『水道碑記』が読めない恥

新宿の「四谷四丁目」交差点にある、巨大な石碑『水道碑記』(すいどうのいしぶみのき:玉川上水記念碑)の「碑文」が読めない。

理由は、「漢文」だからである。

この碑がつくられたのは、明治28年(1895年)だが、碑文にはその10年前の日付が彫られている。
これは、発起人が急逝してしまって、じっさいの建立に10年の時間を要したからだった。

なぜにここにこんな碑があるのか?を調べたら、「四谷大木戸」があった場所だったからである。

「大木戸」とは、江戸内外の境界における「関所」の役割があった施設で、この交差点の新宿御苑側にある、「四谷区民ホール」敷地には、「四谷大木戸跡(甲州街道)」の石碑が別にある。
東海道なら、「高輪大木戸」、中仙道だと、「板橋大木戸」がそれで、江戸市中には他に、「木戸」がたくさん設けられていた。

大木戸の「外」は、江戸ではないので、江戸市中とは、この内側をいう。
なので、いまは23区をもって「東京だ」というけれど、江戸時代の「江戸」は、ずいぶんと狭い地域のことを指す。

もちろん、神奈川県だった東京都下の三多摩(西多摩,南多摩,北多摩の3郡:27市4町1村)を、江戸とはいわない。

四谷大木戸が特別だったのは、玉川上水の「水番所」もここにあったからだった。

世界に冠たる百万人都市、江戸の上水道は、当時「世界の首都」に相当した、ロンドン・パリにもない、最重要かつ最先端の「都市インフラ」なのであった。

先にできたのは、「神田上水」で、「井の頭」を源泉として、「関口」に水門を築き、江戸城内はもとより、常盤橋から京橋に、それから銀座、馬喰となるルートと、掘留、箱崎に至るルートなどを巡らせた。

しかし、江戸の膨張はとまらずに、「玉川上水」をつくることになったのは、4代将軍家綱の時代で、総延長38里(約152km)、予算は、6500両であった。

この四谷からは、木製の桶(水道管)を埋めて地下水路としたのであるが、予算は四谷までで尽きて、これより工事を請け負った「玉川兄弟」は、私財を投じて完成させた。

玉川の姓は、この功績をもって将軍から直(じか)に賜り、ふたりは200石の武士にもなった。

詳しい、「読み下し」と「現代語訳」は、ネットにあるが、なぜか現地にはないのがうらみとなる。
なんだか、国宝の城とおなじ、不親切なのである。
もちろん、日本語での解説がないのだから、外国語の説明もない。

「ニッポン・すげー!」の観光名所のはずなのに。

だからかしらないが、「公共系」のHPも、なんだかおざなりなのである。
つまり、「観光」を担当するはずの、なんとか「課」とか、なんとか「協会」の役立たずが、そのままみえてくる「碑」になっていて、これらなんとか課とかに君臨する、なんとか庁も不要のムダなのである。

銀座の、「金春通り」のビルの間に、建設工事で掘り出された、当時の「木製の桶(水道管)」がしばらく放置されていたものだが、いまはなくなっている。
たんに棄てられてしまったのか?それとも、文化財としてどこかの博物館(たとえば、両国の『江戸東京博物館』)に保存されたのか?この情報も現地にはないのである。

電車の中とか駅の案内表示や放送には、日本語よりも外国語が優先されるヘンテコがふつうになる、病的な傾向があるけれど、歴史的な記録物についての解説を、かくも放置して平気なのは、やっぱり病的なのである。

いまの日本政府やら地方政府(ふつうに、「東京都」とか「新宿区」)の、グローバル・国際化の本音が、「日本」なる悪の根源を溶かして消し込む努力のことであるからで、それは、国民から栄えある歴史を忘れさせるという意図になるのだ。

つまり、悪意である。

この巨大にして長大なる、『水道碑記』の、題の揮毫は、徳川宗家16代当主の、徳川家達によるもので、文章の起案者は、薩摩人の肝付兼武(きもつきかねたけ)、清書は、書家にして貴族院議員だった、上州人の金井之恭(かないゆきやす)、さらに、石に彫ったのは当時の江戸三大名工のひとりという、酒井八右衛門というひとたちの分業でできている。

そして、いまだと車道側になるから危険で物理的に誰にも読めない、「裏面」には、この碑自体の建立経緯が刻まれているのである。

ちなみに、日本橋にある、『日本橋』の文字は、15代将軍、徳川慶喜のものであるけど、新政府から蟄居を命ぜられて、「ご隠居」となったので家達氏が徳川宗家となったのであるけれど、新政府に気を遣って慶喜氏との交流はなかったという。

むしろ、新政府の陰険な監視の目があった、ともいえる。

さてそれで、わたしは残念ながら、たいした教養もないために、この碑文の文字をみても、読むことができない。
130年前の「一流」が残したものが、読めない、ということに、この碑を前にして、改めて恥じるばかりなのである。

そして、ふつふつと、得体の知れない怒りが湧いてきた。
自分に対するものと、教育に対するものと、である。

省みれば、和歌も俳句も詠めないし、ましてや漢詩をつくることもできないのである。
あゝ、なんという無教養!

和歌にせよ、過去の名作を読んで味わうこともできないし、語彙がないから、詠めない。
もとより、漢文は外国語を、そのまま日本語として「読み下す」という、おどろくべき発明ではあるけれど、古文という日本語すら、ほとんど外国語扱いしてその文法を習うばかりであった。

どちらも、「テストに出る」目先の浅はかな需要に対処しているだけの学科に成り下がったのである。

学校教育が、国民の教養を育てないことに、改めて驚愕するし、もっと重要な、「感性」も子供から奪っているのである。
何にでも自己主張する、小学1年生が、たかが数年で、先生の問いかけにだれも手を挙げて発言しなくなるのが、その証拠だ。

自分の意見が、多数でない場合を想定しておじけづくように訓練されるからである。

教養がないものが、なにを観光するのか?を問えば、なるほど、「IR」なのだという、政府の施策の意味がよくわかるのだった。

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