キューバのデモは世界を変えるか?

あのキューバで、11日、信じがたい大規模デモがあった。

誰が、どのように企画したのか?は、わからない。
共産政府側は、すぐさまインターネット回線を遮断したようである。
それで、デモ参加者を数千人規模で逮捕しているという情報もある。
なお、NHKは、参加者が数千人と報じた。

コロナ・パンデミックの、予想外の反応、が言われているけど、もともと、トランプ政権がやった「経済制裁」が効いている。
キューバにとってアメリカの政策は、揺りかごのように左右に揺れていて、概ね民主党政権だと「緩く」、共和党政権だと「キツく」なる。

民主党政権なのに、「強硬」だったのがケネディ政権で、「緩い」と決め込んだフルシチョフがミサイルを持ち込もうとしたら、断固拒否されて、チキンレースに敗北した。
この意味で、ケネディの功績は共和党的であった。

それが、悲劇をもたらしたかどうかはいまだに議論のあるところだ。
飛行機事故で亡くなったケネディ・Jrが、一部に、生存しているという説まであって、保守層が期待を込めている理由もこれだ。
ちなみに、ケネディという苗字は、アイルランドの典型でもある。

「人権派」を装う民主党政権にあって、トランプ政権の経済制裁が人々を苦しめているという理由から、「緩和すべし」という意見もある。
しかし一方で、国民政府ではない、革命政府なのだから、国民の不満を高める経済制裁を継続して、現政府を打倒すべしという意見もある。

自分がどこにいるのかわからないかもしれない、アメリカの現大統領は、とりあえず「デモを支持する」と表明し、政権には「国民のニーズにこたえよ」との声明を出した。
これらのことを、アメリカの左翼メディア(CNNとかニューヨークタイムズとか)が報じている。

しかし、もはやアメリカの左翼メディアは、社会(共産)主義への信奉を表明して久しいので、足下のこの「事件」は取り扱いが難しい。
ほんとうはキューバ政府を支持したいけど、それでは国民はどうするのか?
なので、悪いのはトランプ政権の経済制裁なのだと主張しているのである。

アメリカのまだら模様は、いよいよ激しくて、新しい(本当は過去の歴史を引き摺っている)「南北戦争」が目には見えず密かに起きている。
カリブ海に面するフロリダ州は、キューバからの移民が多数住んでいる。
この州選出の共和党上院議員、マルコ・ルビオ氏も名前からわかるように、キューバ系なのだ。

キューバ移民が、総じて共和党支持なのは、民主党の牙城のひとつカリフォルニア州における「華僑」と似ていて、何のために祖国を捨てて「逃げてきたのか」という「存在」の根本問題があるからだ。
つまり、「自由」を求めてアメリカにやってきたはずだ。

だから、社会(共産)主義の恐怖を知っている彼らは、断固、祖国の政権を拒否する。
このことは、旧ソ連圏の東欧諸国にも見られることだ。
最近は、ハンガリーで大規模デモが起きているのに通じる。

ドイツのナチスは禁止されているけど、世界で共産党など(名前でごまかせることもある)が、どうして「禁止」にならないのか?

わが国をみれば、東京の豊島区議会で、47年ぶり、という「懲罰動議」が出て、さらに「懲罰委員会」が議会内に設置された。
この原因は、テレビ改革党のひとりだけ議員が、一般質問で「共産主義の危険性」やらを滔々と述べたことが、「議会の品位を穢した」からだという。

発言者は、議会で本当のことを言ったら懲罰されるのか?と、絶対に謝罪に応じない姿勢を貫いている。
もちろん、本人も承知している「大問題」は、こんな動議が通って、「懲罰」を許したら、全国の地方議会で「真実を言えない」ということになる危険性があるからだ。

だから、少数党の議員をいじめて追いつめている、という「子どものケンカ」とは大違いだ。
動議を出したのは共産党で、委員会設置に賛成したのは、これに立憲民主党が加担した。

それで、否決はおろか、決議されたということは、区議会という空間が、「そうなっている」ということである。
しかも、どういうわけか、委員会メンバーに「原告」の共産党議員が入っている。

「被告」にあたる発言者本人は、委員会に入れないで「審議の対象」なのだから、一方的でおかしいではないか、という理屈はもっともだ。
どういう「結果」になるのか?
ちょっと前の日本だったら、「おとがめなし」がふつうであったものを。

はてさて、日本にどれほどのキューバ移民がいるのかしらないが、こうした「議会」の状況を、どう分析するものか?
革命政府は、自分たちで選んだのではないけれど、国民政府は公正な選挙をやった結果だから、「より始末が悪い」となるだろう。

すると、分析してなにかを言うよりも早く、こんな国は危ない、と判断して、他国に転居するにちがいない。
自由を求める外国人が逃げ出して、全体主義を求める外国人がやって来る。
わが国における「移民問題」の「やばさ」がここにある。

それでも、キューバのデモが日本人の琴線に触れないのは?
やっぱり、やばいのである。

20年ぶりのMacに戸惑う

アップル純正「M1チップ」搭載、という「MacBook Air」が届いた。
わたしの個人パソコン所有の歴史は、「マッキントッシュSE30」が最初だった。

ノーアポなのに、会社にこの真四角な「箱」を、専用のリュックで担ぎ込んだセールスマンが来て、熱心にその「すごさ」を語っていた。
もちろん、「ノート・パソコン」という代物もまだ世の中になかった時代である。

いかに「群雄割拠」の時代とはいえ、わが国には「国民機」としての「PC98」があって、その他を「IBM PC互換機」と呼んで、おおよそ「地殻」の「形成」はできていた。
初めて目にしたアップルコンピュータの「独自性」に、驚いたのだ。

会社の仕事を家に持ち込む、という考えがなかったので、先輩や同僚からの個人で購入するにも「PC98のイチオシ」を蹴って、このセールスマンに「発注」した。
店頭では売っていなかったのだ。

とある先輩から言われた「中古を譲ってあげる」という「PC98」の言い値は「120万円」で、スペック的には200万円相当の大盤振る舞いだったことは知っている。
でも、60万円の「墓石型パソコン」を買ったのだ。

もちろん、「薄給」における「120万円」が払えなかったのであるが、ビジネス・ソフトばかりで、しかも「MS/DOS」で自分でプログラムを書くという気がしなかったのである。
そこにいくと、この墓石は、えらくチャーミングな機能を発揮して、まさに「パーソナル」だったのである。

いまのパソコンのスペックとは、完全に「ケタがちがう」のだけれども、念のため書けば、9インチ白黒モニターに、CPUは16Mz、メモリは最大128MBで、HDは40MB(60MBのもあった)で、フロッピー・ドライブが「1.44MBの高密度型」であった。重量は約9Kg。

これが、当時の「世界最先端」だった。
いま、子どもに見せたら、「コンピュータとしてどうして動くのか?」がわからないほどの貧弱さだけれど、その遣い勝手は、会社での仕事における「野暮ったさ」とは別世界だった。

それで、二代目は、「Color ClassicⅡ」を躊躇なく購入した。スペックの「大幅」向上とともに、なんといってもモニターがカラーになった。
それでもって、電話線と結んで「パソコン通信」も「FAX」通信もできた。

インターネットが未だ世の中に一般化されていない時代である。
会社のPCも、ほぼ「単独マシン」だったから、わずかとはいえ、社内をフロッピー・ディスクが行き交うのが職場間連絡の手段でもあった。
もちろん、「主流」は、「紙の印刷物」である。

それから、「ラップトップ」なる、「膝上パソコン」が発売された。
会社の仕事を家に持ち帰ることができる、という「メリット」がいわれたけど、家に帰るまでにその「重さ」で腕がちぎれそうになった。
電車の座席に座って、これ見よがしになにかをしているのを見かけたけれど、重くて「熱い」のをよくも我慢できるものだと感心していた。

マックもトラックボール付きとかを出したし、その後はいまに通じるトラックパッドを開発した。
ウィンドウズPCのトラックパッドが使いにくくて、たいがいの人がマウスを使うのに、マック派はそのまま使う傾向があるのは、「特許」がアップル社にあるからである。

これらの「モバイル」マシンを会社に置いて、自宅では15インチディスプレイの「iMac」(フラット・パネル)を使っていた。
そして、このiMacを最後、「独立」を契機に、不承不承ウィンドウズに移行したのだった。

訪問先企業との「データ互換性」を優先せざるを得なかったからである。
しかし、移行当初は使いながら舌打ちをしたものだった。
マックでできる技が、ウィンドウズで通じずに、手間数が多いのである。
しかも、当時のマックに「右クリック」という概念すらなかった。マウスのボタンは1個だけだったからである。

この「ダサさ」を恨んではいたが、背に腹はかえられない。

そこで、20年ぶりにマックを手にしてみたら、どうやって使うのかと戸惑っている自分がいる。
げに恐ろしきは、「慣れ」である。
そこで、自分からしたら子ども世代にあたる学生だという若者が作った、初心者用の説明動画を参考にしている。

「そうそう」、ファイルの概念からしてちがうのだと、いまさらに納得している。
けれども、おじさんとして、ちょっと心配になったのは、こうして詳しく説明してくれる優秀な若者が、まさか、「独立せず」に「一般企業に就職」したら、確実にやってくるウィンドウズ・マシンとの格闘がある。

きっと、会社で舌打ちをすることだろう。
それでもって、何十年かしたら、マックの使い方を次の世代の若者に指導されるかもしれない。

いや、マックとiPadのOS統合があって、いまでこそある「仮想ウィンドウズ」が正規になれば、ウィンドウズしか動かないマシンより、マックOSとウィンドウズが動くマシンの方が、よほど豊富なソフトを使えるようになる。

これは、マシン性能がソフトを超越するという意味だ。

あと何年?
意外と早い時期になるかもしれない。

八つ当たりになる「不敬」

どうして国民がこんなに「政府に従順」なのか?を考えたら、「あの方たち」の存在が光り出した。
畏くも、尊くもおわします、万世一系の「あの方」を中心にした「あの方たち」である。

わが国には「絶対にいい人」の集団たる「皇室」があったのだ。

どうして「絶対」といえるかといえば、「絶対に生活に困らない」からである。
それで、徹底的に「(他人たる)国民の幸福」を「祈る」ことを職業にしている。

卑しき精神を賤しく発露する「主義」がいけないのは、「生活に困らない」ことを、生活に困っている自分と比較して「恨む」からである。
そういうことを超越するために、「絶対に生活に困らない」ようにすることが、「絶対条件」にしているのに、だ。

「国民統合の象徴」とはよくいったもので、古来そういう存在だった。
もちろん、「初期の王朝」における「権力争い」はあった。
けれども、人類の時間が経過してみれば、ヨーロッパのような「絶対王政」の時代はついになかった。

贅沢三昧の「太陽王」とか、「ヘンリー8世」のような暴君も、同時代の皇室にはいない。
そうやって考えたら、世にも不思議な一家が存在するものである。
しかし、取り巻きとしての「公家」がいたし、またその取り巻きもいて、何重にもなっていた。

これを、「菊のカーテン」という人がいるけれど、本人たちの意思であったのか?
取り巻きたちが、自分たちのために作ったものだろう。
嫌だといっても、「そうはいかない」のである。

ふつうの国民は、そんな事情を知る由もない。
絶対にいい人であることが、日本国民の絶対的希望条件になっている。
そんなわけだから、日本国民の上に日本政府があっても、さらにその上に「絶対的に国民の幸福を祈願する人がいる」という三重構造は、世界のどこにもない。

つまるところ、日本政府は日本国民を「いじめるわけがない」という「信仰」が、今度は国民の側にできるのである。
これが、政府に従順な国民を形成している。

ところが、「制度疲労」が極まって、国民をいじめることを目的にした日本政府になってきた。
そこで、「あの方」も選択肢がないことに忸怩たる思いでおられるのではなかろうか。

政府の言いなりになるしかない、という選択肢のことである。

これは、「日本国憲法」がそうさせる、ということではなくて、鎌倉幕府(武家政府)以来の「伝統」なのだ。
だから、明治憲法の時代だって、昭和天皇は無力だった。
せいぜい、「和歌を詠んで抵抗」するのが関の山だったのである。

「明治大帝」の御製は生涯で9万3千首を超えている。
満にすれば60歳の御生涯にこの数は、日数にして2万2千日なのだから、ご生誕から崩御まで、単純平均すれば4首/日、という数になる。
もう、「和歌しか詠まない」でおられたに相違ない。

つまり、国民も歴代のあの方も、政府にはやられまくってきたのが実態なのだけど、政府の方があの方の前では頭を垂れたから、それで国民は溜飲を下げていた。
しかし、菊のカーテンの向こうでは、溜飲の下げようもなかったに違いないとゲスの勘ぐりをするのである。

そういえば、お亡くなりになった「ヒゲの殿下」は、アルコール依存症で何度か入院治療されていたけど、「皇族という職業」という言い方をされていた。
こちらは、溜飲ではなくて、お酒を飲むしかなかったのだろう。

その酒も飲んではいけない、売ってもいけないと言い出した、日本政府の発狂ぶりは、さすがにイスラム教の国ではないから、すぐさま取り消す羽目にはなったけど、内閣を首班する首相の「逆鱗に触れた」という印象がまるでない。

およそ自由経済のなんたるかをわきまえないなら、こんな政府は転覆させても罪にはならない。
ところが、自由経済どころか統制経済をやりたい野党のひとたちが批判するから、話がこんがらがるのである。

今上陛下には、なにか一発イヤミでもかましてもらいたいところなので、是非にうまい「和歌」にして、国民の敵になってしまった邪悪な政府に一矢を報いてもらいたい、と八つ当たりになる不敬をいいたくなった。

それではあんまりなので、やっぱり秋の選挙は見ていろ、というファイトがわいてくるのである。
横浜市には、前哨戦の市長選挙が待っている。

どういう魂胆かは知らないけれど、長野県知事をやった、変な作家も出るらしいから、一応は「混沌」としている。
国民としては、「お上」の意向を考慮して、ここ一番の「一票」を入れることが「義務」である。

打倒、反日・反国民の日本政府なのである。

統治能力が強大な政府を持つ不幸

どこまで落ちるのかがわからない。
「崩落」とも、逆に「噴火」ともいえる、日本政府の大暴走がはじまった。

西村康稔経済財政担当相の発言は、その象徴であるし、「無観客」オリンピックという「史上初」に歓喜しているひともいる。
もちろん、「コロナ対策」の「大失敗」は、新型コロナウィルスの「存在」に疑問を呈して途中修正できず、政府の「無謬性」に固執した結果である。

ネットにはスペインの研究グループが発表した、「コロナの正体」が拡散された。
陰謀論という言い方で「陰謀論」を語る向きがいるけれど、こうした「説」に対する「反論」も、科学の土俵で行ってもらいたい。

この正体とは、「酸化グラフェン」という化学物質によるもので、ぜんぜん「ウィルス」とは関係ない。
むしろ、この研究グループも、「新型コロナウィルス」の「特定も分離」もいまだに誰も成功しておらず、いわゆる、「コッホ4原則」の前半二つをぜんぜん満たしていないことを強調している。

そこで、彼らは、「コロナウィルスは存在しない」という「仮設」からすれば、とたんに不思議物質に変化する「ワクチン」の成分分析をしたのである。
「抗体」を人体内部の免疫で生成させるのが、「ワクチン」の働きなのだから、ワクチンの成分が「ウィルスの正体」でなければならない。

ここから得た結果が、「酸化グラフェン」なのである。

詳しくは、こちら↓

なお、ユーチューブではなくて、ランブルという自由プラットフォームに投稿されているのでご確認を。

人体に「酸化グラフェン」を入れるための方策として、
・不織布製マスクから呼吸によって
・PCR検査キットの検査棒接触によって
・ワクチンの主成分によって
の三つが挙げられている。

これによって、次のことと合致する。
・当初「無意味」と発表したのに覆したWHOは、世界にマスク着用を促し、各国政府が反論もなくすぐさま同調したこと。
・流行初期からWHOは、診断にPCR検査キットを使うように指示を出し、各国政府保健・衛生当局や医師たちの反論もなくすぐさま同調したこと。
・ワクチン接種後の重篤な異変あるいは死亡についての「例」を、「酸化グラフェン」を原因とすれば関連性が認められること。

ちなみに、わが国立感染症研究所は、あろうことか、ウレタン製のマスクよりも不織布製マスクを推奨し、酸化グラフェンを国民に吸い込ませるための片棒を担いだのである。

研究結果の内容として、
・酸化グラフェンは、血液凝固を促すので、「血栓」を生成するということがある。
・酸化グラフェンには、免疫系を変質させる「効果」がある。
・酸化グラフェンが肺に蓄積すると、肺炎の原因となる。
・酸化グラフェンは、粘膜に炎症を起こして味覚と嗅覚を奪い、あるいは、金属味をだす。
・酸化グラフェンは、生体内で強力な磁気特性を持つようになる。
・酸化グラフェンは、体内の「グルタチオン」で「抗酸化(中和)」されるが、グルタチオンは子どもが多く持っており、65歳以上では急激に減少する。
・グルタチオンは、アルコール(飲酒)によって増加する。

これらの研究成果が、「正しい」とすれば、政府及び政治家も「予防」を装いながら「流行を促進」させていることがわかる。
「グルタチオン」があるために、若年層の発症がなかったこともわかるし、飲食店だけの営業規制と飲酒を禁止したい理由とも合致する。

なお、次世代通信規格の「5G」との関連性にも触れていて、生体内での強力な磁気特性を得るためには、5G電波の周波数が関与しているという。
いってみれば、体内で電子レンジのような効果が起きている、ということだ。

そこで、なぜ「武漢発祥」なのかといえば、この都市が「世界初の5Gパイロット実験都市」だったからだという。

「5G電波」の危険性については、オランダなどで「禁止」されたように、人体への影響が懸念されてはいたが、まさか、という状況になっている。
通信機器問題もあって、わが国は5Gを通り越して「6G」の研究を開始しているが、どうなることか。

そして、何よりも重要なのが、「エセ・パンデミック」を起こした理由と、誰だ?という問題がある。
理由は、人口減少と世界共産化(全体主義化)という。
誰?については、ビッグテック系の創業大富豪や当該企業だともいう。これで「5G」ともつながるのである。

そんな中、英国で「秘密文書」がリークされたと話題になっている。
https://archive.vn/UuoeI#selection-225.0-225.18
なお、この記事の伏線は、BBCも昨年4月24日に報じていた。
https://www.bbc.com/news/technology-52409893

英国「保守党」政権にしてこの体たらくなのだから、わが日本政府は推して知るべしか。
民主主義は、民衆が優秀でないと成立しないことを実験しているかのようでもある。

英国で、もし「第二次名誉革命」が起きるなら、わが国民も乗っていい。

「兵庫9区」はどうする?

西村康稔(にしむらやすとし)経済財政担当相の地元である。
明石市、淡路市、洲本市、南あわじ市が小選挙区で、比例区は近畿ブロックがあたる。

最近のこのひとの発言は、本性にある、「強権」という牙をむき出しにして、国民に襲いかかっていると話題になっている。
かなりのバッシングがあったので、飲食店に酒類を提供している卸や小売店に、融資をさせない、といった暴言はさすがに撤回された。

しかし、どうも、飲食店に酒類を販売しないようにという、「要請」の名のもとの「命令」は、やる気のようで、与党からも疑問の声があるばかりか、「議員辞職」という四文字が出てきた。
「大臣辞任」ではない。

こうした「強権発動」に世論が反発しているのは、「健全」ともいえる。

だが、反応が遅い。
そもそも、どうして「経済財政担当相」が「コロナ対策担当」になったのか?
更にいえば、財務大臣がいるのに、どうして経済財政担当相が必要なのか?

このことは、厚生労働大臣がいるのに、コロナ対策担当大臣とワクチン大臣(本職は行政改革担当)がいることの不思議にもなっていて、なんだか知らないうちに、大臣が増えている。
たとえば、スポーツ庁長官がいるのに、「五輪担当相」とかもいる。

そして、なんといっても、これらの担当大臣の言い分に「エビデンスがない」という共通がある。

すると、「省」なりの役所が存在する大臣は、役人が提供する「エビデンス」に基づくけれど、「無任所」ながら大臣になったら、「エビデンス」を無視していいという独自ルールが、安倍内閣以来できたのだろうか?

西村氏も、河野氏も、見事な「暴走」をしているのである。

9月には総選挙をやらないと「いけない」状況にあるけれど、放置しても10月には「任期切れ」となるから、この秋は絶対に選挙がある。
こないだの「都議会議員選挙」では、中央政府の与党が過半数をとることができなかった。

現政権は、民主党(革命)政権から再登場した「旧体制」であったから、日本版アンシャンレジームとなって久しいのが「今」である。
それが、制度疲労による自己崩壊寸前にあるのは、「近代政党」としての「自浄力」が最初から「ない」からだ。

つまり、このブログで何度も書いてきたが、わが国の公党(国会議員を出している)たる政党に、近代政党がないことの国民の悲劇なのである。
あえていえば、公明党と共産党が近代政党といえなくもない。
ただし、これら二党が犬猿の仲の理由である、それぞれの思想の本質が全体主義であるために、「党内選挙」がないという欠陥がある。

西村氏は、無所属で出馬して、現職の自民党議員を破って初当選した。
その後、自民党議員となって、元職で元自民党所属議員を連続して降した経歴で、現在6期目である。
ちなみに、元職は比例当選もしていたが、いまはそれもない。

これぞ、自民党アンシャンレジームの申し子なのである。
「勝てば官軍負ければ賊軍」とはいうけれど、「民主主義」を最高の価値におく政党ならば、「党員による予備選挙」は必須の条件である。
自民党にはこの発想も、やる気もない。

手順としては、経産官僚を退職した時点で、西村氏は自民党の党員にならないといけない。
党員になるための条件も満たさないといけないのは当然だ。
そして、地元支部のなかでの「予備選挙」に出馬して、勝者となってはじめて「公認候補」となるのが「近代政党」のやり方だ。

これができない。
「小選挙区」になったから、自民党候補を複数出すわけにもいかないから、権利がある現職と、挑戦者たる西村氏が「本戦」で激突したのだ。
そして、勝った方が自民党所属になるという不思議。

大騒ぎしてつくった「選挙制度改革」(中選挙区制からの変更)は、政党の近代化を促進させる効果は微塵もなく、それを意図したものでもなかった。
むしろ、国民に「近代政党」を教えない、という了解が各政党とマスコミの間であったのではないかと疑うのである。

さらに、アンシャンレジームに都合のいい、「比例当選」なるインチキも作った。
選挙区で落ちたひとが、どうして復活するのか?
民意は「落選」なのだ。

こうして考えると、兵庫9区「だけでなく」兵庫県を超えた「近畿ブロック」とは、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県であって、昨年9月現在の有権者数は、17,159,657人もいて、当選枠は28人だ。

さてどうしたものかを考えれば、やっぱり「地元」の「判断」が基本であろう。
今度の選挙は、これまでにない「勝負」が、国民の側にかかっている。

その意味で、アンシャンレジーム政党を選ぶわけにはいかないのである。

人間を信用しないシステム

人間は間違いを犯す動物なので、「ヒューマン・エラーを防止する」ための方策を考えるとき、「人間を信用しないシステム」を基本思想にする。
そのために、やたら機械的になることは否めない。
それで、その機械的な手順を「面倒くさい」と考えるのが、また人間なので、決められた手順を無視して事故を起こすのも人間となる。

すると、人間に「面倒くさい」と思わせないか、思っても「別の抑止力」が働いて、手順どおりの行動を選択させるということまであらかじめ考えておかないといけない、ということになる。

面倒くさいと思わせない方法には、「追い込み漁」のように、そうしなければいけない状態に追い込む方法がある。
たとえば、食品工場での「衛生エリア」へ踏み入れるとき、消毒液の浅いプールを数歩だけ歩いて超えるほどの長さを確保することがある。

こうして、靴を消毒しないとエリア内に入れないようにして、さらに、エリア内専用の靴に履き替えることも義務化すれば、小学校以来の「上履き」を玄関の下駄箱エリアで履き替えた「訓練」の有り難さがわかる。

もっとも、消毒液のプールも放置すれば、消毒効果が落ちて汚染されるので、こちらを自動的に廃棄し、新しい消毒液の注入をすればよいことになる。
新しい消毒液のタンクが空だと意味がないので、これも自動点検できるようにする。

こうして、「連鎖の体系」ができるのだ。

だから、どこかの機能が不全になると、「体系全体」が不全になる可能性も高くなる。
それで、その体系を維持するためのチェックが必要になる、ということがあって、どこまでも続く感じがする。

一方で、「別の抑止力」で効果的なのが、「教育・訓練」である。
この場合、「教育⇒訓練」という意味であって、「教育」と「訓練」といった切り離した話ではないし、「⇒」のように順番がある。
よくやる方法が、「座学⇒実地訓練」だ。

座学の場面では、とくに「必要性」の「納得」が重要で、ただやったという「アリバイ」はどうでもいい。
その手順を必要とするのは、どういうことで、どういった危険に見舞われるのかということの「納得」だ。

1999年だから、「前世紀」(もうおおむかしになる)、JCO東海事業所で、「臨界事故」が起きた。
有名な、濃縮ウランを「バケツ」で搬入するということで、妙に有名になった「事故」だった。

「核」を扱う専門の会社での事故は、なんだか難しい装置やら配管とかのひび割れか?とかと想像したものが、「バケツ」から取りだした液を漏斗でパイプに入れるという、驚くほどの「手作業」だったから「驚いた」のである。

そして、そのこと「だけ」が「ニュース」になった。

このニュースの受け手にも、重大な問題があったのは、「臨界」がどういう状態をいうのかをわからなかったことである。
それは、重度の被ばくをした当の作業に従事したひとたちも知らなかったにちがいない。

でなければ、濃縮ウランをバケツに入れる指示を出したひとに、おそろしく噛みつくにちがいない。
ならば、バケツでやれといったひとも、「臨界」をしらなかったことになる。

すると、ここでは「無知の連鎖」が起きていたのだ。

しかも、マニュアル化されていた。
監督官庁にとって「幸い」だったのは、その「マニュアル」を見ていなかった、という間抜けさが、知らぬ存ぜぬを通すことができたからである。
その後の、自動車会社による30年間もの「検査不正」と、よく似ている。

省庁は、縦割りだけれど、仕組みは「横の連携」がとれている。

そんなわけで、悪いのは「会社」という「当然」のことになって、誰かが辞任すればよいことになる。
でも、死者まで出たので、会社の責任は軽いはずはない。それを動かしているひとたちの責任は、なんだか軽いのである。

こんなことから、無責任がはびこる。

4度目の緊急事態宣言が、だんだんと「政治ショー」の本質を露わにしてきた。
たまたま、都議選の間は、感染者数が少なかったのだ、と、ウィルスが「意思」を持っているようでもある。

オリンピックはやるけど、花火大会はやらない。

これも、人間を信用しないシステムとして一貫性がある。

肩こりと眼精疲労

自分がなってみないと分からないものに、「痛み」がある。
「心の痛み」と「体の痛み」があるけれど、ここでの話は「体の痛み」だ。
しかも、「肩こり」と「眼精疲労」である。
目の奥が痛い。

こんなこと、めったにならずに人生をやってきたので、「慢性」のひとからしたら、何を今さらといわれそうだが、いつまでも「止まない」というのは「拷問」的である。

原因はわかっている。
「執筆作業」のための、「無理な姿勢」と「モニターの見過ぎ」だ。
気分を変えようと、自宅から出て、電源カフェに行ったのはいいけれど、机の高さが低いのに、タブレットにかぶり付いてみていて、一発で発症した。

それでも、締切りがあるからモニターとのにらめっこは続けないといけない。
それで、「回復期」を先延ばししている。いや、それどころか、悪化しているのである。

これも、「老化」のために起きたのだろうか?

こうした「痛み」の不快は、だんだんとイライラが積もってくる。
世にいる「不機嫌な老人」の不機嫌さは、こんなところにも原因があるのだろうか?とふと思った。
そう思ったら、なんとかしないといけない。

それで、様々な妄想をはじめた。

この痛みの原因の根底には、執筆作業がある。
いまでは、ペンと原稿用紙ではなくて、パソコンが欠かせないのだけれど、執筆専用パソコンがない。
まてよ、執筆専用パソコンとは、「ワープロ専用機」のことではないか。

わが国では、そのむかし、パソコンよりも「ワープロ全盛期」という時代があった。
各メーカーが、各メーカー毎の規格で作っていたから、機種間の互換性までなかった「初期」すらあった。

結局、印刷して、紙に赤ペンをいれたものだ。

次世代の機種も自社の「シリーズ」を購入させようと、独自規格にこだわって、自滅していったメーカーも多かった。
利用者は、そんなメーカーの「姑息」を見ぬいていたのである。
あえていえば、規格を無料公開したビデオデッキの「VHSの成功」を「別物」として考えていたのだろう。

「データの互換性」は、ユーザーからしたら、「生産性」に直結したのだ。
それで、だんだんと「統一規格」に向いていったら、ソフト(今なら「アプリ」)によって、なんにでも用途変更に対応できるパソコンの進化と、アプリの進化で、ワープロ専用機がうたかたの夢のように世の中から消え去った。

そしていま、パソコンとその周辺機器の進化は、また一つのハードルをクリアしそうである。
「ウインドウズ11」が、秋にもリリースされるというし、アップルの「マック」では、昨年末に画期的な「M1チップ搭載」でバッテリーの持ちと相まって驚異的な高性能化に成功した。

動画の編集や書き込みを、一般人が家庭でやるようになって、それをネットに公開しては「稼ぐ」という働き方もうまれた。
その上での、画期的な動作を保証する高速処理機器の発達には、なるほどと思わせるものがあるけれど、もっと「アナログ」な「執筆という作業」を主とするわたしには、ぜんぜん別の世界の話なのである。

逆に、そんなトレンドのおかげて、「肩こり」と「眼精疲労」を発症したのだと思ったら、なんだか「イラつく」のである。
つまり、わたしのようなニーズに対する「発達」はないのか?
なんだか、一人で時代に取り置かれるような気分になってくるのである。

いや、そんなことはない。
おおいに困っているひとたちがいるはずだ。

そんなわけで、こんなワープロ専用機が欲しい。
・モバイルに耐えられる
・画面は目に優しい「e-インク」で、A4縦型あるいは、文字の拡大表示:詳細モニターは字が小さくて目に悪い
・キーボードは、HHK(ハッピーハッキングキーボード)同等:薄型でペチペチの打鍵感はユーザーの「パソコン入力」を舐めている
・日本語変換辞書に、類義語大シソーラス相当:国語辞典では足りない
・自動校正は当然
・フリー書式だけでなく、かゆいところに手が届く豊富なテンプレート:LaTeXモードもあっていい

むかしなら、日本メーカーが「世に問う」といった気概満点の「発明品」が数多く「新発売」されて、敗れ去っても「これでもか」とやっていた。
いまは、「売れないリスクを恐れる」文系社内官僚が「責任回避」を最優先させるから、変な提案でもして「人事」から睨まれたら元も子もないと殻にこもる技術者が萎縮して、不要な多機能をまだやっている。

良くも悪くも、挑戦的なのは中華系のメーカーになってしまった。
そのむかし、週末の羽田や成田が背広組で混雑したのは、韓国便に搭乗する技術者たちの「開発アルバイト」だった。
それから、中国便になってしまった。

こうした飛行機は、「やりがい」を乗せていたのである。

はてさて、いま手に入る「eインク13.3インチのセカンドモニター」は、10万円強、HHKが3万円。
この部材だけで、新品の高速パソコンが購入できる。

肩こりと眼精疲労が嵩じて、頭痛と吐き気がしそうである。
この原因は、「心の痛み」なのだと思う。

「サンマーメン」考

ラーメン好きならご存じのはずの「サンマーメン」は、「横浜名物」からいつの間にか「神奈川(県)名物」になっている。
「県」が入るのは、「県の予算」でキャンペーンをやるからである。
もちろん、「県内で」ということになっている。

ここが「間抜け感」にあふれるのだ。

県民が知らないとでも思っているなら、ぜんぜん「県の名物」ではない。
県外でキャンペーンをやる手間と気力がないから、県内でやるのは、単に「内弁慶」だと白状している。

県民は、こんな予算を通過させる、県知事と県議会の無能を悔やむばかりとなる。

いわゆる、「ふつうの醤油ラーメン」に、「あんかけにした肉野菜炒め」が乗っている麺料理のことで、魚の秋刀魚(サンマ)が鎮座ましているわけではない。

その勢いある中華鍋での炒め方が、まるで生きている馬のよう(生き馬:「サンマー」と発音する)だ、という説があるけど、これも定かではないらしい。
とにかく、横浜では「サンマーメン」というメニューがない街中華の店はない。

しかしながら、「ラーメン」とメニューにあっても、その中身と味はそれぞれのお店によってちがうので、さまざまな「評価」がわかれるのとおなじで、「サンマーメン」も店によって微妙にことなる。
ベースが「醤油味」ではなくて、「塩味」の店もある。

子どものときから、ふつうにあったので、多摩川を越えて大学に通ったとき、東京の街中華に「サンマーメン」がないことに生まれて初めて気がついた。
メニューになくても作ってくれるほど、当たり前感があったので、そのまま注文して、「なんですか?それ」といわれたときの衝撃は、全く予期せぬことがあると知る人生の初となった。

たまたまこのとき同席した同級生も、(東北)地方出身者であったから、焼いたサンマがラーメンの上に乗っているとしか想像できず、店主と一緒に「なにそれ?」といったのである。
こちらは、世の中にはふつうに存在すると思い込んでいたから、まったくの出会い頭による「文明の衝突」だったのである。

肉野菜炒めのあんかけラーメンのことです、といったら、店主が「ああ、あんかけ麺ね」と返してきたので、ぜんぜんちがうメニューに変えた。
ちょっと教えたくなくなったのである。

ずいぶん前に「花こんにゃく」について書いた。
これも、大正時代に横浜で発明された逸品で、こんにゃくに「でんぷん」を加えて作る。

ふつうのこんにゃくの弾力とはちがって、でんぷんがある分、歯が入るのである。
こんにゃくと「なると」の中間のような感じのもので、わが家の「おでん」の定番中の定番だ。

おとなになって、銀座のおでん屋(驚くほど高価)に行ったとき、「サンマーメン」のショックとおなじ経験をした。
連れて行ってくれた先輩と店の親方が同時に、「花こんにゃく?なにそれ」と声を上げたのである。

しまった、花こんにゃくまでもが横浜の「変わり種」あつかいだったとは。
それでもって、ハマっ子の矜持として、東京人にわざわざ教える義理もないから、あっさりと話題を変えた。

東海道でいうと、サンマーメンはすでに多摩川を越えていて、旧「品川宿」があった京浜急行の北品川駅にある街中華では「確認済み」である。
最近では、荒川をも越えて埼玉県入りしたも聞く。

西に向かっていえば、やはり東海道で、JR富士駅前商店街の街中華で「確認済み」である。
うわさによると、富士川ばかりか大井川を越えたと聞いている。
なかなかに、「確認済み」にならないのが、今後のわたしの人生の課題になっている。

しかしながら、「足元」だって重要だ。

横浜市を西に越えるのは、江ノ島に流れ込む「境川」が「境」になっている。
境川の最下流は藤沢市だが、横浜市と藤沢市の境は、やや上流となる。

駅でいえば小田急江ノ島線湘南台には、藤沢駅に本店を構えて、いまや「藤沢市民のソウルフード」ともいわれる伝統の街中華の支店がある。
そして、この店の「名物」が、「サンマーメン」なのだ。

とりあえず、食べずにはいられない。
出てきたのは、意外にも見た目はトラディショナルなサンマーメンである。

しかし、食べてみて少しだけ違和感があるのは、「あん」がスープに浸透していないことだ。
スープ側からいえば、ぜんぜん「ドロドロ感」がなく、あっさりサラサラのスープが最後までつづく。

これは微妙に評価が分かれるところだろう。
おなじ国道沿いには、元なのか今もなのか八百屋さんがやっている街中華があって、こちらは野菜のボリュームで人気の「タンメン」があるけども、「サンマーメン」も劣らない。

「麺料理」としてみれば、前述に一票、「生き馬の荒っぽさがある」のが、後述といえる。

なにせ、「横浜名物」から「神奈川(県)名物」に勢力を拡大しているのが、「サンマーメン」で、もはや関東・東海圏すらにも点在する状態だ。

ならば、「サンマーメンの専門家」なるひとが、自らの健康を顧みず、「全店制覇」をできるものか?
その前に、「地図にプロット」するだけでも、えらいことである。

理科で「唯物論」を教える

「理科教育」に政治イデオロギーが入り込む余地なんてあるはずがない、という間違いは、ただの間違いではなくて、重大な間違いである。

日本人の宗教観は、かなり特殊だから、『聖書』でつながる世界三大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)とか、インドのヒンズー教、それに儒教と道教(この6つの宗教で世界人口の5割以上をカバーする)などとはぜんぜんちがう。
しかも、ふだんの生活に宗教があるのかないのかも曖昧なのだ。

イスラム文明を土台に発展したヨーロッパ文明の歴史をみれば、文明をささえる技術力の発展に「科学史」という視点は欠かせない。
わが国で、その科学史の第一人者といえば、村上陽一郎氏になる。
村上氏の著作には、かならず「驚き」の記述がある。

『科学の現在を問う』(2000)は、もう20年以上も前の本になるけれど、だからといって決して色あせるどころか、昨今のコロナ問題にもつながる貴重な情報にあふれている。

科学も人間の営みのなかにある。

それだから、キリスト教が支配した時代のひとたちは、科学と神(=キリスト教)を切り離して考えることをしなかったし、する必要もなかった。
つまりは、「神の与えし法則」が科学だったのである。

これには、前に書いた「リベラルアーツ」がある。

それは、ヨーロッパの「大学」こそ、「神学」とは切っても切り離すことはできないことの現れだし、現在のイスラム社会だって、たとえば、西暦970年設立で世界最古の大学として知られるカイロにある「アズハル大学」は、いまだに「最高峰」の「(スンニ派)イスラム神学部」が健在なのだ。

ちなみに、カイロといえば「国立カイロ大学」が有名だけど、知る人ぞ知る「イスラム圏の真のエリート」とは、アズハル大学神学部を出た、「イスラム法官」なのであって、「近代」を教えるカイロ大学ではないのである。
彼らは、わが国の「民法」にあたる、「イスラム法」による裁判所の裁判官となる資格を得る。

しかし、わが国最初の「東京大学」(いまの東京大学とは場所は同じでも位置づけがちがう)に、「神学部」はなかったし、神学が中心のあちらの大学にあってもっとも遅い設立の「理学部」が、東京大学には最初からあった。

だから、わが国が世界の中心にある、とする「日本型中華思想」と、「東大神話」によれば、外国の首都名が入った大学を、「◯◯国の東大」などと表現して、おおくの日本人に「誤解」をさせているから「罪深い」のだ。

日本人のだれが見ても「総合大学」の「最高峰」である、わが国最高(難易度)学府たる「東大」に、「日本的宗教学部」がない、という事実こそが、わが国近代の建設にあたっての「突貫工事」のために、「切り離した(あるいは棄てた)」もの・ことの象徴なのである。

そんなわけで、「宗教性=神秘」は、「学問」とはならない、というおよそ人類の歴史を無視するかのような態度は、エントロピーのように「拡散」して、一方で「廃仏毀釈」と「皇国史観」となり、一方で「日本教」という新しい「密教」を作り出した。

そうやって、人為的に作り出した「発明品」が、「占領」という事態になって、排除(=全否定)されたから、残ったものは「西洋のカス」ばかりとなって今に至るのだ。
その「カス」のなかでも、もっとも「腐っている」ものが「唯物論」である。

村上博士は独白する。
それは、高等学校のカリキュラム改定にあたって、「理科Ⅰ」が設立されるときの「慣性の法則」にまつわる、博士自身の「執筆」エピソードだ。

原文:
「物体はいろいろな運動状態にあります。静止している、あるいは運動している。慣性というのは、そうした物体の持つ性質であって、外から力が加わらない限り、今の運動状態を続けようとする性質のことを言います」

この一文が、教科書出版会社の社内審査で、「理科の本質が判っていない」と言われたという。
博士は、どこがダメか判らなかった、と。

博士に社内担当者がしたダメの解説:
原文にある、「今の運動状態を続けようとする」の主語は、「物体」である。それが受けている動詞は「続けようとする」で、その中の「う」は、意志を表す助動詞だ。
「物体」が「意志」を持つとは、ともすれば子供たちが抱きがちな「非科学的」な考え方で、理科教育の目的の一つは、そうした非科学的な考え方を子供たちの頭から追い出すことにある。

修正文:
「今の運動状態を続ける傾向を持つ」

おわかりだろうか?

博士は続ける。
ならばニュートンは「科学者失格」だ。
なぜなら、彼は「万有引力」は、神の意志がそこに働いているために機能していると考えたからである。

また、デカルトも、「もの」と「こころ」の二元論を提案し、少なくとも人間に関しては、その存在の本質を「こころ」に置いた。
「我思う、故に我あり」とは、そのことを主張している、のだと。

すなわち、18世紀の「啓蒙主義」は、「ほとんど必然的に、既存の知識体系を唯物論的傾向へと転向させることになった」と博士は指摘している。
そして、「科学は知識のなかから非唯物論的要素、あるいは心的要素をそぎ落とすことを、自己の責務とした」。

わたしたちは、こういう世界で生きている。

外国から批難される日本

「よい子」でいたいだけなのに、どうしてこんなに批難されるのか?

元日本人の岩里政男(李登輝)氏は生前、(自分と同じ)むかしの日本人には「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」の区別がちゃんとあって、家の玄関から先にある世間のことは「公」を優先させるのが当たり前だと考えていたが、いま(戦後)の日本人は、「私」を優先させることに重きをおくようになった、と述懐していた。

だから、なりたい「よい子」とは、「公」からみての「よい子」ではなくて、「私」からの「よい子」になる。
その端的ないいまわしは、いまどきの子どもを諭すときの「他人に迷惑をかけなければ、なにをしても自由だ」に集約できる。

この言いかたの問題点は、最初の「仮定」にある。
「他人に迷惑をかけなければ」の、意味だ。
つまり、他人が迷惑とおもうかおもわないかを、他人からみた他人である自分が決めていることになる。

これを、「唯我独尊」だといって、なんだか「お釈迦様」と同格になるずうずうしさまでが「おまけ」になってまとわりついている。

個人の巨大な集合体が国家になるし、個人の「気分」が官庁や政治家に伝染するのは、官僚も政治家も「国民の一部」であるからで、むしろ、都合がよい「気分」なら、率先して採用することが、より「国民への奉仕」感を高める効果を発揮することを熟知している。

そんなわけで、一部のひとたちの都合に合わせた政策や施策が、なんだか「国益」のように一般人にもみえてくるのは、「よいこと」しかマスコミが宣伝しないからである。

本来の「IT化」とか「情報化」なら、既存マスコミに対抗するはずの「ネットの力」があったはずだけれども、肝心の「プラットフォーム提供会社」が、自分たちの都合を優先させる「検閲」実施の事態となって、だれもが予想した「未来の民主主義」が、一気に「全体主義」へと変貌しようとしている。

もちろん、わが国の「伝統」には、外国からの強制を伴う「大転換」がある。
「黒船来航」と、「占領時代」という二大転換が、すっかり民族の「トラウマ」になって定着している。

黒船は1853年のことで、占領時代とは1945年から52年までの7年間をいう。
すると、黒船来航から99年後にわが国は占領時代という「国家改造期間」を終えたことになる。

なので、1952年を起点にすれば、2051年が99年後ということになるから、あと30年(一世代)は、「よい子」でいる時代を続けようと努力することになるかもしれない。
ただし、その運命は「破綻」なのであるけれど。

こんな「体制」はおかしいのではないか?
「公」を重視する立場のとっくに小数派は、忸怩たる思いでいる。
それでも世は「私」を重視するひとたちの天下なのだ。

そこへもってきて、昨日(2日)、立て続けに二本のニュースが外国からやってきた。

先ずは「おフランス」(AFP)から、新疆ウイグル自治区における少数民族の強制労働で人権を侵害し「暴利を得ている」として、日本の「ユニクロ」現地法人、米スケッチャーズ、仏SMCP、スペインのインディテックス4社への検察による捜査が始まったという。

次は、アメリカ合衆国(ワシントン共同)からで、1日、国務省が発表した「人身売買報告書」に、わが国の「技能実習」が指摘されたとある。
つまり、「奴隷の疑い」を、あろうことか「奴隷制度」をめぐって内戦までやったアメリカから指摘されたのだ。

実際に、この「制度」で入国した「実習生たち」は、実習期間中に「脱走」して行方不明になっている者が多数いて、およそ年間7000人にのぼるという。
何年もやっているから、万人規模の「不法移民」が日本のどこかに住んでいる。

一部の実態を伝える「ルポ」もあるけど、(他に情報がないから)これをそのまま信じれば、本人たちのパスポートは、実習受け入れの日本人が「保管」することになっているので、たとえ「脱走」しても帰国どころか第三国の外国に移動することもできない。

パスポートという最高レベルの身分証明書を所持しないで、わが国で(潜伏)生活するとはどういう方法があるのだろうか?
犯罪組織の臭いがプンプンする。
政権交代によって、大問題化したアメリカ・メキシコ国境の「混乱」とおなじ状況がひそかにうまれている。

もちろん、「制度」をつくって「運用」しているのは、政府だ。
だから、アメリカ政府からの指摘は政府を直撃する。
一方で、おフランスの検察捜査は、民間企業に対するものだ。
「嫌疑の重さ」という点で、はるかに政府の方が重いけど、だからといって「民間だから軽い」というものでもない。

さらに、「ユニクロだけ」ということもなく、ネットにはさまざまな有名企業の名前がそのままに、「一覧表」で表示もしている。

日本だから「正義」なのだ、ということがいえなくなったのは、次元が高すぎる「文明国」から、改造によって低くて卑しい次元の文明国に落とされた「改造の成果」なのである。

だから、いまのわが国の「エリート」こそ、「卑しいひとたち」だと断定して差し支えない。
そのひとたちに、黙って従う一般人は、「ふつうに卑しい」といえる。

この二本のニュースが、爆発的な反応にならないのがその証拠なのである。
明治・大正期だったら、次元が高いために怒った国民による対象企業の「打ち壊し」が起きるはずと思われるからである。