アーヴィング・バビットは、前に書いた「思考の三段階」で登場した、アメリカにおける数少ない賢人のひとりである。
どうして賢人がアメリカで数少ないのかといえば、アメリカ人が低脳だといいいたいからではなくて、清教徒が英国から逃れてきた歴史から、真に伝統的(古代ギリシア哲学から)な教養ある人たちの層がはじめから薄いのと、建国してから入国した移民たちが、さらにヨーロッパで食いつめた人たちだったために、より伝統的でいまでは想像もできないほどの分厚い教養を持った人が、より薄まったからだといいたいのである。
我われ日本人も、明治からの国が推進する教育制度で、賢人を育てることが困難になった。
だいたい70年でダメになるのは、御維新から敗戦まで、GHQの征服から2015年頃以降の現在と、あんがいと納得できる時間なのである。
かんたんにいえば、「金太郎飴」のように、一定のバラつきの範囲内での教育しか受けることができなくなったからである。
その一定の範囲のペーパー試験のデータから、単純に「偏差値を算出する」ことで、バラつきの中身の整理をしているにすぎない。
念のため、偏差値の計算式は、
(個人の得点ー平均点)÷ 標準偏差 × 10 + 50
という、とてもかんたんな式なのである。
なお、「標準偏差」は、平均点からの差の合計の平均、というちょっとややこしい。
これを、ふつうに+-を足すと、「ゼロになる」から、計算方法として、平均からの差の自乗(正負を消す作業)した数字をぜんぶ足してから、平方根をとって元に戻すことで求めることができる。
読者が持っているだろう「ふつうの電卓」に、「√」キーがあれば、それは、この標準偏差を計算するためにあるものだ。
ただし、だいたい980円から手に入る「関数電卓」があれば、もっと便利だけど。
ヨーロッパでも日本でも、エリート層にはペーパー試験なんかなかった。
それで、ヨーロッパ人はこれを、「中国式」とよんでいる。
「科挙」のことで、いまではたいがいの国の公務員試験で採用されるに至ったが、それに反比例して、教養人が絶えた当然がある。
阿呆な企業は、公務員試験を真似た試験を応募した学生に課して「選んでいる」気になっているが、少子の時代にこれで済むとかんがえるのは、気が遠くなるほどわかっちゃいない証明なので、そんな企業に応募したら一生を棒に振るかもしれない。
さてそれで、『人本主義』(研究社、昭和9年)は、バビットの『What is Humanism?』の翻訳だと書いてある。
いまようなら、「ヒューマニズムってなんだ?」と無粋な訳とはせずに、なんかもっと格好をつくろった題をつけるのだろう。
訳者は、後年、英文学の大御所となる、弱冠28歳の上田勤氏である。
その「訳者の言葉」が冒頭にあって、上田氏はバベットを「ノーマルな人間の究極の理想と言ったものを、事新しく叫んで居るに過ぎない様に思われる」と、驚くほどの無教養ぶりを活字にして残してしまったのである。
それで、「こうした余りにも平々凡々な常識が、あらゆる点で極度の発達を遂げた現代に於いて、如何なる意義を有するかは、人各々その意見を異にするであろうが、ともかくも彼の人本主義の唱導が、彼地で盛んに議論されたと言う事実は、少なからず興味のあることだ」とまで書いちゃったのである。
最後に、「浪漫主義の長所美点にまでも眼を蔽うきらいのあることは、彼のために惜しむべきであろう」と、すでに世界にしられた大教養人のバビットを、28歳の日本人の若者が、上から目線で締めているのは、すでに「大御所」の貫禄如実といったところかもしれない。
ようは、残念ながら決定的に、「一周遅れ」、なのである。
ただし、上田氏を擁護すれば、上田氏の生まれは1906年(明治39年)なので、まだ江戸時代の教養(おそらくヨーロッパよりはるかに高度だった)が残存していたことからの、「なんでやねん」だとかんがえると、辻褄はあう。
わたしが気になるのは、ここで上田氏が称賛している、「浪漫主義」とは、ジャン=ジャック・ルソーに行きつく、実体は、文化破壊の全体主義のことを指している。
しかしながら、戦後、上田氏がわが国を代表する英文学者になったように、世界は、また、日本でも、教養を持っているひとを「人間」だとして重視する常識をヒューマニズムといっていたのが、浪漫主義=共産主義の蔓延によって、「人権にへばりついている人道主義あるいは博愛主義」を、ヒューマニズムに転化させたのだった。
この意味で、『巨人の星』の「星飛雄馬」も、公明党がいっていた、「ヒューマニズムの政治」も、バビットがいうヒューマニズムとはかけ離れた、ルソーがいう、「人権+人道主義」のヒューマニズムの逆転を基準にした用語になっている。
バビットのいうヒューマニズムとは、いわば、「貴族主義」のことであるが、単にカネや資産があって遊んで暮らすものを貴族といっているのではない。
「高貴」なるもの、という意味なので、現代のヨーロッパ貴族を貴族とはいわないであろう。
明治初期にわが国を訪れた本物のヨーロッパ貴族が、「日本人は総じて貧しい。だが彼らは高貴である」と、ときの日本人を評したのは、いまの日本人とは別の生命体のことを指している。
ここでいう「総じて」とは、一般庶民も含んでいるからである。
それは、当時のヨーロッパにおける「平民」とは、まるでちがう、という驚愕をいったのだ。
いまは、日本人全体が、当時の残念なヨーロッパ平民に成り果てたけど、これを、「欧米化」というのである。
人本主義は、紀律と選択の訓練をもって、個人の完成を目指す。
「禅」と似ているのである。
そうやって完成された個人の集合体があれば、なにもしなくとも「より良い社会をつくる」ので、はなから全人類の向上を目指すような嘘にまみれた大上段なことはしない。
真に教養あるものを人間として、これを中心にすれば、あまねく多数を導けるとしていた常識が、無教養でも一票の人道主義的平等主義が、あまねく多数を不幸にする現実が、バビットがいう警告の「新しさ」だったのである。
おそらく、上田氏は生涯を通じてこの訳出したバビットの真意を理解しなかったであろう。
そこに、大学組織や学会やら、彼を取り巻く人間環境が、浪漫主義であふれていたからにちがいないし、むしろ、ここで彼がいう「浪漫主義=進歩主義=社会主義=共産主義」つまり、嘘にまみれた大上段の議論をもっと礼賛したはずなのである。
こうして、上田氏だけではない、数多くの、「高貴」であるべき人々が、人権=人道主義=進歩主義」の先達になった挙句の不幸が、現代の格差社会をつくっている。
進歩主義による平等が、理屈通りの化学反応を起こして不平等をつくって止まらないのである。
なお、バビットは、人道主義を「ヒューマニテーリアニズム」と書いて、人本主義の「ヒューマニズム」と区別している。
なかなかに奥深い考察が、50ページほどのわずかなパンフレットに書かれているのである。