大津に行ってきた

琵琶湖の周りをぐるりと支配しているのが滋賀県で、その県庁所在地が大津である。
湖の左手にあるもっこりした山が比叡山で北方に比良山地がつづき、山頂から向こう側は京都だ。

JR湖西線が日本海の敦賀にむけて走っているのは、琵琶湖西岸断層帯をいく。
そんなわけで、湖西には100以上の地滑りによる「湖底遺跡」がある。

県の中心は日本一の湖だから、ひとが住みようもない。
けれども大津からは、ようやく向こうに琵琶湖大橋がみえるくらいで、手前の広大にみえる湖(南湖)は、地図で確認すれば全体のほんの一部でしかないのである。

琵琶湖自体は世界的にめずらしい「古代湖」で、北湖にある竹生島にちかいあたりでは水深が100m以上もある。
「湖」ではあるが、出口が「瀬田川」一本ということから、法的にはなんと「川」としての扱いになっている。

わたしが滋賀県に宿泊した経験は、長浜と彦根しかなく、しかも自動車移動だったので、このたびの大津駅での下車は、日帰りで栗東に出張して以来である。
京都から電車で9分。途中駅は山科ひとつだ。

距離にすると10Km。
これは、横浜-川崎間とか、東京-新宿間とほぼおなじである。
県庁所在地どうしが隣接しているのは、ほかに仙台市と山形市、
福岡市と佐賀市があるけど、庁舎間でもっとも近接しているほどに「近い」。

どうして、京都に近すぎる大津が県庁所在地になったのか?
それは、江戸時代、大津が天領で「代官所」があったからである。
他の候補地は、みな「藩」の城下町だったし、最大の彦根藩は徳川譜代だから、明治政府にきらわれた。

過去150年で、彦根に県庁を移転させる議論が10回以上もあるというから、10年に1回ぐらいの根深さである。
天領であった街の格式と、人口集積や経済集積との綱引きだろう。
けれども、藩をひきいる一国の大名よりも、お代官様のほうが「格上」とは、明治の役人根性はさすがに下級武士政権ならではと感心もするが、やっぱり違和感たっぷりである。

じっさい、大津駅で下車したみたが、平日とはいえたいへん静かで、県庁までの道のりは閑散としていた。
もっとも、大津駅前に商業集積はほとんどなく、京都からたった10分でかくも雰囲気が激変するものか。

ほんのすこしだけ「東海道」をあるいてみた。
道幅の狭さはおそらく当時とおなじで、数軒の家が往年の街道筋らしい構造のまま残っていたが、おおきなビル建設現場に「NHK大津放送局建替え工事」とあったのがより印象的だ。「東海道」が裏道になるのだろう。

つい先日、「西武百貨店大津店」の閉店が発表され、地元にショックがはしったとのこと。県庁所在地から百貨店が消える。
けれども、京阪電車で30分も乗れば京都の繁華街、四条河原町にいけるから、閉店後のビルのつかいみちをどうするかである。

ほぼ隣接する旧パルコ(現「Oh!Me大津テラス」)は、2017年に閉店後、昨年あらたに開業した複合施設である。
ただし、入店している店舗のおおくが「全国区」なので、わたしのような他県からの者にはほとんど魅力に薄い。

JRの駅では、大津の次、膳所(「ぜぜ」と読む)のほうが近く、またこちらは駅までの道が狭いが、個人商店などの集積もあって大津よりも賑やかだ。
さすが本多6万石のご城下なのだ。

自家用車での利用をかんがえると、さらに周辺にあるショッピングセンターが「便利」になっているのは、このエリアの「駐車場」が琵琶湖ホールの立体駐車場になることなども影響しているはずだ。

ふるい街の街づくりの難しさをみることができるのは全国共通で、江戸時代からの変化にまにあっていない。
それで、江戸時代につかわれなかった場所が、大型開発に向いていることになる。

地元のひとに、大津の魅力を質問したら、黙ってしまった。
ならば、おすすめの土産物はなにかと話題を振ってみたが、これも黙ってしまった。
すすめられる名物は「特にない」というこたえだった。

あんがいこれはわらえない。
わたしだって、いまどき横浜の魅力はなにかと質問されたら黙ってしまうだろうし、おすすめの土産物はなにかときかれたら、「シウマイ」ぐらいしか浮かばない。

これは、「全国一律」という中央集権思想による予算投下がおこした現象で、「全国一律」の金融政策を強制することで、地元企業に「融資がつかない」からである。
それで、地元のレアなお店や商品は、よそ者の目にふれることがない。

だれがわるいかではなくて、そういう仕組みの国になったのである。

たった10分で、京都駅の喧噪にもどってみれば、その京都すら「全国一律」から逃れることができないのだとかんじる。

いったい自分たちは何者なのか?

この問いの意味が、ますます重くなっている。

客数が減る

自社の客数が減っている。
第一に、この状況に気がつかない企業がある。
第二に、気がついてもどうしたらいいのかわからいから放置している企業がある。
本当は「放置」ではなく、悶々としているのだけれども、なにもしないから他人からは放置にみえるだけだ。
第三に、すぐに手を打つ企業があるのは、まともな企業だ。

第一のタイプと第二のタイプはふたごの兄弟のようなもので、なにもしない・なにもできないという点で共通している。

だれにだって、お金は大切である。
「放蕩」ができるのもどこかにお金があるからだし、放蕩しているひとは、そもそもそれが「放蕩」だとは気づいていない。
名作といわれている『夫婦善哉』における、主演のご両人・森繁久彌と淡島千景は、みごとな「放蕩」ぶりを演じたものだ。

この映画の「欠点」は、とうとう生活経済が破たんしても、なんだか幸せな二人を描いたからで、これは現実を無視したファンタジーだったが、もちろん当時の観客はファンタジーだと承知で観ていた。
いまなら、壮絶なバトルになるはずなのは、それはそれで現実がファンタジーを超えている。

だから、経済破綻には悲劇がやってくる。
そのはじまりが、客数減少という現象なのである。
すると、これを「放置」できる神経とはなにか?というはなしになる。

圧倒的な「そのうちなんとかなるさ」という甘い見通しを信じるこころなのか?
いや、それならこころが悶々とするはずがない。
たんなる「現実逃避」であって、根本には「無責任」がある。
くわえて、企業一丸となって「現実逃避」していることで、あえて「かんがえない」すなわち組織をあげて「思考停止」しているのだ。

けれども、不思議なのは経営者ではなく従業員である。
従業員もいっしょになって「思考停止」しているからだ。
じぶんはどうなるのだろう?と不安はないのか?
ここに、決定的な「他人依存」がある。

職場の仲間は、しぜんと友人になる。
その友人が不安そうではない、と思いこむことでじぶんも安心し、かんがえないことにする。
一方で、その友人もおなじことをかんがえている。
これは、自立心の欠如だ。

自立心の欠如を推進しているのは、とうとう文部科学省という役所になった。
だからか、自立心を高めるような映画がつくられなくなった。
補助金も出ず、「文部省推薦」もえられない。
しかし、これらは国民がもとめている結果なのだ。

自立心といえばわが国ではアメリカ合衆国を例にするが、強烈なのはスイスである。
観光カリスマの称号をもつ、山田圭一郎氏のはなしを聴いてきた。

「永世中立国」だからさぞや軍隊なんて、ということとは真逆に、「永世中立国」だから国民皆兵・徴兵制の独自軍をもっている。
それに、スイスの主たる産業は、精密機械や金融で、その精密技術をいかした兵器の一大輸出国である。
こうした産業基盤の上に観光産業がある。

誰がいったのか「観光立国」なんてことはあり得ないのだ。

しかし、スイスの歴史をみればわかるが、ふるくはたいへんな貧乏国だった。
山国の典型でもあるが、その山々が「アルプス」なのである。
険しさは一等だから、ちいさな国でいて山の反対側の村との交流すら困難だった。

美しい山々をわざわざ観に来る物好きは、すくなくてもスイス人ではなかった。
美しい山々から、お金が稼げるとはだれもおもわなかった。
けれども、産業革命でヨーロッパの列強には、たくさんのお金持ちが発生して、様相が変わった。

険しい山の中の村に、観光客がやってきたのである。

そして、このひとたちが「わがまま」だったのである。
その「わがまま」を実現してあげると、たいそうなお金をくれた。
こうして、村人たちは知らず知らずと「マーケティング」を体験で学んだのである。

あるときに、客の「わがまま」を実現する努力をするのではなくて、自分たちで要望を先回りして「提案」するようになった。
こうして、「スタイル」をつくったのだ。

全世界共通で、全産業で共通なのが「売上の公式」である。

客数(数量)× 単価 = 売上

険しい山に平たい土地はすくないし、まわりに住んでいる住人もすくないから、巨大なホテルをつくらなかった。
それだから、受け入れられる客数には上限がある。
ならばと、単価をあげる方法に智恵をしぼった。

すると、低単価客は断ればいいことにも気がついたのである。

こうして、客数を減らす取り組みと同時に稼ぐ方法を考案した。
それが高額運賃の登山電車であり、自家用車の交通規制をして、馬車か電気自動車に強制的に乗り換えさせて料金を取り、さらに村人に仕事をつくったのである。

ところが、これが観光として受けた。
環境保護は、あとからやってきた理屈である。

いま、スイスの山中で、観光客をあいてにはたらくひとたちは、典型的な宿の従業員で時給で円換算すると、3000円をとっくに超えている。

客数が減ったら、単価をさげるわが国とは、どこまでもことなっている。
そして、こまったら役所からもらえる補助金を頼りにするのとは、発想自体が真逆なのだ。

もっともスイスには、連邦政府に文科省にあたる役所もないし、村役場にだって観光課はない。

住民が自分たちでやることをしっていて、それをほんとうに自分たちでやっている。

その意味で、国や自治体という「行政府」に、おいしいところはやらせないのである。

ホワイトハウス標準装備

公開情報だけでなく非公開情報があるのは「セキュリティ」を対象にした場合は、しかたがない。
全部公開してしまったら、みずからの手の内を明かすことになるからムリはしないものだ。

一般人もふつうにつかう通信機器は、スマートフォンの登場であたらしい時代になった。
いままで以上に、さまざまなことができる機器なのだから、いままで以上にデータを蓄積しているのは自明で、ゆえに「セキュリティ」対策も従来とはちがった気をつかう必要がある。

ネット上にはいろんな「罠」が仕掛けられているのは有名だ。
しかし、さいきんは、駅や空港、それに気の利いたカフェなどに設置されている「充電機器」に罠があるというから気が置けない。
それは、USB型の給電器だ。

スマートフォンと充電器とをUSBケーブルで接続して充電するのだが、このときにスマートフォンの内部データを吸い取られる危険があるという指摘がある。

安全なのは、「電源コンセント」からじぶんで携行している充電器をつかっての充電だというが、公共の場所で自由につかえるコンセントはなかなかない。
そこで登場するのが、USB給電器から安全に充電ができる機器である。

アメリカでは、「ホワイトハウス標準装備」に指定されているという安全器具を介せば、セキュリティ保持は万全だという。
日本のアマゾンでしらべたら、4500円で販売していた。向こうでは$30ぐらいだろう。

だったら、そもそも「充電専用ケーブル」ではだめなのか?
いまどきのスマートフォンはUSBタイプCの形状をしているから、それでいろいろ検索すれど、余計な「高速転送」なるデータ転送が可能なものしかでてこない。

ならばと100均でみたら、あった。

どうしたら「充電専用ケーブル」だとわかるようにするのか?
これがつぎの問題だ。
きっと、100均のアイデアグッズに、この手のフラッグがかんたんにケーブルにつけられるおしゃれなデザインで発売されることだろう。

なので、それまで、二本ケーブルの変わり種をつかっていればいいと、ちょっと変態な充電専用ケーブルを購入した。
パッケージの袋がチャックつきなので、ふだんはカバンにほうりこんでおけば、いざというときに役立つだろう。

しかし、気になるのは「ホワイトハウス標準装備」だ。
ほんとうに、充電するときにあそこで働いているひとたちは使っているのだろうか?
それに、このほかにはどんなモノが標準装備なのかを知りたい。

ついでなので日本の首相官邸HPにアクセスしたら、「水素自動車」が装備されているからたまげた。
この「日米差」はなんだ?

一方はセキュリティの安全性を手軽に確保できるグッズが「標準装備」されていて、一方は「やたら高額な自動車」である。
しかも、環境にいいのは「走っているときだけ」という、世の中のなんの役に立つかが不明の代物だ。

千葉県の市原市で騒動になった「高級電気自動車」は、積極導入したかった市長からすれば、首相官邸をまねっこしたにすぎなかったろう。
マスコミも市議会も反対したけど、官邸の自動車には、おなじマスコミや国会が反対しない理由はなにか?

市原市はテスラというアメリカ企業の自動車だったが、官邸のはトヨタ自動車だ。
電気自動車だって、環境にいいのは「走っているときだけ」で、もともとの電気はどこでどんなふうに発電されているものか?
なんだかいやな匂いがただようようにおもうのは、わたしだけか?

いまは数千万円もするけれど、きっと量産されれば安くなるにちがいなとかんがえるのは、20世紀の発想だ。
原子番号1番の水素を保管したり運搬するのはたいへんで、いかなる容器でも「最小原子」の水素はその分子のすき間をすり抜けるし、水素は水素としてこの地上に存在していない。

典型的なのは「水」で、酸素と水素が結合しているごくふつうに地上にある物質だから、水素をつかうなら水から作るのが妥当だ。
すると、これを「電気分解」しなければならないが、その電気はどうするのか?

何のことはない、「水素社会」なぞは世迷い言にすぎない。
だから、水素社会実現のための「投資」は、民間企業に政府がやらせているから「やらせ」である。

とうぜん、原資は税金だし、できあがった水素自動車を購入できるのは資金豊富な政府しかない。
市原市は、電気自動車じゃなくて水素自動車にすればよかった。
自動車会社は、一般にぜんぜん売れないものを「補助金」でつくらされている。

こんなムダをしているから、生産性があがらない。
政府や学者は粗い「統計資料」だけをもってして、サービス業の生産性が低いと嘆くが、じぶんたちで世界トップクラスの製造業の生産性を下げている。

これは、経済発展に対する妨害工作である。

USBケーブルで充電するときに、データを盗まれるのだから、データ転送ができないケーブルならよかろうというのは上に述べた。
政府のムダを100円グッズが取り返しているさまなのだが、これらをつくっているのはもはや国内の工場ではない。

なんだ、国内の工場を無理やりに政府が稼働させている。
これが「持続可能社会実現のために」というから、ますます世迷い言になるのである。
政府の予算にふりまわされるものが、持続可能とは笑止である。

お願いだから何もしないでほしい。

土瓶のお茶が飲みたい

改装されたJR桜木町駅には、鉄道発祥の「旧横浜駅」だったことにちなんで、構内に「むかしの横浜駅」の写真が展示されている。
料金選択ボタンがない初乗り「30円」と大書された切符の自動販売機は、わたしの世代でも記憶にあるところだ。

そんな展示のなか、小学生がふたり列車の窓から顔を出しているところのショットがパネルになっている。
髪型が「坊ちゃん刈り」で、笑っている表情の雰囲気はわたしの世代に似ているのだが、すこし上の先輩世代だとおもうのは、乗っている列車が電車ではない旧型の客車だからだ。

むかしの電車には冷房がなく、天井に360度回転する扇風機があった。
冷房車が普及したのは、40年ほどまえからだった。
夏の日、やってくる電車が冷房車だとうれしかった。

その10年まえには、まだ立ち売りの駅弁屋さんがホームにたくさんいたことを記憶している。
さいきん「べんとー、べんとー」という掛け声を聴いたのは、台湾の観光地「九分」の最寄り駅ホームだった。「弁當」と書いていた。

都市近郊中距離の花形は、「湘南電車」と呼んでいて、いまのように「東海道線」とはいわなかったし、学校では「東海道本線」といって「本」をきちんといれておぼえさせられた。
だから、たんに「東海道線」というのは、安易でしかないとかんじるのだ。

はたして、会社は「湘南電車」の呼称を復活させる気もないのだろうが、「湘南新宿ライン」とか「湘南ライナー」といってお茶をにごしている。

これは、「東京行き」がめずらしくなったからで、「東海道線」すら、いまは東京駅をこえて遠い先まで行くようになったのは、便利だけれどなんだかなぁなのである。
それは、私鉄も同様で、いまも工事中の渋谷駅は、かえって不便になった感がある。

新幹線はさいしょから窓があかない設計なので、「駅弁が買えない」という不満を社内販売がカバーしたのは「ニュース」にもなった。
むかしは、駅の売店でもなく、すわった座席から窓をあけてホームの駅弁屋さんから窓越しに購入するのがあたりまえで、発車して動きだしたときのスリルすらあった。

列車をけん引する電気機関車は、おどろくほどゆっくりと動きだしたし、電車だっていまのようにせっかちな加速をしないから、駅弁屋さんが小走りに商品とおつりをくれた。走るスピードよりも、手さばきのスピードがすごかった。

国鉄が大赤字だから『ディスカバー・ジャパン』というキャンペーンをしていて、とくだん理由がなくても鉄道に乗せようとたくらんだのは、『阿房列車』の影響か。
これにウィスキー会社のテレビCMで夜行列車の窓横にビンが置かれていた映像が記憶にあるのは、こんな旅をおとなになったらやりたいとおもっていたからである。

旅に情緒があったのだ。

いまだって旅には情緒があるというひとはいるだろうけど、むかしはいろいろと仕掛けもあった。
国鉄が「JR」になったら、駅舎がどこもかしこも「近代化」されて、旅先の駅舎を背景に記念写真を撮る気がうせたことは前にも書いた。

ガラスと鉄骨でできた近代建築がだいすきなJRとは、何者なのか?
さいきんは、採算のために「社内販売」まで縮小している。
旅の演出を放棄する鉄道会社とは、ひとの移動の価値をたんなる「運送」とかんがえているにちがいない。

それは、乗客が人間であることをわすれたということだから、まさに「唯物論」を地でおこなっているとんでもない企業体ではないか?

けっきょく、夜行列車をほとんど廃止して、とおい先に朝に着くことが鉄道ではできなくなった。
鉄道会社がバスや飛行機をつかえと本気でいっているのか?それとも鉄道会社を管轄する役所の意向なのか?

それはさておき、駅弁のお供はいつだって日本茶である。
車窓から買えた時代の末期、そのお茶の容器が土瓶からプラスチックにかわった。
けれども、これは一口飲めばわかる「プラスチックの味」がした。

「匂い」ではないのは、なかみが熱い湯にティーバックが一個入っているだけだから、熱で容器が溶け出したのだと感じたからだ。
だから、ものすごく「不味かった」。
いまのように、ペットボトルなんかないから、おとなはすまし顔で「お茶」として飲んでいた。

容器のデザインは土瓶とおなじで、急須型。
ふたがおちょこのようになっていて、これに注いで飲んだのは、ペットボトルに直接口をつけるより、よほど行儀がいい。
だから、行儀を重視する「良家」では、ペットボトルの飲料だってかならずコップに注いで飲むのである。

土瓶でなくなったのは、重量による販売員の負担をへらすため、という大義名分があったけど、けっきょくはいまでいう「コスト削減」だった。もちろん、お客には「使い捨ての利便性」が訴求されていた。

けれども、当時は飲み終わった土瓶の始末に、だれもがこまったというよりも、弁当の空箱といっしょにゴミ箱に捨てていたから、「使い捨ての利便性」はウソだとおもった。

いまなら「回収箱」でも用意すればよいはなしである。

東海道新幹線には、静岡と京都というお茶の名産地があるし、九州新幹線なら鹿児島がこれにあたる。

土瓶で味比べをすることが、移動中の楽しみになる可能性だってあるのだ。
むしろ、全国どこでも手に入るペットボトルのお茶との差別化は、もはや土瓶なら「区別」の域にはいるはずだ。

外国人観光客なら、記念に持ち帰りたくもなるだろう。

すなわち、持ち帰りたくなるような土瓶に価値があるようにみえるのだが、それは「おいしいお茶をのんでほしい」という愛情があって実現する。
乗客に対する愛情がなくなったから、プラスチックになったし、土瓶の復活をかんがえるひともいない。

ビジネスは「愛情だ」という感覚をうしなえば、ビジネスもうしなうのである。

天然物にかなわない人工物

古今東西、人間は天然物のおかげで栄耀栄華を飾ってきた。
20世紀から、なんだか人間は傲慢になって、天然を人工が凌駕すると信じだしたが、根拠を問えば乏しき発想しかない。

いくつかしかない成功をもって、ぜんぶに拡げるのはやっぱり傲慢である。
その成功のひとつが「ダイヤモンド」だ。
いま、「偽ダイヤ」といえば、歴戦の鑑定士すら震えるほどの出来映えだから、人工物のすごさだといえばその通りである。

しかし、どうしても人工的に作れないものがたくさんある。
千年以上、連続して今につづく文化を保持しているのは、地球上に日本しかないのは本当で、それを支える「伝統工芸」の「技」は有名だが、その「技」をささえる「道具」が注目されることはなぜかすくない。

しかも、それが「天然材料」だとなると、なおさら道具作りの人間の「業」が地味にみえるものだ。
「獲ってくれば」だれにだってできると、これもまた浅はかなかんがえをするからだろう。

千年の技として、日本独自の工芸品といえば「Japan」と呼ばれる漆器が筆頭だろう。

漆には困った性質があって、樹齢10年以上の漆の木から天然ゴムをとるように樹皮を削って傷をつけてにじみ出た液を採取するのだが、削る道具の「刃」をもってすくい取ったら、もうそこからはとれない。
それで、樹液をとった木はすぐに伐採されるのだ。

漆の木を畑のように人工栽培することはできても、最低植林してから10年は育てるだけだから、毎年採取分の伐採と植林とをくり返すしかない。
つまり、まったく即席の大量生産に向かないのである。

さらに採取した原液をそのままつかうことはできないから、漉してゴミを取り除き、またまた直射日光に混ぜながら晒して粘度をたかめる作業まで要する。

木地に塗っても、乾燥させるのになんと「湿度が必要」という性質ゆえに、乾かすだけで日数を要するという、徹底的に手間がかかるのである。
しかし、完成品は丁寧にあつかえば数百年つかえる耐久力だし、職人に出せば修理もできる。

漆の芸術品といえば「蒔絵」だ。
繊細な線を引くための「筆」には、琵琶湖にしか生息しない鼠の首筋に数本しかない毛をつかう。だから、一筆にずいぶんな数の鼠が必要なのだが、これが「絶滅危機」となってしまったし、生態が不明のため人工飼育の方法がわからない。

この貴重な毛を、電子顕微鏡でしらべると、人工ではけっして加工できない微細な「溝」があって、この溝による毛細管現象で漆を蓄えるから、長い線が一筆で描けるのである。

なぜに千年以上前の人はこの鼠の数本の毛を発見したのかは不明だが、現代の技術で制作不可能を、鼠はじぶんのからだに持っている。

この筆が、過去の在庫分しかなくなったから、新作どころか世界の博物館や美術館に所蔵されている作品が、修復できなくなっている。

過去の在庫分しかないのは、日本刀をはじめとする刃物を研ぐための「砥石」もそうで、仕上げ用の微細な研磨剤のかたまりとして、天然物しかありえず、人工物では「研げない」のである。

日本刀をつくるための原材料も、特殊な鋼(はがね)を必要とするだけでなく、純度のたかい「鉄」が必要なのだが、現代にあって純度のたかい「鉄」が製造されていないために、明治期以前の古い農具という在庫分しかないという意外がある。

錆びさせず、ながもちさせるために、現代技術は「合金技術」が主流となったから、いっきに「鉄だけ」という材料が貴重品になってしまった。

日本の刃物は家庭の台所でつかう包丁だって、日本刀とおなじ技術がつかわれているから、外国人観光客の日本土産で人気なのだが、日本の主婦一般に人気なのは、ステンレスやセラミックスの包丁になっている。
錆びないだけでなく、セラミックスの包丁なら研がなくてもよいからだ。

だから、日本の伝統的かつ本物の刃物を購入した外国人は、錆びもしかりで研ぐ必要にかられて困っている。
ところが、肝心の「砥石」が外国ではめったに手に入らない。

ヤスリでこすって「研いだ」ことにするわけにはいかないのは、刃物全体が錆びてしまうからである。
日本刀がむかしから好まれた「切れ味」を担保したのは「砥石」の品質と「研ぎの技」だった。

おそらく、砥石が産出しなければ、日本刀ははるか昔に廃れていただろう。
しかし、さいわいかな、日本列島の地質構造が大陸のそれとはちがい、おそろしく複雑なので、人力だけで得らるほどの地層に良質の砥石があったのだ。

これをみつけて「砥石」とした、どのくらい前かわからないくらいのむかしのひととは、いったい何者なのか?

しかして、その砥石の坑道もほとんどが廃鉱されて、もはや「極上品」の入手は困難になっている。
千年単位で「あるのが当たり前」だったものが、在庫限りになってきた。

はたして、わが国伝統工芸における、わが国伝統の刃物をつかってつくる品物全体の危機がここにある。

禊ぎ修行がつらくて嫌だ

じぶんのからだをいじめる。
スポーツ選手なら、それが仕事だ。
宗教家でも、じぶんのからだをいじめることで「悟り」をえようとつとめたり、精神や魂の清浄化をはかるものだ。

わが国でおそらくもっとも過酷な「修行」のひとつとしてしられる、比叡山の「千日回峰行」は、まさに命がけの限界をゆく。
だから、満行すれば「阿闍梨(あじゃり)」という称号を得るのだが、これは「生き仏」という意味である。

上記の本は、この後もう一回満行した酒井雄哉大阿闍梨(1926年~2013年)の最初(1973年~80年)の満行を伝えた一冊だ。
二回も満行したひとは、伝教大師最澄が開山して以来3人しかいない。

山中のお堂から京都市内をまわる行程は40km。
これを飛ぶような速さで毎日駆け巡るのである。
闇夜の山のなか恐ろしくありませんか?との質問に、行者は「ひとにであったとき」とこたえた。

それは、泉鏡花の『高野聖』を、宗派は別でも聞いたような気がした。
阿闍梨になりたくて千日回峰行をする、というほどの「甘さ」では満行はできないし、そもそもチャレンジなぞしないだろう。

本人にとっては信仰心と自己研鑽にエネルギーが集約されていて、その姿をみる他人のこころが「救われる」から生き仏になるのであって、それをたまたま「阿闍梨」と呼ぶのである。
足し算と掛け算がある式のように、かんがえる順番でこたえがかわる。

 

右は、名優、佐藤慶の朗読によるCDで、味わい深いものがある。
ならばと、じぶんで朗読するのもわるくない。
「文学作品」とは、朗読でこそ味わえるのだ。

ところが、人間の精神が貧弱になって、このような修行がつらい。
真冬の滝にうたれるなんて、どうしたって風邪をひくにちがいないから、そんなバカなことはぜったいに嫌だし、そもそもそんなことをしても意味がない。
これが、エリート官僚がかんがえることだ。

やるひとはやったらいい。
じぶんはやらない。
この手のたぐいは、民間企業にだってたくさんいる。
むしろ、民間のほうが多いから、政府に従順な経団連になる。

これが、国家予算にだって適用されるかんがえなのだ。
飛躍しているようでそうではない。

一度組んだ予算にムダなどない。
年度内に使い切る、ということの理由がこれだ。
ムダを削減せよといわれたって、もともとムダな予算なんてないのだ。

こうした発想ができるのも、わが国の近代史がそうさせたからだ。
江戸幕府しかり、各藩しかり。
そして、やっぱり武士による政権の明治政府しかりである。
庶民には「上」がきめたことに粛々としたがう訓練が、DNAにまで擦り込まれた。

明治からはじまる「帝国議会」は、政府予算案を否決する権限がなく、修正しかできなかった。
しかも、予算編成権は政府のみが有していて、議会にはなかった。
ここでいう「議会」とは、もちろん「衆議院」と「貴族院」をいう。

さてそれで、現在の「国会」はどうか?
2015年に超党派による「議会予算局」の議員立法をめざすとしたが、いまだに日の目をみていない。
そもそも「議会」は、「立法府」というが、わが国ではその議員が「議員立法」することが珍しいという「珍しい国」なのだ。

つまり、明治時代の制度が「そのまま継続」しているのである。
与党が圧倒的多数の政権が、なにもしていない、ともいえるのは、現政権は議会予算局設置を主要政策に挙げてもいないことでわかる。
このやる気のなさは、「無気力」以下だ。

事実上アメリカがつくった憲法だから、よほどアメリカ合衆国憲法とわが日本国憲法が似ているのだろうとかんがえるのは、まちがっている。
なぜかはかんたんで、「読めばわかる」からである。
もちろん、アメリカの議会は「立法府」なので、法案のすべてが「議員立法」であるから、有名な法案は提案議員の名前で呼ばれるのだ。

ところが、日本にはあまた「憲法学者」がいるのに、アメリカ合衆国憲法の解説書がえらくすくない。
それに反して「独立宣言」は、よく引用される不思議がある。
アメリカの難しさは、「独立宣言」と「合衆国憲法」との間に、「断絶」があるので、「憲法修正条項」が日本人には理解できない。

じつは、われわれ日本人は、アメリカ合衆国という国の政治制度のことをほとんどしらないのである。

大統領制を横にしても、アメリカ合衆国では、「予算編成権は議会にある」というわが国とは決定的なちがいが存在する。
すなわち、アメリカ合衆国連邦政府の「財務省」には、予算編成の仕事が「ない」し、大統領でさえ「予算教書」を議会におくるだけなのだ。さらに、「予算教書」は議会での議決の対象でもない。

ここ数年、大阪の私立小学校への補助金問題やら、獣医学部をつくるのかつくらないのかの議論ではない特定大学の問題と称して、国会の「予算委員会」で「予算」を審議したことがない、という批判があるが、いつだってほとんど審議されたことなどないのは、前述した「明治」からの制度が継続しているからである。

こうした「制度」の居心地のよさは、大蔵・財務官僚という、学校時代にわが国でもっとも勉強ができたひとたちの集合体にまかせれば間違いない、という性善説に基づいていたはずだったが、そこにたっぷり「利権」がはいりこんだから、この甘い汁を吸いたいひとたちにとっては、天国のような居心地になる。

しかし、その甘い汁とは、国民の血と汗にほかならないので、左派を中心としたひとたちが、アメリカのように議会に予算編成権を移転させる「政策」を選挙のときにいうかとおもえば、そんなこともないのは、予算委員会で予算を審議しなくてもいいという、べつの甘い汁があるからだろう。

議会予算局が設置されたら、こまるのは予算について猛勉強を強いられる「議員」に負担がかかることが、嫌なのだ。
しかし、国民のお金で「政策秘書」を雇えるようにしたはずであったが、こちらはどうしたことか?

じつは、わが国には政党に付属する「シンクタンク」が存在しないのである。
だから、さまざまな問題について、議員に進言するひとが「役人」になってしまうのである。しかも、無料だ。

議会予算局設置が、みずからの信念がないとできないはなしになるのは、その活動をみたひとびとが「救われる」とおもえるかにかかっている。

日本国の禊ぎ修行でもある。

体制転換の立法爆発

世界でわが国「だけ」が、やたらと低い経済成長率しか達成できないのはなぜか?
所説あるものの、またまたデービッド・アトキンソンさんが、「中小企業基本法」が諸悪の根源だと指摘して議論をさかんにしている。

このブログでは、経産省や財務省といったところの官僚による国家の簒奪を訴えてきたから、おおきな風呂桶の栓を指摘されたごとくでもある。

ちなみに、中小企業を「管轄する」中小企業庁は経産省の外局で設置は1948年だから占領中で、話題の中小企業基本法は1963年にできた。

江戸幕府の体制をささえた末端の制度に「岡っ引き」がいたが、近代日本国政府にもたくさんの「岡っ引き」がいて、今日もいたるところで活躍している。

それで、中小企業庁の岡っ引きは、中小企業診断士というひとたちだから、中小企業基本法に噛みつけば、このひとたちから「ご意見」ならぬ「ご異見」がでてくるにちがいない。

もちろん、中小企業診断士にだって立派なひとはいるから、一般論ではあるけれど、法律や政府(中小企業庁)がきめた枠組みからはずれることを嫌う議論が「異論」としてでてくるだろうという予測である。

「その枠組みのなかで」、という制約こそが、岡っ引きの活動範囲だからである。
なので、ここでははなしをすすめる。

経済発展について、すこし前なら「西ドイツ」と「東ドイツ」という比較があった。
いまは、新進気鋭の政治アナリスト、渡瀬裕哉氏の指摘である朝鮮半島の二国家を比較すればよい。

どちらも日本だった終戦時、じつは北側が経済発展していた。満州につながるからだけでなく、農業も工業も南側よりもすぐれていたのである。
それから、分断されてこの関係は完全に逆転したのはなぜか?

南側が「自由主義経済体制」になったからである。

だから、わが国が昭和のおわりから平成時代の30年をつうじて、ぜんぜん経済発展しない理由はかんたんで、「自由主義経済体制」をやめたからである。

1990年代から顕著になるのが、「立法爆発」だ。
従来から比較すると、「倍以上」の法律が制定されつづける。
これが各種業界への「規制法」ばかりなのであって、まさに箸の上げ下げまで役人の指示を仰がねばならなくなったのである。

それでひさしく「規制緩和」が政治のテーマになるのだが、ことばおおくして具体的成果がほとんどない。
もしかしたら、規制緩和したつもり、という気分が先行しているだけになっているのではないか?

よく指摘され、もっともわかりやすい例が「uberTAXI」の導入が「できない」ことだ。
それで、タクシー業界は国内でしか通用しない「タクシー・アプリ」を開発するという手間をかけた。

ムダである。

しかし、このことがしめすムダは、たんにアプリの開発だけではない。
既存業界の温存というムダ。
その業界に、役所が料金やあろうことか運行できるタクシーの台数までもきめる役人仕事のムダ。

料金と数量をきめられたら、売上がきまる。
すなわち、わが国のタクシー業界は、とっくに「国営」になっているが、民間企業ががんばっているようにみせかけているムダまである。

プロ・ドライバーだから、利用者だって安心なのだというのは、かつて、ガソリンスタンドがセルフになるまえ、素人が揮発油をあつかったら火災事故が頻発するというはなしに似ている。
寡聞にして客が原因のガソリンスタンド爆発事故を聞かないが、これを主張したひとはどうやって責任をとっているのかさえも聞かない。

アトキンソンさんがいいたいことは、こうして「保護」された業界がムダに存在する不効率だろう。
すなわち、利用者が保護されていないのだ。
日本は民主主義国家ではない。

これは地方自治もおなじだ。
退職後の「移住」がブームではあるけれど、どちらの自治体も若い移住者をもとめて、リタイヤ組には冷たいのは「社会保障負担」があるからである。

けれども、移住検討者からすれば、全国津々浦々住民税率がおなじなのである。
これは、中央集権が強固に確立されてしまったことから、もはや自治体が自分で税率をきめることすらできないという意味だ。

すなわち、ここにも「競争」が存在しないのである。
自治体の競争を、アメリカ人は「善政競争」という。
いまの日本に無い概念なのは、日本だからが理由ではない。

むしろ、幕藩体制下のほうがよほど選択肢があって、あんまりひどければ住民が他藩へ「逃散」してしまった。これを公儀にばれでもしたら、お取り潰しの危機に直結したから、ちゃんと「善政競争」をしていたのである。

ようするに、わが国は30年かけて社会主義国に体制転換したのである。
なんでもわが国にまねっこしたい隣国が、気がついたら先を越しているのがいまの状況ではないかとおもえば、首肯できるではないか。

それで?
どうしたら経済成長できるのか?
ふたたび自由主義経済体制へ体制転換をするしかないのである。

ところが、わが国も隣国も、その手本に中国を選んでしまった。

なるほど、社会主義下で自由主義っぽい経済体制にしたいから、アメリカをけっして手本にはしないのだ。
それで、香港のひとたちをがっかりさせる「国家主席」の「国賓」招待が堂々と予定されるのだ。

わが国の暗い将来が、だんだんとみえてきたような気がする。

サービス業はユーザ工学も参照せよ

以前「感動工学」について書いたことがある。
「工学」がつくから理系だし、基本的に「モノ」が対象である。

だから、サービス業の従事者は「自分たちに関係ない」と思いこむ傾向がある。
いまだに、サービス大手企業の経営トップが、製造業を評して「ベルトコンベア」というほどの「時代遅れ」にだれも反論しないのは、そのひとが「偉い」からだが、しゅうへんに「えらい」迷惑を拡散していることにも気づいていないから深刻なのだ。

「おもてなし」を重視するサービス業は、製造業なんかとちがうと自慢するのは「高度な産業」なのだといいたいのだろうが、いいかたの比喩が完全にまちがっているから、従業員にあらぬ誤解を埋めこんでしまうのである。

たしかに「高度な産業」である。
しかし、「高度」という理由は、相手が人間だから、なのであって、それ以上のことではない。

戦後のモノがない時代は、たとえ粗悪品でもそこそこ売れた。
それは、人々の所得も低かったからである。
だから、社会全体が豊かになる(所得もあがる)と、粗悪品では満足できず、高品質なモノを要求するようになって、工業はこれにこたえてきた。

じつは、宿泊業だって、モノがない時代に粗悪な宿しかなかったのは、主たる都市が空襲で焼けてしまったし、焼け残った上質な宿は「接収」されてしまったから、ふつうのひとは利用できなかった。

高度成長期に、観光ホテルが有名温泉地を中心に新築されて、画一的な施設とサービスをもって、大量生産大量消費がおこなわれた。
「大きいことはいいことだ」ったのは、なにも工業だけのはなしではない。

一泊二日で宴会付というスタイルは、「流し込み」状態だったから、ベルトコンベアとかわらない。
唯一のちがいは、施設のなかにベルトコンベアがあるのではなく、「お客の動き」自体がベルトコンベアだったのである。

ところが、70年代に「高度」成長が中折れして、低成長時代に突入した。
当時の月次統計をみれば、石油ショックが原因ではなく、田中角栄内閣の経済政策失敗がそうさせたということも前に書いた。

つくれば売れるの終焉でもあった。
ここから、製造業はがぜんと「高品質」にむかうのである。
しかし、サービス業のおおくは、この変化に対応せず、「守旧」したのである。

その理由は、哲学しなかった、に尽きる。

それで、時代の対応として、カラーテレビと冷蔵庫を各部屋に配置し、それぞれに「料金課金」できるようにした。
つまり、サービスではなく「モノ」の購入で時代を乗り切ろうとしたのである。

そして、その「モノ」自体の品質にたすけられた。
なるほど、「高度」なわけである。
つまり、たまたまだが、「他業種の製品の上」にあるのがサービス業であることがみえてくるのである。

しかして、この構造をいかほどの業界人が意識しているのだろうか?

意識できていれば、「モノ」の選択における「センス」が重視されるようになるはずだが、いまだに「価格」が重視されている。
「低価格」でなければならない。

にもかかわらず、食事のメニューにはやたらとこだわるから、バランスが崩れるのだ。
この崩れたバランスを、利用客が敏感にかんじとれるのは、利用客の生活水準が高いからである。

そんなわけで、わざわざバランスの崩れた環境に身を置くことを避けたくなるのは人情かつ合理性があるので、目的地の旅館ではなくビジネスホテルを予約するのだ。

『ユーザ工学入門』(共立出版、1999年)は、「ユーザ工学」について書かれたわが国で最初の書籍である。

ここにおける「モノ」のはなしは、ものづくりのこだわりがわかるだけでなく、「サービス」に応用できる。

「こだわりのサービス」とはいうけれど、おおくは提供者側の自己満足がみえかくれして、利用者側にそのこだわりが遡及しないばかりか、かえって不便さまで感じさせることまであるのは、ユーザの使い勝手を軽視しているからである。

つまり、「販売」を重視した結果であり、「使用」や「利用」を後回しにしているのである。
だから、たとえばHPに「女将こだわりのウェルカムドリンク」がうんぬん、といった記事をみるのだ。

売りたいのはわかるけれども、それが「前面に露出」すると、押し売りになる。
すると、それが利用者からすれば「嫌われる努力」になるのである。

世の中のトラブルのおおくは、さいしょから悪意があることはすくなくて、「よかれ」としたことが原因であることのほうがはるかにおおいのは、「よかれ」が「押しつけ」になって、しまいには「命令」に変化するからである。

「よかれ」の実行のまえに、一拍おいて相手の「利用」と「使用」を自分で実験するのがよかろう。

ハムラビ法典のブーメラン

お騒がせな「あいちトリエンナーレ」が閉会した。
芸術とはなにか?とか、芸術の原理について先月書いたが、とうとうブーメランを投げつけるひとがあらわれた。

主催者は、「人物の肖像を燃やしてその灰を踏みつける映像」が「芸術」なのだという。
ならばと、この催しの実行委員会委員長である愛知県知事の顔写真を「燃やしてみる」という動画がアップされている。

さらに、文化庁からの補助金がなくなったことを、同じく愛知県知事が非難していることにかこつけて、この「芸術動画」について愛知県からの補助金を申請するという。

「噴飯物」に対して「噴飯物」で応じるのは、ハムラビ法典の論理そのものである。

この、おなじことの応酬(「同害報復」という)は、おなじ身分間でのこと、という限定があったので、現代日本の「身分がない」価値観では、かえってだれにでも通用できるという意味になる。

ここに、あんがい「誤解」がうまれるのは、古代と現代の価値観を混同するからだ。
ハムラビ法典はいけない法典だというひとは、時代の区別ができないことを告白している。

一方で、大ヒットした『半沢直樹』が応酬する「倍返し」というのはハムラビ法典の趣旨に反する。
すなわち、倍返しとは「過剰な報復」になるからで、その意味で「同等」におさめることをあらかじめ定めている「刑罰法定主義」のハムラビ法典は近代法とおなじくするからたいしたものなのである。

ドラマで頭取が半沢直樹を諫めるのは、この「過剰な報復」をもって「やりすぎ」といわしめた。
もしかしたら視聴者には「興ざめ」だったかもしれないが、きわめてバランス感にたけているセリフなのである。

現代社会で刑罰法定主義がこわれたら、目も当てられない暗黒社会になってしまう。
その意味で、半沢直樹の思想は危険なのである。
ゆえに「エンタメ」としての成功があるのだろう。

もとの動画にはなしをもどすと、コメント欄には「より過激な動画をもとめる」ひとがおおいようだ。
その過激さとは、芸術監督をしたひとの顔写真を対象にすべきとか、ちゃんと灰を踏みつけるようにうながすものだった。

しかしながら、動画をつくった本人は倫理観がつよいのか、かなり「躊躇」しているのである。「同害報復」を承知しながら、なんだか「優しい報復」をしている。
だから、コメント欄で過激さをもとめるひとには、「だったら自分でやってみたら?」という感想をもつ。

いずれにせよ、これで主催側のダブル・スタンダードがはっきりしてきた。
愛知県知事の写真を燃やすのもありですよね?というTwitterでの質問(念押し)に、当の知事は「アカウント・ブロック」をして、その理由に「誹謗中傷はみとめない」と書いた。

自分以外ならいいということだし、自分の写真なら誹謗中傷になるというのは、ずいぶんわかりやすいダブル・スタンダードである。
それに、文化庁の決定に「強く対抗する」ということは、ようは「お金」がほしいのだという本音も暴露された。

何のことはない、「芸術」とか「表現の自由」というのはたんなる「箔つけ」の修飾語である。
憲法を持ちだすと、あやしいと思え、が常識になるだろう。

ところで、愛知県や名古屋市のひとたちは、住民監査請求を出さないのはなぜか?
県や市の支出が「不適正」となったとき、知事は自費で費用負担する覚悟はあるのか?

それに、この催しの収支決算がどうなのかはまだわからないが、おそらく赤字であろう。

この「赤字」をだれが埋めるのか?

どんどん下世話になっていくのは、もともと筋がわるいからだが、ある特定の「思想」をもったひとたちからすれば、話題になって壊れることが目的でもあるだろう。

しかし、ダブル・スタンダードがばれてしまえば、ただの「お粗末」に回帰するだけだ。

すると、まさかの「同害報復」だったことになる。
あんがい主催者にとって「灯台もと暗し」だったとすれば、「お粗末」な同害報復動画であることが、より一層の「お粗末」を際だたせる効果があるというものだ。

ハムラビ法典の智恵、おそるべし。

統計クイックリファレンス?

統計の教科書はたくさんあるので、どうしたものかと大型書店で悩むのだが、タイトルのお手軽さとは真逆の一冊それが『統計クイックリファレンス』だ。

600ページもある書籍が、どうして「クイック」で「リファレンス」なのかわからないけど、原著のタイトルはズバリ『STATISTICS IN A NUTSHELL』となっていて、「はじめに」では統計について既に知っている人のためのハンドブックと初めて統計を学ぶ人のための入門書との中間に位置する、と説明されている。

IN A NUTSHELL(要するに)、本書の想定読者は、
・高校や大学などで統計の入門クラスを取っている学生
・業務上あるいは昇進のために統計を学ぶ必要のある社会人
・知的好奇心から統計を学ぼうとする人々
と明記もしている。

つまるところ、統計を統計として知り、統計的にかんがえたいひとたちのための教科書であって、数学的にほじくり返すことを目的としていない。
これが、著者による本書の執筆動機で、あまたある類書とのちがい、すなわち本書の存在意義だという。

以上から、わたしが注目したいのは、二点ある。
1)想定読者が具体的に示されていること
2)本書の立ち位置を明確にしていること
である。

これは、「出版企画書」において当然の記述なのではあるが、日本の専門家による書籍だと、そうはいっても著者のひとりよがり、を多数みることができるから、あんがい実践がむずかしいものなのである。

その証拠に、数式だらけになっているのに「初心者のための」とか「統計入門」なんていうタイトルがまかり通っているし、ページ数が少ないのに統計学全体を網羅しているものもある。
さすれば表記がかたくなって、説明に丁寧さが欠けるのは必定だから、ぜんぜん初心者でも入門者向けでもない、レベルが高い教科書で読者は翻弄されることになる。

つまり、自分の知識を披露するだけで、読者の理解をうながすものではない。
こうした教科書が、なぜか日本人学者の手によるモノとしては一般的だから、アメリカ人学者が書いた丁寧な教科書の翻訳本が、いまだに重宝されるのである。

これは以前書いた「発見的教授法」の流れではないか?

すると、あらためて理系の教科書をかんがえると、世界的に売れている=学生に支持されているもののほとんどが、アメリカ人学者によるものだということに唖然とする。
そして、その特徴はどれもページ数がおおいか、分冊されるほどの分量があるということがわかる。

読者である生徒や学生に、読めばわかる、という「品質を保証している」から、どうしても説明がながくなる。
また、つまずくポイントに先回りして解説しているから、読者は安心して読み進めるようにもなっている。

何年も、何人もの生徒や学生をおしえていれば、理解のためのポイントをどうしたらわからせるかの問題を教師が問い詰めて解決してきた成果がそこにあるのである。

いまだに中学・高校レベルなら、日本人の子どもたちの理系学力はアメリカ人のそれよりも高いという。
しかし、四年後、大学を卒業するときには、ウサギとカメのレース以上に、格段にアメリカ人の学生の実力が上回るとは、日本の大学教師のよくいうボヤきである。

もちろん、入学は容易だが卒業できないアメリカ式と、その真逆をいく日本式の履修方式と落第という制度の差だという意見が多数あるけれど、自習できる教科書の品質という違いがあるとかんがえる。
これに、授業料の差も加わるだろう。

アメリカの大学の授業料は、たとえ公立大学でも年間600万円は覚悟しなければならない。
有名かつ名門という私立大学なら、年間1000万円超えは「相場」なのだ。

だから、学生はおいそれと留年なぞできないし、山積する宿題があってアルバイトに精を出す余裕すらない。
もちろん、外国人留学生には、日本的アルバイトでも就労許可はおりないから、みつかれば即国外退去処分をくらう。

つまり、四年間、勉強漬けになるようにできている。
そうかんがえると、本書を「クイックリファレンス」と訳出した、日本人学者陣の意図がみえてくる。

たかが600ページしかないのに、ちゃんと項目別に章立てされているのは「すぐに引ける」という意味であり、内容も「参照程度」ではないか、と。

なるほど、一科目だけで毎週数百ページの指定教科書を読破し、そのレポートを提出しなければ授業の受講資格を失う厳しさを体験すれば、この程度なら鼻歌まじりになるという感覚は、ただしい。

ぬる湯に浸かりっぱなしの日本の学生の将来が、心配でしょうがないのだろう。

同感である。