わが国の「労働問題」をややこしくしているのは,「問題解決」の教科書がいう「ロジカル・シンキング」がなっちゃないからではないか?
つねに安易な「弥縫(びほう)的」すなわち,「その場しのぎ」や「間に合わせ」を積みかさねてしまったから,問題の本質が「うろこの層の下」にあるようになって,むりやりにでも引っ掻かないと何が何だかわからなくなった.
だから,用語の定義にもしっかり「裏」があって,そのまま素直には受け取れない.
たとえば,「正社員」.
これは、「ぜったいに『解雇できない』社員」という意味だ.
「正」は「ただしい」でも,「正規の」という意味もうしなって,「解雇されない特権」と「自分から辞める自由」という意味になった.
つまり,雇用する企業側からみれば,いちど採用したら最後,自分から辞めなければ,とにかく一生面倒をみなければならない義務を背負うことになる.
これは,「公務員」の身分とおなじだ.
なので,かならず「貴族化」する.
それに,「社員」だって,もはや「法的」な定義の「社員」より,会社の「従業員」を社員ということがふつうになった.もっとも,こちらには「雇員」という古いいい方があったけど,「雇ってやっている」から「業務に従う」への変化は,しょせん上から目線だからたいした変化ではない.
むしろ,「出資者」や「事業パートナー」としての法的「社員」の位置づけが断ち切られた様相のほうが深刻なのだろう.
「雇員」だろうが「従業員」だろうが,労働という有限資源を提供しているのだから,広い意味では「出資者」である.だから,これに「社員」「派遣」「パート・アルバイト」といった「雇用形態」に差をつけるのはナンセンスである.
このひとたちは,全員が労働という有限資源を提供する見返りに,「賃金を得る」という「ビジネス」をしている.
だから,ビジネス・スーツに身を固めたひとだけが「ビジネス」をしているのではない.
この二十年あまり,「不況だから」とか「利益が出ない」から,という理由で賃金をさげてきた.
それで,サラリーマンの生涯年収がかつて「3億円」といわれていたが,ちかごろとうとう「2億円」になった.夫婦とも正社員だと「4億円」になって,金利がめちゃくちゃ低いから,人生最大の買い物である住宅で,7千万円ぐらいの家が買えるようになった.
産業のなかでも自動車と住宅が,そのすそ野の広さで圧倒している.
ご存じ,自動車はわが国を代表する輸出産業であるから,為替の動向もふくめ,この産業の浮沈はわが国経済のかなめである.
一方で,住宅の輸出はどうかというと,自動車のような位置づけにはなっていない.国内向け主体なのである.
わが国の住宅は,「在来工法」でもすっかり「プレハブ化」したから,むかしながらの大工さんが建てる家は「伝統工法」になってしまった.ましてや,立体高層長屋を「マンション(邸宅)」と呼んで耳に心地よい一般化に成功した.コンクリートの構造躯体に個人が注文をつけられないので,内装しかこだわれない.
こうして,わが国の住宅は,大量生産の工業化を果たすと同時に,「工法」が標準化され,完成と同時に価値を失うことになった.
すなわち,大量生産=大量消費が「美徳」というかんがえかたの固定である.
こうした品質の住宅を,消費者は大枚はたいて買わされる.
個人の年収を夫婦で稼がないといけなくなったから,女性の男性化が必定となる.
「ジェンダーフリー」というガラパゴス化も,ここに要因のひとつがあるのだろう.
これが,企業内で「ハラスメント」を引き起こすのかもしれない.
ひるがえって,企業は正社員を採用すれば,向こう40年間で2億円以上の出費が確定する.
つまり,企業経営にとって,「採用」は重大問題である.もちろん,いまにはじまったことではないが,正社員保護の体制確立はむかしにできたものではない.
それにしては,むかしのままの「採用方式」ではないか?
ここにも「無能」経営者のすがたが出てくる.
そんな無能は,かならず「人件費」を費用としてしかみないから,経費削減の対象にする.
ならば,正社員を採用しなければよい.
ところが,人事泣かせなのは,無能経営者がことわれない「推薦」の存在だ.
そこで,人件費削減に熱心な経営者に,正社員の採用中止を進言したら,正社員がいないと困る,という.
何故かと理由をきいたら,こたえられなかった.
なんとなく採用して,その結果責任を従業員にもとめる愚.
ため息しかでないことがある.