過剰と欠乏のアンバランス

なにが「過剰」で、なにが「欠乏」なのか?といえば、ここでは、「グローバリズム」と「ナショナリズム」のこととして話を進める。

グローバリズムの良い点・悪い点、ナショナリズムの良い点・悪い点と、それぞれに「良い点・悪い点」があるのは、世の道理というものだ。

たとえば、「酸素と二酸化炭素」だって、酸素の良い点・悪い点と二酸化炭素の良い点・悪い点がある。
地球の歴史の中に、「途中」からでてくる「生命の歴史」でいえば、初期のころの酸素は「猛毒」だった。

これを、二酸化炭素についていえば、できたての地球大気のほとんど「9割以上」が二酸化炭素だったのである。
この地球とは、生命が存在していない時代(約5億年間)のことをいう。

最初は「火の玉状」だった地球が、だんだん冷えて、という説明があるから、どうして「水」で満たされた「海」ができたのか?というのもまことに不思議千万なことである。
それに、紫外線をカットする「オゾン層」だって、この頃の地球には存在しなかった。

「光」とは「波動」である、と確定したのは、1925年の「量子力学の成立」のことであったから、まだ100年経っていない。
この間ずっと、「粒子」か「波」か?という議論が続いていたのである。

ニュートンも、アインシュタインも認めていなかった。

太陽からやってくる「日光」には、可視光線の他に見えないものも含まれていて、「波長」順で並べたら、紫外線から赤外線へとだんだん「長く」表現するグラフがわかりやすい。

いまでは、紫外線が害悪になるとしられたけれど、人間が「眩しい」と感じるのは「黄色(波長 589nm あたり)」なので、これをカットする特殊なレンズを眼鏡に応用したのが、コダックである。

人間の「目」が、可視光線「だけ」しか見えない(だから「可視光線」という)のは、全部が見えたら情報「過剰」になって、「脳」の処理が間に合わなくなるからだ。
逆に、たとえば、昆虫の目は、人間とは別の波長を「可視光線」にしている。

目が二つあるのは、それぞれの目からの「画像情報」を脳が「合成」して、「距離感」があるひとつの「画像をつくる」ためだ。
なので、「ガチャ目」のひとは、眼鏡で矯正しないと眼精疲労(=脳の疲労)からの頭痛や肩こりを発症するのである。

さて、地球の自然からわれわれ人間も生まれた「動物」だから、自然科学の成果の恩恵は計り知れないけれども、自然の法則が全部わかっているわけではない。
むしろ、わかればわかるほど、「真理は遠くなる」のだ。

これは、「人間の営み」という世界もおなじで、その複雑性は当然ながら解明されていないのでずっと研究中である。

しかし、「わかったつもり」にならないと、日常生活が面倒になるので、かんがえない、という態度も「可視光線」に限る、こととおなじで、「脳」への「過剰」な負担をさせないための「自然」なのである。

あたかも、光より速いものはないのに、何万光年とかいう宇宙でいえば、やたら「遅い」のと、脳がスーパーコンピュータを相手にしないほど優秀なのに、「この程度の処理能力」というのとおなじなのだ。

しかも、脳はあんがいと「サボり癖」があって、それが5感で「錯覚」をつくりだし、挙げ句に「思い込み」もさせるのだ。
そんなわけで、人間は自分の脳に欺されながら生きていて、欺されていることに一生気づかないで死んでいく動物なのである。

だから、人間の営みという世界をかんがえない、という態度が嵩じると、また、ある集団がこのことを、利用すると、たいへん厄介なことになるのも、人間の営みという世界なのである。

国家がひとつの「枠」としてあったついこの前までの時代、人間の営みのなかでの最重要な、生命維持、を担保する「経済」も、「国内だけ」をかんがえればよくて、せいぜい外国との取り引きでは、決済と為替、それに関税を安定させればよかった。

リカードが発見した「比較優位」(1817年)という、「貿易」による当事者双方の利益が「常識」になって、それがグローバリズムの重要な根拠になったのである。
もちろんこれには、「合理性」がある。

誰かに意図されたかどうかは別として、「プラザ合意」(1985年9月22日)という、人類(社会)史の「転換点」がある。

特に、「日本の時代の終わりの始まり」となることだから、とりわけ日本人には重要だけど、忘れたことにするか、かんがえない、という態度を貫いている。
またそれは、子供に「教えない」ということにもなっている。

一方で、社会主義・共産主義という「グローバリズム」の思想が、ぜんぜんちがう「方向」から、リカードの示した「画像」と、「合成」されて、「あたらしいグローバリズム」が知らないうちに誕生した。

それが、現代の自由主義社会で起きている「全体主義化」の原動力なのだ。
個々人の「生存」の「自由」をまもるために、政府が「強制する」ことの「正義」が、それだ。

個体としての自分のためのワクチン接種が、他人のためになって、社会全体のためになったのを、「全体主義」と言わない、言わせない、ことが、過剰なだけでなく、かんがえない、という態度の過剰がその基礎にある。

症状があるひとの「マスク着用」は端から他人のためだったのに、いつの間にか感染「予防」という非科学によって、自分のためにもなったのは、かんがえない、という態度の過剰からなので、結局は「同類」なのである。

さてそれで、こうしたことの「アンチ」としての「ナショナリズム」運動が各国ではじまった。
だから、むかし(プラザ合意以前)のいわゆる「国粋主義」ではない。
むしろグローバリズムの過剰に対する、欠乏がこの運動の根拠なのだ。

健常者には過剰な酸素吸入は毒だから、二酸化炭素が欲しくなるようなものなのだ。

ちなみに、たいがいの植物(わずかな種に「例外」はある)にとっては、現在の4倍程度の二酸化炭素濃度がもっとも「成長に都合がいい」ことは、栽培実験で証明されている。

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