俳優の日常を追求してはいけない

俳優になりたい、とおもったことがあった。

いまはどうしているかしらないが、45年以上まえ、小学校の卒業式にあたって、在校生からの「呼びかけ」というコーナーがあった。
「卒業生のみなさん」からはじまる、ひとりひとりが短い言葉をつないで、全体でメッセージにするものだ。

毎朝、この練習で、指導の先生から名指しで褒められた。
なんともいえない「間」がいいと。
あんまり毎回褒められるものだから、同級生からも褒められた。

高校生。現代国語の授業で、教科書を席順でまわして、少しずつ音読させられた。
「はい次」といって、わたしの順番になると、いつも先生が「はい次」といわないので、最後まで延々と読まされた。

どこまで読まされるのかとおもいつつ読んでいると、読み終えても先生が反応しない。
しばし間があって、「どうした?」というから「ぜんぶ読み終えました」といったら「聞き惚れた」という。

これが何回かあったら、「ラジオのアナウンサーになれ」といわれた。
ぜんぜんかんがえたことがなかったし、職業について他人から具体的なイメージをもらった最初だった。

全盛のテレビじゃないから、クラス中が笑ったが、それからラジオを聴くようになった。

わすれられないのは、森繁久彌と加藤道子のご両人「しか」出演しない、『日曜名作座』だった。
登場人物のキャラクターを「声」だけで演じ分ける、こんなことができるものか?いや現実にやっている。

なんだこれ。すごすぎる。

いまは、西田敏行、竹下景子のご両人でつづけている。

民放では、御大・小沢昭一の『小沢昭一の小沢昭一的こころ』というバカバカしくも可笑しい、大長寿番組があった。
『全国子ども電話相談室』の直後に、子どもにはわからない「小沢昭一」の大人の時間があったのが不思議だ。

こちらは、「ネタ」が書籍になっていて、シリーズを買い込んでは自室で朗読しただけでなく、リズムを真似て、英語学習のために買ってもらったカセットテープレコーダーに録音した。
あの「味」の再現はできなかった。

  

幼稚園前、祖母が出入りしていたので何回か連れて行かれたのが、進藤英太郎宅だった。横浜に住居を構えていたのだ。
「おお、坊きたか」といって、在宅しているとうれしそうに出てきては、かならずお菓子をくれたが、その笑顔の掛け声とお菓子ぐらいしか記憶にない。

小学生のとき、夕方の30分ものテレビに、山田太郎主演の『一心太助』をやっていて、大久保彦左衛門を進藤英太郎がやっていた。
わたしの中で、いまでも、進藤英太郎が大久保彦左衛門なのである。
まちがいなく、一生変わらない。

東映の「忠臣蔵」では、吉良上野介を憎々しげにやったりしたのは悪役でならした俳優だったからだが、別のオールスター作品では浅野内匠頭切腹の立会人における「武士の情け」をしみじみと演じている。

晩年の傑作は、『おやじ太鼓』で、まったく芸の細かさは「さすが」である。
夫人役は風見章子。
いったいいくつのときの「老け役」なのか?

エジプトのカイロにいたころ、こちらも悪役で名高い小沢栄太郎をご夫妻でピラミッドに案内したことがある。
当時、『白い巨塔』の鵜飼教授役が直近の印象だったから、どうしてああいう演技ができるものかと質問した。

なぜなら、一日中笑いがたえない人で、なにか言っても、返答を聞いても「コロコロ」笑うからである。
はたして、このひとが、全国民からうらまれる「悪役」とはおもえなかった。

すると、「じぶんとぜんぜんちがう人物を演じるのが、おもしろくてしょうがない」といって、またコロコロと笑われた。
それから、伊丹十三監督の『マルサの女』で、えらく気弱な税理士役で出てきたのを観ておどろいたけど、それは伊丹十三の「ひとの悪さ」もいっしょに観た気がした。

あの「小沢栄太郎」の、「ふだん」をみせたからである。

どういう気分で、あの税理士役をやったのか?
直接本人にうかがってみたい気もしたが、なんだか「野暮」な質問なので、とうとう連絡しなかった。

エジプトから帰国されてから、お手紙を頂戴して逗子の自宅を訪ねてほしいとあったけど、なんだが憚れた。
わたしも帰国して、ホテルの新入社員研修でコーヒーハウスのウェイターをやっていたとき、小沢夫妻がスタッフと打ち合わせで来店された。

コーヒーのおかわりを注ぎにいったが、議論に夢中で気がつかない。
奥様が気がついて、ふと目が合ったとき、「カイロではどうも」と言おうとしたけど、仕事の邪魔になるから一段落してからご挨拶しようとおもっていたら、ご一同そのまま席をたってしまった。

奥様が、こちらを振り向いて、不思議そうな顔をされたのが印象に残っている。
これが、大俳優・小沢栄太郎先生との今生のわかれとなってしまったのは残念である。

あのとき、強引に声をかけていたら?

けれども、やっぱり「観客」は「観客」でいたい。
それが、俳優にとっての「楽しみ」を「密か」にさせるのだし、「観客」は観る側にいることで、無限の想像(妄想)をめぐらせることができる。

やっぱり、ラジオのアナウンサーか、俳優になりたかった。
それでいま、「講師」をつとめるとき、「舞台」のつもりでやっている。

台湾は公用語に日本語を加えるか?

国際法的にいえば、台湾の「帰属問題」は、はっきりしないまま、いまにいたっている。
日本は台湾を放棄したことになっているが、それすらも「あやしい」からである。

だから、選挙でえらばれた最初の総統になった、李登輝(岩里政男)氏は、その著『台湾の主張』で、台湾は「日本領」だと主張している。

中国経済を発展させれば、自動的に「民主化される」と信じて、いろいろ援助をしてきたが、実態は、おそろしく「不純」な「援助交際」だったと、アメリカがいまさら気がついた。

ソ連が崩壊したとき、アメリカ人は無邪気に「自由化」すればうまくいくと信じたが、「自由主義」における「自由の概念」をしらなかったひとたちは、ただ好き勝手をやって、とうとう「マフィア経済の国」になってしまった。

そうなるだろうと「事前に予想」したのは、世界でただひとり、故小室直樹氏のみだった。
「社会学」が、国家の崩壊とそのゆくえをドンピシャでいいあてたのは、驚愕だった。

ソ連の崩壊によるロシアでの「苦い経験」が、ぜんぜん役に立たなかったのはなぜなのか?

アメリカ人は生まれながらにして、自由主義と資本主義をたたき込まれる。それは、まるで「空気のよう」に。
だから、自由主義と資本主義がわからない人間はいないと信じているからだ。

とは、小室氏の「論理」だから、アメリカは「二度も」間違えたことになる。

しかし、ここにきて、ようやくアメリカ人も気がつきはじめた。
超党派で対中強硬路線となっているのは、両国ともお互いの「水と油」の論争で理解したのだということだろう。
もちろん、アメリカは覇権の挑戦者を前もって叩き潰すことを「是」とする国である。

ここにきて、レッドチーム入りを画策しているわが国を「叱りつけない」のは、とりあえず「泳がせておく」ことにして、獲るモノは獲っておくという戦略にちがいない。
防衛費の「負担問題」がそれだし、カジノもそれだ。

外国に自国の防衛を依存して、それが「経済的だ」という価値観は、「双子状態」の韓国もおなじだ。
しかし、高すぎるとなると、「自主防衛」という、世界ではあたりまえの概念が出てくるから、そこのところのサジ加減がある。

アメリカからしたら、日韓を自主防衛に走らせることは、国益にかなわない。
ずっと、属国におくことが彼らの国益なのである。
だから、「護憲派」とは「究極の親米派」になる。

日本国憲法が制定されるとき、日本共産党が「軍を持たないのは国家ではない」として「九条」に反対したのは、ただしい主張であった。

米軍駐留費の一部負担のことを、「思いやり予算」という「倒錯用語」をつかうのは、ガチガチの「中華思想」にほかならない。

日韓ともに、本国よりもはげしく、より厄介な「小中華思想」の国である。
すなわち、近代人の思想をもっているものではない。
アメリカナイズされて心地よいのは、やっぱり精神が「倒錯」しているからだ。

つまり、かなりへんなひとたち、になっている。
「エキゾチック・ジャパン」とは、「異質」という意味だけれども、良い意味ばかりではないのである。

戦後、日本に見捨てられた台湾は、戦前の日本人をイメージして、「親日」だったけど、未来永劫親日とはおもえない。
もちろん、これは残念なことだけど、いまの「かなりへんなひとたち」になった日本人に「憧れる」ことがへんだからだ。

しかし、台湾の地政学的リスクは、大陸に近いことで、いつ「呑み込まれるか」という恐怖が、常にある。
それで、「少子化」の深刻さは、韓国の次に台湾にある。
わが国の少子化問題のレベルは、比較すれば相対的に「低い」ほどだ。

アメリカの対中戦略変更によって、「台湾防衛」が、東アジアにおけるアメリカ自体の信用問題になってきている。
各国が見守っいるなか、過去にないコミットをはじめた。

石油が自前になったから、中東から足ヌケをかんがえるアメリカを、どうやって引き留めるのか?が、あちらの国々の戦略になった。
さいわいかな、足ヌケできないイスラエルが存在しているのが、紛争のタネとして利用するはなしに転換した。

中東の石油に90%も依存しているわが国が、アメリカの足ヌケの後釜にならざるをえなくなったのは、大変化だが、アジアの自由主義の国々が「期待する」のは、ある意味当然である。
本音はレッドチームの親玉にかしずきたいのだが。

そんなわけで、アメリカに上手につかわれるのは、あちらの大統領がビジネスマンだからでもある。
けれども、哀しいかな、わが国の立場はアメリカの属国だし、それしか生きる道がない。

台湾は、本音は親日をとっくに卒業しているけれど、この際、やっぱり「利用したい」から、公用語に日本語を「加える」かもしれない。
いきなり「英語」にしたいのはやまやまなれど、世界で唯一、日本国以外の、「原住民会議」における「公用語が日本語」だから、少数民族のため、というれっきとした理由がある。

レッドチームにいきたい日本を牽制するのに、これ以上の妙手はない。
日本国内における「親台湾」の爆発的支持が望めるのは、まちがいないからである。

けれども、この一手は、日本も救う。

はたして、目に見えない「綱引き(神経戦)」のゆくえは、意思なき日本という国の運命を左右することまちがいない。

それにしても、ここまで「他国依存」しなければならないものか。

空中浮遊する「べき論」

日本企業の「真面目さ」とか「一途さ」が変容したのは、やっぱり「バブル期」だったかとおもえる。
すると、もう一世代分の30年も経ってしまった。

「失われた何年」という、不思議な言葉をつかうけど、これは勘違いや責任逃れをあらわす。
自然災害のように、受動的に聞こえるからである。
人間社会のことだから、ほんとうは能動的に「失った」のである。

さいしょに「失った」のは、「目標」だったとおもう。
この時期、わたしは、ホテルの全社予算編成を担当していた社内官僚だった。
バブル期の問題は、「はじまり」からはじまっていた。
つまり、売上予算が努力なく「達成」されてしまうのである。

営業部門の各部長たちは、誰もが「慎重さ」を崩さなかったのは、「未達」のときの「責任論」を嫌ったからである。
当時の仕組みは、「評価」に問題があったのは承知していたから、社内予算制度そのものの再編もやっていた。

トップ・マネジメントは、「ビジネスは成果だけで評価するものだ」と公言していたが、予算担当者のわたしからすれば「ビジネスはプロセスが重要で、成果はその結果でしかない」とかんがえていた。

どちらがただしいという議論はさておいても、「評価」が「結果だけ」なら簡単だが、「チャレンジ」の精神が弱くなる。
けれども、プロセスを評価することはたいへん難しく、接客現場の「判断」をいちいち記録することはできない。

そこで「業務のフローチャート」をつくってみた。
サービス設計上、どこが「管理ポイント」で、どんな「判断」をすればよいのかが、現場のひとたちと確認できる。
もちろん、「管理ポイント」とは「品質基準」になるから、サービス品質の標準化もできる。

しかしながら、このやり方は継続しなかった。
「組織の意志」として、経営層に「続行」をみとめてもらうことがなかったのである。

こんな手間をかけなくても、現場はむかしからやっている。
現場を信じられないのか、と。

とはいえ、これは、「バブルの反省」からかんがえだしものだった。
上述の「はじまり」から、頂点に達しのは平成2年(1990年)のことである。
この年の売上予算は、たった8日間で崩壊した。

できたばかりの「予算」が、どうかんがえても「かんたんに達成してしまう」ばかりか、大幅に「上回る」ことが確実となったのだ。
かってに予約申込みがどんどん入る。
経営トップから、作り直しを指示されたが、営業部門の部長たちは動かなかった。

これは、「恐ろしい」経験で、従来の積み上げ式の限界があらわになったのだ。
もちろん、めちゃくちゃ「良い数字」なのだから、あんがい上司たちは楽観していた。

しかし、これが「下振れ」したら、想像もできない「落下」がやってくることを「予算化できない」という意味でもあった。

そして、たった二年後、平成4年にそれが「起きた」。
新聞・マスコミでは「ジェットコースター」という表現がつかわれたが、実務の現場では、それどころか「エレベーターが落ちる」感覚だった。

わたしは、エジプトのカイロのホテルで、じっさいに落ちるエレベーターに乗っていたことがある。
このホテルは世界的に有名な五つ星であった。

それゆえか、数台横並びならまとめて「エレベーター・コア」をつくるのがふつうだが、この建物は、一台分ずつの「穴」だったから、空気抵抗でフラフラと落下しながら、最後に地上の安全装置であるスプリングにあたる。からだが足元からてっぺんまで「ツン」とくるのだ。

バブル崩壊の衝撃は、「ツン」どころではなかった。
予想どおり、どこまで落ちるのか、見当もつかなくなったのだ。
ホテルは景気の遅行指標になるというけど、それは上昇するときのことで、下降するときは先行指標になる。

景気がいいからといって、それを見極めるまで贅沢な食事の予約は入らないのに、わるくなると、とたんにキャンセルされるからである。

そんなわけで、やるべきこと、が放置されて、30年。
業界をこえて、いまはどちらさまも、やるべきこと、すらわからなくなっている。

地に足がついた施策が浮遊して、浮き足立っているできもしないことが地に足がついた施策だと勘違いして、業績は悪化するしかない。
これを言い訳するための「理論」が、世の中に蔓延しているから、ミドルからトップまで、マネジメント層の責任回避が容易になっている。

なんのことはない、ミドルからトップまでの経営者が経営しているふりをして、じっさいは運営しかしていない。
その運営もできなくなって、ハラスメントが日常化し、これを押さえつけるための「組織」をつくれば、解決しなくても責任はその部署だ。

かくも「お気軽」では、中学校の生徒会も仕切れない。

「バブル崩壊」とは、「精神の崩壊」でもあったのだ。
しかし、それはずいぶん前から準備されていた。
日本人の精神のよりどころの根本は、なんだったのか?
「心」と「宗教」の関係がうすい国だから、「べき論」が空中浮遊するのである。

こたえはわかっている。
それは、キリスト教圏から真似た、明治の大発明、「日本教=天皇崇拝」だったのだ。

今日、「建国記念の日」が風化するのも、「神話」をおしえないことだけが問題ではない。
「日本教」を棄てたので、神話をおしえる必要性がなくなったのである。

もはや、この日本教という宗教の復活は望めないから、いったいなにが取って代わるものなのか?

日本人は、日本人として共通の、近代をつくってきた普遍的な価値観を失ったのである。
それで、資本主義の本質も理解できなくなった。
「お天道様がみているよ」とは、「神の見えざる手」を意味した。
この「お天道様」が、「現人神」として機能したのだった。

それが、ほんとうの「人間」たち、「官僚」に取って代わられた。
いくべきが、社会主義になった理由である。

マックで語る会社の愚痴

関東で「マック」、関西だと「マクド」。
この言いかたのちがいが、わが国の言語的文化圏の「境界」をしめすから、旅先で時間の余裕があるときに、この世界的ハンバーガーチェーンに立ち寄ることにしている。

自国通貨と外国通貨の価値をはかるとき、さまざまな手法があるなかで、「購買力平価説」のなかでも、「ビックマック平価説」がもっともわかりやすい。
ビックマック一個が、円でいくら、ドルでいくら、ユーロでいくら、と書いていけば、為替レートをただしくしることができる、ということだ。

これは、ビックマックを提供する仕組みが、「世界標準化」されているからである。
材料の調達から、流通、そして調理と、すべてが「標準化」のルールによっている。

つまり、ビックマックとは、人類がはじめて経験した食品における「世界中でどこでもおなじ」なのである。
もちろん、フィレオフィッシュでも、ただのハンバーガーでもいい。
宗教的にいえば、「フィレオフィッシュ」が最適な比較対象になるだろう。

店舗の配置も、世界どこでもだいたいおなじだから、ちがうのは「利用者だけ」という特徴がすばらしい。
店内で国民性がむき出しに比較できるのも、世界標準を達成したチェーン店ならではである。

平日のひるさがり、店内には主婦たちがたむろしている。
なかには、「現役」のパートさんやアルバイトさんたちが、「職場の問題点」についてミーティングをしていることがある。
一種の日常の光景になっている。

ここで語られている内容に、とくだん聞耳を立てているわけではないが、あんがい興奮した奥様たちの声が通るので、聞きたくなくても聞こえてくるのである。
べつのいいかたをすれば、けっこうな「騒音」である。

まず、人数のちがいによる特徴がある。
グループなら、おおくても6・7人。ここには、かならず「ボス」がいて、このひとが「仕切っている」から、そうじて議論が日和っていることがある。

つまり「同意」の意思表示の場なのだ。

ところが、ボスや数名の子分たちが先に帰宅すると、たちまちにしてちがう話に豹変する。
もちろん、のこった数名、あるいは二名による話し合いは、なぜか「声を潜める」ところからはじまるのだ。

三名のばあいと二名のばあいとで微妙にことなるのは、三名だと一名が「ボスのスパイ」であるかもしれないという「疑心暗鬼」がまじることがあって、安心のお友達どうしである二名のときの赤裸々さとはちがうことがある。

しかし、どんなパターンであれ、共通している話題=議題は、上司である社員への批判か、作業上の「無駄な手間」についての告発なのである。
そして、どんな話し合いであれ、けっして結論を合理的にみちびくことはなく、みごとに「愚痴」でおわることである。

自腹での「セルフ・ガス抜き」なのだ。

そのベテランぶりからすれば、時給で1200円以上のひとたちではないかとおもわれるので、時給を人数換算すれば、ずいぶんな金額が「愚痴代」になっている。
6人で一時間なら、7200円分の負担をみんなでしているし、場所代としてのコーヒー分もある。

まったく「気の毒」になるのは、こうしたミーティングをもしや毎日やっていないか?と気になるからである。
長いと、夕食の買いもの時間まであるから、席をあたためるのは一時間どころではない。

おそるべき「損失」である。

会社として、ちゃんとこのひとたちの「本音」をききだして、適切な処置をくり返せば、おどろくほどの生産性が向上し、なおかつ、本人たちの時給もあがるだろうに。

つまり、ほんとうは社内のさまざまな決定の場に、参加したいのである。
けれども、「パートですから」とか「むずかしいことは社員さんで決めてください」とか、まわりの手前、こころにもないことをいっているうちに、ほんとうに「疎外」されてしまったのだろう。

それにしても、こんなひとたちの顔を毎日みているはずの社員さんや管理職、あるいは会社とは、いったいどういう存在なのか?
「宝の持ち腐れ」とはよくいうものである。

雇用形態のちがいだけで、身分制化して発言を奪うことによる「損失」をぜんぜんかんがえていない。
これをふつう「愚か」というが、「愚かな企業」がたくさんあるということである。

それでいて、「愚痴」の典型は、「経費削減」なのである。
現場を熟知しているひとたちからすれば、表面上の「経費削減」よりも、もっと効果的な方法があるとおもっている。

「社員のくせしてわかっちゃいない」とは、このことをさす。

たまにはこういった場所にでかけて、「愚痴」の数々をリサーチしても損にはならない。

取締役が取り締まるのは誰か?

このブログでは、何回も「資本主義」が理解できない日本人を書いてきた。
どこまで立ち返ればいいのかが問題だけれど、会社における取締役が、誰を取り締まっているのか?と質問されて、なんとこたえるのだろうか?

日本のたいていのサラリーマンは、「従業員」とこたえるかもしれない。
すると、日本企業のおおくは、従業員から社内昇格して、はれて取締役になるので、とくに「新任取締役研修」がない企業なら、従業員時代の感覚のまま、いきなり「俺様」になる快感に浸ることができる。

資本主義におけるふつうの「株式会社」なら、かならず存在する取締役は、取締役会という会議体で、「代表取締役」を選出し、取締役全員が株主総会で承認されたうえで、「代表取締役」も承認されることになっている。

株主から、経営というお仕事を委託されたのが「取締役」なのだから、そのメンバーが選んだ「代表取締役」=ふつうは「社長」を取り締まるのが取締役会の役割になる。

社長がその絶大な権限でもって暴走しないように、みんなで見張るのである。

つまり、取締役が取り締まるのは「従業員」とこたえたひとは、かなりの「資本主義音痴」である。
前述したように、そんな従業員から取締役になって、新任取締役研修を受けていないなら、かなりの確率で、「資本主義音痴」が取締役になっていると想像できる。

もちろん、新任取締役研修の内容に、「資本主義入門」とかのカリキュラムがないといけないから、新任取締役研修を受けていても、「もしや?」という不安がのこる。

これは、社会人一年生とか、学校の「公民」とかでしっておくべきレベルだが、だれも教えないから、しらないままで放置されているのである。

なぜだれも教えないのか?
それは、わが国のエリートである「オピニオンリーダー」たちが、総じて資本主義が嫌いだからだ。
戦前からの伝統で、いわゆる「左翼」や「サヨク」ということが、かっこいい、ことになっている。

その「かっこよさ」が、お笑いタレントたちに引き継がれて、なんちゃって左翼発言が蔓延して、だんだん受け手の神経がマヒする効果もあげている。
テレビやラジオを視聴してはいけない、じゅうぶんすぎる理由だ。

いわゆる「団塊の世代」とか「全共闘世代」といわれるひとたちは、いちおう戦前からの左翼ときりはなして、「戦後左翼」とくくられるものの、その根っこには戦前左翼がいる。
ただし、戦前左翼はふつう「右翼」というから、はなしが混乱するのである。

戦後左翼の明るい、反資本主義「運動」は、公務員やその中の教師が中心だったのは、「身分確定」という安全地帯があったからだ。
これに、当然マスコミもくわわるのは、大新聞の経営者が左翼だから、社をあげて資本主義はわるいことだと宣伝しまくれた。

だから、ちゃんと資本主義をおしえようにも、そうはさせないというひとたちがたくさんいて、いつの間にか、ほとんどの日本人が資本主義音痴にさせられたのである。

そんなわけで、首相をはじめとする与党の政治家たちが、アメリカ大統領やイギリス首相に、「価値観をおなじくする」というたびに、聞いている日本人の方は、なんだかわからないけど、そうなのかな?という軽い違和感につつまれるのだ。

そうか、与党のこのひとたちは「悪辣な資本主義の信奉者」だからだと、かえって勘違いの納得をする。
事実はまったくそうではない。
与党のトップ、現在の幹事長の言動がわかりやすい。

どうみても、この御仁はレッドチームの親玉国家がだいすきだ。
日本における保守政党が自民党だと無邪気にしんじるひとたちが、政党トップの幹事長をつかまえて、「なにをいっているのか?」と憤るほうがどうかしている。

おそらく、歴代幹事長で、もっとも正直なひとなのである。
自民党はレッドチームの政党である。
こう定義すれば、歴代最長の政権の政策が、あぶりだしのようによくわかる。

つまり、国をあげて、資本主義音痴になること。
これが、「国策」なのである。

だから、大企業の取締役が取り締まるのは「従業員」でただしいことになる。
取締役がトップを取り締まらない、という世界標準からして「世にも不思議なこと」が日常化したら、ゴーン氏が暴走しても誰も取り締まらなかったのだ。

ゴーン事件の数々の「犯罪行為」に、日産がゴーン氏の借金を肩代わりする「取締役会決議」をしたら、証券取引等監視委員会から「ダメ」がでて、「未遂」になったものもある。
しかし、会社法では「決議」をした事実だけで、この会社の取締役たちは、みな「共犯者」ではないか?

けれども、株主たちも資本主義音痴ばかりだから、取締役が誰を取り締まるのか?をしらない。
日産の株主の「まぬけさ」が、「検察捜査」という法務省の役人にお任せするというほどに底抜けしているのである。

捜査とはぜんぜん関係なく、株式会社としてこんな「決議に賛成した」取締役たちをなぜ解任しないのか?

「機能不全」は「死因」になるけど、わが国の資本主義が「機能不全」になっている。

レジ袋有料化で命を絶つ

激昂して興奮したのが原因ならば、レジ袋有料化で殺されたともいえる、痛ましい事件である。
7日、神奈川県秦野市の中古品店で、レジ袋が有料だと告げられて激昂し、警察に保護された66歳の男性が署内で容態が急変し死去した。

たかがレジ袋だし、そんな「数円」のもので激昂して死んでしまうのはバカだというなら、大きなまちがいである。
「環境ファシズム」という、社会運動によって殺されたりっぱな犠牲者なのだ。

中小スーパーなど、良心的な商売で地元に貢献している企業はたくさんある。
中核都市といわれる街でも、流通大手の総合スーパーが撤退して、とたんに買い物難民化する例は全国にあるのだ。

しかし、そんな良心を引き裂く「命令」をするのが、「日本国政府」というヤクザ以下の団体である。

なにしろ、レジ袋有料化の命令は、法律「ではなく」関係省庁の縦割りならぬ横並びによる一斉「省令の改正」でおこなうという暴挙なのだから、まさに「官僚たち」からの「直接命令」が実行される国になることを意味する。

むかしの「勅令」ならぬ、「直令」が「令和時代」にはじまるのは、語呂あわせではすまない重大問題である。

これは、当然ながら「憲法違反」である。

あまたいる政治家たちはなにをやっているのか?
最高裁の判事たちは、居眠りしているのか?
なぜに「レジ袋有料化反対運動」がおきないのか?
経産省様は、有料レジ袋分の「値引きも認めない」方針だ。

店が店の経営判断で自由に行えるはずの「値引き」を「禁止」するのは、「自由競争」に対する「暴挙」のほかなにものでもない。
国民が広く薄く負担する「だけ」だから、大きな問題ではない、といいきるなら、記録にのこしていいきって欲しい。

これぞ、環境ファシズムである。

将来、どのような批判も受けて立つ、という覚悟がなければならないのは、レジ袋有料化とは、「増税にひとしい」からである。
すなわち、こんなやり方がまかり通るなら、どんなものでも官僚がその気になれば、国民負担を強制できるという「前例になる」のである。

かくも「センシティブ」な問題が、かくも「お気軽」に決められていいものか?
「民主主義」の「み」の字もない。

良心的な地元のスーパーには、是非、消費者が反対表明するための「手段」を用意してほしい。
じっさいに、このところ買いものに行ってみれば、レジ袋有料化のことを話題にしている主婦をポツポツみかけるようになった。

もちろん、「反対」の立場からである。
これまでただでもらっていたものが、どうして「有料」になるのか?
その理由が、「地球環境保護」ということの「いかがわしさ」に、主婦はとっくに気づいているのだ。

「だって売っているゴミ袋とレジ袋ってどこがちがうの?」
同感である。
高偏差値の受験エリートの目線から、あきらかに主婦や一般人をバカにしているのが「官僚」なのである。

さらに、あの忌まわしい「地下鉄サリン事件」以来、駅やまちからゴミ箱がなくなってしまった。
心ないものがポイ捨てして、それが風に舞って飛んでいく。
不便の二重唱ではないか?

原因は、風でもなく、ポイ捨てでもなく、ゴミ箱がないことにある。
それを、このひとたちは、原因が「レジ袋の存在」だと決めつけた。

世の中からレジ袋さえなくなれば、問題は解決する。

「レジ袋」を「ユダヤ人」に置き換えたら、どういう思想か?しらぬものはない、恐ろしいかんがえかたなのだ。

オリンピックでやってくる外国人に、わが国が「先進国」であることをアピールするにも、レジ袋有料化が有効という発想の根拠はなにか?
おつむのネジが数本いかれていないか?

そもそも「先進国」であることをアピールしたいとかんがえることが、先進国ではないことの証ではないか?
「見栄」で環境ファシズムを推進するというのは、いったい誰のためなのか?主語を確認したくなる。

温暖化対策にせよ、プラゴミ問題にせよ、最大の排出国である、アメリカと中国が、いっさい無視しているなかで、よい子のわが国だけが実力以上にがんばって、その負担に腰が砕けそうである。
もちろん、お財布も寒くなるばかりだ。

消費増税を「経済に負担をかけずうまくやった」と、新任のIMF専務理事というえらいひとにまで発言させておきながら、月次データは改ざんできず、予想どおりの減速で、追い打ちをかけるのがレジ袋有料化だ。

お願いだから、日本政府、とくに「経済官僚」には、なにもしないでほしい。
経済産業省のみなさんや、財務省、金融庁のみなさまには、これまでの「お疲れさま」と、国民からの感謝の気持ちをこめて、期限なしの休暇をおとりいただきたい。

だいじょうぶ、心配しなくても、永久に「有給休暇」でかまわない。
どうぞ、なにもしないで「遊んで暮らしてくださいませ」。
そうすれば、たちまち国民生活が改善するので、みなさまのお給料は支払えます。

ただし、金輪際、新任の官僚を採用しないでください。
そうすれば、優秀なみなさんの後輩たちが、その才能を民間企業で発揮します。

40年ほどがまんすれば、役所につとめるひとがいなくなって、夢のように明るい未来が開けますから、少子化にも歯止めがかかることでしょう。

わが国は、ヒトラーがいない、官僚という集団のナチスが支配する「国家社会主義」の国になった。
オリジナルは、「国家社会主義ドイツ労働者党」であった。

今回なくなった男性は、66歳。
どんな職業人生だったのか報道だけでは不明だが、すくなくても、レジ袋有料化の根拠のいかがわしさに関してはよくしっていたのだろう。

ご冥福をお祈りしたい。

量販店の時計売り場にいってきた

目的はプレミア時計ではなくて、量産されているものだから、素直に量販店に行くのがわたし流である。
それにしても、量販店でもそれなりの「高級品」はある。

腕時計にどのくらいの価値を見出すのかは、ひとそれぞれだが、「時刻と時間をしる」という意味のニーズなら、せいぜい「数万円」でたりる。

むかし、ど根性ものドラマの原作で一世を風靡した花登筐(はなとこばこ)氏が、いまにつづく信じられないほどの長寿インタビュー番組に出演して、当時数千万円の腕時計を見せたあと、ポケットから数万円の時計をだして、実用しているのはポケットの時計だといって笑っていた。

数千万円のほうは一日で数分狂うが、こっちのは数秒も狂わない、と。
だから、分単位、秒単位のテレビの仕事には、ポケットの時計がないと仕事にならない。

それなら、そちらの「高価」な時計はなんですか?ときかれたら、「見栄です」と即答していた。
「見栄だから、これは時計ではない」という説明が、新鮮なおどろきだった。

なるほど、それで男性ものの時計でも、高価なものは「ブレスレット(腕輪)」というのかをしったから、なんだか物知りになった気がした。
時計ではなく、すばらしい飾りの腕輪が時計のかたちをしているのだ。

若いころ、スイスにひとりで旅行して、ジュネーブの時計屋通りを散策した。
ぜんぜんしらない時計屋の豪華なショーウィンドウを覗いてみて、その「桁違い」に驚嘆した。

こんなにたくさん「腕輪」を売っているのだから、たくさんのひとが買っているにちがいないが、どういうひとたちなのか見当もつかなかった。
オリンピック競技の計測で有名なメーカーは、「中の下」とかいうひとがいたけれど、なるほどそんなものかともおもったものだ。

せっかくなので、「中の下」でいいからひとつ買ってみたが、数年でこわれてしまった。
仲間からは「一点豪華主義」をわらわれたが、残念な買いものだった。

ジュネーブの酒場では、「カシオ」がスイスメーカーだというスイス人がたくさんいた。
レマン湖のほとりには、たくさんの広告があったけれど、どこにいっても「カシオ」のものは目立っていたからだろう。

クォーツの時計が一般人にも買えるようになったのは、わたしが高校生になったころだ。
ボタン電池で駆動するため、分厚さがなんとも無粋だった。
高級時計は薄いものだという常識が、このときにはこわれかかっていた。

機械式を席巻して、あまねく世界にひろがると、希少価値にまで減少した機械式が見直され、こんどは数千万円の価格がつくものにクォーツはない。
安物の代名詞になったのか?

そうはさせじと、クォーツの時計は、多機能化という生き残り戦略をとるのは必然で、電気をつかうことの意味から、とうとう「発電」にいきついた。
それから、時報の電波を受信して、時刻を修正する機能もついた。

ずいぶんと国内二局対応だけで、外国では「ただのクォーツ」になっていたが、世界各国の時報をひろう機能ができたし、GPSまで受信するようになった。
これに、ボディーの素材がステンレスからチタンになって、おもちゃのような軽量化もされている。

どうやって堅いチタンを精密に加工するのか、ぜんぜんわからないけど、ソ連が崩壊したときに、あまった在庫のチタンでスコップをつくったのは、ロシア人がなにをつくっていいかわからなかったからである。かくして、世界最高峰のスコップがうまれた。

量販店のシステムは、どのフロアーのどの売り場も、量販店の社員は会計をやっていて、ついぞ商品説明はメーカーからの派遣になっている。
そんなわけで、メーカーをこえた同類商品の「串刺し検索」が苦手である。

ならば自社の商品検索はどうかといえば、カタログを暗記するにも苦労するほど「多品種」を売りにしていれば、販売員が気の毒になるほど選ぶのがむずかしい。
つまりは、客にとっての選択基準が、値札以外の見た目ですぐにはわからないのである。

すると、多品種のメーカーとは、いったいどんな「コンセプト」で開発設計し、商品化を決定しているのか?
自社内ブランドの棲み分けと機能共通性の組合せが、まったくもって「無限大」の様相をしめすから、その「ややこしさ」は半端ではない。

運悪くわたしに声をかけてきた販売員は、見た目も若いお嬢さんで、まだまだ新入社員のような風情であった。

どうやって社内の開発設計チームにフィードバックされているのかなぞ、ちょこっと売り場にやってきた消費者に知る由もないが、ここに「販売拡大」の要素が埋めこまれていると、悩めば悩むほど焦れったくなるのである。

あぁ、帯に短し襷に長し。
ならばと、予算枠を売り場の最大に拡大してみても、決定打に欠く商品群とは、どうなっているのか?
機能スペックをマトリックス(一覧表)にしていない証拠である。

世界的量産大手でこれである。
もしかしたら、ブランドごとに担当する役員がちがっていて、横の連絡もままならないのかもしれないと、勝手に想像するにいたった。
このひとたちは、ほんとうに「時計」をつくっているのだろうか?

まことに「販売員」が気の毒なほど、あれこれとつき合わせてしまった。
さいごに、検討の選択肢にのこったモデル番号をメモして、カタログとともにわたしてくれた。

彼女は、いい仕事をしているのになぁ。
買わないのは、販売員のせいじゃなくてメーカー自体にあるという事例である。

その横のコーナーに、電卓のカシオさんの時計があった。
まさかと思って、こんなのがあるかと希望を質問したら、「あります」という。

「即決」である。
時計屋がつくる時計が、コンセプトの混乱をしめすのをたっぷりみたあとだ。

電卓屋は、コンセプト設計がうまいのか?いや、たぶん「量産」に愚直なのだ。だから、機能を合理的に追求する。
機械式でなく、「クォーツ時計専門」だと割り切れば、スイス人がスイスメーカーだと言い張っていた意味が、数十年ぶりにわかった気がした。

それでわたしは、時計よりも「コンセプト」を買ったのである。

14K万年筆とソーラー電波時計

万年筆マニアには、「インク沼」という魔界が存在している。
しかしながら、これらは概ね「水性インク」の分野をいう。
万年筆用インクには、ビールに「エール」と「ピルスナー」の二分類があるように、「水性系」と「顔料系」の二種類がある。

主流といわれているのが、水性系で、その色彩の多様さは数えきれないから「沼」と表現されて、いったんはまるとなかなか抜け出せない危険性にあふれている。
デスクまわりが、インク瓶だらけになってしまうのだ。

しかも、こちらは「化学合成」されたインクなので、「混ぜる」ことは御法度である。
ちがうインクをつかうには、万年筆内部をきれいに洗浄してからでないと、機構内部で化学反応をおこし、不具合のもとになる。

万年筆好きは、この洗浄作業もあじわっているのだが、面倒におもうひとには「ガラスペン」が人気だ。
さっと洗えて、すぐに別のインクをつかうことができるし、書き味のカリカリ感が、手に心地よい。

ただし、水性系は時間経過によって「退色」する。
数年で文字の判読ができなくなることがあるので、保存したい書面ならじゅうぶん注意したい。

水性系の異色に、「ブルー・ブラック・インク」がある。
これは、ほんらい「青と黒の中間」という意味ではなく、タンニン酸と鉄イオンをふくむ、化学反応によってインク色を紙に定着させるものだ。

なので、書いたときの「ブルー」色から、時間がたてば、「ブラック」に変化する。
さいしょのブルーが「退色」して、酸化反応によって鉄イオンが「黒」になってあらわれるのだ。よって、時間による退色はすくない。

最新技術の「ブルーブラック」は、水性で「青と黒の中間」という意味になったので、ほんらいのものに「古典」をつけて区別している。
「古典ブルーブラック」は、かなりの「酸性」だから、安い鉄ペンだとペン先が腐食するから注意したい。

一方の「顔料インク」は、そのまま「顔料」という、水に溶けない粒子状の材料をつかっている。
水溶性ではない、ということから、いったん乾くとしっかり定着して、うえから水をかけても溶け出さない。

つまり、書いた文字の耐久性が高いのである。
ほとんど退色もしないから、重要文書や公文書などには、顔料インクが欠かせない。
古文書が、紙がもてば千年単位で保存できるのは、蝋燭のススからつくる、伝統的な書道の「墨」も、顔料インクだからである。

ただし、こちらはメンテナンスが面倒で、ペンの機構内で乾燥してしまったら、固まって、万年筆が万年どころではない事態となる。
「洗浄キット」という化学物質で溶解させるか、メーカー修理ということになる。

だから、顔料インクを万年筆に入れるには、ふだんからよくつかうものや、キャップの機構で、乾燥をふせぐ機能のものでないと「こわい」ことになる。
さらに、メーカー保証ということを考慮すれば、顔料インクと万年筆はおなじメーカーで一致させないと、修理保証さえ危ぶまれる。

そんなわけで、一本、つかいたい顔料インクのためにそのメーカーのポップな14K万年筆を購入した。
ちなみに、外国製の顔料インクは、ふつうの文具店では入手困難なので、今回購入したのも国産メーカーのものである。

わたしは、筆圧が強い方なので、14Kのペン先が一番好きだ。
18Kでは「柔らかすぎる」し、鉄ペンやステンレスは、やっぱり「引っかかる」からである。

ほんとうは、購入後しばらくつかったら、ペン先のメンテとしてプロに磨いてもらうとよいのはわかっているが、なかなかそうもいかないままに「満足」している。
きっと、おおちがいの「満足」があるはずである。

そうこうしているうちに、愛用の腕時計がこわれてしまった。
三本所有の機械式が、これで全滅した。
単純にソーラー式のものが一本、電波ソーラー式が二本。
こちらは、ぜんぜんこわれない。ただし、電波ソーラーの一本は、秒針がドンピシャではないけど、実用にはこまらない。

外国の電波もひろうのがさいきんの電波ソーラーで、高級品はGPSとの連携で「自動時間修正」されるという。
中の機能はどうなっているのか?おしえてもらっても理解できないだろうけど、放置していて時間を刻みつづける便利さは、数百万円以上のものとは、価値の意味がちがう。

スマホがあるから、腕時計は不要だといういうひともいるが、そうはいかないときもある。
見せびらかすためのものではないけれど、じぶんに必要な機能のものなら購入を検討するのもありである。

そんなことをしていたら、あたらしい万年筆と電波ソーラー腕時計が、ほぼおなじ値段であるのに気がついた。

意外にも、万年筆屋は高価なものを売っているのか?それとも、時計屋が安いものを売っているのか?
部品点数と精密さにおける勝負なら、電波ソーラーに。
その精密さを、ひとが調整している勝負なら、万年筆に。

価値と価格の難しさは、消費者の「欲しい」によっても変わるから、やっぱり計画経済は成り立たない。

さて、それで、どうするか?

階段は必ず手すりにつかまる

登るときも降りるときも、必ず手すりにつかまる。
エスカレーターは、うごく階段だから、やっぱりおなじで、必ずゴムベルトにつかまる。

「化学メーカー」の厳しい社内ルールのひとつである。
これは、「安全」にかかわるルールで、その安全とは、「労働安全」のことである。
すなわち、「労働災害」を未然にふせぐことが目的である。

化学薬品をあつかうから、化学メーカーの社内として、たとえ事務スペースであっても「例外を認めない」のだ。
さいきんの化学では、摩擦を激減させる薬品だって、少量でも機能を発揮するから、「もしも」それが付着した靴底でスベってケガをしたら、それだけで「事故」になるのである。

こんなことは「業界人」ならば、当然で、新入社員からたたきこまれる。
だから、駅のエスカレーターで、しっかりベルトにつかまっているひとや、若いのに階段の手すりにつかまっているひとを見かけたら、化学メーカーに勤めるひとだとおもってまちがいない。

社内の習慣とは、社外で発揮されてこそだからである。
つまりは、たんなる「生活習慣」になって、はじめて社内でのルールが社内でまもられることが成就するのだ。

人間を訓練するのに、「生活習慣」にまでするのは、けっしてたやすいことではない。
むしろ、生まれてから育った、ほんとうの「生活習慣」とはちがうことをさせられるとき、ひとはかならず反発するものだ。

この反発は、容易に「拒否」というレベルになる。

さて、読者のあなたが、上司として、新入社員にどうしたら「生活習慣」レベルにまで教育訓練をして仕込むことができるだろうか?

「命令」するだけでできるか?
あるいは、「懇願」すればやってくれるか?
「生活習慣レベル」である。

たいそうむずかしいとおもうだろう。

すると、ちょっとまってほしい。
だとすると、どうやって日常業務が生活習慣レベルになったのだろうか?
たんなる「慣れ」とはいかないのは上記の例でわかるはずだ。

つまり、予測できることは二つ。
一つは、なんとなく覚えたことが、日常業務になったパターン。
一つは、しっかり説明を受けて、先輩や上司から繰返し指摘されているうちに慣れてきたこと、である。

生産性があがらない、というぼやきが聞こえてくるのは、さいしょのパターンだ。
なんとなく覚えたことが習慣になっているので、これは職場全体が「なんとなく」に包まれている状態にある。

もう一つのほうは、「意思」がはたらいている。
だから、こうした職場は、合理的なやり方に変更することをいとわない。
時間がたてば、すっかりやり方が変わっていて、別の職場から出戻りすると、「浦島太郎」の気分が味わえる。

だからといって、ぜんぶがすっかり変化しているかというとそうではない。「コア」な部分は、しっかり守られているもので、そのことがむかしの記憶を呼び戻すものでもある。

「仕事」や「業務」には、「意思」がないといけない。

それは、最終的にその「仕事」や「業務」の、そもそもの「目的」や「目標」が達成されなければ、やった意味がなくなるからである。
「意味がない仕事」とは、たんなる「無駄」だから、それで生産性があがるわけもないし、会社の業績もよくなるばかりか悪化して当然になる。

「悪化」ならまだしも、「赤字」となって、これから脱出できないと、倒産の憂き目にあうのが世の中の厳しさだ。
しかし、この厳しさは、物理法則のようなもので、誰にだって容赦ないから、誰だってそうならないようにするのが人間というものだ。

つまり、業績が伸びない、悪化している、ということに気がつけば、「対策」をかんがえて実行することになるのだが、どうしてそうなったのか?の原因をしっかり追求しないという、非科学的方法をえらぶものだから、「意味のない努力」のスパイラルにはいってしまう企業組織は山ほどある。

その原因が、「習慣レベル」の意味とその「効果」を考慮しないことにあるのだ。
よい習慣はかならずよい結果をもたらすが、悪い習慣はかならず悪い結果をもたらす。

子どもへの説教のようであるけれど、こうした原則論すらわからないで「おとな」になった「父ちゃん坊や」がそこら中を闊歩している。
軍隊のように、下位のものたちに命令すれば、そのとおり実行される、というたわごとも、父ちゃん坊やならではの浅はかさから発言される。

ふだんからだれからも尊敬もされない上官が、いきなり「突撃!」と叫んだところで、だれが敵前に飛びこむものか?

命令が命令として機能させるために、ホンモノの軍隊は、一般人がかんがえるよりはるかに高度な「心理戦」を、内部組織をあげてやっている。
こうして、「信頼」という絆をつくって、はじめて命令がそのまま実行されるのである。

感染症が流行しているいま現在、化学メーカーの社内あちこちに手指消毒剤が置かれているのは、それでも「手すりにつかまる」ことをやめないからである。

物も人も大切にしない日本文化

「もったいない」が世界でブームになったといっては、これを自画自賛する。
なかなかの「ナルシスト」ぶりをするのである。
いつからこんな国民性になったのだろう?

もうそれは、夏目漱石『草枕』が指摘している。
つまり、この小説の時代背景である「日露戦争」のころになる。
幕末、国際政治的には強引に開国させられたわが国ではあったが、横浜の港における「税関官吏」のまじめさは、そんな事情にこだわらない外国人入国者を感嘆させていた。

 

草枕冒頭には、有名な一文があって、受験生なら暗記させられるから覚えたむきもおおかろう。

「智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。」

智は「知識」、情は「人情」、意地は「意思」と置けば、ビジネスにおける心理学の「核心」にあたる。
先頭の文字をとって、これを、「知、情、意」という。
なお、「棹」は「さお」と読む。竿竹をみなくなって、字も読めなくなった。

漱石のこの指摘は、まったくそのとおりで、「知情意」とは人間がもつ「三つの心的要素」のことだからである。
よって、なによりも三方の「バランス」が重視されるものだ。
正三角形の中心から三つの頂点に線を引いて、これにメモリをつけてグラフにすれば、バランスの善し悪しが視覚化できる。

いわゆる「ハラスメント」は、この「バランス」をうしなった心理状態でうまれるものだ。
だから、加害者を罰することだけでは事後処理しかしないことになってしまう。
予防には、「三つの心的要素」をセルフ・コントロールするための「訓練」がひつようなのである。

浅はかになった日本企業は、組織をあげてこの「訓練」を、経費削減の対象にした。
それでいて、「コンプライアンス」や「社内統制」にはコストをかけている。

ふつう、こうした状態を、「砂上の楼閣」というのである。

高学歴で、優秀なはずの経営陣が、なぜにかくなる「愚策」を実行し得て、なお、それを「恥」ともおもわぬのか?

わが国の「教育」で、人間の「三つの心的要素」のうち、「知だけ」が重視されるという「バランスの欠如」がそうさせているからである。

学校教育だけでなく、家庭教育においても、はたまた社会教育においても、「知だけ」という価値観が、「優秀=知=学力だけ」ときめつけて、「情」や「意」が軽視されすぎた。
つまり、三角形がかけない「一辺」だけの「線」にしかならないものが、「エリート」になってしまったのだ。

だから、組織の上から下まで、「仕事ができない」。
企業における「仕事」とは、「価値創造」の活動のことをいう。
一辺しかないものたちがあつまって、購入者という人間を感心させることなんてできっこないから「売れない」のである。

『草枕』は、おそろしく深い「心理描写」をしているので、物語の本筋とは関係のないような、「胃痛」とか、なんとはない「会話」があるが、これがないともっと漱石がいいたいことがわからなくなるはずだ。

「ドイツの三B」の最後のひとり、大作曲家ブラームスは、そのレコード解説で「一音も無駄にしなかったひと」だというものを読んだことがある。
作曲家で「音を無駄にするひと」がいるものか、と読みながらかんがえた記憶があるからおぼえている。

小説家なら、一文字も無駄にするはずがない。

三B筆頭の大バッハは、楽譜に音符の濃淡をつかって、十字架をえがき、そのたもとにじぶんの「名前」BACHを数字譜から音符に変換させて書き上げた。
もちろん、音楽として演奏できて「傑作」のひとつになっている。

これぞ「職人技」というひとがいるけれど、わたしには「知・情・意」の三つがそのまま突き抜けたとしかおもえない。
大バッハの生涯は、苦難もあったがしっかり幸せな家庭を築いている。死別した先妻に4人、以下タイトルの後妻とは13人の子をなした。

元は創作の作品だが、おおくの事実とすこしの嘘で綴られた『バッハの思い出』を原作としているモノクロ映画(1967年、西ドイツ・イタリア)である。

すると、ほんらいは生まれてからの生活のなかで育まれるはずの「情・意」を、人生のどこで補完するのか?
これができなければ、物とおなじに人も扱われる状態が「文化」になってしまうし、すでになりかけている。

むかしは、職場に尊敬できる先輩や上司がいたものだ。
いまは、望むべくもないかもしれない。
「知」にすぐれ、「情・意」に欠くものこそが、「情・意」をにくむからである。

もしや、「文学」系の大学しか、「情・意」をまなぶ機会がないのかもしれない。

漱石が嘆き、みずからも神経衰弱に悩んだのは、「西洋化」という「合理」のなかに「不条理」をみたからだろう。
滅びゆく「旧き日本」を英語で記録したのは、岡倉天心『茶の本』、新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『代表的日本人』だった。

いまや、彼らすら歴史の中にあって、現代日本人とは別人種になり果てている。
物も人も大切にする日本人は、死滅したのか?

そんなことは、あるまい、と信じたい。