「赤い幟」の山梨県自民党

久しぶりの山梨県である。
そろそろ「桃」の季節だが、どうだろうとおもったら、あった。
早生の品種がすでに登場し、めくるめく週替わり状態で各種(二十数種類)の桃が出回るシーズンになった。

桃好きには、山梨県はやっぱり「桃源郷」なのである。

ところが、なぜか甲州街道を神奈川県から山梨県にはいると、幟旗があちこちに出現するのは、やっぱり武田家以来の伝統なのか?
それにしても、こんどは「赤旗」なので、それが自民党のスローガンとはおどろいた。

ことし1月の統一地方選挙での山梨知事選は、現職を破って自民党の候補者が勝利した。
とはいえ、自民党は県連として事実上の分裂選挙にもかかわらず、一応、党単独の候補を擁立したのはなんと44年ぶりではあった。

山梨県の人口は、ことし5月1日現在で、818千人。
全国で下から6番目に位置する。
最下位は、鳥取県の560千人、1ランク上の佐賀県とは千人ほどすくないだけだ。

しかし、県としての面積もちいさいから、人口密度という点では、全国32位と、グッと上昇する。二倍にすると、ほぼ14位の奈良県、三倍にすると、10位の京都府ぐらい、十倍にして4位の埼玉県にやや足りない。

そういえば島根県でも自民党は分裂選挙をやったから、人口と自民分裂にはなにがしかの関係があるかもしれない。
「ドン」のわがままだったり、力の衰えが起きると、福岡だって分裂するけど。

山梨県と横浜市は、みえないけど深い関係があって、山梨でとれた絹糸が八王子経由で横浜におくられ、横浜は「シルク」の街としていまでも「横浜スカーフ」が地場産業でのこっている。

八王子から横浜を結ぶのは、JR横浜線だが、国鉄時代は、世にもめずらしい「黒字路線」だった。
それで、週末限定とはいえ、特級「はまかいじ号」が、横浜と甲府を直結していたし、横浜商工会議所メンバーには山梨県人が多数いる。

みえる部分での深い関係は、横浜市水道の水源が「相模川水系」の「道志川」になることでわかる。山梨県道志村の山林面積のおおくが、水源確保のための横浜市の保有林で、同村にある村営温泉「道志の湯」は、横浜市民にも割引が適用されるし、「道の駅道志」では横浜市水道局の「水」が自動販売機でも販売されている。

道志村議会は横浜市への編入決議をしたけれど、山梨県と神奈川県が談合して、これを潰したのは、民主主義がなんだかわからない人たちのおかげであった。

道志村と横浜市は、どうして行政訴訟を起こさなかったのか?も不思議である。
最高裁まで争っていい、議会決議にたいする重要な問題であった。
役人が仕切るとこうなるのだ。

その役人あがりの新県知事が、出身の財務省に「顔が利く」ということをアッピールして当選したのは前に書いたとおりである。
「顔が利く」といいことがありそうだ、という発想は、封建社会以前からの「人治主義」である。

役人OBの知事がなにかいえば、予算がつくらしい。
そんなバカなことがあってたまるか。

けれども、この発想の根幹に、知事が県の支配者だという、これまた封建社会以前からの人治主義がある。
選挙で選ぶのは支配者ではなく、役人がかってにすすめる行政を見張ることだ。

こんなこともわからない元財務官僚だから、自分こそが国家予算をぶんどって、これを配分する社会主義をおしすすめると公言できるのである。
いまでは、イギリス労働党すら、こんな主張は愚論だとはばかれる。
自民党のお里がしれる、重要な選挙であった。

それから約半年、山梨中央銀行が、県内の消費動向調査をして、暮らし向きがどうなったかを発表した。
一年前にくらべて「悪くなった」と答えたひと17.3%(前年より4.6ポイント増)、「良くなった」6.7%を上回ったという。

家計の悩みは、6割が「収入の伸び悩み」といい、そのほかに「税負担の増加」「物価の上昇」という。
あろうことか、この銀行のコンサルティング子会社は、原因を「米中摩擦の先行き不透明感」というから、どうかしている。

県知事さまへの気遣いもここまでくると「忖度」とはいえず、たんなるゴマすりか議論のすり替えとしかいえない。

知事と自民党のいう社会主義では、県民のくらしは向上せず、その分の消費税負担、くわえて石油の値上がりが痛いといっているのだ。
これを、街道筋の赤旗で「前進」というのは、どこかの党のパクリではないか?

消費税の増税に、レジ袋の負担も国の命令だから増税効果になる。
負担を軽減させようと発想しないで、重くするための方法を一生懸命かんがえるさまは、愚か者の努力である。

桃を買いにいって、素晴らしい温泉につかりたいけど、住みたいとおもわないのは、めにみえてガソリンが高いのと、どんなにめにみえない負担があるか想像できないからである。

どこまで衰退するのか?
山梨県人には申し訳ないが、衰退するのは確実なので、どこまでなのかに興味があるのだ。

ある意味、わが国の先端をいくのが、山梨県だからである。
山梨県の明日は、この国の明後日になっている。

寝具という基本機能

宿泊施設の基本機能には、「衣・食・住」のうち、「食」と「住」は欠かせない。もちろん、寝間着を用意していれば「衣」だってあるし、広くかんがえれば「タオル」だって「衣」の範囲になる。
しかし、とかく「食」だけが重視される傾向があって、利用客は滞在時間のほとんどの時間を「寝ている」ことを忘れている。

それでか、経費削減がだいすきな経営者は、唯一おカネの出所であるお客様が、ふだんどんな寝具に包まれて眠っているかなぞ、想像もしないから、とっくにヘタってしまった敷布団とちいさな枕を交換しようと発想することもない。

それに、こういうひとにかぎって、自分の寝具も気にしないだろう。
なぜなら、自分と商売上の顧客の価値観が、なぜか一致しているとかんがえているからだ。
つまり、自分の生活水準で商売をかんがえている。

バブル崩壊以来30年間、ずっと販売単価を下げてきて、ある意味トラブルがなかったのは、自社の顧客層と経営者の生活水準が近づいたからともいえる。

また、リピーターのリピート具合を定期的に調べることもしないから、「そういえばA様、さいきんみえないなぁ」程度でおわってしまう。
ところが、A様、B様、C様。。。と、かつて、のお得意様の姿がみえない。

「ご高齢だったから」という想像で済ませるのも典型的で、誕生日や記念日の記録もないから、おいそれと葉書もだせない。
こうやって、経営者と生活水準が似ているひとびとに顧客層が入れ替わってしまっても、ぜんぜん気がつかないのである。

上客は、だまって去るのだ。
そして、生活水準がひくい利用者の数が増えても、それが経営者の生活水準と似ていれば、どちらにしてもクレームやトラブルにはならない。
だから、サービス全体も、この程度で十分なのだ、と勝手に思い込めるのである。

もちろん、むかしの高級店だったころのサービス水準を維持している。
ところが、あたらしいコンセプトで開業して、それが評判の高級店であれば、どんなサービス水準なのかを確かめにいくこともしないから、自社のふるいやり方がとっくに陳腐化していることにも気がつかない。

安心材料はたくさんあって、なかでも分かりやすいのが、大手旅行代理店がつくる「パンフレット」である。
おなじ地域で、同等の予算レベルのお宿が、きれいな写真つきで紹介されている。

むかしは表紙や最初のページで特集されたものだが、だんだんと、徐々に、時間をかけて、しかも確実にまん中以下のページになって、似たようなお宿と料理写真だけで比較されるようになっている。
この似たようなお宿も、かつてのライバルで、表紙になったことがる。

旅館料理というジャンルは、なぜか会席料理になっていて、一品ずつ運ばれるから、一枚の写真でみるようにはならない。
けれども、大手旅行エージェントのパンフレットには、一枚しか掲載されないし、載るのは料理写真に限定される。

そんなわけで、一枚の写真になったときに「見栄え」のする料理にしないといけないから、現実にどんな段取りで一品ずつ提供するのかという手順と人員と原価をイメージしながら、調理長は悩むのである。

旅慣れたひとが、大手旅行代理店にみずから足をはこんで、パンフレットを手にいれても、魅力ある宿を見つけられないのは、何度かこれで経験を積めば、自分の好みとパンフレットの記事が一致しないことに気がつくものだ。

残念ながら、大手旅行代理店の発信する情報は、「昭和」の「高度成長期」のパターンを基礎に、バブル後の低単価で「お得」と表現しているにすぎないから、ネットで検索して「発見」することからしたくなる。
そんな、「発見」の対象になる宿ほど、マスコミにも登場したことがない。

ちゃんとした宿の寝具はちゃんとしている。
しかし、「寝心地」を、寝具メーカーがどのように競っているのか?
これを知らずして、寝具選びは困難になるだろう。

「食」へのこだわりが、調理長まかせにして困難になるように、「住」のなかで重要な寝具を誰が選定するのか?
これを決めるだけでも、あんがい困難だろう。

お客がみずからの身をゆだねる、医療とは別の「宿」という商売の奥深さである。

反日種族主義打破放送

さいきん、韓国で「反日種族主義」を打破するための「正論」が、YouTubeでシリーズ放送されている。
出演者は、韓国では「反主流」の研究者たちであろうが、論理は明確で、正当な証拠にもとづくその論証は、われわれ日本人の主張に近い。

親日が「罪」になる国での活動だから、その覚悟は深刻で、シリーズ第一回の「校長(ソウル大学名誉教授)」による開講のことばは、李承晩のことばを読み上げながら「嘘で塗り固めた国の滅亡」についてとうとうと語りかけている。

すなわち、もうガマンの限界だ、ということだ。

しかし、彼のことばには重みがあって、これからのシリーズで単なる「親日」の論を張る、という意気込みとはちがう。
あくまでも、自分たちの歴史をタブーなしで、ときには耐え難いほどの屈辱の物語であっても、目を逸らさないで直視することをなによりもはじまりとしているのだ。

都合がいい「種族主義」の排除である。
そのご都合主義が、一方で中国にたいする「事大主義」となり、一方で日本に対する「反日」となるのは、どちらも、韓国の将来をかんがえると間違っていると指摘している。

日本語字幕がついているから、じっくり観れば、日本ではしられていない「反日」の話題のかずかずが「間違っている」と訂正されていく。
ここまで根深いものかとも思うが、政府の役人によって「反日」が創られていく様は、なかなかの迫力だ。

なるほど、もはや論理ではなく国内の統治目的に利用されているのだが、利用する側とされる側が一体となって「自己満足に浸る」から、日本人には理解できない「種族主義」がそこにある。
これこそが、民族統一の熱情になって、親北政権がうまれる背景である。

ところで、反日の理論的根拠はどこから出たのか?といえば、じつは、日本の学者からなのである。慰安婦は、作家からだった。
「親北」の日本人学者が「発見」したかなにかした「資料」が輸出されて、これを韓国政府が採用し、教科書にもした。

ある意味、いうことを聞かなくなった韓国政府とは、反日をかかげる日本人がつくった、特大ブーメランなのだ。
だから、韓国では、そうとうに日本人の発信が、ある意味無条件に信じられている、という逆説もなりたつ。

すると、この「校長」たちが、もうガマンの限界という中に、日本人の発信源もふくまれていることになる。
このことは、われわれ一般の日本人もしっていた方がいい。
校長たちからすれば、日本人が「反日種族主義」を煽り、日本人から「嫌韓」されるのは、どういうことなのか?になる。

このシリーズを観ていて、このように真剣に国の将来を憂う、ちゃんとした学者が立ち上がるのが、うらやましくなった。
わが国で、このような発信をしている学者は片手でも足りそうだ。

どちらさまも、研究費がほしくて、御用学者にならないと、商売にならない。
科学技術系では、最先端の研究計画を提出して、ものになるもの、でないと予算がつかない。

最先端で「ものになる」と予想できる研究とは、とっくに見通しがたつ研究のことだから、じつはぜんぜん最先端ではない。
こんなことをしていたら、とうとう世界の最先端テクノロジーの研究から遅れだしてしまった。

ところが、より深刻なのは、文系の学者なのだ。
たとえば『自由の国 平等の国』という「哲学書」がある。
哲学者が書いたから、哲学書とする。
その内容の薄さが記憶にのこったが、けんかをしないためになる本という評価もある。子ども向けだから「薄い」のではない。

しかし、日本人のわかき哲学者は、平等がお好きらしい。
このたびの、韓国人の学者たちの深刻度が理解できるひとであろうか?
わたしには、いっときつかんだ「豊かさ」が、永遠なるものとして認識された、大甘の哲学、だとしかおもえなかった。

日本のながい歴史から観れば、いまこそ「特異」(とくにことなる)な時代はない。
イランではやったドラマ「おしん」のような、貧困こそが、日本の真の姿なのである。

絞り出すような哲学をうめなくなった日本は、まさに精神の貧困に陥っている。
この「校長」たちの目論見どおり、韓国人が「反日種族主義」を克服したとき、かならずや彼我の差は逆転するにちがいない。

その貧困の日本より、もっと貧困だった「日帝時代」を韓国人が正面からかたるのを観るのは、初めての経験である。
ぜひ、お勧めしたい。

未決のG20

「大山鳴動して鼠一匹」よりもなにもかも、なんにも決まらなかった。
議長国日本が、主たることは決まらないと、あきらめて張り切ったのが、プラスチック・ゴミの規制だったが、これも決まらなかったのは、世界人民にとってご同慶の至りである。

世界の首脳は、日本の役人ほど、バカではなかった。

決まらないのは、このほかに、会議場の机で、まさか各国首脳が町内会館にもある「五尺テーブル」に、きっちり三人づけされたことだ。
しかも、さいきんの町内会館の五尺テーブルは、キャスター付きで足下が隠れる板もある。

各国首脳が、足下までさらして座るのを、はじめてみた。
日本人事務局の「貧乏根性」が、みごとに表現された会議場のしつらえであった。

「もはや日本は先進国ではない」と、自分から宣言したような潔さであるから、これを期に、次回から参加を見送るのがいいだろう。

けれども、参加国の首脳だって、G20でなにかが決まるとは、最初からおもっていない。
ではなぜやってくるのか?といえば、個別会談がしやすいという、一カ所集中のメリットしかない。

ほんらい、これは「国連」の役割だから、なにも「G20」などといって各国持ち回りなどにせず、ニューヨークの国連本部か、ジュネーブの国連ヨーロッパ本部で開催すれば、警備による大騒ぎもないし、会場に事欠かないから、ちゃんとした会議室が最初からある。

国連という場のマンネリが、とうとう機能不全になってひさしいから、「G20」もおなじだと印象づけたくない、という理由しかかんがえられない。

すると、なんとか決めることができた時代はなんだったっけ?と記憶をたどれば、「冷戦」という東西両陣営が対峙していたときで、東西ともに「決めていた」。
緊張感のちがいである。

米中による対立は、この意味で重要だ。
「中」を包囲して封じ込めたい「米」は、冷戦構造をつくりたいだろう。
これにロシアがどっちつかずを演じて、とっくに経済弱者になっているけど、主導権を握りたいと志向するのは日本の野党に似ている。

わが日本は、御殿女中の思考で、とにかく目先の「おもてなし」をきっちりこなして、無事に予定の日程を終了すればそれでよい。
のんきな大阪のコンビは、「大阪の格があがった」とよろこんでいるらしいが、なんの「格」をいうのか意味不明である。

さて、決まらない、とはいかなる事情か?をもうちょっとかんがえれば、決まっていた時代と比較して、なにがどう違うのか?
いわゆる「グローバル化」が、決まらない世界をつくった。
それで、あたらしい冷戦を志向して決めようというなら、これは「反グローバル化」のことである。

今回もふくめ、ここ数回のG20は、すでに「反グローバル化」を模索している。
つまり、世界のグローバル化、といういいまわしはもう古いのだ。

そんななか、国内ローカルニュースで、東京理科大学が、「グローバル化」に対応した、学部の再編とそれにともなう各地のキャンパスを再整備するという記事をみた。

あたかも、日本国内では「グローバル化に対応した」という言葉を念仏か題目のように唱えれば、もっともらしくきこえるようになっているが、世界の潮流はとっくに逆転している。

「最高学府」にしてこの程度。
ちゃんとした学者はいないのか?

べつに理科大「だけ」が問題なのではない。
きっと、「グローバル化に対応せよ」と、命じている役所があるのだ。
このこと自体が、すでに世界標準ではない。

「粉もん」を首脳がよろこんで食べるすがたで、日本はいい国だと自画自賛する「引きこもり」も困ったものだが、時代潮流を読めないのは、決定的に損をする。
もはやトラック一周遅れなのに、先頭にいると思い込んでいるのは果たして幸せか?

出すぎた「中」をたたくため、安保条約を「片務から相互」へすべきというトランプは、とうとう日本がほんとうに「独立してよい」といった戦後はじめての大統領になった。
これも、グローバル化への反旗である。

どこまで読書をしているひとかしらないが、読み聞かせてくれるひとがいるのだろう。
トランプ氏の言動には、おなじ共和党の大統領だったフーバー氏の『裏切られた自由-フーバー大統領回顧録-』を読んだ、確信をかんじるのはわたしだけではあるまい。

 

せめて日本で指導的立場にあるひとなら、上記の翻訳者が要約した『誰が第二次大戦を起こしたのか』は、もはや必読書なのではないかとおもう。
日本を独立させるとしたトランプ氏と、そうでない70年前からの固定を支持する現状維持派(属国のまま)との戦いが、再選をかけたかたちで我々にはみえることだろう。

はたして、マッカーサーが決めた戦後秩序を、あたかもわが国の「国是」だとする奴隷根性にまみれたわが国マスコミは、親中の旗もおろせずにトランプ批判を繰り広げるのは、まさに「逆神」のごとくである。
しかも、日本は自分で決められない。

マッカーサーもトランプも、当事者の日本抜きで、属国か独立を許可するのかを決めるのだ。
日本国民にとっては、どちらも空中戦で、B29をみているしかなかったのと、状況はまったくかわっていない。

しかも、日本人の歪められた根性は、永遠の属国を望むという、世界人類が想像もしない「常識」がある。
新聞を読むとバカになる。
わざわざ購入する価値が、とうとうなくなった。