万事休すのIMF「国際CBDC」

もうどうにもとまらない!

1973年(昭和48年)のヒット曲、『どうにもとまらない』(作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一)の出だしは、「うわさを信じちゃいけないよ」だ。
それで、「あゝ今夜だけ あゝ今夜だけ もう どうにも とまらない」でしめていた。

この歌から、半世紀。
われわれは、個人としての自由な生活に終止符が打たれようとしている、といってきたが、とうとう、「打たれた」のである。

日本の将棋でいえば、「詰み」で、西洋の将棋チェスでいえば、「チェックメイト」である。

それが、14日、ワシントンで開催された、IMFの「国際通貨金融委員会(IMFC)」で、わが国からは、鈴木俊一財相と植田和男日銀新総裁が参加した。

この日付と、この二人の名前は、将来、「痛恨のおバカ」として試験にでるかもしれないから覚えておいた方がいいかもしれないが、IMFの意図通りの世界になったら、レジスタンスの地下情報になるにちがいない。

財務省と日銀の関係は、「別々」というのが、『新日銀法』(平成10年4月1日から施行)の主旨である。
つまり、この法律で日銀は、国家の子会社ではなくて、「独立した存在」だと決めたのだった。

しかし、日銀は企業コード(8301)をもつ、株式会社でもあって、その株式の半分を日本政府がもっている(といわれている)から、日銀法で子会社ではないといっても、そうはいかない。
「といわれている」というのは、日銀は一度もその株主構成を発表したことがない、「特殊な会社」だからである。

ほんとうは誰がどのくらい株式保有をしているのか?ぜんぜん、わからないのだ。

権威主義に染まっている日本人は、財務省の方が日銀の上位にあって、財務大臣の方が日銀総裁よりも偉いと思いこんでいるけれど、ほんとうなのか?

概ね「正解」を無料動画で解説してくれるから、なんだか便利な、高橋洋一教授(元大蔵官僚)も、ときたま情報操作をやるので、全部が全部「信じちゃいけないよ」になるのだけれど、その一つの例が、「日銀は政府の子会社です!」といい切っていることが挙げられる。

本質的(株主構成)からすれば、その通り、だけど、日銀法をどうするか?がある。
安倍氏は第二次内閣の看板「アベノミクス」で、いうことをきかない白川総裁に、日銀法を元の政府子会社に戻すぞ!と脅して、辞任させ、黒田財務省財務官を就任させたのだった。

この点で、安倍氏は、凄みがある政治家ではあった。

とはいえふつうは、こないだ就任したばかりの新総裁、植田和男氏(東大教授)を、もしも財務大臣が解任したいとおもっても、ぜったいにできない相談なのは、それが首相であってもおなじだからである。

なんと、いったん任命(内閣だけでなく、衆参両院の半数以上の同意が必要で衆議院の優越はない)したら、自分から辞めるといわない限り、だれにも辞めさせることができないのが「日銀総裁」なのである。

対して、財務大臣は首相が解任できるし、選挙で落選したら、政治的に職に留まることはできない。

この点で、神奈川県民は総じてバカだと認定されて、その神奈川県から選出されたのが、民間人のままでは格好が付かないからと参議院議員になったのが、竹中平蔵氏(慶大教授)であった。

もちろん、このひとを経済担当相にしたのは、そんなバカの集団の一部から選ばれた、神奈川県横須賀市の小泉純一郎首相だ。

さてそれで、そもそもIMFとは「やばい組織」で、実質的には、軍産複合体が仕切っている。
その実態を隠すために、トップの専務理事を支える「ナンバー2」に、日本の財務省から役人が「副専務理事」で出向しているのだ。

だから、IMFを仕切っているのは日本だとだれも思わないのは、大蔵省を解体して「財務省」にさせた、アメリカ財務省の傀儡だからであるし、FRBがその裏にいる。
このことは、「世界銀行」も同じ構造だと前に書いた。

さて、財務省より目立たない日銀の方が、やっぱり下だという根拠はどこにもなく、むしろ、通貨の話になれば、日本の通貨「円」を発行している日銀こそが、主役に躍り出るのは当然なのである。
つまり、日銀総裁の、「露払い」が財務大臣なのである。

それで、「CBDC」とはなにか?といえば、中央銀行デジタル通貨(Central Bank Digital Currency)のことである。

この会合で、IMFが「途上国向け」のCBDCを促進するのを、日本も協力すると決めた。

つまり、
(1)IMFがCBDCを決めたことと、
(2)途上国向け支援をすること
のふたつが同時に決まったのだ。

わが国の「円」も、アメリカ「ドル」でさえも、中央銀行が発行するデジタル通貨なんてない。
自国でないのに、発展途上国に支援するとはなんのことだ?

念のために書けば、自由経済における通貨の最大のポイントは、「匿名性の確保」にある。

さいきんでは、だれが触ったかわからないお札が「不潔」だとして、電子決済(キャッシュレス)のなかでも「なんとかPay」を利用する、病的な潔癖症のひとが増えているらしいけど、それでもらえるポイントバックが、これまた「お得」という乞食がいる。
自分の端末あてにポイントが付くというのは、匿名性がないからだ。

病的で乞食なのは、お気の毒だけど、健常者には迷惑なのである。

なぜなら、匿名性がない決済が普及して、その方法だけが決済方式になった途端に、われわれの自由(「生存」も含む)が終わるからである。

誰がいつ、なんの目的(購入)でいくらを使ったという、情報だけではなく、しっかりスマホ端末の個人情報も盗られているから、そのひとの生活データがぜんぶ、システム提供者に把握される。
すると、この決済システムだけの世界になったら、システムが使えない状況のコントロールで、下手をすると命を失いかねない。

総ての決済ができないならば、ペットボトルの水さえ得られない。

本邦では、『ザ インターネット』とされたけど、オリジナルは、『The Net』(1995年)のこの映画の「先見性」を、改めて確認するといい。
当時は、クレジットカードが使用できなくなる、という表現で済んでいたけど、現実は、通貨そのものになる。

その使用条件が、政府に従順であること、という情報把握と合体したら、もはや全体主義社会が完成するのである。

すなわち、途上国から、IMFは人々の完全支配をする、と決めたのである。
そうやって、「次」は、日本の番になるということだ。

これを、「自分だけ 自分だけ」と乞食たちが使うことで、もうどうにもとまらないから、「万事休す」なのである。

「ミ♩」の発見

何度か書いてきたので、これからも現象として現れることが予想されるのは、SNSにおけるアルゴリズムで、「わたし向き」のサジェスチョンによる、情報提供があることだ。

今回は、突如、先月亡くなった坂本龍一氏の、NHK「Eテレ」の番組『スコラ音楽の学校』の第1回から第4回までの「バッハ」が登場したのであった。

わが家はテレビを観ないので、こんな番組があったこともしらなかったけど、調べたら、2010年4月3日放送開始とあるから、もう一回り以上も前のことになる。
なので、この学校の生徒として参加した、年長の高校生も、三十路になる。

だが、わたしにとって、坂本龍一という人物は興味の対象外であった。

一世を風靡した、「YMO」は、それこそ同時代的ではあった。
なので、シンセサイザーでだけ演奏した『デジタル・バッハ』の、LPレコードを買ったものの、やっぱりあの無機質感が気持ち悪かった。
一般的には、「新しい」からこそ、支持されたのだとおもうけど。

つまり、「新しい=進歩=よいこと」だったのである。

これは、「1970年のこんにちは~♩」と三波春夫が明るくて空っぽな歌を国民に焼き付けた、大阪万博のテーマ、「進歩と調和」の大延長線上にある価値観だ。

逆に、これを書いていて、じぶんは相当前の若い時分から、進歩思想と折り合いが悪かったのだと気がついた。

進歩主義こそが、社会主義・共産主義の基本をなす思想だから、あの大阪万博とは、じつは「社会主義の祭典」だったのである、と前に書いた。
アメリカ館が注目なのではなくて、ソ連館こそが、もっともテーマに合致した「参加」だったのだ。

これを、「全方位外交の勝利」とプロパガンダされて、国民は信じたのである。
ソ連がプロパガンダをしに参加したのでもなく、この万博の趣旨そのものが、真のソ連礼賛だったから、むしろほんとうは「シブシブ」でもソ連館があったのである。

けれども、社会主義やら共産主義を礼賛するひとたちが、公立学校の教師をやって久しいので、すでに後期高齢者となっている世代でも被害者なのに、進歩主義がどんなに浅はかで危険なものかをしらないでいる。

もちろん、日教組なる組織をつくったのも、GHQの命による、日本人破壊工作だったこともしらないひとたち(=むかし「全共闘世代」といわれていた)が、ただなんとなく齢を重ねて、後期高齢者になったのである。

この意味で、おめでたい世代なのだが、80年かけてもやめずに日本人破壊を続けていることの方が、よほど恐ろしい。

しかして、坂本龍一氏は、芸大(作曲科)修士の音楽家なのであった。

もちろん、西洋音楽の方面であって、邦楽は大学ではなくて、「家元」にあるし、もっと古い「雅楽」にいたっては、いまだに宮内庁式部職楽部が仕切っていて、ユネスコ世界遺産(2007年)になっているのに、大自慢するひとがすくないのは、おそらく「天皇制」なる共産党用語との兼ね合いが、政治になっているからだろう。

番組では、バッハをテーマにしながら最初に、グレゴリオ聖歌から、ガムラン音楽を生徒に聴かせたのは、坂本氏の「音楽」に関する専門家としての矜持がみえた。
われわれの耳は、明治以降、すっかり「西洋化」していることをさり気なく体験させたからである。

この意味で、「邦楽」は、まったく別の体系を形成している音楽なのである。
どんな募集をしたのかしらないが、全員が楽器をたしなむ生徒のなかで、独り、沖縄の三線で登場した中学生だけが「和楽器」で、シリーズの最後まで戸惑っていたのが印象に残るものの、この子の戸惑いこそが正しく、邦楽と西洋音楽を分けていた。

ただ、相手がNHKなので、穿ってみれば、「世界は一つ」にしないといけない、という子供への「教育」という余計な意図の方が先立ったのかも、と斜めから疑うのである。
それになんで和楽器が、沖縄の三線だけだったのか?というのも不満なのである。

音楽の体系とは、リズム(拍子)、メロディ(旋律)、それとハーモニー(和音)からなるのだが、邦楽やら東洋の音楽はあまりにも西洋から遠いのであった。

西洋で「音」を解析した初めては、「ピタゴラス(三平方)の定理」のピタゴラスだといわれている。
彼は、「ピタゴラス音律」という、弦の振動数の研究から得た「音律(3倍音)」をつくった。
それからいまの「平均律」が完成して、西洋音楽(クラシック)ができた。

「平均律」とは、1オクターブの音階を、振動数で「等分」して調整することをさす。
すると、振動数をプログラミングする、「テクノ」こそ、平均律の申し子なのだ。

むかし、「現代音楽」というクラシックのジャンルで、調性破壊をやったのを、「ポスト・モダン」といっていたのが、なんだかわらえるけれど、「調性=平均律だけ」だというのも思い込みになる。

西洋が、キリスト教(ローマ・カトリック教会)に染まっていたことを背景に、「リベラル・アーツ」ができて、当時の大学では、下級3学の、文法、修辞、論理と、上級4学の、数学、音楽、幾何、天文のあわせて計7教科を、「自由7科」ともいった。

音楽があるのは、「神の言葉」同然に扱われたからである。

グレゴリオ聖歌が単調なのに、徐々に「合唱」における、ハーモニー(和音)に注目されると、どの音と一緒になると心地よく、どの音と一緒になると違和感が生まれるかが理解されるようになって、「ド」と「ソ」しかなかった音階のなかに、音の厚みと心地よさが増す「ミの音」が発見された。

それでもって、「ド・ミ・ソ」を同時に出すことでの、「コード」ができた。

バッハは、人類の記念碑的大作、『平均律クラヴィーア曲集』で、全部の「調」(長調・単調あわせて24)を用いた、24曲の作曲をなんと2回もやって、48曲を残している。
けれども、歴史的に、バッハの時代の「平均律」は、いまほど厳密ではないというから、当時の調律でこの曲を聴いてみたいものだが、そんな演奏がみつからないのも不思議である。

さて、その第一曲目の、「プレリュード(前奏曲)」が、「ド」、「ミ」、「ソ」を繰り返し変奏するもので、のちにグノーがこれにメロディ(旋律)をつけたのが、有名な『アヴェ・マリア』である。

「ドミソ」ゆえに、この曲にはたいがいのメロディーが乗るので、坂本氏は生徒にすきなように作曲させている。

バッハ作品の多くが、いまでもジャズやロックに編曲されているのに、より複雑化したモーツァルトやヴェートーベンの編曲が少ないのは、完成度の高さゆえ、ともいえる。

民謡をアレンジした和楽器のロックバンドが生まれて、世界的な人気になってきたのは、坂本龍一氏らのおかげなのだろう。
ただし、やっぱり、地球は一つでも、世界は一つではない。けれど。

合掌

『水道碑記』が読めない恥

新宿の「四谷四丁目」交差点にある、巨大な石碑『水道碑記』(すいどうのいしぶみのき:玉川上水記念碑)の「碑文」が読めない。

理由は、「漢文」だからである。

この碑がつくられたのは、明治28年(1895年)だが、碑文にはその10年前の日付が彫られている。
これは、発起人が急逝してしまって、じっさいの建立に10年の時間を要したからだった。

なぜにここにこんな碑があるのか?を調べたら、「四谷大木戸」があった場所だったからである。

「大木戸」とは、江戸内外の境界における「関所」の役割があった施設で、この交差点の新宿御苑側にある、「四谷区民ホール」敷地には、「四谷大木戸跡(甲州街道)」の石碑が別にある。
東海道なら、「高輪大木戸」、中仙道だと、「板橋大木戸」がそれで、江戸市中には他に、「木戸」がたくさん設けられていた。

大木戸の「外」は、江戸ではないので、江戸市中とは、この内側をいう。
なので、いまは23区をもって「東京だ」というけれど、江戸時代の「江戸」は、ずいぶんと狭い地域のことを指す。

もちろん、神奈川県だった東京都下の三多摩(西多摩,南多摩,北多摩の3郡:27市4町1村)を、江戸とはいわない。

四谷大木戸が特別だったのは、玉川上水の「水番所」もここにあったからだった。

世界に冠たる百万人都市、江戸の上水道は、当時「世界の首都」に相当した、ロンドン・パリにもない、最重要かつ最先端の「都市インフラ」なのであった。

先にできたのは、「神田上水」で、「井の頭」を源泉として、「関口」に水門を築き、江戸城内はもとより、常盤橋から京橋に、それから銀座、馬喰となるルートと、掘留、箱崎に至るルートなどを巡らせた。

しかし、江戸の膨張はとまらずに、「玉川上水」をつくることになったのは、4代将軍家綱の時代で、総延長38里(約152km)、予算は、6500両であった。

この四谷からは、木製の桶(水道管)を埋めて地下水路としたのであるが、予算は四谷までで尽きて、これより工事を請け負った「玉川兄弟」は、私財を投じて完成させた。

玉川の姓は、この功績をもって将軍から直(じか)に賜り、ふたりは200石の武士にもなった。

詳しい、「読み下し」と「現代語訳」は、ネットにあるが、なぜか現地にはないのがうらみとなる。
なんだか、国宝の城とおなじ、不親切なのである。
もちろん、日本語での解説がないのだから、外国語の説明もない。

「ニッポン・すげー!」の観光名所のはずなのに。

だからかしらないが、「公共系」のHPも、なんだかおざなりなのである。
つまり、「観光」を担当するはずの、なんとか「課」とか、なんとか「協会」の役立たずが、そのままみえてくる「碑」になっていて、これらなんとか課とかに君臨する、なんとか庁も不要のムダなのである。

銀座の、「金春通り」のビルの間に、建設工事で掘り出された、当時の「木製の桶(水道管)」がしばらく放置されていたものだが、いまはなくなっている。
たんに棄てられてしまったのか?それとも、文化財としてどこかの博物館(たとえば、両国の『江戸東京博物館』)に保存されたのか?この情報も現地にはないのである。

電車の中とか駅の案内表示や放送には、日本語よりも外国語が優先されるヘンテコがふつうになる、病的な傾向があるけれど、歴史的な記録物についての解説を、かくも放置して平気なのは、やっぱり病的なのである。

いまの日本政府やら地方政府(ふつうに、「東京都」とか「新宿区」)の、グローバル・国際化の本音が、「日本」なる悪の根源を溶かして消し込む努力のことであるからで、それは、国民から栄えある歴史を忘れさせるという意図になるのだ。

つまり、悪意である。

この巨大にして長大なる、『水道碑記』の、題の揮毫は、徳川宗家16代当主の、徳川家達によるもので、文章の起案者は、薩摩人の肝付兼武(きもつきかねたけ)、清書は、書家にして貴族院議員だった、上州人の金井之恭(かないゆきやす)、さらに、石に彫ったのは当時の江戸三大名工のひとりという、酒井八右衛門というひとたちの分業でできている。

そして、いまだと車道側になるから危険で物理的に誰にも読めない、「裏面」には、この碑自体の建立経緯が刻まれているのである。

ちなみに、日本橋にある、『日本橋』の文字は、15代将軍、徳川慶喜のものであるけど、新政府から蟄居を命ぜられて、「ご隠居」となったので家達氏が徳川宗家となったのであるけれど、新政府に気を遣って慶喜氏との交流はなかったという。

むしろ、新政府の陰険な監視の目があった、ともいえる。

さてそれで、わたしは残念ながら、たいした教養もないために、この碑文の文字をみても、読むことができない。
130年前の「一流」が残したものが、読めない、ということに、この碑を前にして、改めて恥じるばかりなのである。

そして、ふつふつと、得体の知れない怒りが湧いてきた。
自分に対するものと、教育に対するものと、である。

省みれば、和歌も俳句も詠めないし、ましてや漢詩をつくることもできないのである。
あゝ、なんという無教養!

和歌にせよ、過去の名作を読んで味わうこともできないし、語彙がないから、詠めない。
もとより、漢文は外国語を、そのまま日本語として「読み下す」という、おどろくべき発明ではあるけれど、古文という日本語すら、ほとんど外国語扱いしてその文法を習うばかりであった。

どちらも、「テストに出る」目先の浅はかな需要に対処しているだけの学科に成り下がったのである。

学校教育が、国民の教養を育てないことに、改めて驚愕するし、もっと重要な、「感性」も子供から奪っているのである。
何にでも自己主張する、小学1年生が、たかが数年で、先生の問いかけにだれも手を挙げて発言しなくなるのが、その証拠だ。

自分の意見が、多数でない場合を想定しておじけづくように訓練されるからである。

教養がないものが、なにを観光するのか?を問えば、なるほど、「IR」なのだという、政府の施策の意味がよくわかるのだった。

「日本の鏡?」エジプト

「エジプト」と聞いて、縁のない国どころか、古代エジプトの、ピラミッドにスフィンクス、それとツタンカーメンの黄金のマスクぐらいしか思いあたらないひとが多数かもしれない。

歴史をさかのぼれば、エジプトの大転換点は、クレオパトラ7世の時代に、ローマによって滅亡されて以来、ずっとローマ帝国やオスマン帝国、大英帝国とかの、「属領」になってしまって、なんと再び「独立」したのは、1922年(大正11年)のことだったので、今年でやっと101年目になったのである。

縄文時代以前からずっとある、「日本」と比べると、ほぼ2000年もの長き間、エジプトは他国からの支配を受けていた「真逆=鏡面」なのである。

こうしたことから、日本人に理解が困難なのは、「歴史がない」ことの意味なのである。

つまり、2000年間、かならず外国から支配されてきたので、この間のエジプト人の歴史には、「代官」としての話しかなく、あとはみな、「本国」の事情に依存することになるから、「自分たち」の存在が歴史上もないのである。

それゆえに、残った分野は、イスラム教だけ、ということになって、「イスラム学」が盛んになった。

アラブ世界で最古にして最高峰とされ、いまもカイロにある「アズハル大学」(972年創設)のイスラム神学科を卒業すると、世界の「イスラム裁判所」の裁判官になれるほどの「(イスラム法の)権威」となるのである。

「国立カイロ大学」が、俗にいうエジプトの東大、なんてことはない。

仏教がわが国へもたらした、「知識」を再確認すれば、比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺は、創建当時における「最高峰」というべき「大学」であったのと、根本的なちがいはない。

さらに、延暦寺には、「鎮護国家」の役割もあって、日本が宗教国家だったことがわかるのである。
その比叡山を、信長が焼き討ちして、一向宗を皆殺しにしたし、島原で切支丹を切り捨てたのは三代将軍徳川家光だった。

以来、わが国のあらゆる宗教は、寺社奉行によって国家規制の枠にはめられ、明治になって、国家は「日本教」を発明して、キリスト(=神の子)として、天皇(=現人神)を位置付け、ヨーロッパがいまだにできない「四民平等」をあっという間に達成してしまった。

最高権威たる天皇の下に、元将軍であろうが、平等になっても、だれも文句はいえないので、資本主義の経済活動が、国民全員でできるようになったのである。
ゆえに、現人神の否定とは、日本人の根本からの否定を意図した、練られた政策なのである。

西洋かぶれして、カソリックとかがやった腐敗からはじまる、「政教分離」を、『日本国憲法』という新興宗教教典で文字どおりに適用させる強制をもって、近代成功の礎たる、「現人神の否定」という、宗教弾圧をやって、ずっとやめずにいるのが現代日本だ。

この教典を押しつけたのが、民主党が支配したアメリカという外国だったのだから、1945年の敗戦をもって、ローマに滅ぼされたエジプトのような歴史がはじまった、といえることに気づくのである。

エジプトは2000年間も続いたけれど、日本がどのくらいで再び独立を回復するかは、まったくわからない。
宗主国のアメリカと、世界情勢によって決まることだけはまちがいないのは、エジプト人がそうだったように、日本人だけで独立はできないからである。

それに、よしんば独立を果たしても、エジプトで革命があったのは、「王政」の腐敗に耐えきれなくなった事情があって、ナセルによって大統領制に移行(1952年)した。

それから、イスラエルと和平条約を結んだサダトが暗殺されて、はじめて陸軍でなく空軍のムバラクへと大統領職が引き継がれたのだけれども、そのムバラクがバカ息子に政権を譲渡しそうになったので、怒った国民が転覆した。

以来、グズグズが続いてしまっている。

なお、ムバラク政権の崩壊を、「カラー革命」の一種として、「アラブの春」ということに、わたしは賛同していない。
むしろ、ほんとうに「カラー革命」だったなら、ときの、オバマ政権でウクライナの「マイダン革命」を指揮したヌーランド(当時国務次官補で、現職の国務次官)を疑うからである。

ちなみに、ムバラクは国内の強い反対を押し切って、「湾岸戦争」にエジプト軍を出している。
もちろん、この戦争も、軍産複合体がやったものだから、ムバラクの選択は、「あっち側」につく、というものだったので、最後に彼は軍産複合体から裏切られて見棄てられたのである。

これを、諸国はみていた。
みない振りをしたのは、わが国なのである。

ナセルから、サダトの時代、エジプトは「アラブの盟主」として、「親ソ連」の国柄だった。
対イスラエルが、その大義であり、なお、盟主だったのは、4000万人の人口を擁する、アラブ圏最大の「大国」だったからである。

しかし、ソ連は武器を供与してくれたけど、食料や経済援助はしてくれなかった。

ナイル川沿岸とナイル・デルタが唯一のエジプト農業では、当時4000万人の人口を養えないので、深刻な食糧不足が大問題だったのである。
日本の援助で、ナイル・デルタはジャポニカ米(主に「コシヒカリ」)の一大産地になったけど、外貨不足のためにほぼ全部が地中海沿岸諸国に、高級ブランド「エジプト米」として輸出していた。

それで、サダトは、ソ連から乗り換えて、アメリカとヨーロッパの経済援助を選択したのである。

暗殺があっても、ムバラクがブレずにサダト路線を踏襲したのは、国民を食わせるためであったし、じっさいに欧米資本が流入して、南国ゆえと2000年の習慣でやる気なく、働かないエジプト人が、「Time is Money」をいいだしたのだった。

ところが、ソ連がロシアになって、混乱をおさめたプーチン時代になると、オバマ政権のアメリカが援助を政治利用して、軍産複合体政権ゆえに武器供与をするだけになって、逆にロシアが小麦を売ってくれるようになったのである。

そんなわけで、どうする?「シーシー政権」、となっているのが、いまのエジプトなのだ。

グズグズなのはバイデンのアメリカも同様で、なんだかしらないけれど、国防総省の機密文書の「写真」がネットに大量に漏洩した。
犯人たる若者が捕まったら、すぐさま起訴された怪しさがある。

この機密情報のなかに、エジプトのロケット弾工場で、ロシアへ輸出するための緊急生産開始(24時間フル稼働)を指示したシーシー大統領と、その指示を承った軍需大臣の会話(盗聴)記録もあったのだ。

エジプトは、「ロシア制裁」に加担しない、「多数派」だけど、ロシアからの小麦がないと、もう1億人を超えた国民生活が窮乏する。

しかして、中東を不安定にしたい(=あくまでも軍需を高めて武器を売りたい)バイデン政権には、エジプトの裏切りにどんな制裁を課すかの理由を獲得した意味となるので、さらに世界をエネルギー危機に追い込むのだろう。

日本の真逆をいくエジプトなのであるけれど、その逆風は日本にもやってくる。

あまりにも、「鏡」をみているようなのである。

高まるバイデン民主党への期待

アメリカを壊している、という意見とか、バイデン政権の「中東外交大失敗」とかという話がある。

この延長線にある、デフォルトについては、書いた。

もちろん、ヨーロッパを破壊しているのが、ウクライナ戦争で、アメリカ民主党とEU双方の軍産複合体が仕掛けている。

それでも不思議なのは、EUで、自分たちの生活基盤を自分たちで破壊する「自滅」をやっていることだ。

しかし、EUを仕切る「EU委員会」とは、選挙で選ばれない「官僚組織」という設計に発足のはじめからなっているのである。

選挙で議員を選ぶ、「EU議会」には、ほとんど権限がない、という詐欺のような制度設計なのだ。

しかし、こんな設計になったのは、EECからECになる当時、世界経済を席巻していた、わが国の「日本モデル:国会よりも官僚が優先してなんでも決める制度」を研究した成果でもあったので、日本人にはしらないところで、多大な影響をヨーロッパ人に与えたのである。

だから、日本人は、日本モデルの究極が、生活者に君臨・支配することになったEUなのだと見ぬかないといけないのだけれど、西側はひどいことになるぞと予言して亡くなった、大碩学、フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクを無視してはばからない。

当然だが、EU委員会そのものが、アメリカ民主党とおなじ、軍産複合体の配下にあることは上にも書いたとおりだ。

さらに、軍産複合体は、ビルダーバーグ倶楽部の配下にある、世界経済フォーラムをフロントの司令塔にして、これに従うのが、国連・事務局という、入れ子状態になっているのである。

むろん、このひとたちをつき動かしているのは、カネと権力へのあくなき欲求である。

その国連も、アメリカ、英国、フランス、それに事務総長以下の事務局が世界経済フォーラムのコントロール下にあるのに対して、ロシアと中国が、これに従わないから、独裁体制を好むくせに、「反露」・「反中」をいうひとの言葉の背景にはこんな事情がひかえている。

プーチン氏は、自らダボス会議に出席して、堂々と敵陣で正面から「反グローバリズム論」をぶち上げたし、国内グローバル勢力の牙城だった、江沢民派を壊滅させた習氏(共産党なのにナショナリスト)の中国は、最初から敵対勢力である。

だから、反グローバルをいう、アメリカ共和党トランプ派は、プーチン氏と緊密だし、習氏と微妙なのは、そもそもグローバリズムの共産主義者が習氏だからであって、民主党のバイデンが習氏に敵意を見せるのは、ビジネス仲間の江沢民派を葬ったことへの報復(一種の「内紛:内ゲバ」)なのである。

なんにせよ、グローバル全体主義を仕切りたい、ヨーロッパ貴族系の、ビルダーバーグ倶楽部や配下の世界経済フォーラムは、「習氏の中国」の台頭を許さないだけで、「江氏の中国」は大好きだった。

これが、台湾防衛という形になっている。

台湾は宿敵・岩里政男(通名が李登輝)亡き後、「超限戦」でとっくに江派に与した(民進党はただの「見かけ」だとおもわれる)のだけれども、その後は、習氏一派に経済支配されてしまって、にっちもさっちもいかない。

単純図式にすれば、江派が民進党、習派が国民党なのだから、習氏がいう、台湾奪還とは、国民党の台湾にする、という意味で、江派の民進党(「親日・親米」を装う:じつはグローバリスト)を排除するといっているのである。

だから、台湾の親日も、すでにプロパガンダになっているとわたしは解釈しているし、台湾(=岩里政男)からのラブコールを徹底無視した、「ツケ」がこのざまなのである。

こんなことも含めて、ヨーロッパの金持ちたちが世界をもてあそんでいるうちに、習氏の中国とロシアとが、BRICsを抱き込むばかりか、アラブ湾岸諸国をリードするサウジまで取り込んで、とうとうアラブの石油決済で、「ドルの独占」を廃止するに至った。

サウジをBRICsに「寄せた」のは、バイデン政権の「追い込み」が成功したからである。

そんなわけで、「踏み絵」となった、ウクライナ支援をしているのは、世界のわずかで、日本人には驚きの圧倒的多数の国々は、「中立」を維持している。

「国連」が、全く役立たずなのは、常任理事国が割れているからだけでなく、総会で投票したら西側が世界をリードしてきた従前の秩序が崩壊するからである。

けれども、とっくに「崩壊」しているために、世界中が「中立」という状態になっているのである。

すなわち、あろうことか、民主党バイデン政権やEUは、戦後秩序そのものを自分たちで壊してしまった愚か者たちだ。

世界は、これに呆れて、ウクライナを傍観している。

まもなく、ロシアが作戦を終了するのは、ウクライナ政府がその前に崩壊するからだけど、それはまた、軍産複合体のアメリカとEU支配の終わりなのである。

残念ながら、わが国は、こやつらの最後の「エサ」として、食い尽くされるまでになっているから、あとの希(のぞみ)は、日本人が自分で決めることになったのだけど、先鋭的売国の「維新が躍進」する統一地方選を見るかぎり、ぜんぜん気づかない日本人が、なんだか哀れなのであった。

せっかく、アメリカ民主党が自己崩壊している、大チャンスなのに。

地球は一つでも、世界は一つではない

全宇宙が対象になると、その可能性として、地球のように水があって生命体が存在する惑星はどこかにあるにちがいないから、世界中の天文学者が探査していることはしられている。

太陽系ですら、火星やらを探査しているのは、やっぱり生命体の存在を確認したいからである。

岩石惑星は、水星、金星、地球、火星までで、木星と土星、それに海王星は、ガス惑星で、土星と海王星の間の、天王星は、氷とガスでできている。
なので、地面があるのは、太陽に近い地球を含めた岩石惑星の4つとなるが、木星や土星とかの衛星が、ひょっとして?と生命探査の対象になっている。

大きさでいえば、木星から海王星までの4つは、地球よりはるかにデカくて、ガスといえども質量も大きい。

それでも、衛星が主星に準じて大きいか?といえば、そうでもなくて、地球の衛星たる「月」は、なんと5番目の大きさにあたるし、地球との関係は、むしろ「二重惑星」だとの指摘がある。

月は地球の周囲を廻っているが、じつは地球も月の周りを廻っていて、互いの回転の共通した中心は地球の中心から4800kmほど離れたところにあるのだ。

ために、地球は、小刻みにブルブル震えながら月の周りを廻っている。

そんな地球に生まれた人類は、ゲノム解析から、アフリカ起源だということがわかったのだけれども、縄文人の歯髄から分析された、当時の日本人の起源が、遺跡からの発見物とも比較して、アフリカ起源と一致しないことが問題になっている。

かんたんにいえば、縄文人が、古すぎる、のである。

いまの段階でしられている、世界最古の遺跡からの遺物は、驚くことに日本から出土した旧石器で、12万年前とする説から、4万年前とする説まで、いまだに一致するに至ってはいないけど、人類の別種が日本起源ではないか?という説まである。

アフリカに近い、メソポタミアや、アフリカそのもののエジプトが世界最古でなく、群馬県みどり市の「岩宿遺跡」なのである。

そんなわけで、マルクスとともに人類史にのこるペテン師、エンゲルスがいう、原始共産制からはじまる、「歴史の発展段階=唯物史観」に、すっかり騙されて洗脳されたから、「世界は一つ」という美辞麗句をいいつつ、「第三世界」とそそのかすのである。

空想から科学へ、というのも空想である。

なので、これらに発禁処分を課すのは当然であったけど、「政治学」を学ぶなら、よほど『ガリバー旅行記』(初版は1726年)の方が、まともでかつ、現代の社会病理が理解できる参考書なのである。

ヨーロッパ中心の「中華思想」が、第一世界で、いわゆる先進資本主義社会のことだ。これに対抗する共産圏を、第二世界、どちらにも与しない国やエリアを、第三世界と、分けていた。

じっさい、ヨーロッパ列強という、植民地をもつ国が「第一世界(ほぼ地上を制覇した)」で、ここから見たら、「世界は一つ」だったけど、その後に鉄のカーテンで分断されたから「第二世界」として、かつての植民地が独立したのを「第三世界」というのである。

わたしは、帝国主義=資本主義とはかんがえず、むしろ、アイン・ランドの「資本主義は未来のシステム」に賛同する。

しかし、いまや第二世界の雄の中国と、第三世界の連合である、BRICsが台頭してきて、とうとう共通通貨発行にまで話が進んでいる。
これに、サウジが呼応して、原油取引のドル決済独占(これを、「ペトロダラー」という)に風穴を開けることが、確実になってきたのが話題になっている。

共通通貨の成功には、「通貨発行の自由」が条件になるとハイエクが指摘して、じっさいに、自由どころか強制した「ユーロの失敗」があるから、あたらしい共通通貨がかんたんに成功するとはとうていおもえない。

ただし、バイデン民主党による「空想の世界秩序破壊のわざと」だけは、見事な成功になって、世界を分断しているのである。

彼らの背景には、バカじゃないけどおかしな「マッドサイエンティスト」たちが、おカネのためにいる。
その用意周到は、世界経済フォーラムが担って、どうやったらドルの価値を暴落させて、世界を混乱におとしめることができるかを研究している。

少し前のことでも、「喉元過ぎたら」忘れてしまうほど、事件が続いている現代、今年1月19日に、ジャネット・イエレン米国財務長官(元FRB議長にしてバリバリの左派)が、連邦政府債務が法定上限の31兆4,000億ドルに達したことを受け、債務不履行(デフォルト)を回避するための特別措置の適用を開始したことを明らかにした。

例によって、共和・民主両党は、なんだかんだと「上限の引上げ法」を通して、デフォルト回避をしてきたけれど、トランプ氏への起訴をもって、政治的に絶対に妥協できないまでに共和党を刺戟したのは、バイデン民主党政権のわざとだ。

バイデン政権は、政府債務の新上限到達を急いで(=ウクライナとかにおカネを使いまくって)いて、もしやこの夏にも、デフォルト危機がやってくる可能性がある。

すると、BRICsの新通貨は間に合わないどころか、対外債権のほとんどが「アメリカ国債」のわが国こそ、連動してデフォルトするかもしれず、そうなったら、「大津波」どころではない、日本(経済)沈没がまっている。

「地球Gaー!」どころではない、世界の不穏は高まっている。

転職サイトのキャッチ

「アピールしなくても評価される職場はないですか?」

念のため書けば、「きっとある」と続いている。

これを読んで、きっとある、と思うひとがどれほどいるのかしらないが、それは、鉄砲のように数撃てば当たる、というものでしかない。

むかしの会社なら、そんなアピールをする方がマイナス評価になった。

バブルのころに生まれた、「パフォーマンス」という外来語が、日本語に取り込まれたとき、中身よりも重要なのは形式になって、それがいまでは、「映え」に進化した。

とにかく「映え」さえすれば、バズって、ことによるとおカネになる。

それが例えば料理の写真なら、美味い不味いは、食べたひとの自己責任というわけで、料理人の責任ではなくなったのだ。
そしてとうとう、安全性まで自己責任にされそうになっている。

にもかかわらず、詳しい食品表記の義務は、「規制緩和」されてしまうのである。

べつにキリスト教会からいわれなくとも、縄文以来、別文明を構築してきた日本人は、人はパン(食物自体)のみにて生くるものに非ず、ということはしっていた。
それは、人生を生きる意味であり、哲学のことである。

いまは、人生を生きる意味を教えてくれる身近なおとながいなくなったので、40歳までの若年層における死亡原因のトップが、どの年齢層も「自殺」になっていて、これをまた誤魔化すために遺書がなければ「不審死」となる。

中でも、おとながかんがえないといけないのは、小・中・高校生の自殺が、昨年(2022年)には過去最多の五百人以上となったことだ。

すると、児童・生徒の親世代も、こぞって自殺していることになって、人生を生きる意味をおとなでさえもわからなくなっているということなのである。

もちろん、自殺という結末は、一種の異常である。

その異常は、ぼんやりと周辺のひとびとにも波及しているはずだから、極端な結論に至ってはいないひとたちが抱える、「漠然とした不安」は、かつて自死した芥川龍之介が残した言葉通りの状態になっているのである。

人間とは不思議な動物で、なにも不満がない状態が続くと、不安になるのである。

その満足が、自分からすすんで得たものでなく、なんとなく与えられたものであるほど、不安になる。
ところが、その「なんとなく」を解明すべく、自身で悩む努力もしない。

果たして、『若きウエルテルの悩み』とは、いまは無価値になったのか?
おそらく、「面倒臭いこと」になったのであろう。

かんがえることが面倒くさくて、ダサいこと、になったら、それは「人間辞めますか?」になる。

パスカルがいったという、「人間はかんがえる葦である」、から「かんがえる」を取ったら「葦」という物質になる。
つまり、物に帰ることだから、これを「物故」といえば、なるほどなのだ。

しかして、ただ漠然と生きている、という動物状態になる。
そんな物故した人間が多数になると、社会はあらゆる面で退化する。

これは、「ゾンビ社会」なのだ。

ゾンビとなった個人が、あたかも企業集団を形成すれば、かんがえない集団であるだけなので、過去からの惰性分でしか利益は上がらない。

それで、「安心」と「安全」を混同させて、企業内部だけでなく、顧客へもかんがえのないことをアピールするようになるのだけれども、受け手もかんがえない共通があるから、誰も疑問に思うものはいなくなる。

提供者が、自らの商品やサービスに、「安心」をいうのは、論理的にまちがっている。
これら商品やサービスを購入した消費者が評価するものだからだ。

「あそこの商品なら安心だ」と。

だから、商品やサービスを提供する企業の側は、「安全」が商品価値の中にあることを意識して、商品企画や商品設計、製造をすることが「業」となり、安全が破られる可能性(危険性)を、「リスク」というのである。

リスクはコントロールするもの、というのは、ここからきている。

このリスクコントロール活動の結果が、いつもの安全になって、上にいう消費者からの評価としての「安心」に変容するのである。

このように、「安心と安全」を一緒くたにして、消費者に訴求することの不道徳は、その組織が「かんがえていない」か、「かんがえることを放棄している」とみなすことができるから、中で働くひとたちの「(人事)評価」も、自然とできなくなるのは、適切な「評価」をしようということも、かんがえないのが、ふつう(社風)になっているからなのだ。

いちいち「アピール」しないといけないことに、嫌気がさしているひととは、以上の意味から、希少種になっている。
アピールの必要性もなく、かえって逆評価になった、むかし、は、どちら様もかんがえることが当たり前の社会であり、企業組織だったのだともいえる。

旧制高校生の「寮生」たちが、毎夜尽きない議論をしていたのは、とにかくかんがえることをやっていたと、かんがえれば、かんたんなことなのだ。

「きっとある」という希望的観測は、転職サイトの宣伝・広告だからで、転職企業の内部の資料あるいは担当者の頭の中には、過去の紹介データから、かんがえる企業とかんがえない企業の区別が「きっとある」にちがいない。

個人としては、どうしても企業側に「選ばれる」ことを意識しがちであるけれど、これは、人的資源が豊富な時代の、需要と供給からできた「買い手市場」でのことだった。

いまは、人的資源の争奪がふつうなので、個人が働く先を「選ぶ」時代になっている。

個人が選ぶための条件に、その企業のトップを面接することが重要なので、採用に担当者だけがあたっていて、あたかも個人を選んでいるようなら、そこは、入社しても「アピールしないといけない」ことが明白だ。

ちゃんと企業のトップが面接に出てきて、個人の側からの目線を気遣うようであるなら、きっと当たりなのである。

企業の将来を担う人材を得るための、「採用」とは、そういうものだ。

リカードの比較優位は破滅的

いわゆる、「国際経済学(別名「貿易論」)」のベースにあるのが、アダム・スミスの後をつぐ、デイビッド・リカードの「比較優位説」である。
経済学部の学部学生が、早い段階でこれを教わったものだ。

例としてあげられる、りんごとみかんの生産コストをもって、りんごの生産が得意なA国と、みかんの生産が得意のB国という、2国間貿易モデルが、とにかく試験にでるほど有名なのである。
もちろん、りんごが自動車になってもいいし、みかんが半導体になってもいい。

すると、生産コストが有利な国は、それぞれ自国に有利な生産物に特化して、お互いに貿易で欲しいものを交換すれば、最も利益は最大化する、という「発見」があったのである。

我が国がいけいけドンドンだった時代、この理論を背景に貿易をすることが、正義であった。

けれども、冷戦によってGHQによる日本経済の方向性の本質が、戦前からの「戦時経済体制」の温存と継続であったために、利益の追求の前に、シェア拡大の追求が第一優先順位となって、その結果が利益になるという刷り込みをされた。

このことが端的にわかるのが、漁業なのである。

我が国の漁業において、漁獲量のコントロールは、俗に「オリンピック・ルール」と呼ばれる、「早い者勝ち」となっている。
なので、各漁船は、解禁日になると、われ先に漁場に向かって、漁期の間、獲りまくるのである。

それが、遠洋漁業にも適用されて、地球の裏側の大西洋でもやったから、南米の国から嫌われて、「排他的経済水域」という国際法の提案になった。

これがいわゆる、「200海里問題」だ。

いま、中国漁船がこれを真似て、南米海域で強引な操業をしているけれど、とっくに我が国漁船がやっていたことだ。

とにかく早い者勝ちだから、とったもん勝ちになって、そこには資源確保という概念はない。
利益のためなら、再生可能な資源量を科学的調査によって決めるべきだが、日本漁業にはこれが思想としてないのである。

まさに、シェア優先の戦時経済体制が、漁業分野でみて取れるのである。

北欧、とくにノルウェーは、早いうちにこのことの「損」に気がついて、漁船あたり、漁師あたりの漁獲量を割り当てることにした。
当然に、えらく反発があったけど、徐々にと長い時間をかけて、資源との折り合いを科学的につけることに成功した。

それでもって、いま彼の国では、漁師が一番人気の職業になっている。
安定した高額年収(およそ1000万円)が、生涯にわたって見込めるからである。

我が国のやり方で、資源が枯渇し漁獲量が減ったために漁師希望の若者がいなくなったのとぜんぜん違う。
よくかんがえれば、ノルウェーは、比較優位論の「前段階」で成功しているのである。

おなじことが製造業にもいえて、昭和の繁栄モデルを自分たちで壊してしまった。
その重要なキーワードが、銀行による信用創造であったけど、日銀と金融庁が、我が国の信用創造機能を破壊したのである。

その理由は、冷戦に目処がつきながら、アメリカ産業をシェア拡大で破壊した日本企業群が、アメリカの国内政治的に邪魔になったからである。

詰まるところ、すべてはアメリカの都合の変化による。

それで、ノーパンしゃぶしゃぶ事件(1998年)を引き起こして、大蔵省を解体し、日銀を脅したのである。

これに従った日銀総裁(2003年就任)は、バブルをつくった張本人の福井俊彦氏で、1986年に営業局長になって、不動産貸し出しを窓口指導した。
その後、福井俊彦副総裁(1994年就任98年退任)となって、結局、マッチポンプをすることになる。

組織をしるひとなら、ナンバーツーを見ないといけない。

おおかたの組織は、ナンバーツーが実質的に動かしているものだ。
自民党なら、幹事長、労働組合なら書記長で、総裁でも委員長でもない。
企業なら、副社長とか、筆頭専務なのである。

さてそれで、リカード・モデルの欠陥は、貿易資源に、「上限の設定がない」ことにある。
あるいは、貿易決済のための通貨保有高でもおなじで、無限にあるかのようになっている。

だから、現実に、限界がやってきたら、より有利な側の有利が、『モノポリー』のように絶対になってしまうのだ。
すると、不利な側は、圧倒的な不利になって、植民地に没落してしまい二度と這い上がることができない、蟻地獄のような構造が待っている。

これが、自由貿易の恐ろしいところだから、「自由」ならなんでもいい、という、「自由放任」というわけにはいかないのである。

このことを、「新自由主義」として、ハイエクが述べたけど、悪意の全体主義者たちが、古典派がいう自由放任をそのまま「新自由主義」として、ねじ曲げて、感情的に憎むように日本人を洗脳したのだった。

さらに、我が国は、世界最大の債権国だから安心だ、にもならない。

日本は、世界最大の債務国である、アメリカ国債でその多くを保有しているけれど、もしもアメリカ政府がデフォルトしたら、世界最貧国になりかねないのである。

貸した金を相手に踏み倒されたら、パー、になるのは、国家間でもおなじである。

自分たちだけよければいい、という思想に染まりきっている、民主党バイデン政権が企む「世界秩序の破壊による、全体主義の実現」という夢に、我が国が世界で真っ先に生贄にされる可能性がある。

それは、同根の宿敵、習近平の中国を破壊するための、特大爆発となるからである。

世界経済フォーラムの手先、フランスのマクロン大統領と、EUのフォン・デア・ライエン委員長の訪中は、一体何が目的なのか?

嫌な予感がするのは、このなかの人物のどこにも、正義はないからである。

「エコ検定」の洗脳

東京商工会議所が主催するのが、「エコ検定(環境社会検定)」である。

キャッチには、「今後のビジネスに必須なSDGsを学ぶなら、eco検定からはじめよう。」とある。

会員は、すぐさま、東京商工会議所から脱退しよう!といいたい。

そもそも、世界各地における調査で、SDGsを推進しているのは、世界広しといえども、我が国だけ、という妙な孤立があって、全体主義軍事教練に成功していることの、困った成果になっている。

これは、幼少のみぎりから、自分の頭を使ってかんがえることを極力させずに、とにかく上からの命令に従うことだけを教練されてきたということの表れなのである。

電車にある額縁広告に、よく見かけるのが「有名学習塾」の広告で、さまざまな中学入試で出た過去問の紹介がある。

かんたんにいえば、「クイズ」だ。

これらの難問クイズが解けて、正解を出せるから、難関校で、難関校だからそこに集うのは優秀なのだ、という、社会的な条件付けについて、おとなはいま一度かんがえ直した方がいいのはもちろんだが、その「かんがえる力」を削がれているのである。

なので、かんがえる力がない、おとなである「親」に向けて、かんがえる力を養う塾だと「宣伝」している塾もある。

難問クイズ校ではあるが、だからといってどこが「名門」なものか?とかんがえないのは、親も、そういった塾の経営者もおなじなのである。

社会とは困ったことに、勘違いの多数によって牛耳られるので、難問クイズに即答できるひとが優勝する、クイズ番組が人気を博している。

それで、「やっぱり東大!」となるのは、難問クイズを小学生時代から10年ほど解き続けた訓練の成果にすぎないことを示しているだけなのにもかかわらず、それが「優秀なのだ」とまた上塗りの訓練をさせられていることに気づかないことでも成り立っている。

なので、阿呆な悪ノリで、東大に「クイズ倶楽部」ができるという無様を、「エリート」とするのである。

むかし、有名ホテルの社長がレギュラーになった、テレビのクイズ番組で、あんがいと何回も「全問正解・優勝!」を獲得して、かんがえない視聴者は、「さすが!」といっていたものだけど、テレビには「台本がある」ことをいうと嫌な顔をされたものである。

この場合は、「騙されたい願望」という境地になっているものを、なにを無粋な!ということだとも解釈はできるものの、いきなり「想像外の正論」で目が覚めたから、グズリ顔になったというのが本当のところだろう。

こんなふうに仕掛けたのは、もちろんGHQ民政局のなせる技であったけど、80年もやめないのは、やめさせてくれないからもあるけれど、やっぱりやめようとしないところまで、洗脳されたからである。

そんなわけだから、文字にするのは忍びないが、わたしには、「SDGsバッジ」を胸についているひとを見かけると、バカに見える。

なんだか、小学生が友達の背中に、「バカ」と大書した紙をこっそり貼られて、気づかない子供にも似ているが、おそらく本人が自分でつけたバッジだろうから、そのひとの脳は動いていない、という意味で「バカ」に見えるのである。

英語でいう、「No Brain」だ。

レーニンは、レーニンたちを「勝手連」的に支援するひとたちを、「役に立つ白痴」とよんだ。
そうやって、革命が成就したら、真っ先に抹殺(社会的抹殺なんて甘いものではない)の対象にしたものだ。

極左を見抜けず、1988年に『世界・食の祭典』なる大赤字で北海道財政をわざと破壊した、横路孝弘氏を北海道知事に押し上げたのが、「横路孝弘と勝手に連帯する若者連合」なる、活動家集団だった。

詰まるところ、東京商工会議所は、まさに組織をあげて、「役に立つ白痴」になったのである。

それで、この組織のメンバーたる企業は、トップから率先して、バッジをつけているにちがいないし、ビルダーバーグ倶楽部の配下、世界経済フォーラムのそのまた配下にある、「国連」の意向に従わないと、自社ビジネスに支障をきたすと本気で信じている。

こうした人物たちが、トップだからその企業のビジネスに支障をきたすのである。

しかし、ことがそう簡単でないのは、銀行業の「護送船団方式」破壊からはじまる、各企業に安定的な経営基盤を用意していた、「株式持ち合い」の崩壊と、外国人投資家への資本投資解禁によって、いまや我が国上場企業の多くが、事実上の「外資系」に姿を変えさせられてしまったのである。

だから、「社名」だけを見てもわからず、資本構成をいちいち確認しないと、どこのどんな会社だかわからなくなったのである。

これが、20世紀までと21世紀からの、おなじ日本企業に起きた、「断絶」なのである。

とくに、見知らぬカタカナがある「信託銀行」とかが大株主なら、ほぼ「外資系」になったと見ていい。
ついでに、その信託銀行の株主構成をググって確認したら、納得できるだろう。

これだけでなく、経団連に外資企業が入っていて、すでに「副会長」にも就任している。
これで、「我が国の財界」といえるのか?

その一方で、日銀が上場企業株を大量に保有して、株価の下支えをしてきている。
つまり、我が国の上場企業(ふつう「大企業」という)は、外資と日銀との所有があって、隙間に個人投資家がちんまりと存在しているだけになってしまった。

膨大な日本株資産を、日銀はどうするのか?といっても、最後は「売る」しかないのが、「出口」である。
しかし、株式はいつまでも持っていられるので、出口が見えないのであって、あえて見ようともしないのは、その先をかんがえると「やばい」からである。

ところが、株式も、「時価評価」をしないといけないから、株価が下がるとこんどは「日銀の経営」が傾く。
株価は、金利と逆相関するので、日本の金利を上げようにも上げられないのは、なにも政府債務だけが原因ではない。

新年度予算が成立しても、なにも変わらないのは、政府(自公政権)や日銀に、日本経済をコントロールする力も、能力も失ったからだ。

よって、いま日本経済を有効にハンドリングしているのは、なんと「外資だけ」というありさまになったから、嫌でもバッジを着けるしかない。
それなら、と、自主的に推進して、あたかも自分たちの意思であるかのように誤魔化しているのである。

まことに遺憾ながら、我が国は、すでに「奴隷経済:植民地」に落ち込んでしまったのである。

抜け出す方法は、したたかにかんがえることでの、「条件変更」を、乾坤一擲の覚悟で実行するしかない。
それは、バブル崩壊から30年以上やってきた、「(構造)改革」を、逆改革することだけであるのだが、既存政党には出来ない相談になっている。

国民に「気づき」をさせる、かんがえる力が、もうないからである。

不安だけの神奈川県地方選

全国的に、「グダグダ」の宣伝となった、神奈川知事選挙は、わが国戦後社会の劣化が行き着いた先に起きる、限界点であることを示しただけの意味となった。

しかして、神奈川県民の悲惨は、なにも「知事選び」だけでなく、県議会議員選びも、横浜市議会議員選びも、ぜんぶが限界点を示していることの、絶望がある。

これを、「制度疲労」といわずに、なんというのか?

すなわち、GHQと、居残った日本政府(明治政府が残した官僚制)が、合作した、「戦後というシステム」の限界が、ふつうのひとにもわかるまでの、一種の「破局」となったのである。

念の為、『選挙広報』を隅々まで観察すれば、そこには、「公約らしきもの」が、「公約」として書かれていて、顔や名前や、政党色を隠して読んでも、全員が、ほとんどおなじことを主張していて、その内容が、「アメリカ民主党の極左」と、だいたい一致しているのである。

前回のアメリカ大統領選挙、民主党予備選に出た、極左は、民主党籍が一度もない、バーニー・サンダース上院議員(バーモント州)、とか、エリザベス・ウォーレン上院議員(マサチューセッツ州)が目立ったけれど、もっと暴れたのが、若き下院議員、アレクサンドリア・オカシオ・コルテス女史(略して、AOC)であった。

日本語では一部のひとが、「AたまOかしいCルテス」と揶揄するけれど、その言論と活動家としてのぶっ飛び方は、スターリンでも恐怖を感じることだろう。

これらのひとたちが共通していうのが、第一に、地球環境とか二酸化炭素の排出制限で、すでに空気中に0.03%(1万分の3)しかないものを、とにかく削減することに熱を入れている。

地球誕生の暁には、原始大気の組成の96%が二酸化炭素だったのに、どこへ行ったのか?といえば、のちに光合成をして、これを食べた植物の組織(炭水化物)に取り込まれて、大量の化石燃料に変化して保存されているだけなのだ。

なので、「循環型社会」をいうなら、化石燃料を燃焼(酸化)させることで、大気に戻すことができて、これをまた植物が食べることをいわないといけない。

けれども、本気で二酸化炭素を削減することは彼らには関係なく、政治における美辞麗句をもって、ひとびとの思想の統一と行動制限をしたいだけのことで、もっといえばカネになるのである。

これが、わが国では逆転して、思想の統一と行動制限(たとえば、ゴミ分別とかレジ袋有料化)をすでに前提としているから、全候補者が、これをいわないと政治家「らしく」なくなってしまうのが嫌なだけなのだ。

ために、限界点にきたというのである。

もちろん、ゴミ分別も、レジ袋も、そこにしっかり利権があって、日本でもカネのなる木に育っているのは、いい出しっぺたちの生活を見ればわかるのである。

あとは、おなじパターンで、おおむね、公共的な負担の軽減か無料化を主張するのも、極左の共通である。

代表的な極左政党になった、自公政権では、電気代の補助金を各家庭に出すといいはじめたのも、実行時期と衆議院選挙とのスケジュール調整の結果だと予想できるし、絶対に「減税」をいわない。

歴代のアメリカ共和党政権が減税して、民主党政権が増税するパターンの繰り返しを、なぜか日本人は無視して、なんだか民主党=日本での自民党の支持者にさせられているのは、ただの「バカ」だからか?

この意味で、共産党候補者の「選挙広報」での主張が、いまでは、「中央値(メジアン)」とか、「最頻値(モード)」になっていて、あたかも「平均値(ミーン、アベレージ)」に近づくほどに、「正規分布図」になるような状態なのである。

しかも、きれいな左右対称の富士山型になるのではなくて、なんだか痩せてきびしい鋭利な山のようだから、外れ値が異様に目立つので、落選したくないひとたちは、もう、独自の外れ値たる主張を口にしない。

平均になるべく努力をするのだから、社会に蔓延る閉塞感の正体とは、この何がなんでも中心に向かう、超新星爆発寸前の力学のことなのである。

これが、共産党を中心に据えた選挙の構図なのであるから、全党・全候補が、おなじことをいうしかなく、有権者の選択肢は、「だれでもおなじ」になって、わざわざ投票所に行かない。

それでいて、共産党はダメだ、というのも、やっぱり「バカ」だからか?ただし、共産党の正直さは、「国防」における外れ値しかないことに特徴があるので、ちゃんと自衛隊を党直属の「人民軍(内閣麾下の「国軍」ではない)」に改編するといえば、文句なく「平均値」になれるものを。

ソ連や中国では、90%以上の投票率での選挙をして、その支持が固い結束であることを内外に誇示したものだけど、「超・先進・共産国」になった、わが国では、選挙をしなくても、共産主義政策が実施できる、夢のような国(「ユートピア」)が実現したかに見える。

しかし、これからこれらの政策が実現すると、国民生活は間違いなく窮乏化するので、彼らが理想としている、補助金欲しさで従順な奴隷になるひとたちと、反発するひとたちとに分離して、反発するひとたちに「マーケット・イン」する政党が、大躍進するはずなのである。

つまり、わが国の限界点とは、「プロダクト・アウト型政党」しかないことの限界なのだ。

あれをやります、これをやります、だから、わたしに投票してください、という論理が、プロダクト・アウト式である。

ところが、全員がおなじことを「やります」なので、結局、自分の名前を連呼するしか、選挙活動にならないのであった。

他候補とのちがいが、名前だけに集約されるからである。

そんな日本の状況を尻目に、先進国では、自由主義(日本人は「保守」といいたがる)への回帰が、ムーブメントになってきている。

各国で、自公政権のような極左政権がひっくり返る現象になってきて、ニュージーランド、フィンランド、オランダで、マーケット・イン型の政党が、歴史的な勝利を挙げている。

つまるところ、自公政権のような極左全体主義政権が、歴史的敗北を喫しているのである。

もちろん、極左全体主義者の、資本(株式)やら広告(いまさら高額出稿してくれる)やらから支配を受けている、わが国マスコミはこれを報じないけれど、ひとの口には戸が立たないのは、世界共通なのである。

ただし、すでに民間企業が弱っているので、広告を「いい値」でだしてくれる、政府広報とかがマスコミ経営の頼みの綱になっているし、なんだかんだNHKも、極左全体主義の現政府の宣伝部隊になっていて、監督官庁たる旧郵政省の天下り人事で役人をコントロールしているのだった。

それでも、全国民が、神奈川県とか、県内の市町村を、お笑いの対象にしてくれれば、神奈川県民として唯一の幸いなのである。