「夏休み価格」の宿泊施設

今年の夏は暑い。
梅雨明け宣言が出たとたんに、猛暑がやってきた。
家にいると暑いので、ショッピングセンターのフードコートにある電源席にたたずむことにした。

近所ばかりでは飽きるので、いろんな「センター」に行ってみたら、「系統」によるそれぞれの特徴がみえてきた。
ショボいところから、贅沢なところと、バリエーションも豊富だけれど、利用者数のバラツキも観られるので、「地域特性」と客からの「選択」があるように感じる。

近隣に学校がある場合は、当然に生徒・学生が放課後にやってくるから混雑して、皆さんそれなりに「勉強」している。
このとき、電源をひつようとしない傾向があるパターンと、電源席から埋まるパターンがある。

いまどきは中学生も、iPadとiPhpneを駆使して各科目の勉強に勤しんでいるのを見かけるけど、一発で「眼精疲労」に苦しむことになったおじさんとしては、「若い」と感心しながら、「目を大切に」と思ってしまう。
あの姿勢で、数時間もやっていてよく肩こりにならないものだ。

もう自分にはできない、と思う侘しさもある。

いくらショッピングセンターに隠って、涼しい環境に身を置いても、帰宅すればタップリ蓄熱したコンクリートのわが家は、即座に冷房を稼働させないといけない。
夕方のそよ風を感じる外の涼しさとは無縁なのだ。

皆さんどうしているのか?
この団地に越してきてから、毎夏の疑問だ。
昨夜はとうとう、隣の棟に救急車がやってきた。
「室内熱中症」を即座に疑ったのだった。

数年前の猛暑では、あんまり暑くて耐えられないので、横浜中心街のビジネスホテルに避難したことがあった。
横浜公園で友人にバッタリ会って、「避暑にきた」と言ったら笑われた。
冗談だと思ったらしい。

まだ7月なのに、もう耐えられなくなってきたから、やっぱり「避暑」をしたい。
そこで、宿を探すことにしたら、目を疑う「夏休み価格」になっている。

まあ、コロナにやられて大変だったろうから、ここで取り返さないと、という事情もあるだろう。
一応、旅行やら移動制限による宿泊施設の「倒産」や「廃業」は、数百軒といわれている。

それに、東京を中心にすれば、まさかの「無観客」となったから、どういうわけか「オリンピックのために」ということで建てたホテルも当てが外れたことだろう。
ただし、たった二週間あまりの「大会需要」を見込んで、ホテルを建てる、という理由が信じられない。

一度建てたら、耐用年数は半世紀はある。
そんな長期的な営業をする宿泊施設が、オリンピックの「特需」だけの理由で建つものか?
デリバティブの対象としての、「紙の上の案件」になっているとしか思えない。

さすれば、これを、「転売」するのも「紙の上」になる。
そうやって、利用客や従業員は「二の次」にされるから、転売価格の査定が怪しくなるのだ。
なので、こだわった建築になることはなく、内装デザインがものをいう。

いつだって、文字どおりのスクラップ・アンド・ビルドの対象になる。
これが、街に与える影響も大きく、「エリア」という発想がない、わが国の都市計画とマッチして、遂にただのオフィスビルに建て替わったりするのだ。

そんなわけで、警備だけが厳しく、高速道路も割高(「来るな」というメッセージ)な都心には行きたくないから、どこか別の場所を探すことにした。

さてそれで、今度は古い避暑地のホテルである。
こちらはこちらで、「メンテナンス」という発想がなく経年劣化してきた「典型」と思われるところを発見した。
周辺の価格帯とはちがって、ずいぶん「安い」のだ。

一般に、宿泊施設は、目に見えない「サービス」に重点をおいた議論が盛んだけれど、それは、「ちゃんとした建物」があってのことである。
この「前提」を議論しないのは、「建築」とか「設備」とかの「理系」の話になるからである。

しかし、「経営」の話になれば、全部をひっくるめることが当たり前なので、なんだか偏った感じになってしまう。
それでか、なんでか、新築したホテルのオーナーは、メンテナンス予算とか、長期あるいは超長期の維持計画を作らないでいたりする。

今どきに「老朽化した宿」は、わが国が「工業大国」だった頃に建てられたものだ。
工業大国の工業大国たるゆえんは、「品質」にあったとはよくしられることである。

すなわち、新品ピカピカの建物に付随する「設備」は、たいがいが「工業製品」なので、その「品質管理」の徹底から、一斉に壊れるという傾向を最初からもっている。
例えばテレビとか、蛍光灯など、同時期に壊れたり切れたりするのは、稼働時間が同じなら、同じ品質なので壊れる時期も同じになる。

その巨大なシステムが、たとえば「空調」と「水回り」なのだ。

はてさて、「避暑地」なのだから、「空調」の不安はどうかはわからないけど、どんな「設備」が傷んでいて、これが資金不足という無計画のためになったのかを観察に行こうかと思う。

嫌な客である。

『自発的隷従論』を読む

人間がかんがえることは、かなりのことが昔にかんがえられていることがある。
どうやら人間は、衣食足りるとかんがえだす傾向があるのだけれど、果たして現在はいかがか?

「ギリシャ哲学」という古代ギリシャでの哲学は、「市民」という閑人たちが日がな一日広場に集まってそこでの議論で生まれたと習う。このひとたちはどうやって生計を立てていたのかといえば、奴隷制があったからだった。
戦争による掠奪には、敗者を奴隷にして当然という合意が人間にあった。

イタリアオペラの傑作のひとつ、『アイーダ』は、古代エジプトを舞台にした、若きエリート将軍と元エチオピア王女で奴隷にされたアイーダとの悲恋物語である。
そうかんがえると、奴隷というのは歴史が古く長いものだ。

政府や為政者(ときに「独裁者」)に従属するひとたちを蔑んで「奴隷根性」ということがある。
こうした「根性」がどこからやってくるのか?を「解読」したのが、16世紀半ばで夭折した法務官、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530年~1563年)であった。

彼が残した『自発的隷従論』は、なぜに人間は政府や為政者に隷従するのか?という問題に、「隷従はいけないこと」という観点ではなく、ただまっしぐらに、「構造」を解明したことが「新しい」のである。

それは、為政者の「取り巻き」たちが、権力の恩恵にあずかろうとするからであって、これが、「ピラミッド型社会組織」として入れ子型に成りたっていると分析した。
つまるところ、支配と利権の構造なのである。

トップの取り巻きだけでなく、その取り巻きをトップにした、下の階層にも取り巻きがいて、さらにまた、、、、、と続く構造だ。
これを、「自発的隷従」と定義した。

改めて読んでみれば、いま、彼の住んだフランスはもとより、世界同時に起きた「コロナ・パンデミック」で、それがどんなに「茶番劇」であっても、ひとびとは「自分の生き残り」を信じて、政府が言う「ワクチン」を接種し、また、政府がこれを「強制」していることの「本質」がみえてくる。

もちろん、政府は「安全策」として、決して「安全」とは言わず、むしろHPや「官報」における「告知」では、「緊急性」を前面に出して「治験中」とか「承認薬ではない」ことをちゃんと書いている。
それでもって、自己判断としながらも、あたかも接種しないのは「悪」だと誘導しているのである。

これは、業界にも適用されて、政府専門家会議を代表するひとが、公共放送を通じて「エビデンスはない」と明言しながら、「飲食店の営業時間短縮」とか「酒類提供の禁止」を助言し、政府高官が推進していることに「隷従」することでも現れている。

言い過ぎたとして、前言を撤回した、とはいっても、ぜんぜん撤回などしていなくて、事実上の「禁酒」が実行されている。
飲食店で飲めない、という事情から、「家飲み」というふつうができて、「ビン・カンもの」のゴミが急増している。

これらは、国連・各国政府が推進する「SDGs」の流れに逆行するから、そのうちまた国民を痛めつける、レジ袋有料化などの「政策」をかんがえだすだろう。

それにしても、飲食店やら宿泊・旅行業界が「黙っている」のはどういう「利権」があるのかと疑えば、積極的利権ではなくて、消極的利権の存在が見えてくる。
それは、政府による「いじめ」が怖いからである。

先進国の先進国たるゆえんは、政府機構や機能も先進的だからである。
つまり、あらゆる分野を法で支配していて漏れがない。
だから、政府に逆らうということの「報復」が、どの方面の法律執行からやってくるのかわからないという「恐怖」が「経営リスク」となるのである。

「法」ならば、立法府と司法府の出番、ということに「ならない」のは、法の下にある「政令」、「省令」、「規則」に「通達」といった、「行政」からの各種命令が、行政官によって発令されるからである。

これが、「業界」をがんじがらめに縛っているのだ。

さらに、「縦割り行政」が、面倒を生む。
もちろん、面倒なのは政府の側ではなくて、支配される業界の側である。
ある意味、どこから弾が飛んで来るのか、わからないからである。
それで、担当部署の責任の大元を見つけだすこと自体が、面倒を生む。

「雲隠れ」するという、忍法までも駆使してくるのだ。

個人の世界では、エーリッヒ・フロムの名著『自由からの逃走』がある。
このような外国の「解説」が、わが国でも「有用」になったのは、わが国がわが国「らしさ」を失った証拠でもある。
これが、「グローバル化」ということなのだ。

外国旅行に一回も行ったことがないからといって、グローバル化とは関係ない、にはならない。
むしろ、外国がすすめる「ワクチン・パスポート」がなくては、外国旅行に行けないとなれば、ワクチン接種をしたくなくともしないといけない。

フランスや英国では、飲み屋にも提示がないと入店できないと提案されて、大規模デモになっている。

これを、直接的な「強制」とは言わせない努力も政府は仕掛けるのだ。
これこそが、「同調圧力」の応用なのであって、個人の精神を痛めつける社会的恐怖なのである。

ならば、「夏休み」に、遠藤周作の代表作『海と毒薬』でも読んでみるのがいいだろう。
この「実話」が、これからの「実話」になる努力が政府によってされている。

 

大相撲とオリンピック

【東京2020開催記念】

どちらも「神事」としての「興行」である。

大相撲は神社の境内で八百万神を、オリンピックはオリンポスの山々におわす神々を祀って「奉納」したものだ。
大相撲では、塩で清め、オリンピックは火で清める。
火をもってするのは、ゾロアスター教の影響だと前に書いた。

その大相撲が、戦後になって、「スポーツ競技」だと定義された。
この定義を促したのは、公共放送の意向もあったろう。
国民資産の電波を使って、受信料をとる公共放送が「国技」といいながら、「興行」を放送するのはいかがなものか?と。

その一方で、おなじ国民資産の電波をつかって、「興行」のプロレスを中継したのは民放だ。
「興行」だから、シナリオがあって、「競技」とみせかけて盛り上げる。

その第一が、あくどい白人レスラーたちが繰り出す「反則技」をものともせずに、正々堂々と勝利する日本人レスラー、という構図をつくったことだった。
これが、「敗戦」の意趣返しとなって、国民を熱狂させた。

つまりは、ガス抜きである。

GHQが仕組んだのか、どうなのかは知らないけれど、まんまと作戦どおりに、プロレスに熱狂させることに成功させたら、翌日は気分良く働いたのが日本人だった。
「アメリカ何するものぞ」とアメリカにやらされた。

これぞ、アングロサクソンの腹黒さなのである。

大相撲を廃止させようとしている、という「噂」は、「皇国史観」と「神道」の「罪」と解釈された。
もちろん、「昭和天皇の退位」という現実の大問題もあったからである。
日本から皇室を奪うこともできるのが、戦勝者たるGHQの絶対権力だった。

困ったことに、日本人は「(欧米的)絶対権力」に馴染みがない。
あたかも、徳川将軍家がそれにあたる、とプロパガンダしたのは、国民的ドラマ『水戸黄門』が作ったフィクションである。
絶対権力に正義が結合したら、歯向かうものを皆殺しに切り捨てて良い、というのは、欧米的革命思想なのだ。

すると、絶対に間違っている、と戦後定義されてしまった「皇国史観」と「神道」の「正統性」がみえてくる。
少なくとも、いまやタブーとされた「神話」だって、本当は日本人には重要すぎるから学校教育で禁止の扱いがされているのだ。

いまはとっくに「死語」となった、「大和民族」は、一体いつから言わなくなったのか?
なお、大和民族は、アイヌも琉球も含まれる一般用法だから注意がいる。
「分断」を画策する政治的活動を第一とする学者が、これら民族を分けている。

そもそも、日本人はどこからきたのか?は、いまだにわかっていない。
ルーツとされる、縄文人がどこからきたのかわからないのだ。
そして、琉球人もアイヌも縄文人の系統にあるのはわかっているから、大和民族の血が濃い部類に逆になるのだ。

そんなわけで、大相撲がスポーツ競技になったから、八百長が「いけないこと」になった。
スポーツは、実力の差だという「新しい神話」をつくった。
神様を楽しませるために「奉納」していたオリジナルからの裏切りである。

もう一つ、八百長がいけないというのは、「賭け事」をしている人からの意見だということに注目すれば、大相撲は、その筋で「大相撲賭博」をしていれば、たしかに掛金を差し出す側は、「八百長」は困るのだけど、胴元が仕掛けているのだろうか?という疑問もある。

八百長が相撲取りの世界の内輪での単なる「星取り」のため、ならば、賭博参加者は、そのことも含めた「予想」が必要になる。
すると、どこが問題なのか?
「興行」だから、その「場所」が盛り上がって盛況ならそれでよい。

一番の問題は、大相撲を管理する「相撲協会」という団体が、なにをとち狂ったか、「公益財団法人」になっていることだ。
それなのに、この財団を仕切るには、歴史的「親方株」という、お金と人脈で得る権利証がないといけない。

プロレスのように、株式会社にするか、神社としての宗教法人になればよかった。
それもこれも、興行収入に対する「免税」を最優先にさせて、監督官庁の文部科学省(公営ギャンブルのサッカーくじをやっている)に媚びへつらったからだろう。

結局のところ、近代オリンピックも、国際オリンピック委員会という世界最強の民間団体が、ヨーロッパ貴族のための「興行」として立ち上げたものを、絶対権力化させることに成功した。

オリンピックの収益にまつわる税金は、国際的にどのように扱われるのか?
先に決した、国際課税における「ビッグテック企業」の扱いが、オリンピックの収益とは関係なく議論されたのである。

この特別扱い。
開催するかしないか、という「浅い」議論ではなく、この委員会の不思議が議論されることがない不思議がある。

開催国には開催中止の権限がなく、これが決定権は国際オリンピック委員会にあるとされ、多額の違約金を払う羽目になるのが嫌だ(損だ)という、「損切り」の発想もないままに、「無観客興行」となったのは、テレビ放映権のおかげであった。

大相撲もオリンピックも、テレビあっての「興行」なのだ。
開催国であろうが、世界同時テレビ中継を観る、という「平等」が、コロナ禍のごとく実現した。
これで、「復興記念」が「祈念」になるなら、それはそれで、「神事」だ。

すると、テレビが廃れたら、これからは一体どうなるのか?が興味深い。

トヨタ労組の立憲切り

全トヨタ労働組合連合会(全ト、35万7千人:トヨタ自動車、デンソー、アイシンなど関連314労組で構成)は、「連合」傘下の巨大労組である。
ここが、立憲民主党議員との連携を「見直す」と発表して、大きな話題となった。
いわゆる、「左翼」界隈からは、「裏切り」ともとれる恨み節が流れた。

こういった事態にどうしてなるのか?を調べるには、「歴史」を見るのが一番いい。
トヨタ自動車の歴史は、トヨタ労組の歴史でもある。
労働組合とは、本来そういうものである。
何故なら、自動車を作って売るには、絶対に労働者(従業員)がいなければならないからである。

作る人だけでも、売る人だけでもいけない。
もちろん、「製造業」に限ったことではなく、全産業でいえるのである。

残念なことに、左翼思想(社会主義や共産主義)が先行して流行ってしまったのも歴史だ。
そんなわけで、「不幸にも」労働者のための労働運動が「思想汚染」されて、これら「主義」のひとたちのための「手段・道具」になってしまった。
まことに左翼思想の「非生産的」かつ「破壊的」無意味のなしてきた「罪」は重い。

世界のトヨタの「前身」は、豊田佐吉翁がなした「豊田式織機」である。
これは、母が夜な夜なしていた「機織り仕事」を、なんとか楽にできないものかと思案して作り上げたものだ。
つまり、「母のため」という気持がこもっている。
それが、「ひとのため」になって、豊田自動織機が会社となる。

この会社から派生したのが、トヨタ自動車なのだから、「従業員のため」という思想が欠如しているはずがない。
よって、そもそもがトヨタ労組とは、「労使協調」を旨としていた。
これが崩れたのは、戦後の資金不足という混乱期だった。
本所次郎『小説日銀管理』に詳しい経緯が書いてある。

さらに、外国人がトヨタ自動車を研究したのが『トヨタ経営大全』だ。
この「人材開発」を見れば、その「合理性」がよくわかる。
トヨタはクルマだけでなくひとも作っている、といわれる所以である。
しかし、トヨタの内部からしたら順番が逆だろう。

人を作らなければクルマは作れない、と。

乗用車はふつう、約3万点の部品からなっているといわれる。
3万点のすべての部品が、設計どおりの機能を有さなければ「商品」にならないばかりか、一歩まちがえば人命を奪う凶器にもなりかねない。
これを用意し、間違いなく組み立てる。

これだけでも、大変なことなのだ。
そして、これを世界販売している。

もう、世界の自動車メーカーは、トヨタに適わないことを知った。
それで、もっと簡単な「電気自動車」にルール変更を画策している。
つまるところ、よってたかっての「トヨタ潰し」なのである。
その大義名分に設定したのが、ありもしない「地球温暖化対策」という欺瞞である。

これに、あろうことか日本政府与党・野党が「加担」して、日本政府ぐるみ、という格好ができてきた。
まさに「存亡の危機」なのだ。
だから、与党でもより「保守」と組まざるを得なくなったとかんがえる。
本来に「回帰」しているといえるのだ。

すると、会社側が、オリンピックにおける「広告の停止」を発表した意味も見えてくる。
そして、これがどうやら、「日本国内だけ」ということらしい。
つまり、海外では、「オリンピックとセットに」広告展開するということだ。
日本のマスメディアが、オリンピックへのネガティブ・キャンペーンをやった成果となったから「皮肉」なものだ。

「広告」を出す意義は何か?という原点に「回帰」したのである。

しかして、いまやわが国経済を支えるトヨタ自動車の広告撤退は、横並びがだいすきな財界のみなさんに波及してしまうという「効果」まで生んだ。
それでトヨタ社長が「開会式欠席」を表明したら、こぞって「欠席」を告げている。
これはこれで、「無観客」を主張したひとへの当てつけにちがいない。

クルマを買ってくれるお客様たる一般人が入場拒否される開会式に、どうして自分たちが出席できるものか。
これぞ、「商魂」というものだ。
願わくば、国民統合の象徴の御方にも欠席を願いたいものである。
国民がいない場に、出る筋合いはございません、と。

そんなわけで、トヨタ自動車が、日本的精神の最後の砦にもなっている。
この際だから、次の選挙では、トヨタ労使がそれぞれに支社と支部から立候補してくれないものか。
日本に必要のなくなった、自民党をはじめとした政党からの立候補者を「掃討」するのに相応しい。

人格破綻者へのイジメのこれから

「ミュージシャン」で人格破綻者といえば、リヒャルト・ワーグナーを第一人者と呼ぶべきだろう。
しかし、彼の天才は、「作曲」に発揮されて、ピアノが弾けなくとも「絶対音感」によって数々の大曲をつくるばかりか、その多くが「傑作」なのであった。

劇場から劇団・オーケストラに入れあげた皇帝が、とうとう国家財政を破綻させるに至ったのも、ワーグナーの「魔性」がそうさせたにちがいない。
いまにつづく、夏の風物詩「バイロイト音楽祭」こそが、その名残である。

音楽界を支配したワーグナーとその一派は、反対派への攻撃に勤しんだけど、それはなにも「音楽界」に留めていたわけでもないのは、国家の破綻が示すとおりだ。
とりあえず、音楽界における「被害者」の筆頭は、グスタフ・マーラーだろう。

ユダヤを毛嫌いしていたワーグナー夫妻は、ユダヤ人青年の才能を知っていながらも、いじめ抜いて、悩んだ挙げ句にとうとうキリスト教(カソリック)へ改宗したけど、まだ許さなかった。
「元ユダヤ野郎」というわけだ。

それ故に、マーラーの壮大な交響曲が奏でる「厭世観」の起源を探りたくなるのは、当然だろう。

ワーグナーが亡くなってから生まれた、アドルフ・ヒトラーは、はなからワーグナーの楽曲が大好きだった。
それで、自ら皇帝を気取ってもいた。

おなじ「アドルフ」のフルトヴェングラーは、プロパガンダの天才ゲッペルスが企画した、ヒトラー誕生日演奏会で、ベートーヴェンの『第九』をベルリンフィルで演奏し、音楽に陶酔した指揮者の才能は、「歴史的名演」という「不名誉」を演じてしまった。

この模様は、ネット動画にあるから、ご覧になった方もいるだろう。
どうして、ヒトラー誕生日演奏会で、こんな名演奏をしちゃったの?
このひとは、「舞台」だけが「世界」だったからだろう。
世俗の余計なことを全部放棄して、没頭してしまう。

やっぱり一種の「人格破綻者」だったのかもしれない。
それで、フルトヴェングラーの『第九』といえば、「バイロイト」での「名演」も語り草になっている。
こちらは「録音」が、動画サイトにある。

四楽章最後のコーダの振りが速すぎて、名人ばかりの「バイロイト記念・オーケストラ」の弦があれよと「滑って」しまう。
けれども、終わってみれば野外会場にあって割れんばかりの拍手が記録されていて、その「ノリ」の興奮は現場にいないと経験できないものだったろう。

ナチスの政治宣伝に関与したとして、戦後のフルトヴェングラーの立ち位置は、「社会的制裁」となって返ってきたが、彼の「音楽家」の才能がやっぱり人々の心を癒やしたのであった。
それでもって、「ドイツの良心」ともいわれた。

指揮者という職業に「だけ」徹底的に忠実であったことが、理解を得たのである。
依頼者が誰であろうが、やるからには最高を目指し、それを観客に提供すると決心しているのは、職業倫理の理想であると。

こないだ発覚した、オリンピックの開会式における「楽曲」をつくったひとのスキャンダルの「数々」は、自らが蒔いた種を自ら刈り取った形になった。
10代やら20代でやったことが、時間をかけて返ってきたが、悪びれずに語ってしまった(雑誌記事にもなった)のは、まさに傲慢から生まれる「心の隙間」であろう。

わたしは、このひとの名前も楽曲も聴いたことがないけれど、才能あってのことだろうから、それだけは惜しいと思う。

こんどは、社会的制裁を受ける立場になったのは、やったことの裏返しだから仕方がない。
それが、「倍返し」以上になるのは、本人の知名度に比例する。
さすれば、知名度が上がった本人には、過去の「些事」であったにちがいないのだ。

でも、ワーグナーやヒトラーに到底及ばない「支配度」だから、こんどは遠慮も忖度もない、「完膚なきイジメ」が社会的にやってくる。
「ホリエモン」がツイートしたように、もう二度と彼や彼の曲が世間に出て来ることはないだろう。

その意味で、このひとは、社会的に抹殺された。
そして、社会的に抹殺することを「正義」とするのが日本社会なのである。

さてそこで、わたしが気になることが一つある。
それは、抹殺のやり方が「組織的」だということだ。
このことは、組織的に不買運動が起きるという意味ではなく、放送や音楽業界のなかの企業組織が率先して抹殺するという意味をいいたい。

つまり、「それでも」才能を認めているひとたちが「欲しい」と思っても、市場にない、ということを指摘したいのだ。
「選択の自由を許さない」という対応が気になるのである。

そうかと思えば、今度は「いとこ」が出した「擁護らしき」ツイッターが炎上し、よせばいいのに「謝罪」して「削除」したら「アカウント閉鎖」までした。ネットで「やってはいけないこと」を連発したから、その無知か慌てぶりが「凄い」という評価になった。

おそらく、上述のような「正義」についての疑問を言いたかったのだろう。

こちらさまは誰かといえば、やっぱり「音楽プロデューサー」というけど、わたしの世代なら『コメットさん』の九重佑三子と歌手の田辺靖雄の長男だった。
お父さんにそっくりなのでピンときた。

彼は、肉料理のアドバイザーもやっていて、なんとコラボで製品を出した老舗の醤油メーカーが、サッサと「謝罪」を表明して、まっ先に逃げた。
いとこまで巻きこんだのは、単なるおまけか?それとも?
こちらも、今後「社会的制裁」が起きるだろうから、一族の問題に発展しそうだ。

話を戻す。
本人がやった許しがたいことと、同じ本人がやった作曲とがぶつかり合ったとき、発信媒体がこれを元から差し止めるやり方は「正義」なのか?
そんな問題があるのではないか。
でなければ、ワーグナーはおろか、フルトヴェングラーすら聴くことができなくなる。

本人はこれから何をもって生きていくのか?
国内ではおそらく、別の仕事をするしかない。
ならば、海外ならありか?
ワーグナーもフルトヴェングラーも認める世界である。

これから、が興味深い。

見えすぎちゃって困る

「CTスキャン」のことである。

「CT」とは、computed tomography の頭文字をとっている。
C:コンピュータ
T:断層撮影
用いるのは、放射線だ。

放射線の人体への被曝量を示す単位には、「Sv(シーベルト)」がある。
1Svの千分の一が「mSv(ミリ・シーベルト)」という。
原発事故で問題になったのが、「1mSv/年間」という基準値が、「100mSvまでの被爆は健康に影響ありません」と、「専門家」がテレビで語っていたことだ。

それで、法的な基準値が、「20mSv/年」にされてしまって、いまだに「1mSv/年」に戻っていない。
これを、「反日の国」のひとたちが指摘する(例えば、オリンピックで来日した韓国選手団、とか)のは、日本人として「痛い」ところだ。

何故なら、「1mSv/年」というのは、元々「国際放射線防護委員会: International Commission on Radiological Protection(ICRP)」が取り決めた「勧告」に基づいて、「国際的な基準値」として各国がこれを「法」に定めるようになったからである。

この基準が用いられるのは、放射線を浴びてしまう可能性が高い、核施設に勤務するひとたちと、その周辺住民だ。
また、この基準の他に、人間は「自然被爆」や「医療被爆」に晒されている。

自然被爆とは、宇宙や地球に「自然」にある被爆で、放射線は、「空気」にすらある。例えば、東京からニューヨークに往復の空の旅をするだけで、で「0.2mSv程度:レントゲン1枚ほど」の被爆をする。
医療被爆とは、レントゲン撮影やCTなどからの被爆だ。

つまり、地上で生活しているだけで、年間2mSv程度自然被爆をしているから、これらとは「分けて」上記の基準が作られている。
ついでにいえば、CT1回で、5~30mSvとなるので、胸部レントゲン写真(0.06〜0.15mSv)の100枚分以上の医療被爆をする。

そもそもをいえば、ICRPだって、ラジウムを発見したキューリー夫人が、無防備な実験(当初は未知だったのは当然)で、不良性貧血によって亡くなったことがあるし、1910年ごろから時計の文字盤の蛍光塗料としてつかわれたラジウムで、スイスの女工さんに骨癌が拡がったことがあって設立されたのだ。

被曝量は積算することを基本とするから、自然被爆+医療被爆+核施設、ということの合計値が、社会的許容範囲を超えるかどうかが議論される。
社会的許容範囲とは、単位人数当たりの癌発生確率を基準にする。

100%だったら、許容されないのはわかる。
ならば、何パーセントなら許容できるのか?
それは、「人間社会」によって異なるから、これを、「国際的」にした意味は大きい。

何故なら、農産物や魚介類も、自然被爆しているからで、これらの国際基準がなければ、「貿易」ができなくなる。
外国製の果物を安心して食べているのも、基準をクリアしているという「前提」があるからだ。

わが国の「科学者」や「専門家」が、一般から「怪しい」と思われるきっかけが、「年間100mSV」だったともいえ、これが、存在が証明されないコロナになって、PCR検査に精度はないとした厚労省の見解も無視した報道で、被害が広がっている現状の原点ではないのか。

しかし、CTが発明されてからの「進歩」は著しく、それが、「画像処理技術」となって現れてきた。
これには、大きく二つあって、一つが「詳細モニター」で、一つが「グラフィック・エンジン」だ。

要は、かつてより数段も「はっきり見える」ようになった。
すこし前のむかしは、レントゲン写真を見て「病変を見つける専門家」がいたし、それは、「CT画像」も同様だった。
評判の良い病院には、こうしたプロが在籍していた。

しかし、いまは、あまりも画像がクリアなので、素人でも一目でわかる。
それで、病変化「していない」影を、どうやって医師はインフォームドコンセントするのか?という問題になっている。
この影は病変ですが、この影は病変の予備状態で心配いりません、と言われても「納得できない」ということになる。

それで、やらなくてもよい摘出手術をやることになっている。

外科医の過労の原因ともいわれるから、笑えないし、希望する本人の「気持はわかる」のだ。
やっぱり「気持ち悪い」。
そんなわけで、適度な「ぼかしの画像」が求められている。

過ぎたるは猶お及ばざるがごとし

議会の放送局を開局せよ

「報道しない自由」なる、美語が蔓延して、放送局のプロパガンダを隠蔽している。
一方通行で視聴させられる国民には、「選択の自由」すらなくなった。
どの放送局も、おなじプロパガンダを放送しているからである。

それでもって、「放送法」による「公正なる放送の義務」が、放送免許の制度と一体だったはずではあるが、監督官庁がこれを「やめた」ので、自動的に法の存在が無意味になった。

やめた理由は定かではないけれど、政治家は国税庁に睨まれることを恐れて財務省に文句を言わないのと同様に、放送局に睨まれて針小棒大な事件を放送されることを恐れて文句を言わなくなったし、監督官庁の役人は放送局に天下ることの「うまみ」があるからだと推察する。

しかし、このことが成立するのは、国民が放送を信じることが前提にある。
アメリカの調査では、共和党支持者の9割、民主党支持者の7割が、マスメディアを信じない、と回答して、現実に偏向報道で有名になった放送局は、視聴率が半減するという「仕打ち」を受けている。

ビッグテック企業による「検閲」は、さらなる議論を呼んでいて、これら企業の保護を定めた、「通信品位法230条」の適用除外が政治課題にもなっている。
しかもいまは、「ただ除外しろ」という粗っぽいやり方の主張ではない。

連邦であれ、州であれ、あるいは地方都市であれ、ビッグテック企業の通信サービス(ふつう「SNS」という)が、これら「政府」の機能を補完しているなら、例えば、政府が災害時の緊急連絡にSNSを使うとか、平時でも政府からの情報をSNSを通じて一般に伝達するとか、それは、「政府の一部だ」と認定できる。

つまり、「私企業だから」憲法に定める「自由の保障」をしなくてもよい、という訳にはいかないばかりか、「政府と一体」ならば、憲法の履行義務が生じるのは当然だ、という根拠なのだ。

このブログの読者ならわかるだろうけど、近代民主主義国家の憲法とは、国民から国家・政府への命令書なので、国民・私企業は、憲法を書いた側だから「履行義務はない」のだ。
憲法を履行しないといけないのは、国家・地方の政府であり、公務中の全公務員なのである。

「公務中」というのは、公務から離れたら、そのひとも「国民」になるので履行義務を失うからである。

こうしてみると、アメリカ人は憲法の存在理由を知っている。
「欽定憲法」の明治憲法と、GHQの「欽定憲法」になったいまの憲法も、日本人には日本国民が定めた、という概念すらない(上から与えられた)から、憲法は「ただの最高法規」としか意味をなさない。

それは、自民党の「憲法草案」を一瞥すればよくわかる。
驚くことに、この政党は、「憲法=最高法規」という、素人考えをそのまま踏襲して、「国民に命令するための最高法規」に仕立て上げている。
民主主義の根本を知らないひとたちの政党なのだ。

あるいは、憲法の意味を国民に知らせることを「わざと」しないで、支配構造を作ってしまえ、という魂胆か?
なるほど、小学校でも中学校でも、「日本国憲法」は「国民主権」、「基本的人権」、「平和主義」の「用語」を暗記させるけど、上述した「理由」を教えない「工夫」がされている。

国民主権という用語だけを覚えさせられても、憲法が国民から政府への命令書だと教えないから、おとなになっても理解できるはずがない。
そんなおとなが、自民党の議員だけでなく野党もおなじになっている。
それだから、与野党共に「野合」すれば、支配階級に入るのである。

よって、誰もプロパガンダ放送がおかしいとも、いけないとも言わなくなった。
国民からしたら、こんな放送局は全局、廃止が望ましい。
「うそ」と「ほんとう」を区別なく放送するから、国民の「脳」が冒されてしまう弊害が横行する。

NHKだけを取り上げて、国営化とか民営化とかの議論があるけど、国営化だって、「行政」に吸収されるという意味でしかない。
ならば、地上波電波を全部、「議会」に開放すべきだ。
むかしのチャンネルでいえば、1:衆議院、3:参議院、4:各県議会、6:各市町村議会、8:町内会・自治会、10:児童会・生徒会、12:PTA

議会をやっていない時間帯はどうするのか?
1:放送休止
2:再放送 のどちらかだ。

ニュースなど情報はどうするのか?
ネットに接続して各自勝手に視聴すればよい。
そもそも、ニュースがプロパガンダに堕落したから、ニュースも天気予報も貴重な地上波電波を使うほどの価値はないし、災害にも役立たない。

それに、民放だって、もはや番組スポンサーがつかない。
「マス」での広告よりも、ネットでの広告がはるかに「有効」だと証明されたからである。

オリンピックの放送は?
これもネットで視聴できる。
年間で万円単位になるNHK受信料が、バカ高いことも国民は知ることになるのは良いことしかない。

蔓延したのはコロナ脳

この国の「希望」を、さらりと表現したのは碩学、小室直樹であった。

国民は、何度も暴動(市民革命)を起こして、何度もひどい目にあうけれど、その何度目かに、ようやく「気づいて」まともな政府を樹立するであろう、と。
それまでは、とにかくひどい目にあうことになって、我慢の限界を迎える。

おそらく、一回目の「限界」がもっともハードルが高いのだろう。
とにかく「臥薪嘗胆」で、みんなで我慢することを美徳とする傾向があるからだけど、一方で、マッカーサーに「骨抜きにされた」こともこれに重なる。

一体、アメリカ軍はいつから日本占領計画を立案していたのか?
日本人なら、「勝ってからかんがえる」という「その場の対応」になりそうだけど、「腹黒い」彼ら(アングロサクソン)の野蛮な習性では、相当前から検討を開始するものだ。

それで、完膚なきまでに「粉砕」するのは、「戦闘行為」だけでなく「占領行為」にも引き継がれる。
むしろ、「占領行為」の方が、よほど相手を「壊滅」させるのに有効だから、「軍政」のための軍人のエリート教育にあって、「作戦」科目には、「占領」もあるにちがいない。

これは、「外交の延長に戦争がある」という概念と一致する。
日本人、特に「戦後」は、「外交」と「戦争」を分離した(させられた)のとは、根本的にちがう。

アメリカ軍のエリート将校は、士官学校などの幹部養成校で、あらゆる学問的業績を習いつつ、その応用を研究させられる。
わが国自衛隊の場合は、「軍事」に特化するちがいがここにもある。
それで、自衛官でもトップ級はアメリカの士官養成校に留学するのだ。

果たしてそれで、「組織文化」となるか?については疑問である。
このことは、発展途上国の政府官僚に見られることと共通だ。
すなわち、トップ級は若くして先進国の大学などに留学して、「ハク」をつけるけど、得た知識を組織に浸透させない。

あくまでも、自分のもの、としないと、出世できないと考えるからである。
だから、直下の部下にも教えない。
「下剋上」のおそれがあるからだ。

その点、日本人は「教える」ことで尊敬を得ることになるから、一見、別物と思われるけど、繊細なる日本人は、それが「別格」を構築する。
だから、別格だけの文化ができるのだけど、組織の力になるほどの浸透はさせない。

「出る杭は打たれる」という別の文化が効いてくるからだ。

そんなわけで、「日本的文民統制」もまかり通って、なにが「文民統制」の本来定義だったかもわからなくなり、単純に文官試験(科挙)を通った「事務官僚」による統制のことをいう。
これを、防衛省では「内局(本省内部部局)」といっている。

それで、腹黒い官僚たちは、あたかも「政治家(国会議員や内閣)」の「統制」のことだと「偽りの再定義」をした。
これが、「偽り」だとはわかっている(わからないひともいる)けど、その方が当人たちにも都合がいいので乗っかって70年がすぎている。

もちろん、「軍事とは関係ない」外交を専門にするのが、外交官試験という別の科挙に受かったひとたちが支配する外務省であるから、わが国の国防は「分裂」している。
これを、自民党では「国防部会」と「外交部会」に分けていることで確認できるのだ。

アメリカ合衆国では、多くの大統領が軍人(軍隊経験がある)出身だ。
また、前国務長官のマイク・ポンペオ氏は、陸軍士官学校主席卒業のエリート軍人で、軍務中に理学博士、退役してハーバード大から法務博士を取得した、「文武両道」の人だった。

わが国で、このような「経歴」を得ようとしても、ほぼ不可能だ。

そんなアメリカでは、昨年の大統領選挙についての「検証」がまだ行われていて、徐々に「民主党による不正の証拠」が明らかになってきている。
いってみれば、「バイデン政権」が足元から揺らいでいるのである。

このあたりを、外交オンチ(軍事と分裂しているから)の外務省が、とんちんかんな分析をして、内閣に報告していることだろう。
もちろん、軍事オンチの防衛省も、同様のとんちんかんをしているにちがいない。

それでもって、これらの「分裂」を「統合」しているのが、目立たない「内閣府」の役人だろうと推測する。
でも、これを阻む「内閣官房」には、それぞれの省庁から出向した役人がいて、「調整できない」のが、いまの内閣になって見えてきた。

「菅政権」がやり玉に挙がるけど、ほんとうは「体制」そのものの「失敗」なのだ。

自民党が腹黒いアメリカ民主党の左派を通り越した左派になったのも、左翼思想を教える官僚養成校のおかげである。
あるべきカウンターパートは、共和党保守派のはずだったのに。
気がついたら、わが国に共和党保守派のカウンターパートになる政党が存在しない。

「コロナ脳」という、自分でかんがえることができない国民が多数になって、いよいよ限界に挑戦することになる、恐怖の全体主義がはじまる。
なにもわが国「だけ」のことではない。

タイと思われるワクチン接種会場で、倒れて痙攣をしているひとを、順番待ちのひとたちが「黙って見ていて」、それでも「順番待ち」をしている動画が投稿されている。

これが、「羊たち」なのだ。

他山の石以て玉を攻むべし

神奈川県の自爆

神奈川県が、「県独自の緊急事態宣言を発令する」と決めた。
どこにそんなことができる「法的根拠があるのか?」を、だれも質問しないばかりか、口にもしない。

「法治」とは、「丸投げ放置」のことだった。

なってはいけない人、選んではいけない人に、なさせてしまった「罪と罰」が、神奈川県民にブーメランの刃が刺さる。
黒岩知事と県会議員たちのことである。

黒岩祐治というひとの「無能」については何度か書いた。
とにかく、最初の選挙では、神奈川県の全戸に太陽光発電パネルを設置すると公約して、当選して予算がないと知ったら早々に撤回した「実績」をもつ。

これを「元政治部記者」があっさりとやってのけたのだ。

それなのに、さらに二回も当選して、三期も知事をやっている。
選んでいるのが県民だから、ひどい目にあっても責任は県民にある。
しかし、首長には「リコール」という手段もあるから、窮鼠猫をかむ県民はこれをやるのかやらないのか?

さらに、どうにもならない「議会の無能」がある。
いったい何人の議員がいるのか?
さらにさらに、県下の各自治体の首長もそれぞれの議会も無反応だ。
「県知事さま」のご意向は、かくも絶大だったのか?

「官選」の知事ならまだしも、なんのための「民選」なのか?
まったくもって、理由から問われる大問題だ。

元を正せば、昨年の「特措法改正」が主因であった。
この法律で、「緊急事態宣言」が合法化されて、とうとう発令したからである。
つまりは、安倍内閣の時代であった。

日本国憲法に抵触するおそれがあるばかりか、自治体が「藩化」して、都道府県知事が「藩主になる」可能性があると書いたけど、その通りになった。
そして、幕府たる中央政府はコントロールを失うと。

理由は明白で、「宣言の発令」は、中央政府の権限を大幅に都道府県知事に渡すことが「主旨」だからである。
それで、こんどは、「収束宣言」をだしたら、「元に戻る」と考えたのは、役人国家の役人の頭脳が「単純」の上に「傲慢」だからである。

権力を持つ人間が、一度権力の味を知ったら、元には戻れない。
古今東西、そういうことを繰り返してきたのが人間の歴史なのだ。
わが国エリートの中のエリートたる、「官僚」の浅はかさこそが、知事たちをモンスターに変身させた。

命令一下、中央政府が与えた権限を返納する「はず」にはならず、これを「保持」することに全能力を使い出す。
まことに、人間らしい態度をとっているともいえるけど、その権力を住民のために使わないで、権力者の自己陶酔に使い出すから始末が悪いのだ。

これを「やらせた」のも、安倍内閣の時代である。
なにせ、第一回目の緊急事態宣言をやめるとき、都道府県知事に権限を戻すように「言わなかった」からである。

犬を躾けるときに、飼い主が曖昧な態度をとれば、もはや「躾」どころか「勘違い」を助長して、かえって飼い主を下にみるように「訓練する」ようなもので、このときの内閣の曖昧な態度が、知事たちの「権力本能」を活性化させてしまった。

なぜに「言わなかった」のか?
それは、「いい子」になりたい志向が強力だったからである。
誰も敵にはしたくない。
もちろん、このときの内閣の要、「官房長官」は菅氏だった。

いま総理になって、「嫌われてもやるべきことはやる」と発言したのは、まさにこのことの「反省」かもしれないけど、残念ながら、「犬と同じ脳」しかない「権力志向」の本能をむきだしにした人間を躾けるには、もう遅いのである。

その典型が、都知事であり、大阪府知事であり、とにかく東京都知事に「勝手に」ライバル意識を持っている神奈川県知事なのである。
このことは、間違った「ベンチマーク」を設定することの不幸でもある。

神奈川県知事は、社会的に何もしない、という選択をして、実質的に「成功」した、スェーデン式をベンチマークにすべきだった。
当初いろいろいわれたけれど、「今」となっては、その政治選択の「正さ」は完全に証明されたからである。

さすれば、神奈川県「独自」の緊急事態宣言とは、「何もしない」ということに尽きる。
すなわち、「飲食店の営業自由」を宣言することで、「酒類販売の自由」はおろか、「マスク着用をやめる」ことなのだ。

しかも、ワクチン接種中止も宣言すれば、おおいに「男が上がる」はずなのに。

こうしたことを「させない」議会は、なにをやっているのか?
地方議会とは、「立法府なのだ」という意識がないのではないか?と今さらに確認できる無惨である。

まったくもって、嘆かわしい、としか言いようのない出来事である。

冷や汁の夏

セミの声が聞こえたと思ったら、また黙り込んだ。
気のはやいヤツは、どうしたのだろう?

コロナの悪い噂で、学校がどうなっているのか知らないけれど、もうすぐ夏休みのシーズンではある。
酷暑の中、いまだにマスクをつけて歩いている人をみると気の毒になるし、子どもが着けているから親の情弱が恨めしい。

スペインの研究から、「酸化グラフェン」を吸入する不織布マスクが「危険」という情報の一方で、熊本大学ではその真逆の研究成果が有名科学雑誌で発表されるらしい。
昨年9月にあった、熊本大学研究員の殺人事件では、被害者本人が「エセ研究」といっていたとの「話」もあって、「妖しさ」すらある。

事実は小説よりも奇なり、は正しい?

7月は、「お中元」。
むかしはいろんな物が届いていたけど、洗濯石鹸とか食用油のセットがいつの頃からかずいぶん前に邪魔になりだした。
マスク不足の頃ならば、大量に届いた家もあるかもしれない。

わが家では、「揚げ物」を一切やらなくなって久しいので、「サラダ油」をもらっても困ることになった。
それに、「サラダ」に「サラダ油」を使わない。
一応、「危険な油脂」の筆頭が「サラダ油」になっている。

いろんな意味で、面倒くさい世の中になった。
家庭で忌避されるようになったら、飲食店とか惣菜屋はどんな油を「身体にいい」というのかも、「印象」だけでは済まなくなる。
それもこれも、学者も玉石混交だとコロナでばれたのが原因だ。

ましてや政府をや。
過去の「薬害」の反省がぜんぜんないどころか、「害毒を蔓延」させている可能性まである。
いい加減、「新型コロナウィルス」なる、幻の宣伝をやめてほしい。

わが家では、「ゴマ汁」と呼んでいたが、これは、「横浜の郷土料理」なのである。
「冷や汁」とも、「冷やし汁」ともいうらしい。

「横浜」といっても、面積的には広いので、いったいどこか?ということがあるけれど、「旧橘(たちばな)郡」で、神奈川奉行所の管轄地を中心として、川崎の一部を含める。
詳しい方にはご教授願いたい。

群馬県出身の祖父には馴染みがなかったので、母も珍しがっていた。
婿養子の父の出身が「橘郡日吉村」だったから、地域的には「当たり」だと思われる。
なお、橘郡の南端は、保土ヶ谷区や西区の一部なので、結構広い範囲だ。

それでもって、中身だが、すり鉢に煎ったゴマを少しずつ大量に入れて、大騒ぎしながらこれをすりつぶす。
金物屋で市販の「すりこ木」が、短かったり細かったりと、作業の支障になるから、東北とかどこかに旅行にいくと、なんだか立派なでこぼこがある、ちゃんとした山椒の木のすりこ木を買ってくる習性が父にはあった。

もういいのでは?と思っても、まだまだ、といっこうに許してくれないから、食べるまでが大変な「料理」なのだった。
暑い夏場に、大汗かいてゴマをひたすらすりつぶした。
それで、ごま油がにじみ出てきて、ペースト状になってくる「手前」で、味噌を加えて山椒の葉を入れて軽くする。

そうしてから、氷水でこれを「溶く」のである。
氷を入れないようにちょろちょろ溶かせばできあがり。
これに、刻みキュウリや茗荷のトッピングがあればなおよい。

わが家ではもっぱら炊きたてのご飯にたっぷりかけて、お茶漬けのようにすすり込んだ。
うどんやそうめんのつけ汁にしてもいい。

しかして、これが日持ちしない。
だから、一家で一食分しか作らない。
あんなにいっぱい作ったはずだけど、じゃぶじゃぶかけて食べるから、すぐになくなるのである。

ところが、家族の人数が少なくなると、作る手間と見合わない。
どうせならたくさん作ればいいけれど、日持ちしないから仕方がない。
そんなわけで、めっきりご無沙汰をしていたのである。

「復活」は、フリーズドライの「冷や汁」である。
まさかと思ってみたけれど、「水」で見事に「もどる」のである。
むかし食べたそれとは、ちょっと違って茄子や大葉が入っている。
それでもやっぱり「うまい」のである。

パンフレットには「夏季限定」と大書されているのがミソである。
それならと、送料が無料になるまで購入した。

今年の夏は、これで乗り切る。