いまさら『おしん』を読破した

NHK朝の連続テレビ小説で、空前のブームを巻き起こしたのが、昭和58年(1983年)4月4日から翌59年(1984年)3月31日までの放送だった『おしん』である。

そしてこのドラマは、最初TBSの昼ドラマとして持ち込まれ、NHKでも「ボツ」になったというドラマがある。
それから3年して、NHKテレビ放送30周年記念ドラマとして企画が復活したという。

作者の橋田壽賀子氏によると、シナリオを出版することの抵抗について触れている。
シナリオは本来活字にするものではない、と。
映像になってこそ生きてくる。

しかしながら、台詞を読んで自分なりのイメージをつくるのは、それなりに意味があるのかもしれない。
それで、シナリオを出版することにした、と「序」にある。

もっとも『おしん』は、別に「小説版」もある。
今回読破したのは、「シナリオ版」(全4巻)の方だ。
ちなみに、上述した「ボツ」の経緯は、『おしんの遺言』「はじめに」に橋田氏が書いている。

個人的にわたしが『おしん』を観たのは、「奉公編」だけで小林綾子ちゃんの圧倒的な演技に見とれていた。
丁度、田中裕子にバトンタッチするときに、エジプトへ赴任してしまった。

だから、『おしん』のその後をぜんぜんしらない。
でも、エジプトの空の下にいても、その「大ヒットぶり」だけはしっていた。

テレビを観ない生活をして、10年以上になる。
ニュースも天気予報も観ないで、ふつうに生活にも職業上も困らない。
BSで『おしん』が放送されていると知人から聞いても、観ることができないという事情があって、やっぱりまだ観ていない。

ならばどうして、いまさら『おしん』を「読む」ことにしたのか?ということが、拙稿のテーマである。

それは、わたしの「資本主義研究」の一環なのだ。
わたしには、いまの「資本主義社会」が、「資本主義社会ではない」のではないか?という疑問があるのだ。

このきっかけは、昭和13年(1938年)に出版された、チェスター・バーナードの名著『経営者の役割』における、経営者と労働者の関係にある。

われわれは、てっきり経営者と労働者は「対立するもの」という概念を疑わない、というマルクス主義からの「洗脳」を受けている。
しかし、バーナードはこれを、「完全否定」して、経営者と労働者は「協働する」ことで一致すると証明したのである。

その一致点が、「付加価値創造」であった。

経営者の目的は企業利潤の最大化にある一方で、労働者の目的は賃金の最大化にある。
だから、利益と経費の関係から両者は対立する、という浅はかなかんがえが生まれて、「対立構造」となるようにみえる。

しかし、これこそがマルクスが仕組んだ「破壊工作」そのものであって、付加価値を最大限に創造することに注視すれば、経営者の目的も労働者の目的も同時に達成できるのである。

なぜならば、「付加価値」には、「賃金も含まれる」からである。

わが国の「失われた30年」における、賃金低下は、他の先進国にはみられない「惨状」となっている。
それが逆に、労働者をして「付加価値創造」の意味を気づかせたのに、経営者が相変わらず「人件費削減に躍起になっている」情けない状態なのである。

これは、わが国の経営者が「社内昇格」するということから、新入社員から管理職になるまで、じつは労働組合員だったことに遡ると、「当時」の労組が「対立構造」を信じていたことの恐るべき「記憶」が、いまの経営者に残存しているからであろう。

それが、「こびりついて」はがれない。

すると、わが国の経営者は、いったいどんな研鑽を社内で積んできたのか?ということが、重大な疑念となるのである。
それが、「育ち」という問題になる。

ここに、『おしん』の「育ち」との連関が生まれるのだ。

とくに、酒田の米問屋「加賀屋」の大女将から手ほどきをうけたことが、おしんの一生を左右する「基礎」となったことは、その後の経営者としての絶対的カリスマ要素の根幹を成している。

すると、「大女将」とは、一体何者だったのか?
シナリオには一切ないけど、1900年(明治33年)生まれのおしんからしてどうかんがえても、江戸時代の生まれになって、このひとの「育ち」を想像せざるをえない。

それがまた、酒田という、東京から離れた地域における、江戸時代の残照とその繁栄を想えば、より一層の輝きをもっている。
このことと、山本七平が指摘した『日本資本主義の精神』が合致する。

すなわち、大女将の商売は、信頼を基礎に道徳的な儲けでよしとした、今様の「がめつい儲け主義」ではぜんぜんない。
むしろ、マックス・ウェーバーがいう「禁欲的」でさえある。

すると、アメリカで聖書の次に読まれた、アイン・ランドが主張した、「未完の資本主義」とは、ヨーロッパ、アメリカという「先進国」のことをいうけど、「完成された資本主義」を世界で唯一経験したのは、江戸期から第一次世界大戦の「大戦景気」前までの期間における「日本」だったのではないか?

だとしたら、わが国のいまの凋落は、首相がいう「新しい資本主義」ではなくて、かつての「資本主義」を復活させればよい、ということになる。

これこそが、アイン・ランドが理想とした、「資本主義とは道徳的である」ことの、唯一の具現化であって、それが基盤となる「道徳社会」を構築できるのは、やはり世界で日本人しかいないのである。

橋田壽賀子氏が、「明治生まれの母たちを知っている最後の世代の私たちのつとめだし、母たちへの鎮魂歌なのである」、と『おしん』を書いたことの理由が重いのだ。

そうやって「読む」と、『おしん』は、『ロビンソン・クルーソー』をはるかに凌ぐ、「経済人」なのであって、すくなくとも「ホームドラマ」ではない。

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