結果平等と平均の無機質

「神の前での平等」が、「平等」の概念のはじまり、だとされている。

しかしながらこの概念は、ユダヤ、キリスト、イスラムの「教え」から生まれたものだから、これらの宗教を信じるひとたちが多く住んでいる国や地域、あるいは人間集団間では「通じて」も、そうでないひとたちには通じない。

殊にわれわれ日本人は、外国人と接触する機会が限定されていた「背景」があったので、「文明開化」までは、ほとんど外国の知識がない状態で暮らしていたし、文明開化「後」も、人口の多数を占めた農民、あるいはその中の「小作」にとって、「外国が云々」とはほど遠い生活をしていたのだった。

地方の「名士の家」に残る、「開かずの金庫」を開けてみるテレビ番組の企画は、なかなかよくできていて、「空」の場合と「たっぷりある」場合とに完全に分かれている。

たっぷりある」場合の、その中身は、「土地権利書」や「株券」、「通帳類」が多く、その他に、古銭を含む「現金」がある。
なので、めったに「舶来品」が見あたらない。

むかしは、「舶来品」といえば、「万年筆」と「時計」だった。

もちろんいまでも「外国製の高級万年筆」や「時計」は健在だけど、それらを「舶来品」とは呼ばないで、メーカー名でいうことが一般的になった。
これには、「国産品の高級万年筆」や「時計」ができたからであろう。

しかしながら、「国産」は、機能的な有利はあるが、「所有価値」としての地位が確立しない。
これは、やっぱり「大量生産」の負の恩恵だといえる。

さてそれで、日本人の「神」とは、「欧米の神」とはぜんぜんちがう「自然崇拝」からの概念なのに、「God」を「『神』と訳した」ところから、混乱がはじまったといわれている。

けれども、その欧米だって、キリスト教「以前」には「別の神」が崇拝の対象だった。
たとえば、北欧などに伝わる「森の妖精」は、その名残であるし、ベートーベンの「第九」に至っては「別の神」を礼賛している。

さらに、かつての「当時」、皆殺しにあったからよくわからない、キリスト教「グノーシス派」について、ダン・ブラウンが書いた、『ダ・ヴィンチ・コード』が大ヒットしたのも、一種のバチカンやプロテスタントといった既存勢力に対する、「欲求不満行動」だったにちがいない。

ところで、よくわかっていない「けれども」、グノーシス派の「やばさ」はなぜか伝わっていて、それが、「神界」の「序列」を主張したこと、だという。

つまり、いわゆる「聖書の神」は、神界では「最低ランク」に序せられていて、じつはボスたる「最高神」がいる。
その最高神を信仰するのが、グノーシス派なのだ、と。
それで、「あなたの神は最低ランク」といわれたひとたちが、怒って皆殺しにしたと理由づけている。

この話は、なんだか「カインとアベル」の、人類最初の「殺人」に似ている。
日本神話の、「海幸彦・山幸彦」の話に似ている、ということは、ここでは未だ早い。

アダムとイブの長男カインは農業従事者となり、その弟アベルは羊飼いになった。
問題が起きるのは、「神への捧げ物」で、兄のカインが献げた農産物、弟のアベルが献げた、初子のよく肥えた子羊のうち、神はアベルのものを「選んだ」ことにある。

これに怒ったカインが、アベルを殺した。
人類初の殺人の前に、人類初の兄弟喧嘩が描かれている。
その「兄弟喧嘩」だけを抽出すると、「海幸彦・山幸彦」の話になるけど、日本神話では殺人には至らない。

なぜに全知全能の神は、「選んだのか?」が、聖書を基盤とする人たちの間で、大議論になってきたのである。
全知全能ならば、神の選択の「結果」も神は知っていたことになって、殺人を「教唆」していないか?という疑問である。

しかし、日本人がもっとも誤解している「この神」は、ぜんぜん平等ではなく、それは、「神自身の都合にすべてが支配されている」ことを、人間が「受け入れること」を「信仰」としていることにある。

その意味で、聖書の神は、人間の都合を無視する理不尽な存在だ。
逆に、日本の神々は、人間の都合をかなえてくれる存在なのである。

ゆえに、聖書の神を信仰するひとたちは、「機会の平等」にこだわって、日本人は「結果の平等」に重きをおく。
聖書の神が、人間行動の結果を決めるのだし、日本の神々は、人間行動を助けてくれるから、結果がうまれる。

つまり、日本人は聖書の「神」も、人間のためにある、とかんがえるけど、ぜんぜん逆なのである。

ところが、そんな「冷酷で残忍な神」を信じるものか!としたのが、ニーチェの「気づき」であった。
ニーチェの生きた「世界」は、聖書の神を信じるひとたちの世界だったから、驚天動地になったのだ。

それが逆に、ニーチェが意図したわけではなくても、「無神論という宗教」にひとびとを向かわせたのは、「真の選民思想」からだった。

これが、「大富豪なら特別だ」になったのである。
共産主義・全体主義にもっとも親和性があるのが、大富豪なのだ。

そんなわけで、「選民」として抜け出した大富豪たちは、なにランクであれ「神界」に入ったから、それ以外の人々に掟破りの「結果平等」を促して、新規の神界入りを制限させることにした。
「機会の平等」を、LGBT優遇やらで阻止することの真意がここにある。

これが、「平均」に集約させることの意味である。

日本人の特性は、これとはちがう思考回路での「結果平等と平均」だったけど、無機質にかんがえれば、おなじことだ。
それで、より従順に「結果平等と平均」を推進することが、日本支配(奴隷化)だけでなく、世界支配のセオリーになったのである。

よって、偏差値教育と受験制度は変えてはならないし、公務員試験も入社試験も変えてはならない。
むしろ、日本的方法(オリジナルは「科挙」(欧米では「中華方式」という))が、各国で採用されるのを喜んではならないのである。

すると、日本人奴隷化計画を壊すのは、偏差値教育と受験制度の「大転換」にこそ、「カギ」があることがわかるのである。

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