少子化は悪政の結果である

昨日の話に関連する。

あたかも幼児を守るがの「素振り」をするけれど、おそらく「緊急対策」の後に、「本格的対策」を打ち出す気は毛頭ないから、「緊急」なのだろう。
まさに、その場限り、なのである。

厚労大臣に出もどったこないだまで官房長官をやっていたひとが、外国人への生活保護支給について、「法的には間違っているが、人道的には正しい」といったことを述べて物議を醸している。

実際問題として、わが国における「外国人への生活保護支給」のはじまりは、「通達1本」だけなのである。
つまり、「法」を解釈した行政官の「裁量」が根拠になっている。

裏返せば、国会が法的根拠を明記したことが、一度もない、のである。

これは、大蔵省内でも「まじめ」で有名だったひとの、「まじめさゆえ」の発言で、その「正直さ」については、ご立派としかいえない。
しかし、もはや「官僚」ではなくて、国会議員たる政治家なのである。
その人物が、国会の役割を無視していいものか?

さらに、彼がいった「法」とは、「憲法のこと」ではないかとも解釈されて、「違憲」を承知で、「人道優先」とするならば、まったくもってなんでもできる状態で、「憲法」はあってもこれを守る精神の欠如は、完全に憲法の憲法たる根拠を失ったことまで意味するから、重大発言になったのである。

つまり、「日本国憲法は死んでいる」、と。

すなわち、護憲派だろうが改憲派だろうが、死んだものをどうする?という議論になるので、その空しさが顕在化したのである。
ここに、わが国の病根が、とうとう憲法を亡きものにしたことで、完全に「オワコン」になったことを示したのである。

すると、現在、日本国はいったい何を根拠にして運営されているのか?を問えば、「多数決の原理」と「各種法規」だということになった。
それで、これら各種法規を憲法亡きなかで「改正」するには、多数決であればなんでもできることになったのである。

ヒトラーは、「全権委任法」の可決によって独裁権を確立することに成功し、ワイマール憲法はそのまま放置した。
ワイマール憲法の主旨からしたら、全権委任法は違憲ではないか?という議論も、熱狂的な全権委任法への賛成で打ち消されたのだった。

つまり、ワイマール憲法は、とっくに死んでいた。
いや、ドイツ国民によって殺されたのである。

では、日本国憲法はどうかといえば、あたかも「自然死」したごとくにみえるのは、日本国民の「無関心」による。
結局のところ、われわれ日本人は、明治憲法にせよ日本国憲法にせよ、はたまた聖徳太子による十七条憲法にせよ、国民が憲法作成に関与したという経験をもっていない。

なので、憲法とはなにか?について、学校でも習わない。
ただ、国家の最高法規として暗記させられて、三権分立とか自由とか基本的人権とかも一緒に暗記すればそれでよい。

そうやって、憲法を守らないといけないのは「誰か?」ということを暗記させられないので、日本人は日本国民がこぞって憲法を守らないといけない、と思いこまされている。

ヨーロッパ基準になっている「近代民主主義国家の憲法」とは、国民から国家・政府に向けた「命令書」なので、国民自身は憲法を守るも何もない。
憲法を絶対に守らなければならないのは、国家・政府であるから、その中のひとたる「公務員」が、対象になるのである。

これって、行政府だけでなく、裁判所も、国会もだし、地方も同様だ。

そんなわけで、憲法を自然死させたのは、日本国民による国家・政府への監視の無関心だった。
つまり、近代民主主義国家とは、主権者たる「国民」に、相応の「負担」を強いるシステムなのである。

しかしいま、巨大ブーメランとなって国民をなぎ倒しているのは、国民からの命令書を平然と無視し、これを、「人道」だとうそぶくひとたちを「選んだ」という事実に基づいている。

まさに、主権者が主権者たる相応の負担を実質拒否した無関心が、自分たちの未来を奪うことになったのである。

だから、必然的に、国家・政府は「悪魔化」する。
あらゆる「甘言」によって、国民から自主独立の精神を奪い、国家・政府への絶対的な奴隷となす努力が、「国策」になるのである。

もう、おそらく、間に合わないだろうけど、せめてゲーテの『ファウスト』は読んでおくべき一冊なのだ。
あの、ドイツ人たちの現状をみれば、ドイツ人が自国の金字塔的文学を、またまた忘れてしまった結果が、いまだから、日本人にも「効く」ことはうけあいだ。

 

さては、「少子化問題担当相」も、その業務は「少子化促進」なのであった。

何をか言わんや。

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