「ドラマ劇場爆破」のドラマ

ロシア軍がウクライナで一般市民を殺戮している。

こうした「報道」が、波状的にやってきて、人間の記憶に刷り込むことで、「洗脳」を完成するのは、ナチスの天才、ヨーゼフ・ゲッベルスの「宣伝手法」であった。

これは、「人間の感情」のなかの「憎しみ」を刺戟する。
人間は、相手に憎しみを感じると、自己防衛本能がはたらいて、相手に対して容赦ない攻撃をすることに「正義」すら感じる「習性」があるのである。

古代ギリシア以来、ヨーロッパの「伝統」は、「理性」をもって思考することにこだわってきたのは、狭いエリアに異民族がひしめいて暮らすので、戦争が絶えないことを「意識した」ゆえのことであった。

都市国家(ポリス)間の戦争でも、いったん勝敗が決まれば、勝者は敗者を「奴隷」にした。
しかも、1割の市民に9割の奴隷が働いて、「市民生活」を支えたので、市民は遊んで暮らすことができた。

その暇人になった「市民」が、広場で「議論」という暇つぶしをすることで、ギリシア哲学ができて、「理性」を訴えたのである。
つまるところ、憎しみという「本音」をオブラートに包んだのが、理性であった。

すると、理性をもって憎しみを煽ることが、人間集団をある一定の方向の「思考」に誘導することができる。
こうして、ヨーロッパの支配者は、「統治」のための「原理」を得たのである。

それでできたのが、「憎しみ=憎悪」と「恐怖」の組合せだ。

そして、「恐怖」には、肉体的な苦痛だけでなく、人間が社会的動物ゆえの「社会からの分断」という「精神的苦痛」への恐怖の方が、はるかに「効果的」であることに気づいたら、そこを「宣伝」することで「正義化」すれば、かんたんに集団を制御できることもわかったのである。

ローマ・カソリック教会がやった、支配の構造がこれだ。
日本人は、「村八分」を考案して、それが現代の「いじめ」に発展した。
子供ですら、クラスメイトから無視されつづけたら「耐えられなくなる」のである。

現代社会の「社会的病」が深刻になったのは、「報道」が「カネ」で創作される時代になったからである。
いわゆる「やらせ」の、大規模化である。

これをやるのが、「クライシス・アクター」という。

むかしはなかったのに、いまは「当たり前」になってきたのは、ひとびとの「道徳・倫理」が希薄になったということが原因なだけでなく、むしろ、むかしなら「バカげたこと」として相手にしなかったことまで「買える」ようになったことがより強い原因なのである。

つまり、「そんなことにカネを出せるひとがいる」というほどの、「財力」が、制作者たちを丸ごと雇って、「作品」ならぬ「プロパガンダ」を垂れ流すことができるようになったのだ。

ナチスが国家丸抱えでやったことを、「個人」でもできるようになった。
「格差」が、ここまできたのである。

さらに、「報道映像」に、「戦争映画」の戦闘場面がちゃっかり「挿入」されることも起きていて、ポカンとした緩慢な神経で無防備に視聴している者に、冷静さを失わせる方法で刷り込むことを、「大手マスメディア」がニュースとして放送している。

以前なら、嫌々でも「訂正」やら「謝罪」の放送をちょこっとして誤魔化していたけれど、いまでは、ネットで流れる「証拠」を無視して、だんまりを決め込んで、「なかったこと」にしているのである。

だから、ネットも玉石混交だが、地上波も「追いついて」玉石混交にしている。
観る側の「リテラシー」が問われることになった「わけ」がここにある。

すると、視聴者が「判断するための情報提供」が必要なのは、むかしよりもはるかに重要になっているのだけれども、それが、「ない」ために、一方的な情報を疑う、という作業を、視聴者がしないといけない「面倒な時代」になってしまったのである。

それで、こうした「我慢大会」にがまんできなくなって、安易に走って報道を「鵜呑みにする」ことが多数になれば、間違いなく「予定通り」の支配が完成するのである。

だから、「ささやかな抵抗」ではなくて、根気はいるけど、個人の「生存」にかかわる「重要な抵抗」なのだ。

そんなわけで、ウクライナはクリミア半島の東部「アゾフ海」の港町、マリウポリの「ドラマ劇場」へのミサイル爆撃のニュースが話題になっている。

黒海という地中海には、「アゾフ海」と呼ばれる海域があって、このマリウポリこそが、ネオナチの「アゾフ大隊の拠点」として知られるところだ。
それで、ロシア軍から身を守るために一般市民が避難所とした劇場を、ロシア軍がミサイル攻撃した、という。

しかし、いま、この劇場の「爆破」は、アゾフ大隊の自作自演だという証言が近隣住民からでてきて、飛行機もミサイルも「見た者はいない」ということが流れている。
ロシア軍は一般人の避難を促したが、それを阻止したのがアゾフ大隊だというのは、「人間の盾」とするためだ、と。

目的のために手段を「選ぶ」日本人からしたら、まったく信じられないが、目的のためなら味方を攻撃するのも辞さないし、プロパガンダのための「映画」をニュースにする、まことにヨーロッパ的な「欺瞞」が、ふつうにあることも「常識」として知っていないと「欺される」のである。

それで、どっちが正しいのか?
よくわからない、というのが、はるか遠くにある日本の「現状」なのだ。

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