香川県のゲーム時間規制条例

「完璧なる全体主義」が香川県で実施される予定になっている。

十八歳未満の「ゲームは一日60分まで」という使用制限を、明日17日からの二月定例議会に提出し、可決予定だという。
しかし、「強制」をともなわない、「基準」を規定するだけだという。
だから、「罰則」をともなわないから、実効性も低いと予想されている。

だったら、こんなもの議会に提出することはない。

なんのための「条例」なのか?
おそるべき「全体主義」であることに、だれも気づかないのか?

つまりは、条例を「つくること」が目的になっているのだ。
これを、「自己目的化」という。
「愚策」が生まれる典型的な「愚行」だ。
しかも、自己目的化した目的には、「屁理屈」がともなうのも特徴である。

今回は、本件検討委の委員長が、以下の話をしたと新聞が書いている。

「家庭や学校で取り組む対策に統一性を持たせ、一定の強制力を担保するには具体的な規定が必要」だと。

どうして「統一性」が必要なのか?
しかも、「一定の強制力」とあるから、そのうち「罰則」をふくめた「改定」も視野にいれているにちがいない。

これを推進するひとたちは、『アンネの日記』を読んだことがないのか?
そして、この「悲劇」の、本質である「全体主義」を、なんだとかんがえたのか?

思考力もない人物たちが、地方といえども「議員」になっている。

ひとびとが、ヒトラーのナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を熱狂的に支持しながら、「ユダヤ人浄化」ということをはじめたときは、「ゆるかった」のだ。
その「ゆるやかさ」が、批判のもとになって「過激化」する。

そして、「もっと」、「もっと厳しく」が、ついには組織的になったのである。
これを役人として、機械的に実行した人物の裁判が「アイヒマン裁判」だ。

 

左は題名のとおり「調書」である。
右は、この裁判の「傍聴録」として、みずからユダヤ人で、ドイツから脱出したアーレント渾身の筆がさえる考察だ。
この本の出版で、アーレントはユダヤ人から「裏切り者」と批判され、旧友を失いもした。

神奈川県の「禁煙条例」は、原案に「家庭内」も対象にされていた。
この条例には、罰則がある。
それで、「アンネ」という少女が、「喫煙者」になったら、どうなるか?

ある日、戸建てやマンションに関係なく、自宅玄関にやってきた「禁煙指導官」(あるいは警察官でもいい)なるひとに、クンクンにおいを嗅がれて、「お宅、タバコやってますね」と指摘されて、その場で罰則の切符を切られる、ことを想像すれば、ことの大小ではなく、官憲による個人の自由剥奪という状態が出現する。

わたしは、タバコを十年以上前に「やめた」けど、これは、誰かから命令されたからではなくて、自分からやめようと思ってやめたのである。
やめるのも自由意思があってこそである。

もちろん、神奈川県は、この原案は「さすがにちょっと」ということで、対象から「家庭内」は外したけれど。
「ちょっと」ではない重大さが「ちょっと」といわれることに、いまだに違和感がある。

日本ではなぜか人気の、ジミー・カーター氏がどのくらいの「左派」なのか?あんまり解説はないのだが、所属が「民主党」だから、当然に「左派」である。
しかしながら、かなり「極」がつくことに注目したい。

彼が二期目の大統領選挙で、共和党のレーガン候補に大敗したのは、イラン問題とテヘランの大使館占拠事件の救出に失敗したからと説明するのは、一面だけに注意を向けようとしている危険がある。
彼が創設したのが「連邦教育省」で、「最悪」と評価されて大敗したのだ、と前に書いた。

なんでも「一律」にしたい「左派」に対して、有権者は「No」を突きつけた。
トランプ氏は、「教育省廃止」を公言していたから、そのうち「公約」として出てくるのではないかと思う。

わが国は、明治以来の「開発独裁政府」という性格がいまだにある。
だから、「全国一律」が「常識」になっている。
なのに、「地方の時代」といったりもするから、「痴呆の時代」なのだ。

律令時代の「中央集権」を、もっと強力に実行しているのが「日本国政府」であるから、「地方」の「独自性」は、ほとんど発揮でないようになっている。

国民を乞食にした、「ふるさと納税」で、総務省の役人から徹底的にいじめられている自治体は、「独自性」にこだわった「だけ」である。

もちろん、わが国の総務大臣は、国会議員という「源立場」をかんたんに忘却して、役人のロボットになり果てるから、こんないじめはいけません、とは決していわない。
選挙のときに、役人からいじめられるのがこわいからである。

ちなみに、カジノをやりたい横浜市は、ふるさと納税のおかげで、えらく税収を減らしていることも影響しているはずである。
カジノに反対する市民は、ふるさと納税ではなくて、ちゃんと横浜市に納税すればよいのだが、それは「お得」ではないとして、やっぱり「乞食」をやめない。

中央の締め付けが、地方を殺している。
こうして、独自色を出したい地方がとち狂っても、この国の人権派はだんまりを決め込む。

いろんな正体がみえてくるけど、まさか地方から全国一律になりはしないか?

中学生の娘と母の会話

たまたま食事をしていた隣席に、たまたま母娘がすわった。
食事時だから、なんのことはなく、この母娘も静かに料理を食べていた。
食器がさがって飲み物に移ると、娘がおもむろに中学の参考書をとりだした。

へー、こんなところで勉強するのか?と思っていたら、なにやら母親がはなしはじめた。
どうやら「社会科」の話題らしい。
あんがい、聞耳を立てたから、以下はかなり正確に書いたものだ。

いきなり「現政権の経済政策」について、かなり「適確」な批判がはじまった。

「アベノミクス」がいう「景気対策」とは、日銀による「ゼロ金利・マイナス金利」という「無謀」でしかなく、株式をもつ一部の投資家にだけの恩恵なのに、消費税は「増税」して、その対策が「2%」のキャッシュレス決済における「返金」という無意味になっている、と。

すると、娘は、「そんなこと解答にできないよ」といったけど、母親は意に介せず「自由に述べよ、なんだから、いいじゃない」という。
「それに、お母さんがいっていることのどこがちがうの?」
「う~ん。その通りだとおもう」

「どこがその通りなの?」
「日銀の金利と消費増税」
「なら、それでいいでしょう?」
「うん」

「あと、おおきな問題は親中の外交ね」
「ああ、それね」
「大問題でしょ?国家の存亡にかかわることよ。お母さんの時代よりあんたたちの時代になったら、日本が占領されちゃうから。そうなったら、みんな奴隷になるのよ」
「やばいよね」

「でも、学校でこういうこというと、どうなのかな?」
「なにが?あんた、なにを気にしているの?先生?」
「っていうか、雰囲気」
「なに?親が右翼だからって文句いうの?」

「そうじゃなくて、あんまりこういうこと、いうひとがいないとおもうから」
「だから、自由意見でいっておきなさい。すこしは目を覚ませって」
「だれに?」
「みんなによ」

「あんた、ほんとうはどうおもっているの?」
「え?。。。やっぱり、この国やばくない?っておもうけど」
「どうやばいのよ?」
「民主主義じゃないし」

「どうして民主主義じゃないっていえるの?」
「だって、アメリカの大統領選挙みればわかるじゃん」
「なにがわかるの?」
「立候補者から選ぶんだよ。大騒ぎして」

「それで?」
「それに、議会が予算編成するんだよ」
「その意味は?」
「行政が予算案をつくらないってこと」

「こないだの弾劾裁判と一般教書演説がおもしろかったわね」
「上院が多数だから、否決されるのわかってるのに。学校でも話題だったよ」
「あれって、民主党の党内でのバイデン降ろしでしょ?」
「たぶん。日本のニュースはいわないね」

「それに、おどろいたのが、大統領は議会に入れないことね」
「えーっと、議長から招待状をもらって議会に入るのが許可されるんだよね」
「そうよ、それが三権分立。大統領が議事堂に勝手に入れない国」

「これ、日本でかんがえたらどうなるの?」
「総理大臣は国会に入れない?」
「総理は国会議員から選ばれるのよ」
「そうか。そうなると、、、あれ?わかんない」

「イギリス式なのよ」
「あっそうか」
「あんた、イギリスのこと勉強しないとダメね。それに、女王陛下と天皇陛下はちがうのよ」

「ちがうの?」
「なにいってるの?あたりまえでしょう?」
「えっ、どうちがうの?」
「天皇陛下のほうがえらいにきまってるでしょう?」

「なんで?」
「ばかね、歴史がちがうのよ」
「ああ、長いんだ、天皇家の方が」
「世界最古よ。エリザベス女王のウインザー朝は1917年からだから、たったの百年、まだ4代目なんだから」

「古いってだけ?」
「あのね、これが伝統っていうの。古いだけっていうけど、二千年以上続いてるってことがすごいのよ。あんたの子孫が千年も続くの?」
「。。。。。」

「でも天皇制っていろいろいうけど」
「あんた、その天皇制ってやめなさい。共産党用語なんだから」
「そうなの?みんないってるけど」
「だから、日本人がおかしくなるの。それが共産党の作戦よ」

「でね、ウインザー朝ってドイツの王朝からの流れなのよ」
「そうなの?」
「それに、エリザベス女王には、ウインザーって苗字があるのよ」
「あれ?苗字?」

「イギリス歴代でも苗字があるのは、ウインザー家が最初よ。それまでなかったんだから。どのくらい天皇家からして格下か、わかる?」
「へー、そうなんだ。なんか、すごいね」
「あたりまえでしょ」
「お母さんがすごいみたい」

「だから、日本人はちゃんとしなきゃいけないの。その辺の普通の国とちがうって。差別とかじゃなくて、じぶんたちの誇りとしてしっかりしないといけないのよ」
「そのわりに反日されるよね」
「それは、日本人としてシャンとしなかったからでしょう?自民党の売国奴たちが日和ったからバカにされるのよ」

「じゃあ軍事力もいるの?」
「なにいってるの?あたりまえじゃないの?軍隊がない国なんて国じゃないでしょ?」
「それって過激だよ」
「あんた、それ学校でならったの?」

「わかんないけど、なんとなく」
「もうだめね。留学しなさい」
「どこに?」
「海外ならどこでもいいわ、東アジアを除けば」

「じゃあドイツがいい」
「だったらドイツ語勉強しなさい」
「やるやる」

女、子どもの話とは、むかしなら相手にされないが、時代はおおきくかわっている。

パレスチナ化する日本領土

世の中には面倒くさいはなしがたくさんあって、「問題解決できない」問題にあふれている。
学校時代は解けない問題は出題されなかったけど、世の中には、解ける問題のほうがすくない。

解ける問題を上手に解くものが優秀で、解ける問題をうまく解けないものは凡庸とされるのは、「解ける」という点では否定しないが、「解けない問題」をどうするかは、かなり本人の「センス」にもよる。

解けない問題の「正解」は、だれにもわからない。
これは、「四次元」で解く問題だからだ。
わたしたちは、点、線、面までの「三次元」にいきているから、時間がくわわった「四次元」は、グラフにひょいと書くこともできない。

世の中に「解けない問題」がたくさんある理由はなにか?
それは、「経営資源」というもののなかに「時間」がはいっているからである。
ひと、もの、カネ、情報、、、、、時間。

これらを「トータル」で駆使して目的や目標を達成するのが「経営」だから、「正解」にあたる「ある一カ所」を指し示すには、「四次元グラフ」のなかで特定するひつようがある。

ところが、この問題の正解を指し示すまでの「時間」でも、環境は刻々と変化するから、結局「近似値」に近づけることしかできないのである。
しかも、それが「近似値」であることさえ、だれにもわからない。

今日の判断が、もしかしたら「大間違い」かもしれないし、もしかしたら「かすっている」のかもしれない。
それで、仕方ないので、どのくらい目的や目標とズレているかをたえず確認することで、その都度「修正」するしかないのが「経営」という行為になる。

ところが、もっと厄介な問題が世界にはあって、それが「領土問題」というものになる。
土地、あるいは海洋であっても、そこに境界をもうけて、その内側と外側を区別する。

この原理の単純さゆえの複雑は、世界が自分ひとりではないことにはじまる。
世界にふたりしかいなくても、それぞれの生活圏がぜんぜん関係なく離れていたら、世界はじぶんひとりに等しいから、なんにもかわったことはない。

しかし、接近してくると、とたんに「奪い合い」という事態になる。
その土地や海洋自体は、そこから動かないので、まったく人間の都合による「奪い合い」ということだ。

わが国よりはるか遠くの中東で、むかしは「中近東」といった地中海の東海岸側にある「パレスチナ地域」に、「シオニズム」という政治運動から、ある日突然、大量の外国人がやってきて、現地人を追いやって住みついてしまったら、そのまま「建国」された。

追い出されたひとたちは、はじめ「60万人」ほどだっけど、60年も時間がたって、子孫をいれれば数百万人になっている。
これが、「パレスチナ難民」で、北の隣国「レバノン」や、東の「ヨルダン」それに、東エルサレムやガザという地域に住んでいる。

あんまり遠くて、どうでもいいようにおもえるが、石油を産する地域になるから、ぜんぜん他人事ではすまない。
トランプ政権が、あたらしい「中東和平案」を提案して、わがマスコミは批判的に伝えているが、はたしていかがか?

たしかに、「理屈」のうえでは、理不尽な「案」である。
ようは、「現状の容認」をする、という「だけ」の案だから、パレスチナ難民のひとたちを元の場所に帰還させて住まわせる、ということはこの案にはない。

むしろ、注目は、周辺のアラブ諸国の「変化」で、かつて「四回」も戦った中東戦争からすれば、「五回目か?」といえばさにあらず。
ぜんぜんやる気がなくて、しかも「他人事」なのである。

つまりは、当事者で決めてちょうだい。
アメリカ案?う~ん。わるくないんじゃない?
これが、かつての盟主エジプトの反応である。

「パレスチナ政府」を認める、というのは、これで何回目かわすれたが、かならずパレスチナ側が「拒否」してきたし、今回も「拒否」したのは、案自体を拒否したからである。

さてそれで、パレスチナ側はこれからどうするのか?
じつは、資金援助していた周辺国が、援助に疲れてしまっている。
それに、アメリカも中東から足ヌケしたい。
ならば、出てこられるのはロシアなのか?それともあの大国か?

この両国とは、領土問題があるのがわが国である。
尖閣には領土問題は「ない」という、わが外務省の公式見解も、「理屈」ではそうなのだが、はたして「実態は?」となると、かなりあやしい。

「現状の容認」なんかできっこない、のがわが国の「領土問題」だから、構造が「パレスチナ問題」と似ていて、さらに、追いつめられ方も似ているのだ。

一戦交えるはなしをした国会議員が、所属する政党から除名される「事件」があったけど、いまさらに、その「政党」は、どんな解決策をもっているのか?
相手国との「交渉」・「話し合い」における「戦略」は?きいても無駄な愚問になり果てている。

パレスチナ自治政府との知恵の出し合いもしていないにちがいない。
もちろん、「なにもしない」ことに長けているのがわが国の特徴だから、ひたすら「問題の先送り」という方法で、解けない問題を放置するのである。

なるほど。

俳優の日常を追求してはいけない

俳優になりたい、とおもったことがあった。

いまはどうしているかしらないが、45年以上まえ、小学校の卒業式にあたって、在校生からの「呼びかけ」というコーナーがあった。
「卒業生のみなさん」からはじまる、ひとりひとりが短い言葉をつないで、全体でメッセージにするものだ。

毎朝、この練習で、指導の先生から名指しで褒められた。
なんともいえない「間」がいいと。
あんまり毎回褒められるものだから、同級生からも褒められた。

高校生。現代国語の授業で、教科書を席順でまわして、少しずつ音読させられた。
「はい次」といって、わたしの順番になると、いつも先生が「はい次」といわないので、最後まで延々と読まされた。

どこまで読まされるのかとおもいつつ読んでいると、読み終えても先生が反応しない。
しばし間があって、「どうした?」というから「ぜんぶ読み終えました」といったら「聞き惚れた」という。

これが何回かあったら、「ラジオのアナウンサーになれ」といわれた。
ぜんぜんかんがえたことがなかったし、職業について他人から具体的なイメージをもらった最初だった。

全盛のテレビじゃないから、クラス中が笑ったが、それからラジオを聴くようになった。

わすれられないのは、森繁久彌と加藤道子のご両人「しか」出演しない、『日曜名作座』だった。
登場人物のキャラクターを「声」だけで演じ分ける、こんなことができるものか?いや現実にやっている。

なんだこれ。すごすぎる。

いまは、西田敏行、竹下景子のご両人でつづけている。

民放では、御大・小沢昭一の『小沢昭一の小沢昭一的こころ』というバカバカしくも可笑しい、大長寿番組があった。
『全国子ども電話相談室』の直後に、子どもにはわからない「小沢昭一」の大人の時間があったのが不思議だ。

こちらは、「ネタ」が書籍になっていて、シリーズを買い込んでは自室で朗読しただけでなく、リズムを真似て、英語学習のために買ってもらったカセットテープレコーダーに録音した。
あの「味」の再現はできなかった。

  

幼稚園前、祖母が出入りしていたので何回か連れて行かれたのが、進藤英太郎宅だった。横浜に住居を構えていたのだ。
「おお、坊きたか」といって、在宅しているとうれしそうに出てきては、かならずお菓子をくれたが、その笑顔の掛け声とお菓子ぐらいしか記憶にない。

小学生のとき、夕方の30分ものテレビに、山田太郎主演の『一心太助』をやっていて、大久保彦左衛門を進藤英太郎がやっていた。
わたしの中で、いまでも、進藤英太郎が大久保彦左衛門なのである。
まちがいなく、一生変わらない。

東映の「忠臣蔵」では、吉良上野介を憎々しげにやったりしたのは悪役でならした俳優だったからだが、別のオールスター作品では浅野内匠頭切腹の立会人における「武士の情け」をしみじみと演じている。

晩年の傑作は、『おやじ太鼓』で、まったく芸の細かさは「さすが」である。
夫人役は風見章子。
いったいいくつのときの「老け役」なのか?

エジプトのカイロにいたころ、こちらも悪役で名高い小沢栄太郎をご夫妻でピラミッドに案内したことがある。
当時、『白い巨塔』の鵜飼教授役が直近の印象だったから、どうしてああいう演技ができるものかと質問した。

なぜなら、一日中笑いがたえない人で、なにか言っても、返答を聞いても「コロコロ」笑うからである。
はたして、このひとが、全国民からうらまれる「悪役」とはおもえなかった。

すると、「じぶんとぜんぜんちがう人物を演じるのが、おもしろくてしょうがない」といって、またコロコロと笑われた。
それから、伊丹十三監督の『マルサの女』で、えらく気弱な税理士役で出てきたのを観ておどろいたけど、それは伊丹十三の「ひとの悪さ」もいっしょに観た気がした。

あの「小沢栄太郎」の、「ふだん」をみせたからである。

どういう気分で、あの税理士役をやったのか?
直接本人にうかがってみたい気もしたが、なんだか「野暮」な質問なので、とうとう連絡しなかった。

エジプトから帰国されてから、お手紙を頂戴して逗子の自宅を訪ねてほしいとあったけど、なんだが憚れた。
わたしも帰国して、ホテルの新入社員研修でコーヒーハウスのウェイターをやっていたとき、小沢夫妻がスタッフと打ち合わせで来店された。

コーヒーのおかわりを注ぎにいったが、議論に夢中で気がつかない。
奥様が気がついて、ふと目が合ったとき、「カイロではどうも」と言おうとしたけど、仕事の邪魔になるから一段落してからご挨拶しようとおもっていたら、ご一同そのまま席をたってしまった。

奥様が、こちらを振り向いて、不思議そうな顔をされたのが印象に残っている。
これが、大俳優・小沢栄太郎先生との今生のわかれとなってしまったのは残念である。

あのとき、強引に声をかけていたら?

けれども、やっぱり「観客」は「観客」でいたい。
それが、俳優にとっての「楽しみ」を「密か」にさせるのだし、「観客」は観る側にいることで、無限の想像(妄想)をめぐらせることができる。

やっぱり、ラジオのアナウンサーか、俳優になりたかった。
それでいま、「講師」をつとめるとき、「舞台」のつもりでやっている。

台湾は公用語に日本語を加えるか?

国際法的にいえば、台湾の「帰属問題」は、はっきりしないまま、いまにいたっている。
日本は台湾を放棄したことになっているが、それすらも「あやしい」からである。

だから、選挙でえらばれた最初の総統になった、李登輝(岩里政男)氏は、その著『台湾の主張』で、台湾は「日本領」だと主張している。

中国経済を発展させれば、自動的に「民主化される」と信じて、いろいろ援助をしてきたが、実態は、おそろしく「不純」な「援助交際」だったと、アメリカがいまさら気がついた。

ソ連が崩壊したとき、アメリカ人は無邪気に「自由化」すればうまくいくと信じたが、「自由主義」における「自由の概念」をしらなかったひとたちは、ただ好き勝手をやって、とうとう「マフィア経済の国」になってしまった。

そうなるだろうと「事前に予想」したのは、世界でただひとり、故小室直樹氏のみだった。
「社会学」が、国家の崩壊とそのゆくえをドンピシャでいいあてたのは、驚愕だった。

ソ連の崩壊によるロシアでの「苦い経験」が、ぜんぜん役に立たなかったのはなぜなのか?

アメリカ人は生まれながらにして、自由主義と資本主義をたたき込まれる。それは、まるで「空気のよう」に。
だから、自由主義と資本主義がわからない人間はいないと信じているからだ。

とは、小室氏の「論理」だから、アメリカは「二度も」間違えたことになる。

しかし、ここにきて、ようやくアメリカ人も気がつきはじめた。
超党派で対中強硬路線となっているのは、両国ともお互いの「水と油」の論争で理解したのだということだろう。
もちろん、アメリカは覇権の挑戦者を前もって叩き潰すことを「是」とする国である。

ここにきて、レッドチーム入りを画策しているわが国を「叱りつけない」のは、とりあえず「泳がせておく」ことにして、獲るモノは獲っておくという戦略にちがいない。
防衛費の「負担問題」がそれだし、カジノもそれだ。

外国に自国の防衛を依存して、それが「経済的だ」という価値観は、「双子状態」の韓国もおなじだ。
しかし、高すぎるとなると、「自主防衛」という、世界ではあたりまえの概念が出てくるから、そこのところのサジ加減がある。

アメリカからしたら、日韓を自主防衛に走らせることは、国益にかなわない。
ずっと、属国におくことが彼らの国益なのである。
だから、「護憲派」とは「究極の親米派」になる。

日本国憲法が制定されるとき、日本共産党が「軍を持たないのは国家ではない」として「九条」に反対したのは、ただしい主張であった。

米軍駐留費の一部負担のことを、「思いやり予算」という「倒錯用語」をつかうのは、ガチガチの「中華思想」にほかならない。

日韓ともに、本国よりもはげしく、より厄介な「小中華思想」の国である。
すなわち、近代人の思想をもっているものではない。
アメリカナイズされて心地よいのは、やっぱり精神が「倒錯」しているからだ。

つまり、かなりへんなひとたち、になっている。
「エキゾチック・ジャパン」とは、「異質」という意味だけれども、良い意味ばかりではないのである。

戦後、日本に見捨てられた台湾は、戦前の日本人をイメージして、「親日」だったけど、未来永劫親日とはおもえない。
もちろん、これは残念なことだけど、いまの「かなりへんなひとたち」になった日本人に「憧れる」ことがへんだからだ。

しかし、台湾の地政学的リスクは、大陸に近いことで、いつ「呑み込まれるか」という恐怖が、常にある。
それで、「少子化」の深刻さは、韓国の次に台湾にある。
わが国の少子化問題のレベルは、比較すれば相対的に「低い」ほどだ。

アメリカの対中戦略変更によって、「台湾防衛」が、東アジアにおけるアメリカ自体の信用問題になってきている。
各国が見守っいるなか、過去にないコミットをはじめた。

石油が自前になったから、中東から足ヌケをかんがえるアメリカを、どうやって引き留めるのか?が、あちらの国々の戦略になった。
さいわいかな、足ヌケできないイスラエルが存在しているのが、紛争のタネとして利用するはなしに転換した。

中東の石油に90%も依存しているわが国が、アメリカの足ヌケの後釜にならざるをえなくなったのは、大変化だが、アジアの自由主義の国々が「期待する」のは、ある意味当然である。
本音はレッドチームの親玉にかしずきたいのだが。

そんなわけで、アメリカに上手につかわれるのは、あちらの大統領がビジネスマンだからでもある。
けれども、哀しいかな、わが国の立場はアメリカの属国だし、それしか生きる道がない。

台湾は、本音は親日をとっくに卒業しているけれど、この際、やっぱり「利用したい」から、公用語に日本語を「加える」かもしれない。
いきなり「英語」にしたいのはやまやまなれど、世界で唯一、日本国以外の、「原住民会議」における「公用語が日本語」だから、少数民族のため、というれっきとした理由がある。

レッドチームにいきたい日本を牽制するのに、これ以上の妙手はない。
日本国内における「親台湾」の爆発的支持が望めるのは、まちがいないからである。

けれども、この一手は、日本も救う。

はたして、目に見えない「綱引き(神経戦)」のゆくえは、意思なき日本という国の運命を左右することまちがいない。

それにしても、ここまで「他国依存」しなければならないものか。

空中浮遊する「べき論」

日本企業の「真面目さ」とか「一途さ」が変容したのは、やっぱり「バブル期」だったかとおもえる。
すると、もう一世代分の30年も経ってしまった。

「失われた何年」という、不思議な言葉をつかうけど、これは勘違いや責任逃れをあらわす。
自然災害のように、受動的に聞こえるからである。
人間社会のことだから、ほんとうは能動的に「失った」のである。

さいしょに「失った」のは、「目標」だったとおもう。
この時期、わたしは、ホテルの全社予算編成を担当していた社内官僚だった。
バブル期の問題は、「はじまり」からはじまっていた。
つまり、売上予算が努力なく「達成」されてしまうのである。

営業部門の各部長たちは、誰もが「慎重さ」を崩さなかったのは、「未達」のときの「責任論」を嫌ったからである。
当時の仕組みは、「評価」に問題があったのは承知していたから、社内予算制度そのものの再編もやっていた。

トップ・マネジメントは、「ビジネスは成果だけで評価するものだ」と公言していたが、予算担当者のわたしからすれば「ビジネスはプロセスが重要で、成果はその結果でしかない」とかんがえていた。

どちらがただしいという議論はさておいても、「評価」が「結果だけ」なら簡単だが、「チャレンジ」の精神が弱くなる。
けれども、プロセスを評価することはたいへん難しく、接客現場の「判断」をいちいち記録することはできない。

そこで「業務のフローチャート」をつくってみた。
サービス設計上、どこが「管理ポイント」で、どんな「判断」をすればよいのかが、現場のひとたちと確認できる。
もちろん、「管理ポイント」とは「品質基準」になるから、サービス品質の標準化もできる。

しかしながら、このやり方は継続しなかった。
「組織の意志」として、経営層に「続行」をみとめてもらうことがなかったのである。

こんな手間をかけなくても、現場はむかしからやっている。
現場を信じられないのか、と。

とはいえ、これは、「バブルの反省」からかんがえだしものだった。
上述の「はじまり」から、頂点に達しのは平成2年(1990年)のことである。
この年の売上予算は、たった8日間で崩壊した。

できたばかりの「予算」が、どうかんがえても「かんたんに達成してしまう」ばかりか、大幅に「上回る」ことが確実となったのだ。
かってに予約申込みがどんどん入る。
経営トップから、作り直しを指示されたが、営業部門の部長たちは動かなかった。

これは、「恐ろしい」経験で、従来の積み上げ式の限界があらわになったのだ。
もちろん、めちゃくちゃ「良い数字」なのだから、あんがい上司たちは楽観していた。

しかし、これが「下振れ」したら、想像もできない「落下」がやってくることを「予算化できない」という意味でもあった。

そして、たった二年後、平成4年にそれが「起きた」。
新聞・マスコミでは「ジェットコースター」という表現がつかわれたが、実務の現場では、それどころか「エレベーターが落ちる」感覚だった。

わたしは、エジプトのカイロのホテルで、じっさいに落ちるエレベーターに乗っていたことがある。
このホテルは世界的に有名な五つ星であった。

それゆえか、数台横並びならまとめて「エレベーター・コア」をつくるのがふつうだが、この建物は、一台分ずつの「穴」だったから、空気抵抗でフラフラと落下しながら、最後に地上の安全装置であるスプリングにあたる。からだが足元からてっぺんまで「ツン」とくるのだ。

バブル崩壊の衝撃は、「ツン」どころではなかった。
予想どおり、どこまで落ちるのか、見当もつかなくなったのだ。
ホテルは景気の遅行指標になるというけど、それは上昇するときのことで、下降するときは先行指標になる。

景気がいいからといって、それを見極めるまで贅沢な食事の予約は入らないのに、わるくなると、とたんにキャンセルされるからである。

そんなわけで、やるべきこと、が放置されて、30年。
業界をこえて、いまはどちらさまも、やるべきこと、すらわからなくなっている。

地に足がついた施策が浮遊して、浮き足立っているできもしないことが地に足がついた施策だと勘違いして、業績は悪化するしかない。
これを言い訳するための「理論」が、世の中に蔓延しているから、ミドルからトップまで、マネジメント層の責任回避が容易になっている。

なんのことはない、ミドルからトップまでの経営者が経営しているふりをして、じっさいは運営しかしていない。
その運営もできなくなって、ハラスメントが日常化し、これを押さえつけるための「組織」をつくれば、解決しなくても責任はその部署だ。

かくも「お気軽」では、中学校の生徒会も仕切れない。

「バブル崩壊」とは、「精神の崩壊」でもあったのだ。
しかし、それはずいぶん前から準備されていた。
日本人の精神のよりどころの根本は、なんだったのか?
「心」と「宗教」の関係がうすい国だから、「べき論」が空中浮遊するのである。

こたえはわかっている。
それは、キリスト教圏から真似た、明治の大発明、「日本教=天皇崇拝」だったのだ。

今日、「建国記念の日」が風化するのも、「神話」をおしえないことだけが問題ではない。
「日本教」を棄てたので、神話をおしえる必要性がなくなったのである。

もはや、この日本教という宗教の復活は望めないから、いったいなにが取って代わるものなのか?

日本人は、日本人として共通の、近代をつくってきた普遍的な価値観を失ったのである。
それで、資本主義の本質も理解できなくなった。
「お天道様がみているよ」とは、「神の見えざる手」を意味した。
この「お天道様」が、「現人神」として機能したのだった。

それが、ほんとうの「人間」たち、「官僚」に取って代わられた。
いくべきが、社会主義になった理由である。

マックで語る会社の愚痴

関東で「マック」、関西だと「マクド」。
この言いかたのちがいが、わが国の言語的文化圏の「境界」をしめすから、旅先で時間の余裕があるときに、この世界的ハンバーガーチェーンに立ち寄ることにしている。

自国通貨と外国通貨の価値をはかるとき、さまざまな手法があるなかで、「購買力平価説」のなかでも、「ビックマック平価説」がもっともわかりやすい。
ビックマック一個が、円でいくら、ドルでいくら、ユーロでいくら、と書いていけば、為替レートをただしくしることができる、ということだ。

これは、ビックマックを提供する仕組みが、「世界標準化」されているからである。
材料の調達から、流通、そして調理と、すべてが「標準化」のルールによっている。

つまり、ビックマックとは、人類がはじめて経験した食品における「世界中でどこでもおなじ」なのである。
もちろん、フィレオフィッシュでも、ただのハンバーガーでもいい。
宗教的にいえば、「フィレオフィッシュ」が最適な比較対象になるだろう。

店舗の配置も、世界どこでもだいたいおなじだから、ちがうのは「利用者だけ」という特徴がすばらしい。
店内で国民性がむき出しに比較できるのも、世界標準を達成したチェーン店ならではである。

平日のひるさがり、店内には主婦たちがたむろしている。
なかには、「現役」のパートさんやアルバイトさんたちが、「職場の問題点」についてミーティングをしていることがある。
一種の日常の光景になっている。

ここで語られている内容に、とくだん聞耳を立てているわけではないが、あんがい興奮した奥様たちの声が通るので、聞きたくなくても聞こえてくるのである。
べつのいいかたをすれば、けっこうな「騒音」である。

まず、人数のちがいによる特徴がある。
グループなら、おおくても6・7人。ここには、かならず「ボス」がいて、このひとが「仕切っている」から、そうじて議論が日和っていることがある。

つまり「同意」の意思表示の場なのだ。

ところが、ボスや数名の子分たちが先に帰宅すると、たちまちにしてちがう話に豹変する。
もちろん、のこった数名、あるいは二名による話し合いは、なぜか「声を潜める」ところからはじまるのだ。

三名のばあいと二名のばあいとで微妙にことなるのは、三名だと一名が「ボスのスパイ」であるかもしれないという「疑心暗鬼」がまじることがあって、安心のお友達どうしである二名のときの赤裸々さとはちがうことがある。

しかし、どんなパターンであれ、共通している話題=議題は、上司である社員への批判か、作業上の「無駄な手間」についての告発なのである。
そして、どんな話し合いであれ、けっして結論を合理的にみちびくことはなく、みごとに「愚痴」でおわることである。

自腹での「セルフ・ガス抜き」なのだ。

そのベテランぶりからすれば、時給で1200円以上のひとたちではないかとおもわれるので、時給を人数換算すれば、ずいぶんな金額が「愚痴代」になっている。
6人で一時間なら、7200円分の負担をみんなでしているし、場所代としてのコーヒー分もある。

まったく「気の毒」になるのは、こうしたミーティングをもしや毎日やっていないか?と気になるからである。
長いと、夕食の買いもの時間まであるから、席をあたためるのは一時間どころではない。

おそるべき「損失」である。

会社として、ちゃんとこのひとたちの「本音」をききだして、適切な処置をくり返せば、おどろくほどの生産性が向上し、なおかつ、本人たちの時給もあがるだろうに。

つまり、ほんとうは社内のさまざまな決定の場に、参加したいのである。
けれども、「パートですから」とか「むずかしいことは社員さんで決めてください」とか、まわりの手前、こころにもないことをいっているうちに、ほんとうに「疎外」されてしまったのだろう。

それにしても、こんなひとたちの顔を毎日みているはずの社員さんや管理職、あるいは会社とは、いったいどういう存在なのか?
「宝の持ち腐れ」とはよくいうものである。

雇用形態のちがいだけで、身分制化して発言を奪うことによる「損失」をぜんぜんかんがえていない。
これをふつう「愚か」というが、「愚かな企業」がたくさんあるということである。

それでいて、「愚痴」の典型は、「経費削減」なのである。
現場を熟知しているひとたちからすれば、表面上の「経費削減」よりも、もっと効果的な方法があるとおもっている。

「社員のくせしてわかっちゃいない」とは、このことをさす。

たまにはこういった場所にでかけて、「愚痴」の数々をリサーチしても損にはならない。

取締役が取り締まるのは誰か?

このブログでは、何回も「資本主義」が理解できない日本人を書いてきた。
どこまで立ち返ればいいのかが問題だけれど、会社における取締役が、誰を取り締まっているのか?と質問されて、なんとこたえるのだろうか?

日本のたいていのサラリーマンは、「従業員」とこたえるかもしれない。
すると、日本企業のおおくは、従業員から社内昇格して、はれて取締役になるので、とくに「新任取締役研修」がない企業なら、従業員時代の感覚のまま、いきなり「俺様」になる快感に浸ることができる。

資本主義におけるふつうの「株式会社」なら、かならず存在する取締役は、取締役会という会議体で、「代表取締役」を選出し、取締役全員が株主総会で承認されたうえで、「代表取締役」も承認されることになっている。

株主から、経営というお仕事を委託されたのが「取締役」なのだから、そのメンバーが選んだ「代表取締役」=ふつうは「社長」を取り締まるのが取締役会の役割になる。

社長がその絶大な権限でもって暴走しないように、みんなで見張るのである。

つまり、取締役が取り締まるのは「従業員」とこたえたひとは、かなりの「資本主義音痴」である。
前述したように、そんな従業員から取締役になって、新任取締役研修を受けていないなら、かなりの確率で、「資本主義音痴」が取締役になっていると想像できる。

もちろん、新任取締役研修の内容に、「資本主義入門」とかのカリキュラムがないといけないから、新任取締役研修を受けていても、「もしや?」という不安がのこる。

これは、社会人一年生とか、学校の「公民」とかでしっておくべきレベルだが、だれも教えないから、しらないままで放置されているのである。

なぜだれも教えないのか?
それは、わが国のエリートである「オピニオンリーダー」たちが、総じて資本主義が嫌いだからだ。
戦前からの伝統で、いわゆる「左翼」や「サヨク」ということが、かっこいい、ことになっている。

その「かっこよさ」が、お笑いタレントたちに引き継がれて、なんちゃって左翼発言が蔓延して、だんだん受け手の神経がマヒする効果もあげている。
テレビやラジオを視聴してはいけない、じゅうぶんすぎる理由だ。

いわゆる「団塊の世代」とか「全共闘世代」といわれるひとたちは、いちおう戦前からの左翼ときりはなして、「戦後左翼」とくくられるものの、その根っこには戦前左翼がいる。
ただし、戦前左翼はふつう「右翼」というから、はなしが混乱するのである。

戦後左翼の明るい、反資本主義「運動」は、公務員やその中の教師が中心だったのは、「身分確定」という安全地帯があったからだ。
これに、当然マスコミもくわわるのは、大新聞の経営者が左翼だから、社をあげて資本主義はわるいことだと宣伝しまくれた。

だから、ちゃんと資本主義をおしえようにも、そうはさせないというひとたちがたくさんいて、いつの間にか、ほとんどの日本人が資本主義音痴にさせられたのである。

そんなわけで、首相をはじめとする与党の政治家たちが、アメリカ大統領やイギリス首相に、「価値観をおなじくする」というたびに、聞いている日本人の方は、なんだかわからないけど、そうなのかな?という軽い違和感につつまれるのだ。

そうか、与党のこのひとたちは「悪辣な資本主義の信奉者」だからだと、かえって勘違いの納得をする。
事実はまったくそうではない。
与党のトップ、現在の幹事長の言動がわかりやすい。

どうみても、この御仁はレッドチームの親玉国家がだいすきだ。
日本における保守政党が自民党だと無邪気にしんじるひとたちが、政党トップの幹事長をつかまえて、「なにをいっているのか?」と憤るほうがどうかしている。

おそらく、歴代幹事長で、もっとも正直なひとなのである。
自民党はレッドチームの政党である。
こう定義すれば、歴代最長の政権の政策が、あぶりだしのようによくわかる。

つまり、国をあげて、資本主義音痴になること。
これが、「国策」なのである。

だから、大企業の取締役が取り締まるのは「従業員」でただしいことになる。
取締役がトップを取り締まらない、という世界標準からして「世にも不思議なこと」が日常化したら、ゴーン氏が暴走しても誰も取り締まらなかったのだ。

ゴーン事件の数々の「犯罪行為」に、日産がゴーン氏の借金を肩代わりする「取締役会決議」をしたら、証券取引等監視委員会から「ダメ」がでて、「未遂」になったものもある。
しかし、会社法では「決議」をした事実だけで、この会社の取締役たちは、みな「共犯者」ではないか?

けれども、株主たちも資本主義音痴ばかりだから、取締役が誰を取り締まるのか?をしらない。
日産の株主の「まぬけさ」が、「検察捜査」という法務省の役人にお任せするというほどに底抜けしているのである。

捜査とはぜんぜん関係なく、株式会社としてこんな「決議に賛成した」取締役たちをなぜ解任しないのか?

「機能不全」は「死因」になるけど、わが国の資本主義が「機能不全」になっている。

レジ袋有料化で命を絶つ

激昂して興奮したのが原因ならば、レジ袋有料化で殺されたともいえる、痛ましい事件である。
7日、神奈川県秦野市の中古品店で、レジ袋が有料だと告げられて激昂し、警察に保護された66歳の男性が署内で容態が急変し死去した。

たかがレジ袋だし、そんな「数円」のもので激昂して死んでしまうのはバカだというなら、大きなまちがいである。
「環境ファシズム」という、社会運動によって殺されたりっぱな犠牲者なのだ。

中小スーパーなど、良心的な商売で地元に貢献している企業はたくさんある。
中核都市といわれる街でも、流通大手の総合スーパーが撤退して、とたんに買い物難民化する例は全国にあるのだ。

しかし、そんな良心を引き裂く「命令」をするのが、「日本国政府」というヤクザ以下の団体である。

なにしろ、レジ袋有料化の命令は、法律「ではなく」関係省庁の縦割りならぬ横並びによる一斉「省令の改正」でおこなうという暴挙なのだから、まさに「官僚たち」からの「直接命令」が実行される国になることを意味する。

むかしの「勅令」ならぬ、「直令」が「令和時代」にはじまるのは、語呂あわせではすまない重大問題である。

これは、当然ながら「憲法違反」である。

あまたいる政治家たちはなにをやっているのか?
最高裁の判事たちは、居眠りしているのか?
なぜに「レジ袋有料化反対運動」がおきないのか?
経産省様は、有料レジ袋分の「値引きも認めない」方針だ。

店が店の経営判断で自由に行えるはずの「値引き」を「禁止」するのは、「自由競争」に対する「暴挙」のほかなにものでもない。
国民が広く薄く負担する「だけ」だから、大きな問題ではない、といいきるなら、記録にのこしていいきって欲しい。

これぞ、環境ファシズムである。

将来、どのような批判も受けて立つ、という覚悟がなければならないのは、レジ袋有料化とは、「増税にひとしい」からである。
すなわち、こんなやり方がまかり通るなら、どんなものでも官僚がその気になれば、国民負担を強制できるという「前例になる」のである。

かくも「センシティブ」な問題が、かくも「お気軽」に決められていいものか?
「民主主義」の「み」の字もない。

良心的な地元のスーパーには、是非、消費者が反対表明するための「手段」を用意してほしい。
じっさいに、このところ買いものに行ってみれば、レジ袋有料化のことを話題にしている主婦をポツポツみかけるようになった。

もちろん、「反対」の立場からである。
これまでただでもらっていたものが、どうして「有料」になるのか?
その理由が、「地球環境保護」ということの「いかがわしさ」に、主婦はとっくに気づいているのだ。

「だって売っているゴミ袋とレジ袋ってどこがちがうの?」
同感である。
高偏差値の受験エリートの目線から、あきらかに主婦や一般人をバカにしているのが「官僚」なのである。

さらに、あの忌まわしい「地下鉄サリン事件」以来、駅やまちからゴミ箱がなくなってしまった。
心ないものがポイ捨てして、それが風に舞って飛んでいく。
不便の二重唱ではないか?

原因は、風でもなく、ポイ捨てでもなく、ゴミ箱がないことにある。
それを、このひとたちは、原因が「レジ袋の存在」だと決めつけた。

世の中からレジ袋さえなくなれば、問題は解決する。

「レジ袋」を「ユダヤ人」に置き換えたら、どういう思想か?しらぬものはない、恐ろしいかんがえかたなのだ。

オリンピックでやってくる外国人に、わが国が「先進国」であることをアピールするにも、レジ袋有料化が有効という発想の根拠はなにか?
おつむのネジが数本いかれていないか?

そもそも「先進国」であることをアピールしたいとかんがえることが、先進国ではないことの証ではないか?
「見栄」で環境ファシズムを推進するというのは、いったい誰のためなのか?主語を確認したくなる。

温暖化対策にせよ、プラゴミ問題にせよ、最大の排出国である、アメリカと中国が、いっさい無視しているなかで、よい子のわが国だけが実力以上にがんばって、その負担に腰が砕けそうである。
もちろん、お財布も寒くなるばかりだ。

消費増税を「経済に負担をかけずうまくやった」と、新任のIMF専務理事というえらいひとにまで発言させておきながら、月次データは改ざんできず、予想どおりの減速で、追い打ちをかけるのがレジ袋有料化だ。

お願いだから、日本政府、とくに「経済官僚」には、なにもしないでほしい。
経済産業省のみなさんや、財務省、金融庁のみなさまには、これまでの「お疲れさま」と、国民からの感謝の気持ちをこめて、期限なしの休暇をおとりいただきたい。

だいじょうぶ、心配しなくても、永久に「有給休暇」でかまわない。
どうぞ、なにもしないで「遊んで暮らしてくださいませ」。
そうすれば、たちまち国民生活が改善するので、みなさまのお給料は支払えます。

ただし、金輪際、新任の官僚を採用しないでください。
そうすれば、優秀なみなさんの後輩たちが、その才能を民間企業で発揮します。

40年ほどがまんすれば、役所につとめるひとがいなくなって、夢のように明るい未来が開けますから、少子化にも歯止めがかかることでしょう。

わが国は、ヒトラーがいない、官僚という集団のナチスが支配する「国家社会主義」の国になった。
オリジナルは、「国家社会主義ドイツ労働者党」であった。

今回なくなった男性は、66歳。
どんな職業人生だったのか報道だけでは不明だが、すくなくても、レジ袋有料化の根拠のいかがわしさに関してはよくしっていたのだろう。

ご冥福をお祈りしたい。

量販店の時計売り場にいってきた

目的はプレミア時計ではなくて、量産されているものだから、素直に量販店に行くのがわたし流である。
それにしても、量販店でもそれなりの「高級品」はある。

腕時計にどのくらいの価値を見出すのかは、ひとそれぞれだが、「時刻と時間をしる」という意味のニーズなら、せいぜい「数万円」でたりる。

むかし、ど根性ものドラマの原作で一世を風靡した花登筐(はなとこばこ)氏が、いまにつづく信じられないほどの長寿インタビュー番組に出演して、当時数千万円の腕時計を見せたあと、ポケットから数万円の時計をだして、実用しているのはポケットの時計だといって笑っていた。

数千万円のほうは一日で数分狂うが、こっちのは数秒も狂わない、と。
だから、分単位、秒単位のテレビの仕事には、ポケットの時計がないと仕事にならない。

それなら、そちらの「高価」な時計はなんですか?ときかれたら、「見栄です」と即答していた。
「見栄だから、これは時計ではない」という説明が、新鮮なおどろきだった。

なるほど、それで男性ものの時計でも、高価なものは「ブレスレット(腕輪)」というのかをしったから、なんだか物知りになった気がした。
時計ではなく、すばらしい飾りの腕輪が時計のかたちをしているのだ。

若いころ、スイスにひとりで旅行して、ジュネーブの時計屋通りを散策した。
ぜんぜんしらない時計屋の豪華なショーウィンドウを覗いてみて、その「桁違い」に驚嘆した。

こんなにたくさん「腕輪」を売っているのだから、たくさんのひとが買っているにちがいないが、どういうひとたちなのか見当もつかなかった。
オリンピック競技の計測で有名なメーカーは、「中の下」とかいうひとがいたけれど、なるほどそんなものかともおもったものだ。

せっかくなので、「中の下」でいいからひとつ買ってみたが、数年でこわれてしまった。
仲間からは「一点豪華主義」をわらわれたが、残念な買いものだった。

ジュネーブの酒場では、「カシオ」がスイスメーカーだというスイス人がたくさんいた。
レマン湖のほとりには、たくさんの広告があったけれど、どこにいっても「カシオ」のものは目立っていたからだろう。

クォーツの時計が一般人にも買えるようになったのは、わたしが高校生になったころだ。
ボタン電池で駆動するため、分厚さがなんとも無粋だった。
高級時計は薄いものだという常識が、このときにはこわれかかっていた。

機械式を席巻して、あまねく世界にひろがると、希少価値にまで減少した機械式が見直され、こんどは数千万円の価格がつくものにクォーツはない。
安物の代名詞になったのか?

そうはさせじと、クォーツの時計は、多機能化という生き残り戦略をとるのは必然で、電気をつかうことの意味から、とうとう「発電」にいきついた。
それから、時報の電波を受信して、時刻を修正する機能もついた。

ずいぶんと国内二局対応だけで、外国では「ただのクォーツ」になっていたが、世界各国の時報をひろう機能ができたし、GPSまで受信するようになった。
これに、ボディーの素材がステンレスからチタンになって、おもちゃのような軽量化もされている。

どうやって堅いチタンを精密に加工するのか、ぜんぜんわからないけど、ソ連が崩壊したときに、あまった在庫のチタンでスコップをつくったのは、ロシア人がなにをつくっていいかわからなかったからである。かくして、世界最高峰のスコップがうまれた。

量販店のシステムは、どのフロアーのどの売り場も、量販店の社員は会計をやっていて、ついぞ商品説明はメーカーからの派遣になっている。
そんなわけで、メーカーをこえた同類商品の「串刺し検索」が苦手である。

ならば自社の商品検索はどうかといえば、カタログを暗記するにも苦労するほど「多品種」を売りにしていれば、販売員が気の毒になるほど選ぶのがむずかしい。
つまりは、客にとっての選択基準が、値札以外の見た目ですぐにはわからないのである。

すると、多品種のメーカーとは、いったいどんな「コンセプト」で開発設計し、商品化を決定しているのか?
自社内ブランドの棲み分けと機能共通性の組合せが、まったくもって「無限大」の様相をしめすから、その「ややこしさ」は半端ではない。

運悪くわたしに声をかけてきた販売員は、見た目も若いお嬢さんで、まだまだ新入社員のような風情であった。

どうやって社内の開発設計チームにフィードバックされているのかなぞ、ちょこっと売り場にやってきた消費者に知る由もないが、ここに「販売拡大」の要素が埋めこまれていると、悩めば悩むほど焦れったくなるのである。

あぁ、帯に短し襷に長し。
ならばと、予算枠を売り場の最大に拡大してみても、決定打に欠く商品群とは、どうなっているのか?
機能スペックをマトリックス(一覧表)にしていない証拠である。

世界的量産大手でこれである。
もしかしたら、ブランドごとに担当する役員がちがっていて、横の連絡もままならないのかもしれないと、勝手に想像するにいたった。
このひとたちは、ほんとうに「時計」をつくっているのだろうか?

まことに「販売員」が気の毒なほど、あれこれとつき合わせてしまった。
さいごに、検討の選択肢にのこったモデル番号をメモして、カタログとともにわたしてくれた。

彼女は、いい仕事をしているのになぁ。
買わないのは、販売員のせいじゃなくてメーカー自体にあるという事例である。

その横のコーナーに、電卓のカシオさんの時計があった。
まさかと思って、こんなのがあるかと希望を質問したら、「あります」という。

「即決」である。
時計屋がつくる時計が、コンセプトの混乱をしめすのをたっぷりみたあとだ。

電卓屋は、コンセプト設計がうまいのか?いや、たぶん「量産」に愚直なのだ。だから、機能を合理的に追求する。
機械式でなく、「クォーツ時計専門」だと割り切れば、スイス人がスイスメーカーだと言い張っていた意味が、数十年ぶりにわかった気がした。

それでわたしは、時計よりも「コンセプト」を買ったのである。