『自発的隷従論』を読む

人間がかんがえることは、かなりのことが昔にかんがえられていることがある。
どうやら人間は、衣食足りるとかんがえだす傾向があるのだけれど、果たして現在はいかがか?

「ギリシャ哲学」という古代ギリシャでの哲学は、「市民」という閑人たちが日がな一日広場に集まってそこでの議論で生まれたと習う。このひとたちはどうやって生計を立てていたのかといえば、奴隷制があったからだった。
戦争による掠奪には、敗者を奴隷にして当然という合意が人間にあった。

イタリアオペラの傑作のひとつ、『アイーダ』は、古代エジプトを舞台にした、若きエリート将軍と元エチオピア王女で奴隷にされたアイーダとの悲恋物語である。
そうかんがえると、奴隷というのは歴史が古く長いものだ。

政府や為政者(ときに「独裁者」)に従属するひとたちを蔑んで「奴隷根性」ということがある。
こうした「根性」がどこからやってくるのか?を「解読」したのが、16世紀半ばで夭折した法務官、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530年~1563年)であった。

彼が残した『自発的隷従論』は、なぜに人間は政府や為政者に隷従するのか?という問題に、「隷従はいけないこと」という観点ではなく、ただまっしぐらに、「構造」を解明したことが「新しい」のである。

それは、為政者の「取り巻き」たちが、権力の恩恵にあずかろうとするからであって、これが、「ピラミッド型社会組織」として入れ子型に成りたっていると分析した。
つまるところ、支配と利権の構造なのである。

トップの取り巻きだけでなく、その取り巻きをトップにした、下の階層にも取り巻きがいて、さらにまた、、、、、と続く構造だ。
これを、「自発的隷従」と定義した。

改めて読んでみれば、いま、彼の住んだフランスはもとより、世界同時に起きた「コロナ・パンデミック」で、それがどんなに「茶番劇」であっても、ひとびとは「自分の生き残り」を信じて、政府が言う「ワクチン」を接種し、また、政府がこれを「強制」していることの「本質」がみえてくる。

もちろん、政府は「安全策」として、決して「安全」とは言わず、むしろHPや「官報」における「告知」では、「緊急性」を前面に出して「治験中」とか「承認薬ではない」ことをちゃんと書いている。
それでもって、自己判断としながらも、あたかも接種しないのは「悪」だと誘導しているのである。

これは、業界にも適用されて、政府専門家会議を代表するひとが、公共放送を通じて「エビデンスはない」と明言しながら、「飲食店の営業時間短縮」とか「酒類提供の禁止」を助言し、政府高官が推進していることに「隷従」することでも現れている。

言い過ぎたとして、前言を撤回した、とはいっても、ぜんぜん撤回などしていなくて、事実上の「禁酒」が実行されている。
飲食店で飲めない、という事情から、「家飲み」というふつうができて、「ビン・カンもの」のゴミが急増している。

これらは、国連・各国政府が推進する「SDGs」の流れに逆行するから、そのうちまた国民を痛めつける、レジ袋有料化などの「政策」をかんがえだすだろう。

それにしても、飲食店やら宿泊・旅行業界が「黙っている」のはどういう「利権」があるのかと疑えば、積極的利権ではなくて、消極的利権の存在が見えてくる。
それは、政府による「いじめ」が怖いからである。

先進国の先進国たるゆえんは、政府機構や機能も先進的だからである。
つまり、あらゆる分野を法で支配していて漏れがない。
だから、政府に逆らうということの「報復」が、どの方面の法律執行からやってくるのかわからないという「恐怖」が「経営リスク」となるのである。

「法」ならば、立法府と司法府の出番、ということに「ならない」のは、法の下にある「政令」、「省令」、「規則」に「通達」といった、「行政」からの各種命令が、行政官によって発令されるからである。

これが、「業界」をがんじがらめに縛っているのだ。

さらに、「縦割り行政」が、面倒を生む。
もちろん、面倒なのは政府の側ではなくて、支配される業界の側である。
ある意味、どこから弾が飛んで来るのか、わからないからである。
それで、担当部署の責任の大元を見つけだすこと自体が、面倒を生む。

「雲隠れ」するという、忍法までも駆使してくるのだ。

個人の世界では、エーリッヒ・フロムの名著『自由からの逃走』がある。
このような外国の「解説」が、わが国でも「有用」になったのは、わが国がわが国「らしさ」を失った証拠でもある。
これが、「グローバル化」ということなのだ。

外国旅行に一回も行ったことがないからといって、グローバル化とは関係ない、にはならない。
むしろ、外国がすすめる「ワクチン・パスポート」がなくては、外国旅行に行けないとなれば、ワクチン接種をしたくなくともしないといけない。

フランスや英国では、飲み屋にも提示がないと入店できないと提案されて、大規模デモになっている。

これを、直接的な「強制」とは言わせない努力も政府は仕掛けるのだ。
これこそが、「同調圧力」の応用なのであって、個人の精神を痛めつける社会的恐怖なのである。

ならば、「夏休み」に、遠藤周作の代表作『海と毒薬』でも読んでみるのがいいだろう。
この「実話」が、これからの「実話」になる努力が政府によってされている。

 

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