個人商店は資本主義に不適応か?

「商店街」が衰退するのはなぜか?
そして、数々の商店街「振興策」が失敗するのもなぜか?

ひと言でいえば、マネジメントの方法をしらないからである。

行政の支援とは、道路や看板、あるいは、アーケードの整備などが中心で、地元の地域振興商品券をつくったところで、かんじんの商店街では消費されず、大手スーパーで利用されるだけだ。

こんなこと、わかっているのにやめられないのは、なにかしないと役所の「評判を落とす」からである。
それに、地元選出の議員からも、「なにかやれ」とせがまれるので、なんでもいいから実行しておくだけのことである。

つまり、「効果」がなくても、「ある」としてやる。
なにもやらないよりは「まし」だからだし、どうせ使うのは他人のカネの税金だ。
こうして、アリバイづくりに精を出して、責任を商店主の「才のなさ」とする。

それに、議員だって表面上はどうあれ、全員が商店街の振興をもとめているわけでもない。
住民の立場にたてば、「ムダ」はやめてほしいから、商店街の振興は「ムダな抵抗」になるし、別の商工業者からすれば、自分たちの業界を支援してほしい。

こんな乞食根性で、ぜんぶ「中途半端」になって、どれもが「ムダ」になるのが、行政による「経済支援政策」の運命なのである。

アメリカの共和党では、経済は民間の好きにさせるのが一番で、行政は民間が活動しやすいようにすること「だけ」を政策とする。
おなじアメリカでも民主党は、わが国の与党と似ていて、行政が経済に介入したがる。

なので、政権交代によって、経済が自由になったり、行政が介入したりするから、けっきょく、わが国のように、「いつも介入している」わけではない。
「筋トレ」のごとく、「緊張と弛緩」を繰り返しているのである。

これが、アメリカの強さをつくっている。

けれども、重要なのは、アメリカ人のなかでもエリートは、マネジメントをかならず学ぶようにさせられている。
だから、マネジメントができないエリートは存在しない。

MBA(Master of Business Administration)の本質はここにあるのだけれど、これを、「経営学修士」としか訳せないところに、さいきんの漢字表記の限界がある。
「漢籍の素養」があった、明治人ならなんと「翻訳」したのだろうか?
センスがないけど、直訳すれば「事業運営専門士」になる。

日本では、学業が優秀だと自動的にエリートとされるが、マネジメントを学ぶチャンスがどこにもないのである。
せいぜい「生徒会」や「部活」の運営で「体感」させられるけど、教師にビジネス経験がないから、「マネジメント視点」からの指導はしないしできないのだ。

そして、このことの「欠点」や「やばさ」についての重要性が、日本社会に認識されていない。

その典型が、たまたま個人経営者が集合している、商店街で顕在化しているのである。
つまり、商店街の店主の学歴が低いわけでも、やる気がないわけでもない。

どうやったらいいのか?の基本をしらないのである。
それは、自分の商売の専門知識をいうのではない。
むしろ、家でいえば土地の上に造る「基礎」そのものにあたる。
「基礎」がないのに、商売をしてもうまくいかないのは、当然なのである。

それが「マネジメント」である。

町工場から身を立てた、という物語も、八百屋から身を立てた、という物語も、たまたまそのひとに「マネジメント能力」があった、ということになっている。
そして、それは、21世紀になっても「個人の資質」として捉えられる「だけ」のままなのだ。

「商才」は、「才能」という意味である。

ならば、天才教育をしないのか?ということになる。
音楽とか美術とか、あるいは舞踊とかといった「芸術分野」でよくある「英才教育」は、4歳とか5歳といった時期からはじめるのが常識とされているのに、「商才」については放置されている。

いやむしろ、明治に破たんが相次いだ「武士の商法」のように、高潔なる支配層は、「カネを求めてあきない(商)」に専念することを「卑しんだ」伝統から、わが国を支配する公務員達は、子供の時分から「勉学」に励まされる。

では何を勉学しているのか?といえば、学校教育における「科目」の勉学に集中させられて、それ以外には時間を割くことを許されない。
「遊び盛り」の同級生を指して、親は、「将来見返してやれ」と言って鞭打つから、おとなになって「弱者」に鞭打つことに「痛み」を感じない。

そんなわけで、「マネジメント」という分野を学んだことがないひとたちが「エリート」といわれるようになって、こうした「人材」を大量生産してきたのが、「大学」という場所である。

研究と教育の両方を課せられる、大学教員は、研究と称した「論文」の生産に精を出すことになる。
これが、学者としての「評価」ということになっているから、「学位」だけでなく論文がない学者は学者世界でいじめにあう。

一方、時間は24時間/日しかないので、教育を重視したら論文は書けない。
今どきの「授業の準備」には、驚くほどの時間を要するのである。
それが、対面とリモートになって、手間が二倍になった。

そんなわけで、「ビジネス」を人生経験で知らない役人と学者が、商店街振興に口出しをするようになったのは、カネを使う、そのカネを貰う、という「だけ」で、やったつもりになるからだ。

商店街の商店主が資本主義を知らないのではなくて、資本主義を忘れさせる努力を、役人と結託したビジネスを知らない「経営学者」が指導・命令するから、商店街が衰退する。

こうして、わざと商店街を衰退させるのは、「大店法」の対象となる、資本主義的な大型ショッピングセンターを「支援」したいからなのである。

「ポスト・資本主義」って?

あんがいとふつうに使われている「用語」には、略されたものがふつうになって「正規」の表現が忘れられてしまうことがある。

たとえば、「生産性」という用語がある。
これが、「政府の産業政策」になったら、「残業の削減」に落ち着いた。
もちろん、「残業代」は「割り増し」なので、経営者には「高くつく」ということだから、「産業を優先させる」という戦前からの方針を貫いた。

働くひとは誰だって、本当な残業なんかしたくない。
はやく家に帰って、職業人ではない自分になりたい。
けれども、正規の賃金がどんどん安くなったから、残業でもしないと生活ができないのだ。

たとえば、先進国の集団として、アメリカ地域(北米)と、日本に対抗してできたEUは、日本型社会主義をもっと尖鋭化させてとりいれた「EU委員会」という官僚組織が運営していて、「EU議会」は名ばかりの「参考」程度にするというやり方だ。

こんな無茶な方法でも、この30年の「成長」で、約1.5倍の経済規模になった。
なので、べき乗根(幾何平均)を計算すると、30√1.5≒1.0136となって、年平均で1.36%の成長だったことがわかる。

ちなみに、手許に関数電卓がなくても、「べき乗根 計算」と検索すれば、「計算サイト」が出てくる時代になっている。
もちろん、スマホ用の無料「関数電卓アプリ」はたくさんある。

さて、わが国は経済成長が「横ばい」という「世界で唯一」を30年間も続けているので、この意味は「インフレ分のマイナス成長」ということになる。
この「マイナス成長」を止められないのは、政府による間違った「成長戦略」があるのが理由なのだが、相変わらず政府による「成長戦略」を望んでいるから、貧乏になるのである。

つまり、政府の成長戦略とは、国民を貧乏にする戦略なのだけれども、実は正確に書けば、「政府自身の成長戦略」なのである。
すなわち、政府は「肥る」が、国民は「困窮する」という戦略である。
この場合、「継続は力なり」とはならず、「継続してはならない」になる。

そうやって慣れてきたら、残業をすることが「前提」となる。
つまり、残業代を稼ぐのが生活の維持に欠かせなくなって、これが、「ワーカホリック」という常識をつくった。
すると、残業をしないひとが「異常」に見えるのである。

もちろん、「ワーカホリック」とは、「仕事中毒」のことだから、異常者が過半を占めると民主主義では、「正常者」が異常者になる。
このことが、「新しい世の中」の本質的な構造であって、政府の戦略がこれを創っているのである。

それが「矛盾」が、「国家統計」という、現代社会の「基盤」を狂わせる「力学」になる。
もちろん、正確な統計データがある、というのは、「近代国家」の証であるから、国家統計が正確でない、というのは、近代国家に「まだなっていない」か「やめた:脱落した」ことの証となる。

厚労省データ改竄が問題になって、今度は国土交通省のデータが改竄だけでなく証拠となる過去データが削除されていることが見つかった。
あろうことか、自公連立政権が発足して以来、ずっと国土交通大臣ポストは公明党の独占だったので、いつもとはちがって、公明党が釈明しないといけない立場になっている。

べつに公明党を擁護するものではないけれど、だれも何も言わないでいるものに、「気象庁」(国土交通省の外局)だって、気象データの「廃棄」をしている。
それは、「アメダス」が出来てからとそれ以前とに分けて、「それ以前」のデータを廃棄したことだ。

興味深いのは、「それ以前のデータ」は、「農水省管轄」だから、気象庁が捨てても、農水省には「ある」にちがいない。
「農林漁業」のための気象データのことである。

これにも、やっぱり「政府が肥え」て、「国民が困窮する」というプログラムが前提にあって、ゆえにありもしない「地球環境問題」に大規模予算をつけることができるのである。

それを、放送法に違反してもNHKに「歴史的」とか「観測以来初」とかという、「アメダスができてから」を省略した「表現の自由」をやらせて、国民の脳を冒していても、監督官庁の総務省は無反応なのである。
つまり、政府の戦略なのだから、総務省の意向をNHKが放送しているにすぎない。

そんなわけで、公明党を批判することがこれまで「ためらわれていた」のは、その支持母体の影響力の大きさ故だった。
70年代に、あからさまな批判をした言論人の著作は、ことごとく「廃された」のは、誰でもしっている理由からである。

ところが、「少子」と「高齢化」で、この支持基盤が弛んできた。
おなじマーケット層の共産党も、まったく同じ理由から困っているのは、高齢者層しか支持者がいない、ということだ。

人口統計上では、時間の問題、になる。
だから、人口統計の偽造はしない。

政権維持「しか」脳理にない自民党という得体の知れない集団は、いつどのようなタイミングで公明党を「切る」のか?ということになってきて、「上策」は、おそらく「自滅」したかのようにするのだろう。

そうやって、親中べったりの「維新」と、旧同盟系の民社党が名変した「国民民主」とで連立すれば、あたかも「保守の取り込み」に見せることができるし、トヨタ系などの労組も同時に取り込める。

これが、「新しい資本主義」をいう、日本版「ポスト・資本主義」という話のお粗末である。

国語辞典の「廃語集」が欲しい

「辞書の三省堂」が、『新明解』に続いて『三省堂国語辞典』も新版(どちらも「8版」)を出した。

「国語」なので、「新語」が注目されがちだけど、基本は「紙の出版物」という制約があるから、一度採用した「新語」も、時が経てば「経年劣化」することがある。

この場合、古い言葉ほど残るのは、「経年に耐えた」という「古典」的意味合いが出てくる。
それで、「見出し」はそのままでも、「解説」が変われば、それはそれで「新語」のようなものである。

それに、「新版」が出た途端に「旧版」は、書店の棚から引き上げられて、「古書」扱いになってしまうのだ。
すると、どこがどう「変わったのか?」ということが、気になるのである。

書店には、「サンプル」として、「ここ」という付箋がついていて、そのページを開ければ、さらに「マーカー」や「メモ」で、「違い」や「新しさ」をアッピールするのだけれど、それだけ、を扱ったものがない。
もちろん、「廃語」となった言葉を見つけることはできない。

「8版」にもなると、新語と廃語の「変遷」を特集した「読み物」としての「中身公開」があってもよさそうだ。
『新明解』と『三省堂国語辞典』を合作した「変遷版」を出して欲しい。
その言葉や解説の変遷が、「版表記」でわかれば「年」でもわかる。

ちなみに、『新明解国語辞典』の初版は、1972年。
『三省堂国語辞典』は、もっと古くて、1960年だ。
すなわち、わが国絶頂期に出版された「辞書」なのである。

この二つの辞書の違いは、『新明解』が、ストイックに言葉の意味を追及しているので、ある程度の「年齢=人生経験」を積んだおとな向けの「読んで味わう」タイプに対して、『三省堂』は、クールな「歯切れ」のよさが特徴だ。

辞書本体でも悩ましいのが、紙版と電子版ではあるけれど、紙版の「大きな辞書」も食指が動く。
されど、持ちだし携行には向かないから、電子版と悩むのである。

けれども、「変遷版」なら、電子版でもいい。
「読み物」になると思うからである。
それに、「近代史」の資料にもなる。
「世相」がわかるからである。

さて、「辞書」をつかうという場面では、学校の授業ということもあった。
重い辞書をカバンに入れて、持ち歩いてはいたけれど、めったに「授業中」に引くことはなかった。
つまり、「ときたま」引かされた。

予算が豊富な、たとえば、国立大学(元来の「師範学校」)付属の国立小学校(ここの生徒は「実験台」なのだけど)では、クラス人数分の辞書があって、これを教師がワゴンで教室まで持ってきて、授業でつかう、という技を見せることもある。

しかし、令和の時代になって、「GIGAスクール」という構想が、文部科学省の下で練られている。
先ずは、学校内をLANと高速回線(「ローカル5G]も)でネット接続して、クラウドを活用するという。

これで、端末のパソコンが「Chromebook」になっている。

理由はおそらく単純で、「使用」に際しての教師の負担がほとんどないからだと推測する。
最初から「クラウド利用:Google Drive」に接続することを前提としたマシンなので、マシン自体が高スペックである必要はないし、ネット接続も「Google任せ」で済むからだ。

これが、「Windows」や「MacOS]だとそうはいかない。
個人情報を含めて、セキュリティ管理が厳密な「パーソナル・コンピュータ」だから、端末と利用する個人(生徒や教師)を特定しないといけない。
他人のをちょっと借用、というわけにはいかないのだ。

それで、生徒用には「学習ツール」として、無料で「Google」が提供するアプリを使うようにしているし、教師用には「校務」のためのグループウエアなどを使うように「強制」しているはずである。

そうやって、遠隔・オンライン教育の実施という名目の他に、「文理分断の脱却」ということも、「目指すべき」と発信しているのである。

さてそれで、本音は、「Society 5.0」を生きる子ども達、という前提がある。
経産省がいうこの「構想」に、格下(全省庁で最下位)の文科省が従って、「子育て」をしようというのである。

そんなわけで、三省堂の電子辞書群も、サブスクリプション契約になっていて、「卒業後」も使用契約が継続できる、という「特典」が強調されている。

それでみると、学校生活の中で「新版」が出版されると、自動的にその分は無料で新版に移行するということが、「メリット」になっている。
はたしてこれが、「教育的」なのか?と考えると、小学生でも高学年や中学、高校生が相手なら、むしろ「変遷」が「付録」されると、より教育的で、契約メリットのような気がする。

それにしても、辞書をパソコン端末で引く、ということが「Society 5.0」ということなのか?と思うと、いよいよ学校教育も「民営化」するべし、と考えたくなる。
それは、紙版と電子辞書の「教育効果」という点で、周辺が読める「紙」の有利さがあるからである。

とにかく国家の役割と依存の関係を整理しないと、わが国の衰退は止まらないことだけは、「確か」なのである。

密かなブーム「逃げるが勝ち」

この間、わが家も愛車のタイヤを悩んだ末に交換したら、意外な「履き心地」がわかってきた。

「静粛性」は優秀だけど、「燃費」はイマイチというパンフレット通りで、クラス最高級タイヤとの価格差は、走行距離30,000㎞として、仮に燃費1Lの違い、ガソリン150円で計算したら、微妙な「総額」になるのである。
もちろん、ガソリン価格が大きな要因だけど、体感する「燃費差」にこれだけの違いはあると確信するから、バカにならない。

要は、初期投資として高額でも、燃費の効率性でその価格差自体が逆転する可能性だってある、ということが改めてわかった。
ならば、素直に、クラス最高級タイヤを選んでも、「高い」ということにはならないどころか、却って「安く付く」可能性まである。

すると、この「クラス最高級タイヤ」とは、まさに「高性能」ということで、数万円をケチったことにいまさら「失敗」の予感をもっている。
あえて書くまでもないけれど、見送ったクラス最高級タイヤとは、ブリジストン製のものである。

新車に装着してあったのも、ブリジストン製だったから、性能を「同じ」として、気づいたのが「燃費」だったのである。
ただし、タイヤ専門店の説明によると、同じメーカーの同じブランドでも、新車に装着されるのは一般販売されているものとは「違う」というから、ややこしいのだ。

もちろん、タイヤの溝がなくなってきて、交換時期がきているのだから、新しいタイヤにしないといけないし、むかしのCMにあった「タイヤは命を乗せている」最重要部品だから、「安ければいい」という選択はない。

選んだ別メーカーの「静粛性」に関しては、概ね満足だから、「静かさ」を買って消費しているのである。
それ故に、新製品の「クラス最高級タイヤ」だったらどうなのか?が気になるのである。

さりげないタイヤではあるが、その製造にあたっては、とてつもないノウハウが投入されている。
ゴムの材質はもちろん、溝の形状だって、どれほどの苦心があるものか?

乗用車には1台で4本が絶対に必要だから、自動車の時代を見越して「タイヤ」を作ると決めたメーカーの「先見性」は、見事だといえる。
自動車メーカーは、いまだに自社でタイヤまで生産していないのは、まさにリカードのいう分業の有利さを証明している。

日本はもとより、世界のトップランナーにあるのは、ブリジストンであるけれど、今年は中国の工場を閉鎖していた。

「計画経済」なのに、国勢調査をやったことがないというのはどういうことかわからないけど、ソ連の「グラスノスチ(情報公開)」ができなかったように、政府がいうあらゆる「数字」の信憑性がないというのも、「お国柄」である。

しかし、「共産主義」は「奴隷制」を伴うので、「身分確定」をして社会が安定モードに入るという特徴がある。
支配者階層(党員:約1億人)と、一般人(技能層:約4億人)と、奴隷(その他:約8億人)である。

彼の国の「総人口」が巨大なので、自由圏から見たら「13億人市場」に見えるけど、西側の高品質製品の購買層とは、支配者階層と一般人までしかいない。
最大人数になる奴隷層は、徹底的に身分を固定(永久)する制度だから、未来永劫、体制が続く限り購買層にはなり得ないのだ。

つまり、多く見積もって「5億人市場」なのである。

それが、「飽和状態」になった。
しかも、党の権力闘争で、相手派閥の系統にある産業いじめという政策が堂々と採用されていて、なんとこれを「批判」する記事が、つい先日、「人民日報」に掲載されて話題になっている。

そんななかでの、ブリジストン工場の撤退とは、いったいどんな「市場分析」をしたのか聞いてみたいけど、ブリジストンの「プレスリリース」には、中南米に工場投資をすると説明があるだけだ。
ちなみに、対象市場は北米で、対象車種は「EV」だという。

その「EV」の「電池工場」を撤退させて、フランス本国に帰ると、シトロエンが発表した。
EV(電気自動車)は、いまのところ「電池」に充電しないと走れないことになっているから、これも「市場分析」の結果だろう。

一方、世界のトヨタは、EVへの全面移行をするらしいけど、「電池式」と「受電式」との二種類が考えられる。
受電式とは、宇宙での「発電衛星」等からのマイクロ波を屋根に受電して走行するという方式で、貴重資源を要する充電池をつかわない。

電磁波による健康問題は横にして、これを、どこで作って実用化するのか?という問題がある。
もちろん、「地球環境」も抜きにすれば、現状の内燃機関がもっとも効率的なので、「経済に優しい」ことは無視した話である。

そんなわけで、日本企業だけでなく欧州企業の撤退も密かなブームになっているけれど、留まる企業は投資を増やすという「二極化」になっている。
こうしたことに、敏感なのは「株式市場」になるのだが、わが国の株式市場は、日銀が買い支えるという社会主義で、上海市場のように「恣意的」なのだ。

だから、やっぱり日本企業でも「ニューヨーク市場」を見ないとわからないことになっている。
東京や大阪で「国際金融センター」になる、とは、「たわごと」あるいは臨終前の「うわごと」に過ぎないのである。

賃上げとフランケンシュタイン

政策立案に役人の言う事しか聞かないから、トンチンカンな政策しか出てこない。
これはなにも岸田政権だからではなくて、アベノミクスなるインチキも同じだから、自民党に中身がないということだけがわかるのである。

その中身のなさが、絶望的な「無知」とか、「無教養」によっているので、期待のしようもない。
まことに、国民にとっては、こんな政府を持つことの不幸としか言いようがない。

もちろん、それは「まともな代わりが皆無だ」という結論に尽きる。

ちょっと前のむかしなら、賃上げしない民間に業を煮やせば、「公務員給与」を上げたりして牽制したけど、いまどきそんなことをしたら、若いひとがみんな公務員になりたがって、民間企業に就職したがらなくなる「困った」がある。

むかしなら、若者がたくさんいたから、公務員からあぶれてもそれなりの人員数は採れたけど、いまは公務員が肥大化したので、民間に回る分がいなくなる懸念があるから、財界に叱られてしまうのである。

世にいう「限界集落」の町内会だって、人口がたんまりいる集落の町内会と「同じ数以上」の役員が必要なのは、大英帝国海軍の艦船がナチスに沈められても、海軍工廠の必要人員が増えたことと似たような話になるのである。
たとえば、夜回りの回数を増やさないと空き家ばかりで放火の危険性があるから、とか。

それに、「賃上げ」の話が、大元の「生産性」の話に転換したのはいいけれど、そのまま「残業削減」の政策になって終わってしまった。
しかしながら、これはこれで「よかった」のは、所詮、政府が民間に賃上げを要求するという本末転倒を「寸止め」できたからである。

ソ連時代に、共産党が企業に賃上げを命令するのと同じだから、自民党はソ連共産党と発想を同じくしている。
唯一の違いは、企業経営者をシベリヤ送りにしない「だけ」だ。

それで、命令をきかない経営者を追放したら、もっと無能な「党に従うだけ」の人物たちが経営者になったので、もっと業績が上がらない「悪循環」になった。
ラッキーなことは、「党の指導者」の高齢化が顕著になって、責任を「死んだから」という理由で押しつけることができた。

社会の前提が、「全能の党はいつでもなんでも正しい」だから、これを否定したら、「終わり」なのである。
わが国では、「党」を「官僚」に置換すれば、同じ理屈ができる。

そうやって何人も死亡して交代していたら、とうとう「若い」ゴルバチョフが選ばれた。
困り果てたゴルバチョフは、窮余の策で「改革」を言わざるを得なかった。
それが、「ペレストロイカ(再構築)」になったのである。

この再構築での、合い言葉が「グラスノスチ(情報公開)」になったのは、国家統計からなにからなにまで、たとえば、「在庫情報」も、全部が「党の指導下」で責任回避の「うそっぱち」だったからであった。

つまり、「本当はどうなっている?」という意味の社会運動なのだ。

企業は粉飾決算が当たり前だったけど、粉飾決算をしないといけない理由が、「党の命令」と同義になっていた。
企業を「指導する党幹部」の責任を回避するには、粉飾決算をするしかないという、単純な原理である。

結局のところ、「グラスノスチ」が、ソ連を死に追いやった。
「うそ」と「本当」の区別がつかない社会になったからである。
誰もが疑心暗鬼となって、社会そのものが維持できなくなったのである。

興味深いことに、盤石と信じられていた国家体制の「崩壊=死」とは、仏教的「転生=再生」という、最大のチャンスが訪れたことを意味した。
それで、「喜々として」アメリカはノーベル賞学者を含む経済専門家たちの大デリゲーションをモスクワに派遣して、「資本主義経済」への転生を助けるつもりだった。

ところが、アメリカ人も「うっかり」していて、「資本主義」とはどんな「思想」なのかを教えずに、「金融制度」や「会社制度」といった「応用」ばかりを教えたのである。

それで、ロシアはとうとう「マフィア経済」という最悪のシステムになってしまったのである。
早い話が、人間になりそこねた「人造人間」のような、ヨーロッパ的なら『フランケンシュタイン』のような経済体制を創ってしまった。

今様の「恐怖:ホラー」というよりも、どこか物悲しいこの物語は、メアリー・シェリーという女性作家が書いたからだろうか?

そんなわけで、「物悲しくもある」のが、女性的になった現代日本で、トヨタ労組が自民党を支持するという「異変」も、自民党とは何者か?を素直に考えれば、単なる社会主義政党で政権党なのだから、むしろ他の労組がなぜ自民党を支持すると表明しないかが不思議になったのである。

これは、見た目で同じ「ソ連型」ではあるけれど、オリジナルのソ連は党からの命令によってであったけど、日本の場合は「状況が命令する」という順番違いで、労組から率先して党が支持されるのだから、本質的には「日本型」の方が、より理想的な社会主義になっている。

一方で、腐っても鯛のアメリカでは、トランプ政権の置き土産である、「空前の減税」が功を奏して、史上空前の「法人税が増収」となった。
政府が企業活動のお邪魔をしないようにしたら、それが「増収」になるという事実を提示した。

10万円の給付で、全国民を乞食化させる日本政府とは、真逆なのだ。
なぜなら、それが将来の「増税」になること確実だからである。

賃金を増やした分税金が控除されるからといって、喜んで決める経営者なんていないのは、福祉国家という社会主義のために、企業の社会保障負担が増えてしまって「相殺」されるからである。

政府が自分で創った「仕組み」を、コントロールすることができなくなったのだ。

フランケンシュタインのように。
ただ、恐怖を感じるのは国民なのだという「ホラー」になったのである。

昔の音韻復元の威力

「比較言語学」の成果のことである。
これまで、「文字情報」として「古典」を見ていたものが、「音韻」として耳からの情報になって再現されて、それが一般人のもとにもネットでわかる時代がきている。

とりあえず、「minerva scientia」さんが、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802年~1814年)の会話部分を「音読」している。
当時の「江戸庶民」の会話が、見事に再現されているのだ。

これをまた、専門家として、「はちあ Hachia」さんが取り上げて、どうして当時の発音がわかるのか?について、言語学的に解説してくれているから、より深くしることができる。

視聴者からの多くのコメントに、「聞いたことがある」、「懐かしい」という書き込みがあるのは、たかが「二か三、多くて四世代前」のひとが実際に話していた「音」の記憶である。

幸か不幸か、こうした「記憶」があるのは、もう還暦近くの世代以上でないといけなくなった。
すなわち、「高度経済成長の最中」が、絶滅の最後にあたると考えられる。
この時点で子供なら、祖父母は明治中期の生まれとなるはずだ。

すると、この時点での子供の親にとっての祖父母は、明治初期の生まれになって、幕末以前の生活を引き摺っていたと容易に想像がつく。
「激動の時代」ではあるけれど、電話もテレビもインターネットもない時代の激動は、いまとはぜんぜん意味がちがう。

少なくとも、こうした片鱗は「現代物」の映画に記録されている。

小津安二郎を代表に、数々の「名作」にある登場人物たちの会話に、ふつうのひとたちの「話し言葉」がそのまま残されている。
映画だから、その会話が、「所作」とともに記録されていて、現代生活の「退化」、「荒廃」がわかるのである。

ついこの間まで言われていた、「はしたない」という注意喚起の言い方だって、すっかりなくなった。
それこそ、「所作」と「言語」が一致していたことの証拠であった。

これらのことをよく考えれば、「滑落」というイメージが湧いてくる。
これを「物理運動」とすると、高いところから低いところへと「墜ちていく」という意味なので、対象が物体ではなくて「文化」であっても、通じるところが注目点になる。

つまり、「高い文化」から墜ちて、「低い文化」になった、ということだ。

すると、幕末から明治初期にわが国を訪れた、「白人」が書き残した数々の「日本絶賛・礼賛」の文章とは、「欧米」という低い文化から見たわが国の高い文化を言っていることがわかる。

ところが、「科学」と「技術」で、だいぶ「遅れ」をとっているということ「だけ」で、わが国の文化全てが「低い文化」だと思いこんだことが、160年の経過と「努力」によって、自ら進んでほんとうに「低い文化」におとしめたのであった。

   

上左は、トロイの遺跡を発見する前のシュリーマンが、幕末の日本を訪れたことを書いていて、「我々(ヨーロッパ人)の知らない文明国」と言っている。
中の上下巻は、英国夫人にして旅行家のイザベラ・バードの旅行記で、右は大森貝塚を発見した米国人モース博士の日本滞在記である。

これらに共通するモチーフは、物質的な話ではない、「日本文化の高さ」なのである。

しかし、我々は努力して、物質的な「豊かさ」を追及するあまり、「拝金主義」という欧米文明の野蛮さを「先進的」と思いこんでしまった。
それでもって、「自己破壊」を続けていたら、とうとう「自分が何者なのか?」が分からなくなってしまったのである。

これぞ、開国以来一貫した、日本人の精神病理となった。

さては時間を巻き戻すことは不可能なので、いかなる手法でこの精神病理を克服するのか?という問題が、将来の日本人の「幸福」あるいは「不幸」を決定的に決めてしまうことになる、と理解できる。

江戸言葉に話を戻すと、幕藩体制という「分散型体制」で、「地方」も独立した国だったから、「お国言葉」という文化遺産もある。
すでに、小学生をして、「お国言葉」の理解が困難になっているから、自分が「遣い手」になるのは、最後のチャンス状態になっている。

しかも、現代の10代は、ほとんどテレビも観ない、ということなので、いまさら地方局は、お国言葉での放送をせよと命じたところで効果は薄い。
ならば、都道府県につくった国立大学の入試における「国語」には、「お国言葉」で出題するようにしたらいかがかとも思うのである。

人間は言葉によって制御される動物だから、「初めに言葉ありき」は正しい。

しかして、バベルの塔建設で神の怒りを買って、言語を乱されたという人類にあって、日本語だけが世界で別系統という不思議もあれば、古代シュメール語との共通をいう説もある。

日本文明発祥の不思議は尽きないけれど、日本文明が尽きようとしている。

第二国連の結成

このところ、戦後の世界秩序が崩壊をはじめた。
その代表的な組織が、国際連合(国連)だ。
この組織は、第二次世界大戦の「戦勝国」の連合だけれど、「列強」がそのまま残って、5ヵ国だけの「安保理常任理事国」という特権を持っている。

この5ヵ国のうち、3ヵ国がいわゆる「自由陣営」で、2ヵ国が「共産圏」だったけど、ソ連がロシアになって1ヵ国だけが共産国で、ロシアは「専制国家」という位置づけになっている。
念のため、3ヵ国とは、アメリカ、イギリス、フランスを指す。

ついでに、戦争相手国のドイツと日本は、国連憲章の「敵国条項」によっていまだに「敵国」のままの扱いになっている。
それでも、各種拠出金だけは請求されて、日独共にそれなりの高負担を課せられている。

それで、日独とも「平和国家」になったのだから、「敵国条項の撤廃・廃止」を求めていて、概ね「了承」されてはいるけど、いつまでたっても「決議」されないのは、常任理事国のうちの1国が「反対」を表明しているからで、流れることがわかっているから「決議」しないで放置されているのである。

これは、「由々しき」ことなのだ。
その反対をいう国に、わが国は兆円単位の援助をしてきたし、ドイツもすさまじき協力体制を構築してきた。
しかしながら、見返りはないのである。

むしろ、儲けさせてやっている、という理由から、感謝して当然という態度なのだ。

これを、「恩知らず」といって非難する保守系のひとたちがいるのが、なんだか恥ずかしいのである。
相手は、共産主義者だ。
「恩もなにもない」のが当然ではないか。

得るものは得ても、与えるものはなにもない。
これぞ、共産主義者の共産主義者たるゆえんであるのに、さらに血が上る保守人士たちは、「道徳」もないのか?と騒ぐのである。
共産主義者に「道徳」を持ちだすことのトンチンカンほど、哀れなものはない。

その「道徳」を破壊するからコソの「革命」ではないか。
つまり、「非難」しているつもりが、「褒めている」ことになっている。
だから、この「非難」とは、仲間うちだけの傷のなめ合いにすぎない。

「ソ連にくし」から、本当は「同じ穴のムジナ」なのに、まんまと北京にしてやられて、「ソ連」が遠く及ばないほどに巨大な経済体に育てあげてしまった。
それでもって、ぜんぜん言う事を聞かない「やくざ者」になったのである。

「やくざはやくざとしか関係を持たない」という「原理原則」があるから、世界に「邪悪さ」があふれ出て、コントロールを失ってきた。
甘い汁を吸っているつもりが、「吸わされて」いることに気がついて、それが「ゆすり・たかり」の口実にされてきたけど、振り払うことができないで、どこまでもまとわりついてくるのである。

このままでは、国民や消費者からの「信用を失う」と、「信用を失いはじめて」ようやく気がついたから、なんとかしようとやったのが、バイデン氏が呼びかけて実施した「民主主義サミット」だった。

たくさんの国と地域(たとえば台湾)が参加して、それぞれの「代表」が演説をしたけれど、国連常任理事国の「例の2ヵ国」は招待もしなかった。
「民主主義ではないから」という、あからさまな「理由」は、腐っても「アメリカ:バイデン政権」という自己主張でもある。

日本の外務省とは違って、中国外務省は事細かな仕事をしていて、「些事」と思われるようなことにでも、しっかり「図々しいコメント」を差し挟む。
こればかりは、わが外務省の役人も「爪の垢を煎じて飲む」ほどに真似てよさそうなものだけど、遊んで暮らすことに慣れすぎたから、なにがコメントすべき事柄かも区別がつかないにちがいない。

「言葉を失う」とは、国民の言い分である。

そんなわけで、この「サミット」を詳細に報じない、わが国マスコミの「逆神」ぶりからしても、じつは重要なサミットであったのだ。
それは、今後も行う、としたから、一発だけで終了ということではない。
つまり、「機構」になることを意味するのだ。

すなわち、「第二国連のタネ」ということになる。

これは、敵国条項に苦しまされてきた日本人にもドイツ人にも「朗報」なのだ。
今世紀になって、すでに、かねてからの「国民政府」は、とっくに「国民」と切り離されて、「役人政府」になってしまった。

だから、日本もドイツの役人も、敵国条項があるおかげで、まともな外交をしなくとも国民には言い訳ができるという「便利さ」すら与えてしまったのだ。
つまり、こんなに便利な「サボりの理由」はなかった。

そんなわけで、外務省やらの政府は、「第二国連」を決して歓迎しないという態度をとり続けるはずで、それがまた、国民政府を否定する政府と言うことの証明にもなるのである。

日本国民とドイツ国民こそが、民主主義国家だけで構成される、第二国連を渇望しているのである。

オリンピックが不道徳の象徴に

このブログで、今年の年頭に書いた「道徳と倫理を問う年に」の「象徴的正念場」が、オリンピックになってきた。

ここでいう「オリンピック」とは、「主催する組織:国際オリンピック委員会」のことでもあるし、「開催地の政治環境」のことでもある。
つまり、この「二つ」に対する、「道徳」と「倫理」が問われ、その「邪悪性」が正面切って批判されるようになったのである。

改めて、道徳と倫理の定義を再掲する。
「道徳:moral(モラル)」は、善悪をわきまえるために、守るべき規範のこと。
「倫理:ethics(エシックス)」は、生きていく上で、人として守るべき道のこと。

そして、用法の例として、「交通道徳」と言っても「企業道徳」とは言わないことを挙げた。
「道徳は個人の内面における自発性」を、「倫理は客観性」に重心があるからだ。

さて、状況を確認すれば、キーワードは、「ジェノサイド」というおぞましい実態が、「占領地」で行われている、という事実をいう。
ここでいう、占領地とは、新疆ウイグル自治区のことだけでなく、チベット自治区しかり、内モンゴル自治区、それに満州を指す。

これらは、歴史的に別の「国」だったのである。
それを、軍事侵攻によって「占領」したから、「占領地」という。
彼の国の地図で、これらエリアを別の色分けをするのが正しく、また望ましいが、わが国の「文部科学省」は、学校教育の場でそのような指導を一切していない。

もちろん、「台湾」も別色が正しく、また望ましいのは、日清戦争での「台湾割譲」という痛恨のミスを明治政府が冒したことの反省でもある。
「下関条約」調印「後」において、清国側全権の李鴻章が発した「台湾は化外の地である」とうそぶいた一言で、この条約の無意味を嗤ったからである。

つまり、「清国」にとって、最初から台湾を自国領土だという意識なんか微塵もないものを日本にくれてやった、ということである。
だから、「割譲」ではなくて、日本は台湾が日本領であることの「確認」をすればよかった。

このことが、台湾の帰属問題として、現代にまで尾を引く原因になってしまって、わが国の安全保障に重大な懸念をつくっているのである。
当然だが、台湾が日本領だという確認をしたなら、蒋介石国民党に不法占拠されたという意味になって、北方領土とおなじく、「返還要求」ができるものを。

これが、岩里政男(李登輝)氏が、台湾の「日本復帰」を悲願としていたことの国際法的根拠であった。

さて、組織が腐敗すると、その組織の行動の全てから「腐臭」が漂うものである。
これが、上述の二つの組織に共通する。

もちろん、開催国側の「共産主義」は、最初から腐った思想なので、国全土が腐敗するのは当然で、「革命」とは、「腐敗運動」のことをいう。
人間の脳を腐敗させ、支配者と被支配者に区分する。
どちらの側も、別々の意味で脳が腐るので、支配者は大量殺人を正当化し、被支配者は奴隷の身に墜ちることに喜びを見出すようになる。

では、オリンピック委員会という組織の本質とは何か?を問えば、ヨーロッパ貴族の「余興」としてのスポーツ観戦であった。
すなわち、「アスリート」を「奴隷」扱いして、巨大な「サーカス(あるいは「猿回し」)」をもって、金銭的欲望も満たそうとする「運動」である。

この「邪悪」をごまかすための作文が、「オリンピック憲章」なのである。

つまり、『共産党宣言』と構造をおなじくする。
かつて、このような「秘密」が漏れることなく、「きれいごと」の中にあったものが、この度「ダダ漏れ」したのは、女子テニス界のトップ選手の「失踪」がトリガーとなったからであった。

だから、選手不参加というボイコットに、「努力を重ねてきた選手がかわいそう」というのは、猿回しのおじさんが猿に対して「憐憫の情」を表すようなもので、驚くほどの「偽善」と「欺瞞」がある。
猿が芸をしないと、猿回しのおじさんの収入がなくなることしか意味はない。

すると、選手自身が人間ならば、どういう「道徳」の発露があるのか?ということになる。
その選手が所属する「競技団体」には、「倫理」が問われて、女子テニス界は見事な意志決定をしたのだった。

そして、回り回る「お足=おカネ」によって、とうとう公式スポンサーに「倫理」が問われることにもなった。
アメリカ連邦議会は、これら企業に、スポンサーを降りるよう要請をはじめたのである。

そんなわけで、わが国の内閣は、日本オリンピック委員会の会長になった、柔道の山下泰裕氏を「派遣」すると決めたのは、山下氏がいまだに「猿」であると認識している証拠で、残念ながらこれを本人も認識しているということになる。

個人の道徳の発露も、委員会としての倫理もない。

そして、本来、国家から独立した民間組織のはずの、「オリンピック委員会」が、国家に依存していて、命ぜられたら断れないことまでが露わになった。
げにおそろしきは、国家が握る「予算=補助金」という「麻薬」なのである。

これを、文部科学省の配下にある、「スポーツ庁」が仕切っている。
はたしてその長官にも、「猿」を据えるという役人の邪悪がある。

次の興味は、はやくも「パリ・オリンピック」がどうなるのか?になったのである。
こんどは、フランス政府を牛耳るのが、ヨーロッパ貴族たちであることが披露されるにちがいない、という「期待」である。

日本の中華思想

江戸時代初期の天才的大学者として有名な、山鹿素行の代表作『中朝事実』こそが、わが国を本物の「中華」だと論じた力作だ。

「中朝」とは、「中華」の「中」で、「朝」とは、「本朝」つまりわが国の「朝廷」の「朝」を指す。
つまり、本朝こそが世界の中心であることの「事実」を、「中華」を自認する国の歴史事実と比較して淡々と論じているのである。

すなわち、神々を祖先にする「すめらみこと」の家系による、一貫した権威と民のためという思想の優位性の主張であった。
これが後の本居宣長らによる、「国学」への影響となって、明治を迎えることになる。

よって、「中華」の国との思想的な「違い」にも触れざるを得なくなって、幕府が推奨した、天子を補佐するための「朱子学」を否定するに至る。
これを、「江戸市中」で主張したのだから、ご公儀の摘発から免れることはなく、「江戸所払い」の処置を受けることになった。

山鹿素行といえば、もう一方の「専門」に、「軍学」がある。
よって、軍学指南という名目で、播州赤穂浅野家(5万石)に「お預かり」となった。
このときの藩主は、あの浅野内匠頭の父親である。

それで、浅野家は「家老待遇」という破格の条件で山鹿を迎えた。
こうして、浅野家の家の学問が、「山鹿流」となったのである。
「人材」を求めるのは、特に江戸初期の「藩」の経営には必須とされた。
なにしろ、戦国が終わって幕府体制になったのである。

だから、幕府には従順を示さないと、どんな理由(いちゃもんでも)で、「お取り潰し」の憂き目をみるかわからない。
だからといって、全部を受け入れては「家の経営」が成りたたない。
武士にとって、最大の危機は、「浪人」になってしまうことだった。

そんなわけで、浪人の身で他家に「再任」することは、超難関大学に合格するより困難だったが、「超優秀」となれば、引っ張りだこになったのである。

なお、全国の武士は、『武鑑』という本に登録記載されていて、その「家」がどんな由来かも一目でわかった。
すなわち、『武鑑』から家の名が削除されたら、「武士」ではなくなったのである。

いまでいう、「公務員名簿」で、各藩毎に整理されていたのである。

それで、「山鹿流」は、各藩に重用されて、特に津軽家の本家・傍流では家老職が当然となった。
また、山鹿素行自身の交遊も広く、高家筆頭吉良上野介とは、昵懇の間柄ともなっていた。

その「昵懇」ぶりは、吉良家伝来の当主にだけ伝わる「プロトコール」の秘伝書を、上野介は素行に直接見せて、これの書写を許したことで証明されている。

すると、吉良家と浅野家は、山鹿素行を通じても、悪い関係とはいえなかったはずである。
これを、小名木善行氏は、「忠臣蔵の真実」として解説している。
これまで数々ある「解釈」で、もっとも納得のいくリアルな感じがする。

いまでいう、「儀典官」の長が吉良上野介ではあったけど、おそらく教養に長けていた本人には、山鹿素行の学問は「私的」な趣味の世界であったことだろう。
対する、浅野家は、藩内で「公的」な学問になっていた。

これが、「すれ違い」の決定的要素となって、勅使饗応役での「プロトコール」上の解釈が、トリガーとなったという説である。

「高家」とは、室町幕府以来の伝統と格式をいう。
問題となるのは、三代将軍足利義満が明(みん)から得た、「日本国王」の称号にさかのぼる。

これ以来、足利幕府に勅使が訪問した際の「席次」が、将軍が上、勅使が下になってしまったのである。
よって、徳川になっても、高家としては「伝統」として、この席次を踏襲してきた。

しかしながら、山鹿素行の学問はこれを到底許すものではない。
天皇の名代たる勅使が上、将軍が下になる「当然」がある。

浅野内匠頭は、幼少時に初の「勅使饗応役」を務め、このときは吉良からお褒めの言葉を得ているから、「伝統」を踏襲したのであろう。
しかし、成人してからの二度目では、「藩内世論」もあって、いかにしてこの「ゆがみ」をなくするかが最大の関心になっていた。

つまり、「席次」という、いまでも外交の場では重要な問題が、国内での「権威」を示す重大事であり、さらに、私的には吉良氏も賛同していたはずで、おそらくは浅野内匠頭とのプライベートな場では、双方の意見の一致があったにちがいない。

しかして、ご公儀の儀典長としての立場になれば、そうはいかないのが「しきたり」というものの面倒だ。
おそらく、浅野内匠頭は、饗応当日、独断で席次を変えてしまったものを、吉良がとがめたにちがいないとの説にも説得力がある。

さらに、「藩内世論」が浅野内匠頭の行動を支えたし、「松の廊下」での刃傷も、吉良の怪我の度合いから、「峰打ち」が妥当だろうという説に、説得力が加わる。
真剣を殺意あって振れば、「軽い傷」で済むはずがないし、鎌倉以来の「ケンカ両成敗」の原則があるから、一方的処断はあり得ないと考えた浅野内匠頭の発想は、あくまでも「常識的」なのだ。

しかし、幕府はそうしなかった。

しかして、「討ち入り」とは、「藩内世論」の言った側の責任として、さらには、『中朝事実』の実現だったのである。

「最終的」に、幕府は「将軍綱吉の遺言」として、100年後に「席次」を「正す」ことを約し、大石内蔵助以下は「満足」をもって散っていった。
これがとうとう、「大政奉還」にまで至るのであった。

残念ながら、吉良邸で大石内蔵助が叩いたという「山鹿流陣太鼓」はフィクションだという。
確かに、歌舞伎演劇としての効果は抜群だが、攻め手としては余計な仕事ではある。

さて明日は、12月14日ではあるけれど、旧暦ならば来年1月16日がこれにあたるので、念のため。

当世経営一代女

小嶋(岡田)千鶴子の話である。

「岡田屋呉服店」から「ジャスコ」そして、「イオングループ」を創った伝説のひとは、創業一家六代目の長男、卓也ではなくて、その姉、千鶴子なくしては語れない。

その千鶴子には、『あしあと』、『あしあとⅡ』という著作があるが、どちらもグループ内と取引先など関係者に配布された「非売品」のため、彼女の「評伝」は、『イオンを創った女』を読むしかない。

ただし、中古品サイトやオークションサイトに、ときたま「出品」されている。
売ってしまう、という行動は、この本の価値を理解しないからか、理解してコピーを撮ってから、高額の現金を手にしようという「二度おいしい」を思いついたかのどちらかだろう。

けっこう、いいお値段をつけている。

こないだ「会社は学校なんだよ」を書いたけど、女史はこれを本気で実施した。
そのために、自身が「驚くほどの勉強をした」というのだから、並みの学者では歯が立たないだろう。
なにせ、「実務」として「理論」を活用したのだ。

イオンが驚異的な成長を遂げたのは、「社長」との「棲み分け」をしていたからだという「説明」には、説得力というよりも「納得力」がある。
これぞ、「ナンバー2」の鏡だ。

 

通産官僚から作家になった堺屋太一の出世作は、『油断』(1975年)で、「本物」との関係でいえば実にタイムリーだったけど、これを執筆して発表した時点では、現役の通産官僚だった。
余談だが、大阪万博の担当官でもあった。

それから10年、1985年に出たのが『豊臣秀長-ある補佐役の生涯』である。
第二次オイルショック(1979年)の影響から抜け出せない、「日本以外」の先進国(特に英米)は、スタグフレーションに悩んでいて、「プラザ合意」で円高になった年である。

円高=ドル・ポンド安という意味だ。
それは、円から見てドルの価値が「半減」するという破壊力で、後の「バブル」の遠因となった。

その「変化」の大きさゆえに、当時は、「リストラクチャリング:事業の再構築」がブームになりかけていたから、用語としてもちゃんと「リストラクチャリング」とか、「事業再構築」とかと書いていた。

もちろん、本来の言葉の意味通りの用法なので、日本人に「まじめ」さがまだ残っていたのだが、空前の好景気(あとで「バブル」とわかる)で、すっかり浮かれた「脳」では、もう面倒くさくて、「リストラクチャリング」を正面から取り組む企業経営者が絶えたのだった。

バブル崩壊という宴(うたげ)のあとに残った「無惨」で、無責任を貫くための「窮余の策」が、「人員削減」なのであるが、これに「リストラ」という、「新語」を発明して、すっかり定着してしまった。

このあたり、言語能力として「悪知恵」だけは働いた。

そんなわけで、わが国は、これ以来ずっと、止まらない衰退が続いているのである。
要は、「リストラクチャリング」をしないといけないのに、社名やらの看板をつけかえる程度の「痛み」を「改革」と呼んできた。

だから、『豊臣秀長』の話は、「リストラクチャリング」思考で読まないといけないのである。
織田家という「コングロマリット」における、子会社社長が「秀吉」で、社長の才覚を磨いて実行指揮するのが「ナンバー2」の役割なのである。

それゆえに、「ナンバー2」を失うと、組織が弛む。
わかりやすい企業の例では、「本田技研工業」の、本田宗一郎と藤沢武夫の関係もしかり、なのである。
世界のホンダは、本田宗一郎のワンマン・独裁ではぜんぜんなかった。

すると、この30年間で、わが国企業に「ナンバー2」がいなかった、ということがわかるのである。
もっといえば、ナンバー3にもなれないような人物が、トップになり続けた悲劇だ。

これは、会社が「学校をやめた」から、ともいえるのだ。

ひとは勝手に成長なんてしない。
むしろ、放置すれば退化してしまうものだ。

こういう目から、女史の履歴を確認すれば、60歳で一線から身を引いて、今年105歳になったのだから、45年前のことである。
つまり、「1976年」になるから、『油断』が出た翌年だ。

いま、イオングループがあるのは、女史による社員教育の成果としかいいようがない。
そして、いまは、最後の世代が引退する時期を迎えている。

だから、これからが、「正念場」だということがわかるのである。