トランプはイエスになった

4日、世界史に残る、トランプ氏の起訴がほんとうに実行された。

エルサルバドルの大統領はさっそく、「これでアメリカは、外交による『民主主義』の(強制)輸出ができなくなった」との声明を発して、恐るべき全体主義による、法のねじ曲げを哄笑したのである。

なお、これまで「民主主義の輸出」に、軍事力も使うほど熱心だったのは、民主党政権のアメリカなのであった。

窮地にある民主党の強行は、「裏目にでる」という予想もあったなかで、じっさいにトランプ氏の支持率は急上昇し、10ドル単位の少額寄付を中心に、2日も経たずに8億円が集まったという。

どこまで信頼できるかはさておき、緊急世論調査では、民主党の支持者でさえ6割以上のひとたちが、この起訴を「政治的(策略)=司法の武器化」だと回答している。

ここで改めて、アメリカ合衆国第45代大統領ドナルド・トランプ氏の業績を挙げれば、「建国の理念」を失いかけていた共和党を、復元するだけでも大事業をやったといえる。
とっくに、共和党「主流派」は、RINO(Republican in name only:名ばかり共和党員)に成り果てていたからである。

主流派が「主流」であれたのは、ここに属するひとたちの個人的な財力だけでなく、背景にいる存在が、軍産複合体という巨大な利権構造だったためである。

要は、この利権の擁護者たちが、政治的な主導権を握っていたといえる。

それに、建国後に移民してきてアメリカンドリームによって成功したひとたちが作ったアメリカ民主党(じつは、スターリンとの政争に敗れたトロツキー派が乗っ取った)も、軍産複合体の申し子(ロシア革命のスポンサー)だから、RINOとは、党はちがえど根っこはおなじ穴のムジナなのである。

クリントン家とブッシュ家の仲がいいのはこのためだし、陰の支配者オバマの子分が、歳は違えどバイデン一家なのだ。

今回の「起訴」の背景にいる、法律家は、オバマの大統領法律顧問でホワイトハウスにいた人物が、バイデン政権で、司法省の幹部になっていて、なんと昨年12月に司法省からニューヨーク検事局に派遣されていたことも、起訴前のトランプ氏が演説会で名指し批判していたのである。

要は、黒幕のひとりに、オバマがいるということだ。

当初は泡沫候補だとおもわれていた、トランプ氏が、「まさか?」のうちにあれよと当選して、彼の正体が、軍産複合体(=DS:Deep State)をブッ壊す!ことをマジでやる、クレイジーだと気づいた瞬間から、既得権に巣くうエスタブリッシュメントたちから目の敵にされることになったのである。

どうして彼の正体がわれるのにタイムラグのような時間がかかったかといえば、テレビタレント(日本でいう「色ものコンメンテーター」)として有名だっただけでなく、彼が大富豪だったから、既得権にあぐらするエスタブリッシュメントたちは、早合点して「仲間」だと勘違いしていた。

ゆえに、その正体がしれたときには、「恨み骨髄」となったのだ。

何度も書くが、トランプ氏は、共和党の歴史だけでなく、建国の歴史につらなる、メイフラワー号に乗っていた清教徒の流れをくむ敬虔なるプロテスタント長老派の信者なのだ。

つまり、原始アメリカ合衆国人である。

だから、彼が主張している、「MAGA運動:Make America Great Again」でいう「偉大なるアメリカ」とは、建国当時のアメリカのことなのである。

日本人なら、神武天皇の時代とか、「民の竈(かまど)」の逸話が残る仁徳帝のことを指すから、気の毒にも歴史を忘れさせられたがゆえ時代錯誤に思う人たちがいる。

「起訴」を受けてトランプ氏は、自ら出頭し、犯罪者の写真と指紋をとられるばかりか、手錠をかけられた姿を見せることを希望しているという。
しかし、さすがにこれはなかったけれど、だから、逆に起訴自体が「演出」だともいえるのである。

現に、ハーバード大で半世紀も法学の教鞭をとっていて、民主党支持を表明している教授は、今回のトランプ氏の起訴を、「ありえない」といって憤慨している。
アメリカの法典に、こんな起訴ができる理屈は一つもない、と。

いかに民主党の牙城がハーバード大をはじめとする有名大学群であっても、学者としての矜持はある、ということだから、東大教授たちはこのひとの爪の垢でも煎じて飲むべきだ。

しかして、トランプ氏の行動は、先日書いた、「ソクラテス」のイメージだけでなく、聖書を座右に置いて精読している信者たちには、「イエス=救世主」がユダヤ人によって起訴されて、実質「人民裁判」となって処刑された逸話に倣っているように受け止められているはずだ。

イエスを十字架にかけたのも、ユダヤ人の要求を、暴動になりそうな気配から折れた、ポピュリストだったローマ帝国第5代ユダヤ属州総督のポンテオ・ピラトの命による。

今回の検事も、背後で「やれ」と煽るひとたちの命によっていることは明らかだ。

なにしろ、連邦検事が立件不可能とした事件を、州法しか根拠がない州検事によって、連邦法による起訴とした無茶苦茶がある。
なお、同日、最初にトランプ氏を訴え敗訴したAV女優に、なんと追加の賠償金支払命令も出たのである。

これから、トランプ氏はどんな「弁明」をするのか?しないのか?イエスはしなかったけど、ソクラテスはした。
イエスの裁判は、『福音書』にあるけど、そのうちの「マタイ伝」から、あの大バッハは『マタイ受難曲』をかいた。

全曲を鑑賞するには、ゆうに3時間を要する大曲で、「裁判」は第二部からはじまる。

忘れられていたこの曲を復活演奏した、メンデルスゾーンは、「会場から聞こえてくるのはすすり泣きだけでした」と残している。

興味深いのは、封印した起訴状の内容をマスコミにリークした当の検事が、守秘義務違反の「重罪」に問われるブーメンとなっていることだ。

共産主義・全体主義という宗教を強引に推し進める民主党に、もはやキリスト教は関係ないが、だからこそトランプ氏への支持が増えるのは、「救世主」だからなのである。

民主党の日本支部と化した、自公政権の命運をも左右し、アメリカ人だけでなく、日本人も含む西側に多大な影響を与えることは間違いなく、これを横目に、BRICsを中心とした第三世界は、ドル経済圏から分離して、「別世界」を構築しつつある。

世界史が大きく動き出している。

銀行の不便は解消しない

店舗窓口に赴くことが必要なのは、いまや「諸手続きだけ」になっている。

たとえば、自動車ローンの申し込みも、ネット窓口しかないので、店舗に行ってもなんにもならない。
むしろネット画面を通じた、手続きの方法が理解できることが、ローンを得る条件になっている。
だから、このサイトの設計とデザインが、どんなによくできているか?というユーザー・インターフェース自体で、銀行の評価がされるのだ。

あんがいと、メガバンクのはイマイチなので、それがわざとで行政からの指導なのかは知らないけれど、そこに地方金融機関のニッチな存在空間があるともいえる。

前に書いたように、銀行は、本当に「貸してなんぼ?」の社会的機能、すなわち唯一の、「信用創造」機関だから、貸し出しをしない限り存在理由がない。
ここが、証券会社や保険会社と決定的にちがうのである。

住宅ローンを借りると、担保がなければ生命保険に加入して、受取人を銀行名にされる。
経済をあれこれいう人が、住宅産業は自動車産業と並んで、裾野が広い重要な産業だというけれど、そんなひとにかぎって、「金利の変化」を云々いうのである。

もちろん、金利負担は住宅ローンでも大きいので、借りる側からしたら低いに越したことはない。
ならばどうして、強制的な生命保険料の負担にも言及しないのか?
マイホームを得るためのコストしてかんがえれば、低金利のいまならよほど生保の掛け金負担の方が重いだろうに。

どんな事業が将来にわたっての事業性があるのか?を厳密に予想できるひとはいない。
これの元にある、どんな技術開発が将来の金のなる木になるのかも、誰にもわからない。

バブルの頃には、「プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM)」という、詐欺まがいの方法が流行って、大手コンサルタント会社が、その気になった顧客から大枚を巻き上げていた。
「花形」、「金のなる木」、「負け犬」、「問題児」なる、グラフ化した象限にして説明していた。

問題なのは、この「象限」の区切りをどこで線引きするか?にあって、それが実務では大変困難なのだ。
つまり、「ありき」からの逆算をして、恣意的に表現するしかないことへの気づきが、「騙し」だとなったのである。

似たような話は、「管理会計」の教科書にある、「損益分岐点売上」というもので、算出には、費用を、売上高と連動する「変動費」と、連動しない「固定費」に分解する必要がある。
それで、多くの公認会計士先生が、多くの本を出しているけど、どうやって実務で使うのうかの事例説明がないのは、そんな会計士に任せる経営者がいないからである。

銀行の話に戻すと、リーマンショックで世界が動揺したとき、我が国の「国産金融機関」はあんがいと無傷だった。
バブル崩壊からはじまった、金融危機(主に「不良債権問題」)のため、を隠れ蓑に、「ノーパンしゃぶしゃぶ」なるスキャンダルをもってして、戦後最大の行政改革だった、「大蔵省解体」がシラっと実行されたのだ。

これで、我が国の経済界もその気になっていた、「ジャパン『アズ』ナンバーワン」を、「ジャパン『イズ』ナンバーワン」にするという、我が国金融機関の世界制覇の夢は潰え、逆に、金融鎖国の中に押し込められたのである。

この一代不幸の中のもっけの幸いが、リーマンショックだったというわけだ。

しかし、全国あまねく信用創造の恩恵が得られるようにしていた、護送船団方式は廃止され、金融機関の保護も薄くされ、さらに、金融機関の株式を外国人も買えるように開放されることになった。
そして、日銀法を明治いらい初めて改正して、政府からの独立を果たした。

これら一連の、グローバル化が実施されたら、我が国銀行の収益力がなくなった。
欧米型の銀行制度が馴染めないのが、その原因なのである。
どうして馴染めないのか?といえば、日本の歴史がそうさせているからだ。

我が国に生まれて発展したのが、「両替商」で、「銀行」とは程遠い事業をやっていた。
利用客の現代日本人でさえ、「両替商」と「銀行」のちがいをはっきり認識できないし、江戸と大阪の両替商が扱った「為替」と、銀行の「小切手」のちがいも、スラスラ説明できるひとは少ない。

看板には「銀行」と書いてはいるけど、日本の銀行は欧米の「銀行=BANK」とは別物なのだ。
それが、平成からこのかた、欧米の銀行とおなじ扱いを受けて苦しんでいる。
ならば、日本人ではなくて外国人が日本の銀行を経営すれば良いものを、とはならないのは、そこまでしたら、「植民地」だとバレて、厄介だからだ。

日本は独立国で、自分たちで決めている、と思わせておくのが、なによりも都合がいいのである。

そんなわけで、コスト削減「しか」銀行経営者はやることがなくなって、店舗費用の削減をやって、諸手続きの業務さえ、予約制にするという愚挙がまかり通っている。

キャッシュカードの再発行とか、ネットバンキングの再開手続きといった、ベーシックなことも、ネットで来店予約せよと強制されて、店舗になにを持参すべきか?の案内は、ただHPを見ろと「だけ」あって、そのページがどこだか見つからないのである。

これが、わが国の、「リテール(個人向け)・バンク」の、おそろしく荒っぱい、サービス設計なのである。

自社が何屋かを忘れたひとが、エリートだという非喜劇は、ただの社会的迷惑なのである。

ウクライナの敗北をどうする

なにもネット社会になったから、すべての投稿が記録される、「デジタル・タトゥー」になった、ということだけではなくて、「印刷」ができるようになった人類は、過去の印刷物を読み返せば、そこにある文字が自動的に語りかけてくるものだ。

それが、「著作権」と「文責」というものを生んだ。

著作権として保護されるのが、著作物の「権利」だから、もう一方には、「責任」があるのだ。

この点でいえば、アメリカ政府の政府刊行物(「軍」も含む)には、一切の著作権がない代わりに、機密指定があるし、その機密も最長75年で解除されることになっている。
なので、アメリカ人は一般的な著作物である政府作成の文書ならなんでも、無料でコピーできるし、作った側の政府も、コピーされてそれが一般に広がることを歓迎するのである。

一方で、アメリカ人には無料だけれど、外国人には有料にする、という発想も生まれる。ただし、その区別のための事務が煩雑なので、外国人であろうが実質的に無料で閲覧もコピーもできるのである。

対して、とち狂った日本政府は、政府刊行物に著作権を設定して、コピー・フリーという概念を持っていない。 一体全体、これらの刊行物は、税金でつくられていようが一切気にしないのである。 むしろ、これを「実費」以上の値をつけて売ろうという姑息でもって、平等を主張する。

政府のお墨付きがある文書が欲しいならおカネを払わないといけないのは、欲しくないひととの平等を維持するためという、あり得ない理屈となる。 ほとんど、二重課税に等しいのだ。

「白書」とか、「青書」といったものは、無料で配布して、コピー・フリーにするのが、国民の情報源としては当然のことになるのに、だ。 ついでに、わが国の機密文書には、「永久」もある。 なお、公文書そのものを保存するにあたっては、永久ではなく廃棄することにもなっている。

ただし、アメリカの例でも、もしも日本政府も著作権を放棄したなら、今度は、「文責」が免除されるという甘さが生まれるかもしれないから、その内容品質については、議会のチェックが欠かせない。 「ゴミ」を税金で生産するな、というわけである。

さてそれで、ウクライナの戦況が、いよいよ最終局面になってきて、はなから存在していない、ウクライナ軍なる武装組織(実体は、アゾフ大隊を中核とする、「私兵」である)が、降伏寸前に追い込まれている。

「ロシア軍の劣勢」をとにかく書き続けてきた、西側メディアの化けの皮も同時に剥がされる時となる。

テレビやラジオは、どうやって画像や音声を消去するのか?に余地はあるが、新聞と雑誌にはこれができない。 日本の新聞社は、後で「縮版」してまとめたものも発刊するけど、こちらは何度か記事を改竄した実績がある。 とはいえ、「本紙」は、もう改竄できない。

そんなわけだから、メンツ丸潰れになるのは時間の問題なのだけど、ウクライナの負け方が劇的なら、それで逃げ切りを図るかもしれないのである。

最初から、「オルガルヒ」という、欧米グローバル資本と組んで急成長した新興財閥が、俳優だったゼレンスキー氏の背後にいた。 彼が主演した、人気ドラマは、熱血高校教師が大統領になる、という話で、こ番組のスポンサーも、テレビ局オーナーも、同一人物で、しかもアゾフ大隊の所有者であった。

なので、残念ながら、ゼレンスキー氏の「終演=終焉」も近づいている。

すでに、国外逃亡が予想されているけど、受け入れ国の候補は、イスラエルが有力だという。 しかし、このひとが、安穏として「回顧録」とかを書こうものなら、裏側のひとたちには大変なことになるので、かなりの確率で命がないという予想もある。

これからどうなるのか?は、わからないけど、少なくともロシアにとっては、所期の目的を達成したことになる。

それでもって、よせばいいのにバイデンのアメリカ民主党が、ロシアに対抗し続けるなら、今度は、我が国の北海道をはじめとした安全が、あり得ないほどの危険にさらされる。

中・露からの同時攻撃となったら、我が国は、あっという間に北はロシア領、南は中国領になって、せいぜい首都圏がアメリカの保護区になれば幸いだ。 なんだか、あたかも、統一地方選挙での売国自民党やらの勝利を待っている感のある、不気味な様相になってきている。

外国人へ軍事教練をするニッポン観光

我が家のJR最寄り駅から、ゴミ箱が完全撤去されて、駅前スーパーにもゴミ箱がない状態があるから、不要なレシートとか、売店で求めた清涼菓子の包装フィルムとかのゴミを捨てられない。

善意からの発想だとしたら、大まちがいで、単なる社会的イジメである。

きっとこんな阿呆なことを発想したり、それを裁可できる神経がある人物たちは、子供時分に陰惨かつ周到なイジメをやっていたにちがいない。

それでもって、自分は頭がよくて優秀なのだと思いこんだのだろう。

かつての日本の教育に、人物をつくる、という、世界に類をみない崇高な方針があって、それがまた下層民すら当然としていたのは、下層民にも判断力があったからである。

なので、これが武士たちの態度を堕落させずに防止した。
「恥ずべきこと」には、本当に恥じたのだ。
「恥じ」とは、社会的な評価のことなので、名誉と直結する。

武士が名誉を命がけで守ったのは、上辺だけの見栄ではなく、末代まで、という永遠の汚名に耐えられなかったのである。
つまり、武士たちは、未来を見つめていた。
自分の血筋が、未来永劫続くことのイメージは、天皇家という「本家」が示す、物理的証拠による。

その未来へのイメージの原点に、古典があった。
江戸初期からしても700年前になる、『古今集』やらが示す文化と教養の高さが補強したからだ。

そうやってみると、現代は、驚くほどの「退化」をしていて、現代人にとっての未来とは、たかが数十年後(自分が生きているまで)のことで、1000年どころか100年先を見ることもできなくなった。
46億年の歴史がある、地球の将来を、そんな短期の目線だけでみて、環境問題を云々する愚かさは、ただの偏向した政治活動だとまだ気づかない。

しかし、富豪たちがやりたい、全体主義(世界政府の樹立=国連)のためには、個人主義が染み着いた欧米人の再教育が必要なのだ。

そのために、日本への旅行が推奨される。

円安とこれまでのデフレで、世界価格から乖離している日本の物価水準は、欧米人からしたら「別世界」なのは当然で、清潔で安くて美味しい日本の食事も多大な魅力を提供しているし、本来ならば、観光資源になりようのない、治安のよさ、も、欧米の水準からしたら、「別世界」なのである。

だが、気づかない「別世界」がもうひとつあって、それが、「全体主義軍事教練の場」としての、日本という時空なのである。
この意味で、欧米の観光客は、北朝鮮にわざわざ行かないで済む。
外貨をなんとしても得たい北が、日本海へミサイルを飛ばす理由になるのだ。

さてそれで、欧米からの観光客は、所得が高い人ほど、日本文化に興味がある、という強い傾向を示している。
ただし、超富裕層は、彼らの生活水準を満たす宿泊するに足るレベルの宿泊施設が皆無なため、日本には来ない。

もちろん、こうしたひとたちは、たとえば、民主党オバマ政権時の元国務長官で、いまは気候変動大統領特使をやっている、ケリー氏のように、どこへ行くにも必ずプライベート・ジェットを利用する。
残念ながら、我が国の鉄道駅ロータリーにみられる、自家用車を排除する設計がふつうのように、国際空港でプライベート・ジェットの駐機場を完備していることは珍しい。

その中で、「富士山静岡空港」は、成田と羽田にとめられないで追い出された機体を受け入れている。
彼らは、ここからヘリで、修善寺温泉の高級旅館を貸し切るのである。
このパターンでは、我が国における全体主義軍事教練を受けることにはならないことに注視したい。

ふつうの大型旅客機で来日するひとたちは、必ず全体主義軍事教練を受けさせられるのだけれども、もちろん本人たちには無意識での刷り込みとなっているから、より高い効果を上げるのだ。
それは、日本人一般の中に溶け込むことで、自然に習得させられることになっている。

日本人の一般人たちが、だれでも子供時分から受けている学校での集団教育(=基礎的軍事教練)が、その特殊性の最たるものではあるけれど、全員がこれに従う社会を形成しているので、多勢に無勢の欧米人は、「郷に入れば郷に従え(When in Rome、do as the Romans do.)をあらかじめ心得ているので、素直に従うのだ。

地下鉄やらの公共交通機関を使って、渋谷のスクランブル交差点を見学・体験することを皮切りに、日本滞在中の彼らは、あらゆる生活場面と観光地で、全体主義の軍事教練を、楽しくかつ緩やかに体験し、習慣化によって身につけるのである。

ゆえに、彼らは帰国後、恐るべき「逆カルチャー・ショック」にさいなまれる。
真面目でコツコツやるタイプのひとほど、母国でのガサツで無秩序な生活が、生理的に耐えられなくなるのである。

そして、それが本人には、「日本中毒」という自覚をもたらして、日本再訪を夢見るようになるのだけれど、じつは、全体主義軍事教練の成果なのである。

トランプは、ソクラテスを目指す

エイプリルフールを直前に、民主党地方検察官は業務終了間際の裁判所に駈け込んで起訴状を提出したので、このトップニュースは、ニューヨーク現地時間の夜になった。

あろうことか、起訴状が封印されているために、トランプ氏本人も、その代理人たる弁護士も、いかなる罪で起訴されたのかも判らない状況にある。
もちろん、マスコミもわからない。

なので、今回の「ニューヨーク州法」による起訴が、なにを立件したのか?まったく不明なままなので、とにかく「憶測ばかり」となっているのである。

連続セクハラで辞任した、民主党次期大統領候補の筆頭だった、クオモ前ニューヨーク州知事でさえ、この起訴はあり得ない「司法の武器化だ」と声明を出した。

ちなみに、AV女優への口止め料の出どころが、選挙資金だったための選挙法違反だと一部で報道があるが、とっくのとうに、連邦検事(連邦選挙法に基づく)が立件を断念していて、全米選挙委員会も不問とする決定をしているのである。

もっと不思議なのは、トランプ氏をゆすったこの女優は、名誉毀損裁判で敗訴し、そもそもが「嘘だった」と告白したから、なんでおカネが動いたのか?もわからないので、おカネを払った当時のトランプ氏弁護士が一番怪しい。

その弁護士が、今回の検察側証人になっている。

州法でしか起訴権限がない、州検察官が、なにをもって起訴ができるのか?当該の陪審員以外だれにもわからないし、陪審員は本件を口外してはならない立場にある。

この事実をしって、いきなりわたしはプラトンが書き残した、『ソクラテスの弁明』(紀元前399年春に死刑判決がくだった)を思いだした。

中学生ぐらいから高校生の6年間は、いわゆる「ティーン・エイジャー」として、だれもが人生におけるもっとも多感な時期にあたる。

これを、「青春時代」というのは、薹(とう)がたって食えないおとなが嫉妬していうのであって、とうの本人たちには通じない。

いい爺さんたちが、「まだまだ青春だ!」とか「一生青春だ!」と意気をあげるから、青春時代が怪しくなるのである。

この意味で、森田公一とトップギャランの名曲、『青春時代』の歌詞(作詞は阿久悠)は、正しいから、爺いになっても歌えるのだ。

多感な10代で、ちゃんとしたおとなが選んだ、当時の『新潮文庫の百冊』を、どれから読破するか?は、あんがいと悩みのタネだった。
いまでは、すっかり入れ替わった感があるのは、売りたいというおとなの事情が強くなったからかもしれない残念がある。

例えば、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を、いい歳の爺さんが読んでいたら気持ちが悪い。
一生の内で、10代だから読んでおかないといけない文章がある。

現代国語の教科書のごとき、「悪文集」のことではない。

これを逃すことの「損」は、その人の一生で、本人すらもう気づかないのだ。

『ソクラテスの弁明』が、「新潮文庫の百冊」に入っていないのも不思議だ。

日本の「世界史」という科目は、戦後GHQによってつくられたから、ギリシャ・ローマをさんざんやるけど、我が国にも多大な影響を及ぼした、蒙古帝国(モンゴル)のことは教えない。

わたしは司馬遼太郎の読者ではないけれど、彼は、大阪外語大蒙古語科を卒業している。

読書離れが日本だけでなく世界的に進んでいるのは、目先の快楽提供をもって、脳の言語中枢を使う読書を面倒なものにする愚民化教育が全世界で実施されているからだ。

いま、肉体と精神のちがいを訴えて、LGBTQを最大優先する、冗談では済まない社会分断キャンペーンが政治的に行われて、とうとう母校の小学校で銃を乱射するひとが現れても、この犯人こそが「被害者なのだ」という、殺人擁護のもう一つの倒錯が報道姿勢になっている。

理由なく殺された被害者の人権よりも、犯人の人権を守る、というのは、正しい裁判を受けさせるということでの話で、犯行が正義ではない。
まさに、死人に口なしなのは、唯物論によって、死人は「物体」に過ぎなくなったからである。

これが嵩じれば、非支配者も生きながらにしておなじ扱いになるのは歴史が証明している。

これを、家畜化という。

さてそれで、70歳のソクラテスは、ある日突然「神を冒涜した」と訴えられた。

「共和制で民主主義」があった、当時のアテナイでは、500人ものひとたちが、裁判当日のくじ引きで陪審員になって、有罪か無罪かを決めて、有罪ならば、その量刑も決める仕組みであった。

原告と被告は、これらの多数を前に、起訴理由と自己弁護のそれぞれを時間内で弁論をしないといけない。
なお、当時は、検察官も弁護士もいないけれども、なによりも、キリスト教がない。

アテナイ人がいう、冒涜された「神」とは誰か?

21世紀のいま、全世界で我われがみている光景は、なんだかソクラテスの裁判のようなのだ。
その「相似」が、絶妙なのである。

第一に、共和制民主主義という共通は、権威と世俗的政治権力の両方が、主権者たる市民に帰属するために、歯止めが効かなくなることがある。

第二に、効かなくなった歯止めは、かならず暴走して、極端に走り、歴史的汚点をつくりだすものの、誰がやったのか?については、「市民ゆえ」に、個人を特定できないから、これがスパイラルとなって、無責任がさらなる無責任をよんで、破局を迎えるのである。

しかして、ソクラテスが毒杯を飲んだのは、刑とは別の理由だった。

ソクラテスの影響力は、欧米人の教養の基礎にあるから、欧米人でこれをしらないものは、無教養のそしりを免れない。
トランプ氏は、したたかにも、ソクラテスを彷彿とさせるように振る舞うだろう。

けれども、彼は決して、従順な羊ではない。

起訴からすぐさま、声明を発して、不当な起訴をした担当検事、その背景のバイデン、そして民主党議員を一人残らず排除する、と宣言した。

連邦下院のマッカーシー議長は、担当検事の背景を議会捜査の対象とすることも表明している。

何度もいうが、バシバシの戦闘(事実上の内戦)が開始されたのである。

最後に、ソクラテスを殺してしまったアテナイ人たちは、冷静になって目が覚めたら、ソクラテスを起訴した人物たちを、「裁判なしで処刑した」のであった。

これを、なぶり殺しというのは、自分たちの無責任の怒りの矛先が、自分たちではなく別の一点に集中する力学が働くからなのである。

毎日がエイプリールフール

ヒトラーの有名な一言に、「嘘も100回いえば真実になる」がある。

この3年間、毎日、連日連夜の嘘報道で、とうとう疫学的に今回の対象になる「病原体としてのウィルスの特定と発見がされないまま」で、パンデミックがあったことになった。
あのWHOは3月28日、「健康なひとや子供にはワクチンの追加接種を推奨しない」と、いまさらの手のひら返しをして、エイプリールフール前に逃亡を図っている、

なんにでも追随する日本政府は、3月13日に、個人の自由だったマスク着用が、個人の自由になる、という不可思議なことを決めたけど、花粉症が例年よりひどくて、多くのひとがマスクをはずせないままでいる、らしい。
サンプルが300という、小学生アンケートで、小学生たちがマスクをはずせない理由の第一が、「自分の顔に自信がないから」という、わけわからんニュースになっている。

我が国では、統計を教わらない世代が、30年間分も層になっているから、まったく一世代に該当する。
中学の数学カルキュラムのことでもあるから、文系・理系を問わない。
こうした「無知」をわざとつくって、30年も社会に送り出し続けたら、予定通り社会の「現役層(世代)」になってしまった。

かつての現役層たる高齢者には、テレビや新聞のいったり書いたりすることは「正しい」という刷り込みがあるので、ざっくり60年間分の「分厚い層」が、疑問なく報道を信じてきたので、WHOの裏切りを今度はにわかに信じようとしないのは、それだけ洗脳が深いということだ。

すると、残りの若い20年間分の層に期待するしかないけれど、大人たちがこの体たらくだから、もっと変なことになったのは、必然なのだ。

まことに残念ながら、従来から「風邪をこじらせて亡くなる」ひとがいかほどの数でいたのか?という話と、今回の、「感染による死亡者」との統計的な比較がなく、「風邪は万病のもと」という意味の風邪とコロナとの区別がつかないのも、利権の甘い汁に群がる医師会のお陰でもある。

もちろん、「PCR検査で陽性」だからといって、「感染」とはいえないものを、あろうことか医師会がこれに反駁せずにむしろ積極的に受け入れたのは、医学ではなく経済学の優先があったからだ。
つまり、そうすれば儲かる、と。

さらに、「m R N Aワクチン」なる、偽薬をもって、これを無知だが善良な国民に、三度も四度、場合によっては五度も「自主的」に打たせて、医師と製薬会社に莫大な利益をもたらしたばかりか、重篤なる感染症としての隔離病床を確保した病院へは、億円単位の補助金をばら撒いて、「共犯者」としたのである。

今後、大問題になるのは、エントロピーの法則による、未接種者への「間接的接種」と同義の、輸血だ。

薬害エイズは、血液製剤の原料である献血等で得た血液そのものに、エイズ感染者の血液が混じっていたのに排除しない、という人為で起きた。
これとおなじとはいえないほど深刻なのは、国民の八割もが接種済みという状況が作られたからだ。

よって、輸血の材料の血液には、「mRNAワクチン」が混じっている。

そんなわけで、未接種者は、輸血を受けることに抵抗感が生まれる。
国民の二割しかいない、確信的未接種者の確信とは、この薬への「疑念」のことをいうからである。

時間は進んで、日本政府が締結した、アメリカの製薬会社との契約内容の情報開示請求が、「不開示決定」となって、行政訴訟がはじまる。
また同時に、製薬会社が75年間不開示としてアメリカ政府と合意があった、「副作用で起こり得る病状」についても、日本政府への情報開示請求がされている。

これら二つの情報は、すでにアメリカ本国で、裁判による「開示命令」となって、とっくに公表されているから、日本政府がこれを頑なに拒否することは、実質的に意味がなく、ただの悪あがきなのである。
だが、独立国としての我が国裁判所がどんな判決を出すのか?は、また別、という問題がある。

もちろん、我が国が、「独立国」であるという前提も、嘘であるけど、アメリカにおもねる植民地の奴隷国としては、この場合、独立国である、とした方が宗主国アメリカのためになるばかりか、国民の健康よりも自身の利益と保身を優先させたひとたちがまた、情報開示を徹底拒否するように行動するにちがいない。

もはや、明治期の「大津事件」であったような、大審院のような裁判すら期待できないのか?

なお、政府が公式に出した、「不開示決定」の決定事由とは、そもそも当該企業との「秘密保持契約」に基づくものだとして、開示すれば当該企業の事業に影響を及ぼす懸念がある、としている。
国会は、行政が国会での議論なしに勝手に「秘密保持契約」を結んではならない、といった法案を通すべきだが、こんなことができたのは、圧倒的多数の与党の承諾が「あった」からだから、どうにもならないのである。

アメリカで開示された、秘密保持契約では、どんな薬害が生じても、製薬会社は免責される、というものだし、さらに、あらかじめ懸念される副作用には、1000を超える病名が記載されていた。

これらはもちろん、英語で書かれている。

英語がわからない日本人を大量生産するために、学校英語のカリキュラムが作られていることが、改めて確認できるが、A.I.が自動翻訳してくれる時代を政府は無視して、一方で、DX(デジタルトランスフォーメーション)というから、支離滅裂なのである。

そんなわけで、日本では毎日がエイプリールフールの状態が、しばらくの間ずっと続くだろう。

いつまでか?

それはもう、宗主国のアメリカで、トランプ派が完全勝利するまでに決まっている。
そのトランプ氏が、やっぱりエイプリールフール直前に起訴されて、アメリカおける「第二次シビル・ウォー(内戦)」が事実上はじまった。

バブルの犯人は日銀

昨日の、『謎解き!平成大不況-誰も語らなかった「危機」の本質』の話題の続きである。

誰が犯人だかわからない、ふつうの「サスペンス・ドラマ」なら、たいがいの犯人は善良な人物を演じることになる。

これがふつうでなかったのは、『刑事コロンボ』だった。
なにしろ、番組のはじまりが、殺人の現場だったから、視聴者は誰が犯人かを最初からしらされている。
それを、あたかもズボラでみすぼらしい中年の刑事が、頭脳でもって追い詰めていく。

視聴者は、犯人の立場で楽しむこともできるし、コロンボ刑事になったつもりで楽しむことができた。
ただ、ひとの死が伴う話なのに、その死がなんだが軽かったのである。
被害者の影が薄かったからである。

もちろん、日本の「刑事モノ」も、犯人逮捕で終わるけど、きっとそのまま起訴されて有罪になることに誰も疑問を挟まない構成になっているし、犯人のその後の人生に誰も興味を払わない。
ましてや、「検察官モノ」なら、もっとはっきりしていて、刑事裁判の有罪率99%以上という国柄に合致している。

どうせ娯楽番組だから、「社会派」というドラマにも、リアルな表現をみない。
それが理由かしらないが、「行政訴訟モノ」にあたるドラマは皆無だ。
じっさいに、我が国の行政訴訟は、よほどのことがない限り行政側が勝訴することになっている。

それゆえに、滅多にないことはニュースのネタになるので、行政側が敗訴したらニュースになる。
けれども、負けた行政側の責任者が何らかの処分を受けることはニュースにならない。
こうして、責任が有耶無耶の仕組みから、無責任がはびこるのである。

高度成長期、クレイジー・キャッツが演じた、「無責任モノ」が人気を博したのも、終戦後に源氏鶏太が書いた読み切りの人気連載小説、『三等重役』があったように、いつしか日本文化の裏には、無責任がしっかり根付いているのである。

戦前に計画経済を強力に推進した、岸信介を筆頭にした「革新官僚」の集団は、「敵性たる資本主義」をいまの日本人より深く理解していた。
それで、財閥から財閥の所有者たる創業一族を排除して、株式を持ち合い、社内昇格によって従業員を経営者にまつりあげ、労働者も企業組合に押し込めたのだった。

財閥の所有者を追い出す手段が、保有株式の強制的な企業への販売で、これによって、持ち合い、としたのは、それでもって、株の配当金を少なくして、拡大総生産に邁進させるためだったのである。

ゆえに日本企業は、欧米企業経営者から見たら奇妙にも、シェア獲得に邁進して業界内の地位確立にこだわり、あろうことか利益を後回しにする行動が、「体質」にまでなって、ついに欧米企業を圧倒して、破綻に追い込んだのだ。

これにはちゃんと成功事例としての前例があった。
それが、スターリンの五カ年計画だし、ヒトラーのドイツが成し遂げた、驚異的な経済成長だった。

戦後の発展には、戦前の「総動員体制」という仕込みがあってのことという理由がある。

これが、人間の成長にもいえるのは、若いときにどんな経験を積むのかによるからだ。
一国の経済運営の要となる国家機構に、財務(大蔵)と産業政策がとにかく目立つ。

しかし、これらは、「目くらまし」に過ぎず、本丸は中央銀行の「信用創造」にある。
満州で成功体験を積んだ岸信介は、近衛内閣で商工次官から商工大臣になっていて、戦後は首相になった。

阪急をつくった小林一三商工大臣を辞任に追い込むことをした次官だったのは、有名な話だ。
近衛内閣と刺し違える覚悟の小林に肩透かしを喰らわせて、岸自身が改造内閣で商工大臣に就任した。

それで彼は、財務と産業政策を掌握したかに見えるが、じつは中央銀行の「遣い手」だった。

中央銀行は、ナチス・ドイツのシャハト博士(ライヒスバンク:当時のドイツ中央銀行総裁)の薫陶をドイツ留学で直接受けた一万田尚登(いちまだ・ひさと)が、「法王」といわれるまでに、戦後の日銀総裁として君臨できたのも、GHQとそのエージェント岸と吉田の後ろ盾あっての話だ。

そうやって一万田は、日本のおカネを支配したのである。

さて、ここでいう「おカネ」とは、経済の血液にあたるモノ、という意味である。
なので、心臓や肺、あるいは肝臓のように、目立つものではないけど、血液がない動物は生存ができないので、重要度でいえば比較にならない。

問題は、日銀がコントロールする対象が、一般人にはわかりにくいから、話題になりにくいことだ。

それがまた、彼らには都合がいいし、財務や産業政策の派手さが、カモフラージュしてくれる。
なお、あたかも意味があるごとく見せる、「公定歩合:金利の設定」とか「通貨流通量の加減:金融緩和・金融引き締め」も、「お札の印刷」さえカモフラージュなのである。

日銀がこっそりやる、一国経済への最大の影響力発揮の手段は、「窓口指導」なのだ。

これは、市中の銀行一行ずつ、すべてに対して毎月行うもので、その内容は、「誰に:どの業界のどの企業」、「どのくらい:貸出量」をせよ、という事実上の命令だ。
各行は、これに従わないと、資金割り当てが減らされるから、頭取の使命は日銀窓口指導の完全なる履行にある。

いまは、金融庁の「検査マニュアル」も加わって、銀行は股裂刑にさらされている。

そこで、指導先が、GDPに含まれる業界なのか?含まれない業界なのか?は、各行の判断を超える。
各行は日銀の指導(=命令)の通り、GDPに含まれない、不動産や株・証券への融資に邁進して、予定通り資産すなわち土地や有価証券の値上がりバブルになったのだった。

含み資産価値が上がることで、財布が緩んで消費も旺盛になって、これが史上空前の好景気となった。
しかし、誰にでもわかるように、値が上がったのは、「含み資産」だったから、土地や有価証券の「含み」が減少したらどうなるのか?

あの時代を思いだせば、一般生活物資の値上がりは「なかった」のだ。

そうやって、含み益があっという間に「含み損」に転じて、信用創造で貸し出していた銀行は、軒並み「不良債権」の山を抱えるようになったのである。

「信用創造」は、GDPに含まれるものだけに有効なのだ。

けれども、こんな単純なメカニズムを日銀のエリートが知らないはずはない。
にもかかわらず、知らなかったことにして、30年以上が経ったのである。

黒田元財務官の総裁就任で10年もやった、異次元の金融緩和がスカったのは、はじめから有効なはずのない、日本経済沈没のための欺瞞であり、やっている感だけのパフォーマンスであった。

GDPを信じてはいけない?

主たる経済指標の中で、誰もがもっとも重視しているのが、「(名目)GDP」である。
「名目」と「実質」の区別があるのは、インフレを考慮するかしないかのちがいで、「名目」の値をインフレ率で割ったものを「実質」とよんでいる。

こうした調整をする前の、むき出しの数字が、「名目」なのだ。

むかしは、「GNP(Gross National Product:国民総生産)」が主たる経済指標だった。
それが「GDP(Gross Domestic Product:国内総生産)」になったのは、統計数値の取得が困難になったからだった。

GNPの「N:国民」とは、日本をみるなら「日本人(国籍)の総生産」のことであるから、外国で日本人が生産した分を足さないといけないし、日本国内で外国人が生産した分は引かないといけない。
むかしは海外での分や、国内でも外国人の比重が軽かったから、「国籍別」でよかったけれど、だんだんとそれぞれの区別が困難になったのだ。

それで、「D:国内」という、国境の内側での「総生産」にした。

以来、我が国では、「アメリカに追いつけ、追い越せ!」という、誰が言い出しのかよくわからないスローガンが、あたかも全国民の目標のような扱いを受けたのである。
「軍事費を軽くして、国力を経済成長に特化する」という、吉田ドクトリンが戦後の「平和国家ニッポン」の国是として語られる。

しかしながら、「吉田ドクトリン」という言葉を、当の吉田茂は生前に述べたことはない。

まったくもって、後付けの作られた政治用語であるのに、その政治的な価値から、あたかも「あったこと」のような扱いをして、ヒトラーがいった、「嘘も100回いえば真実になる」のごとく、もう吉田ドクトリンを否定するものがいない。

漫画しか読まない、孫の麻生太郎も、『ゴルゴ13』で、さいとうたかを先生が描いてくれないものは、頭の中に入ることはない。

ヨーロッパが第一次大戦で疲弊したからいい出した、海軍軍縮会議に、日露戦争の借金返済がのしかかる我が国には「渡りに船」だったけど、「総トン数」という指標をもって、国論は二分した。
けだし、当時の世界は、相変わらず「弱肉強食の帝国主義」の常識があったから、貪欲な白人国家群を相手にせざるを得ない我が国の国防は、恐怖によって「カネの問題じゃない」になっていく。

かくも、「独立」とは、いまも大変なことなのだ。

サンフランシスコ講和会議を経て、平和条約を結び、日本相手の第二次世界大戦の終結になったけど、同時に結んだ、「日米安全保障条約」と、この条約第6条に基づく、「日米地位協定」という盤石なる、「不平等条約」で、ペリーと結んだ「日米和親条約」すら平等に見える、実質植民地としてわが国は規定された。

アメリカ人には、ハワイ王国を簒奪した実績があるから、かならずやハワイの事例を我が国に当てはめているはずだ。
なので、戦後の我が国の学校教育で、ハワイ王国滅亡の歴史は絶対に教えない代わりに、正月に芸能人たちをハワイに行かせて「憧れ」だけを煽るのである。

占領中の昭和23年、岡晴夫の明るい美声でヒットした、『憧れのハワイ航路』(作詞:石本美由紀、作曲:江口夜詩)とは、真珠湾攻撃を日本人の記憶から消し込んで上書きするための、プロパガンダであった。
もちろん、アメリカ人に真珠湾攻撃を忘れさせるようなことはしていない。

そんなわけで、アメリカの植民地になったのを、みごとに隠蔽したのが、高度成長期という欺瞞だった。
アメリカは、本気で日本を不沈空母にして、ソ連と対抗するための資金を日本人につくらせたから、稼いだドルは全部アメリカ国債にして貢がせ、「おこぼれ」を日本人の生活向上にあてたのである。

働いても働いても、その割には暮らしはよくならなっかたのは、おおかたの富がアメリカに吸い取られたからだ。
しかし、吉田ドクトリンというありもしない幻想に取り憑かれ、あたかも日本は独立国だと、外国に防衛を任せていながら信じるのは、知能を疑われても仕方がない。

征服者マッカーサーが、「日本人は12歳の少年」と上院公聴会で証言したのは、「白痴」だという意味だ。
なお、彼は、日本の戦争目的は、「完全なる自衛だった」と正しく証言もしているから、上の言葉も耄碌してのことではない。

精魂尽きたところへ、20万人も公職追放したのは、実質的な指導層の断頭刑に等しく、分断工作は、敗戦利得者を優遇することで完成し、日本人を家畜化した。
それを、「エコノミック・アニマル」と呼んだのである。
だが、残念なことに白痴化した日本人は、これを褒められたとして、あろうことか自慢するに至る。

こうしてできあがったのが、「G N P ➡︎ GDP神話」だ。

しかし、GDPには重大な欠陥があるのに、経済学でいう古典派も、新古典派も、あるいはケインズ派からマルクス派も、この欠陥を指摘して、修正させることをしないで放置している不思議(わざと)がある。
その欠陥とは、金融サービスとか、不動産取引(建設業も含む)といった、高度なサービスが、GDPの計算式に「含まれない」のだ。

バブル崩壊後すぐに、公共事業に150兆円を注ぎ込んでも、GDPがまったく増えなかったのは、計算式にない分野への重点投資だったから当然だ。

わが国も含めた、いわゆる先進国の先進たるゆえんは、その時々の一国経済が、相対的に先進的産業によって
国民が豊かな暮らしをしていることにある。
70年頃から、先進国経済は、これらGDPの計算に含まない産業が、一気に高度化をはじめたけど、その原因は、実用化が始まったコンピュータの利用が影響したのであった。

世の中は、半世紀前からとっくに、「デジタルトランスフォーメーション」している。

特に金融サービスの核をなすのは、むかしから銀行業による「信用創造」にある。
じっさいに世の中のおカネが増えるのは、製造物=製品がたくさんできて販売するからでも、中央銀行(日銀)がおカネを印刷するからでもない。

世の中の「おカネ」とは、通帳に書き込まれる「数字」でしかないから、現物のお札はわずかしかないのだ。

江戸時代から明治に銀行ができるまで、日本人は「宵越しのカネは持たない」のではなく、預けるところがなかったので、大商人が扱った「為替」以外は、おカネとはほぼ現金のことだった。
それが、通帳に載る「数字」になったのだ。

銀行が、預金の数十倍〜数百倍を貸し出すことでしか、世の中にあるおカネは増えない。

預金をそのまま横滑りさせているのが銀行だというのは、勘違いも甚だしい。
その貸し出したおカネが有効利用されて、GDPの計算式にある産業が栄えて、国民の口座にもおカネが増えるのだ。

GDPの計算式にない分野へいくらおカネを配分しても、GDPは増えない。

80年から90年に、エコノミック・アニマルが、本気でアメリカを追い抜いて上から目線になった身の程知らずに、宗主国アメリカがやった、「構造改革」で壊滅されたのが、アメリカのマジックハンド・金融庁をつかったわが国銀行業界の弱体化・無力化だった。

信用創造ができなくなった、我が国経済の衰退は、こうして終わりがないままなのである。

詳しくは、リチャード・A・ヴェルナー『謎解き!平成大不況-誰も語らなかった「危機」の本質』(2002年、PHP研究所)をご覧あれ。

クレディ・スイスは習体制への武器

1999年に『超限戦』を発表して、世界に衝撃を与えたのは、この発表を許可した側の意図もかんがえないといけない。

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戦争や戦略に関しての名著は、古今東西にあるけれど、この一冊は、現代の戦争を理解する上で、必読といっていい。

とくに我われ日本人は、いまも第二次大戦のトラウマに悩まされているから、戦争=戦闘行為=武力=最新兵器という一連が、すぐさま頭に浮かぶように訓練されていて、戦争反対の4文字が絶対正義となって信仰させられているから、他国民よりよほど重要なのである。

人生を生き抜くための教育としてかんがえれば、高校の授業に採用して当然ともいえるのだけど、特定政治勢力からの絶対反対の声が絶対に起きるので、面倒臭い議論をして、あたかも悪人になるのが嫌な、いつでも「よいこ」でいたい政治家は、放置して「読むのは自由」などといって逃げるのである。

そうやって、自分では間違いなく読むことはしない。

もちろん、「全方位」の役人集団である教育委員会が、そんな授業を要求するはずがない。
だから、ちゃんとした「親」が、読むように促して、教育するしかないのだ。
教育の基本は、家庭にある、というのは真理である。

そんなわけで、あらゆる場面や場所を利用した、「戦争」が行われている。

戦争の定義とは、自己の主張を無理やり相手に呑ませるための、非合法的方法も含めた「強制」のことをいう。
非合法的方法の第一は、殺人だけれど、ヨーロッパではこれが日常茶飯事だったために、戦争のルール化を図って、戦争における敵兵殺人を、「合法化」したのであった。

それで、「一人を殺せば殺人犯だが、百人を殺したら英雄になる」といったのだ。

現代の戦争は、情報戦とか経済戦が、見えないところで行われていて、じっさいの戦闘は少なくなった。
しかし、情報を操作して、自己の主張を強制することもできるし、経済的な困難、たとえば相手の金銭を強制的に奪うなどといった行為も、立派な戦争の定義に当てはまる。

前にhttps://omotenasi-izon.net/keiei/%e3%82%b9%e3%82%a4%e3%82%b9%e5%9b%bd%e6%b0%91%e6%8a%95%e7%a5%a8%e3%81%ae%e5%90%a6%e6%b1%ba/で、スイス企業が人権侵害を常習の国家・政府に協力することを禁止する案が、僅差で否決されたことを書いた。

グローバル全体主義を推進する、秘密の「ビルダーバーグ倶楽部」傘下にある、世界経済フォーラム(ダボス会議)は、その思想の根本に、共産主義があるから、本来ならば世界最大の共産主義国家とは親密性があっていい。
それが、鄧小平から江沢民、胡錦濤まではその通りであった。
これら指導者たち、なかんづく江派は世界経済フォーラムと共に、その巨大利権をほしいままにした。

こうした腐敗の状況を、忸怩たる思いで過ごしてきたのが、習近平氏たちだった。
習派が、毛沢東(主義)を崇拝するのは、毛沢東を排除した鄧小平からの改革開放の流れへの反発として捉えれば、あんがいと単純なのだ。

したがって、世界経済フォーラムのグローバリストたちから見たら、習近平こそは「諸悪の根源」になる。
その習近平は、トップに就任するやいなや、「腐敗撲滅キャンペーン」という名の、江派排除を徹底して、江沢民の死去に伴って、完全制圧したかに見える。

党総書記と軍事委主席、それに国家主席に10年間も君臨した人物の公式葬儀もしない決定も、わかりやすいメッセージなのである。

力には力、目には目を、歯には歯を、というハムラビ法典に記載の通り、現代社会もハムラビ法典は有効だから、世界経済フォーラムのメンバーたちは、結託して習近平一派の追い落としに懸命なのである。
幸か不幸か、長い歴史に培われた、それが彼の国のひとたちの「習性」とまでなっているのが、「自己中心主義」なのである。

すなわち、本来、貧しい農民党だった中共の構成員とは、識字もままならないひとたちで、そんな下層民が自己中のうねりでなした革命だった。
おそらく、革命で早くから豊かになった、近平坊っちゃまには理解が苦しいほどに、反腐敗で炙り出されるおびただしいひとの中に、自派の幹部もあまた存在したにちがいない。

とにかく私有財産を形成したい、というのが、彼の国の共産主義をいうひとたちの「当然」なのである。

利用すべきはなんでもやるのが、世界経済フォーラムの邪悪だから、秘密保持で最も信用おける私財の保管先が、「スイスの銀行」になるのは、世界を知らない共産主義だからの行動になって、悪名高いクレディ・スイスは、そんな自己中のひとたちの隠し金庫になっていた。

スイス中央銀行は、あたかもクレディ・スイスを救済するような素振りをしながら、じっさいは口を出している。
それが、「AT1債の無価値化」という、爆弾テロのような破壊力で実行された。

AT1債とは、「準株式」のことで、株式ならその企業が破綻したら無価値になるのは誰でもわかる。
けれども、株式は無傷のまま、準株式がチャラになったのだ。

こんな手があったとは!

これが意味するところは、ガンガン購入していた習派への攻撃に等しい、ということなのである。

超限戦のやり方で、習近平が痛めつけられている。

裁判官もアリバイづくりに奔走する?

民主党バイデン政権の命運がまもなく尽きそうだとして、さまざまな役所の超高級官僚たちが、逃亡に走っていると前に書いた。

改めていうまでもなく、アメリカの超高級官僚(SES:カーター政権時に日本の官僚制をまねて、さらに終身制に格上げして導入したから「超」がつくものを、オバマ政権時に大量採用した)たちが、あの巨大な国家機構を牛耳っている。

ふつうなら大統領制の国なら大統領が、議院内閣制の国なら首相が、最高権力者だとかんがえるけど、それらの前に「官僚制国家」となると、彼らが集団で政府を盗むのである。
このことは、ガルブレイスが日本企業を分析した、『新しい産業国家』(1972年、河出書房新社)で説明された、企業内官僚(テクノストラクチャー)によって、経営が盗まれる構造とおなじなのである。

テクノストラクチャーたちは、社内(組織内)の、フォーマルなつながり(組織図に従う)だけでなく、インフォーマルなつながり(たとえば、近い職場同士の飲み会メンバーや職場を超えた仲良しグループ)が、自分たちの都合のいいやり方を経営層に押し付けることで、居心地のいい会社(組織)へと変えてしまう行動原理を持っているのだ。

ガルブレイスが指摘したこの、テクノストラクチャーのもう一つの特徴に、身分を問わない、がある。
つまり、現実の企業内でもそうであるように、飲み会仲間や仲良しグループは、特定身分の者たちの集まり(たとえば、部長級だけとか課長級だけ)ではなく、むしろ、年齢や職務資格すら問わない、開かれているけどあくまで仲間内、といった様相を示すものだ。

かんたんにいえば、キャリアとノンキャリを問わない集団なのである。
そして、この場では、ノンキャリがキャリアを指導することもある。
現場の本音の声(情報)が、キャリアのフォーマルな場での重要な自己アッピール材料にも活用されて、そのまた上司たちからの評価になってあらわれるのである。

ゆえに、このインフォーマルな集まりは、徐々に組織図の上にも拡大して、行き着く先の究極が「派閥」となる。

派閥が一つの利益誘導体となって、全員がこの利益の享受者となり、これから外れた者たちを排除するようにまで「発展」すると、かならずや対抗する派閥が形成されるのは、以上のような力学的原理が働くからである。
しかして、トップはこうした派閥を制御できず、逆に「お人形」として制御される側に回る。

なぜなら、こうした派閥からトップが選出されて、その人物がトップになった途端に、派閥のテクノストラクチャーたちは、トップへのあらゆる情報を遮断し、派閥に都合がいい情報しか提供しなくなるのである。
なので、トップに選出される人物とは、テクノストラクチャーたちにとって都合がいい人物しか選ばれない。

これを、かつて自民党幹事長として辣腕を振るった、小沢一郎氏は、「シャッポは軽くてバカがいい」といって、その本質を見事に表現したのであった。

大国の国家組織はどんな大企業よりも巨大なので、テクノストラクチャーたる官僚が跋扈するのは当然である。
アメリカの失敗(お人好しのカーター氏を選んだ邪悪な民主党の意図通りなら「成功」)は、中華歴代王朝よりも強力な「官僚制」を作り出し、これらがまた、軍産複合体に買収されて、人類の厄災になったのである。

それが、連邦下院を支配する共和党によって、この数年の「犯罪」が暴かれている。
バイデン一家の、おそらく「国家反逆罪」が適用されるだろう、見事な「売国」の実態も、とうとう下院の捜査権がこの一家の銀行口座の入出金記録にまで及んで、もはや万事休すの瀬戸際にある。

「Twitter File」の暴露と議会証言から、司法省とその配下にある連邦捜査機関たるFBIすら、逃げ道を失いつつあるし、21年の連邦議会襲撃事件の真相(じつは民主党ペロシ議長の策略だった)も解明されつつある。
こうした状況をみた、州レベルの裁判官も、いまや逃げ道を探している。

昨年の中間選挙で、激戦だった、アリゾナ州知事選挙における、投票日当日の大規模な投票システムのダウンが怪しまれる中、この選挙管理の責任者だった人物が、その職のまま立候補して辛勝したが、対抗する共和党候補は、裁判に訴えて連続敗訴していた。

22日、州最高裁が州高裁に差し戻しの判決を出す画期があり、これまで却下され続けていた「署名確認作業」を命じたのである。
もしや、「投票用紙の監査をする」となれば、すでに知事職にある人物の当選無効・解職が起こり得るし、この人物がやったとしたら、20年の大統領選挙にも影響があるかもしれない。

なんだか、潮目、が変わってきたのである。

邪悪なエリートたちの逃げ足が早い、のは、古今東西の歴史にもある。
自分だけの利益を追求する行動の、合理的な帰結だからである。
次に起きるのは、こうしたひとたちの保身から出る、免責を条件にした裏切りの証言なのである。

これを、同じく逃げたい裁判官たちがやらせることになるだろう。