「手に職をつける」ことで生きる

生活のいろんな場面で、国家が介入してくる、時代になった。
そういえばむかしの生活は、いまよりもずっと自由だったとおもうのである。

それは、世間の構造がいまよりもずっと単純だったからではない。

どんな社会にするのか?は、個々の意志が塊ってつくるのである。
だから、教育がおそろしく重要で、国家やらなんらかの組織がこれを支配すると、個々の意志をコントロールできてしまう。

そうやって、全体主義をよしとするような気分を刷り込められたら、たちまちそうなるし、その緊張を解放して民主主義をよしとするなら、一晩でも変わる。

この事例として、わたしには、橋田壽賀子の『おしん』の一生が、わかりやすかった。

 

とはいえ、「レビュー」を読むと、あんがいとトンチンカンな感想を書いているひとがいて、それはそれで、「ひとそれぞれ」だとおもうのである。
ただし、橋田氏が明かしたこの作品の執筆動機は、明治の女(彼女から観た母や祖母世代)の記憶を残すこと、だと書いている。

しかして、「おしん」の独立心の根源には、貧乏からの逃避願望があった。

それでまた、彼女が奉公先で仕込まれたのは本人の資質にくわえて、見どころをみつける能力が、奉公先それぞれの経営者にあったラッキーとかさなる。
ここが、人生における偶然と成り行きが織りなすドラマになる理由なのだ。

なので、わたしは『おしん』を「経済ドラマ」として読んで、それで読書ノートを作ったら、彼女個人の人生と社会との絡みがよくわかったのである。

ざっくり、「おしん」は、4つの職業人だった。

1.料理人(奉公人として)
2.髪結い(初の独立稼業)
3.縫製職人(ビジネス化への試み)
4.魚屋(ビジネスは「信用」に行き着いた結果の成功)

「利益は後からついてくる」あくまでも「結果」なのだと強調したのが、ヤマト運輸をヤマト運輸にした、小倉昌男氏だった。
このことを心の芯から理解するのにどれほどの足掻きがあったものか?
それをまた、いつまでも理解できない身内や周辺に、おしんは不満として孤独感に苛まれるのである。

さいきんの「多様化する働き方」というフレーズに違和感があるのは、もともと職業とは多様化していたのだから、なにをいっているのか?とおもうからである。

むしろ、国家の教育制度が、「複線的」であったものを、戦後の教育改革なる騙しで、「単線的」に変えさせられたことが、あたかも「勤め人」になることだけになったことの反動にすぎない。

つまり、高等ではないのに高等学校という場所の、圧倒的「普通科」選択である。

なので、職業学校的な、商業高校、工業高校、農業高校などが、いかにも低レベルという状態に追い込んで、普通科の天下が長く続いたのである。
しかも、職業学校から普通科とか、普通科から職業学校への「転科」はほとんど行われず、それはまた社会に出てからも同じであった。

だからこれを、「単線的」というのである。

旧制の学校制度には、こんな無謀な決めつけはなかったが、尋常小学校までが義務教育だったことも大きい。
それから先は、個々の人生で選択したのである。

それでもって、成績優秀だったひとたちが、狭い視野で教育をコントロールしようなぞという姑息をやるから、あたかも日本人が全員、高等教育機関に通わないといけないような風潮ができて、その究極が、高校無償化という愚策になったのである。

前にも書いたが、教育の無償化は、『共産党宣言』にちゃんと書いてある、共産主義政策の基本なのである。

与党になにやら隙間風が吹いているのはよいとして、これら「無償化」の徹底を公約とする公明党は、その宿敵、共産党となんらちがいのない、ただの共産主義・全体主義政党なのであると告白している。

ただし、「維新の会」というより邪悪な集団は、公明党よりも、もっと巧妙で積極的に共産主義・全体主義を推進するものなので、「五十歩百歩」だ。

時代はA.I.を使いこなすまでになったけど、全部の職業でA.I.が必要だというわけではない。
だから、A.I.を使いこなすことができる人材を育成する「必要」も、一部でしかないのである。

世の中のことは、需要と供給のバランスで成り立っている。

それだから、どんな職業の需要が高くて、どんな職業の供給が多いかが、職業選択上の着眼点になるのは当然だ。
これにも国家が介入して、いわゆる、「国家試験」とか、「国家資格」を設けている。
そうやって、供給の数をコントロールしているのである。

ところが、A.I.がこの介入に介入してきた。

機械学習による「ルーチンワーク」がA.I.の本質なので、法的なルーチンワークなら、人間を要しないことがふつうになると容易に想像できる。
なので、将来を見据えた職業選択をするなら、A.I.とまともにぶつからない分野こそ、人間のやるべき仕事になるのである。

これが、手に職をつける、ことへの回帰になっているのである。
この点で、戦後の教育制度は、すでに完全陳腐化している。

すると、人間の触覚やらの「五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)」と、センサーとの闘いになってくる。
視覚センサー、聴覚センサー、触覚センサー、味覚センサー、臭覚センサーの精度と、人間の感覚器官の精度との闘いだ。

しかし、いかにセンサー技術が発達しても、それでどうする?ができないと、人間の勝利が確定する。
ここに、「職人技を超越した職人芸」が、将来にもまったく侮れない、重要な要素があると確信できるのだ。

なので、なにをもって職とするか?の職業選択こそ、学校選択よりもはるかに重要な分岐点になる。
ただし、「複線的」であれば、「おしん」のように、何回も乗り換えが可能だけど。

そんなわけで、わたしはとうてい間に合わないけれど、10代の若者の可能性をかんがえると、ワクワクする時代になったのはよいことだ。

このワクワクを教えることが、教育なんだけど、これを家庭でできないから、チャンスをみすみす逃す若者が多数なのだろう。

ワクワクをしった少数の若者の需要が高まるのも、道理、というものなのである。

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