「修復不可能」のアメリカ

世界史が動いている。

アメリカ合衆国の「統一国家」としての体裁は、ロングテール状態で、見たいひとには見えるけど、ふつうのひとには見えなくなって、「幻」のようになっていく。

おそらく、こうして「崩壊⇒消滅」していくのだろうと、ハッキリ見えてきたのが、この「アメリカ中間選挙2022」であった。

もちろん、わたしのような素人が気づくのだから、専門家はもっと早くから警鐘を鳴らしている。
例えば、ブレジンスキーやブキャナン、それにハンチントンといった「大御所」が予言していた。

ブキャナンは、2025年に、「内戦勃発」とまでいっている。
つまり、次の大統領選挙の結果(2024年)で就任する大統領の時代(25年から)を指している。

  

今度は、「南北戦争」ではなくて、東西沿岸部と内陸部の「サンドウィッチ戦争」になるのではないか?
今回の選挙における、共和党支持者たちの「不満」をどうやって「制御」するのか?

これをまた、「あざける」ことで、破壊をしたいバイデンは「煽って」いる。
つまり、「内戦」をあたかも仕掛け、もしも共和党が暴発したら、ロシア同様に「徹底的に非難」するのだろう。

それで、内陸部に軸を置く共和党は、東西の民主党から挟み撃ちに遭う。
いまの「米軍:5軍:陸・海・空・海兵・宇宙」は、陸軍トップが「民主党」、それ以外のトップが「共和党」の親派なので、やっぱり内陸の共和党が「不利」なのだ。

けれども、海から海軍と海兵隊が、空と宇宙から内陸部に進撃する陸軍を攻撃するかもしれないサンドウィッチならぬ、ミルフィーユ状態になる。
これが、予想されるアメリカの「内戦」だ。

アメリカの内戦は、世界に展開する米軍の行動を規制するから、必然的に軍事空白地帯ができるので、世界大戦も呼び起こす。
これを、「チャンス」と観る国が、必ず出現するからである。
この破壊を、世界経済フォーラムの手先となった民主党が企んでいる。

人類はいま、おどろくほどの「流動化」した世界に生きているのである。

「滅びの美学」があるとすれば、それは「共和党」のことになるのだろう。
おそらく、民主党は西部開拓時代のインディアンのごとく、「皆殺し」を目論むであろう。

場合によっては、この内戦で「核」が使われるかもしれない。

さほどに、アメリカの「分断」は、修復不可能になったとおもわれる。

こうしてみると、20世紀の「冷戦」は、米ソがしのぎを削ったとはいえ、大戦争になることはなかった、バランス・オブ・パワーによる「安定」の時代であったから、いまとなっては「懐かしさ」まである。

20世紀のうちに描かれた、21世紀の未来を予想した「SF(サイエンス・フィクション)」作品群は、どれもが悲観的で、こんなに素晴らしい未来がやってくる!という「夢物語」はあんがいと少ないのは、どこか本能的にやばさを感じていたからだろうか?

その「やばさ」が、いま「現実」になろうとしている、と昨日書いた。

しかし、地上波は、「喜々として」民主党の事実上の「勝利」を報じて、恥じることはない。

この恐るべきプロパガンダの意味するところは、完全に「世界経済フォーラム」がいう「グレートリセット」への道程なのである。
何度も書くが、大富豪による人類奴隷化のシナリオが、現実になる、ということだ。

この「絶望」への多数の気づきがない、という「絶望」がある。

これには、また「大がかり」な仕掛けがあって、それが「読書離れ」という世界的傾向だ。
長文の文字を読む、という行為が、「映像を観る」という「安易」に代わった。

これすなわち、本人が気づかないところで「思考を停止させる」、もっとも有効な手段なのである。
それが「マンガ」であり、「ネット動画」だ。

わが国のサブカルチャーとして、「コミック」が、世界を席巻しているのには、手放しで喜べない「裏」がある。
GHQの明文化されている「3S計画」の、なれの果て、ともいえるから、わが国の「コミック輸出」とか「ネット・ゲーム」は、「バカの輸出」になっている。

それゆえに、全体主義のことを「リベラル:Liberal(自由主義)」とかと「言い換えて」一般化する「ニュース・ピーク」がとうとう「小説」の世界から飛び出して、いまや「常識」にまでなってしまった。

哲学者、仲正昌樹の「要約」には定評があって、「入門書」の大家ともいえるから、ほんとうは「秋の夜長」にお勧めだけど、どうせなら「マンガ」で対抗してみたい。

   

なお、わが国保守派を代表していた、いまや「最後の保守論客」故渡部昇一教授には、ハイエクの解説本がいくつもある。
教授亡きいま、「保守論客」も絶え、「エセ」に入れ替わった。

専門は、「英語学」なかでも「英文法史」ということになっているけど、ドイツのヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学に留学して、28歳のとき同大学より「Dr.Phil(哲学博士号)」を取得している。

なお、ヨーロッパの大学には、「リベラル・アーツ」の伝統があるから、「哲学」を修めることの意味は、わが国とは格段にちがう。

  

冒頭のブキャナンがいうとおり、アメリカが「自殺」することの意味するのは、「属国」としてのわが国の「滅亡」である。
ならば、「独立」するのか?といえばそうはいかない。
別の宗主国による「属国」になるだけだ。

ならば、「深く」このメカニズムをしるにはどうするか?
あんがいと「単純」で、ものごとを「深く」みようとすれさえすれば、つまり、究極的な「野次馬根性」があればいいのである。

この「深く」というのが、「抽象化」だから、「具体」しかみないのは、知識が増えるだけの「バカ」をつくる。
それが、「正解の存在」を信じて疑わせない「訓練」としての「受験制度」なのだ。

けだし、これはわが国の「堕落」の原因だけど、アメリカの堕落はもっと深いところにあって「修復不可能」になったのである。

駐日ロシア大使の離任

11日、ガルージン駐日大使が今月末という離任を前にした記者会見をおこなった。

相変わらずわが国のマスコミは、「嘘は許さない」などと、米欧42カ国・地域が非難したことを書いた。
大使は、「ロシアは国際社会で孤立していない。対ロシア制裁に参加しない国々が多数派だ」と「事実」を述べている。

じっさい、42カ国・地域「だけ」で、中国やインド、東南アジアやアフリカ、中南米の代表は非難した国に含まれていない。

なので、この記事だけでも「嘘は許さない」と、非難した国・地域にいいたいけれど、おそらく任国のわが国政府も「非難」しているにちがいないから、「嘘つき」である。

大使が立派なのは、こんな中で、ちゃんと日ロ関係について「日本が悪化させた」とまだ柔らかに主張していることだ。
「決裂」をいうなら、「日本は独立国ではない」と言えばすむ。

報道が適当なのかわざとなのか?それともロシア側が無言なのかは不明だけれど、「後任」についての記載がやっぱり「不明」と書いている。
わが国にとっての最悪は、「後任がない」場合となる。
つまり、外交関係の断絶を意味するからである。

しかし、ロシアとの外交関係の断絶だけが最悪なのではなく、東アジア情勢が最悪になることだ。

このままでは、わが国は「滅亡する」からである。
もっといえば、中国共産党による支配地域になる。

トリガーとなるのは、NATOの参戦である。
プーチン氏がいう「核使用」は、このことを指している。
だから、いま世界は、驚くほどの緊張感に包まれているはずなのだ。

だが、プーチン氏の核がヨーロッパで炸裂するとしか想像できないで他人事にするのは、あんまりだ。

第一次大戦がヨーロッパ大陸での戦争なのに「世界」がついたのは、当時の「世界」がヨーロッパだったからだ。
しかしいま、第三次大戦の前哨戦がはじまっている状況なのに、わが国の政府もマスコミも他人事でいる。

もちろん、日本国民も。

NATOには、アメリカも加盟しているから、NATO参戦とは、アメリカ軍の直接投入の意味もある。
しかし、アメリカが自ら繰り返しいっているように、もはや米軍は「多方面作戦」には対応できないのだ。

すると、ヨーロッパでの戦争は、自動的に東アジアの「軍事的空白」を意味する。

これがどれほど、わが国を危険にさらすのか?

中国による台湾有事どころか、すでにロシアがいっている、北海道はロシア領も、中露同時に攻められたなら、どうにもこうにもならなくなるのである。

もしや、ロシア大使の離任が意味するのは、宣戦布告の事前準備か?と疑うのである。
なにせ、ロシアはとっくに、しかも「正式」に、わが国を「敵国認定」している。

もちろん、中国は何度も「第1列島線:沖縄まで」は中国領だといっている。
彼らは「第3列島線:伊豆半島まで」も書いて、地図でも示しているから、念のため。

岸田氏は、わが国最後の内閣首班になるかもしれないけど、まさか「続投」の密約でもあるのか?

アメリカ中間選挙2022を受けて、より一層の危険が増した。
下院での共和党勝利は、ウクライナ支援の予算を抑えてくれるだろうけど、もはや間に合わない可能性が高い。

すると、民主党が「下院支配を棄てた」理由がはっきりするし、「上院での勝利」の意味が重い。
これで、上院外交委員会は民主党がとった。

バイデンの不気味が笑顔が、人類の暗い未来だけでなく、「日本の終わり」を告げているようだ。

だれもが不思議に思うのは、下院で共和党に投票したひとが、どうして上院に民主党を選ぶのか?だ。
ふつうは、おなじ支持政党に投票しないか?

なお、念のため、中間選挙の結果となる「新議会」の招集は、来年1月だ。
つまり、年内は現体制なのである。

一方、隠棲したかにみえたメルケル前首相が、ドイツを訪問したハンガリーのオルバン首相と会談して、「ウクライナの戦争を許さない」と強く発言し、「わたしが首相だったらこんなことはさせなかった」と報道されている。

しかしこれすら、あとの祭りなのである。

彼女が苦労してまとめた、2回の「ミンスク合意」が反故にされたことへの怒りとは、ロシアが相手ではなくて、ウクライナに向けたものだ。
もちろん、ウクライナを支援するEUとアメリカにも向けられている。

どちらにせよ、いま世界でもっとも危険な場所は、わが国になっている。

これに、ドイツの立場と現状を思い返せば、「敗戦2カ国=国連の敵国」が、いまさら最大の被害者になりつつあることがわかる。
しかし、ドイツはまだ「経済破壊」の危機だけど、わが国は「亡国」の危機なのである。

ドイツは敗戦時に「亡国」した
だから、80年ちかく「遅延」してわが国も「亡国」するならおなじだ、とはならない。

こんな危機は、敗戦後初となる。

なのに、ほとんどの国民は気づいてすらいない。

どうにもならない、成り行き任せ、風任せなのである。
わが国は、ローマに決戦を挑んだカルタゴにも及ばない。

滅亡の美学もなにもない、愚鈍国家だとして、歴史に刻まれることだろう。

「密約」は公開されない

昨日の記事では、スタグフレーションになりそうな欧州の冬を「暖冬であれ」と祈ったけれど、ユダヤ・キリスト・イスラムの「神」は、日本人がかんがえる「神々」とはちがって、ぜんぜん人間の都合を考慮してくれない、という特徴がある。

これらの宗教があがめ奉る「神」は、あくまでも「(神の)自己都合」を通すのであって、はじめに「人間の都合」を考慮することは一切ない。
人間の都合が叶うことがあるとすれば、それはまったくの「たまたま」なのだ。

ゆえに、これらの宗教を信仰する人びとは、「神頼み」をしないで、人間による解決を図ろうとするのが、「行動原理」になる。
彼らの「祈り」の本質は、全知全能の神を称えることであって、本人の自己都合の要求ではなく、自身の行動を見守って欲しいことに集中する。

ここが、日本人と決定的にことなるのである。

日本人の基本的な宗教観は、「アニミズム:原始的な自然崇拝」ということになっているけど、わたしには、あんがいと人間の自己都合な要望を叶えてくれる発想をすることの本質は、「人間中心主義」であって、「神々」を人間に奉仕する存在に落していることが「日本的」なのだと思っている。

つまり、日本人には、宗教を「医療」と同列に扱う伝統があることをいいたい。
それが「健康」とか「病気治癒」の祈念であったのは、奈良や平安貴族たちが建てたあまたの寺院の建設目的になっていることでわかる。

たまたま「外来」の仏教が「効く」となれば、仏教に帰依し、そうでなければ儒教にもいくし、神社にも戻る「無節操」なのだ。
そうやって、自己都合を祈っているうちに、「栄耀栄華」まで祈るようになって、その卑近の例が「商売繁盛」祈願になった。

改めてかんがえれば、ユダヤ・キリスト・イスラムの寺院で「商売繁盛」を祈念しているひとは「いない」のだ。
なぜかといえば、「神」はそんなことに興味を示すわけがない。

「全知全能」だからである。

しかし、日本人は自己都合を祈って、それが成就したら、きっちり「お礼参り」するのを「礼儀」としている。
そのお礼の気持の深さを、「貨幣経済の発達」で、「金額表示」するようになったから、「高額寄進」が発生する。

むかしは寺院に「礼拝堂たる院」を建てて寄進し、お礼としたので、それに匹敵するお礼を金銭ですれば、「戒名」に「院号」が付くことで示しているのだ。

これの順番が、「逆転」して、院号がほしいから多額の金銭を払わないといけない、になった。
死んでも「ステイタス」になると信じる、まことに「因業」なことになったのだけど、もらう側の宗教者もこれを、「因業」だとはいわない。

もちろん、自己都合を必死で祈ったのに、それが成就しないなら、いきなり科学に目覚めて「詐欺」だと認識するし、それでも納得しないなら、別の「神」を選んで拝む浮気をするのがふつうなのだ。

それでいう共通言語は、「あそこの宗派は効かないよ」だ。

つまり、日本人にとって「いい宗教」とは、1000年以上のむかしから、「自己都合が効く」宗教に入信することになっていて、宗教間の信者獲得競争が「効くこと」に集約されること「だけ」になる。

ところが、これを自由放置して、「効く宗派」が巨大化すると、一向一揆のように、こんどは為政者が危険にさらされるので、徳川幕府は、「檀家制度」を発明して、各家での「過去代々と、未来永劫」、その家の宗教を固定化した。

よって、信者でなくとも檀家になった。

こういう前提で「新興宗教」が、すべからく「家の破壊=家族分断」をするのは、当たり前なのである。
それを政府が介入するのは、徳川幕府以下の愚劣だと、受験エリートには理解できない。

さてそれで、実権のない欧州議会で、最高権力者のフォン・デア・ライエン欧州委員長(President of the European Commission)に、「詐欺罪」を適用すべきだという「議員団」ができた。

EU圏4.5億人に「45億回分の大量ワクチン購入」を勝手に決めたことが「詐欺」だという。
その「詐欺」とは、「効かない」ことを問わない、製薬会社との「密約」の存在が背景にあると説明されている。

ちょうどわが国でも、厚労大臣の出席があった参議院厚生労働委員会で、立憲民主党の川田龍平議員が質問に立って、「密約」の公開を求めたところ、「局長」がした答弁では、「公開できない」というものだった。

なお、川田議員の「ユーチューブ」が、ユーチューブ側の「規約違反」に抵触して、バンされる事態となっている。
わが国でも、国会議員による国会質問が、議員の公式番組からも削除される「言論統制」が行われている。

特定宗教についての議論よりも、はるかに次元の高い大問題が、どういうわけか「国会」で議論にならない不思議がある。

こうしてみると、EUとわが国の「体制」が似ているのは明らかだけど、真似たのはEUだということに、日本人は気づくべきだろう。

世界の「邪悪」の根源に、わが国の存在があるのだ。
それなのに、わが国は「道義国家だ」と自慢するのは、どうかしていないか?

そして、国会は国権の最高機関だという「暗記問題」は、すでに誰も信じない憲法違反の「常習化」とともに、国会に報告されないことばかりになって、「密約大国」になっている。

これは、ぜんぜん国民に「効かない」のであるけれど。

スタグフレーション2.0

季節は「初冬」になっても、ヨーロッパはあんがいと例年よりも温かいから、エネルギー特に「ガス」危機は、落ち着いてきたように「報道」されている。
どの家庭でも、高騰した水道光熱費を抑えるために、とにかく「節約」をしていることもあってできた「需要減」が、価格安定に一服感を与えているのだ。

しかし、先日、このことに水をさす「予報」を、英国気象庁が出した。
今年の冬は、例年より寒くなる、と。

とにかく「温暖化阻止」をやってきた、ドイツは、プーチン氏が言った「寒い国は温暖化したほうがいい」が、身に浸みてきたろうが、ドイツ人の「頑固」さは、かんたんに覆らないのか、それともバカなのか?

おそらく、繁栄の「奢り」なのだろう。

どちらにせよ、基本経済指標たる「CPI(消費者物価指数)」の上昇は止まらない。
10月速報値をみると、ユーロ圏全体では、対前年同月比で+10.7%と、とうとう二ケタに突入した。

念のため、9月は、+9.9%だった。

物価が大きく変動する特徴があるために、生鮮食料品とエネルギーを除く「コア指数」でみると、+5.0%(9月は+4.8%)であった。

すると、物価全体に影響している食料品などだけでみると、+13.1%という数字になって、エネルギー価格は+41.9%という驚きの状態にある。

「インフレ」の「深度」がわかるのは、サービス価格(=人件費)の上昇具合だ。
通常レベルの物価上昇では、すぐさま賃金の上昇にまで「及ばない」けど、深刻化したインフレ経済下では、人件費も上昇するからである。

それで、+4.4%も上昇していることがわかった。
つまりこれで、ヨーロッパのインフレは、「一過性ではない」ことが確認できるのである。

一方で、日本人からしたら、「名目的」にも賃金が上がらないばかりか、「円安」による国際比較での「目減り」を考慮すると、複雑な心境にならざるをえない。

当然だが、物価の上昇率と賃金上昇率の「差」は、個人の貧困化という事態を招くし、企業は「消費の縮小」に見舞われる。
しかし、値上げしなと「コスト増」を吸収できないことになるので、「不況」になるから、これを、「スタグフレーション」というのである。

Stagnation(景気停滞)と、Inflationを併せた「造語」である。

70年代から80年代に欧米で猛威を振るった、「怪物」の「2.0版」が50年ぶりにやってきたのだ。
しかし、今回の「スタグフレーション2.0」は、わざと政治的・人為的に起こされた、いわば「人工地震」のようなものが「原因」なのだ。

ところが、この「人工」をやった連中は、あたかも「自然現象」のように振る舞って、50年前に成功した対策、「金融引き締め」を金科玉条としていることに注目しないといけない。

真の原因は、アメリカを「震源」とする、石油価格高騰「策」をはじめとした人為で、表面のプロパガンダでは「脱炭素」による、化石燃料消費への強制的な抑制と、これに応じないロシアの安い石油を世界から遮断するために起こした、「ウクライナ」である。

これら一連の「政策」は、世界の一般人の生活を窮乏化させるけど、世界の一部の利権をもつひとたちには、莫大な利益をもたらす。
もちろん、「民主主義」が正常に機能したら「不可能」だけど、その民主主義を破壊する工作も同時にやって、不可能を可能へと転換させた。

今回のアメリカ中間選挙2022もしかりだが、もっと壮大な時間をかけた準備が「EU」なのである。
戦後の「ECC」から、徐々に「EC」へ、そしてとうとう「EU」を作り上げて、一般人の選挙権を完全に奪った。

何度も書くが、「EU」を支配している、「EU委員会(その長は、EU委員長:President of the European Commission)」は、官僚集団であって、まったく選挙とは無縁な「構造」になっている。

それで、「ダミー」としての、「EU大統領(正規には、議決権のない欧州理事会議長:President of the European Council)」とか、「EU議会(European Parliament)」をつくって、誤魔化しているのである。

ちなみに、欧州理事会は戦前のわが国の「貴族院」に似ていて、欧州議会が「衆議院」にあたるのは、国民選挙の有無のちがいで、欧州議員は各国での直接選挙で選出されるのだが、これらの「上」に君臨しているのが、EU委員会であり、EU委員長なのだ。

ただし、ようやく欧州議会が、少しだけEU委員会に意見をいえるようにはなってきたのは、さすがにヨーロッパの一般人も「気がついた」からである。

これには、旧社会主義国の人々の西側自由圏への「憧れ」が、EU機構の「がっかり」になって反発してくれたおかげでもある。
彼らには、EUが正しく「旧ソ連」に見えたからだった。

ならばそんな「機構」に加盟するのはなぜかといえば、「統一通貨ユーロ」の魅力を構成する「補助金」欲しさなのである。
これを支えているのが、ヨーロッパ中央銀行(ECB)なのである。

わが国も完全に「官僚支配」が出来上がったのは、GHQ支配もさることながら、元来の「明治政府」が、そもそもの「官僚支配=薩長閥」だったから、このところの「法務大臣」による、発言の正直さに、かえって感心するのである。

それが証拠に、自民党内からも「辞任要求」があるという動きになる。
そうやって、官僚支配を正直にいうひとを排除したいひとたちがいる。
もちろん、葉梨氏のなんのための「国会:議会」かということの完全無理解は、選出した有権者の「阿呆さ」を示すものでしかないけれど。

そんなわけで、ヨーロッパに話をもどすと、個別の国でのCPIは、

ドイツは、+11.9%という「記録」を更新中(9月は、+10.9%)だし、ボコボコにされると予想した「反EU」の新政権イタリアも、+12.8%(同、+9.4%)と、一気呵成にドイツからヨーロッパ最悪の汚名を「奪取」した。

ところが、エネルギー自給を果たしているフランスは、+7.1%(同、+6.2%)と、独仏で明暗が分かれている。
だからといって、原子力発電が主体のフランスを真似ろ!と短絡的な意見をいいたいのではない。

いいも悪いも、フランスが原子力発電「大国」でいられるのは、原料の「ウラン」が旧植民地のアフリカ・ニジェールで採れるからである。
つまり、フランスは相変わらず「植民地支配」を続けているのである。

そんなわけで、ヨーロッパは、今冬、まったくの「気候頼み」状態になって、地球は持続するけれど、人間が持続できないかもしれないことになった。

温暖化のおかげで「暖冬」であることを、祈るばかりなのである。

投票できない中間選挙

総体的に(連邦上・下両院、州知事選、州司法長官選、州務長官選からなにから)、「民主党不利」が伝えられていた「アメリカ中間選挙2022」だったが、バイデンは2020と同様、事前に「不気味な自信」を発言していた。

それで、誰もが「またか?」と予想したものの、なにが起きるのか?についての「確信」と「方法」がわからなかった。
これは、ずっと不明のままかもしれないけれど、アメリカ人の「怒り」はいつまで我慢できるのかもわからない。

いわゆる「激戦州」とは、民主党と共和党のどちらかに「ゆらゆら」と揺れ動く「州」があたる。
大統領選挙もしかりだが、上院議員選も知事選もこれにあたる。

一般に、日本人は「政治音痴」というのは、「構造の理解」が薄いからであるけれど、世界一の権力者がアメリカ合衆国大統領だとかんがえることも、その「音痴」さの証拠になっている。

アメリカ合衆国は、大統領の独裁を絶対に許さない構造なのだ。

では、大統領以上の権力があるのはどこか?と問えば、連邦上・下両院議会なのである。
日本でいえば、衆・参両院のことをいう。

しかし、戦後の日本を基本設計したGHQは、自国の議会制度をコピーせずに、ほぼ衆議院の「一院制」にした。
参議院の存在を、本国の「上院」のような「権力」にしなかったからである。

これには、おそらく、「軍の組織」を真似ているからで、日本の徹底的武装解除を目的にしたから、当然といえば当然の処置だった。
ならば、参議院はムダになるけど、これが「残った」ラッキーを、日本人が有効化していないのが「怠慢」なのである。

すると、日本国憲法の改正問題の「核心」は、衆議院と参議院の「権力配分」にあることがわかる。

さて、およそ世界の近代的な軍隊は、作戦と軍政を分割する方法でコントロールされている。
これは、「暴力装置」としての「軍」を、一帯運用させない、という意味だ。

それで、戦闘部隊をコントロールする「作戦」を司る、「参謀本部」や「海軍軍令部」と、「人事と予算=軍政」を司る、「陸軍省」や「海軍省」に分けていたものを、「統合」して、アメリカでは「国防総省」にしたし、日本では「防衛庁から防衛省」にした。

つまり、アメリカの衆議院にあたる、連邦下院は、「連邦予算」を司り、参議院にあたる、連邦上院は「連邦人事」を司るようになっている。
それでもって、「作戦」は、大統領(米軍最高司令官)と大統領府が担っているのだ。

わが国の「ねじれ」は、参議院は無力で、「政府人事」は内閣人事局になっているので、「行政権」のなかでの「運用」を許している。
もちろん、「人事院」をたんなる事務機関に貶めたことも問題だ。

しかも、アメリカ議会(下院)には「予算局」があって、ここが「予算編成」をする。
わが国は、行政権のなかの財務省がこれをやっているから、おどろくほど国会が「ノーコン」の、強大にして巨大な行政機構になっている。

要は、ほぼほぼ与党の党首がなる「首相の独裁」が可能な「構造」になっているのが「日本国憲法」なのである。
あたかも、「明治憲法」の危険をいうひとがいまだにいるけれど、少なくとも明治憲法のコンセプトは、「権力の分断」だった。

それで、天皇独裁の理由とするけど、行政府と軍(統帥権)を分けたのは、無力な天皇の独裁が「ありえない」からだったのだ。
この矛盾を、のちに「昭和の軍部」が悪用した。
それが、軍務大臣現役制、という危険な制度だった。

もちろん、統帥権が「ない」内閣総理大臣は、なんと閣内においても「同列扱い」だったから、ぜんぜん「首班」ではなくて、ただの国務大臣のひとりでしかなかった。
自分の内閣の大臣を、罷免もできなかったので、「総辞職」しか手がなかった。

それでもなんとかやってこれたのは、江戸時代の「朱子学」を中心にした、「儒教的道徳感」が「正義」として庶民にも普及していたから、あからさまな「不正」には、暴力的な反発が起きた。

それが、「焼き討ち事件」とか「打ち壊し」になったのである。

秀吉が「刀狩」令を出したのは、自分のような物騒な人間が農民から出ることがないようにと学校で教わるけれど、大正・昭和の日本人は、鋤や鍬をもって武器としたじつは物騒な国民性がある。

銃をもっているアメリカ人が、「不正選挙」に対抗するという意味で銃をつかわないのは、「理性」からなのか?

なんだかわからないけど、激戦州を中心に、いきなり例の「投票機」が壊れたり作動しないとか、あるいは、投票用紙が足りないとか、日本だったらえらいことになる「事件」が各地で頻発したのは、偶然なのかなんなのか?

それで、わが国のJRが事故で止まったときに車内放送するごとく、他の地区の投票所への移動を奨励されて投票したら、別地区からの投票は「無効」ということになって、またまたえらいことになっている。

当日投票するひとの大半は、共和党支持者と相場が決まっているから、トランプ氏は即座に「とにかく自地区指定の投票所の列に、我慢して並んでいてくれ」と連呼の投稿をしたのだった。

これはこれで、2020年の大統領選挙で垣間見た、「勝てば官軍」ということの価値観がむき出しになっていることの再現でしかない。

日本人は「穢れ」の意識が、宗教的神秘のレベルまで敏感だから、こんな「穢れた選挙」には耐えられない。
そこがまた、日米のちがいなのだと確認できた。

11月からジングルベル

ハロウィンが10月31日と決まっているので、11月になると「季節感」を喪失する、という現象になった。

もちろん11月の大イベントには、「酉の市」があるし、「文化の日」とは「明治節」だった。
それで、「明治の日」制定運動が起きている。

わたしの子供時分には、「洋物」行事としての、「ハロウィン」はなかったし、「バレンタインデー」も「ホワイトデー」もしらなかった。
それに、「復活祭(イースター)」もとくに祝った記憶がない。

バレンタインのチョコレートの「お返し(返礼)」としてある、「ホワイトデー」は、わが国発祥なので、外国人は珍しがる。
どちらも、チョコレート業界=製菓業界による、「仕掛け」であった。

復活祭は、その名の通りキリストの復活を祝う行事だ。
春分の日の後の最初の満月の次の日曜日、という「規定」があるので、太陽暦では毎年ちがう「日」になる。

ちなみに、イスラム教国であるエジプトでもちゃんと「イースターの祭り」はある。
イスラム教では、「イエス」は、「キリスト(救世主)」ではないが、「預言者」の位置づけなのだ。

それで、「最後の預言者」を、ムハンマドとしている。
つまり、最後から2番目の預言者であるイエスの記念日として、お祝いするのである。

そんなわけで、ハロウィンは、キリスト教とはぜんぜん関係ない、「ケルト(=古代アイルランド)の祭り」だから、ヨーロッパ大陸ではほぼほぼ無視されている。
アイルランド系移民が多数の国、アメリカで盛んというのも、ほんとうは「一部」だったのである。

名作とされている『風と共に去りぬ』における、主人公も、その取り巻きも全員がアイルランド系移民の苗字である。
我々がしっているもっとも有名なのは、「ケネデイ(Kennedy)」だけど、さりげなくいろんな小説やらの作品に、アイルランド系移民の名前が採用されていて、そこに「作家の意図」が隠されているものだ。

こうした名前を、「名字由来net」で調べられるので、気になったときに検索すると参考になる。

ここ数年の、「仮装」を楽しむ名目なのかなんなのかはしらないけれど、ハロウィンが「お祭り騒ぎ」になっているのは、一種の「ええじゃないか」現象だと思われる。

 

江戸時代、「夏祭り」や「秋祭り」が盛大にあって、これを為政者も積極的に許したのは、大いなる「ガス抜き」としての統治機能に注目したからであった。

しかし、いまや江戸幕府よりも劣化したわが国は、ハロウィンすら「規制」の対象にしている。
韓国での悲劇は、「適度」についての調整ができなかった「お粗末」ではあるけれど、だからといって日本のやり方が「正解」ではないだろう。

それにしても、「嫌い嫌いは好きのうち」だから、亡くなった方々へはお悔やみを申し上げるけど、現象としてはやっぱり「社会ストレス」という意味で、似たもの同士の国なのだ。

ただし、いつのことだか将来に、「暴動」になる可能性があるから、いまのうちに「潰しておく」という方針ならば、やっぱり江戸時代以下ではあるけれど、それはそれで権力側(たとえば、東京都知事)の理屈は筋が通っている。

それでもって、月が変わると街に「ジングルベル」が流れ出すのは、「なんとなく」ハロウィンの空気を引き継ぐ「宴のあと」なのかもしれない。
あるいは、商店街側は、とにかく歩いているひとたちの「財布の紐」を緩めるための、涙ぐましい「心理戦」なのか?

けれども、ボーナスにぜんぜん期待できない時代になって、「クリスマス商戦」そのものが、なんだか空しいのである。

それでも、コロナ禍にあって、政府税収は「空前」の「増収」になっている。
これは昨年からのことだけど、今年は「空前」の「円安」で、とにかく輸出を中心にする製造業は、「割り増し」の利益をたたき出すこと確実なのである。

この意味で、全体が成長した時代は「過去の特殊」で、いまは、特定業種の「まだら」がふつうになった。
学生の就職選択が困難なのは、単に企業の選択だけでなく「業界」を選択しないといけないからだが、その前に「学習選択」という大前提がある。

偏差値が高い学校が良い学校、ということの終焉で、もはや外国の学校からそのまま外国企業に就職した方が、はるかに有利となった。

インバウンドが「空前」だったときは、外国人を受け入れた宿泊業や観光業は、輸出業と同様の収益構造だから、やっぱり「空前」の活況があったものだ。
それが、人手不足という足かせで、稼ごうにも稼げないから、安い労働力を外国人に求めたのだ。

けれども、「空前」の「円安」で、安い労働力たる外国人が日本を見切って、脱出をはじめている。

自分事ではぜんぜんない、お役所のひとたちは、「さぁインバウンドがやってくる!」とはしゃいでいるけど、もう「受け入れる能力」が枯渇しているのである。

これに、「SDGs」やら「脱炭素」やらと、高コストをビジネスに押しつけられているのに、「国連」がつくった「SDGsバッジ」なるムダを着けてよろこんでいる業界人は、いったいなにをかんがえているのか?まったく不思議なのである。

「正気」を取り戻してほしいけど、きっとロビーにクリスマス・ツリーを飾るとか、季節感も何もない、ヘンテコな努力をしているにちがいない。

絶滅危惧種の「親指シフト」

「キーボード沼」のもう一つが「親指シフト」だ。

パソコンよりも圧倒的に「ワープロ(専用機)」が優勢だった時代があった。
「全盛期」は1985年(昭和60年)から1995年(平成7年)あたりまでの、およそ10年間だといわれている。

もちろん、「発売」されたのはずっと前で、1978年(昭和53年)と記録されている。
当時のお値段は、630万円。

わたしが購入した、人生初ワープロは、上述の全盛期初年の1985年、キャノンの「キャノWord」で、モニターとキーボード、それに独立したプリンターの3点セットだった。
記憶装置は、5インチ!フロッピーディスクでハードディスクの搭載はない。

秋葉原を徘徊してたどり着いた「決定」だったけど、そのお値段は30万円だったと覚えている。(消費税もなかった)
これは、後に、2年間のエジプト生活から帰国して、すっかり3日遅れの「新聞脳」に冒されていたことを実感したのだった。

当時、JALの定期便は週3便ほどだったために、新聞はだいたい3日遅れ(フライト時間だけで18時間)だったし、これらを読まないと日本でなにが起きているのか一般情報を知る方法がなかったのである。

なお、NHKの海外放送は、いまだに批判されているように、ほぼ役に立たない「きれいごと」で、在外邦人に対する日本語放送ではなくて、外国人向け宣伝放送だし、「短波」だからふつうのラジオでは聴けないのだ。

中学のときに、モスクワ放送とBBCの日本語放送を聴いていたことが、モスクワ放送にNHKの海外放送がよく似ていることに気がついたのだった。

そんなわけで、新聞が連日報じた、あたかも日本では「ワープロ」なる機械があっという間に普及して、いまや「当然」の、まるで「平家にあらずんば人にあらず」という感が擦り込まれたのである。

これで、帰国してすぐに秋葉原へ向かったのだった。
用途は、「卒論」。
いまどき「原稿用紙に手書き」はあり得ないと、学生がおいそれと買えるものではないのに、完全なる勘違いをしていた。

以来、新聞に対する不信と不審が混在するようになったのである。

ちなみに、「卒論」は、印刷時の原稿用紙への「マス目あわせ」に苦労したことと、インクがテープ式の1回使い切りだったので、なんだかやたらコストがかかったことが記憶にあって、今となって肝心の「データ」は、5インチ・フロッピーディスクではどうにもならない。

数年前に、ゼミの指導教授が退官するにあたって、原本が研究室から返還されたのが、妙に懐かしかった。
なお、もう一冊は大学図書館に保存されている。

しかして、損ばかりしたかといえばあんがいとそうではなく、会社に入ってキーボード操作に違和感はなかったし、周辺の「おじさま族」がワープロを使えない、という事情から、わたしに当時貴重だった職場の「ラップトップ・パソコン」が与えられたのだった。

このときのパソコンも「過渡期」で、まだ「BASIC」か「MS-DOS」だったし、画面は「プラズマ式」だったのである。
ただし、一体型とはいえ、キーボードの打ちやすさに関しては、当時の作りの丁寧さが懐かしい。

ほんとうに膝の上(ラップトップ)に載せると、江戸時代の拷問、「石抱き」のようになった。
それでもって、パソコン・ソフトも「過渡期」だから、業務用日本語ワープロとしては圧倒的に「オアシス」か、「一太郎」だった。

「Word」の使いにくさは、「原稿用紙文化」がない、アメリカ製だからゆえのことなので、まさかここまで普及するとは思わなかった。
当時、行の文字数と行数の設定が、「できなかった」のである。

また、「一太郎」を実務で愛用していたのは、たとえば、A3用紙を横にして、左右にA4の「見開き一覧」をつくるときに、境界となる中心に罫線を縦に引けば、そこから「別ページ扱い」になるのが、便利だったからである。

これで、たとえば「契約書」の骨子とその理由を一覧にすることが、行のズレがなくなって手間が省けたのである。
「Word」にはこの機能がなかった。

しかし、その後の「バージョンアップ」で、どうしたことか「一太郎」からこの機能がなくなって、結局のところ「システム部」が推奨する「Word」への社内統一に「屈する」ことになったのである。

そんなわけで、わたしの職業人生で、「オアシス」は触ったことがない。
けれども、「オアシス」を導入した部署では、「親指シフト」が普及していて、ふつうのローマ字入力どころか、JISキーボードも嫌がったのである。

この中毒性は、富士通の発明の画期に原因がある。
これには、日本語の「解析」による、「頻度」をもとにした「キー配列」の妙があるのだ。

前に書いたように、英文タイプライターの配列が、高速タイピングができない工夫、であったことの「逆」なのである。

いまでは少数派になった、JISキーボードによる「ひらがな入力」を、はるかに凌駕する「合理性」が親指シフトにはある。
一般にキーボードは、5段のキー配列になっていて、最上段のファンクション・キーの段を入れれば、6段になる。

JISキーボードでの文字入力は、4段を用いるけれど、親指シフトだと3段で済む(ローマ字入力も)。
「シフト」させることで、ひとつのキーに2文字をあてがうからだ。

しかも、3段目だけのキーで、日本語の55%をカバーする設計になっていて、その上の段を加えれば、なんと85%になるという。

しかして、開発元の富士通は昨年、40年間の歴史を閉じて、専用キーボードの販売を終了した。
けれども、いまやキー割当のアプリで、ふつうのJISキーボードを代用できるのだ。

ちなみに、「pomera」は、現存する最後の「親指シフト対応」のワープロ専用機である。

修得するには練習時間が必要だけど、やってみる価値はありそうだ。

快適な「キーボード」は快適か

世に「沼」とよばれる、こだわりだしたら一生抜けられなくなる、悪魔的落とし穴がたくさんある。

むかしの「紳士」がはまった典型の「沼」は、たいがいが「万年筆沼」で、この沼には、もう一段、「インク沼」も用意されているから、容易に抜け出すことはできないのである。

それゆえに、いつしか「収集」することが「目的に化する」という、異常な精神状態になるので、「書く」という目的はそっちのけで、ただひたすら「集める」行為に耽ることになる。

ただし、強者は、ペンの材質やペン先の研磨・調整にも「こだわる」ので、だんだんと経験を積めば積むほど、その知識はそんじょそこらの文房具屋の「プロ」を超えてしまうものだ。

茶道具も含めて、「道具類」とは、およそこういうことになっている。

たとえば、わたしは喫煙道具としての「パイプ」にはまったことがある。
けれども、たまたま「禁煙」することになって、すっかり「抜けた」ら、これまでのコレクションが、ただの「ムダ」になったのである。

この意味で、「万年筆沼」とは、人間がなにかを書くことをやめない限り「ムダではない」という自己弁護ができる分、より一層深刻な中毒性があるのだとおもわれる。

そうやって、とうとう「原稿用紙沼」にもはまりこんで、「特注」したくなるという域にまで達すると、はじめて「何を書くのだ?」に気がついて、ロット分の原稿用紙を一生かけても使い切れない現実に、途方に暮れるのである。

そんなわけで、現代の「ペン」にあたるのが、「キーボード」になる。

わが国では、「日本語キーボード」と「英語キーボード」の二種類が売られているけど、言語によってそれぞれのキーボードが存在することは、いうまでもない。

もちろん、キーボードの前には「タイプライター」があった。
それで、「日本語タイプライター」という特殊機器がとくに「公文書」に関する事務所では不可欠だったのである。

大きな盤面に細かくひらがな・カタカナ・漢字・数字・記号があって、これをガイドを滑らすようにあてることで、一字一字をタイプするのだから、どの位置になにがあるかを覚えるという訓練が絶対条件になっていた。

対して、「英文タイピスト」という、とくに女性に人気だった職業もあった。
こちらは、とくにことわらなくとも、「英文タイプライター」を用いるもので、学生向けに「英語学習」と称して廉価版が大きな文具屋さんにはあったのだった。

おもしろいのは、アラビア語のタイプライターもあって、わたしのエジプト人秘書は、英語とアラビア語両方のタイピストだった。

シフトキーを使って、アラビア文字の「次の文字とのつながりルール」をコントロールするし、余白ができそうなら「—-」のように「伸ばして」タイプする美的センスが求められる、意外があった。

これは、アラビア文字の表記にも、「楷書」「行書」「草書」があって、なんと「アラビア書道」もちゃんとあることの影響なのである。
「偶像崇拝の禁止」が厳しいために、アラビア美術における「文字の芸術化」が根底にあるためだ。

そんなわけだから、外国の言語に適したキーボードがあるのも当然である。
前にも書いた「日本語キーボード」とは、「ひらがな入力」のためにデザインされている「だけ」なので、「ローマ字入力」するならば、「英語キーボード」の方が適している

だから、消費者には「ひらがな入力用」とか、「ローマ字入力用」と示せばいいものを、あたかも「日本語」「英語」というから、いまだに「英語」を倦厭するひとが絶えないし、「英語キーボード」では日本語が打てないとおもいこんでいるひとがいる。

それに、「全角」「半角」の切替ボタンが英語キーボードにないから、独立キーがある「日本語キーボード」でないといやだ、というひとがいることも驚きなのだ。

ローマ字入力用の場合の「切替」は、デフォルトで「Alt」+「~」だけど、キーボードのショートカットキー設定で、「Ctrl」+「Space」にするのがふつうだ。

すると、わざわざ「半角・全角ボタン」に手を伸ばすより、だんぜん楽になる。
まぁ、日本語キーボードでも、「変換」「無変換」をこの切替に設定するのとおなじだけど。

しかし、いまも主流の英文タイプライターのキー配列は、ホンモノのタイプライターでの高速タイピングで「からまる」という厄介が勃発したために、高速タイピングができない「工夫」がされていまに至っている。

それで、パソコンのキーボードには、わざわざ高速タイピングができない工夫がナンセンスになったので、「変態キーボード」が出現したのである。

これが、左右に分かれていて、それぞれに「人間工学的」傾きをつけると、好みの肩幅になって、手の角度の「快適性」が劇的に改善する。
もちろん、「肩こり」も劇的に発生しない。

さらに、キーマップの保存と呼び出しボタンとかで複数パターンを設定するとか、あるいは「トラックボール」を一体化させると、もはや、「ホームポジション」から一切ずれずにあらゆる操作が可能になるのである。

これぞ、パソコン、の正しい操作だ。

キーボード内蔵のメモリにパターン設定をいくつか記憶させるから、PC本体が別物になっても、接続すれば、すぐさま「いつも」が実現する。

しかして、この変態キーボードがないと、ふつうのキーボードでは大不満という事態になって、快適さどころか「不快」が襲うことになるのである。

ようやくの沼からの脱出のつぎにやってくる、変態キーボード依存症なのであった。
世の中には、悪魔がいるのである。

そんなわけで、「変態キーボード」にはあえて手を出さずに、せいぜい「静電容量無接点方式」の高級機で我慢するのが、まだ「無難」なのであった。

首席エクソシスト・プーチン

「帝国」の定義とは、複数の民族・国家・地域を包摂している広大な版図を持つ国であって、「皇帝」が統治する。

歴史的には、ローマ帝国からはじまって、モンゴル帝国、ムガール帝国、スペイン帝国、大英帝国、ロシア帝国、ドイツ帝国、大日本帝国などがある。
南米のインカ帝国も、「帝国」である。

わが国の「国体」に関しては、曖昧であるけれど、高校の時に購読していた『リーダーズ・ダイジェスト日本語版』で、「付録」でもらった『世界の国々』には、「日本国」の項目に国体が、「立憲君主制」とあって、国家元首が天皇と明記されていたことを記憶している。

アメリカ文化を紹介するだけでなく、日本人を洗脳するための雑誌のはずが、「うっかり」かどうかはしらないけれど、「まとも」な記述だったから、意外な感じがして忘れずにいるのである。

日本は「単一民族だ」ということの「あたりまえ」が、だんだんと崩れてきて、「アイヌ」や「琉球」は、「別民族」だということをいわないといけなくなってきて、「アイヌ民族支援法」(2019年)ができたのは記憶に新しい。

すると、リーダーズ・ダイジェストが書いていた「定義」を補強して、わが国が「帝国」であることを示した「法」にもなったのである。
なので、「大」をつけなくとも、「日本帝国」というべきことになったから、左翼界隈のひとたちの努力には思わぬ効果が生まれたというべきだろう。

原本が英語であった、日本国憲法で、その第一章は「天皇」と訳されているけれど、原本は「CHAPTER I. THE EMPEROR」である。
つまり、翻訳された「天皇」ではなくて、世界に通じるのは「THE EMPEROR」が統治する「他民族国家」としての、「帝国」なのだ。

たまたま、わが国では古くから「天皇」といういい方があったけど、敗戦後の正式な名称は「THE EMPEROR」が先で、「天皇」はその翻訳にすぎないのに、このちがいを日本人は意識していない。

もちろん、「THE EMPEROR」の国だから、「他民族」がいなくとも、「帝国」なのであるけれど、GHQは憲法を、「The Constitution of Japan」と表記して、国名の訳を「日本国」としたことで、日本人から「THE EMPERORの国=帝国」を奪ったつもりにしたのである。

それがまた、「他民族国家」だと法によって定めたから、「帝国」の定義を強くしたということになるのである。
ついでにいえば、「海洋」を含めた面積にすれば、わが国は世界6位の、「広大な版図」があるのも忘れがちなことである。

さてそれで、なぜか圧倒的な「帝国」だった、大英帝国は、どういうわけか「国王」を置いて、「皇帝」と自称しなかった。
「本家(ハノーバー朝)」筋のドイツ皇帝に遠慮したかどうかなのか?もっとも、このひとたちは「インド皇帝」は名乗っていた。

先般亡くなったエリザベス2世女王は、王位に就く前の「王女」時代に、元ギリシア王族のフィリップ・マウントバッテンと結婚(翌日「エディンバラ公爵」授爵)したので、即位までの間は「エディンバラ公爵夫人」であった。

マウントバッテンとは、ヘッセン大公国を統治していたヘッセン=ダルムシュタット家の分家「バッテンベルグ家」を英語翻訳したもので、「ベルグ=山=マウント」なのである。

そんなわけで、73歳で即位したチャールズ王太子(日本ではなぜか「皇太子」といっていた)は、「女系国王」となったので、「ウインザー朝」が「マウントバッテン朝」に「改姓」となったけど、どういうわけか「ウインザー朝」のままになっている不思議がある。

なお、「ウインザー家」というのも、本来の「ザクセン=コーブルク=ゴータ家」だと、第一次大戦でドイツを「敵」とした(「本家」を敵にしたも同然)ために、居城の「ウインザー城」から名前をとった「だけ」である。

ヨーロッパは、中世以来の「各家の政略結婚」がふつうだったから、由緒ある「貴族」ほど、国境を越えて血縁・縁者で固めている。
もちろん、これに「帝政ロシア」のロマノフ家も含まれるから、ほぼ上層部はいまだに親戚同士なのである。

このことをかなり強固にしたのは、「ヨーロッパの祖母」といわれるヴィクトリア女王で、最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と最後のロシア皇帝ニコライ2世とは孫にあたるし(従兄弟同士)、ニコライ2世の皇后は、ウインザー朝に改名した英国ジョージ5世(エリザベス2世の祖父)と従兄弟にあたる。

これにまた、キリスト教会がからむ。
わが国でもそうだったように、「高貴な血筋」は、宗派も好んで受け入れたのだ。

ローマ帝国が受け入れたユダヤ奴隷の宗教だったキリスト教が、ローマ帝国の分裂で東と西に教会も分裂して、西ローマ帝国の滅亡が西ローマ教会を組織化させて生き残り「ローマ・カソリック」となった一方、東ローマ帝国には「東方教会(オーソドックス)」が国家の支援を受けていた。

いまや、東方教会最大のロシア正教が、宗教を否定する共産ソ連時代を生き抜いた自信で活気をていしている。
これには、ヒトラーのナチスと死闘を繰り広げたスターリンすら、教会の支援を求めたことも影響している。

そんなわけで、ウクライナのナチス政権と闘うプーチン氏が、先月末に、ロシア正教の「首席エクソシスト」になったというニュースは、完全に「戦後秩序」の崩壊現象を証明するものとなった。

これを、「カルト」だとする西側マスコミのプロパガンダが盛んだが、そもそもが「三位一体説:父と子と精霊」こそが、「神秘」なのであって、「神秘」なき宗教は存在しない。

はたして、西ローマ教会たるバチカンがこれをどうみるのか?
ローマの教皇庁立レジーナ・アポストロールム大学には、エクソシストになろうとしている司祭のための講座がある。

ちなみに、「教皇庁大学」(学部として、神学・哲学・教会法、その他、の4つ以上があって、福音宣教に協力することが条件)とされる教育機関は世界にあって、日本では「上智大学」が指定されている。
さすがは、イエズス会、なのだ。

むしろ、イスラム教側がスンニ派・シーア派の「怨讐を超えて」支援をいいだすかもしれない。
それにまた、アメリカ中間選挙の「直前」というタイミングが、プロテスタントの異端、清教徒たちに刺戟をあたえることにもなるだろう。

なぜかわが国の「右翼」は「左翼」と一緒に、このニュースを嗤うけど、ならば「現人神」たる天皇をなんだというのか?
プーチン氏やロシア正教会からこういわれたら、ぐうの音もでないのがいまの「右翼」のふぬけなのである。

「産業の頂点」だというけれど

観光業は「第六次産業」だといったのは知の巨人、梅棹忠夫氏であった。

第一次産業+第二次産業+第三次産業=「第六次産業」だというのである。もちろん、足し算ではなくて、かけ算にしてもよい。
これで、あたかも「食物連鎖の頂点」に君臨するライオンのごとく、観光産業従事者の気分はすこぶるよくなったという。

しかし、梅棹氏の指摘は「そちら」方面ではなくて、むしろ、「叱咤激励」の方向だった。

ライオンは、その鬣は立派だが、雌ライオンの狩りの成果で生きているし、老いて群れから追い出されたり、若くして雌にふられた雄ライオンは「流浪の旅」に出るしかなく、別の群れを乗っ取ることに成功しなければ「死」が待っている、あんがい哀しい動物なのだ。

ましてや「万が一」他の群れの乗っ取りに成功したら、いまいる子ライオンは全部が乗っ取ったライオンによって始末される運命にある。
「強者(の遺伝子)」しか生き残れない、「自然の掟」に従って生死が決まるのである。

では、狩られる側の、たとえば、シマウマの側はどうかといえば、その気性の荒さから、人間が家畜にすることができない特徴がある。
なので、シマウマは、なにもライオンに食われるために生きているわけでもない。

おそらく、シマウマ側の生存にあたっての原理は、ライオンやらの肉食獣に食われる数を想定した個体数を維持するようになっているにちがいない。
これを、「調整」しているのが、地面に生える植物の量と水の量に依存する。

つまるところ、ライオンがどんなに人間によって「百獣の王」と、おだてられても、ライオンはシマウマの数も、植物や水の量をコントロールしているはずも、能力もない。
もちろん、ライオンたちが自分たちは百獣の王だと自覚しているはずもなく、そんなことをかんがえる知能を持ちあわせているとかんがえる方がどうかしている。

そうなると、まったくもって「ライオンは百獣の王だ」ということの意味が不明になるのである。
だから、「観光業が産業の頂点だ」ということの意味を、観光業界のひとたちはじっくりかんがえる必要がある。

なんでこんなことを書くかといえば、かんがえていない気がするからである。

すると、まるでサバンナで生きているライオンとちがいがない。
ただ、言葉を解するのがライオンとのちがいだから、なんだか気分がよくなるのである。
そうやって、話が戻って、梅棹氏が指摘した「叱咤激励」の方向にならないと永遠にループする。

なので、ここからは「叱咤激励」である。

第一に、観光産業のひとたちは、自分たちの産業が「サービス業だ」という致命的な勘違いをしている。
第六次産業の「式」には、第三次産業も含まれているのだ。
そもそも、産業分類での「第三次産業」のあやうさがあることもしらない。
人類が最も長く従事してきた、農林水産業を第一次産業として、産業革命以来の鉱工業を第二次産業とした。

第三次産業とは、「これら以外」という分類なのだ。
しかも、産業の頂点にあるのが観光業なので、ぜんぜん「次元がちがう」という意味なのである。

これは、第一次産業における知見、第二次産業における知見、その他の産業における知見、という、おそるべき「広さ」と「深さ」についての知見がないと、存在できないのが観光業という産業だという意味になるのである。
このおそるべき難易度を、観光業界のひとたちは理解しているのだろうか?

残念ながら、まったく認識されていないと思うのである。
ならば、やっぱり自分の立ち位置を理解しないで生きている、ライオンとのちがいがなくなるのである。

第一次産業における知見とはなにか?
第二次産業における知見とはなにか?
第三次産業における知見とはなにか?
産業の頂点として君臨する観光業の知見とはなにか?

こうして並べてみると、観光業から他の産業への知見を求めることは、果たして可能なのか?とかんがえさせられるのである。
むしろ、他産業が「成熟」して、観光業に成る、という順番ではないのか?
まさに、将棋でいう「成る」だ。

すると、いま、観光業を自認しているならば、淘汰の対象になることを意味する。
ライオンが外からやって来て、群れを乗っ取るかのように。
そして、以前からの遺伝子をすべて始末するようなことがおこなわれる可能性がある。

これは、既存産業従事者にとっては致命的な事態だが、利用客からすれば、あんがいと「歓迎」すべき事態なのである。

「業界再編」とは、既存の観光業界の中での嵐ではなくて、他産業からの参入という形態になるとおもう。
これが、もっとも「合理的」だ。
既存観光業の皆さんには「リスク管理」をいいたいけれど、世の中のリスク管理の中核に「確率」があることは絶対だ。
すなわち、「発生する確率」の議論なのである。

あえていえば、廃業のプロセスも「確率的」にかんがえておいた方がいい、ということなのである。