ずっと「買い」の状態が続いている。

これは、BRICs諸国を中心に、金が買われているからである。
それに、BRICs諸国のGDP合計は、すでにG7を抜き去ったから、その影響度が過去とはちがう。

アメリカ民主党の世界規模での破壊的政策が功を奏してはいるけれど、まさかのBRICsに力を与えることになって、やっと気づいて「まずい」となっている無様がある。
もはや、アメリカは、とうてい一国だけで、世界を牛耳ることができなくなったのである。

この地殻変動ともいえる、力のひずみが、アルゼンチンに噴出しているのである。

ヨーロッパも、EUあるいはNATOが、ほころびだすのは、ウクライナ戦争と気候変動対策という名の、富の無駄遣いに、国民が納得しないからである。

また、アフリカでは「反フランス」の結束ができて、マクロン政権は軍事行動を検討するに至っている。
フランスが通貨発行権をもつ、CFAフランこそ、植民地の証なのである。

数百年単位で時計をみたら、ヨーロッパと(北)アメリカの時代が終わろうとしている。

ロシアは、ユーラシアのヨーロッパから、ユーラシアのアジアへのシフトを鮮明な国家戦略として発表しており、かえってヨーロッパでも親ロの国々に不安をもたらしている。
これら親ロの国々とは、南ルートで天然ガス供給を受けている国をさす。

わが国にとっては、極東ロシアや北極海航路がキーワードになる当然がある。

このようななかで、アルゼンチンはどこへいくのか?
あんがいと他人事ではないのである。

10月22日が本選。

人類を救うWHO脱退運動

「世界政府」の危険について書いてきた。

わたしが子供のころは、「国連信仰」があって、自民党を牛耳った小沢一郎氏は、「国連第一主義」を提唱して、国家独自の外交を放棄するのが正しいと主張したものだった。
それがいつの間にか、「国民の生活が第一」となったので、腰が定まらない安っぽさだけが目立って、政治の主流から排除されたのは国民の生活にはよいことだった。

ただし、小沢氏のような政治家が夏の終わりのクラゲのように涌き出るものだから、駆除しきれない困ったがある。
これも、「公害」なのだ。

わが国の政治が完全にダメになったのは、「小選挙区比例代表並立制」という選挙制度になってからだ。
自民党に都合がいいのは、自民党がこれを廃止しようとしないことで明らかだ。

この選挙制度ができるまでの自民党は、まだ「まとも」だったけど、急速に左旋回していまのようなグローバル全体主義政党になるのは、なんでもかんでも「票」を呑み込むことだけに専念したことの結果である。

この行動に、政治信条は関係なく、票を得た者勝ち、という単純原理がすべてとなったのである。

むかしは共産党のポスターが「アンチテーゼ」になっていたから、その逆の政策をいうひとが正しいとおもえばだいたいあっていたが、いまは、共産党のポスターが正しくみえることがある。
それだけ自民党の政策がメチャクチャなので、最近では共産党にはもっと頑張ってほしいともおもうのである。

この際、共産党も戦後すぐの一大政策、「憲法9条反対」をリバイバルしたら、さぞや支持を伸ばすのだろうに、とおもうけど、できない相談だろうから残念至極なのだ。

なぜに共産党が当時、「憲法9条反対」を主張したのか?といえば、「国家の独立」をちゃんと意識していたからである。
独立国家には、国防軍が必要で、独立国には外国軍を入れてはならない、という、至極まっとうな国家観があったからだった。

これがヘンテコな変容をとげて、アメリカ軍がいなくなったあかつきには、自衛隊を国防軍にする、という騙しをもって妥協したのである。
ほんとうは、日本人民軍でないといけないはずなのに。

国防軍とは「国軍」のことで、政府軍のことをさす。
人民軍とは、「党の軍」であって、共産各国が採用し、ヒトラーのドイツも、「親衛隊」という党の軍を国軍とは別に組織していた。

この意味で、後世にいわれだした「吉田ドクトリン」とは、国防をアメリカ軍にさせて、経済発展だけを狙う、という言い分の矛盾がみえてくる。
なんのメリットがあって、外国がわが国の国防を担うのか?
しかも、わが国の製品がその外国の経済を痛めつけて、国民の失業をもたらしてまで?

答は、植民地なのである。
だから、アメリカはバブル経済を起こさせて、これを潰し、以来、わが国の衰退が止まらないのである。

ならば在日アメリカ軍とはなにか?といえば、占領軍なのである。
彼らは、日本防衛をしているふりをして、日本を占領している。
それが、ナイ教授のレポートでも明らかなのだ。

しかして、日本人のほとんどは、とっくに「国家観を喪失した」ので、独立の意味もわかっていない。

日本のパスポートが世界最強、といって自慢するのは、それがどんな意味からのことかをかんがえたら、世界最弱になる可能性に身が震えることだろう。

戦術でも戦略でもロシアに勝てっこないウクライナに、アメリカ民主党のいいなりで肩入れしてきたけれど、先にヨーロッパ諸国が息切れしてきて、もう追加援助はできないと表明する国が、ドイツを筆頭にいくつもでてきた。

国民の不満が高まって、各国の政権基盤が弛んでいるからである。
この意味で、まだ民主主義が機能している。

わが国は、ロシア(メドベージェフ元大統領)から、「第二次大戦戦勝記念日」で名指しされて突っ込まれているのに、大本営発表のようなマスコミは一切無視して、国民に情報を伝えていない。
すくなくとも、ロシアは「隣国」だということさえ、日本人は忘れたのか?

それでもって、プーチン政権が倒れればいい、なぞという、アメリカ民主党(戦争屋)がたてた、「Aプラン」をいまだに信じている。
しかし、プーチン氏はとっくに「Bプラン」にも気づいていて、長期戦を仕掛けてくることの防御を作戦の優先におきはじめたようである。

ロシア系がおおく暮らす、北部と、黒海の港町オデッサの占領をもって停戦を提案する可能性が高まっている。
ウクライナ側は、オデッサを失うと、海を喪失する。

こんな情勢を冷静に、ハンガリーのオルバン首相は分析している。

さてそれで、劣勢になった世界経済フォーラムなどのグローバル全体主義者たちは、来年の5月を目指してフル稼働している。
それが、「パンデミック条約」による、WHOの世界政府化で、各国はWHOの支配下に入るのか?が問われている。

この条約は、二重構造になっていて、「条約」と「規約」がある。
じつは、「規約」がやばいのだ。
加盟国の投票で過半数を占めたら通るのが「規約」で、3分の2以上でないと通らないのが「条約」だからである。

自民党はこんな国家主権の喪失に関する重大な議決に、国会を軽視したまま賛成票を投じるにちがいない。

ために、いま、世界でマスコミが報じないから「密かに」、WHO脱退運動がはじまっているのである。

なお、ボランティア医師たちによる、WHOに代わる自由世界のための、「ワールドカウンシルフォーヘルスジャパン(WCH-Japan)」が5月に設立されている。

「瀬戸際」という言葉がふさわしい人類の危機がそこまでやってきている。

現代と平安時代の文化比較

リアリティを喪失すると、ファンタジーと現実の区別ができなくなって、かなりのトンチンカンな言動となる。

もしも完全に、ファンタジーと現実の区別ができなくってそのままなら、それは一般的に精神に異常をきたしたとして医療機関のお世話になるハメとなる。
残念ながら、わが国は、世界一の精神病棟・病床数を「誇って」いて、500万人が「病気だ」と診断されている、世界一の精神病国家なのである。

もちろん、こんな状態になりたくてなったわけではない。

それでいわれている原因の第一が、ストレス社会、という妙な共通認識なのである。
では、わが国は、いつからストレス社会になったのか?
あるいは、ストレスへの耐性がなくなったのは、どうしてなのか?

こうした、社会的要因とか、外部環境要因とかをかんがえると、おのずと「歴史認識」という方向へと向かう。

たとえば、1000年前の平安時代とは、どんな時代だったのか?
基本的に、戦争がなかったので、「平安」だったというけれど、果たしてほんとうか?

むしろ、「イェルサレム:エルサレム:アルサラーム:The 平安」ということで、平安を願って付けただけの都の名前だったのではないのか?

短命だった「長岡京造営」では、親王クラスの暗殺があるし、「天神様」になった改革派、菅原道真も政変で左遷の憂きの目にあう。
そもそも、藤原氏の台頭は、応天門の変による、政敵、大伴氏と紀氏を排除してのことだった。
後期には、平家の台頭と、陰謀がセットになって、「乱」になり、ついには源平合戦になったのだ。

平城京の木簡から、1万人をこえるペルシャ人官吏の名簿が発見されて、むかしからの伝説、平清盛は碧眼(青い目)だったことから、平家ペルシャ人説まであるのだ。

さて、平安時代を描いた作品として、高校現代国語の定番といえば、芥川龍之介の『羅城門』にちがいない。

ここに登場する主人公は、「下人」である。
1950年、ヴェネチア映画祭で金獅子賞をとった黒澤映画の、『羅城門』は、同じく芥川の『藪の中』をもとに橋本忍が脚色した作品だ。
やはり、主人公は、「下人」なのである。

おかげで、『羅城門』は、二つの話がこんがらがるのである。

 

平安時代といえば、『源氏物語』と『枕草子』が双璧で、『古今和歌集』が思い出されて、王朝絵巻のイメージがある。
それで、木村朗子『平安貴族サバイバル』(笠間書院、2022年)が、現代人のサバイバルと「似ている」としているのは、なかなかに興味深い。

圧倒的多数であったはずの、農民や、都会に巣食う下人のことではなくて、貴族のサバイバルと現代人の生活を比べているのだ。
その根拠に、現代になって顕在化してきた、「格差社会」という現実を強調している。
著者がスポットをあてたのは、貴族社会における出世競争なのだ。

しかも、生まれもった序列を突破するためには、学問を修めるほかなかった、と。
つまり、著者は現代人の受験競争を指している。

しかし、これらは本書の「つかみ」であって、決して浅はかをあげつらっているのではないから、念のため。
逆に、王朝内の教養競争は、男を凌ぐほどに激烈化するのは、権力の源泉が娘の子が次期帝になること一点に集中していたからである。

これは、江戸期から戦後まであった、「公娼制度」に転移された。
富裕層の男性を籠絡するのは、女性の教養が第一であったのだ。
それがまた、夜の銀座にも引き継がれて、ときのひとにまでなる「ママ」とは、まったくの教養人であった。

ヨーロッパだと、ヴェルディが残したオペラ、『La traviata:道を踏み外した女:椿姫』が代表的か?
ただし、こちらは教養が強調されているわけではない。

平安後宮での常套句に、「女にて見たてまつらまほし」がある。
女にしたいというほどの美男子、という意味だから、「美少年」ということだ。
女性がうっとりするほどの男性を指す。

かつての、「ジュリー」(沢田研二)や、ピーター(池畑慎之介)が、黄色い声を集めたのとおなじ感覚だろう。

だが、本人というよりも、熱狂する女性たちの教養はいかがだったのか?とあえて意地悪なかんがえをめぐらせば、前にも書いた、「女大学」の廃れ方こそが恨めしい。
子育てを男女問わず共同で行うべきとの強制が、子供のための発想ではなく、ヘンテコな「男女同権」の押し付けだというのは、子供からしたら母と父の役割のちがいを本能的にしっているからだろう。

中勘助の驚異的な記憶力が冴える、『銀の匙』は、相手がおばさんであってもそこに母の姿を重ねているからだとおもうのは、わたしのはるかな記憶の中にもあるからだ。
母が母性をもっているからではなくて、子供が母性を慕うのであって、父に母性を期待する子供はいない。

この意味で、平安貴族の女性たちは、母性よりもなによりもいまそこにいる男性(貴族)の寵愛を欲したのであった。
それがサバイバルなら、確かに今様なのかもしれないが、あくまでも上流階級だけの話である。

庶民は?
いつだって、『藪の中』なのである。

語学としての数学

ずいぶん前に、数学を「言語」として書いたことがある。

日本人は、母語の「国語」と、外国語の「英語」を、言語(学)学習だと思いこんでいて、言語学習とは、「文系」の科目だとも思いこんでいる。
そして、「理系」の代表格といえば、「数学」で、生徒が嫌いになるように仕向けて教えるのは、「英語」もおなじ、という共通に気がつかない。

ずいぶん前に、「国語の文法(「学校文法」)」と「日本語文法」のちがいについて書いた。

小・中学校の「国語」で習うから、これを外国人に日本語を教える日本語教師は、あえて「学校文法」と呼んでいる。
「狙い」は、高等学校の「古文」を読むための下準備だという。

しかし、外国人の日本語学習者には、とりあえず「古文」は必要ないし、外国人の母語との関係をもって説明しないと、ただでさえ複雑な日本語を理解するのは困難になる。
そこで、外国人の母語と比較できるように工夫したのが、「日本語文法」なのである。

幸か不幸か、欧米の言語や中国語は、その文法が厳密であるから、これらと日本語のちがいを比較対照することは、外国人にとってわかりやすい、という効果を生む。
なので、日本人の外国語学習者は、下準備として「日本語文法」をしっておくと、外国語たとえば英語の文法とのちがいを理解しやすくなる、という事実があるという。

日本における英語教育は、この下準備を生徒にさせない無謀がある、とはベテラン日本語教師の告白である。

さてそれで、文系人間がもっとも嫌うのが、「数学」なのも、数学とはなにか?という下準備を一切教えない無謀が、妙な伝統になって、数学教師達が生徒をマウントするための十分な理由となっている。

何度か紹介している、『教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018年)で、数学者である著者の新井紀子氏は、「長い歴史を通して、数学は、人間の認識や、人間が認識している事象を説明する手段として、論理と確率、統計という言葉を獲得してきた、あるいは、獲得できたのはその三つだけだった」と書いている。

さらに、「論理、確率、統計。これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の言葉のすべてです」として、衝撃的な一言がつづく。
「論理、確率、統計には、もう一つ決定的に欠けていることがあります。それは、「意味」を記述する方法がないということです」。

文系人間にとって、数学の冷たさとか、無機的な不気味さの理由が、この「意味を記述する方法がない」に尽きている。

「意味」は、人間が別途かんがえないといけないのだ。

逆にいえば、きっと数学にはまった「理系人間」たちは、この意味をかんがえることが楽しいにちがいない。
すると、理系人間たちのこの楽しみとは、やたら「文系」的なのである。

役人が政策立案をすることの、「とんでもない」を、だれもいわなくなったのは、民主主義の普及がされていないから、ともいえる事象だ。
本来ならば、政策立案は、「議会」と「議員」の仕事だ。

それで、議会が決議したら、行政は粛々と実行する、という手順と役目がある。

しかし、議会と議員(政党)がシンクタンクをもたない手抜きのために、役人にシンクタンクの役割を振ってしまったので、「役人天国」ができあがった。

企業の場合は、スタッフが政策立案することになっている。
そのスタッフのおおくが、「文系人間」なのである。

だから、「数字」も文系のスタッフが用意する。
社内データはもとより、各種統計データを用いるのはいうまでもない。

しかしながら、その「解釈」の訓練はどうしているのか?
あんがいと、本人任せ、なのである。

日本企業の「強み」が、ことごとく「欧米に遅れている」として、「改革」されてきたのは、文系人たちによる破壊活動であった。
これを牽引した、経済学者の肩書きをもっていたひとは、いまでは世界経済フォーラムにおける日本人唯一の理事となっている。

このひとのよくわからない論理に、おおくのひとがだまされた。
似たようによくわからない論理をかざすのは、三浦瑠麗氏である。

どうしてこのようなひとたちが跋扈できるのか?を問えば、日本国民に対しての「論理」の訓練が中途半端だからで、それが学校教育における従来型数学の限界となっている。
実用を教えないから、なんのために勉強させられているのか理解できない。

ただ、点数をとるための解法を暗記したり、手計算の方法を身体でおぼえたりしている。
つまり、おおいなるクイズ番組が数学の授業になってしまった。

しかし、もっと驚くのは、高校数学から「行列」が消えていた。
2012年からの話である。
2022年からは統計が必須化したのと交換になったのか?
しかも、「ベクトル」も文系数学から消えるという変な扱いを受けている。

天下り問題で文部次官を解雇された、前川喜平氏は、高校の中途退学者を減らすために、数学の必修をはずせばいい、と主張しているそうだが、言語道断である。
このひとには、「教育の目的」やらの「肝心」が欠落している。

わが国は、あくまで「科学技術立国」を維持しなければならない。

そのための数学を、従来の方法ではなくて生徒に理解させる工夫が必要なのである。

ナイ教授のそれはないレポート

今日2日は、わが国が連合軍へ降伏した日である。

ただし、沖縄は7日に日米両軍の将官が「無条件降伏」文書に署名している。
アメリカのプロパガンダで、日本政府も無条件降伏したかのように喧伝されているが、日本政府は降伏したが、それは条件降伏で、無条件降伏したのは日本軍であるから注意がいる。

この日以降、アメリカ政府には、「ジャパン・ハンドラー」と呼ばれる、対日政策専門の高級官僚(SES)が存在することは一般にもしられてきている。

そのなかに、ハーバード大学教授にしてケネディスクールの学長であった、ジョセフ・ナイ氏がいる。

上の一行だけで、アメリカ民主党のブレーンであることがわかるが、じっさいにカーター政権で国務副次官、クリントン政権で、国家情報会議議長と国防次官補(国際安全保障担当)を歴任している。

いまの言葉でいえば、グローバル全体主義者である。

この意味で、「ハーバード大学特別功労教授」という栄誉があるような肩書きは、ハーバード大学がかつてのモスクワ大学に匹敵する共産主義・全体主義の一大教育センター(洗脳機関)になっていることも明らかなのである。

よい子はハーバード大学にいっちゃいけないよ。

さて、ナイ氏がまとめた『対日超党派報告書』とは、2008年(ブッシュ息子・共和党政権時代)にアメリカ連邦上・下両院から、200名の議員を集めて作成した、対日戦略会議の超党派(戦争屋ネオコンたち)による報告書だ。

主なポイントは以下の6つ。

1 東シナ海・日本海近辺には未開発の石油・天然ガスがあり、その総量はサウジアラビアを凌ぐ。米国はこれをなんとしても入手しなければならない。(と勝手に決めた)

2 上記1のチャンスは、台湾と中国が軍事衝突を起こしたときだ。米・日両軍が台湾支援をするため、中国は日本の「本土攻撃」をし、逆上した日本人は本格的に日中戦争にのめりこむ。(アメリカは日本を煽るため、得意の「偽旗作戦」と日本人の似非保守をつかう)

3 米軍は徐々に引いて、日中だけを戦わせる。

4 日中戦争が激化したところで、アメリカは仲介にまわる。(「ポーツマス条約」を彷彿とさせる)この際、米軍は東シナ海・日本海でのPKO(平和維持活動)をおこなう。

5 4によって、この地域における資源開発に、圧倒的なアメリカエルギー産業が開発優先権を入手することができる。(唐突感があるがナイ氏は気にしていない)

6 以上の前提として、日本の自衛隊が海外で自由な軍事活動をできるような状況を形成しておくことが必要である。

まことに、アメリカ民主党らしい、自分たちの利益のためなら日本人や中国人(「真珠湾」で犠牲になったように、米軍の若者も消耗品として)がいくら死んでもかまわない、という見事な「戦略」なのである。
もちろん、この文章における「アメリカエルギー産業」とは、ロックフェラーやロスチャイルドの利権のことだ。

かんたんにいえば、ロックフェラーやらの利益のために、日本と台湾を見棄てる、といっている。
これが、民主党のいう、「日米同盟」なのである。

しかしながら、こんな稚拙で一方的なシナリオが現実化するのか?

このレポートから15年経ったいま、アメリカ民主党のめちゃくちゃな政策が、各地で「反米同盟」を結束させるに及んでおり、その典型がサウジアラビアのBRICs参加になって現れているのである。
しかも、アメリカの命綱「ペトロダラー」の約束が、反故になった。

ナイ教授がいう、ロックフェラーやらの利益を民主党が自分から毀損していていないか?

つまり、策士策に溺れる、になっている。

ただし、このひとたちには、成功体験がある。
それが、ウクライナでの「マイダン革命」(2014年)だった。
もっといえば、イラク戦争だったし、リビアのカダフィ殺害、あるいは「アラブの春」だった。

どれをとっても、「悪手」ばかりで、ひとつも「妙手」がない。
いかにも、囲碁・将棋を理解していないで、パワーゲームしか能がない別文化人(=野蛮人)である。

しかし、このレポートの結論は、日米同盟の終焉を意味するから、日本人にとって、あんがいとラッキーがある。

つまり、戦後から一貫してきた、「日本占領」が終わる「かも」、という意味だ。
もちろん、ナイ氏の頭の中に、「日米同盟の終焉」なんて一文字もないだろう。
あくまでも、アメリカ民主党に都合がいいことしか頭にない。

だが、アメリカのエネルギー利権のために、なぜに日本人が犠牲になることのシナリオに疑いを持たないのか?をかんがえればかんたんで、奴隷扱いだからである。
だから、ナイ氏のシナリオが現実化するのは、日本人が奴隷のまま、という条件が必要なのだ。

アメリカ民主党は、いつまでもどこまでもずっと、人種差別を是とする、とんでもない奴らだ。
この一点が壊れたら、日米同盟という名の植民地の終焉となる。

また一方で、もはやトランプ氏を司法の武器化という不正義でしか止めることができなくなったように、民主党の支配は国内各州でも終わりがみえてきた。

もしも、トランプ氏が返り咲いたら、「アメリカ・ファースト=各国ファースト」の政治理念が示されて、やっぱり日米同盟の終焉となるのだが、日本側にトランプ政権のカウンターパートがいない、という問題が浮き彫りとなる。

つまり、わが国には、「6」のさらに前提にあたる、「独立国家」としての準備がどこにもできていない、というウソのような状態がみえてくるのだ。

なんのことはない、植民国家ニッポン、なのである。

そんなわけで、やっぱりいい子はハーバード大学にいっちゃいけないよ。
バカになるから。

私説:デパート衰退のわけ

「不要産業」の代名詞が、デパートになってきた。

セブン&アイ・ホールディングスが売却を急ぐ、「そごう」と「西武百貨店」の従業員組合は、事ここに至ってストライキを実施する、としたものの、対象は西武池袋本店「だけ」という状態になったのである。

しかしながら、西武池袋本店は、新宿とはちがった地域からの客層でごった返す、「東京」のなかのひとつの中心地にある。

これがまた、「地方」との関係でいうと、田中角栄が意図した、「全国をくまなく・まんべんなく東京化する」という、あの、「日本列島改造論」に影響された、「東京の見本市」となったので、移動が困難で東京がまだ物珍しかった時代には、それでも重宝されたのである。

東海道新幹線のオリジナル計画で、「沼津駅」があったのを、ときの沼津商工会が顧客の東京への流出を懸念して、これが「大反対運動」となって、とうとう、隣の「三島駅」に決まった。
当時の孫にあたる、現商工会のメンバーは、沼津の経済衰退を、祖父達の変な努力のおかげ、と皮肉っているけれど、ほんとうか?

沼津経済は、そんな程度で興隆も衰退もするほど単純構造なのか?

わたしからみたら、この祖父があって、この孫がいる、という、「安易さ」がみごとに遺伝しているだけだとしかおもえない。
もちろん、これは、わたしの「感想」である。

その沼津に、デパートは消滅したとはいえ、大型SCは花盛りなのである。

それがまた、東京の大手不動産デベロッパーが、金太郎飴的なワンパターンでつくって、ワンパターンのテナント募集をするので、地域特性がほとんどないナショナルブランドのオンパレードになっている。

このことは、世界でも起きている。

王太子時代がえらく長かった、英国のチャールズ3世が書いた、『英国の未来像』(東京書籍、1991年)で、ヨーロッパ各地につくられているSCの貧しい建築における「思想の貧困」を批判している。

わたしは、チャールズ3世がいう貧しさを、地元横浜の「ランドマーク・プラザ」がそれだ、と勝手に特定して見物している。

この商業店舗群のつくり方とおなじものを、ルーマニアのブカレストや、ブルガリアのソフィア、ポーランドのワルシャワで観ている。
ロンドンにも、パリにも、ほぼ世界中に点在していることだろう。

そんななか、アメリカ・カリフォルニア州で160年以上の歴史をもつデパートメントストア「メイシーズ」が、とうとう閉館の苦境に立たされている。

この最大の理由が、「治安の悪化」だ。

アメリカ民主党政権(カリフォルニア州のこと)が2014年に成立・住民投票で承認された、「Proposition 47」で、950ドル以下の窃盗は「軽犯罪」となったのである。
それで警察当局は、捜査をしない、と決めたのである。

つまり、カリフォルニア州は、「万引き天国」と化した。

もっとも、カリフォルニア州は、あの有名な、歴史上もっともついていない不幸に見舞われた、ズータ氏の牧場から出た砂金が、持ち去り放題になってズダズダにした末裔が住んでいる地域だ。

血は争えない。

所有権の絶対が崩壊すれば、近代社会はたちまち無法地帯となる。
その意味で、カリフォルニア州は、「中世以前」に回帰したので、近代社会ではなくなった。
人口が他州へ流出をはじめたのは、近代社会で生活したい、ということでの引っ越しコストになっている。

さてそれで、デパートの衰退とは、徹底した「セレクト・ショップ」でもなく、なんだか漫然と商品が陳列棚にある、という景色一辺倒になったことに尽きるとおもう。
加えて、もうひとつが、買う側の無教養だ。
商品選択にあたっての「目利き」の目がないことを、ここでは無教養という。

おそらく、地方都市でも伝統文化を子供に教えないために、地元産品の目利きもいなくなってきているはずなのだ。

するとこれは、アメリカ式マーケティングリサーチでは問題解決できない。
むしろ、「生活の歴史=民俗」の問題なのである。

となると、誰がトータル・コーディネートするのか?よりも、完全なる暮らしの理想モデルはなにか?をいったん描いて、そこからの「優先順位的な提案」を観せてみたい、というのが、消費者へ教養を付与する一歩となる。

こうした「社会的使命」をすっかり失念したがゆえに、「不要産業」と評価されるに至ったのである。

アメリカナイズして、自らを鍛えたつもりの、セブン&アイ・ホールディングスの浅はかさは、コンビニで強調したい細かな気づかいの日本文化とは別のタイプの日本文化をアッピールすべきところが、その区別ができないザマに陥ったのである。

だからアメリカから輸入した経営学や経済学が通じない。
むしろ、国文学や歴史をしっかり重視していたら、とおもうと惜しい。

結局、残念な経営者が会社を潰す、の法則はなんら変わらないのであった。

金1グラム1万円

世の中は、「金価格上昇」と書きたてているけれど、金の販売社がかならずパンフレットに書く、「太古からの不変の価値」が本当ならば、「ドルや円価値の下降」が正しい評価になる。

そのドルに対しても「円安」だから、日本人が貧しくなるメカニズムは、このなかのどこかに潜んでいる。

約30年前、1グラム1200円だったのが、いっとき700円台までになって、これを底にしてとうとう1万円となったのである。

従来型の経済理論を、ことごとく否定したのがトルコのエルドアン大統領で、徹底したトルコ・リラ安政策を実施してきた。
しかし、3期目の昨年の大統領選挙で、対立候補との激戦となり、その政権基盤が「盤石」ではないと国際社会のしることになった。

どこでなにがあったのかはしらないが、3期目のスタートにあたって、従来型の経済理論を採用することになったのは、これはこれで世界をおどろかすことになったのだった。

しかしながら、トルコ人はトルコ・リラを使わないでドルでの生活になっているから、だからなんなのか?があるのである。

それでも紙面を埋めるために何でもするインチキで、トルコのインフレをトルコ・リラベースの論法でもっともらしい記事にして、中央銀行の利上げについても不可思議な解説をしている。
7月のインフレ率は、47.8%なのに、8月のトルコ中央銀行の利上げ後も、政策金利は年率25%でしかないのである。

これで、インフレ退治ができるのか?になるけれど、トルコ・リラをベースにした話なので、もはや話半分でしかない。

こんな国もある。

わが国は、「経済カースト」のなかでは、トルコよりは「まし」だとおもいたいが、完全にFRBの支配下に日銀が位置するから、その政策自由度においてはまさかのトルコ以下なのである。

これは、トルコが地図上で位置すること、つまり、地政学的に、ロシアの影響が避けられないことと関係している。
NATO加盟国なのに、EUには加盟できないトルコの中途半端さは、逆にトルコの政策自由度を担保させているのである。

あたかも、トランプ氏を徹底的に政治迫害してはばからなくなったことが、かえってトランプ氏の支持を深めて、過去最大の政治資金があつまっているように、トルコはうまくヨーロッパとつき合っている。

翻って、わが国のまずさは、徹底的にアメリカ民主党の分党のようにふるまうことで、その腰巾着ぶりを強化しているけれど、もはや「泥船」だと国民が気づきだしている。

とうとう、あのソロス財団(「オープンソサイエティ財団」)が、ヨーロッパからの撤退を表明し、従業員は全員解雇の対象となった。
どんなに資金をいれても、効果がないばかりか、かえって反発を生むことに気がついたようだ。

別の見方からしたら、トランプ潰しに集中する、という意味にもみえる。

また、BRICs首脳会議では、事前にいわれていた新通貨の話はなかった。
だが、現在の各国通貨の決済を加盟国間でより円滑にするためのシステムを構築する、ということが、新通貨のことだとすると、あんがい「まとも」なのだ。

これにはふたつの意味がある。
ひとつは、BISからの脱却を示唆するからだ。
もうひとつは、ハイエクの「通貨自由発行論」がイメージできる。

すると、わたしにはBRICs機構は、第二国連にみえてくるのである。

24年1月に新規加盟が決まったのは、イラン、サウジアラビア、エジプト、アルゼンチン、UAE、エチオピアの6ヵ国で、これらを加えた後のBRICs経済圏は、なんと西側先進国(G20)のGDPを抜き去るのである。

そしてなにより、サウジを中心とするアラブ湾岸産油国が、キッシンジャーが提案した、「ペトロダラー」からの脱却を決めたので、ドルの神通力が弱まること確実になったことが、わが国にも多大な影響を及ぼす。

何のためのアメリカ国債大量保有だったのか?だ。

また、BRICs新通貨が金本位制だという噂がもっともらしくながれたのも、石油本位の後ろ盾を失うドルへの攻撃だったとしたら、否応なしに金価格が上昇し(ドルや円の価値低下)が起きるのである。

すくなくとも、ペトロダラーを創設したキッシンジャー御大(御年100歳)が存命中に、その崩壊を目にして永眠するのか?それともすでになにか手を打っているのか?

一般人にはわからない。

ただ、1974年から半世紀で、大転換点をむかえていることはまちがいない。

国際バカロレアの解説講義を聞いてきた

国際バカロレア(International Baccalaureate:IB)とは、スイスに本部を置く非営利団体がおこなう、大学入学資格試験とそのための教育プログラムをさす。

この設立の背景には、外交官の子供たちが赴任先の国における教育で、母国での大学進学に不利にならないようするためで、目的には、より良い平和な世界を築くために貢献する人材育成として、「全人教育」を掲げているという。

ここで注意したいことが3つある。

ひとつは、ヨーロッパの外交官とは、すなわち「貴族」だということだ。
日本人はすっかり忘れてしまっているが、現代ヨーロッパは相変わらず「身分社会」なのである。
ゆえに、貴族の子供に対する特権的教育プログラムになるのは当然である。

ひとつは、より良い平和な世界を築くために貢献する人材育成としているのに、ウクライナ戦争をやめられられないのは、このプログラムの失敗を意味しないか?ということだ。

それがまた、ひとつ、「全人教育」を掲げていることの不可能なのである。
わが国の伝統にしたがえば、子供の教育の責任の第一は、家庭=親にあった。

共産化したアメリカ民主党は、親が子供の教育責任者であることを否定して、行政にあるとした。
それで教育委員会に抗議した親たちを、なんと「国内テロリスト認定」したのであった。
この認定を受けた親を、FBIが逮捕する事態にまでなっている。

このような、発信源の側の諸事情をふまえたうえで、IBの説明を受けるのは重要なことだけど、説明者はこのような前提を説明してくれるわけもないので、聴く側の問題になっている。

また、このブログでは何度も書いてきたが、だからといってわが国の教育が素晴らしいとは到底いえないのも事実である。

この原因は、独占禁止法に違反する文科省の学校教育全般(義務教育から大学まで)に対する独占であって、さらに、研究予算の配分も文科省が決めるので、学者も全員いやでも文科省の役人に逆らうことができなくなっているおぞましい現実がある。

文科省役人の好き放題の隠れ蓑になっている、堕落した国家機関が、日本学術会議なのだ。

もちろん、わが国の大学受験制度は、文科省の独占を強化するためにある。
そのための、手段が「難関校の神話化」である。
これにぶら下がっているビジネスが、受験予備校・塾である。

とにかく、「なぜ?なに?」といった余計なことを一切かんがえず、教科書が聖書・コーランのごとく正しい、とした一種の宗教的な学習ができる者が、難関校に合格するようになっている。
ゆえに、A.I.時代を迎えて、これらの人間は生き残れるのか?という疑問が各所から湧き起こっているのであって、決してやっかみからの世迷い言ではない。

それはもう、いまの日本政府をみればわかる。

この難関校出身者ばかりで構成されている組織群の体たらくは、かつての興銀や長銀の破綻と似ているのである。

興銀は東大出でなければひとに非ず、だったし、対する長銀は京大出でなければひとに非ず、といった、およそいいおとなが口にするのもはばかれることが、行内の常識だった。
この幼児性は、家庭内教育の否定を第一にした、GHQ=アメリカ民主党が構築した、戦後教育の成果であり、その経営破綻は、結果だったのである。

ただし、日本型の経済を支えたのも、これら長期信用銀行の役割だったから、これを潰さざるをえなくしたバブルとバブルの崩壊は、日本潰しの最終局面としてアメリカに都合がよかったことも、日本人はしっておくべきだ。

そんなわけだから、家庭内教育とIBを分けて、あらためてIBだけをみれば、少なくともいまの日本の完全管理された学校教育の方法よりは、より、生徒オリエンテッドであることは間違いない。

前にも書いた、アメリカの教科書がやたら分厚いのは、「読めば分かる」ように、懇切丁寧さの結果なのである。
だから、学生はこれら大部冊を読む作業に徹するのだけれど、飽きさせないための工夫も又ページ数を増やす原因で、現実世界での応用事例をふんだんに紹介している特徴がある。

今回、わたしが受けた解説講義は、IB認定校のじっさいの数学授業をサンプルにしたものだった。
生徒たちと学校の中庭に出て、校舎にある塔の撮影をする。
この画像に三角形を書く加工して、タンジェントをもちいて塔の高さを算出するのである。

そのためには、現場でなにを確認しないといけないか?を生徒にかんがえさせて、意見を述べさせる。

なお、これらの計算に用いるのは、世界的に有名な「教育用グラフ電卓」、TI-Nspire CX II CASで、生徒たちに配布されている。

さて、こうした授業法がわが国で普及しないのは、当然に文科省の独占から逸脱するからだし、受験問題の解法に合致しないからであるけれど、一方で、現場レベルでは、数学教師がこうした授業法を面倒がって嫌がるからである。

公務員化=お役人化した教師は、学習指導要領に準拠していていさえあれば、それでいいからで、できるできないは、生徒の理解力と努力次第、という上から目線が、この上もなく楽ちんだからだ。

もはや、国家百年の計、などと教育の重要性をいうものもいなくなって、なんでもいいから大学卒業が高学歴なのだ、とか、それで一生が安泰だという時代は終わったのに、素直にやらされているだけの子供が最大の被害者なのであることだけがわかったのである。