冷たい9℃の雨の中

昨日の3日13時、「初代横浜駅」だった桜木町駅前で予告されていた、「参政党の街頭演説」を観に行ってきた。
満開の桜が散り始めた、「花冷え」が、「寒波」に思えるほどだから、よほどの支持者でないと寒さが身にしみる。

当初30人ばかりの聴衆で、1時間後には40人ばかりになっていた。

オレンジ色のジャンパーを着た若い「党員」さんから、パンフレットを手渡されて、受けとったら「ありがとうございます!」と言われた。
切羽詰まった相形なのは、「もはやこの政党しかない」という思いの凝縮なのだろう。

少ないからわかりやすい、聴衆は、なぜか女性の数が目立った。

この日の「演説」は、松田学氏、赤尾由美氏、それに、横浜市長選を辞退した藤村晃子氏の三名だと事前にアナウンスされていたから、女性が多数だったのかもしれない。

さてそれで、「参政党」である。
この党の結党は、二年前の4月11日で、日本の「憲政史」初の「本格的近代政党」が誕生したのだった。

これまでわが国には、「近代政党」は、二つあった。
それが、「共産党」と「公明党」だ。
しかしながら、これら二党は、「本格」ではなかった。
それは、「党内」での選挙が「ない」という共通があったからである。

裏返せば、「独裁体制」の共通で、「支持者層」の共通もある。
よって、似たものどおしゆえの「憎悪」が両党間にできるのだ。

戦後、政権をほとんどの期間で「独占」してきた、自民党(自由民主党)は、なんと、いまだに「近代政党」の要件を満たしたことは「ない」という驚くべき「非近代」がある。

わが国は、この意味で、決して「近代国家」とはいえない状態の「まま」なのである。
それで、混沌の21世紀になって、ようやく参政党という、本格的近代政党ができて、いよいよ「初の国政選挙」に臨むことになったのである。

なお、「近代政党の成立要件」については、前に書いたが、念のため書き出せば、次の三点である。
・綱領:党綱領
・組織:党員組織があって、公認候補者は党内選挙で党員が選び、党員は選挙活動を党組織を通じて行う。また、党内に政策「原案」を揉むシンクタンクが組織される。
・議員:党組織の決定事項を議会に示す。

自民党が「非近代」なのは、「組織」が党組織ではなくて、議員の「後援会組織」であることが主たる「原因」だ。
それで、自民党は「自分党」の集合体になっている。
これら集合体をつなぐのが、党本部からの「政治資金提供」でしかない。

しかも、党組織が資金提供を決める要件が、本人の用意する資金を担保にするために、立候補者は、はじめから自分で資金を集める能力がないと、そもそも「公認候補」とはなれないのだ。

ここに、「金権政治」となる「非近代」が、「仕組み」として組み込まれているのである。
しかも、自民党はシンクタンク機能を行政側の官僚に「丸投げ」した。
これで政策原案自体が、官僚の作文に依存することになったのである。

地方議員の現職が何人か加わっているので、すでに参政党は全部の要件を満たしている。
しかしながら、「国会議員」がいないのだ。

地方であろうが中央であろうが、「議員」の役割は、まずは「組織の決定」を議会に反映(質問と提案)させることだ。
したがって、「党員」は、党員による決定事項の優先ができない議員を、次期選挙の候補者としないことも決めることができる。

すなわち、いま、参政党は「政策」が既存の他党より「曖昧」にみえるのは、「党組織」を作る作業と並行しているからである。
そのかわり、「結党の目的」や「党の存在理由」といった、「綱領」についての説明が丁寧にされている。

これは、会社組織なら、「経営理念」のことだ。

結党以来2年もかけて、この党は、選挙に立候補者を立てなかった。
それは、「理念」を党員に理解させるための「教育研修」をやっていたからである。
それが、近代政党としての「組織づくり」なのである。

つまり、いま多くの企業経営者たちが「忘れた」か「無視」しているように、「組織をマネジメントする」ための下地づくりにえらくこだわってきたことがわかる。

「無」から、旗を振って人材を集めた、事務局長・神谷宗幣氏の人生経験から得た、「叡智」ともいえるけれども、じつは、「経営者」としての「常識」をセオリー通り「愚直に」実行しているにすぎない。

だから、神谷氏は「社長」としても自身の事業を成功させている。
ちゃんとマネジメントの要諦を心得ている「経済人(エコノミスト)」なのだ。

とはいえ、今回の参議院選挙が終わると、衆参両院の「国政選挙」は当分の時間をあけることが確実な「任期」の組合せになる。
衆議院も昨年に総選挙があったから、およそ3年間は「ない」のだ。

したがって、参政党にとっては、今回が「乾坤一擲」の選挙になる。

このことが、パンフレットを配る「党員」の、切羽詰まった相形になっている。
現状打破のための切羽詰まった感覚と、二重の「崖っぷち感」は、党内勉強会の成果にちがいない。

おそらく、参政党が日の目を見ずに沈むとき、われわれ日本人の命運も尽きる可能性がある。
しかし、この「言い回し」こそが「非近代」なのである。
参政党が勝つか負けるかではなくて、日本人が生き残れるか?の選択なのである。

新党の全国区での当選ラインは、100万票で一議席だ。
日本人が乾坤一擲の「一票」を投じることができるかの、自分の未来=人生を決める、「歴史的真剣勝負」がやってきている。

「皿」の話

ついぞむかしは、近所の商店街にある魚屋でお造りを依頼していた。
そこそこの価値がある大皿が、各家にあったのは、みすぼらしい皿を魚屋にわたして恥ずかしいと、思ったからだった。
魚屋は、その盛り付けを、取りにくるまで店頭で他の客たちに、発注者の名前を書いて見せびらかしていたものだ。

「うちにはろくな皿がないから。あのような(お金持ちの)家なら、すごい皿だよ」と、近所の主婦は語り合っていた。
上に乗っている刺身のクオリティを観察なんかしていない。
知識がなくとも、鑑定士の目で皿を見ていた。

ただし、見えるのは「縁」だけだった。

そんな皿が、ご近所の目に披露されるのは、「お祭り」での神輿の休憩所として提供した路上につくったスペースで、担ぎ手の若衆たちに酒を振る舞うときと、葬式の精進落としだった。

もちろん、自宅での「婚礼」は、「晴れの日」の典型だったけど、都会の狭い家ではどうにもならず、大正期にはとっくに「ホテル」での披露宴が「ふつう」になっていた。

残るは、「盆暮れ」ならぬ、正月やらの親戚を集めた内輪の宴会だけが、お披露目の場になった。

戦後、「三種の神器」といわれたのは、「洗濯機、冷蔵庫、テレビ」だったけど、おなじころに「大皿」を買って、「小皿も揃える」ということもした。

そうやって、ご近所と「横並び」したのである。
これも高度成長のおかげであった。

夜泣きそばのチャルメラ・ラアメンでも、鍋が汚いからと遠慮していたのが、当時の生活感であり、「遠慮=自粛」の行動原理だった。

自分が屋台のオヤジに差し出す、鍋が汚いことを「恥じ」て、お金があって空腹でも注文行動すらしない。
このときの「汚い」とは、決して衛生的に汚いという意味ではなくて、焦げがとれずにボコボコにへこんだ鍋をいうのだ。

衛生をいうならば、屋台のラアメンの方が、よほど衛生的ではなかった。

そんな鍋を、鍋としてまだ使っている自分の生活を「汚い=みすぼらしい」とおもうから、屋台のオヤジにさえ見せることがはばかれた。

すると、ここにあるのは、凄まじい「向上心」なのである。
自分はこんなはずじゃない。
こんな鍋を使いつづけるのは、「本来の」自分ではない。
だから、それがたとえ相手が屋台のオヤジでも、他人には見せたくないのである。

そんなわけだから、夜泣きチャルメラ・ラアメンを買いにでたのは、パジャマ姿の「子供」であったし、家にある「一番いい鍋」を持たせたのである。

さてそれで、買ってきた鍋入りラアメンをどうやって食べたのか?
当時の日本人は、鍋から直接食べることはしなかった。
「犬・猫じゃあるまいし」という矜持があった。
なので、これを、「どんぶり」に移したのである。

麺を「すする」という食べ方は、ズルズルッと音がする。
なので、欧米人はこれをやらないし、あんがいやろうとしてもできない。
しかし、その欧米人が、フォーク・ナイフをつかうようになったのは、「さいきん」のことなのだ。

ずっと、「手づかみ」で食べていた。

イタリアはフィレンツェの大富豪、メディチ家は、ルネサンスの大パトロンとして、芸術家たちを支援していた。
そこのお嬢様が、フランス王家に嫁ぐときの「嫁入り道具」に、フォーク・ナイフがあったので、以来、フランス王家では「手づかみ」をやめたと記録にある。

どういうわけか、日本人には「自分の箸と茶碗」があって、家庭内ならどんなにきれいに洗っても、絶対に自分用以外の家族の箸も茶碗も使わない。
これは、「人類学」で指摘される「珍しい風習」で、世界には日本以外で朝鮮半島の一部地域にしかないものだ。

それだから、日本人が「手づかみ」で食べるのは、珍しい食材か、箸では食べにくい場合に限られる。

もちろん、咀嚼するときにクチャクチャと音を立てるのは、日本人でも嫌うから、子供時分に直さないと、おとなになってから「お里がしれる」大恥をかくことが約束される。

あゝそれなのに、麺「だけ」は、すするのである。

さいきんでは、麺はすすることで「美味しくなる説」がある。
一方で、「ヌードル・ハラスメント」として、不快な気になる日本人もいるらしい。

「美味しくなる説」をもって、日本通の外国人は、「すする練習」をしている。
その反対に、なんでも欧米が優位というひとは、「ハラスメント」をいうのである。

興味深いのは、こうした「かぶれ」が、あんがいといまでも「マイ箸」を携帯していたりする。

それにしても、マイ箸・マイ茶碗はあるのに、マイ皿はない。

これはいったいどうしてなのか?

ご存じの方には是非ともご教示いただきたい。

世界は「虹色」でできている

雨上がりの晴れ間に、太陽の位置とは反対側に現れるのが「虹」である。

ほんとうは、「円形」だけど、地平線が邪魔して「半円形」に見えることの方が多いので、「虹の架け橋」ともいう。

太陽光をプリズムに通すと、「スペクトル」が現れる。
それで、「波長」の短いものが「紫色」で、長いものが「赤色」だから、もっと短いものともっと長くて「見えない光」を、「紫外線」とか「赤外線」と表現することにした。

だから、「外」とは、人間の目で見えない光のことを指して、電波や放射線とおなじになるから「腺」とした。

逆に、見える光を「可視光線」と呼んでいる。
さまざまな「色」は、可視光線が反射して、「視覚」を通じた「脳」が作りだしている。

パソコンの画面の見すぎから発生する、眼精疲労が原因の肩や頸のコリは、画面から発生する「光の波長」が、自然光とはぜんぜんちがう「特定の領域」ばかりなので、人間の視覚と脳がくたびれて、血流が停滞するために起こる、「辛い症状」だ。

その主たる犯人が、「ブルーライト」だとされて、「ブルーライト・カット」という機能性のあるレンズを入れた眼鏡が人気をはくした。
「紫色」の隣あたりになる「青色」のことをいう。

さいきんでは、アメリカの研究で、ブルーライト・カットの「意味なし」が報告されて、なんだか急に価値がなくなった。
しかしながら、被験者が「青い目」のひとにとってなのか、「灰色の目」のひとなのか、それとも「黒い目」のひとなのか?でどう違うのかがわからない。

外国のホテルのロビーや、客室における「照明の照度」は、日本人には「暗い」けど、白人には「ちょうどいい」のである。

年齢と共に、目の方も「老化」して、だんだんと「眩しく」感じるようになるのは、「乱反射する光」を処理できなくなるためだ。
その「波長」が、だいたい「黄色(580nm付近)」にあたるから、このへんを「カット」するレンズの効果は、「くっきり・すっきり」する。

いわゆる「コントラスト(明暗・彩度の差)」がはっきりするのである。

ところで、「580nm付近」という数字は、デジタル風ではあるけれど、だらだらとつながっている。
これが、「アナログ」であって、ラジオ放送もむかしのテレビも「これ」だ。

すなわち、「虹色の延長」にある。

人間という「生体」は、電気信号をもって様々な動きができるようにしているけれど、これもやっぱり「アナログ」なのである。
だから、「アナログ人間」と他人から言われることは、べつだん「ふつう」の人間だということで、むしろ、「デジタル人間」の方が気持ち悪い。

ところが、人間の「思考」となると、様子がちがってくる。

人類最古の経典宗教は、ゾロアスター教だ。
「火を拝む」から、「拝火教」というけれど、他の動物にはなく人類しかコントールできない「火」とは、「暖をとる」以前に、「灯り」を意味する。

それで、「明」と「暗」のコントラストをもって、「善」と「悪」の「二元論」を思いついた。
これはなんと、「デジタル」の発想なのだ。
「ゼロ:0」か「イチ:1」、「マル:◯」か「バツ:✕」。

「ゼレンスキー:◯」、「プーチン:✕」も、おなじ発想だ。

「ゼレンスキー:◯か△」、「プーチン:✕か△」という発想をして、「なんだどっちも△」とすると、なんだか「気持ち悪い」ようになっている。
まったくもって、「イエス or ノー」の選択が「楽」だと、「脳」がその居心地のよさを命じている。

生体としては「アナログ人間」なのに、思考としては「デジタル人間」になる。
これはどうやら、歴史的にも人間の「習性」のようである。

さてそれで、子供の脳は、「あらゆる可能性に満ちている」のに、おとなになると「ほぼ全員が凡人になる」のはどうしたことか?

このときの「あらゆる可能性」とは、「アナログ」の広がりのことをいう。
そうすると、「凡人」とは、「デジタル人間」のことなのだ。
「◯と✕」で判断すれば、たいていが「おなじ答え」になるから、「凡人」になる。

だれが考えついたか知らないけれど、「SDGsバッジ」なるものを襟元に付けているのは、デジタルゆえの「命令」に従ったからだろう。
「着用:◯」、「拒否:✕」なのだ。
しかして、そのデザインは「円形の虹」に見える。

「アナログ」を「二元論」に「変換」して扱っているのだ。
これぞ、人類史の転換だといえる。
「革命的発想の表現」が、このバッジ「デザイン」とその「装着の有・無」で表す「本人意思表示」の「組合せ」なのである。

それで、「多様性」をいいながら、全員をおなじ方向の価値観にせしめるというのは、見事なダブルスタンダードで、目的は「全体主義の世界統一」なのだとわかるのだ。

「人類の普遍的価値観」とは、「やばい」表現である。

だから、「経験者」の旧ソ連・東欧圏が、抵抗勢力として期待できる存在なのだけれども、それを阻止して飲み込もうとしている全体主義の行動が、ウクライナでの闘いになった。

そのウクライナに、ヨーロッパで唯一距離を置くと表明した、ハンガリーの抵抗が、人類の「灯り」になっているのに、ハンガリーのひとびとは気づいているのだろうか?

日本人が応援すべきは、かつての「防共」の仲間にしていまや「唯一」となった、ハンガリーなのである。

クルクルパーの日銀

28日、円が1日で3円も下がって、1ドル=125円をつけた。
これには、日銀が「指し値介入」したという。
つまり、円安をもっともっとと日銀が仕向けているのだ。

経済企画庁の「文豪」と呼ばれた、原田泰氏が、日銀政策委員になって、経済学者出身の岩田規久男副総裁とコンビを組んでいたけれど、「退任後」の言動は、日銀組織における「経済オンチ」の曝露である。

日銀は、経済学を無視できるほど、経済の専門家はいない、と。

それに、プロパガンダの達人である城山三郎すら、日銀の体質を「御殿女中」としつこく書いたように、つまり、面白おかしく伝わる「江戸城大奥」の人間模様をもって表現された、浅はかなる嫉妬の世界が、そのまま現状もおなじと言っている。

男女のちがいを認めずに、「おなじ」だというひとたちは横にして、女の嫉妬と男の嫉妬を比べると、その陰湿さで女の比ではないのが、男のそれだ。

たとえば、「大奥」では、リンチが行われていた。
「水攻め」からなにから、ときには相手を死に至らしめることもあったそうな。

しかしながら、企業組織内で行われる、男の嫉妬からのリンチは、こんなものではない。
それは、「社会的抹殺」という、読んで字のごとくの「陰湿さ」で、いわゆる「窓際」に置くのである。

そしてそれが、一生つづく。

むかしなら、まだ「定年退職」ができた。
いまは、「再雇用」がだんだん義務化されてきて、それが、「定年延長」から、ほんとうの「終身雇用」になりつつある。
しかし、定年後の悠々自適なんて絵に描いた餅なので、70歳を過ぎても、会社にしがみつかないと生活できない。

しかも、年収にして半分になるのは、「楽な仕事」になるからではない。

これはもう、「奴隷制」なのである。
では、どうして「こうなった」かといえば、「公」に疑問なく依存したからである。
それが、「公的年金」という、とっくに破たんした制度をいう。

公的年金の「掛金」は、民間の年金保険の「掛金」とちがって、「積立金ではない」けれど、この「積立金ではない」ことが、いまだに「ドヤ顔」でいえるほど、知らないひとがたくさんいるのだ。

ではどうやって年金を受けとっているのかといえば、いま「掛金」を払っている分をもらっている。
だから、「掛金」を払うひとが増えれば、受けとるひとは安泰だ。
ところがとっくに、「掛金」を払うひとよりもらうひとの方が増えた。

かんたんにいえば、「公的年金」とは、「公的ネズミ講」なのである。

だから、もうすぐ「そんなものは払わない」という若いひとたちが出てきたら、完全に破たんする。
しかし、そうはならないのは、上からの命令に「従順」な「人間教育」をしているからと、年金を払わなくても「税金」を獲られるからである。

わが国は、「五公五民」の江戸時代にカムバックした。
でも、財務省のポチの自民党政権は、これから「六公四民」の大重税国家(公的社会保障と公共料金やガソリン代などの国民負担)を目指すにちがいない。

江戸時代なら、とっくに一揆が起きる「重税」だけど、死を決して民を救おうとする指導者が先に絶えた。
高貴なる真の「エリート」を、駆逐し絶滅させたのが偏差値教育の成果だ。

さてそれで、わが国は世界で唯一「デフレ」の状態にある国だ。
デフレとは、モノと通貨の価値が均衡しないで、通貨の価値が高くなる状態をいう。
だから、お札をたくさん印刷して、モノと均衡させようと「金融緩和」するのである。

ところが、わが国では、「平成」からずっと金融緩和している。
日銀が刷ったお札は確実に増えているのに、国民の財布や口座のお金は減っている。

ならば、どこに行ったのか?

日銀が刷ったお札を大量に持っているのが、日銀なのだ。
民間の銀行やらにお金を渡しても、「借り手がいない」ということになっている。

お金を集めて起業したかったり、事業を拡大したいひとが「いない」のか?といえば、ぜんぜんそんなことはない。
むしろ、「クラウドファンディング」は、真っ盛りなのだ。

つまり、「貸し方」のルールが古すぎるから、銀行からお金を借りるひとがいなくなったのである。
銀行業は「貸金業」だから、商売あがったりで困って、預金者に金利を払う資金稼ぎに、「国債」を大量に購入した。

そしたら、それを日銀が強制買い上げして、「当座預金」にされてしまった。
当座預金には利子がつかないので、銀行経営がにっちもさっちもいかなくなった。

経済を人間の身体に置き換えたら、「おカネ」は「血液」に相当する。
その「血の巡り」を、日銀が停滞させているのだ。
そして、貸金業のルールを決めるのが「頭取」ではなくなって、「金融庁」になったから、銀行は経営者が経営を決める組織ではなくなった。

すると、銀行員はなんのために出世競争をするのかといえば、経営責任を取らないのに高額の役員報酬が得られる、というインセンティブしかない。
しかし、究極的には「儲からない」ので、将来もずっと高額な報酬を得るとは限らない。

なのでやっぱり、「御殿女中」化するメカニズムが働く。
こうして、日銀の体質が、民間銀行に「伝染する」のである。

それでもって、「デフレ脱却」できれば、もうなんでもいい。
もはや「最長」となる任期の長さだけでは、黒田総裁のメンツは保てない。
しからば、石油が高騰していて円安にすれば「インフレ」になるにちがいない、と、中学生でもわかることをやっている。

しかしその本音とは、外国人投資家に日本を安く買わせてあげる、という「大バーゲンセール」なのだ。

もはや、クルクルパーとしか言いようがない。
「戦後レジーム」という、自民党体制の疲弊がここにも出ている。

「ドラマ劇場爆破」のドラマ

ロシア軍がウクライナで一般市民を殺戮している。

こうした「報道」が、波状的にやってきて、人間の記憶に刷り込むことで、「洗脳」を完成するのは、ナチスの天才、ヨーゼフ・ゲッベルスの「宣伝手法」であった。

これは、「人間の感情」のなかの「憎しみ」を刺戟する。
人間は、相手に憎しみを感じると、自己防衛本能がはたらいて、相手に対して容赦ない攻撃をすることに「正義」すら感じる「習性」があるのである。

古代ギリシア以来、ヨーロッパの「伝統」は、「理性」をもって思考することにこだわってきたのは、狭いエリアに異民族がひしめいて暮らすので、戦争が絶えないことを「意識した」ゆえのことであった。

都市国家(ポリス)間の戦争でも、いったん勝敗が決まれば、勝者は敗者を「奴隷」にした。
しかも、1割の市民に9割の奴隷が働いて、「市民生活」を支えたので、市民は遊んで暮らすことができた。

その暇人になった「市民」が、広場で「議論」という暇つぶしをすることで、ギリシア哲学ができて、「理性」を訴えたのである。
つまるところ、憎しみという「本音」をオブラートに包んだのが、理性であった。

すると、理性をもって憎しみを煽ることが、人間集団をある一定の方向の「思考」に誘導することができる。
こうして、ヨーロッパの支配者は、「統治」のための「原理」を得たのである。

それでできたのが、「憎しみ=憎悪」と「恐怖」の組合せだ。

そして、「恐怖」には、肉体的な苦痛だけでなく、人間が社会的動物ゆえの「社会からの分断」という「精神的苦痛」への恐怖の方が、はるかに「効果的」であることに気づいたら、そこを「宣伝」することで「正義化」すれば、かんたんに集団を制御できることもわかったのである。

ローマ・カソリック教会がやった、支配の構造がこれだ。
日本人は、「村八分」を考案して、それが現代の「いじめ」に発展した。
子供ですら、クラスメイトから無視されつづけたら「耐えられなくなる」のである。

現代社会の「社会的病」が深刻になったのは、「報道」が「カネ」で創作される時代になったからである。
いわゆる「やらせ」の、大規模化である。

これをやるのが、「クライシス・アクター」という。

むかしはなかったのに、いまは「当たり前」になってきたのは、ひとびとの「道徳・倫理」が希薄になったということが原因なだけでなく、むしろ、むかしなら「バカげたこと」として相手にしなかったことまで「買える」ようになったことがより強い原因なのである。

つまり、「そんなことにカネを出せるひとがいる」というほどの、「財力」が、制作者たちを丸ごと雇って、「作品」ならぬ「プロパガンダ」を垂れ流すことができるようになったのだ。

ナチスが国家丸抱えでやったことを、「個人」でもできるようになった。
「格差」が、ここまできたのである。

さらに、「報道映像」に、「戦争映画」の戦闘場面がちゃっかり「挿入」されることも起きていて、ポカンとした緩慢な神経で無防備に視聴している者に、冷静さを失わせる方法で刷り込むことを、「大手マスメディア」がニュースとして放送している。

以前なら、嫌々でも「訂正」やら「謝罪」の放送をちょこっとして誤魔化していたけれど、いまでは、ネットで流れる「証拠」を無視して、だんまりを決め込んで、「なかったこと」にしているのである。

だから、ネットも玉石混交だが、地上波も「追いついて」玉石混交にしている。
観る側の「リテラシー」が問われることになった「わけ」がここにある。

すると、視聴者が「判断するための情報提供」が必要なのは、むかしよりもはるかに重要になっているのだけれども、それが、「ない」ために、一方的な情報を疑う、という作業を、視聴者がしないといけない「面倒な時代」になってしまったのである。

それで、こうした「我慢大会」にがまんできなくなって、安易に走って報道を「鵜呑みにする」ことが多数になれば、間違いなく「予定通り」の支配が完成するのである。

だから、「ささやかな抵抗」ではなくて、根気はいるけど、個人の「生存」にかかわる「重要な抵抗」なのだ。

そんなわけで、ウクライナはクリミア半島の東部「アゾフ海」の港町、マリウポリの「ドラマ劇場」へのミサイル爆撃のニュースが話題になっている。

黒海という地中海には、「アゾフ海」と呼ばれる海域があって、このマリウポリこそが、ネオナチの「アゾフ大隊の拠点」として知られるところだ。
それで、ロシア軍から身を守るために一般市民が避難所とした劇場を、ロシア軍がミサイル攻撃した、という。

しかし、いま、この劇場の「爆破」は、アゾフ大隊の自作自演だという証言が近隣住民からでてきて、飛行機もミサイルも「見た者はいない」ということが流れている。
ロシア軍は一般人の避難を促したが、それを阻止したのがアゾフ大隊だというのは、「人間の盾」とするためだ、と。

目的のために手段を「選ぶ」日本人からしたら、まったく信じられないが、目的のためなら味方を攻撃するのも辞さないし、プロパガンダのための「映画」をニュースにする、まことにヨーロッパ的な「欺瞞」が、ふつうにあることも「常識」として知っていないと「欺される」のである。

それで、どっちが正しいのか?
よくわからない、というのが、はるか遠くにある日本の「現状」なのだ。

親「ナチス」の譜系

1940年9月、「日独伊三国同盟」がベルリンで調印された。

その3年前、日・独・伊「防共協定」は、ローマで調印されている。
しかし、とっ始めとなった「日・独」防共協定は、さらに1年さかのぼる1936年のことだった。

「防共協定」は、1939年にわが国「傀儡」の満州国のみならず、ハンガリーとスペインも「参加」して、6ヵ国協定になっていたのである。

それから、独ソ戦(1941年5月)がはじまると、当時は王国だったブルガリア、ルーマニア、いまでも王国のデンマーク、それに、スロバキア、クロアチア、フィンランド、中華民国南京政府(汪兆銘政権)も加盟して、13ヵ国もの協定に発展したのである。

当時の「防共」とは、唯一の共産国家「ソ連」包囲網のことである。
これがいまの「対ロシア包囲網」となにがちがうのか?

これら「防共」を意識した国々は、「戦後」、一部を除いて多くが「ソ連圏=共産圏」に組み込まれたのは、「偶然」か?
いまは、フィンランドや中国、日本を除く国々が、NATOに加盟している。

なお、フィンランドは、「フィンランド化」という言葉もあったように、「緩衝地帯」としての「中立」を「強制」されていまに至っている。
これを、日本は「自発的」にやれ、とアジったのが、売国奴と定義して差し支えのない、加藤周一だった。

しかしながら、加藤の目線がどこにあったのか?をかんがえたとき、ソ連にならず、ソ連の属国になれとも直接言わず、「フィンランド」をあげたのは、むしろ「防共」なのだ、ともいえまいか?

その「防共」の原点が、「ナチズム」であり「ファシズム」であるから、「同類」のスターリンに「国を差し出す」という、売国になる、と一周して帰ってくる。

この「ややこしさ」を解きほぐすことをしないと、加藤ら売国奴の思考構造が見えてこない。

「とっ始め」の日独防共協定を結んだ日本側は、広田弘毅内閣だった。
このひとは、職業外交官で、2・26事件後に内閣を引き継いで、前内閣の外務大臣から首相になったが、引き続き外務大臣も「兼務」した。

のちの東京裁判で、「文官として唯ひとり死刑」になったことを、英雄扱いした「ドラマ」として、テレビ朝日開局50周年記念で放送した。
それが、プロパガンダの達人、城山三郎の『落日燃ゆ』であった。

もちろんこのブログでは、東京裁判の茶番を前提にしているけれど、広田内閣のもう一つの「功績」は、軍部大臣現役武官制を「復活」させたことにある。
このことが、後の軍部による内閣乗っ取りの原因になったのだ。

「復活」ならば、だれかが「止めた」。

それが、自身も海軍大将の山本権兵衛内閣総理大臣と木越安綱陸軍大臣(中将)が「断行した」もので、軍部大臣武官制は残したが、「現役」を排除して「退役将官から選ぶこと」としたのであった。
ときに、大正13年(1924年)のことである。

なお、木越中将は、自身も「現役」中将であったことから、定年前にもかかわらず「退役」した、「武士」であった。

そんなわけで、広田の内閣は、内政・外交ともに、国民には「やばい」決定どころか、「致命的なエラー」を「確信的に」実施したのである。
なので、東京裁判が日本人によるものならば、「唯一死罪」となっても致し方のない人物が、広田弘毅なのだ。

とはいえ、広田「だけ」を問題にしてはならないのは、「国会」があるからである。
その国会は、ついに、「反軍演説」をやった、斎藤隆夫を「除名」して、とうとう「議会の自殺」をしたけれど、支えたのは「国民世論」であった。

それでも、いまだに「経済小説作家」として人気がある城山がもてはやされることをいいことに、広田弘毅を祭りあげることとは、なにを意味するのか?

その根源は、グローバリズムゆえのナチス礼賛なのである。

なんども書くが、共産主義が全体主義を招くのは、自由を認めないからである。
このときの「自由」とは、他人から命令されないという意味の自由であって、好き放題の自由ではない。

すると、本質的にナチズムが全体主義になることと、共産主義とは「同根」にあるのだ。
だから、ナチが「右」で、共産主義が「左」の真反対なのではない。
「おなじ」なのである。

さて、ぜんぜん「戦争」を反省しない、という見事な思考停止をしているけれど、戦争を「憎む」という「感情コントール」だけはしっかりとあるのも、人類史ではめったにない、「完全思考停止」をなしとげた日本人の集団主義なのである。

この期に及んで、まだマスク着用をやめない「同調圧力」ばかりか、ウレタンマスクはダメで、不織布マスクにせよと命じられることに、なんら疑問を感じないごとくの「思考停止」も、まったくおなじ「思考メカニズム」である。

これは、「一律化」を仕込む「初等教育」のなせる技なのだ。
なので、日本人は早くも中学・高校生で、他人とおなじことに安心感を得るようになっている。
これを誤魔化すために、「個性の重視」なる言葉だけのダブルスタンダードを言うのだ。

大衆迎合を党是とする自民党は、城山などのプロパガンダに迎合して、広田弘毅を崇めるから、どうにもこうにもウクライナを一方的に支持することになったのである。

しかして、そのウクライナの現政権は、ナチスの「本体」であることを、外務省官僚が知らないはずがない。
つまり、日本政府とナチスによる、「防共」ならぬ、「防ロシア」協定が、国民にはわからないうちに結ばれているのだ。

ゆえに、「国会」が、ウクライナの言い分だけを聞くことに、なんら疑問を感じないばかりか、「感動した」という感想だけが漏れてくる。
行政をやる政府を牛耳るのが国会だから、わが国は「先祖帰り」して、岸田内閣ばかりか、国会までもが「親ナチス」に染まったのである。

夏の参議院選挙の後は、国政選挙がない、「白紙の3年間」が約束されている。

いよいよ「全体主義」が現実となる3年間となる。
国民生活を貶める、数々の「負担の強制」が「自然」とやってくる。

それが、ナチスを支持することに違和感がないようにする、わが国の学校教育と、生涯教育によってつくられた、国民の「総意」なのである。

ロシアのNATO加盟申請

2000年、ロシアを訪問したクリントン大統領に、NATO(北大西洋条約機構)加盟を打診したことを、21日、産経新聞特派員がモスクワのテレビニュースでのプーチン氏の演説として報告した。

2003年、米露首脳会談で、ブッシュ(息子)米大統領も「非公式かつ極秘裏」に、NATO加盟をプーチン大統領に求め、さらに、「ロシアは2、3年以内にNATOの正規加盟国になるかもしれない」と、10月にロシアを訪問したロバートソンNATO事務総長の発言があると、『フォーサイト2003年12月号』にある。

つまり、ロシア側からの加盟打診があって、その後にアメリカが誘い、NATO事務総長もロシアが正規加盟国になる可能性について言及しているのだ。
少なくとも、全部で3回あった、ということだ。

これは一体どういうことか?

本稿冒頭のプーチン氏のテレビ演説では、「初めて明かす」と発言したとあるから、時系列での「言いだしっぺ」は、ロシア側にあったということになる。
それから、アメリカが誘ったのに、どうして加盟できなかったのか?

『フォーサイト』は、同号で、ロシア政権内の「反対」だと書いている。

すると、プーチン氏は、少なくとも2000年時点で、ぜんぜん「独裁者」ではない。
しかも反対したのは、イワノフ国防相だと同記事で名指ししている。
ちなみに、ロシア史上初の「文官」で国防相になった人物だ。

このひとは、2005年に副首相に昇格し、メドベージェフ大統領・プーチン首相の時代も副首相、大統領府長官を歴任し、いまでも大統領特別代表という重職にある。

すなわち、プーチン氏のブレーンのひとりであることは間違いない。
それで、プーチン氏が、イワノフ氏の意見をきいた、という意味でのNATO加盟断念だとすれば、ロシア側の辻褄があうのである。

一方で、NATO側も、ロシアの加盟を「歓迎」する「節」もある。

この2003年時点で、軍産複合体はブッシュ氏を通じて、ロシアを「取り込む」作戦だったのだろう。
すなわち、ソ連時代からのロシア内軍事産業「潰し」が目的だとかんがえられる。

エネルギーや鉄鋼資源などの鉱業、それに宇宙産業を含む軍事産業ぐらい「しか」主たる産業がないのが、ロシアの実情だ。

ゴルバチョフ氏から、前職の、エリツィン氏が推進した、グローバル化で、米英を中心とした「国際資本」がロシアを「食い物」にしはじめたのを「阻止」するのが、歴史的な役割としてプーチン氏が登場した理由なのだ。

つまり、プーチン氏は、いまや世界で「希少種」にあたる、「ナショナリスト」なのである。
トランプ氏と「馬が合う」のは、「アメリカ・ファースト」をいう、ナショナリスト同士だからだ。

しかしながら、ナショナリストは、グローバリストからみたら「敵」にすぎないので、徹底的に潰す、という行動パターンをとられて、「命を失う」ことになる「法則」が働く。

その例が、イラクのフセイン氏であり、リビアのカダフィー氏だった。

フセイン氏を葬ったのは、ブッシュ(息子)で、カダフィー氏を葬ったのは、オバマ・ヒラリー両氏であった。
表面上は共和党(主流派)と民主党という「対極」に見えるけど、どちらも軍産複合体の代理人である。

石油輸出でサウジを抜いて、天然ガスでは圧倒的なシェアのロシアは、OPECに加盟しないで、独自の販売をしている。
実は、フセイン氏もカダフィー氏も、自国の石油を「自前」にして、国際石油資本(いまは6社)を、追い出した張本人たちだ。

トランプ氏も、シェールオイルの開発をして、アメリカを石油純輸出国にさせることで、OPECのカルテル:価格調整機能を弱体化させた。
このことで、中東からアメリカ軍を引かせて、アラブ諸国が宿敵イスラエルと歴史的な「和平」を結ぶことになったのである。

これは、「ナショナリズム」による「均衡」が、じつは人類に平和をもたらすことを示しているのである。
それはいわば、「個人主義」が原点にある。

個人の勝手気ままが、個人主義だと定義してはいけない。
「個」を絶対視する故に、「相手」の「個」も絶対視するのが、「個人主義」の定義なのだ。
これを、「お互い様」という。

フセイン氏やカダフィー氏が何者かを知っている「はず」と思われた、カイロ大学社会学部卒業の小池百合子氏がいう、「都民ファースト」とは、本来この意味の「はず」だったけど、「個人の勝手気まま」の、「自分ファースト」だったことがばれて、呆れるばかりなのである。

じつは、「個人の勝手気まま=自分ファースト」は、「利他主義」を意味するのだ。
一見ややこしいが、単純なことである。

権力者の権力をもって、他人に強制するときに、「みんなのため」をいえば済むことを思い出せばいいのだ。
「利他主義」には、「無限大の自己犠牲を要求すること」が内包されている。

それがついに、「みんなのためなら死ぬ」ところまで、「他人から」要求されるのである。
これが、「全体主義の恐怖」だ。

しかして、プーチン氏はNATO加盟に積極的ではあったけど、今となっては残念な結果になっている。
しかし、これは、ロシアの判断「だけ」が問題なのか?

ロシアの資源を、ナショナリストから取り戻したら、NATOに入れてやるよ、というのが、グローバリストたちの「本音」にちがいない。

それを、ウクライナでやっている。

ソロス氏への逮捕状?

25日、ロシア政府がアメリカの「大富豪」にして「活動家」、ジョージ・ソロス氏の逮捕状を出したとニュースになっている。
残念ながら、その「真偽の程は定かではない」のは、伝聞記事ばかりだからだ。

「一応」、逮捕状の罪状は、「ウクライナでの戦争の主たる推進者」となっている、らしい。
ついでに、中国政府は、氏を「世界的なテロリスト」と認定している、とも「流れている」らしい。

中国政府の話の方は、なんとなくでも察しがつくのは、ソロス氏自身が大手メディアで「習政権批判」どころか、「名指し」して大批判を繰り広げた「実績」があるからだ。

すなわち、ソロス氏が批判したのは、「国際金融資本」家として、「儲からない」ことへの不満の爆発だった。
これは、「江沢民・胡錦濤時代」が、「儲かった」ということへの当てつけだと解されている。

鄧小平・江沢民・胡錦濤の流れは、「改革・開放政策」というグローバリズムを基本として「大発展」したけれど、毛沢東を拝する現トップは、むしろナショナリストの色合いが濃い。

ただし、「共産主義」という思想は、グローバリズムを根源とするので、習氏を「ナショナリスト」と決めつけることはできない。

ここが、真性ナショナリストのプーチン氏との「決定的なちがい」なのである。

「大航海時代」から、「掠奪」や「収奪」というキーワードにおいて、グローバリズムが誕生した。
その「覇者」が、大英帝国を筆頭にした「欧州列強」であった。

なので、現代のグローバリズムの本家本元は、英・仏・蘭にある。

嘉永・安政の「不平等条約」とは、わが国が「植民地」になったことを表すけれど、武士の国を武力制圧することをあきらめたので、「半・植民地」で済んだラッキーがあったのがわが国であった。
しかも、半世紀もしないで「平等条約」に変更させたのは、明治人たちの「偉業」なのである。

よって、わが国は、「独立国」として、アジア唯一になったのだ。

そのわが国がつまずいたのは、「満州国」の独り占めだった。
とにかく、「掠奪」を正義とする、「欧米列強」とは、獲物の取り分についても、犬のように「上下関係」をルールとするのだ。

ここに、欧米人の真似っこをした、当時の日本人は「平等国:独立国」という「正義」でもって、欲深い白人たちと「同列」を演じてしまった。
当時、「独立国」こそ、珍しかったから、いまの価値観で語ってはいけない。

それで、「横取りの理屈づくり」を「目的」に、リットン調査団がやってきて、書いたのが、『リットン報告書』だったのである。
わが国では、あたかも、この報告書が「満州国の否定」という「正義」をかざされて、頭に血が上って「国際連盟脱退」という「暴挙」をしたことになっている。

しかしながら、この「報告書」には、「欧米列強に分け前をよこせ」と書いてあったのである。
その理屈は、「おいおい日本だって仲間にしてやったろう」、だから、「兄貴分の俺たちに半分ぐらいくれたっていいじゃないか、ケチはやめろ」だ。

それで、「冗談じゃない、人種差別が当たり前のお前らなんかが仲間でなんてあるものか!」と逆上して、国際連盟を脱退したのである。
だから、日本人が「逆上した」ことは、確かである。

退場するときの松岡外相の姿は、なんだか彼女を振ったときの純情高校男子のような風情なのである。

以来、(白人支配の)「連盟」というメンバー限定会員制クラブの仲間を裏切った「抜け忍」として、とうとう「ハル・ノート」を突きつけられるまでの「集団制裁・リンチ」を受けることになって、「敗戦」したら、国家が溶解するまでしゃぶりつくされている。

日本人は白人ではないけれど、アパルトヘイトで有名だった南アフリカ(=大英帝国)では、唯一、「名誉白人」という立ち位置にいたのが、日本人であった。
これが、「連盟」における当時の立ち位置の「名残」であった。

さて、なにかと話題のソロス氏だけれど、財力にものを言わせた、しかも、「サヨク支援専門」という、なんともわかりやすい使い途を曲げないことは確かな御仁ではある。

しかし、個人の財力とはいえ、さまざまな国家を相手に画策するのは、「白人」がもっている、自己都合の極地である「掠奪」のためだという、「伝統的」な発想をしているのだ。
要は、「投資」なのである。

このひとは、ハンガリー生まれ(1930年)のユダヤ人である。
「活動の拠点」は、「オープン・ソサエティ財団 (Open Society Foundations)」だ。

冒頭の「逮捕状」は、いまのところ「うわさ話」であるけれど、「本国」のハンガリー国会は、2018年6月20日に、不法移民への支援を禁止する、通称「ストップ・ソロス法」を賛成160、反対18で可決している。
違反した個人や団体に刑事罰を科すようにするとした。

この前の4月に、ハンガリー国会は、総選挙を実施していて、その「争点」となった「法案」なのである。
国民の多数が、「国家の破壊」を画策する、ソロス氏に反発した結果でもある。

このときからの首相である、ビクトル・オルバン氏は、25日、ウクライナのゼレンスキー氏がEUに求めていた軍事支援について、ハンガリーはこれを拒否した。
旧東欧圏の仲間が、もはや一枚岩ではないことを示すばかりか、ウクライナの「実態」を知っている証左でもあろう。

バイデン一家の汚職がだんだんと明らかになってきた話題のウクライナでは、ソロス氏との繋がりも疑われ出した。
そうなると、アメリカでも「逮捕状」がでるかもしれない。

90歳の大富豪の末路は、刑務所かもしれない。

「お役所化」する「お役所」

むかしから「お役所仕事」とは、ほとんどのひとが辟易する「世界標準」で、辞書には、形式的で、時間がかかり、実効のあがらない仕事ぶり、とある。

本稿は、神奈川県警察のはなしである。

警察「行政」の、「受付時間」がしらないうちに変更になっていた。
以前は、08:30~17:00で、原則として「昼休み」もなかった。
だから、敷地に併設していて「証紙」を売っている「交通安全協会」の窓口が、昼休みに閉まることを不思議におもっていた。

「本官」は、ずっと働いていて、昼食も「自席」で弁当を食べていた。
しかし、「外郭団体?」ともいえる下部組織が、正々堂々と窓口を閉じることに躊躇がなかったからである。

もちろん、「本官」といえども人間なので、休憩時間は必要だし、できれば食堂で食べたいだろう。
しかし、神奈川県の各警察署には、食堂はない。
このことを無視して、以下を語るものではない。

今般、変更になったのは、09:00~12:00、13:00~16:00、である。
「張り紙」には、「6月1日から」とあるのに、もうはじまっている。
警察官は、日本語がわからないらしい。

本官に理由を尋ねたら、コロナ対策とかもあるそうです、とのことだった。
別に、この本官に文句をいってもせんないけれど、「密にしないで分散させる」なら、「時短」では逆だろう。
なぜなら、警察行政に用事がある人の数は、窓口時間の長短とは関係ないからである。

勝手に警察組織内のことを慮れば、「人手不足」があげられる。
それに、職員の休憩時間の確保、ということもあるだろう。
ただし、職員の休憩時間の確保なら、ずっと前からあった問題なので、えらいひとがとうとう「手を打った」ということかもしれない。

ならば、この「えらいひと」とは誰か?

神奈川県警察のトップは、「本部長」だとおもうひとが多数なのは承知しているが、まず警察庁の課長クラスがやってくる「ポスト」なのである。
これは、「全国一律」の「人事制度」である。

けれども、国家公務員上級職の採用で、警察官僚になったひとの「席次」では、人口のたくさんいる道府県で、かつ、重要度順に配置するのは、人事担当者がかんがえる「常識」だから、おなじ「本部長」でも「序列」ができるのは当然である。

それに、役人は、序列社会に棲息している動物なので、入省年次を基礎にして、等級と号俸で詳細な序列を形成する。
これをいつも意識しているので、群れ社会を形成する「犬」の習性とほとんどおなじなのである。

こうした、役人の給与制度・体系を真似ている民間企業はたくさんある。
大企業ほどそうなるのは、「公平性」という名の下の、文句をいわせないためでもある。

ところで、日本の警察組織は、地方警察、という建前があるから、国家から「派遣」されてくる「本部長」は、「お客さん」になる。
それだから、真の実力者は、「次長」になるのである。
この立場のひとは、地方公務員としてのトップにあたる。

すると、その本質は、神奈川県職員、なのだ。
そんなわけで、「本部長」は、国家公務員だけれども、「神奈川県職員」としてやってくるという「建て付け」になっている。

つまり、神奈川県警察は、神奈川県庁の配下にある。
これは、「全国一律」のことなのだ。

では、神奈川県の責任者は誰なのか?

わが国の地方行政は、「二元制」という、これも「建て付け」になっている。
・知事
・議長(議会の長) だ。

明治憲法下の知事は、「官選」だった。
つまり、内務省の役人が、知事としてやってきた。
神奈川県に縁もゆかりもないひとたちが、知事として「君臨」できたのは、当初「武士」だったひとたちが、「殿様」になったからである。

もちろん彼らが「殿様」になれたのは、神奈川県民が「殿様」だと思っていたからだ。
しかし、もっといえば、県議会が殿様を牽制することの意味があったから、県会議員選挙では、熾烈な闘いがあったのである。

それでもって、戦後、民主化の美名の下に、知事も選挙で選ぶことになった。
すると、議会与党の推薦するひとが知事になる可能性が高まるので、知事と議会の結合ができる。

しかも、わが国の地方議会はぜんぶ、外国でいうところの「下院:衆議院」だけの「一院制」だから、この議会を牽制する「上院:参議院」がない。

そんなわけで、「知事が殿様」になれる仕組みができたのである。

本来の民主主義ならば、知事や議員は「有権者:県民」に「奉仕する」ために存在するのだけれども、「殿様」は、自分の一家のためにするのが「本業」なので、どうしても「有権者:県民」のプライオリティが「下がる」ことになる。

そんな理由から、警察が決めた「営業時間」を、黙認することが可能となるのである。

接客をする民間企業で、営業時間を変更することは、取締役会あるいは常務会などの責任あるひとたちによる「決議」が必要な、重要事項である。
「サービス供給」の「根幹」をなすのが、営業時間だからである。

こうしたことに、「異議」をとなえる「県会議員」がいないことは、県知事への絶望以上の絶望なのである。

しかして、これも「全国一律」になったから、神奈川県からの脱出も意味がない。

わが国には、「善政競争」をやりえる可能性もなくなったのか?
そんなはずはない、と悪あがきしたいのである。

「戦争」には「目的」がある

人類の歴史は、戦争の歴史だといわれて、これを否定できない数の戦争をしてきた。

なので、「ふつうの教育」をする「ふつうの国」なら、「戦争」も重要なカリキュラムにするのが「ふつう」なのである。

しかし、敗戦後の日本は、「ふつう」であることが戦勝国たちから許されず、いつまでたっても「異常」を「ふつう」にする、「変態国家」として存続している。

この「変態状態」から再定義したら、日本は「国」の定義にあてはまらないのである。
それで、「エセ国家」という評価があるのは、納得できることである。

一応、「自治的政府がある地域」となる。

「一応」が付くのは、「自治的」の「的」とおなじで、「それっぽい」という意味である。
これが、「官僚」が支配できることの「理由」なのだ。

人間が命を賭けて暴力沙汰に及ぶには、それなりの「理由」があってのことである。
江戸時代なら、「一揆」を起こせば、「首謀者」は確実に死罪となることは、はじめからわかっている。

わかっているのに、首謀者となるのは、死んでもいい、という意味ではなくて、「もう死んでいる」のである。
もう死んだ自分が、それでもやるのは、「理由」があるからだ。
逆に、理由がないなら一揆をやるものはひとりもいない。

こんなことは、当たり前のことだけど、日本人は「先の戦争をやった理由をしらない」で、「わるいことだった」と思っている。
「理由を教えてはならない」ことと、「わるいことだった」ことを、同時にやって、ついでに「江戸幕府」はわるい奴らだったと教えるのである。

しかしながら、どういうわけか世界中で、戦争の理由をかんがえないでいることが「ふつう」になった。
むしろ、いつも戦争をやってきた、イスラエルのひとたちが欺されないのは、理由がない戦争なんて「あり得ない」ことを、命を賭けて知っているからだ。

ロシアの言い分がわかりにくいのは、ロシアの言い分をぜんぜん報じない、「大本営発表」を、西側世界全部でやっているために、長崎の出島以下の情報量になってしまったからである。

しかし、人の口に戸は立てられぬ状態で、上手の手から水が漏るように、少しずつ見えてきた。

いまわかっているロシアの戦争(「特別軍事行動」と言っている)目的は、三つある。
1.ウクライナによるロシア系住民の殺戮阻止と東部独立
2.ウクライナの「ナチス政権打倒」のためのキエフ陥落
以上は、これまでの「報道」である。

しかし、ここにきて、
3.ウクライナ国内10箇所以上(12箇所ともいう)の「生物化学兵器研究所」の破壊あるいは、危険物質の安全な廃棄
が加わった。

すると、「優先順位」としては、
1.ウクライナによるロシア系住民の殺戮阻止と東部独立
2.ウクライナ国内10箇所以上の「生物化学兵器研究所」の破壊あるいは、危険物質の安全な廃棄
3.ウクライナの「ナチス政権打倒」
ではないか?

「キエフ陥落」を抜いたのは、キエフが世界遺産になっているからで、しかもその核心的遺産とは、「ロシア正教の総本山」なのだ。
なにしろ、プーチン氏は、ロシア正教の敬虔な信者として知られるひとだから、破壊は避けたいとかんがえていないか?

「生物化学兵器研究所」は、ウクライナ側は「生物学研究所」と言っている。
しかし、「元ソ連」だったウクライナの、国家機密にあたる「生物化学兵器研究」については、「元KGB」のプーチン氏が知るところだろう。

プーチン氏は、10年以上前から、ウクライナにおけるアメリカの援助をもってする「研究」をやめるように何回も発言してきた。
なお、在ウクライナアメリカ大使館のHPにあった、生物学研究所における研究情報は、ロシア軍侵攻によってすぐに「削除」されている。

前にも書いたように、ソ連が崩壊したときのどさくさに紛れて、貪欲な米英人が収奪にウクライナへやってきた。
このとき、ソ連の研究所だったものを、アメリカが「横取り」したのである。

8日、アメリカ上院外交委員会の公聴会で、共和党マルコ・ルビオ議員による、ヴィクトリア・ヌーランド国務次官(軍産複合体を代表する高級官僚)への質問の証言で、これら一連のことが明確になった。
実際、国内に10箇所以上も分散された地域に研究所はあるけれど、その全部の地域に、正確にロシア軍は侵攻しているのである。

軍を分散させる、とは、軍事作戦的には「下の下」の策である。

つまり、生物学研究所への攻撃、もしくは占拠、がその目的だと解する以外、かんがえにくい。
公聴会で、ヌーランド女史は、「ウクライナでの生物化学兵器の使用を懸念」しているのは、「ロシアが関与している」とした。

語るに落ちるとは、このことだ。
ルビオ議員の質問の構成は、日本の議員にはできない。

フランスの記者は、ウクライナ軍がウクライナ人を攻撃している、と生中継で発言して、パリのスタジオがしばし唖然・沈黙したけれど、ヌーランド女史の言い方は、ウクライナ軍が生物化学兵器を使用すると、却って示唆してしまったのである。

このほかに、どんな「戦争目的」があるのだろうか?