ワンパターンが役人の行動原理だ

わが国では、高級官僚が、かつての武士階級のなれの果てだった時代が、明治維新の「維新」たる欺瞞の本質で、じっさいは、「疑似武士階級」による支配が続いている。

薩長の若い武士たちが、みんな「下級武士だった」という欺瞞もそのひとつで、萩藩における「撫育局」なる、藩主直属にして、家老職さえ筆頭家老のみのしるところで、他の家老以下はその存在すらしり得ないという、秘匿がされていた超エリート部隊であったことは前に書いた。

有名な藩校「明倫館」があるのに、撫育局員の子弟が、松下村塾に通わせられたのも、超エリート育成のためで、これを、多数の藩・主流から嫌われて追い出された、という格好にしていたのである。

もちろん、ほんとうに嫌われていた。
得体のしれないやつら、だったからである。

それで、伊藤博文以下の英国留学組、「長州5(ファイブ)」は、彼らが明治政権を簒奪するやいなや決起した、地元におけるかつての主流が起こした、「萩の乱」で、皆殺し、という方法で意趣返しをやった。

これでも洗脳された気の毒な現代の萩人たちは、日本を私的に支配した「長州5」に絶大なる尊敬をもって、松陰神社に参拝している。

結論から先に書けば、明治維新とは、英国とインドを生産拠点とした阿片貿易で巨大企業に成長したジャーディン・マセソン商会による、日本乗っ取りの「政変」のことである。

いま、アメリカ人に現代の阿片、「ゾンビドラッグ」とも呼ばれる動物(馬)用鎮静剤のキシラジンと、オピオイド鎮痛薬の「フェンタニル」を売りつけているのが、習近平の中共だから、ジャーディン・マセソン商会への間接的な意趣返しとなっている。

もしも、米中戦があれば、それは「新しいアヘン戦争」なのである。

全体主義政党の民主党は、「革命」のための破壊をなにより優先させているので、「不法移民」と彼らに持ち込ませている「麻薬」の両方を取り締まる気は毛頭なく、アメリカ人の若者を中心に、ゾンビ化させてこれを「個人の自由」と言い放っている。

これが、ペンシルベニア州フィラデルフィアのケンジントン通りのすさまじさである。

「もしトラ」が実現したら、トランプ氏は最初に麻薬取締をするためにも、不法移民の流入を止めるという意味は、見るに堪えない惨状があるからである。
これが、キリスト者である、彼の信念でもあるから、ようやく気づいたアメリカ人(とくに黒人層)が絶賛支持しているだけなのだ。

さて、戦後、わが国の経済官僚が超優秀であると喧伝したのは、城山三郎をはじめとした、「ほめ殺し工作員たち」だった。
これに、アメリカ政府やノーベル賞学者も、「通産省礼賛」を書きまくって、単細胞の日本人ナショナリストのケツを叩いたのである。

そんなわけで、売国のNHKが、『プロジェクトX』で垂れ流した、「YS11」の物語は、あたかも通産官僚の一課長の功績のごとく国民を洗脳したけど、この「YS11プロジェクト」が、ほんとうは大失敗した経緯については一切語らない偏向ぶりを発揮した。

カネをだすから口もだし、ひと(当然に「天下り」)も飛行機製造の民間企業にだして、とうとう、企業内に「通産派閥」を形成して、経営を乗っ取ったのは、「明治維新」のごとくであった。

そうやって、売ってなんぼ、のビジネスを、ビジネスをしらない役人たちが食い潰したのが、YS11の悲劇的な失敗であった。
つまり、世界市場で、ぜんぜん売れなかったから、結局は大赤字のただの国家予算の使い倒しになったのである。

おなじことが、三菱ジェットで起きたし、リニアモーターカーも、世界で売れない穀潰しプロジェクトであるから、後世の日本人はえらい負担を強いられる。
静岡県知事を支持はしないが、唯一、この件で頑張っているのは事実である。

けれども彼は以上をいわないので、この御仁の経済学者としても陳腐なところだ。

それで、とうとう、「産業のコメ」たる、半導体でも、名前を「経産省」に変えても同じことをやっているのが、わが国高級役人のDNAというものか。

唯一の光明は、まだ経済界の一部からではあるけれど、国からカネ(補助金)を一旦もらい受けたら、骨の髄までしゃぶられることのワン・パターンに、あからさまに嫌忌するようになってきたことである。

わが国の高級官僚たちを育成する東京大学における腐臭の発生源も、高級官僚に差配される予算のためという口実である。

ほんとうに優秀な理系の学部が、とんちんかんな文系に支配されているのは、理系人が学内政治に興味がない潔癖を悪用したにちがいない。
それがまた、偏差値の困った使い方なのであって、超・突出して難関の医学部生が、卒業時に凡人になるのを、養老孟司名誉教授は、外れ値の平常化、と呼んでいる。

さいきんでは、こうしたどうしようもない政府を、「寄生虫」と呼ぶようである。
それは、寄生虫たちの駆除が必要になってきたのは、宿主(国民)がいよいよ枯れて倒れそうだからだ。

どんな「虫下し」を処方したらよいかをいえる、国会議員を選ぶのを、いまや宿主の国民が決めないで誰が決めるのか?までになっている。

なので、百家争鳴おおいに結構で、いろんなタイプの虫下しを処方して実際にのみ込める、いろんなタイプの議員を選ぶことが肝要で、もう「自民党」とかの一枚看板が、ぜんぜん役に立たないことだけはわかっているのである。

正当な商取引が罪になるN・Yの自爆

アメリカニューヨーク州の地裁は、同州司法長官が提訴した、「民事訴訟」で、トランプ氏へ550億円の賠償と、同州内におけるトランプ氏の経済活動を3年間、禁じることを命じる判決を出して、全米が大騒ぎになっている。

まず、この裁判は、刑事ではなく、あくまでも[「民事」である。

それで、「被害」を訴えたのが、ニューヨーク州司法長官であることも、なんだか意味不明で、証言に立った、銀行家は、トランプ氏の会社にローンを実行する際、ちゃんと貸出額に見合った不動産を担保にとって、全額契約通りの金利で一度も遅滞することなく返済された、と証言し、くわえて、「また取引をお願いしたい」と述べて証言をおえている。

なお、この司法長官は、自身の選挙公約で、「トランプ氏を起訴する」として立候補したから、まったくの政治目的(魔女狩り)であることも注目されるが、ご本人には「刑事起訴」できずに、民事にせざるを得なかったことに不満があるようである。

しかし、裁判官自身も、その担保にあてた不動産の価値が不当に少なかった、として、判決は「詐欺罪」を認定したのであった。

この「不当に少ない担保価値」というのも、こんどは裁判官の独自判断で、対象となった地域の複数の不動産業者が、一斉に、「(裁判官が下した)そんな低い評価はありえない」との声明を発表するほどのことになったが、裁判では、こうした不動産事業者の意見は完全に無視された。

また、貸し出した銀行家も、行内にける「融資審査」を内部規定通り経た通常の融資にすぎず、もし判決が示すように詐欺だとしたら、本行はいかなる損害を受けたのか?さっぱりわからないし、株主に、銀行内部による組織犯罪を疑われる可能性が生じることは、耐えがたいとコメントしている。

このことが、他州にも及んで、「全米」における騒ぎになったのは、いかなる取引でも、詐欺とされることへの大反発となったのである。

こうしたビジネス界からの反発を受けて、民主党選出の、ニューヨーク州知事は「火消し」のために、次のように発言した。

「皆さん、大丈夫です。どうぞご安心下さい。本件は、相手がトランプ氏とトランプ氏の会社だから糾弾されただけですから」

この見事な政治目的だとする発言が「決め手」となって、なんとニューヨーク市を中心に、有名経営者が率いる企業が、他州、たとえばフロリダ州に、移転を開始したのである。

政治に睨まれたら、いつでも誰でも、トランプ氏が受けているような「犯罪者扱い」を、自分がされるやもしれぬ。

あるいは、「反トランプ」さえいえば、なんでもできる、ことになって、どんな政治判断で損失を被るかわからない、と。

識者の一部は、「資本主義の否定」をいう者がいるが、「正当なる商取引」をしても、詐欺とされるなら、それは資本主義成立以前の、中世に舞い戻るよりも酷いことなので、「資本主義がどうの」という薄っぺらなはなしではない。

ただし、「反トランプ」さえいえば、なんでもできる、はすでにカリフォルニア州で実行済みとなっていて、「万引き天国」からの、小売店の崩壊がとっくに起きている。

いまや、ついこないだのサンフランシスコの中心街も、ロサンゼルスの中心部にも、商店は存在しない。

嫌忌した住人たちは、カリフォルニア州からならテキサス州、ニューヨーク州ならフロリダ州に、移住を開始していて、カリフォルニア州もニューヨーク州も、人口減少に見舞われている。

減った人口を補填するために、民主党バイデン政権は、不法移民を大量に送り込んでいて、さらに、バイデンは、人口統計に不法移民を含めるよう、大統領令にサインした。
それで、連邦下院は、この大統領令を無効とする法案を審議して対抗しているのである。

なぜなら、10年に一回の国勢調査が、連邦下院議員の議席数を機械的に決めるのが、アメリカの民主主義体制だからである。

世界の商都、ニューヨークもこのありさまで、だったら「東京」といいたいところだが、役人(政権与党)がつくった規制でがんじがらめの日本にやってくるビジネスマンは、とうに存在しない。

ニューヨークも東京も、アメリカ民主党(と配下の自民党)による、予定通りの破壊工作のおかげなのである。

すると、民主党候補を徹底的に選んできた、ニューヨーカー(この言い方は「トロキストたち」という意味であった)の、自業自得となっているし、日本でもおなじことがいえる。

これに追い打ちをかけるように、全米のトラック運転手たちが、ニューヨーク行きの拒否を表明している。
彼らの95%が、トランプ支持者なのだ。

文明の最前線をいくニューヨークが、あらゆる物資不足に陥る。

これは、想像を絶する、大パニックとなろう。

民主党にこぞって投じた、ニューヨーカーに、極大のブーメランが飛んできそうなのであるが、日本ではないが起きるのか?わからない。

88年目の2月26日に。

「自由納税党」と揶揄されても動じない

22日、衆議院予算委員会で、鈴木財務相が答弁したことについての、SNS「X」に投稿された絶妙な反応である。

質問者は、立憲民主党の大西健介議員で、質問は、政治資金報告書に記載がなかった収入のうち、政治活動に使わなかった残額を個人の雑所得として確定申告して、さらに、納税するのかどうか?であった。

論として、納税するのかどうか?は、確定申告によって決まるので、大西氏は自身で確定申告したことがあるのか?と軽く疑う質問ではあった。

その答弁は、「使い残しがある雑所得で、控除で引ききれない部分があるという判断の中で、納税をするという可能性としてはあると思う。疑義が持たれた政治家が政治責任を果たす、そういう観点から判断されるべきものであると思う。」とした。

これをもって、「納税は議員の判断」という記事が出回ったのである。

さらに、記事は1日遡って、21日、鈴木大臣は、確定申告が始まった税務署窓口に苦情が寄せられていることについて、「税務署等の現場で担当者が大変苦労しておるということについては、本当に私としても申し訳ない」と答弁していた、とあたかも上記の発言と関連するかのように書いている。

もちろん、「裏金問題」ということに関しては関連しているけれど、この鈴木善幸氏の息子の、親子二代にわたる頭の悪さを、悪意をもって書くから、読解力のない読者には、「憎悪を焚き付ける」役割しか果たしていない、凄まじきプロパガンダである。

また、財務官僚も、この頭の悪い大臣をスケープゴートにすべく、ぜんぜんフォローしないのも、じつにけしからんことだ。
腐っても「大臣」なのである。

当ブログは、自由主義に基づいているので、いまの我が国の政権与党や政府機能に関しては、ぜんぜん評価していないし、むしろ、反政府的立場であることを念頭に、以下、鈴木大臣の頭の悪さと、記事の悪意について書いておく。

第一に、この大臣は、国会の場を、立法機関での行政官としての発言であるとどうやら認識できていないのだ。
この点について、質問者の大西議員も怪しいから、追求が甘くなっている。

なお、国会における政府答弁は、最高裁判例と同様に、法的拘束力を持つ。
ついうっかり忘れがちなことではあるが、「国会=立法府=国権の最高機関」だから、ここで政府側が言ったことは、議決がなくともそのまま法的根拠をもつから、とんでもなくわれ我の生活に密着している。

これほど重要なものだという認識が国民にないのは、支配層が好きにできるように、国民を教育しないからである。

さて、少なくとも、予算委員長は鈴木大臣の答弁を許可する(何人も委員長の許可なく勝手に発言することは許されない)ために、「財務大臣」と委員長がコール(指名)してから、鈴木氏は答弁に立っている。

つまり、このとき、鈴木氏が最優先する立場は、あくまでも「財務大臣」としての発言だということが、「法的」に規定されているのである。

それを、あろうことか、一政治家(議場にいる議員)の立場で、自民党の同僚議員たるくだんの人達の立場について忖度した発言をしてしまったのである。
そのために、財務大臣としての「税の考え方」と混同が生じた。

それで、前段の、「使い残しがある雑所得で、控除で引ききれない部分があるという判断の中で、納税をするという可能性としてはあると思う。」になったのだろう。

しかし、もはや「事件」となっている事案なので、『マルサの女』の記憶がある国民からしたら、「マルサ」が強制査察して当然、との想いが国民にはある。

何せ、検察が断念したくらいだから、(正義の)頼みの綱はマルサしかないとの思い込みが特に本作を劇場で観た高齢者ほどあるだろう。

これを、この頭の悪い老人は、思いつかないのか、思いつかないように役人からなにか命じられているのかは知らないが、もしや、国民のガス抜きに役人が用意した「マルサの抜き打ち査察」を台無しにしてしまったのかもしれないので、役人がフォローしないのか?

それが後段の、「疑義が持たれた政治家が政治責任を果たす」という答弁で、対象となったご同僚たちに、自主的に申告せよと、「逃げ場」の大ヒントをあろうことか、「国会答弁」で与えたのである。

果たしてこれは、武士の情けなのか?

そういえば、父君の善幸氏も、政界に嫌うものがいなかった(「無能」の烙印があった)ために、「総理になっちゃった」人物であった。
ところが、これが、意外にも、当時として「長期政権」になったのは、60点内閣として、可もなく不可もなく、だったからである。

なんだか、『沈黙の艦隊』における、「竹上総理」のようなのだのだけど、よほど竹上氏の方が頼もしい。

いま、鈴木善幸内閣の業績を思い出せるひとがいかほどいるのか?
わたしには、単なる時間潰し内閣であったので、日本国民は、絶対に取り戻せない「時間資源」を浪費させられたのである。

この意味で、頭は悪いが、ひとがいい、というDNAはありそうだ。
もちろん、国民に対してではなく、目に見える範囲の人間関係だけでだけど。

そんなわけで、「納税は議員が判断」と掻き立てるマスコミの悪意に満ちたプロパガンダは、あたかも、共産党の主張が当然とするお里がしれる煽りとなっている。

なんにせよ、わが国の国家統治の体制は、とうに「金属疲労」を起こしていて、この体制を一回捨て去るしかないところにまできている。

この千載一遇のチャンスを、全体主義者たちが舌なめずりして狙っているのである。

自然崩壊では被害甚大となるので、自由主義によって計画倒産させるのが、唯一の選択肢なのである。

バブル以来の株価更新って騒ぐけど

このところ、連日、「株価最高値の更新!」と、相変わらず意味のない煽り記事を書いたり言ったりしているわが国のマスコミは、ほんとうに経済学とかを学んできたひとが書いたり言ったりしているのだろうか?

もう、「おとぎ話」にもならないので、念のため書いておく。

もちろん、こうした証券会社などの宣伝を信じてしまう残念な一般人も多数いるのだろうが、「何を今更」と、ちゃんとバブル時に痛い目に遭って学習したひとたちには鼻で笑われていることだろう。

残念ながら、円の水準は、100円をもってふつうとしていたのが、「半減」して、150円としてみないといけなくなった。
この円の減少した価値を、「バブル以来」と30年以上前と比較するときに考慮しないのは、どういうことなのか?といいたいのである。

たとえば、横浜を代表する、崎陽軒の「シウマイ弁当」の価格は、わたしの記憶で、170円だったのを覚えている。
おそらく、昭和40年代のことだとおもう。

いまは、税込950円となっている。

ちなみに、「消費税」は、誰が負担する税なのか?を問い詰めると、「消費税法」には、どこにも「消費者」という記述はなく、「事業者が納付する」とある、二重課税の「第二法人税」であると書いた。

ざっと50年間の時間差だとして、年率の価格上昇率を計算する。
50年の累乗根を関数電卓にて計算すれば、「答え一発!」だ。

50√(950円÷170円)≒ 1.035
つまり、3.5%/年、という上昇率である。

これを、高いとするか?安いとするか?の判断には、この50年間の平均物価上昇率と比較すればよい。

日銀のHPにある、「教えて!にちぎん」にある、
・企業物価指数で上記同様の計算をすると、1.8%。
・消費者物価指数では、3.04%。

すると、崎陽軒のシウマイ弁当は、消費者物価指数の伸び率よりもやや大きい伸びなので、割高感があるのは否めないのである。

個人的には、大好物であり、ソウルフードといってよい崎陽軒のシウマイ弁当が、高嶺の花になっていく様は、なんとも切ないものである。

では、この30年の金(ゴールド)価格推移を田中貴金属さんが提供する資料で見てみよう。

1994年の年間平均価格は、1312円(円ドルは、103.26円/ドル)だった。
同じく年間の平均価格がわかる直近では、昨年、2023年で、8834円(141.71円/ドル)だ。

単純に、8834÷1312=6.733倍。
円は、0.7287倍に減価したので、これを掛けると、4.9倍ほどとなる。

つまるところ、株価がほぼほぼ30年前を追い抜いた、というのが記事になるのは、嘘のように株価は低いままである、ということでしかない。

5倍以上になっていて、当然だからである。

もちろん、日本経済のファンダメンタルズを示すのが「株価」の本質だから、どこも改善されていない日本経済の衰退具合としてみれば、納得ができるものである。

それに、金価格については、ドルやユーロの「減価」も考慮するひつようがあるのは、金積立のパンフレットにあるように、「金は永遠の普遍価値」だと信じれば、金価格が上昇しているのではなくて、すべての通貨が減価していることになるからである。

また、「ビッグモーター事件」から、株主たる損保がズブズブの関係であったことを踏まえて、金融庁は、政策持ち株(むかしの「株式持ち合い」)の売却を行うように、損保、生保に促している。

この金融庁の「政策」が、外国投資家の日本企業買い、に大きく貢献することにもなりかねないが、それもまた、広い意味で岸田首相がいう、日本投資促進だとしたら、やっぱり、岸田政権は、「できる!」といわざるをえない。

当然だが、国民の不幸は深まるのだけど。

あゝそれなのに、それなのに、「将来の日本経済の復調に期待が集まる」と書く新聞記者の頭脳は、なにか変なお薬にでも冒されていないか?と心配になるのである。

少なとも、読んだり見聞きする価値はない、「ゴミ」情報である。

予定の「バイデン降ろし」開始

8日、アメリカ連邦司法省は、特別検察官による、「バイデン機密文書持ち出し事件」について、不起訴とする記者発表をした。

日・米ともに、検察官は司法省・法務省に属する法務官僚であるし、わが国の法務省は、次官経験者が検事総長になるという慣例まである。

なので、法務官僚のややこしさは、国家総合職試験に合格した者では、「役立たず」で、司法試験に合格して、検事に任官した者を、「キャリア」とするお役所なのである。

この点、アメリカは検察官も選挙で選ぶ慣習から、極左で富豪のジョージ・ソロスの支援金を受けた極左検察官が、一般犯罪者を起訴しない、という暴挙がゆるされることにも悪用されている。

しかし、今回の「不起訴」について、司法省が発表しているから、そこにバイデン政権の「意思」が働く当然がある。
もちろん、バイデン政権だから、バイデンを不起訴にすることの意思が働くのは理解できる。

ところが、不起訴理由が「ヤ・バイデン」なのである。

一応、この事案を書いておくと、対象となる時期は、バイデン氏が上院議員(外交委員長)だったとき、オバマ政権で8年間の副大統領だったときの、「機密文書持ち出し」が問われていることに注視したい。

また、トランプ氏は、大統領だったときの「機密文書持ち出し」で、起訴されたのである。

同様の問題は、ヒラリー・クリントンが、現職国務長官時に持ち出したことと、オバマ大統領がいまだにオバマ記念センターに機密文書を保管していることが絡む。

アメリカには、国家機密を機密解除できるのは、大統領だけの権限、という法律があるので、オバマ氏が無罪と同様に、トランプ氏も無罪が当然で、少なくとも起訴すらあり得ない。

すると、大統領職以外にこの権限はないので、ヒラリー・クリントン、バイデン両氏の「犯罪」はきちんと糾弾されねばならぬ、というのが、「法治」の貫徹に必須となる当然がある。

しかしながら、ヒラリー・クリントンは捜査もされないままでいる。

今回の、バイデン不起訴理由は、なんと、「認知症だから」だった。
特別検察官の事情聴取で、長男の死亡日も、自分が副大統領だったときがいつだったのか?を完全に覚えていないことが確認できたので、この善良で可哀想な老人を起訴することなんかできない、というものだ。

これはえらいこっちゃ!なのである。

彼は、核のボタンを押せる権限をもっている。
世界は、この不起訴事由に驚愕した。

わが国は、政府も国会議員たちも、見事な宗主国への忠誠心で悠然としているようにみえるのである。

しかし、きっと外務省は、本省と在米大使館の間で、バイデンの認知症の進行度合いについての暗号電報がやりとりされているにちがいない。

そうではなくて、アメリカ民主党が、バイデンを見限る宣言をした、ことの重大性なのである。
ために、ほぼ民主党員化した、ニッキー・ヘイリーが、民主党の正式候補者が内部決定されるまでの「時間稼ぎ」で、使い捨てのコマにされている。

哀れなこの元国連大使は、いったいどんな好餌を与えられたのかしらないが、自身の政治生命が終わることと、いったいなにを交換したのか?
まったく、「女『ファウスト』博士」に成り果てていることも自覚できないのは、気の毒で仕方ない。

おそらく、知能が低いのであろう。

自身の政権内にある司法省が、自身を「認知症認定した」ことは、もはや、カマラ・ハリスへの強制的譲位をさせられるのか?それとも、むりやりバイデン政権を温存しながら、ミシェル・オバマを正規候補とするのか?

予備選挙という、民主主義を放棄した、全体主義政党・アメリカ民主党がとる、次の一手が、あたかも鉄のカーテンの先でどんな権力闘争が行われているのかだれもわからなかったのとおなじことが、トロキストたちによってアメリカで行われている。

これのコピーが、そのうち日本でも行われる、ということだ。

ハンチントンは予言者なのか?

『文明の衝突』(1996年)が話題になったのは、2001年9月11日の「あのこと」が、まさに「文明の衝突」として評価されて、一斉に拡散したことであった。

しかしながら、ハンチントンは、この事件を、文明の衝突だと認めてはいない。

いまも、この事件の事件性についての調査報道が続いていて、まさかのブッシュ息子ネオコン政権による、自作自演だったのではないのか?との「うわさ」が、真実ではないかということになってきているから、世の中はわからない。

だとすると、これも白人が得意とする、「偽旗作戦」のなかに含まれるから、文明の衝突というよりか、人種の特性、となってしまう。
これがまた、ハンチントンの批判者をしてハンチントンを持ち上げたとすれば、それはそれでまた、「偽旗作戦」だともいえる。

日本人なら、「ほめ殺し」というだろうに。

心にもないことを、あたかも心から発しているのだ、というのは、演劇における演者の特権的な役割であった。
なにしろ、「他人の役」を与えられて、そのひとになりきって演じることを使命とするからである。

すると、観客は、観客の自分だけをもって鑑賞するわけであるから、ここで観客が演じることは要求されないし、だれもやらない。

わたしがポップ系のコンサートが嫌いなのは、自分の気持ちとちがって、会場を盛り上げるあの大衆行動が気持ち悪くていけないからである。

ずいぶん前から、プロ野球でも、応援が強制されるようになって、どっちが勝とうがどうでもよいわたしは、スタジアムに行くのがうざくなったのである。
それでもう、この四半世紀、生でプロ・スポーツ観戦をしたことがない。

シーズン中、電車でもどこでも、お気に入りチームのお気に入り選手のユニフォームを着て歩いているおとなたちをみると、もっと意味不明のハロウィンが流行るのも、おなじ心理なのだろうと推測しながら、子供のままでいたい、という症候群の気持ち悪さだけを感じている。

まぁ、それぞれの勝手だから、黙って横を通りすぎるだけである。

せめておとななら、これが「3S政策」で、そのなかに自分がいる、という認識をもちながら、はじけたらいい。

そんなわけで、ハンチントンの生涯で最後の単著となった、『Who are We?(分断されるアメリカ)』が、現代日本人にも必読といっていいものとなっている。

なんだかアフリカ大陸とアラビア半島が離ればなれになっているように、アメリカでは見えない「人間同士の分断」が進んでいる。
この分断エネルギーの供給源が、共産主義=グローバル全体主義、という思想である。

いま放送中のドラマ、『不適切にもほどがある!』は、80年代の日本と現代を行き来するタイムトラベラーとなったひとたちが織りなす、価値観相違をテーマにしたコメディー作だが、たかだか40年ほどで、かくも価値観に格差が生じているのも、「分断」だといえる。

やはり、そのエネルギー供給源は、アメリからやってくる、共産主義=グローバル全体主義、という思想にほかならない。

おそらく、このドラマの主人公が、現代のロシアに出現したら、驚くほどの「やすらぎ」を得るのかもしれないが、そんなことをTBSが描くはずもなく、その描くはずもないことを期待して観ているのも、妙な「やすらぎ」となっている。

ちなみに、わが家はテレビではなく、「TVer」での視聴をもっぱらとしているけれど、これには、「解説放送版」なるサービスがあって、そのサービスの説明は、「映像に関する説明(出演者の表情、情景描写など)を、副音声によるナレーションで伝える放送サービスです。 この動画は、解説放送のナレーションを通常の音声にミックスしています。」とある。

ドラマのなかの場面展開などについても、解説がないと理解できないひといる、ということなのだろうか?

すると、ハンチントンが書いた著作というよりも、こういったひとたちが、なにを学んでどんなことを理解していたのか?の方がよほど重要なメッセージであって、それもまた、解説をつけないと理解できないひとがいる、ということなのだ。

「愚民化政策」を完璧にやってきたら、その成果は、まんべんなく国民が愚民化して、政治家も官僚も愚民化した。

そうやって、一部の「解説放送」を作るものが支配者なのだというかんがえも、愚民ゆえの発想だから、ハンチントンがいう「分断」とは、愚民による愚民の分断ということになっている。

解説放送は無意味だと、もう、演出家も脚本家もいえないから、原作者が絶望したのだとすれば、完全に「国民教育問題」なのである。

すると、まともな親か、先進的にいきすぎた親は、「自己防衛」として、子供を学校にはやらせないで、自分で教えることしか方法がなくなる。

これがまた分断だとすれば、「文明の崩壊」が、ハンチントンの書くべきことだったのではないだろうか。

日本の未だ崩壊しない(ベルリンの)壁

「年収の壁」のことである。

現実のベルリンの壁は、1961年に作り出されて、1989年11月9日まであった。
高さにして3mもの壁で東・西ベルリンを分断していた。
総延長は、なんと、155Kmもあった。

作ったのは東ドイツ(正式には国家ではなくて、「東ドイツ社会主義統一党=ソ連共産党の子会社」)で、一般に、東ベルリンの住民が西ベルリンに亡命するため、命懸けでこの壁を越えようとた。

最近の調査では、136人の犠牲者(子供含む)が確認されている。

上で、「一般に」と書いたのは、西側から東へ壁を越えようとする者が「いなかった」からである。

この一方通行の現実を、西側の社会主義者たちは語ろうとせず、社会主義の優位性を訴えていたのが、今からしても滑稽であったが、もちろん本人たちが西から東へ向かうこともしなかった。

この点で、樺太(当時は日本領)からソ連国境を越えたのは、杉本良吉と岡田嘉子で、なんとも切ない末路が待っていたから、やっぱり、西(自由圏)から東(共産圏)に向かうのは愚の骨頂だということにおさまったのであるけれど、世にもに珍しい、日本人的生真面目さが漂う行動であった。

ちなみに、杉本は政治犯として日本官憲に追われていたので、どちらが「自由圏」なのかの区別が困難どころか、ソ連こそ自由だと信じたのに、銃殺刑になった。
岡田は女優らしく、KGBが運営するモスクワ放送で日本語番組のアナウンサー役をやって、共産主義礼賛のプロパガンダに組み込まれて、日本人の脳を汚染していた。

こうした体制を、ソルジェニーツィンは、「収容所群島」と表現した。
国家全体が収容所のようになって、国民は家畜とされ、人間的な生活ができるのは、一部の党幹部に限定された。

なので、戦後わが国の労働界が、「人間回復」を強く要求したことは、モスクワからしたら、ニヤニヤと嗤って観察していたのではないか。

7年前、ポーランド北東部をレンタカーでドライブしたとき、森の中を行く舗装路から横道の舗装も看板もない道を恐る恐る行くと、突如、宮殿のような宿泊施設に遭遇することがあったが、これが、今は一般利用できる社会主義時代の党幹部専用の保養施設だと聞いた。

どうして今も舗装も看板もないままのかわからないが、「秘密の存在の保存」だったようで、外国人でも誰でも国内ツアー会社から予約可能とのことだったけど、外国人向けとしては宣伝もしないでいるらしいから、秘密の存在になっている。

いつか泊まろうとおもっていたら、コロナが蔓延した(ことになった)。

そんなわけで、国全体の「収容所」に住まわせられることになると、人間の目線は、二次元的な平面の部分しか見えないので、それが世界だと勘違いする。
『進撃の巨人』の「壁の中の住人たち」を決してバカにできないのである。

以上を踏まえて、日本人の所得を一瞬にして高める方法を、ユーチューバーの深田萌絵女史が指摘している。

それが、「年収の壁」の撤廃なのだ。

ハイエクは、もっと単純な、「税率を10%に統一する」方法をとっくに提案している。

これに伴うメリットには、納税費用負担のゼロ化という作用もある。
むずかしい税金計算は不要になるので、優秀な税理士や企業内の経理マンを、税務から解放できることも、社会的には巨大なメリットなのである。

税理士(30万人いる)は、付加価値を生産していないからだし、企業内の経理における税務も同様だから、ずっと生産性が上がる。

「デマ太郎」こと河野太郎氏は、デジタル通貨で政治家への献金を義務化させることになったら、あたかもカネの出所が当局よって把握できるような、つまり、通貨としての匿名性をデジタル通貨には与えない、という重大な本音を漏らす「失言」をした。

まともな経済学者なら、ボコボコに非難して相当なのに、どうしたことか?

しかし、デジタルか?アナログか?の議論さえ関係ないのが、えらく複雑化した我が国の税の構造をシンプルにするだけのことなのである。

これが、「巨大な壁」なのだが、見えない壁だから21世紀になっても壊れない、我われの抱える大問題なのである。

暦どおりの「雨水」

「春の嵐」は、季節の変わり目のいつもの気象現象である。
それを、24節季では、「雨水」と書く。

今年は、19日がその日であった。

わたしが暮らす横浜も、みごとな春の嵐ではあったが、雷鳴が轟くことはなかった。
こないだの大雪で轟いたのは、かなり珍しい現象であったと、ネットの気象予報士が言っていた。

地上でなにがあろうが、まったくお構いなしに自然現象というものは、物理法則に基づいて生じるから、今度は人間が勝手にそこに「神」を感じるのもまた自然なのである。

いまはいわなくなった、「ミュータント」だけど、『続・猿の惑星』で核戦争の放射線を原因とする、奇形となって生き残った人間たちが、会堂に集合して祈りを捧げる対象が、核ミサイルであったので、変だなとおもったものだ。

このとき、超未来なのに、パイプオルガンの宗教曲が鳴り響く。
あたかも、西ドイツの「ポスト・モダン建築」のような、装飾のないあっさりとしていて丸味のある会堂のつくりが、妙にプロテスタント的なのに、流れる音楽がカソリックを思わせたのも、「さすが」だったのである。

そうして、皆で、ご本尊たるミサイルの「お姿」を拝んでいるのは、妙に日本的でもあった。

旧約聖書で、偶像崇拝の禁止を強調しているのに、キリスト教は十字架のイエス像とマリアの肖像を拝むことになったけど、これを完全否定したムハンマドに従って、幾何学模様をもってモスクの装飾とした。

ついでに、アラビア文字の書道も発達して、文字を美術化した。
あちらにも、楷書、行書、草書に匹敵する書法がある。

教養教育を一切受けないで成長する、現代の我われは、そんなわけで、行書も草書も読めないので書けない。

江戸時代の大福帳さえ、何が書いてあるのか?

そうかんがえると、「平等主義」の不平等が、人間社会を不幸にしている。
みんなで平等に、教養を得ることなく一生を終えるのである。

また、驚くことに、そんな無教養な大多数が子息を大学に進学させれば教養人になるという、思い込みをしている「まさか」がある。

ここで「まさか」というのは、おそらくそんなこともかんがえないのは、親世代にほんとうに教養がないからで、ただの生涯所得を得るためだけの教育投資が唯一の理由になっているからだ。

それに、もうひとつの「まさか」とは、大学教員の無教養で、こちらはどうやら本気で、自分たちは教養人だと自負している節があるから、よほど深刻な病理がある。
その病理の巣窟が、「文系」で、無教養なまま卒業証書がもらえて、たとえば無教養で解ける国家総合職試験という難関をつくって、合格者のパラダイスを構築した。

国家総合職=高級官僚の採用なら、「国家観」とか、「歴史」や「古典」とかの人文的な教養が不可欠だろうが、そんな分野での設問は一切ない「編集」が試験問題に行われて、徹底的に「実利」だけの知識が問われるのである。

この意味で、中国の「科挙」をはるかに下回るレベルなのである。

それをまた、あろうことか「民間」でもやっているのは、どんな人材が欲しいのか?について、経営者が本気でかんがえていないからである。

こうして、社会全体で劣化が進行する。

雨風の合間をぬって、食料品を買いに出たけど、高級車で駐車場に乗り付ける無粋なひとたちは何者なのか?とおもうのは、その態度と行動に「品」がないからである。

季節の変わり目には、またいつも通りの「キ印」が、それなりに世間を驚かすから、あんまり人出の多い場所は避けた方がよさそうだ。

ウクライナ復興支援会議ってなに?

日本国民は、前回の衆議院議員選挙がいつだったかを覚えているだろうか?

2021年10月31日投開票だった。

ここで、与党を勝たせた結果が「いま」なのである。

安倍晋三氏が連勝したうえに、総理・総裁辞任後の選挙でも、選択肢のなさ、を原因として与党が信任された、とマスコミは評価しているけど、投票率は56%弱というものである。

選挙は、将来を決めるものである、という当たり前が、よくわかるほどに、安定の政権=日本政府が、国民を敵に回しても動じないのは、国民の政治不信からの無関心が、じつに都合いいことになっているのである。

すくない投票数で、安定的な議席を確保できることの、効率の良さ、は、裏金がどうのといっても、もはや関係ないのは、これでまた、次期選挙の投票率が下がればなお都合がよい。

そんなわけで、なんでもできることを、なんでもできるうちに全部やっておこう!という、戦後歴代内閣で最高度の実行力があるのが、岸田内閣なのである。

もちろん、その実行項目が、国民の期待やらとどんなに乖離していても気にしないのは、岸田氏が国民を無視しているのではなくて、選挙に行かない政府を無視する国民が多数なゆえの、反応としてふつうのことだから、もしも腹立たしいというのなら、言う相手がまちがっている。

岸田氏でもないし、自民党でもない。
このひとたちは、単なる「利得者」にすぎないのであるし、その巨大な利得を与えているのが、日本国民の多数なのである。

これが、主権在民、ということの本質だ。

だから、ちゃんとした正義感で文句を言いたいなら、最低でも選挙投票に行かねばならない。
「投票義務法」がある、オーストラリアが、政府に投票に行かないと罰金刑だ!といわれたら投票率が高くなったのを、オーストラリアはすごいなぁ!にはならない。

さすがは、囚人の島流し刑地だったことだけに、国民に、「刑事罰記録」がつくことを、気にしないだけのはなしだからである。

まともだったわが国では、「犯罪歴=逮捕歴」というほどに、推定無罪のうえでの有罪=犯歴としない、おそるべき潔癖症がある。
なので、じつは警察国家でもあるのが、わが国だ。

さて、戦争ができない国にされてざっと80年。

むかしの「吉野家」のコマーシャルソングのごとく、「◯◯一筋、80年」で、すっかり、戦争をすることとはどういうことか?がわからなくなっている。

戦争を「悪」と、道徳的に規定するのも、「◯◯一筋、80年」の成果であって、誰の成果かといえば、GHQ=アメリカ民主党である。
もちろん、本国のアメリカ民主党は、戦争が儲かるという理由で大好きなので、まったく矛盾する。

けれども、わが国やNATOをみればわかるように、アメリカの寄生国家にさせられたのだから、もう「独立もなにもない」のである。

国家が国家に寄生するとは、一方が主で一方が従属する当然がある。
もっといえば、接ぎ木をされてしまったのだ。

そんなわけで、戦争が終わってもいないのにウクライナ復興支援などというのは、とっくに敗戦国の敗戦処理をしようというだけのはなしである。

それで、武器を売りまくって大儲けしたご主人様が、カネならお前が出しておけ、と命じることに、イエスとしかいえないのがわが国の、寄生国家としての常識なのである。

岸田氏のキャラや頭脳の優劣は関係ない。

あたかも安倍氏が総理なら、こんな無様にはならないという、お花畑の言論人が多数いるけど、このひとたちのキャラや頭脳は、安倍長期政権だって、寄生国家としての命令をちゃんと実行していたけれど、どこかで安倍氏が本当は心にもないのに、ご主人様に歯向かう(親トランプ的発言)をしたせいで、ライフルの標的になってしまった。

その後、安倍派が「裏金」で消滅させられた経緯は、ごらんの通りである。

寄生国家に寄生するのが経団連という、教養も何もない爺たちの集団で、ウクライナにおける公共事業に参加できることがうれしくて仕方がない。

これで、中国からの撤退理由ができるかもしれないと発想するほどに、劣化しているのだろうけれど、中小企業も大挙参加して、参加企業のぜんぶが、特例としてEUに銀行口座が開設できるなら、それなりのことではある。

ただし、「ウクライナ」という国を、どこまでウクライナというのか?という、戦勝国のロシアが決めることが決まっていない。

プーチン氏の戦争目的を誰もいわない欺瞞がある。
3億再生を突破した、タッカー・カールソン氏とのインタビューで、プーチン氏はちゃんと、戦争目的について言及している。

このなかに、「ウクライナの非ナチ化」があるから、道義国家のわが国は、かつての同盟国ナチス・ドイツの正統な後継者たちを支援するのは、歴史的な継続性という意味で、文句がないという理屈はたつ。

すると、岸田氏はまったく宏池会の本流と真逆のことをやらされているのである。

なんて可哀想な日本、身が裂ける思いの岸田氏という、二重苦が、寄生国家の悲劇的な姿で、さらに多数の国民が興味ないという、残酷な事態が、この復興会議が東京でやらされることの最大の意味なのだった。

変わらざるをえない企業人事

むかし日本経済が元気だったころ、「企業は人なり」という、あたかも、戦国武将、武田信玄の名言を借りた、「哲学」が、それっぽく語られていたものだ。

これを、冷徹にかんがえると、残念ながら武田信玄は、内陸に封じ込められたままで寿命が尽き、子息勝頼の代で滅亡するに至った。
それでも徳川家康が武田家臣団を用いたけれど、結局は、大坂冬の陣の前年におおくが失脚する、故人となった大久保長安が私腹を肥やしたことからの疑獄事件がおきている。

なんだか、信玄の名言の意味が、痴漢がいるから「痴漢に注意」というように、「人は石垣、人は城」という発想の欠如があったから言ったのか?と疑いたくなる。

さいきん、岩尾俊兵著、『世界は経営でできている』が強調する、「経営」という言葉の広さが気になる。

いわゆる「マネジメント」のことだが、「自己マネジメント=自己統制:セルフ・コントロール」といった意味が重要なのである。

この意味で、かのドラッカーは、彼の生きた時代以前を振り返って、考慮すべき「経営」を提案した人物は、4人しかいない、と断言している。
なお、このたった4人のなかに、ドラッカー自身が含まれるので、彼が名指しした3人とは、

・テイラー(科学的管理法の生みの親であり、その後は、「精神革命」を提唱した)
・メアリ・フォレット(テイラーの「精神革命」の中核、「統合論」を徹底追及した「経営学の母」)
・バーナード(名著、「経営者の役割」で、「協働」を追及し「バーナード革命」を提唱) の3者のことである。

はたして、この3者を貫く、あるいは、ドラッカーもといいたいが、残念ながらドラッカーは後期になると、この3人を貫く流れから逸脱をはじめてしまった。
その一線とは、「ホーソン実験」による、「人間とは感情ある動物である」という発見だった。

この発見のもう一方に、「人間は合理的な経済人である」という概念がある。

つまり、ドラッカーの後期は、あろうことかなんと、「経済人」へと傾倒してしまったのである。
そして、巨大山脈を築いたドラッカーの影響から、「発見」が無視されて、安易な「経済人」へと間違った概念に回帰してしまった。

つまるところ、給料を高くすれば「いい人材が集まる」がごとき、幼稚さが、学歴エリートを中心に信じ込ませる教育によって、社会に蔓延したのである。

すると、そんな教育をエリートたる若者に施したのは、いったい誰だったのか?を問えば、いまならはっきりと、トロキストたち(真の国際共産主義者)だと断言できるように解明されてきた。

彼らからすれば、政争には敗れ、ソ連から追放もされたが、それをやったスターリンこそが、「ナショナリズムに傾倒した似非共産主義者=権力亡者」だというのである。

すなわち、スターリンをも上回る、バリバリの、「人類の敵」を自負しているのが、この者たちなのである。

かつての、萬屋錦之助が気力で演じた、『破れ傘刀舟悪人狩り』における決め台詞、「てめえら人間じゃねえや!叩っ斬ってやる!」に、多くの視聴者が痺れたのであるが、トロキストたちは、今日ものうのうと生きている。

しかしながら、そんな悪魔的教育がないことが幸いして、ヨーロッパ全土で農民が立ち上がったのは、農民が馬鹿だからといいたいのではなくて、「生きること」の意味を、自然から教育された意味での常識が働いているといいたいのである。

わざわざSDGSやらをいわないでも、人類は継続できる農業で食べてきたのだ。

つまり、いまどき、SDGSをいうトロキストたちの狂った主張に、猛然と立ち向かっている。

何故に、「第一次産業」というのかは、この産業がなければ、餓死するから、最重要だという意味なのである。

つまり、産業革命前に存在しなかった、第二次産業やらは、本来、第一次産業に依存していることを、傲慢さから忘却しているのが現在なのである。

さては、振り子のように戻ってきて、人々がトロキストたちの欺瞞に気づいたとき、第二次産業から第三次産業の企業人事も大変革を迫られるのは、人間は感情のある動物だということに根づいた価値観の再発見も同時に起きるからである。

古来、日本人の常識であったはずのものが、いつしか「経済人」に席巻されて、衰退していることも、必然なのであって偶然ではないのである。