否・観光立国

観光で食えるか?といえば「否」である.もちろん,観光で食うひとはいる.しかし,国民経済が「観光収入」だけに頼ったら,おおくのひとがあぶれてしまうだろう.断言できる.観光が日本の基幹産業になることは,あり得ない.

生産性が低すぎる

最大かつ唯一の理由である.わが国の労働人口構成は,およそ以下のようになっている.

第一次産業:5%

第二次産業:25%

第三次産業:70%(うち,金融およびIT関連は10%)

この国の基幹産業である鉱工業は,世界トップクラスの生産性だが,労働人口比では1/4しかいないのだ.逆にいえば,わが国は1/4の労働者で支えられている.

生産性がとくに低いのは,「人的サービス業」である.飲食業,宿泊業が典型的である.しかし,これら産業の生産性の低さは世界共通なのだ.その中にあって,わが国のこれら産業はとくに低い.

昨年2016年の出生者数は100万人を切った

これは,19年後の新成人の数でもある.彼ら彼女らは,いったいどういう職業につくのだろうか?2015年の国勢調査では,わが国の労働力人口は6,075万人である.彼ら彼女らの時代は,今後の出生数を約100万人弱でキープしたとして,60年間をもって労働力としても,2015年の数には足らない.つまり,職業を今以上に選べるのだ.

賃金の上昇に適応できる産業しか残らない

つまり,生産性の高い業種に就職希望者が殺到することになる.それは企業への就職という形態だけでなく,貴重となる職人のうち,高く売れる分野も有望になる.つまり,熟練を要さない分野や知識集約的でない分野は,人材不足によって淘汰される可能性がでてくる.

親子で気づいているか?

まず,このような激変に学校が気づいていない.とくに公立学校は鈍感だろう.なにしろ,文部科学省という超鈍感な役所の命令を待つしかないから,世間とは別世界が続くはずだ.生徒の自殺問題やいじめ問題にまったく他人事の対応しかできない,地元の教育委員会という役所もおよそ無関心にちがいない.では,親が気づいているか?ここに将来の「格差の芽」がある.全入どころか,国立でも倒産する大学が続出すると予想されるから,ただの「大卒」では,せっかくのチャンスをのがすだろう.つまり,知識集約的な専門レベルなのか,一方で勉強が嫌い,あるいは不得意なら従来以上に職人になる魅力が増加する.すなわち二極化するようで実は「専門化」するから選択肢の幅が広くなる.そして,非熟練・非専門の職業は先の世代でなくなる可能性がある.こうしたことに,はやく気づけば,有利になるのは当然だ.すさまじいスピードで,日本社会は変化せざるをえないから,親子の戦略的会話が子どもの将来を決めるインセンティブになる.

事業継承ビジネスよりも事業売却ビジネスになる

相当数が淘汰されてからの「安定」は期待できない.2020年の東京オリンピックが終わってわずか5年後の2025年には,東京都の人口も減少に転じる予想だ.地方からの若者の転入で,人口を維持してきた巨大都市も,供給元の地方に若者がいなくなる.さらに5年後の2030年には,とうとう東京郊外でゴーストタウンが生まれる.いまから,たった13年後だ.最近,メガバンクが大縮小計画を発表した.理由を確認すれば,本音がわかる.日銀のマイナス金利で,銀行本業の収益性が落ちた.これに少子化で,将来の行員確保が困難だから,という.つまり,銀行では,知識集約的な専門レベルの人材でないと,不要,と宣言したのだ.なぜなら,これから,中小零細企業の廃業が激増するはずだ.これをまたぞろ政府はムリクリに事業継承をさせようとし,税まで優遇しようというお節介な介入をしたがっている.懲りない連中である.それよりも,「使える」技術や会社を売却した方がよい.ここに銀行はビジネスの目をつけたはずだ.このような転換は,全部の業種で発生する.

生産性の低い観光業のみなさんには,悲惨な結末になる前に,計画的な事業売却か廃業をおすすめする.若い従業員は,自分の職業能力高度化に投資しないと,中年以降に見捨てられる可能性がある.

社会人の再教育が沸騰する

だから,すでに社会人になってしまったひとの専門化が,社会の最重要課題になるはずだ.大学は,社会人の受け入れについて,最大の経営努力をしなければならないことに必然的に気がつくはずだ.高卒者だけを新入生としたら,成り立たないのが目に見えている.一方,企業も,どのような人材を求めているかを明確にしないと,求職者の募集ができなくなるだろう.

こうして,社会全体の生産性が高まり,高コスト負担に耐えられるようになってから,日本の観光業も息ができるようになる.高単価な収益のためには,高度な人材が必要であるからだ.つまり,低単価で大量に売ろうというビジネスモデルの終焉なのだ.

 

いまだ「おもてなし」

日本という市場で,間違いなく起きていて,これから数十年間つづく「人口減少」に,「おもてなし」だけで対応しようとする努力は,残念ながらムダな抵抗である.くわえて,政府が推進する「働き方改革」も何をか言わんや,余計なお世話である.

生産性が低いのは単価が低いからである

日本の生産性は,先進七カ国中のビリである.しかし,もっと深刻なのは,人的サービス業の生産性の低さである.これを「おもてなし」で解決しようとするのは,さらなる生産性の低下をまねく.働かせる側も働く側も,ここのところが飲み込めていない.「おもてなし」を強化することとは,すなわち労働強化である.あれもこれもと設定したサービスメニューをこなさなければならない.働かせる側は,このサービスメニューをどんどん増やそうとする.働く側は人数の増員も,訓練もなく,ただひたすらにこなさなければならない.ところが,サービスメニューは増えたが,単価が増えない.だから,提供損である.それでもやめさせないし,やめる気もない.これが競争だと信じているからだ.

生産性の算定式を知っているのか?

おおくの経営者にあらためて質問すると,おおくのひとの口が重くなる.「えっ,計算できるんですか?」と逆質問されたこともある.計算定義を知らずに議論しているのだ.生産性の計算のおおもとに,付加価値がある.「生産性」とは,「付加価値生産性」のことだ.「労働生産性」とも「労働者1人あたりの生産性」とか,いろいろないい方がある.これは,付加価値を労働者の人数で割ったものだからだ.だから,もっとも基本の数字は,「付加価値」である.その付加価値の計算方法は二通りある.「減算法」と「加算法」(日銀方式)だ.理屈のうえでは,どちらも同じ答えになる.

減算法:販売額-原材料-外注費-動力費-運賃-保険料,など

加算法:税引後純利益+支払利息+手形割引料+賃借料+人件費+租税公課

付加価値には人件費が含まれる

加算法ならストレートだが,減算法をよく見ても,人件費が付加価値に含まれるのがわかるだろう.こうして算出された「付加価値」を人数で割れば「生産性」が得られる.生産性は,金額で表示されるのだ.一方で,「付加価値」のなかでの人件費の割合を,「労働分配率」という.労働者への還元率ともいえるだろう.最近,これら「生産性」と「労働分配率」が混同して議論されていないか?とおもうことがある.

問題なのは「単価」である

日本の生産性の低さは,売上そのもに問題があるとおもっている.「売上」とは,単価×数量,のことである.すなわち,単価,が低いままなのだ.デフレだから,ということではない.すでに人手不足が問題になっているが,今後の少子化で,人手不足が改善される見通しはないし,むしろ悪化するはずである.すると,若者の労働単価が上昇するはずだし,採用維持すら困難な地方では地域の労働人口が減少しているから,必然的に人の単価上昇は免れない.いまは,低く抑えられても,この圧力に耐えられなくなるだろう.これは,政府が定める最低賃金の問題ではない.つまり,人件費における単価上昇に,販売での単価上昇をマッチさせなければならないのだ.

高単価商品には高度人材という原則

人的サービス業,なかでも飲食業や宿泊業といった「低生産性」の業種にも,以上の圧力はかかるから,対処方法を早急に検討しなければならないが,一部を除いてその動きは遅いようだ.都内の大手ホテルでは,パート・アルバイト,契約社員の正社員化がはじまった.つまり,従来のパート・アルバイトも正社員になるし,今後は正社員しか採用しない,ということだ.ロボットなどのIT,あるいはAI技術での店舗開発も今後はふつうになるだろう.すると,地方だからという理由だけで,これらの流れから逃れることはできないし,むしろ,近隣に労働者がいない地方こそ,積極的に取り組まなければならなくなる.

資本がない現実

疲弊した地方の宿泊業の大問題は,資本がない,ことだ.上記の対応策には資本が必要だが,それがない.つまり,資本主義の原則にもどって,資本調達をしなければならないということになる.すなわち,「ちゃんとした経営計画」が求められるているのだ.幸い,金融機関も安泰ではない現在,地元金融機関からの人材も含め,戦略的な採用をすることでの経営強化が,生き残りの必要条件になるだろう.そして,いかなる人的サービスと非人的サービスを組み合わせるかが,生き残りの十分条件として機能するのではないか?少なくても,従来のやり方での延長で,今後の人口減少社会を生き残ることはできないといえる.もはや「おもてなし」どころではないのである.

どちらが強欲か?

最近報道された,浅草仲見世商店街の家賃問題.歴史的な背景もあって,ちょっとした物議をかもしている.意外だったのは,10㎡あたり15,000円という現状の家賃である.これを近隣相場の25万円にしたいというのが家主である浅草寺の主張である.当然,商店街組合は「家賃高騰による廃業」と「浅草らしさがなくなる」といった理由で反対を表明している.この騒動の発端は,東京都が所有していた長屋建物を浅草寺に2,000万円ほどで売却したことだという.それにしても,都が破格で賃料提供していたのは,寺の土地を無償で借りていたからだ.この土地自体も,明治政府の寺社領没収にさかのぼるらしく,都が建物を建てた後に,土地は国から寺に返却されている,という事情もある.さらに,寺が建物を購入したのは,非課税だった土地の固定資産税の見直しがあったというから,これも都と台東区という役所の事情だ.

知りたいことがわからない

いったいいつからいまの家賃,15,000円になったのかがわからないし,なぜ都は家賃改定をしなかったのかもわからない.ただ,10㎡あたり15,000円というのは,周辺の「青空駐車場」としても格安であろう.また,そもそも寺が返還されて所有した土地の固定資産税が,なぜ非課税だったのかの事情もわからない.ちょっとした「行政の闇」がここにもある.

適正家賃

近隣の相場から算出した,という寺の主張はもっともである.しかし,その前に,収益性から算出したらどうなるか?が気になる.反対する商店街側は,収益性についての分析を公表すべきである.高額家賃になったら「廃業」というのは脅しになる.しかし,おそらく,商店街側の言い分にうそはないだろう.収益性が高いだろうとおもわれるお店は,失礼だがみあたらないからだ.それを「伝統」とか「浅草らしさ」といって保存の対象とするか否かは,別の議論になる.本来,適正家賃とは,収益性との合致がなければならないし,既得権益化を許すこともあってはならないからだ.

行政介入の可能性

都は,建物譲渡にあたって条件をつけている.参道の景観を維持せよ,というものだ.「景観」のなかに「店舗経営」が含まれるとはおもえないが,なんでも口実にして介入したがるのが行政である.小規模でかわいそうな商店主たちをいじめる悪辣な寺院,という構図にしたがる筋もあるだろうが,既得権益を守りたい商店側と,それを壊して新しい可能性を入れたいとする寺院側,と言い換えれば,どちらが強欲なのかが見えてくるだろう.もし,都や区などの行政が介入して,商店側を守るのであれば,寺院側はその穴埋め分を「補助金」として請求するだろう.すると,一種博物館化した商店街を,税金で支えることになってしまう.浅草寺エリアの年間観光客は述べ3,230万人という数字だ.一日で88,000人になる.その中心地における適正家賃として,どうすべきかを市民目線で考えないと,知らないうちに負担させられることになる.

やめられない文法教育

決済がダサイ日本

欧米や中国で,すでにあたりまえの仕組みが,店舗での支払における「電子決済」である.デビッドカードでもクレジットカードでもよいだけでなく,通貨が選べるようになっている.たとえば,日本発行のクレジットカードなら,現地通貨と日本円が選択できる.この端末が,屋台から田舎の八百屋まで普及している.現金では小さすぎる単位の金額(小銭がない)でも,電子決済ならなにも問題ないし,量り売りの商品でも,電子秤と連動しているから単価がちがう商品を複数購入しても計算に間違いもない.お店は,決済後におまけをくれたりする.そして,なによりも現金を両替所で交換しなくてすむし,帰国時には余った現地通貨をまた両替するか,それが面倒なら使い切るしかないので無駄になることもない.

これがあたりまえの国からやってくる観光客のシェアは高いと思うが,受け入れる日本側は意外や無頓着である.日本人一般が,現金決済をふつうだと認識しているからだろう.一方で,以上の便利な国に旅行した邦人は,日本は遅れていると認識しながら日常のなかに埋没していくのだろう.

外国語対応が優先される

外国人観光客が著しく増加して,接客サービス業では言語の問題がつきまとっている.そこで考案されるのはIT技術を駆使した,多言語対応サービスだ.スマートフォンに話しかければ,自動的に指定言語に翻訳してくれるアプリはたくさんあるし,音声で翻訳してくれるものもある.店舗側が用意する最新技術の言語対応が悪いと言いたいのではない.便利さの優先順位としての決済システムが,社会インフラになっていないことを強調したいのだ.

なぜなら,自分が外国を旅行して,言語において不便を感じても,観光旅行であれば犯罪被害を受けたのでなければそんなに深刻な問題ではないからだ.つまり,外国人観光客も,言語問題が優先順位で高いと認識しているかという疑問がある.

国語教育が問題だという説がある

わたしも他人のことをとやかくいうほどの語学力があるわけでない.今年,日本語を外国人に教える「日本語教師」としてベテランの先生にお目にかかった.その先生の,日本人が世界的に外国語習得を苦手にしている原因をおしえてもらった.それは,なんと小中学校で習う「国語」が,外国語習得の邪魔をしていて,英語教師がそれに気づいていない,とおっしゃった.「国語」で習う文法は,高校で習う「古語」の文法の基礎になるから,日本語教師は「国語文法」と呼び,「日本語文法」と区別しているというのだ.では,「日本語文法」とはなにかというと,外国語と比較できるように整理された文法だという.

とくに欧米の言語は文法が厳密である.だから,文法を習得してしまえば,あとは単語数を増やせばいいという.欧米の言語とかけはなれた日本語を母国語とするわたしたち日本人は,まず「日本語文法」を学ぶことで,英語をはじめとした欧米言語との文法上の構造のちがいを理解すべきで,それがわかれば比較的やさしく外国語理解ができるというお話しだった.いきなり英文法の教科書をみてもトンチンカンなのは,「国語文法」とのちがいがおおきすぎて,なにがなんだかわからず,暗記するしかないという「根気」だけが要求されてしまう.

日本語を習得する外国人は,日本語文法の教科書で自国語との構造のちがいを最初に教わるという.それは,すでに学校で習う自国語文法が,他の言語と比較できるように整理されているからで,数カ国語を平然とあやつるヨーロッパ人は,親類筋にある言語だからという理由もあるが,文法自体の教え方に秘密があると力説されていた.

書店に行くと,日本人のための日本語文法の教科書が少ないことに気がついた.これも,わかっちゃいるけどやめられない,ことなのか.

逆シンデレラ症候群

シンデレラ症候群とのちがい

シンデレラみたいに素敵な王子様が自分にも現れると信じ、ずっと待ち続けることを「シンデレラ症候群」と呼ぶらしい。
再生の仕事をしていると、自社をたすけるためにやってきた投資家(ふつう「スポンサー」という)がいるのに、そのスポンサーの意向に従いたくない「症候群」を発症することがある。つまり「反抗」・「反逆」してしまうのだ。スポンサーを王子様として認識できないばかりか、現状から変化を求めるスポンサーが「魔女」だったり「敵」にみえてしまう病気である。これをわたしは「逆シンデレラ症候群」と呼んでいる.

この病気の原因は、おおくのばあい「自分かわいさ」という心理である。もっといえば,この期に及んでの「自己保身」だ.自分がやってきた「仕事」すなわち「業務のやりかた」を、ついさっき出現した人物から否定されることは、自分の人生が否定されていると勘違いしてしまうからだ。
では、その勘違いの原因はなにか?とかんがえると、自己のパーソナリティーと「仕事」すなわち「業務のやりかた」が一致していることにある。これは、伝統的な「職人」の思考方法とにているとおもわれるかもしれない。しかし、現代の「職人」が本当にそのようにかんがえているかは疑わしい。名人とか名工とよばれるひとほど、さまざまな工夫について積極的であるからだ。

味をかえるから味がかわらない

たとえば、いまも「むかしからかわらない味」で人気の老舗の料理店では、じつは昔からくらべるとずいぶん「味をかえている」ことがある。この意味は、「お客様の食生活がかわってしまった」から、その味付けに対抗できるよう微妙に店の味を変化させてはじめて「味がかわらない」と評価されることにある。だから、長年にわたってすこしずつ変化させた結果、先代や先々代の味付けとくらべると、驚くほどちがっているのだ。それでも、その店の昔からの顧客は「昔からかわらない味」と評価するから、昔をしらない新しい世代の新規顧客は「この味が昔からの味」とすりこまれる。この状況がおりまざって、全体がまごうことなき「むかしからかわらない」という評価が確定するのである。だから、ほんとうに味をかえない店は淘汰されてしまうことすらある。そして、かならず「あの店の味がかわった」とか、「むかしとちがって味が落ちた」などといわれてしまう。現代人の好む味に変化させないことで、じじつは顧客自身の味覚が変化しているにもかかわらず、その責任はなんと店に押しつけられるのである。
このようなことは、おおくの伝統的な物作りの世界で起きている。だから、本物の職人は変化を畏れないし、むしろ積極的に変化をもとめることすらあるのだ。

「仕事」は二種類に区分できる

一つは、「作業」である。「定形業務」と呼ばれることもある。いわゆる手順がきまっている仕事で、結果であるアウトプットも一定になるのが特徴だ。この手の仕事で典型的な単純作業は、真っ先に「流れ作業」になったり「自動化」の対象になった。
しかし,「作業」すなわち「定型業務」の組み合わせだけで、もとめる製品やサービスが完成すればよいのだが,現実はそう簡単にはいかない。

そこで、二つ目の「仕事」が分類できる。「非定形業務」がそれだ。
ところが,これは「定形業務のなかにも」発生する。たとえば、ネジを絞める作業をおこなう機械がこわれてしまったとしよう。今月は二度めで、前回の故障から一カ月経過。修理に四時間を要するとすると、これによる製造できなかった分の売上げ減少による損失はすぐに計算できるし、故障発生頻度から、なにをしなければならないか優先順位もきまる。だから、故障原因の特定と対策は重要な業務になる。この業務は非定形業務だ。だんだんと故障発生対応から「予防」の概念がでてくると、当初は非定形業務だったことが定形業務に落ち着くことがある。これが業務における「進化」と「深化」である。
こうして、「進化」と「深化」の大系が、ノウハウになるのである。

さて、もともとの「非定形業務」がある。商品企画とか設計、アフターサービスなどだ。ところが、「非定形業務のなかに定形業務」もできてくる。「いつものパターン」というやつだ。ここにも、ノウハウの要素がある。
このように「仕事」を二種類の「業務」に分けると、職業人生における一体化がありえるのは「ノウハウ」に集約されることになる。
つまり、「仕事をおぼえる」とは「ノウハウの修得」という意味になることを強調したい。

ところで,「逆シンデレラ症候群」を発症する素地として,自己のパーソナリティと仕事の一致と書いた.これは,上述のような業務の分析をしないで,毎日を過ごしたということである.つまり,意識して仕事のミスを改善したのではなく,発生した問題をその場その場でなんとかしたにすぎない,という人生だということだ.だから,ノウハウらしいノウハウが積み重なっているわけではなく,「昔からやってきたこと」が堆積しているだけの状態になっていることがおおい.

「ノウハウ」は資産である

わたしは「ノウハウ」というものは、ひじょうに高い価値があるとかんがえている。だから、本来は「資産」としてとらえたいものである。議論を拡散させないために、ここでいう「資産」は企業会計上の「資産」とは切り離す。
個人がもつ「ノウハウ」と、会社や組織が持つ「ノウハウ」があろう。どちらでもポイントになるのは、「ノウハウ」はそれ自体「無形」であるから目に見えないことだ。だからこそ、なんらかの方法で「見える化」させることは、重要だ。
企業組織内のさまざまなルールや規定は、「ノウハウ」を見える化した一部の姿であるといえよう。

それらを体系的にまとめたものを,「マニュアル」という.しかし,「マニュアル」は,現状をまとめればできるというものではない.いま考えられる最高・最善のやり方が示されるものだからだ.「マニュアル」は「見える化したノウハウ」そのものだから,民間企業では外部に対して「秘密」扱いになるのである.

「自己保身」がうまれるワケ

さて,「マニュアル」にひそむ大きな誤解がある.それは,上述したようにマニュアルとは,「ノウハウを見える化したもの」であるから,「進化するはず」のものなのに,現状の仕事のやり方を書くモノと思い込んでしまうことだ.そして,一度完成したマニュアルは,その後放置され,「改訂」はめったにされない.だから,現場での仕事の改善結果も,マニュアルには反映されないから,新入社員以外だれも見なくなる.「本当のマニュアル」では,マニュアルが先に開発されて,業務はそれに従うものなのだ.この原則的行動に,人知の最先端のはずだった,福島第一原発*で,津波後,誰も(事故現場,東電本社,政府の役人)従わなかったから,「本当のマニュアル」を理解し,業務に応用している日本の組織は,おおくはないだろう.

*(注:詳しくは,齊藤誠『震災復興の政治経済学』日本評論社,2015)

こうした誤解に気がつかない会社は,残念だがたくさんある.そして,こうした会社組織における従業員は,それぞれの職場における「ノウハウ」を入社後から漠然としながら体得するしかない.そして,いつしか従業員から経営者(管理職も含む)になると,個人が漠然と体得した「ノウハウらしきもの」を「ノウハウ」と信じるしかなくなるのだ.このような環境では,「社歴の長さ」だけが有利になる.これが「年功序列」の本質ではないだろうか.

社歴の長いひとは,この有利さに,これも「なんとなく」気づくのだ.だから,自分が歩んできた「漠然とした」環境が維持されることが望ましくなる.それが,いまの自分の立場を守るからである.資金提供者がおこなう,「本来のノウハウ」を追求しようというたくらみは,こうして「反抗」・「反逆」という行動を誘発するのだ.

「現状維持こそがしあわせ」,これが,「逆シンデレラ症候群」に罹患した症状なのだ.

従業員教育に悩む経営者は犬を飼うとよい

犬の躾といってもさまざまなやり方があるらしい.いろいろと調べてみると,たいへん納得できる方法と,「芸」と同レベルの方法まである.
ここでは,わたしが納得した方法をイメージしながらコメントしたい.

「人間」とは,教養あるひとを指す

ひとが犬を飼うということの歴史は,たいへん古い.まさに,太古の時代からであったろう.
しかし,犬の飼い方や犬の躾についての情報が「商品」となったのはいつからであろうか?
案外,最近のことではないかと疑っている.

長い時間,犬の役割は猟犬や番犬だった.
それが,いまでは家庭犬という愛玩を目的として,人間の子どもの数よりも多くなったからだ.
屋外で過ごす猟犬や番犬と,屋内で過ごす家庭犬では,飼育目的がちがうから,育て方もことなることになる.

その日本では,子どもに対する「躾」がたいへん重要視されてきた.
そもそも,「躾」という漢字自体が,武家から発生した国字だという.
分かりやすい構造の文字だ.
この文字から想像すると,しつけられずに自然児として育ったものは,人間ではないという区別があったのだろう.

これは武家に限ったことではない.身分社会だったのだから,その身分それぞれに応じた「躾」がなされなければ生きていけない.
百姓が武士の躾を受けても,武士が百姓の躾を受けても,その本人は不幸になるからあり得ない.
つまり,「躾」とは,社会化教育のことであって,それは教養の基礎をなしたのだと理解できる.

舶来の『社会契約論』で有名なジャン・ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』に日本人が違和感をもつのは,武家の伝統があるからではなく,不幸を生み出す狂気があるからだろう.
ルソーは,自身の子どもを真冬の路上に放置して死なせている.
「この子が生きる自然の力があるか」を確認するためだというが,それで5人が犠牲になっている.

ルソーの『エミール』が,教員育成の必読書としてたてまつられているのはわが国だけだとおもう.日本の教育界の特殊性のはじまりは,こんなところにもあるかもしれない.

 

犬の躾ができないひとたち

いま「小津映画」という名作の数々を観ていてわかるのは,戦後すぐの時代にあって,ふつうの人たちが生活している姿に対する不思議な感覚である.
それは,立ち居振る舞いの所作や,言葉遣いが,たいへん美しいのである.
これらの作品に出演しているのは,ほぼ全員が明治・大正生まれなのだ.

「団塊の世代」(昭和22年~24年生まれ)は,いわゆる小津作品ができるころに生まれている.
だから,団塊の世代のおおくは,小津作品中のおとなたちに躾されたことだろう.
ところが,この世代が成人する頃からだんだんに意識が薄まるのだ.
それは,核家族化や都市化などといった生活環境の激変と,「合理的」という名の「安直さ」の追求が背景にあったのだろう.

いつの間にか,「他人の迷惑にならなければなにをしてもいい」という風潮がうまれる.
「躾」という字の意味する,おのれから発する美しさ,とはことなる,他人からの評価という概念になるのだ.
小津世代の大人たちは顔をしかめたが,70年代の青春を謳歌した世代が従う理由がなくなっていた.

そして,人間の躾が困難になったいま,犬の躾ができない人々が大量発生しているのだ.
にもかかわらず,事故が少ないのは,幸いにも家庭犬として人気があるのは小型犬ばかりだから,飼い主以外の他人に危害が及ばずにすんでいるからだろう.
けだし,飼い主の怪我は絶えないことだろうが.

また,殺処分数は近年は10年前の1/5程度に減少して(昨年度で犬1万,猫1万5千:環境省)いるものの,引取制度が変更されたことで発生している,引取業者による劣悪環境下での飼い殺し問題も含めると,実態はわかりにくい.
ドイツ,スイス,オランダは,「0」であるから,国際的には恥ずかしい状態であることにかわりはない.

社内教育の放棄が意味するもの

新入社員を教育するのは,企業としては常識だった時代があった.
躾教育も,ある意味,企業内研修ですませていた.
ところが,企業にそんな余裕がなくなってきた.教育経費や時間コストの負担だけが理由ではないだろう.

犬の躾ができないのだ.
パワハラの発生背景に,躾問題が見えかくれする.もちろん,パワハラを肯定しているのではない.本来の躾の意味が「社会化」だったことを思いだすと,その「社会化」が不完全な人間が身体だけ大人になっているということである.

犬の躾も「社会化」を前提としている.
現代社会で生きる犬すら,人間社会のルールを学ばないと不幸になる.
犬は群れの序列をつくる習性があるから,人間がリーダーであると認識すれば,あとは人間の命にしたがう.

だから,犬の躾のポイントは,飼い主である人間をリーダーとして認めさせることにつきる.
ところが,その犬も,暴力による方法では従わない.
リーダーを尊敬する心を育まなくてはならないのだ.
いまいる企業人は,後輩から尊敬を得ることができるだろうか?
また,それを奨励する経営をしているだろうか?

「職業人生を預かる」という感覚

「不確実性の時代」といわれて久しい.
前ぶれもなしに突然,株式市場が大暴落したり,天変地異があったり,はたまた交通事故があったり,まさにこの世は一寸先も闇なのだが,21世紀のわが国では「確実」なことがひとつある.
それは,若年層の激減と人口減少である.

前回2015年の国勢調査で,5年前の2010年の調査から約100万人の減少が確認されたし,いま生きている女性人口からの出生推計では,7年後の24年には2015年比で390万人の減少が予想されている.
これは,自治体最大の横浜市の2017年人口373万人を上回るのだ.

昨年,2016年には出生数が100万人を割り込んだから,あと20年でこの子たちの企業における争奪戦が起きるだろう.
つまり,いまいる従業員の満足度を高めないと,すでに起きている人手不足どころではない事態が確実にやってくるのだ.
それは,原点にかえって,企業は他人の職業人生を預かっている,という感覚で経営しないと,次世代の人材から見放されてしまうことになって,残念ながら企業活動の終わりを意味するのだ.
この不足分を,移民やAIで本気で乗りきることができるか?という問いでもある.

あなたは,犬を躾けることができるだろうか?

犬の躾ができなくて,人間の人生を預かれるだろうか?

せんべい布団

旅館やホテルに泊まった翌朝,腰が痛くなっていることがある

枕の高さがあわないのか,布団やベッドがへたっているのか.その両方かも知れない.

試泊する習慣がない

言葉遣いや所作,あるは料理といった分野で「おもてなし」にこだわるのはいいが,「快適な睡眠」も立派な「おもてなし」である.浴衣やパジャマにこだわることがあっても,そこそこ低料金の宿で「寝具」にこだわっていることが一泊だけの客にもわかるところは案外少ない.こうした施設の特徴は,支配人・女将さんといった幹部や,従業員さんも含めて,自分が客になって試泊するということをやっていないことが多い.

ただだと思ったら,とんでもないことに

困窮している宿ほど,「お金がかからない」からと,むりやり従業員にサービス業務を増やして命じていることがある.このなかに,提供者として「よかれ」というサービスが客のニーズとマッチせず,お客様にも押しつけているものがある.これが,本ブログのタイトル「おもてなし依存で……こわれちゃう」の典型例だ.この例ような「お金がかからないから」といって従業員に負担をかぶせることが,実はとんでもない損失につながっているのだ.第一に,疲弊した従業員が退職してしまうリスクが増大する.第二に,地元で新規従業員を募集しなければならなくなるが,応募がない.「きつい」という職場環境が噂として地元社会に流通するからだ.第三に,欠員状態が,さらなる疲弊を招き,...という悪循環におちいると,経営そのものが成立しなくなる.地方にいけば,仕事を探すのが大変だ.だから,従業員さんもできれば辞めたくない.そんなひとが,辞める決断をするのだから,重いはなしなのだ.

本来,モノで釣るのはいかがかと

その施設の業務全体を見たうえでだが,手っ取り早い改善として,寝具の見直しを奨めている.部屋数にもよるが,一気に全部を交換することも,単価がとれる部屋から順に交換することも,どちらもありである.「おもてなし」の差で,競合と差別化をはかりたいとしても,それには客層や従業員のレベルなどを勘案して,なにをどう実行するかを検討しなければならないから,それなりに時間がかかる.なによりも時間がかかるのは,従業員がその気になることだ.すると,その間にお泊まりいただいたお客様に,そんな改善の検討をしていることが伝わらないで,従来どおりの評価しかいただけない.だから,時間稼ぎの意味もある.

できれば地元の布団屋さんを

真綿の伝統的な高級布団は,高価すぎて手がとどかないことがあろう.けれども,地元の布団屋さんだってプロである.新素材も含め,検討するのはおおいに勉強になるし,さまざまな素材特性と自社の利用客イメージから,自然と選択の基準ができるはずだ.「共同プロジェクト」として,気に入ってくれたお客様にお店を紹介することもできるだろうし,布団屋さんも自社HPなどで宿の宣伝をしてくれるだろう.

変化をおそれずに,変化を楽しむ

寝具変更は,宿泊施設にとって投資額として小さいけれど,いざとなると小さい話ではない.それに,しょせん物質的なことなので,競合も同じかそれ以上の寝具を導入したら,あっという間に競争のためのツールではなくなってしまう.これは,正論である.ところが,日本の宿業界は,一部をのぞいて自社での試泊も習慣にないから,地元の競合他社に泊まってみることをまずやっていない.「顔」でバレるからだ.だから,やってみるとお客様からの評価が上がる.これが気持ちいい.たいがいの困窮化した施設の特徴は,おそろしくコンサバだから,ちょっとした変化を嫌う.それは,あまりにも長い間,成功体験がないことからの硬直である.寝具交換という,低めのハードルは,次のステップに踏み出せるようになるための心の訓練でもある.

「国際標準」に従ったり,そうでなかったり

小池知事の東京都で,「家庭内禁煙」も含めた条例化が話題になった.禁煙条例を最初に可決した神奈川県でも,当初案には「家庭内禁煙」があったが,さすがに「個人の自由」を侵すとしてすぐに原案から削除された.しかしながら,今回の東京都の場合は,「オリンピックでやってくる大量の外国人客に恥ずかしい」という理由づけがあった.

欧米の近代民主国家が歩んできた道で考えると,「個人の自由を保障すること」は,最優先されることであり社会の基盤である.当然,日本国憲法でも保障されていることだ.近代民主国家の「憲法」とは,よく「最高法規」といわれるが,これだけでは憲法の位置づけがわからなくなる.「憲法」とは,「国民から政府への命令書」なのだ.つまり,憲法を守らなければならないのは,決して一般国民ではなく,地方も含めたすべての公務中の公務員(公務を終えれば公務員も一般国民になる)なのだ.民主国家の国民からの命令書だから,最高法規なのであって,憲法が国民生活を縛るものではない.つまり,個人の自由行動である喫煙を公権力が強制的にやめさせる「禁煙条例」は,あきらかに「自由を保障した」憲法違反である.これを「護憲派」が批判しないのも不思議である.あの,ヒトラーのナチスは,「禁煙」を政策として人気があったことを,また,その理由が,ヒトラー自身が嫌煙だったからということを「護憲派」が知らないはずはない.「喫煙」と「嫌煙」の関係は,マナー問題とすべきで「権利」にしてはならない.「嫌煙権」を認めれば,別の問題でまた「権利」が生まれ,それを政府が強制することをくり返せば,知らずににっちもさっちもいかない全体主義国家になってしまうからだ.そして,そのときの最高権力者は言うだろう「国民の要望を完全に実現した国になった」と.

「外国人に恥ずかしい」という心情が,近代国家の基礎である「自由の保障」から優先されるという倒錯は,単純に「倒錯」であるから,ご都合主義になる.たとえば,食品安全規格についていえば,日本の規格は世界標準になっていない.東京オリンピックで提供しなければならない日本の生鮮食品の安全規格が,世界標準でないということは,日本の食品を拒否する参加国がでてもおかしくない.つまり,輸入食材を使わなければならなくなるということだ.これこそ,外国人に恥ずかしいことではないか.その要求レベルは,「無農薬だから安全」などということではない.たとえば,農園や輸送の人事管理で,従業員の身元確認義務まで含まれるし,農園内の立ち入り規制義務もあるのだ.第三者が簡単に畑に入れる日本では,ほとんどの農産物が「規格外」になってしまう.日本人はまじめで善良だし,移民や難民がほとんどいないから,農地や流通過程で毒をいれる者なんていない,とお役人は言うだろう.それが世界に通用するなら,どの国だってそんな安全規格をもとめやしない.

アメリカは2018年にトランス脂肪酸含有の食品を禁止する

オリンピックはその二年後だけど,18年以降のアメリカ人訪日客は,日本では「規制がない」ということをどう考えるのだろうか.現状では,食品に含まれることの有無すら「表示義務がない」し,厚労省のHPをみてもわかるが,日本政府は規制をかける気すらない.「平均的に」日本人は欧米人に比べトランス脂肪酸摂取量が少ないから問題ないというのだ.法学部出身の文化系の役人のレベルが低すぎないか?現在,中学や高校では「統計学」がカリキュラムにある.データはなるべく「ヒストグラム」や「散布図」にして分析するのが基本と教えている.データの広がり具合が「平均」ではわからないからだ.あるテストで,クラス全員が65点だったら平均も65点,ところが,65点を中心に一点差で下位に20人,上位に20人が並んでいても平均は65点である.「平均値が低いから安全」という論法では,中学生にすらバカにされるだろう.それに,医薬品の分野では,欧米の新薬がすぐに認可されることはない.身体の大きい欧米人と小さい日本人とでは,薬剤の分量を減らす必要があり,その程度を確認するために時間がかかるからだ.おおむね半分ぐらいにならないか.だとすると,日本人が摂取しているトランス脂肪酸の許容量も,欧米の半分ぐらいが適当とすれば,厚労省がいう安全分量の基準は,現実的に危険領域に近づくのではないか?と素人でも気がつくことだ.輸入医薬品のときは「科学的根拠」をあげ,トランス脂肪酸の場合は曖昧にする.つまり「国民の健康より業界保護が優先」と言っているに等しい.加えて,オリンピックでやってくる外国人客は全員が,トランス脂肪酸について日本国内に入った途端,急激に無頓着になると本気で思っているのだろうか?厚労省の役人は,外国人観光客など,しょせんたいしたことないから無視してよいと考えているのだろう.上から目線もここまでくると「病気」である.わたしたちは,こんな危ない病気の役人に支配されている.

宿泊施設では,朝食にマーガリンではなくバターをお出しするから問題ない,というレベルの話ではない.目玉焼きを焼くときの油がサラダオイルならアウトだし,パンにショートニングが入っていても「禁止」があたりまえの国のひとたちにはアウトである.こうしてみると,天ぷらは?トンカツは?あるいはコーヒー・フレッシュは?という具合に,芋づる式になってくる.日本のトランス脂肪酸天国をSNSで発信するひとも出てくるにちがいない.

では,世界のどのくらいの国でトランス脂肪酸「規制」が行われているのだろう?ぜひ,ご自分で「検索」してみるとよいだろう.そして,それらの国からの訪日客がどれくらいのシェアかを考えていただきたい.

おそるべき成功体験

横並びで安心する心理

伝統的な温泉地でよくみられる光景である.同じような宿が集まっていて,たいがいはボス的な高級旅館の数店を頂点に,だんだんと広がるピラミッドのような構成になっている.そして,頂点にいるボス的な旅館のなかから「旅館組合」の長が選ばれることになっている.

さて,こうしたヒエラルキーのある構成での特徴は,「同格」とされる階層内で,「横並び」という二次的な構成をつくるということだ.経営者のこうした心理は,従業員にも浸透して,旅館をあげて同格と同じ構造のサービス体制を目指すようになる.これを,視覚的に確認するのは容易で,旅行会社のパンフレットをみればよい.その温泉地における旅館の格付け,その格付けのなかでのほとんど同じ料金と特徴のない料理(写真)がみてとれる.旅館の自主的な「横並び」整列を,さらに外部から仕向けているのが,旅行会社であることもわかるだろう.

「マス」でからめとっていた時代の名残

『細うで繁盛記』(よみうりテレビ,1970年1月~71年4月)というドラマを覚えているひとは,もう50歳代以上でしかないだろう.「戦後」をどっぷり引きずりながら,昭和30年代の高度成長を背景に伊豆の温泉地で「独自」に旅館をもり立てようとする大阪の料亭から嫁いだ主人公と,その路線に徹底的に反対し,「昔ながら」の秩序を守ろうとする嫁ぎ先の家族と温泉地の派閥のボスとの壮絶な人間ドラマだ.結局,主人公は数々の試練を乗り越えて成功してゆき,反対した側は没落するのだった.

このドラマの肝は,「独自」だ.マイケル・ポーター教授の名前をあげるまでもないが,「競争の戦略」でもっとも重要なのは「独自性(オリジナリティ)」だからだ.

ところで,主人公が「成功させた」という意味は,ドラマでは「大きく発展させた」ことだったことにも注目したい.すなわち,ドラマでの時代設定が昭和30年代の辛酸期を終えて,刈り取り期は昭和40年代になっているのだ.もし,この宿が平成も終わろうとしているいまも実在していたら,おそらく厳しい経営を余儀なくされている可能性が高い.主人公の命が永遠なら,「独自」を追求し続けることは,すなわち「団体」から「個人旅行」への市場シフトをいち早く見ぬき,なんらかの手を打ったろう.しかし,生身の人間には寿命がある.一度刈り取った成功体験が,次世代にとっては「曲げてはならぬビジネス・モデル」に変容するだろう.それは「破滅」への道になりかねない.

三パターンが混在する温泉地

日本旅館,とくに温泉旅館の衰退がとまらない.この背景には,第一パターンから第三パターンまでの三つがある.

第一パターンは,ドラマの主人公とあらそった,「昔ながら」をいまでもやっているパターンだ.すなわち,60年以上前の思想だが,「老舗」に多く,もっといえば複数回「破綻」しているかもしれない.そのエリアではもっとも高級かつ有名だから,再生のためのスポンサーは付く.しかし,「思想」がかわらないから,業績不振は改善しないのだ.

第二パターンは,ドラマの主人公が成功させた,昭和40年代の巨大温泉ホテルだ.上述したように,成功までの新進気鋭の「独自」という思想はよかったが,そこで進化が止まってしまったパターンだ.これは,「思想」が「守り」に変容したことからはじまる.現実に,たいへん厳しい経営状態に追い込まれているだろう.

第三パターンは,新進気鋭な「独自」を追求するパターンだ.たいがい,若いチャレンジャーが運営している.地元では,かつてのドラマのような展開が,現実に起きているにちがいない.第二パターンにならないよう気をつけたいが,おそらく第二パターンとは「成功」の意味がちがうはずだ.それは,「大きく発展させる」ことではなく,「地元での『オンリーワン・ブランド』の確立」だろう.

「思想」がことのほか重要なのだ.

築地と豊洲で話題にならないこと

「自慢」することの疑問

築地から豊洲に移転しようとしまいが,どちらにしても「世界最大の海産物市場」だとして自慢しているけれど,本当に自慢できるのか?
欧米の外国人が,早起きしてマグロの解体や競りの見学にこぞって出かけるのは,「珍しいから」にちがいないが,この「珍しさ」には二つの理由があることを知らない振りをして「自慢」していないかと疑うのだ.

まず築地を「自慢」する誰もがおもうのは,確かに市場の大きさと働き手の機能的な動き,そして何よりも取り扱われる大量の「鮮魚」が「すごい!」とウケているであろう,と.これらが,渾然一体となっている光景は,生魚を食する文化が希薄な国からきた人々にはまさに新鮮な驚きだろうと容易に想像できる.わたしも,この理由しか知らなかった.
ところが,ある外国人に築地の歴史的説明や見学におけるマナーを話していたら,ふと「なにがそんなに珍しいのか」という話題になった.すると,その人は真っ先にわたしにとって意外な理由を教えてくれた.

「公設」という罠

それは,築地が「(自由)世界最大の『公設』市場」だということだった.一瞬,わたしは何を言いたいのか混乱したが,その人の次の言葉で理解できた.「わたしの国には『公設』市場なんてありません.公務員が流通のかなめをおさえていることが,自由主義で経済大国の日本にあるのがたいへん珍しいのです」と.そして,「かつての社会主義国に少し残っています」といいながら軽く片目をつぶってみせた.

アメリカでは,1970年に『公設』市場は廃止になっている.つまり,流通は民間部門の仕事になった.当然,各地の市場で働く公務員たちは大反対した.まさかの失業をしてしまうからだ.もちろん,公設市場の廃止は「安定供給をそこなう」から「食卓の危機」という主張が優先されたが.ところが,いざふたを開けたら現実はまったくちがっていた.民間の流通業者の熱い視線が,これらの公務員争奪戦に発展したのだ.いわゆる「目利き」と「仕組み運営」の能力が高く評価され,発展途上だった自社内の体制整備に大活躍の場が用意された.そして,会社は急速かつ巨大な発展をし,彼ら元公務員たちの給料は数倍になった.公務員だったらあり得ない収入になった彼らは,最初から民間人だった振りをして生活している.「悪い過去は忘れよう」というわけだ.日本では,もちろん天下るのだが.

米騒動からの「統制」が21世紀にも続く

日本の公設市場の歴史をたどると,大正時代の米騒動がでてくる.瀬川清子の『食生活の歴史』(講談社学術文庫,2001年)によれば,日本人は「米を食べてこなかった」.

人口の8割を占める生産者である農民は,自分がつくった米をめったに口にできなかった.年貢米を食べていたのは,支配階級の武士と都市住民の商工業者であった.この構造は明治になっても基本的にかわらない.かわったのは,工業化であった.工場労働者の供給源は農家だったが,農業では次男以下は「食えない」から工業化は口減らしに都合がよい.そこで,幕藩体制下で開墾されつくした農地面積は増えないのに,米を食べる人口が増えてしまった.明治の軍隊が,たっぷり白米が食べられる,という条件で兵を募集したのも,「食えない」農家があってのことだ.

生産性の向上が追いつかないのに,消費が増大すれば起きることは決まっている.価格の上昇である.慢性的な米不足状態で米騒動の起爆剤となったのがシベリア出兵だった.それで,大阪の商社が米を買い占めたというニュースが引き金となった.
日本人はなにがあっても秩序があり,暴動なんて起こさない,というのが「神話」にすぎないのは,たった二・三世代前に,しっかり暴動を起こしていることからもわかる.しかも,全国規模に発展したのだ.
あわてた政府が例によって「統制」したのがはじまりだ.そして,特別扱いになった米は,米穀法となり,その後「食糧管理法」へとつながっていく.その他の生鮮食品は『公設』市場を通過させなくてはならなくなった.

だから、世界的に「珍しい」のだった

いまも米の輸入保護統制は続くが,食糧管理法は1995年に廃止された.この流れからすれば,公設市場法も廃止されるのが筋というものであろうが,そんな議論はどこにもない.
すでに大手流通業の発展とネット社会の到来で,公設市場のシェアは4割程度に低下している.「4割もある」と考えてはいけない.本来は,全部が公設市場のシェアにならなければおかしい.なにしろ「法律」があるからだ.とっくに公設市場法も有名無実化しているのだ.

別の言い方をすれば,日本の「法治」が成り立っていない.法の廃止も立法府の仕事だが,司法府が無言のままなのはどうしたことか.「三権分立」すら怪しい国なのだ.中央に意見する都知事は勇ましいが,原理原則からはずれては元も子もない.それが,こないだの衆議院総選挙であらわになった.21世紀になっても,大正時代の統制を維持すると発想すること自体が不思議なのだ.ダミ声の築地の競り人が公務員だということを思いだせばよい.

外国人観光客の「ツキジー,サイコウ!」に浮かれている場合ではない.