地上の支配者は植物である

夢とロマンで、宇宙探査をやっている、とは本当か?

なんとなく「おおらか」でよいのだけれど、夢とロマンだけでなにかができるのは、人類でも希少種の日本人(大和民族)だけではないかと、さいきんとみに思うようになってきた。

人類を相変わらず支配しつづけようとして、いまや汲汲としている白人種は、そんな「やわ」な発想はしないからである。
でないと、税金を湯水のように宇宙開発に投じて、うつつをぬかす者たちに配分なぞしない。

それが具体的な目標になったのが、「火星移住計画」だし、太陽系以外にも移住できる星はないかと探す、「惑星探査計画」なのである。
日本の「JAXA(宇宙航空研究開発機構)」がいう、宇宙の謎を解くための「夢とロマン」が異様にみえる理由なのだ。

要は、あくまでも「実利がある」としてしか、税金投入の口実ができないのが、白人社会(民主主義)なのである。
「そこにロマンがある」で通じるのは、日本人だけだ。
この「おおらかさ」が、唯一白人社会に対峙できた理由ではないかと思う。

だから国民もそのロマンのために、税金が使われることに異存はなかったけど、だんだんと資材調達が利権化してしまった。

いざ探査の対象となる惑星をみつけたとしたら、まず調べるのが、気温や気圧、それに大気組成と水の存在だ。
火星でも、いまのところ微生物らしき痕跡があるようだけど、もしも、生命体がみつかったら、なにを調べるか?をかんがえると、量と種類になるだろう。

これを、異星人からの「地球の発見」にあてはめると、どう見えるのか?

地球のばあい、総重量で最大の生物はなにかといえば、圧倒的に植物だし、その種類も豊富だ。
次が、総重量なのに微生物になる。

シェアがない動物のなかで、さらにシェアがないのが人間なのである。
もちろん、希少動物は人間の他にたくさんあるけど。

この実態を、発見者たる異星人がどう評価するのかは、あんがいと簡単で、植物におおわれた惑星だと定義するはずだ。
それから人類の存在に気がついて、どんな生物なのかを調べたら、植物をいじめる者たちだと定義される。

植物が必須の餌とする、二酸化炭素濃度を減らそうと画策する、へんな行動をしているからだ。

もちろん、異星人は、地上の生物の生存条件を探るにちがいない。

その全ての栄養素が、植物由来だと気づけばなおさらである。
それに、元素や素粒子からなるのは地上の生物も、異星人もおなじはずなので、二酸化炭素濃度を減らす努力とは、自殺行為だと判断するにちがいない。

となると、異星人たちは、人間の精神鑑定をやりたくなるだろう。
それで、自殺願望がある人類と、そんなことはない人類と、なんだかかんがえがまとまっていない人類とに3分類できたら、なにを意図するのであろうか?

どこか人類にはわからない星からやってくる、はるか先の科学力をもっているはずの、この異星人は、そもそもどうして地球を探査するのか?という動機をかんがえないといけないけれど、人智を超える可能性もある。

その理由が、ロマンだから、だったら、なんとなく気持ち悪い。

そうすると、あの大戦争で日本を征服した白人たちが、二度と逆らわないようにする、と決めたことの意味は、真剣でかつ永遠のテーマなのだとわかるのである。
一時の気まぐれや思いつきではない。

これが、いまだに「征服が解除されない」ことの理由だけど、日本人本人たちにはこれを隠して、独立していると思いこませている邪悪がある。

しかしどうしたことか、異星人も気づくように、これら地球の白人たちが自殺願望をもって弱りはじめている。
今年も、世界経済フォーラムがスイスのダボスではじまった。

ときを同じくして、アメリカでは「ガスコンロ使用禁止」の政治キャンペーンがはじまって、それが、コロナ・パンデミックと同様の、「恐怖感」を煽る手法なもんだから、さすがに「おかしい」という声で内輪もめになっている。

なんでも、アメリカでの小児ぜんそくの原因がガスコンロらしい。

こんな「屁理屈」をいうのは、もう、黙っていられなくなったのが、支配する方になったからだろう。
これに黙っていられなくなったひとたちが、多数、訴訟で対抗している。

焦っているのは、世界経済フォーラム側なのである。

そんな空気も読めない、神奈川県民の生き恥さらしのお二人が、大臣の肩書きでスイスに出かけた。
横須賀の小泉進次郎氏と、平塚・茅ヶ崎の河野太郎氏だ。
このひとたちは、金の匂いに釣られるだけの愚か者である。

もちろん、ワシントンで機密文書問題から逃げたいバイデン氏を、みごとに庇った、同盟者の岸田総理大臣は、この二人の出張許可を悦んで出したにちがいない。
すると、公費での外国旅行だから、国民はロマンがあるとして許してくれるばかりか、当然だと思っているのかしらん?

「アイヌ新法」という分断と、「ふるさと納税」という自治の財源破壊をやって、全国最高額の市民税流出となった横浜市にした元凶を、横浜市西区、南区、港南区のひとたちは、ウルトラ小さな白人化を遂げて、菅義偉氏を落選させず、自殺願望の成就こそが「生きる道」だと信じているのか?

そんなことはなく、政治家本人たちも、これに疑いなく投票するひとたちも、みな、思考することをやめた「大衆」のなれの果てなのである。

異星人は、ここまで探査して、絶望したのかもしれないし、あくまでも、植物が支配する星だと結論づけたかもしれない。

だがもっと科学が進んでいるならば、5億光年先の宇宙の壁にあるという、量子で書かれた宇宙の全情報をとっくに把握しているかもしれない。
だとしたら、現場の地球とこの情報を突き合わせて、地球の未来を確信して立ち去ったのだとすれば、取り残されたのは我々の方なのである。

バカは相手にしたら損だと。
そうして、人類亡き後の地球に移住するチャンスを待っているかもしれない。

そうそう、ダボス会議でEUのフォン・デア・ライエン委員長とフィンランドの首相は共に(たまたまふたりとも女性だ)、「ウクライナをロシアが負けるまで、永久戦争とする」ことを表明して、本格的に第三次世界大戦にしたいようだ。

遠くで、異星人がニヤニヤしながら観ていることだろう。

言葉の乱れは社会の乱れ

日本語を母語にしているから、日本人は日本語の達人か?といわれれば、困ってしまう。
わたしが使っている日本語は、正しい日本語なのか?を確かめる術が生活の周辺にないからである。

むかしは、NHKのアナウンサーが話す日本語が、正しい日本語だと習ったし、信じていたけど、それは、明治期につくられたあたらしい「標準語」なるものを起点にしていた。

そのNHKが、1985年(昭和60年)に、『ドラマ人間模様 「國語元年」』(井上ひさし原作)として放送したのを思い出した。

横浜には、ラッキーなことに全国でここだけの「放送ライブラリー」があるので、久しぶりに足を運んできた。
本作は5回シリーズであったけど、残念ながら初回分しか登録がなかった。

しかし、その出演者たちの多くがすでに鬼籍にあるかと思うと、時間の経過とこの作品の現在的価値の高さが身に沁みたのである。

まさにアーカイブの価値を発揮している。

放送ライブラリーでは、鑑賞のためブースを指定されて、その利用時間は2時間まで/回/日となっている。

自席で検索して視聴する番組などを選ぶのだが、同時に1983年(昭和58年)3月7日に教育テレビで放送された、『日本語を決めたのは誰だ(1)「戦後国語改革」』がヒットした。
これも全2回のうちの初回放送分だけが視聴できる。

これら2本を合わせても、既定の2時間に収まるのでついでだから両方とも観てきた。

ハッキリ言って、みるべき観光地なんてめったにない横浜で、この「放送ライブラリー」は、全国的に稀有な施設だから、たまに横浜を観光したいという向きには、お勧めなのである。

もちろん、入場も何もぜんぶ無料である。
放送文化に浸った後は、徒歩で中華街にも行けるけど、いまやお勧めできるお店が限られるのが難なのだ。

なお、『國語元年』は、放送後に舞台用としてシナリオが出版されている。

なので、続きはシナリオで確認したい。

蛇足になるが、このドラマは一応事実から書き起こしている。
江戸時代の中央集権はかなり緩くて、全国に「お国言葉」が蔓延っていたから、地方出身者が集まると言葉が通じないのは、コメディーではない。

最大のネックは、「富国強兵」のための国軍の指揮命令に、上官(薩摩、長州、土佐とか)の発する言葉がその他からの兵に通じない深刻だった。
それで、「話し言葉の統一」という、かつての天下人も成し得なかった偉業をやれと命じられた、上級役人を主人公にする人間模様なのである。

新政府を仕切った「薩・長」間で仲が悪かった理由に、薩摩弁と長州弁の互いの言葉が通じない、という基礎的な指摘は納得以外にない。

為政者にしてこれだから、日本語の統一は、フランス革命で「唯一の成果」といわれる、「フランス語統一」に匹敵するか、それ以上の難易度だった。

それでも、日本語統一が深刻な政治課題であったことと、「言文一致運動」とが結託して、いまに続く日本語になったわけではない。
それが、「戦後日本語改革」という、巨大な日本文化への破壊工作だったのである。

たまたまヒットしたことで、理解が深まったのはたいへんありがたいことだ。
もちろん、NHKの意図は、この逆だろうけど。

日本人は、「敗戦」を「終戦」といったり、「征服」を「占領」と言い換えたりして、自己欺瞞をしている。

8月15日は、確かに「終戦=停戦」と「武装解除命令」が出た日ではあるけれど、9月2日にちゃんと「敗戦」している。
『降伏文書』に調印したからだ。

しかし、我が国が降伏した理由は、『ポツダム宣言』の「受諾」を根拠としているから、降伏もポツダム宣言に基づくことに同意したという意味なのである。

何度も書くが、我が国が「無条件降伏」したのは、陸海軍という「戦闘組織」だけであって、日本国政府は、ポツダム宣言の範囲で、という、「条件降伏」をしたのである。

にもかかわらず、マスコミは「無条件降伏」としかいわないで、政府なのか軍なのかをはっきりいわない欺瞞を国民になすりつけているし、学校でも戦争前までしか教えない欺瞞をやっているので、直近の近代史をしらされないで、しらないままに成人するというおぞましき事態になっても、これに気づかせないから気づかない。

「条件降伏」だったものを天皇を人質にして大っぴらに破って、日本を「征服にやってきた」GHQは、早速に日本語を「ローマ字表記」させようと画策する。

これに呼応した日本人学者は多数いたし、いまもいる。
わたしが尊敬している、梅棹忠夫先生が、どういうわけかローマ字表記論者だったのは、いまだに理解できない。

けれども、この解説番組を観て、一つのことがわかった。
それは、知識人たちによる上から目線の、一般人に対する「憐憫(あわれみ)の情」なのだ。

かんたんにいえば、バカにしているのだけれども、それを「民主主義」とか、「庶民の文化向上」と甘言をいっている。

漢字の数を減らして、簡略化もし、やさしい表記にさえすれば、国民文化は発展向上するのだ、という。
それが証拠に、世界に誇る新聞の普及や出版文化がかくも花開いたではないか、と。

共同通信のえらいひとが、活字の種類が減ったのが、出版社の発展に寄与したという、知能を疑う「珍説」を真面目に語るのを初めて聞いた。
それでいまの共同通信があるのだと納得できた。

これら「表音派」に対して、「表意派」は、何をバカなことをといいながら、これがGHQの企図した「愚民化工作」なのだということに、どこまで気づいていたものか?までには及んでいない。

あえていえば、「表音派」は、損益計算のごとく「フロー」を主張し、「表意派」は、文化の「ストック(資産価値:貸借対照表)」を掲げての対立という不毛が、政治利用されたのだった。

しかし直感的に怪しんだその代表者は、やっぱり、福田恒存氏であった。
氏の生前の映像と音声が聴けただけでも、価値がある。

いま、言葉の乱れを超えて、文化の劣化をどうみるのか?を問えば、まさに福田氏のいう通りの事態(「もうどうにもならない」)となって、出版文化の向上どころか無様こそ物的証拠にもなっている。

もう、いまでは、珍説を述べて政治力を行使した人たちの責任を問うひとも絶えてしまった。

一度破壊された文化は二度と元には戻らない、は、近代日本人が世界に示した「実例」として、歴史に刻まれたのである。

まぁ、お隣の大国も、「文化大革命」をやって修復不可能にしたし、半島の南側も、「ハングル文字だけ」にして、もう漢字を使うこともできなくなったから、なんだか東アジアという地域は、歴史や文化の破壊がお好きな共通があるのであるけれど。

「底辺女性史」の底上げはあるか?

映画やテレビドラマに出演する「女優」を「俳優」というようになったので、いまや出演者を指して、「女優と男優」という区別をするのは、アダルト・ビデオ(AV)の世界に限られるようになってきた。

そのアダルト・ビデオ業界も、いわゆる『AV新法』(22年6月23日から)によって、なんだか混乱している。

ことの発端は、新民法で決まった、「18歳を成人とする」ことだという。

要は、現役高校生がAVに出演できることが問題になったのである。
これまでだったら、出演契約を本人が単独で締結しても、親(いまでは「父兄」ともいわず「保護者」という)が、未成年を理由に契約解除を申し入れて、実際に合法的に解除させることができたのだ。

だから、製作会社側にとって、本人の年齢確認を事前にしっかりしておかないと、あとで損失になるから、かなりの出演防止のための効果があったのだ。
この自然の損得勘定による防止法に、強制を図ったのが新法なのであった。

なんだか、「家電リサイクル法」と似ているのは、どの省に属していようが、所詮は内閣法制局の目を通るので、どんな法案も「統一」される官僚制の性ではある。
自治体が始末してくれていた大ゴミやら、民間の「ちり紙交換」を絶滅させた、悪法(支配者にとってはリベート利権をつくった)とおなじなのである。

法制局にいわれなくとも、わが国の「優れた」官僚制度は、法体系の整合性をかならずとる、という掟を破らない。
なので、さまざまな法律を新規で制定するときに、過去の法律との整合性を壊さないようにも気をつかう。

このために、立法権が事実上、行政府の内閣に移転した。
その専門部署にして最強の部隊が、内閣法制局なのである。
検察官からなる、法務省ではないことに注意がいる。

内閣法制局には、各省庁からのエリート法務官たるキャリア官僚が「出向」してきて、自身の出身省庁担当者と法案の摺り合わせだけでなく、法体系上の整合性もチェックする。

これで、内閣法制局参事官以上の役職を連続5年以上務めた官僚は、退官後、弁護士登録ができるという特権までもっている。
ちなみに、司法試験を経ないで弁護士になるには、大学の法学部教授職を5年以上やると平成16年まではなれた。

それで、大問題になったのが、「2007年憲法改正に備えた国民投票法」だった。
ここで、国民投票ができる国民が、18歳以上になったのである。

どうして18歳以上にしたのか?は、よくわからない。
超高齢化と少子化という二大問題が、考慮の背景にあることは確かだろう。
けれども、この規定が通ることで、明治9年(1876年)の太政官布告以来の20歳成人との整合性が崩れたのだった。

ただし、この布告前は、武家の男子なら13歳くらいで元服式があったし、女子は初潮がきたらもう結婚適齢期だった。
なにせ、平均寿命が40歳とか50歳だったのである。

ついでに、「数え年」から「満年齢」にしたのは、明治6年の太政官布告だった。
とはいえ、これは法令上のことで、わたしの祖父(明治36年生まれ)は、生涯「数え年」がふつうだったし、メートル法ではなくて尺貫法でないとピンとこなかった。

さてそれで、ことが憲法に関することなので、成人を18歳に揃える、ということになった。
ここから、テクニカルな関係法の整備という、お役所仕事がはじまる。

つまり、「法」と「一般常識」との整合性を無視した乱暴を、いまも政府はやって恥じない。

ために、タバコとか飲酒は「20歳から」という、なんだかわからない「特例」になって、そもそも社会にとって「成人」とはなにか?の定義からぜったいに切り離せない、「責任」が曖昧になったのである。

これは、おそらく、原案を作る側のひとたちの「無責任」が表面化しただけで、こんな薄っぺらな人物たちが、知識としての法律をしっている、というお粗末になった。

だから、まさか底辺の「AV」のことなんか気がつきもしなかった、のではないか?
それでもって、慌てて「新法」をつくることにして、公聴会も1回だけしか開催しなかった。

ここに、いい悪いが逆転した、「優しさ」(の押しつけ)が、見え隠れする。

とにかく、AVに出演する女性は売春婦同様の保護が必要で、こんなものに出演していい気になっている男優は男の風上にも置けない愚か者だ、というエリート男性目線だけが見て取れるのである。
なお、エリート女性にもこの男性目線をもっているひとがいることがある。

すなわち、これは、いまどきの「底辺女性」対策法、なのだ。

しかし、とっくに社会は成熟から爛熟に移っていて、一つの価値観でしか行動できない政府の限界と、それがまた、弾圧になることの恐ろしさも気づいていない。
そして、わが国には「伝統的左翼」すら、雲散霧消したのか?と疑わざるをえないことにもなった。

伝統的左翼には、「労働」の概念に、売春もあったのだ。

これは、社会が総じて貧しかったことからの、「わかりやすさ」でもあった。
よくいう「女工哀史」がまだ高級(恵まれていた)だったのは、ふつうに「身売り」があったし、下手をすれば「間引き」されたからである。

その傑作ルポが、山崎朋子『サンダカン八番娼館 底辺女性史序章』(1973年大宅壮一ノンフィクション賞)だった。

なお、このおなじ年には、いまでは入手困難な、『明るい谷間 赤線従業婦の手記』(新吉原女子保健組合編、土曜美術社)という名作もある。
ただし、こちらは吉原の最後のときだったので、「遊女」たちの教養はいまの国文科女子大生の比ではない。

この意味で、いまどきは風俗業勤務だからイコール底辺といえるのか?という問題にまでなっていて、かつての宿場町にふつうにいた「飯盛(めしも)り女」やら、江戸の共同浴場にいた、「湯女(ゆな)」と単純比較することはもうできない。

それでも、「新カラユキさん」や「新大久保のたちんぼ」が話題になるのも、昨今のわが国の貧困化の姿でもある。
しかして、人類最古の職業とされるものが、どこまで底辺なのか?という問題は、あんがいとあたらしいのである。

そんなわけで、とりあえず先進国の看板がまだあるわが国が、先進国で最大のエイズと梅毒の流行国になっている。

凄まじきは、そんな女性を保護する風情で、じつは利権の食い物にしている?ことが、ジワーッと話題になっていることだ。
こちらの悪質は、過去の悪の上をいく。

これを左翼がやっているらしいから、左翼も地に落ちたものだと感心するのである。

トヨタと日鉄が他国に移転仮説

トヨタ自動車には、かつて「日銀管理」になった苦い歴史がある。
豊田家の当主でもある、現社長がこの歴史を知らないはずがない。
なので、知らないのは、自動車ジャーナリストとか、経済評論家で名を馳せているひとたちになっている可能性がある。

クルマ自体の機能や、クルマの売れ行きしか見ないことでも、それなりの解説はできるからである。

とはいえ、新年冒頭に出た、トヨタや日鉄が、日本から出て行くことの「仮説」は、大きな話題になっている。
もしもこんなことが実現したら、「日本(経済)沈没」となるからである。

 

この話の論理は、政府との対立の結末、ということになっている。
いわゆる、日本政府による「トヨタ・イジメ」が、とうとうトヨタをして日本脱出へと決心させる、というシナリオなのだ。

もちろん、鉄板を大口でつかってくれるトヨタの後を追いかけて、関連企業はみんな追随するから、その筆頭に日鉄の名が挙がったのだろう。
産業のすそ野の広さが、自動車産業の最大の特徴なのだ。

けれども、一方で、EV(電気自動車)の雄である、テスラに陰りが見えている。
それが昨年末からの株価の値下がりで、とうとう半値にまでなってきた。
テスラ車ユーザーの半分が、次の買い換えでもうEVには乗らない、と回答したアンケートもこの値動きに影響しているという。

じっさいに、8割と高率でEVが普及したノルウェーは、国民に購入させるための補助金や保有期間にかかる税金が思い切りユーザーを有利にさせる政策で実現したし、充電スタンドの設置も、ガソリンスタンド並みの密度になるよう政府が投資した。

これは、典型的な自由経済への政府の介入(=社会主義政策)といえる。

EVが普及することは、すなわち、充電池需要が増えることになって、いま主流のリチウムイオン電池の原材料で希少資源のリチウムの世界価格が暴騰してしまい、これまでとおなじ額で国民にEVを購入させるための政府の補助金が自動的に増額となって、とうとう福祉予算の削減まで議論される財政の困窮化になっている。

しかも、スエーデンは油田をもっているけど、これはぜんぶ輸出に廻してこれをEV普及の財源にして、電気エネルギーの多くは水力発電に依存している。
このことも一見クリーンで合理的に見えるけど、とかく現代人は「原始人に戻る意味での先祖返り」をしている。

つまり、「エネルギー保存の法則」をすっかり忘れてしまった。

他国に販売された石油は、どこかでかならず燃やされているし、水力がクリーンでないことは、「黒四ダム」で富山湾が壊滅的に汚染されたことでもわかる。

わたしの住む神奈川県も、相模川水系のダムで、相模湾の汚染は手に負えず、ほぼ漁業がダメになった。
水はよどむとかならず腐るからで、腐った水が海へと注いでいるのだ。

治水と環境は、なかなか共存しない難しさがある。

温暖化で「北極の氷」が溶けると海水面が上がって、世界の都市が水没する、という波状攻撃的なプロパガンダで、「アルキメデスの原理」すらわからない状態に追いやられたことの反省がないのである。

この「反省しない」というのは、「大衆」の典型的思考だと何度も書いてきた。
ゆえに、大衆はぜったいに進化しないで、民主主義における絶対権力を持っていると勘違いするのである。

この大衆の、ダメ犬のような習性を利用しようとしているのが、共産主義・全体主義をもって、人類の奴隷化を意図するひとたちだ。

それが、EUであり、国連(UN)である。

どうして決まったのかしらないが、EUであたらしい決定があった。
それは、食料トレーサビリティで、環境や人権を傷めてはいない証明がない物資の、EU圏内への輸入を禁じたのである。

つまり、「フェア・トレードの強制」だ。

たしかに、環境破壊や人権弾圧は、「悪」である。
けれども、いきなりぜんぶ、というのはいかがなものか?
急ブレーキは、乗員の身体を傷つけないか?ということだ。

奴隷的労働が指摘される食品は、歴史的にチョコレートの原材料である、カカオのことが思いつくし、コーヒーもしかりだ。
これに、トマトの缶詰が加わるのかどうかはまだわからない。
まさか、蟹も?

  

これらはかならずわが国にも影響する。

そしてそれが、世界政府、という現実なのである。
トヨタ・イジメは、欧米の自動車会社が、日本車の技術水準にギブアップしたことが、「EVシフト」という政治になった。

ところが、昨年末までに、ベンツやBMW,それに、VWといったドイツのトップが、こぞって「EVシフトの危険性」を訴えはじめたのである。
それが、「自滅」になると気がついた、と。

また、民主党から共和党に寝返って、Twitter社を買収し、さらに「Twitter File砲」が炸裂しつづけていることでの、イーロン・マスク氏への反発が、テスラ株にも影響しているはずだ。
なにしろ、今どきの欧米左翼は、超資産家の大富豪ばかりなのである。

すると、もしや上のEUの決定は、ずっと逆らいそうなイタリアへの嫌がらせを意味しないかと疑う。
トマト缶の闇は、イタリア・マフィアにまで及ぶから、このひとたちがEUを逆恨みしたらどうなるのだろう?

日本の過去の失敗で、その後の歴史的意味合いがおおきかったのは、「金解禁」というグローバル化だった。
これは、昭和5年(1930年)に、浜口雄幸立憲民政党内閣の井上準之助大蔵大臣が断行したものだ。

世界史では、前年の1929年に、「世界恐慌」が起きた、とある。
つまり、わが国は自ら「恐慌の扉を開いた」ことで、昭和恐慌になってしまう。
農業では、昭和5年は史上初の米価下落による「豊作飢饉」があって、翌6年には本物の「冷害大凶作」になったのである。

これで疲弊した東北は、まさに阿鼻叫喚の事態となって、長男以外が軍にいたから、「5.15」(昭和7年)や、その後の「2.26」(昭和11年)になっていく。

そんなわけで、他国がやっているから、とか、日本は遅れている、とかという言動には注意がいて、場合によっては「うそ」だと判断することがひつようなのである。

いま、井上準之助はバカだという評価があるけれど、濱口雄幸や立憲民政党のことをいうひとがいない。
東京駅頭で暗殺されたとはいえ、濱口と立憲民政党の正体とはなにか?は、安倍氏と重ねてなお、重要事なのである。

なので、まだ、日本以外が酷いことになっている。

 

いなづま事故とハインリッヒの法則

海事事故は、いったん起きると被害もおおきいものだけど、今般の海上自衛隊護衛艦「いなづま」による10日の座礁事故は、自力航行不能になったとはいえ、まずは人的被害がなく不幸中の幸いであった。

テレビも観ないし新聞もとっていないから、第一報からはじまって、続報をみるのはもっぱらネットのニュースだけという状態だけど、所詮は地元紙とかの新聞社が配信している記事なので、基本的にそこでの「解説」は信用していない。

たとえば、中国新聞が12日午前に配信した記事には、「海のプロとしてありえない事故」との見出しになっている。
厳しい叱責は、新聞社が伝統とするところの修辞だけど、これ見よがしの書き方は、事実を伝える、という原則から逸脱している。

この事故のどこが「プロとしてありえないのか?」についての記載は、「浅瀬への単独座礁」だけをみているからだろう。

しかし、この記事でわたしが注目したいのは、その文末にある。

「防衛力の大幅強化を巡る議論の中で、自衛隊の装備や訓練などの在り方もさまざまに問い直されるだろう。国民の安全を守るどころか不安を与えるようなミスは自ら信頼を揺るがすことを肝に銘じてもらいたい。」だ。

最後のシメの文ではなくて、「防衛力の大幅強化」からはじまる、なんとなくお決まりの文章の方だ。

これが問題なのは、戦後の安逸なる状態から、とうとう本気で防衛努力をしないといけなくなった、という「大変化」(「事情変更の原則」がはたらくほどの)に、ほんとうに対応する覚悟が、当の自衛隊幹部だけでなく、国民にできているのか?ということが含まれるからだけど、この記事でいいたいのは、忘れなさい、という方の意味になっていることだ。

また、この記事では「前日まで定期点検を受けていた」ことと「試験運転で乗組員とドック関係者の計190人を乗せ」とあるが、同日夕方の別の記事(テレビ新広島)では、「時速およそ55キロで航行していたとみられ、最大速度であった可能性もある」と報じている。

「時速55キロ」とは、「30ノット」と換算できる(1ノット≒1.8キロ)から、いわゆる「最大戦速」(ふつうは機密なのでほんとうはもっと?)を「試験」していた挙げ句の座礁事故とみるのがふつうだろう。

前日までの定期点検で、ドックの関係者(民間人)も乗艦しての試験で、最大戦速(らしき)をだしたとは、いったいどんな点検をドックでしていたのか?
しかも、こんな(超)高速航行試験を、どうして狭い瀬戸内でやったのか?が気になるのである。

いってみれば、狭い路地裏で高速運転(暴走行為)を試みたら事故った、ようなことになって、プロとしてありえないではすまないことになってしまう。
なお、スポーツ・カーもそうだけど、「速い」と「止まること(制動力)」はセットだ。

水上艦船は、たとえエンジンを止めても、水との惰性で何キロも滑るように進んでしまうから、スクリューを逆回転させてブレーキとする。
なので、「ゴー&ストップ」の試験をしていたのではないか?

だから、なんだか、地元紙の瀬戸内を行き交うフェリーが座礁したごとくに、「海のプロとしてありえない事故」と書いたことの方が、「プロの取材としてありえない記事」に読めるのである。

ほらね、新聞やマスコミは信用できない。

縁あってわたしも、横浜港の回漕業の安全対策にかかわったことがある。
ここでの基本は、「失敗学」からの学びであった。
「安全工学」という分野があるのだ。

とくに、労働災害の分野では、有名な「ハインリッヒの法則」がある。
それは、1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常(ヒヤリ・ハット)が存在するというものだ。

そのために、現場では、ヒヤリとしたこと、ハットしたことを書き出して、その原因を探るのである。
これをまた、「安全ルール」として、なにをすればよいか、なにをしたらいけないかと二方向から洗い出して、実務規則にする。

ばあいによっては、違反者に罰則も課すのは、とにかく「安全第一」だからである。

そんな目線で、この事故をみると、部外者にはわかりにくい自衛隊という組織の問題も見え隠れする。

単独の座礁事故だから、あたかも艦長以下の操艦に問題があるのは否定できない。
しかし、組織として果たして艦長の権限はどこまであるのか?という問題が対象から漏れていないか?

意図的な(暴走)試験海域を艦長の権限だけで勝手に指定できるのか?という疑問である。

当然に、司令部の許可ないしは指示・命令がないとできないのではないか?
戦時ならともかく、いまは平時である。
自衛艦の航行が、艦長(本件艦長は2佐)の独断でなんでもできるとは、とうていおもえない。

つまるところ、艦長といえども、「中間管理職」ではないのか?ということに思いを馳せれば、陸上には「司令部」やら「総監部」があって、かならず「将官」がいる。

このひとたちは、いったいなにをしていたのか?

そんなことを調べていたら、「オオカミ少佐」というYouTuberが登場した。
このひとは、元海自隊員だとして、本件事件をするどく分析・解説している。
ハンドル名から推測するに、「3等海佐」で除隊したのか?

まったく、ジャーナリストを自称する「プロ」は役に立たないが、このような「元職」が発信する情報にはリアルな価値がある。

わたしの父は旧海軍のレーダー兵だったことを、生涯自慢していたけれど、軍内部の組織のことなどは、いちいち説明しなくともわたしが理解していると思いこんでいた。

それに、父の自慢は、駆逐艦乗りだったことで、そのスピードは「溶接艦」がふつうのいまとちがって「リベット留め」の鎧のようにしなる旧海軍の造船技術の方がはるかに優れていたとしきりにいっていた。
アメリカの軍艦は、ぜんぶ溶接だから折れるんだとバカにしていたものだ。

機密だから上官に聞いても正確には教えてくれないが、ガクンと体感する最大戦速時の加速度からも40ノットは出ていたかもというから、過去の駆逐艦はいまの護衛艦よりはるかに凄いかもしれない。

艦体がギシギシときしんで、船首や艦尾からみたら、艦全体がバナナのように反ってしまう(荒天では上下にも)ことでの運動能力は、空の「ゼロ戦」が有名だけど、日本艦の凄さは格別だったという。

軍の組織やしきたりに、そんことしらないよ、というと、えらく驚いたのは、あの世代の常識だったからだろう。
いい悪いは別にして、徴兵もあったから、一般人には軍を経験したひともふつうに混じっていて、軍との距離はいまよりずっと近かったとかんがえるのが妥当だ。

すると、我々は、陸・海・空のどの自衛隊であろうが、内部の組織規定からなにからをぜんぜんしらないままでいる。
このことの方がよほど異常なことなのだ。

だから、冒頭記事の「防衛力の大幅強化を巡る議論の中で、自衛隊の装備や訓練などの在り方もさまざまに問い直される」ことのなかに、さまざまな情報公開(当事者たちの常識も)があってしかるべきなのである。

そうでなければ、ぜんぶの事故責任が、ありもしないのに艦長の責任にされてしまう。

すると、もはや民間で大問題になっている、「管理職になりたくない症候群」が、国防の最前線で発生することになって、おそるべきブーメランを国民がくらうことになるのである。

そんな状況にしたい、のがマスコミの病理なのだし、もしや自衛隊の将官たちや高級防衛事務官たち、あるいは与党の「とかげの尻尾切り」があるならば、もっと悲惨な組織への疑惑が自衛隊そのものを瓦解させてしまうおそれがある。

ここが、この座礁事故の最大の問題で、その構造がハインリッヒの法則なのだ。

鴨長明と同年になったのに

西洋の古典について、古代ローマ帝国の賢人セネカは、「ぜんぶ読む価値がある」と書いた。
紀元前5年に生まれ紀元後65年に教育係として育てた皇帝ネロから、「死を賜った」ひとで、著作に『人生の短さについて』とか『読書論』などがある。

 

ここで誤解してはいけないのは、彼のいう「古典」とは、当然彼が生きていた時点からの古典なので、もっぱらギリシャ哲学の古典を指す。
すでにローマ時代に氾らんしていた、ゴシップ風の読み物を指してはいない。

つまり、むやみやたらに、多読をせよいったのではないのだ。
むしろ「時間」という資産を大事にすることに拘っていて、ベンジャミン・フランクリンがいった、「Time is Money」の原点を謳っている。

キリスト教とギリシャ・ローマの哲学が、西洋の基礎にあることがよくわかる。

もちろん、いまではセネカの著作そのものが、古典になっている。
しかも、ストア学派の巨匠としてである。
けれども、このひとの人生も決して「枯れた」ものではなく、むしろあんがいとギラついていたのは、西洋人だからか?

あくまでもセネカの主張にもどれば、古代ギリシャ哲学の西洋世界に与えた影響の巨大さを考えざるをえないけど、それならわが国のみならず、「本場」の専門家をうなずかせた碩学、田中美知太郎(1978年文化勲章)がいる。
このひとの著作は、絶対安心のものばかりだ。

それで、田中美知太郎は慶應の小泉信三とともに、サンフランシスコ講和会議に賛成した学者であった。
なお、このふたりは、どちらも空襲(田中は広島原爆、小泉は東京大空襲)で全身大火傷を負って、顔にも大きくケロイドが残ってしまった共通もあった。

保守系といわれる「日本文化会議」を創設し、かつての「反体制雑誌」といわれた、『諸君!』(文藝春秋:1969年5月号~2009年6月号で休刊)の執筆陣を形成したものだ。

2000年代になって、文藝春秋社の社内でなにがあったかはしらないが、急速なる「左傾化」があって、学生時代からの定期購読者だった一般読者のわたしでも、『諸君!』の論説の曲がり方がハッキリわかったので、休刊の2年ほど前に契約を解除して、高校以来読んでいた本誌の『文藝春秋』も読むのをやめて今に至る。

それが急ブレーキだったから、目がさみしくなって、『WILL』とか『正論』とか『VOICE』をみていたが、その論説の「甘さ」が煩わしくなって、結局ぜんぶ読むのをやめた。

中吊り広告の見出しをみただけで、薄い論説の内容が透けてしまうのだ。

学生のとき、遠距離通学だったので、電車のなかで『世界』とか『前衛』も読んでいたけど、すぐに飽きたのは、我ながらあっぱれである。
さいきんでは、もっぱら通勤時間帯に電車に乗ることも少なくなったが、車内で新聞をみているひとを見つけると、なんだか気の毒になるのである。

そんなわけで、中東や西洋よりも進んだ文明社会だったのは、地球上で日本しかないということが、近年の発掘から明らかになって、もはや「縄文文明」は、古代エジプトやらメソポタミアやらインダス、黄河を凌駕していたことはまちがいない。

時の政府が歴史を作るために作った、『古事記』、『日本書紀』は、その前の歴史を消去する作業も同時にやっていた。

この両書が、似て非なるものになっているのは、一般向けの『古事記』に対して、学者向けともいわれる『日本書紀』のところどころの脚注に、異論を想起させる記述がコッソリあるからだ。

ぜんぶ作り物です、と書くわけにはいかない当時の事情(しっているひとがいる)がうかがえる、というわけである。

しかしながら、「焚書」もやったらしいし、ついでに日本オリジナル「文字」も捨てたのではないか?という疑義がある。
それで、「古代文字」の研究が注目されて、学会が認めない『ホツマツタヱ』の民間研究がおこなわれている。

面倒なのは、歴史学会の方で、こちらは、GHQの指示通りを「保守」しているから、反日を標榜する外国と歴史解釈について共同研究をする、という不可能を可能にすべく(政治)活動をしているムダがある。

さて時代を新しくして、日本三大随筆といえば、『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』だ。
西暦でいえば、『枕草子』がちょうど1000年頃(平安中期)。
『方丈記』は、1212年(鎌倉前期)で、『徒然草』は、1330年頃(鎌倉末期)という。

『方丈記』が断定できるのは、著者がちゃんと最後に日付を書いているからだ。
ただし、原本は発見されておらず、写本としての最古が、醍醐寺の親快という僧侶が1244年に残している。

作者の鴨長明は、「鴨氏」だから、さかのぼれば「秦氏」になって、いわゆる渡来人の系統ではあるけれど、もっとも天皇家に近い「賀茂神社」との縁があるし、これが原因して「隠棲生活」となったのである。

もちろん秦氏には、ユダヤ失われた10士族、にあたるのではないか?という説がある。

そうしてみると、この傑出した随筆(名文)を800年経っても読めるのは、賀茂神社の神官に就任できなかった本人の不本意が根底にある。

それでもって、鴨長明の年表で没年齢をみたら、なんといまのわたしと同年だということに気がついた。
なるほど、高校生に理解できない「枯れた感じ」は、いまこそしっくりくるものだ。

そして、とうていこのひとの教養に逆立ちしても追いつけないことに、打ちのめされてしまったのである。

それで、セネカの『人生の短さ』が、沁みてきた。
『方丈記』を高校生に教える前に、セネカに言及すべきだろう。
なにしろ、古今東西、健康な若者は人生が長く退屈だと信じているものだからである。

そうやって、「不惑」から「還暦」ともなれば、いかに人生が短いものかにだれもがたいがい呆然とするのである。

下記は、前半は現代語訳にしてマンガ、後半は原文注釈付き、さらに養老孟司先生の解説まである「豪華本」があるので、自分の人生に呆然としたいひとにはお薦めである。

むかしの「成人の日」に。

暗殺の実態が不明な半年で

作夏の大事件は、参議院通常選挙投票日(7月10日)の直前、7月8日午前に安倍晋三氏が遊説中に暗殺されたことだった。
これは、究極の選挙妨害ともいえるけど、なにせ公衆の面前での殺人事件なのに妙に事件追求の努力がされていない不思議がある。

それから数えて、この8日で半年が経過した。

この間、まったくもってケネディ暗殺犯とされた、オズワルドと似た扱いを山上容疑者は受けていて、「元」とはいえ、憲政史上最長の内閣を率いた人物の暗殺事件について、物理的分析がほとんどないままに放置されている。

マスコミだけでなく、政界からも、警察はなにをしているのか?の質問すらない。
与野党を超えて「真実追究」はもちろんのことなのに、なぜか話が本末転倒の感がある。

この事件を物理学者がきっちり「音声解析」していることも、マイナーなニュースで、大手メディアは一切の無視を決め込んでいる。

襲われた安倍氏は演台を自分から降りたが、手からマイクは放していなかった。
よって、現場ではこのマイクが捉えた音を、拡声器を通して聴衆に聞こえたという。

それは、山上容疑者が放った一発目の0.2秒前の音だった。

しかも、彼の手製の銃は、先込め式の火縄銃のような構造で、込めた散弾は6粒だという。
これらはほんとうに発射されたのか?すら、怪しいが、この物理学者は「空砲だった」と重大な解析結果を発表している。

この解析による山上容疑者の銃とは別の発射音は、4発。
安倍氏の立ち位置からすると、左右から2発、という。
命中したのは3発で、1発は安倍氏が山上容疑者の方に大きく振り向いたことでの失中とみられるという。

なんだか、フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』(出版は1971年、映画化は1973年)のラスト・シーンを彷彿とさせる。

 

すると、いきなりプロ(おそらく消音器付きライフル)の狙撃手が複数いないとあり得ない。
日本では、銃刀法で一般人がライフルを所持できるのは、散弾銃の所持許可免許を取得して、10年連続無事故でかつ、狩猟用としての申請をしないと所持できない。

ちなみに、この免許の書換は3年に1回だ。

しかも、消音器はぜったいに販売も所持も許可されない。
なので、日本人なら公務員系(警察あるいは自衛隊)、そうでなければ外国人しか見当がたたない。

日本を舞台にした消音器付きライフルを用いたサスペンスなら、現役エンジニアの榊正志作『レイラインシリーズ3 アマテラス・サーガ: 失われた卑弥呼の金印を探せ! 失われた秘剣 』が、いまもっともスリリングだ。

本作だけでも楽しめるが、前2作から、という順番がお薦めだ。

なお現実の警察は、安倍氏暗殺後もライフル所持者に対する調査もしていない。
果たして、この解析以外の解析を警察すら未発表だから、とっくに「ヤミの中」なのだ。

それを隠蔽するかのように、特定宗教団体を叩くというパフォーマンスが連日報道され、まったくの目くらましをくらっているのが、いつものように国民なのである。

なので、すっかり現行犯逮捕された山上容疑者が単独犯だという前提で、事件があたかも解決した風情になっている。
これにはまた、検察が起訴したら99.6%が有罪になるという、わが国刑事裁判の国際比較でも「異様」な状況が背景にある。

他の先進国は、のきなみ6~7割程度でしかないのだ。

もちろん、わが警察の丁寧な捜査が、刑事訴訟での圧倒的「証拠」提出となる原因であって、他国の警察のずさんな捜査が優秀な法務官の検察をして裁判に勝てないのだ、という意見もあろう。

しかして、99.6%という実績値は、それでも高すぎるとみるのが一般的な感想になる。
これでは、刑事裁判における裁判官の存在がみえないし、起訴するか起訴猶予にするかで、検察が実質裁判の判決を書いているようなものだ。

ちなみに、検察官は、わが国では法務省のお役人様である。

ふつうの省庁は、国家公務員総合職試験(戦前の「高等文官試験」、戦後の「上級職試験」)合格者が「キャリア」として、最終的に事務次官に上り詰めるけど、これからはずれているのが外務省の「外交官試験」だ。

日本ではあまりいわないけど、こうした試験制での役人採用方法を、ふつう「科挙」といい、欧米では「中国式」とよぶ。

しかし、もっとはずれているのが法務省で、この役所のキャリアとは司法試験合格者で検事に任官したものをいう。
なので、おどろくことに、法務省では国家公務員総合職試験合格者でも、本省の局長になれない。

だから、外局に検察庁があるとかんがえるのはまちがいで、法務省全体が検察官たちの牙城なのだ。
それでできた序列が上から下へ、検事総長 ⇒ 東京高検検事長 ⇒ 大阪高検検事長 ⇒最高検察庁次長検事 ⇒ 法務事務次官 というすさまじさになっている。

どこまで警察と検察におもねるのかしらないが、有名大学の有名教授たちが、山上容疑者を「価値ある行為だった」とした言論を発している。

殺人犯を殺人犯ではなくて英雄扱いをしていることが問題なのではなくて、もう犯人を山上容疑者だと、警察・検察のいうとおりに決めつけていることが問題なのだ。

これもまた、社会に真実を隠す努力としての「ノイズ」なのであって、「冤罪」がなくならない原因のひとつである。

国民が恐れないといけないのは、こんな体制だといつなんどき逮捕されるかもしれないし、ひとたび起訴されようものなら、ほとんどが有罪に一直線だということだ。

これを、「暗黒国家」というのである。

1970年、ノーベル文学賞のソルジェニーツィンは、代表作『収容所群島』の冒頭に、「逮捕は突然やって来る」と書いた。

アメリカ下院の影響力

議長選びでもたついた感があったアメリカ合衆国連邦下院議会ではあるけれど、「スタート・ダッシュ」はそれなりに強力だ。

日本の国会とちがって、アメリカ議会は下院と上院とで、役割がちがう。
外務次官でアメリカ大使だった、村田良平氏がのこした、「日本は一院制にすべし」とあるのは、戦後わが国の国会、とくに参議院がたんなる衆議院のコピーでしかないムダをいいたかったとかんがえられる。

わたしが子供だったずっとむかしから、「参議院改革」というグダグダをやっていて、さいきんではもうとっくに「飽きた」感がある。
国民を飽きさせるのがマスコミの役目なので、わざと枝葉末節の話を大袈裟にして、根幹に関わる議論を抹殺してきた成果なのだ。

それでもって、実質的に衆議院(外国では「下院」、身分制の英国では「庶民院」)だけの一院制になっていて、参議院をばかにしくさった結果として、一般人は参議院議員にしかなれない選挙制度をつくった。

むかしは、参議院を「良識の府」なぞとおだてていたが、選挙まで似せたので単なるコピーにした一方で、衆議院は厳しい小選挙区制にしたから、ぽっと出で勝てる要素がなくなった。
これが、議員の「世襲制」をつくって、「あたらしい身分社会」としたのである。

小選挙区制は政権交代を促す、というキャッチフレーズは、ウソだった。

それでも、参議院議員にだって、国政調査権があると「憲法62条」にあるから、あんがいと行政府からは侮れない。
これが、国民にとっての民主主義の「首の皮一枚」なのだ。

組織論として、時代の最先端の研究をするのは、大学という象牙の塔(ほんとうは「タコツボ」)にこもった学者ではなくて、軍隊だ。
同盟国だったヒトラーのドイツが、人類最初の「無差別爆撃」を、スペインのゲルニカでやった。

これで、戦争は兵隊同士の戦闘で決着をつける、という古今東西の常識がやぶられて、戦後の掠奪ではなくて、「戦略」という名目の一般人虐殺が戦争のオプションになった。
この最終オプションとして、核がある。

ちなみに、歴史的掠奪の阿鼻叫喚は、東ローマ帝国が滅亡した、コンスタンチノープルの陥落があまりにも有名だ。
攻めたオスマン帝国のメフメト2世が、自軍のあまりの蛮行に涙したという。

これをツヴァイクが、『人類の星の時間』の、エピソード、「ビザンチンの都を奪い取る」で描いている。

だから、軍のコアな思想には、兵隊同士の戦闘にいかに勝利するか?はいまどきの「紛争」レベルになったけど、これがまた、いまだに有効なのである。
ゆえに、クラウゼビッツの『戦争論』が、現代でも名著になっている。

 

むかしの軍(たとえば、大日本帝国陸軍と同海軍も、アメリカの陸・海軍も)は、それぞれ「陸軍省」と「海軍省」とがあって内閣に属した行政府と、陸の「参謀本部」と海の「軍令部」もまた、それぞれにあって分かれていた。

勝利を目指したら、統合することの有利に気がついて、アメリカは戦後の1947年になって、トルーマン大統領の要請でできたのが、「国防総省:いわゆるペンタゴン」だ。

じっさい、国防総省のなかに、かつての陸軍省やら海軍省が「統合」されているので、省内に省があるのは、官僚組織の壁の厚さを物語る。
しかして、国防総省となっても、行政機関なのだ。
なので、各軍の将官で組織する統合参謀本部は別にある。

これはどういうことかといえば、軍政(軍を維持するための行政)と、作戦(敵国や仮想敵国、あるいは同盟国間)とを分けているのである。

行政には、人事と予算が、統合参謀には作戦という役割が明確にされている。
もちろん、アメリカは合理的思想の国なので、制服を着た軍人はこの両者を人事異動で行き来するし、民間人でさえ専門家なら、「顧問」として両者に配置されている。

わが国の防衛省は、制服組を作戦にだけあたらせて、軍政(予算と人事)には一切タッチさせず、法学部をでた国家公務員だけがこれにあたっている。
これを、(広義の)シビリアン・コントロールだと信じている道理は、GHQの命によるだけなのは、本国のアメリカをみればすぐにわかる。

そんな視点で、アメリカ連邦議会をみると、下院が予算、上院が政府高官人事と外交(条約と批准)、という役割だから、議会においてさえ、より権力の分散を意図していることがわかるのである。

それで、これら「優先権」にあたらない議論は、両院で議決されて、「上」で決まらないと決まらない仕組みになっている。
その「上」は、単純多数決でないこともあるので、単純多数決しかしらない日本人にはわかりにくい。

バイデン氏や民主党、それに行政府のさまざまな「疑惑」について、下院の委員会が発足して、「捜査」を開始すると宣言している。
ただし、これらは大方、上院に持ち込まれるので、どうなるかは不透明だ。

しかしながら、昨年末に滑り込み成立した連邦予算案(4000ページ)を、たった3日で可決させたペロシ前議長が地団駄踏んで悔しがった、ちゃぶ台返しをさっそくやってひっくり返したのは、まずは「快挙」である。

ウクライナへの追加軍事支援予算も該当していて、戦争をやめさせることが明確な意志となっている。

上院で否決されようがなんであろうが、下院の捜査で上院に圧力をかけるばかりか、国民に実態をしらしめることが先だという戦略なのである。

つまり、これから先、アメリカはスキャンダルだらけ、になる。

これが、日本に影響しないわけがなく、70年代にいわれた「アメリカがクシャミをすると、日本は風邪をひく」どころか、もはや、「アメリカがクシャミをしたら、日本は即死しそう」な状態にある。

事実上、アメリカ民主党の日本支部となっているわが国与党は、持ちこたえられるのか?

読者の激減や視聴率の低迷で瀕死のマスコミが、一社でも「裏切って」、アメリカのスキャンダル・ラッシュを正確に報道したら、もしや経営再生になるのだけれど、そこは日本人だから、玉砕するまでがんばるのだろう。

その前に、愚民化しすぎた国民が寝たままのほうが、よほど悲惨で、新聞も、NHKの受信料も払えない貧困に、マスコミは負ける自業自得がやってくるのであろう。

日本は今年デフォルトするか?

七草もすぎて、いつもの通りあっという間に正月が終わる。

企業活動も本格始動する中で、今年ありそうな出来事の最大惨事はなにかを妄想したら、それはデフォルトだとおもわれるので書いておく。

昨年発足して英国史上最短で退陣した、トラス首相のことは、記憶に焼き付けるまでの時間もなく、気の毒なくらいだれも覚えていない。
しかし、伝統ある英国の民主体制のなかでの、保守党党首選挙を経ての首相就任だったから、なんで辞めたの?という疑問はつきまとう。

トラス氏は、ちゃんと選挙中に公約として「減税」を訴えていた。
しかも、その規模は、かつてのサッチャー氏や、トランプ氏がアメリカでやった規模とは比較にならない「小さな規模」のものだ。

にもかかわらず、勝利して内閣が発足していよいよ実施するための仕事をはじめたら、市場が反応して、英国ポンドと英国国債が暴落した。
減税によって英国政府債務が膨らんで、デフォルトするかもしれいことの、市場からの警告だ、と報道された。

彼女は当初、たいした規模ではないからと減税を強行する態度を示したが、結局曲げて、あたかも市場に屈服したけど、与党内からの批判に絶えられずに辞任に至ったのだった、ということになっている。

しかし、これをよく観察すると、市場とマスコミがグルなのではないか?と疑うのである。
「市場」には、二種類あって、一つが大富豪が動かすという意味、ひとつがその他大勢が動かすという意味で、マスコミはその大富豪たちが会社を保有している。

つまり、減税するな、という命令を自ら「売り」でやってみせて、これをマスコミが書きたて、それから大勢の一般投資家が「売り」をかけて波状攻撃としたのである。

英国でのこの一連の騒ぎは、世界の各国政府を震撼させた。

コロナで傷んで、エネルギー危機でインフレが拡大し、それがスタグフレーションの景気後退になる時期に、むかしだったら増税をやるバカはいなかった。
もちろん、ちゃんとした経済学者たちが、そんな政治家を阿呆呼ばわりしたはずだ。

しかし、いまはちがう。

なにせ、研究費が、どの国も政府予算に依存するようになったから、まず政府批判をするバカが学者世界からいなくなったのである。
それでもって、どちらの政府も、この時期に増税をやるといっている。

国民はそれでは貧困化するので、なんとかしてくれとなって、減税を要求するばかりか、補助金もほしがる。

ところが、どの国の政府も、財政赤字は世界共通なのである。
これには、はるか以前からのケインズ経済学で、政府の財政支出による「景気対策」が恒常化したことによる。

一応、ケインズ自身は、「不景気のときだけだよ」といったけど、そんな律儀な政治家なんて世界にいない。
だから、なんでもかんでも財政支出の対象にして、役所は肥大化をつづけた。

それが、70年代から80年代にかけての、サッチャーとレーガンによる、「小さな政府」への転換運動だった。
日本では、形だけ中曽根内閣で「第二次臨時行政調査会」なる茶番がおこなわれて、土光敏夫氏がまんまとピエロにされてしまった残念がある。

なお、内閣府が小さな政府と大きな政府について、長い蛇足記事で解説しているから、騙されないように批判的に読まれると参考になる。

つまるところ、いまの苦境は、ほぼ100年前から用意されていて、半世紀前の揺り戻しが成功したら、それからまた元の木阿弥になったのである。
英国はブレアの労働党政権になって、アメリカはクリントンの民主党政権に戻ってしまった。

この流れを無視して、いましかみない。

じっさいに、トラス政権の失敗が日本の与党にどんな恐怖を味あわせたのか?についての情報がないことが、その震撼ぶりをかえって想像させるのである。

「世界政府」という、ついぞこの前なら与太話だった単語が、いまではすっかり正体をあらわして、まだ与太話だというひとの情弱ぶりが心配になるほどに変わった。

トラス女史は、世界政府を甘く見た、としか解釈できない。

もちろん、世界政府は支配者のための団体だから、支配される側のことは知ったこっちゃない当然がある。
世界人類を奴隷にしたいひとたちが主宰者なのだ。

だから、景気後退時に増税をやらせる。
そうでないと、財政破綻させるぞ、という脅しなのである。

しかし、財政破綻して困るのは政府自体であって、国民ではない。
ここに国民が気がつかないように脅すのが、脅迫のコツだ。

いま、日本国債の格付けは「A」(A一個なので「シングルA」という)である。
この下は、「BBB」(B三個なので「トリプルB」という)で、ここまでが「投資適格」の位置づけとなっている。

そのまた下の、「BB」に格付けされたら、大変だ。
これは、「投資不適格」というランクだから、いわゆる「ジャンク」扱いになる。
すると、まともな機関投資家(銀行や生保)は、買えないどころか保持することもできない。

資産内容の健全性が規制されているし、預金者や保険加入者に説明責任が果たせなくなるからである。

なので、日本国債の格付けがどうなるのか?は、政府にとっても国民にとっても大問題になる。
それでもって、政府はその大問題を国民に負担させようと画策するはずだ。

しかし、日本人にとって、国内だけでみれば、あたらしい政府樹立の大チャンスでもある。
いまの政府運営者たちにはお引き取り願えるからである。

ただし、これを救済しようとやってくるのが外国勢力だと厄介だ。
たとえば、隣の大国とか。

どちらにせよ、日本国は、身の丈を忘れて発行しすぎた国債によって破綻するのは、時間の問題になりつつある。
これが、麻薬と麻薬中毒者の末路なのだが、もうだれにも止められない。

それをトラス政権が教えてくれた。
わが国のばあいは、亡国の危機だけど。
日本が日本のまま継続していくことが、困難になってきている。

5月に予定の、広島サミット後に、一つ目の「山」がくると予想している。

神頼みの初詣?

七福神めぐりがいつもの年始の恒例ではあるけれど、今年はなんだか参拝者が多くて、列に並ぶと暗くなる畏れが強くて、参拝を断念して次の目的地に向かうことがいくつかあった。

これでは、七福神にならないけれど、巡っていることで神様にはご勘弁いただきたいと、これまた人間の都合を通しているのは、やっぱり日本人なのである。

西洋や中東の神様は、「唯一絶対神」なので、人間の都合を聞いてくれるような存在ではなく、人智を超えているから、どんな仕打ちを人間がされてもそれを「試練」とするのが正しき解釈となっている。

それで、西洋にも中東にも、「巡礼」はあるけれど、日本の、「お遍路さん」とはちがうし、そもそも一神教だから、「七福神」なる概念もあるわけない。

日本的だった、「聖地巡礼」が、もっと日本的になったのが、「聖地=撮影地」にする変換が成功したことでの、「ロケ地巡礼」が、アニメにも適用される現象となった。

これがまた、日本を飛び出したのは、宮崎駿『千と千尋の神隠し』の、モデル地といわれる台湾の「九份」だ。
台北から電車に乗って、最寄りの駅(瑞芳駅)からはご当地が山の上なのでタクシーを利用してだいたい1時間で到着する。

この駅近くの市場には、食堂もいくつかあって、安くて美味いがあるし、瑞芳駅では売り子が「駅弁」をむかしの日本の日常のように、頸から容器を抱えて売っている。
20年ほどのむかしに購入したときは、1個180円の八角風味鶏そぼろご飯で美味だった。

台湾は自動車は右側通行になったけど、鉄道は日本時代のままで左側通行だ。
日本文化の駅弁があるのも、元日本、の意地なのだろうか?
まだ若い売り子の姐さんは、「ベントー、ベントー」と元気いっぱいに叫んで売っていた。

シベリア出兵以来、日本食なかでも醤油が定着した、ウラジオストックはモスクワ行きシベリア鉄道の出発点だけど、この駅に駅弁はない。

いつの間にかに、そんな台湾にも、「ひとりあたりのGDP」で追い抜かれてしまったわが国は、もう神頼みしかないのか?
韓国にも抜かれていたが、為替のために抜き返し、たぶん今年はまた抜かれる予想になっている。

ぜんぶが政府のせいではないにしろ、日本人が日本政府に経済政策を依存したら、歴史的で奇跡的な成功事例だけの、なんとかのひとつ覚えしかできない、見事な経済政策の失敗(社会主義化を目指しているから、本当は成功しているけど)での体たらくだが、30年経っても間違いに気づかない国民もどうかしている。

台湾と朝鮮半島が、欧米的な植民地でなかったのは、歴史を調べるとわかることだけど、欧米的な植民地だとするGHQの戦後価値観を推すひとたちに都合がわるいから、意識的に積極的に調べることをしないとわからないようにしている。

この意味で、日本の国名は「帝国」であるし、じっさいに天皇を戴く国体としても「帝国」だけれど、欧米的な帝国主義をどこまで模倣したのかは、ものすごく曖昧なのである。

GHQ内で、日本の労働法を作りにやって来たヘレン・ミアーズ女史が書いた、『アメリカの鏡・日本』は、マッカーサーによって日本語版は「発禁」になって、昭和40年代に出版されても、よほどの意識高い系でないと日本人は興味も示さない、という「大衆化」が既にすすんでいた。

「帝国」が面倒なのは、欧米的な帝国主義の具現者で、世界最大の版図をもっていた「英国」は、自ら「帝国を名乗らない」という混乱がある。
つまり、英国は正式に「大英帝国」を名乗ったことはない。
周りが勝手に言うのを、放置しているだけなのである。

その英国は、もう経済がズダズダで、生活苦が産業革命時の状況になりつつある。
このころの様子がわかるのが、名作『エレファントマン』(1980年:日本公開は81年5月)だった。
「I’m a human being!」という叫びから、人権映画だというひとがいる。

わたしは、作品が描く当時の英国の社会常識表現(時代考証)にこそ価値があるとおもっている。
そこにいる、有象無象のひとたちのうごめく様が、およそ先進的ではない動物なのが、これぞ「品も格もない欧米人の姿」だからだ。

エレファントマン役の名優ジョン・ハートは、1984年に『1984』で、主役のウィンストン・スミス役を見事に演じたことでも記憶に残る。

資本主義は人間を幸せにしない、というマルクスの都合のいい表現に、当時が資本主義かどうかを厳格に規定しないでいるから、いまだにこれを信じているひとが多数派で、それを常識人といっているのがテレビ制作者だ。

この映画がみさせる当時のロンドンからは、ただの人間の汚い欲望しかない。
このひとたちは、ヨーロッパ中世の人間のたんなる末裔なのだ。

人権という概念は、啓蒙主義からうまれた。
それこそが、ヨーロッパ中世の批判的思想ではあったけど、政治家を含む一般人はそのまま中世の価値観で20世紀の大戦争をやってきた。

そこにあるのは、今だけカネだけ自分だけ、という、みごとな「大衆」なのである。

その大衆を、どうやってコントロールして奴隷にするのか?が、啓蒙主義が成りの果てにある、共産主義・全体主義だ。

このひとたちは、巨大な富の独占を背景に、自分たちだけは生き残れるとした安全地帯に身を置いて、経済社会の破壊を試みている。
だから、今年以降は、先進国でいつデフォルトが起きても不思議はない。

その準備として、「昆虫食だ」という噴飯のプロパガンダがある。
奴隷は生かさず殺さず、というまさに奴隷貿易時代が再来しそうだ。

ナショナリズム対グローバリズム全体主義とネオコンのミックスが世界の二元論的構図となって、後者を進めれば奴隷化の道、前者を進めればデフォルトの道となっている。

昨年秋にちょっとだけナショナリズムを選んだら、たちまちデフォルトしそうになって、あわてて首相を頸にしてミックスに戻しめたのがいまの英国だ。
MAGA派のアメリカは、これから財政破綻と向き合うことになる。

すると、もっとも脆弱なのが、わが国だとわかるのである。

ただし、デフォルト(財政破綻)を恐れているのは政府だけ、ということに注目すれば、その余波を一般人が喰らうにせよ、永遠に子孫まで奴隷になるよりはマシ、というものだ。

それが、神頼みの初詣になっているなら、まだ大丈夫?
だんだんと、おかしい?と気づいたひとがいるから、と思いたい。

どうか、ロケ地巡礼ではありませんように。