生きている大日本帝国政府

わが国における「憲法論議が厄介」なのは、国民に「法意識が欠如」しているからだという鋭い指摘がある。

困ったことなのか、どうでもいいことなのかを問えば、「困ったこと」ではあるけれど、その「困った」の中身が、これまた「困った」という構造になっていて、話が面倒くさくなるのである。

残念ながら、現代社会は「極悪非道」だった、ヨーロッパの常識が基本となってつくられている。
「(産業)資本主義」もそのうちのひとつだ。

一応、このブログでは「書き分けているつもり」だけれども、「資本主義」と「産業資本主義」は別ものだとかんがえている。
マルクスが批判した「資本主義」は、彼がつくった「説明用語」だという認識をとりあえずしているからである。

なので、彼に続くひとたちのいう「空想」とか「科学」とかでいう「社会」を論じる「社会主義・共産主義」から離れて、「現実」世界は、「産業資本主義」の社会なので、これを、「分けたい」のである。

もちろん、産業資本主義を輸入して導入したことが、わが国をして経済的繁栄の社会に押し上げたことは歴史のとおりである。
だから、その基盤となる「思想」も、書き換えるどころか上塗りしようがなにをしようが「欧米化」させないと成りたたない。

この基本に、「法」があることは、これも当然なのである。

しかしながら、江戸時代の日本人には、「法」といったら「仏法」のことか、「自然法則」のことだった。
あるいは、「儒教的な人倫」のことを指した。

だから、刑事事件の「お白州」でも、お奉行様は「法」とはいわず、「天下の大道を犯す」とかと、「道」を言ったのも「ご公儀の定め」が「人倫の道」に合致している前提からであった。
天から与えられた「当たり前」を、とにかく前提にしたのである。

将軍が裁可した法は、「御定書」であったけど、いよいよ外国との協定や条約をどうするかが議論となったときに、朝廷の天皇の裁可がないといけないという、わが国の「根幹のありどころ」が大問題になったのである。

根幹のありどころが議論されて、それが「朝廷=天皇」であることがハッキリしたことで、あらゆる「改変」が、「勅令」となって発布された。
あらゆる「改変」には、生活習慣までが含まれて、たとえば、「廃刀令」とか「断髪令」とかであった。

およそ西洋の近代史において、絶対王政の時代にあっても、生活習慣を一変させる法は発令されていない。
むしろ、宗教生活という生活習慣に触れたら、ピューリタン革命になるほどのことになったのである。

一応わが国でも 敦賀県(現在の福井県)で、断髪令に反対する3万人が一揆を起こして鎮圧されたという悲劇があったのは、生活習慣が変えがたいことを示すのである。
これ以外、全国でほぼ平穏に推進されたのをみて、当時のフランス外交官は、「天皇を神」だと記録した。

「勅令」で生活習慣を一変させることができることの、「驚異」を言ったのである。
フランス絶対王政でもあり得ない、と。

それでもって、わが国は、国民習慣・生活を決定する「民法典」を、なんと「フランスから直輸入」した。
フランス民法典を、日本語翻訳してこれを、「発布」したのである。

しかして、この「民法」は機能したか?といえば、「したようなしなかったような」だった。
あまりにも現実の生活とちがうなら、「解釈」として現実をとりながら、かといって「法律に書いてある」も有効だった。

なんでそんなに急いだのかといえば、第一に「不平等条約の撤廃」という国家目標があったからである。
憲法をつくったのも、これだ。
第二に、産業資本主義の導入があった。

そんなわけで、日本人には、日本人の生活文化に沿った「法」ではないものからどんどん「法制度」が整備されたので、生活と法の不一致が「ふつう」になってしまったのである。

それなら矛盾だらけになるのは当然で、これを政府は強権的に、つまり妥協せずに実行させることが「業務」になった。
こうして、まずは政府自ら批判の対象にならないように「無謬性」(決して間違えない)が担保されるにいたる。

「判例」も多数あって、たとえば、消防自動車が火事場に向かう途中で歩行者を轢いてしまって、轢かれた人が死亡しても、政府官吏たる消防士に罪は問われなかったし、賠償もなかった。
もっといえば、消防自動車はいつなんどきでも、あるいは「意図的」でも誰かを轢いても無罪だったのである。

なるほどそれで、やたら消防車が出てくることの理由がわかったのは、「戦後」の『警察日記』(日活:1955年)である。
これは、民主主義になって「改善」された、というメッセージだと思われる。

では「その他」は?と問えば、国民にも政府にも、根本からの「改善」が見込めないのは、意識の問題ではなくて、残念だが「被害」の問題に気づかないようになっていることにある。

欧米人のように、酷い政府に酷い目にあって、怒りが溜まらないと治らないのだろう。

しかして、先日、「ワクチン未接種者には、これみよしがしの嫌がらせをしてやる」と発言して物議を醸したフランスのマクロン大統領が、4月の選挙で二選を目指すとようやく出馬表明した。

わが国政府も負けじと、まんぼうを延長すると決めたのは、同じ発想からであろう。

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