「ミ♩」の発見

何度か書いてきたので、これからも現象として現れることが予想されるのは、SNSにおけるアルゴリズムで、「わたし向き」のサジェスチョンによる、情報提供があることだ。

今回は、突如、先月亡くなった坂本龍一氏の、NHK「Eテレ」の番組『スコラ音楽の学校』の第1回から第4回までの「バッハ」が登場したのであった。

わが家はテレビを観ないので、こんな番組があったこともしらなかったけど、調べたら、2010年4月3日放送開始とあるから、もう一回り以上も前のことになる。
なので、この学校の生徒として参加した、年長の高校生も、三十路になる。

だが、わたしにとって、坂本龍一という人物は興味の対象外であった。

一世を風靡した、「YMO」は、それこそ同時代的ではあった。
なので、シンセサイザーでだけ演奏した『デジタル・バッハ』の、LPレコードを買ったものの、やっぱりあの無機質感が気持ち悪かった。
一般的には、「新しい」からこそ、支持されたのだとおもうけど。

つまり、「新しい=進歩=よいこと」だったのである。

これは、「1970年のこんにちは~♩」と三波春夫が明るくて空っぽな歌を国民に焼き付けた、大阪万博のテーマ、「進歩と調和」の大延長線上にある価値観だ。

逆に、これを書いていて、じぶんは相当前の若い時分から、進歩思想と折り合いが悪かったのだと気がついた。

進歩主義こそが、社会主義・共産主義の基本をなす思想だから、あの大阪万博とは、じつは「社会主義の祭典」だったのである、と前に書いた。
アメリカ館が注目なのではなくて、ソ連館こそが、もっともテーマに合致した「参加」だったのだ。

これを、「全方位外交の勝利」とプロパガンダされて、国民は信じたのである。
ソ連がプロパガンダをしに参加したのでもなく、この万博の趣旨そのものが、真のソ連礼賛だったから、むしろほんとうは「シブシブ」でもソ連館があったのである。

けれども、社会主義やら共産主義を礼賛するひとたちが、公立学校の教師をやって久しいので、すでに後期高齢者となっている世代でも被害者なのに、進歩主義がどんなに浅はかで危険なものかをしらないでいる。

もちろん、日教組なる組織をつくったのも、GHQの命による、日本人破壊工作だったこともしらないひとたち(=むかし「全共闘世代」といわれていた)が、ただなんとなく齢を重ねて、後期高齢者になったのである。

この意味で、おめでたい世代なのだが、80年かけてもやめずに日本人破壊を続けていることの方が、よほど恐ろしい。

しかして、坂本龍一氏は、芸大(作曲科)修士の音楽家なのであった。

もちろん、西洋音楽の方面であって、邦楽は大学ではなくて、「家元」にあるし、もっと古い「雅楽」にいたっては、いまだに宮内庁式部職楽部が仕切っていて、ユネスコ世界遺産(2007年)になっているのに、大自慢するひとがすくないのは、おそらく「天皇制」なる共産党用語との兼ね合いが、政治になっているからだろう。

番組では、バッハをテーマにしながら最初に、グレゴリオ聖歌から、ガムラン音楽を生徒に聴かせたのは、坂本氏の「音楽」に関する専門家としての矜持がみえた。
われわれの耳は、明治以降、すっかり「西洋化」していることをさり気なく体験させたからである。

この意味で、「邦楽」は、まったく別の体系を形成している音楽なのである。
どんな募集をしたのかしらないが、全員が楽器をたしなむ生徒のなかで、独り、沖縄の三線で登場した中学生だけが「和楽器」で、シリーズの最後まで戸惑っていたのが印象に残るものの、この子の戸惑いこそが正しく、邦楽と西洋音楽を分けていた。

ただ、相手がNHKなので、穿ってみれば、「世界は一つ」にしないといけない、という子供への「教育」という余計な意図の方が先立ったのかも、と斜めから疑うのである。
それになんで和楽器が、沖縄の三線だけだったのか?というのも不満なのである。

音楽の体系とは、リズム(拍子)、メロディ(旋律)、それとハーモニー(和音)からなるのだが、邦楽やら東洋の音楽はあまりにも西洋から遠いのであった。

西洋で「音」を解析した初めては、「ピタゴラス(三平方)の定理」のピタゴラスだといわれている。
彼は、「ピタゴラス音律」という、弦の振動数の研究から得た「音律(3倍音)」をつくった。
それからいまの「平均律」が完成して、西洋音楽(クラシック)ができた。

「平均律」とは、1オクターブの音階を、振動数で「等分」して調整することをさす。
すると、振動数をプログラミングする、「テクノ」こそ、平均律の申し子なのだ。

むかし、「現代音楽」というクラシックのジャンルで、調性破壊をやったのを、「ポスト・モダン」といっていたのが、なんだかわらえるけれど、「調性=平均律だけ」だというのも思い込みになる。

西洋が、キリスト教(ローマ・カトリック教会)に染まっていたことを背景に、「リベラル・アーツ」ができて、当時の大学では、下級3学の、文法、修辞、論理と、上級4学の、数学、音楽、幾何、天文のあわせて計7教科を、「自由7科」ともいった。

音楽があるのは、「神の言葉」同然に扱われたからである。

グレゴリオ聖歌が単調なのに、徐々に「合唱」における、ハーモニー(和音)に注目されると、どの音と一緒になると心地よく、どの音と一緒になると違和感が生まれるかが理解されるようになって、「ド」と「ソ」しかなかった音階のなかに、音の厚みと心地よさが増す「ミの音」が発見された。

それでもって、「ド・ミ・ソ」を同時に出すことでの、「コード」ができた。

バッハは、人類の記念碑的大作、『平均律クラヴィーア曲集』で、全部の「調」(長調・単調あわせて24)を用いた、24曲の作曲をなんと2回もやって、48曲を残している。
けれども、歴史的に、バッハの時代の「平均律」は、いまほど厳密ではないというから、当時の調律でこの曲を聴いてみたいものだが、そんな演奏がみつからないのも不思議である。

さて、その第一曲目の、「プレリュード(前奏曲)」が、「ド」、「ミ」、「ソ」を繰り返し変奏するもので、のちにグノーがこれにメロディ(旋律)をつけたのが、有名な『アヴェ・マリア』である。

「ドミソ」ゆえに、この曲にはたいがいのメロディーが乗るので、坂本氏は生徒にすきなように作曲させている。

バッハ作品の多くが、いまでもジャズやロックに編曲されているのに、より複雑化したモーツァルトやヴェートーベンの編曲が少ないのは、完成度の高さゆえ、ともいえる。

民謡をアレンジした和楽器のロックバンドが生まれて、世界的な人気になってきたのは、坂本龍一氏らのおかげなのだろう。
ただし、やっぱり、地球は一つでも、世界は一つではない。けれど。

合掌

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