「地銀」の存在価値

全国の県庁所在地に本店を置くのが、地銀:地方銀行だ。

わが国で、銀行業をはじめて始めたのが、渋沢栄一であったけど、明治政府から頼まれて設立した経緯がある。
なので、「第一国立銀行」という名の、民間銀行第一号になった。

なお、どうして「Bank」を「金行」といわず、「銀行」というのか前に書いた。

ただし、社名に「Bank」と書いていなくとも、「金融業」をやっていれば、それは「広義の銀行」だから、第一国立銀行がわが国で最初の銀行ではなく、まだ江戸時代だった横浜に開業した、「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」がこれにあたる。

大桟橋の付け根、「開港広場前交差点」のシルクセンター側の角が「跡地」、すなわち、「英一番館跡」がそれだ。
当然ながら、「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」が、わが国にやってきた「外資企業」のはじめてだから、「英一番」ではなくて「世界一番」だった。

とはいえ、大英帝国が「世界」でもあった時代だ。
それで、「英一番」には、「世界一番」の意味がある。

では、「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」は、どんな「金融」をしていたかといえば、「貿易決済」であって、「小切手」を扱っていたのである。
鎖国していた江戸期には、世界一「内国為替」が発達していたために、小切手は日本人にはなじまない。

いまだに、日本人になじまないのが「小切手」だから、これはもう、「文化のちがい」の典型例となっている。

それにしても、「ジャーディン・マセソン商会」といえば、「阿片貿易」が連想される、悪名高き会社である。
しかしながら、よくよくかんがえれば、「大英帝国」が大英帝国ならしめたのが「阿片」によるかんがえも及ばない「莫大な利益」なので、ジャーディン・マセソン商会とは、「大英帝国の本質」といって差し支えない。

つまるところ、よくいって「経済やくざ」なのである。

だから、横浜での事業の本業が「貿易決済」だといっても、中身については「ヤバイ話」があっても、ぜんぜんおかしくない。
そんなわけで、横浜人は、アジア人に厄災をもたらした大英帝国の本質たるこの会社の所業を決して自慢してはいけないのである。

ついでに、『ロビンソンクルーソー』も、阿片貿易で富を得て、日本を目指す旅をするけど、台風に阻まれて断念するという話になっている。
さほどに、当時の英国人は「麻薬」だろうが何だろうが、自分だけ儲かればなんでもよいという「道徳観」がふつうだった。

すると、このどこに、マックス・ヴェーバーがいう「資本主義の精神」があるのか?はなはだ疑問なのである。
これが、わたしが「資本主義は未来のシステムだ」という、アイン・ランドに同意する理由でもある。

「ジャーディン・マセソン商会」が、「物(ブツ)」を中心としたのに対して、本業で「カネ」を扱ったのが、「HSBC:香港上海銀行」である。
阿片貿易の決済は、HSBCなくして語れない。

すると、横浜にHSBCよりも早くにやってきたのは、それなりの「先見の明」だったのか?それとも、HSBCと話を付けた先遣隊だったのか?

そのHSBCも、個人相手の業務はとっくに日本から撤退した。

アジアとヨーロッパを接続する、一大国際ハブ空港になった、トルコのイスタンブール空港には、HSBCに個人口座を持つひと向けの「ラウンジ」があって、この銀行が発行するクレジット・カードを見せると利用できるようになっている。

「金商法:金融商品取引法」ができた2007年(平成19年)、この法の裏目的にある「キャピタル・フライト(円資産の海外流出)防止」のために、日本人は、HSBCのような外国銀行に、外貨預金口座を個人名義で開設できなくなったのである。

よって、空港ラウンジすら、つかう権利もない。

「金解禁」という、もっぱら国内事情(じつは「グローバリズム」)による政策で、昭和2年にはじまる「昭和恐慌」のため、だれでも設立できた銀行がバタバタと倒産した。
「世界大恐慌」は、その2年後の、1949年のことに注意したい。

これから徐々に、国家総動員体制となって、県庁所在地に一行だけという地銀体制ができて、いまに至っている。
ちなみに、東京は特殊だけれど、「富士銀行」が、事実上の都にとっての地銀で、「みずほ銀行公務部」が引き継いでいる。

「国内」ばかりか、「地域ローカル」という営業許可の範囲しか自由を与えられていないのは、トラック運送業やバス・タクシーとおなじ国による社会主義経済の構造だから、貸出先の地元に資金需要がなくなると、「貸金業」としての根本価値が危うくなる。

これが、地銀同士のグループ化になって、アメーバの結合のようなことになった。

けれども、効果が「足し算」にすぎず、経営統合の文言にしている「相乗効果」すなわち「掛け算」にならないのは、預金の「運用」ができないからである。
それで、どちらの地銀も、外国債券投資しか低リスクで高利回りが期待できないので、これに走ったのである。

バスに乗り遅れるな、という横並びを嗤えないのは、「追いつめられた」からでもある。
この「雪隠詰め」の恐ろしさを、地銀が教えてくれていて、蟻地獄のごとく脱出できないのは、かつての自由主義経済の教科書通りなのである。

といいつつ、悲惨なのは、およそ「機関投資家」として、外債の専門ディーラーも育成してこなかった「国内だけの事情」があったので、社内昇格するお偉いさんたちにも外債の知識なんかない。

だから、外国の証券会社を通じて、「投資信託を購入する」という、ほとんど個人投資家とおなじことを、ただケタ違いの多額でやっている状態になったのである。
それがいま、円安で巨大な含み損の資産になってしまった。

なんだか哀れだけれども、これをどうすることもできないのが、「金融行政」という、どうにもならないことがある。
なので、マスコミは、地銀があたかもバカのように批判するだろうけど、もっと巨大な、エリート気取りのバカがいることを書かないのである。

ジャーディン・マセソン商会がやっていたことも、大英帝国がやっていたことも、書かないのとおなじなのだ。

構造がおなじ、他業種はこれをどうみている?

「地質図Navi」の面白さ

生活のあらゆる場面で、「自分から」情報取得をしないといけない時代になったことを、「情報化時代」という。

なんだか、「情報化」というと、勝手に情報がやってきて、便利な時代になったものだ、とおもっていたのはついぞ昔のことになったのだ。
いま、勝手にやってくる情報のほとんどが「プロパガンダ」になったからである。

「飛脚」が「郵便」になったことを、「情報化のはじまり」ということにしているけれど、これも現代目線からロマンのある表現でしかないのではないか?と疑うのは、昨今の「プロパガンダ」の酷さに気づいたための被害妄想なのだろか?

「飛脚」が業務用通信で運んでいたのは、「手紙」よりむしろ、「為替」だった。
「天下の台所」の大阪商人は「銀」を主たる通貨にしていたので、「Bank」を「銀行」と訳し、「金行」にはしなかったのである。

12月といえば、『忠臣蔵』(史実の「赤穂事件」の発端になった「松の廊下での刃傷」は、元禄14年:1701年)にもでてくる、江戸と本国の赤穂との定期の他に緊急連絡体制があったことは、驚きに値するというけれど、想像力を働かせばふつうのことではないか?

幕藩体制下での「藩」は、一種の独立国で、アメリカ合衆国にあてはめれば「州」にあたるし、幕府は連邦政府になる。
そのアメリカ史を思い出せば、カリフォルニアで金が発見されて「ゴールドラッシュ」になったのは、1848年のことだ。

わが国の元号では、1848年はちょうど「嘉永」で、「弘化」のあと、1854年からは「安政」になるときで、天皇は明治天皇の先代、孝明天皇の御代、将軍は12代家慶、13代家定であった。

ちなみに、「黒船来航」は、1853年(嘉永6年)のことだったので、この時代のイメージすら、「分断」されている。

つまり、「日本史」では「黒船からはじまる幕末の動乱」になるけど、「世界史」では、アメリカのゴールドラッシュはテーマとして軽視されているばかりか、これら二つの出来事が「同時代」だと生徒に教えないのだ。

そればかりか、詳しい時代背景がわからないままで、「西部劇」をたっぷり観せられて、悪いのは全部「インディアン」だから、バタバタと殺されても、画面に拍手を送らされたのだった。
インディアンがいない草原こそが「平和」なのである、と。

さすがにこれは「まずい」と気がついて、もはや「西部劇」をつくることも上映することもしなくなったけど、こんどは、「ポリコレ」に傾倒し過ぎて、もっとナンセンスな映画がつくられている。

もちろん、日本人にとっては、「縄文人の末裔」として血の繋がりは、インディアンやら南米のインディオたちにあるから、まったくもって、ひどい映画に拍手を送ってきたものだ。

ゴールドラッシュに話を戻せば、前にも書いた伝記の名手、シュテファン・ツヴァイクが書いた、『人類の星の時間』における、世界史的運のない男ズーター氏の悲劇は、合衆国憲法があろうがなかろうが、これを守る国民の意志の欠如がどんな結果を招くかを示す、とんでもなく「大きな話」なのである。

それが、赤穂事件で江戸表と国もとで飛脚が飛び交った、150年後のアメリカの姿なのである。

なお、アメリカ大陸横断電信ができたのは1860年代のことで、1841年の記録では、第9代ハリソン大統領が在任1年にして死去したニュースがロサンゼルスに届くのに110日かかっている。
日本の電信のはじまりは、明治2年(1869年)という、「早さ」なのである。

2022年中間選挙の、実質的な「争点」とは、この「合衆国憲法」を守るか無視するかの攻防だ。
しかしながら、こんな重要なことを、アメリカのマスコミも、日本のマスコミもぜんぜんいわなくなって「プロパガンダ」に終始している。

もちろん、合衆国憲法を「ないがしろにする」ひとたちを「応援する」ばかりだからである。
そんなひとたちが、日本国内では「護憲」をいうから、その「意図」を勘ぐりたくなるのは人情というものである。

さてそれで、いかに首都ワシントンD.C.から大陸の反対側であったとはいえ、太平洋の反対側にある日本にも艦隊を繰り出すことをしていた。
もっとも、ペリーの艦隊は、大西洋からインド洋を越えてやってきたけど。

当時からしたら、極東の島国を「開国」させることと、カリフォルニア州の農場主の権利(「土地所有権」のこと)を守ることができないことが、同時並行的だったことにもっと注目していいのである。

これを、「わざと」させないように教育しているのではないのか?

そんなわけだから、「情報リテラシー」の本筋を教育しないで、「プログラミング」を教えることを優先させる。
たしかに、圧倒的に「プログラミング人材の不足」はわかるが、だからといって小学校から「正規の授業」でやらせることか?

広義の「児童労働」にあたらないのか?

これが、まわりまわって、自分の立っている地面のことにも興味がないように仕向けるのは、「受験結果」における学校と教師の「評価」が最優先されることになったからだ。
その最たるものが、塾や予備校の実績という評判である。

選別する学校側(たとえば「難関校」)は「いい学校だ」と評価させる意図的勘違いの促進も、プロパガンダではないか?

日本の難関校を出ても、世界企業の本社幹部候補として就職することもできないで、せいぜい「日本支店勤務」のローカル・スタッフになるしかないのが、はっきりしている「実情」なのだ。

もはや、アメリカの大学に入学して、そのままアメリカ企業に就職することが、圧倒的な「勝ち組」になってしまった。

にもかかわらず、「そんなことを勉強する閑があったら、いまは受験勉強しなさい」という呪文が、情報リテラシーのない親世代に焼き付けられているから、とにかくテストの点数で、「偏差値50以上」すなわち、「平均点以上」をとらないと人間扱いしない社会にしたのである。

しかし、どんな社会でも、「偏差値50未満」すなわち、「平均点に満たない」ひとが、かならず半分いる。
義務教育の重要な目的に、「人生を生きのびるための学び」があることをまったく無視しているのだ。

傾向として、この「偏差値50未満」が「主力」となっているのが、「観光業の現場」なのだ。

だから、「観光立国」では、国民は食っていけないのであるけれど、その理由は「偏差値50未満」だからではなくて、答のないビジネスの答を追求することもやらないからである。

自分たちの営業地域の「風光明媚」の根本たる、「地面」についての興味もないというありさまで、それがむかしからいう「温泉宿の温泉知らず」になったのである。

以上のことをふまえて、国立研究開発法人 産業技術総合研究所 地質調査総合センターが提供している、便利な「地質図Navi」を眺めてほしいものである。

ただし、「産業技術総合研究所」が、「総合」としての「産業」を、「観光業」だとおもっていない節がある。

この「ミスマッチ」が、観光業へのブーメランなのだ。

驚愕のG20とB20に光明

インドネシアのバリ島で開催されたG20は、なんと、世界経済フォーラムが主催するB20(「B」はビジネス)と「同時並行」だった。

しかし、これは、「並行」ではなくて、主は「B20」で、従が「G20」だったのである。
国家が民に屈したことを、世界に発信した「歴史的意味」がある。

ただし前例としては、国際オリンピック委員会(IOC)が、各国を支配するということがあるけれど、今回のは、完全政治支配、なのである。

発表された驚愕とは、グローバル・デジタル・ワクチン・パスポートの導入についての「調印」だった。
まったくの、「唐突」な、抜き打ち的な「決定」がされた。

このことの「絶望」は、一般的な人類に共通したはずだけど、あんがいと各国民の反応がなく、あたかも「無関心」のようだ。

しかし、本当は「無関心」なのではなくて、詳細が報じられずにいることで、「わからない」ということだとおもわれる。
「移動の自由」が制限されることの「恐怖」の時代がはじまる、という意味である。

これを契機に、おそらく、「すべての自由を奪う」ことになるとかんがえるのは、けっして大袈裟でも妄想でもない。
それは、過去の「不自由の歴史」、あるいは現在進行形の大陸でのできごとをみれば明らかだ。

自由を得るに多大の血を流した欧米諸国人が、このことに鈍感なのは、「教育」における洗脳だし、その「教育」には、報道しないという社会教育も含まれる。

むしろ、こんな「制限」が、「利他主義」からすれば、「正義」に思えるように宣伝されるのだ。
自分のため「だけでなく」他人のためになる、と。

じっさいに、以上のフレーズで、ワクチン接種が推奨されたが、そのリスクは隠されて、いま、どの国も「薬害問題」が表面化してきた。
大騒ぎになっているEU議会での「感染予防効果に関するデータはとっていない」という大手製薬会社役員による証言も、日本ではだれも報じない。

かえって、観光業界は、おなじタイミングで発表された「国連」が、観光の回復を意図して小規模事業者を支援することを、有り難がっているかもしれない。

これは、明らかに「連動」した、引っかけ問題、つまり、「アメとムチ」である。

けれども、国連がどうして、個別企業への支援ができるのか?

このことの意味を少しだけ「深く」かんがえれば、全くもって、「世界政府」が密かに成立していることを示しているのである。
つまり、国連が各国政府をコントロールするという意味で、各国政府は国連の下部機関たる行政権しかない、ということでもある。

その「根拠」は、「国連憲章」を条約として扱う、という「解釈」に依っている。
いつの間にか、各国の協議機関だったものが、各国民の判断によらないで、世界政府になったのである。

すると、各国がやる「選挙」とはなんなのか?
「議会」とはなんなのか?

結論を先にいえば、「お飾り」であって、「ダミー」になったのだ。
あたかも、民主主義の手続きを踏んでいるように見せかけて、じつは「事務局=官僚」が決める。

この「小規模な実例」が、EUだと何度も書いてきた。

それゆえに、EUから離脱した、つまり、逃げた、英国に対して、信じがたい「制裁」が行われている。
なにから逃れたのか?
グローバル全体主義からだ。

けれどもグローバル全体主義者たちが、減税を訴えたトラス政権にトドメを刺して、今度の政権は増税を決めた。

英国はいま、二ケタのインフレに苦しんでいる。
サッチャー、レーガンがやった方策を真似たトラスがどうして「失脚」するのか?

財政赤字が拡大するから、というもっともらしい理由は、日本になら通じるだろうけど、英国を血祭りに上げる理由になるのか?
このような、本質的な疑問から導かれるのが「陰謀」なのである。

グローバル全体主義者に逆らうと制裁される、という「見せしめ」なのだ。
入手困難だが、以下を読めば「事実」だとわかる。

トランプ氏は、出馬表明で、明確にグローバル全体主義者たちが「敵」だと言った。
いま、世界は「二元化」していて、最終決戦を迎えつつある。
グローバル全体主義、対、ナショナリズム=自由主義、の二元だ。

もはや、「保守」対「革新」の時代ではない。

わが国も、与党の二党は、とっくにグローバル全体主義の側にあって、多くの野党も同様にグローバル全体主義に傾倒している。
これが、既存政党からの「選択肢のなさ」の原因なのである。

そこで、昨夜、わずかな「光明」の兆しがあったのは、ご同慶の至りだ。

千葉県松戸市議会選挙で、初の2名同時当選、そして、三重県桑名市議会選挙でも当選者を出して、国政政党となった「夏の参議院通常選挙」後、7連勝となっている参政党の存在が光る。

この政党の理念は、あたかも、アメリカ合衆国建国の父たちが描いた、「民主主義とはかくあるべし」で、これを、教科書通り実行しているところが、「あたらしい」のだ。

すでに、アメリカ共和党「MAGA派=トランプ派」や、イタリア与党、あるいはドイツ、オランダなどの、「反」グローバル全体主義を掲げる政党との連絡・提携も表明している。

ナショナリズム=自由主義、の「グローバル展開」になっている。

「密約」は公開されない

昨日の記事では、スタグフレーションになりそうな欧州の冬を「暖冬であれ」と祈ったけれど、ユダヤ・キリスト・イスラムの「神」は、日本人がかんがえる「神々」とはちがって、ぜんぜん人間の都合を考慮してくれない、という特徴がある。

これらの宗教があがめ奉る「神」は、あくまでも「(神の)自己都合」を通すのであって、はじめに「人間の都合」を考慮することは一切ない。
人間の都合が叶うことがあるとすれば、それはまったくの「たまたま」なのだ。

ゆえに、これらの宗教を信仰する人びとは、「神頼み」をしないで、人間による解決を図ろうとするのが、「行動原理」になる。
彼らの「祈り」の本質は、全知全能の神を称えることであって、本人の自己都合の要求ではなく、自身の行動を見守って欲しいことに集中する。

ここが、日本人と決定的にことなるのである。

日本人の基本的な宗教観は、「アニミズム:原始的な自然崇拝」ということになっているけど、わたしには、あんがいと人間の自己都合な要望を叶えてくれる発想をすることの本質は、「人間中心主義」であって、「神々」を人間に奉仕する存在に落していることが「日本的」なのだと思っている。

つまり、日本人には、宗教を「医療」と同列に扱う伝統があることをいいたい。
それが「健康」とか「病気治癒」の祈念であったのは、奈良や平安貴族たちが建てたあまたの寺院の建設目的になっていることでわかる。

たまたま「外来」の仏教が「効く」となれば、仏教に帰依し、そうでなければ儒教にもいくし、神社にも戻る「無節操」なのだ。
そうやって、自己都合を祈っているうちに、「栄耀栄華」まで祈るようになって、その卑近の例が「商売繁盛」祈願になった。

改めてかんがえれば、ユダヤ・キリスト・イスラムの寺院で「商売繁盛」を祈念しているひとは「いない」のだ。
なぜかといえば、「神」はそんなことに興味を示すわけがない。

「全知全能」だからである。

しかし、日本人は自己都合を祈って、それが成就したら、きっちり「お礼参り」するのを「礼儀」としている。
そのお礼の気持の深さを、「貨幣経済の発達」で、「金額表示」するようになったから、「高額寄進」が発生する。

むかしは寺院に「礼拝堂たる院」を建てて寄進し、お礼としたので、それに匹敵するお礼を金銭ですれば、「戒名」に「院号」が付くことで示しているのだ。

これの順番が、「逆転」して、院号がほしいから多額の金銭を払わないといけない、になった。
死んでも「ステイタス」になると信じる、まことに「因業」なことになったのだけど、もらう側の宗教者もこれを、「因業」だとはいわない。

もちろん、自己都合を必死で祈ったのに、それが成就しないなら、いきなり科学に目覚めて「詐欺」だと認識するし、それでも納得しないなら、別の「神」を選んで拝む浮気をするのがふつうなのだ。

それでいう共通言語は、「あそこの宗派は効かないよ」だ。

つまり、日本人にとって「いい宗教」とは、1000年以上のむかしから、「自己都合が効く」宗教に入信することになっていて、宗教間の信者獲得競争が「効くこと」に集約されること「だけ」になる。

ところが、これを自由放置して、「効く宗派」が巨大化すると、一向一揆のように、こんどは為政者が危険にさらされるので、徳川幕府は、「檀家制度」を発明して、各家での「過去代々と、未来永劫」、その家の宗教を固定化した。

よって、信者でなくとも檀家になった。

こういう前提で「新興宗教」が、すべからく「家の破壊=家族分断」をするのは、当たり前なのである。
それを政府が介入するのは、徳川幕府以下の愚劣だと、受験エリートには理解できない。

さてそれで、実権のない欧州議会で、最高権力者のフォン・デア・ライエン欧州委員長(President of the European Commission)に、「詐欺罪」を適用すべきだという「議員団」ができた。

EU圏4.5億人に「45億回分の大量ワクチン購入」を勝手に決めたことが「詐欺」だという。
その「詐欺」とは、「効かない」ことを問わない、製薬会社との「密約」の存在が背景にあると説明されている。

ちょうどわが国でも、厚労大臣の出席があった参議院厚生労働委員会で、立憲民主党の川田龍平議員が質問に立って、「密約」の公開を求めたところ、「局長」がした答弁では、「公開できない」というものだった。

なお、川田議員の「ユーチューブ」が、ユーチューブ側の「規約違反」に抵触して、バンされる事態となっている。
わが国でも、国会議員による国会質問が、議員の公式番組からも削除される「言論統制」が行われている。

特定宗教についての議論よりも、はるかに次元の高い大問題が、どういうわけか「国会」で議論にならない不思議がある。

こうしてみると、EUとわが国の「体制」が似ているのは明らかだけど、真似たのはEUだということに、日本人は気づくべきだろう。

世界の「邪悪」の根源に、わが国の存在があるのだ。
それなのに、わが国は「道義国家だ」と自慢するのは、どうかしていないか?

そして、国会は国権の最高機関だという「暗記問題」は、すでに誰も信じない憲法違反の「常習化」とともに、国会に報告されないことばかりになって、「密約大国」になっている。

これは、ぜんぜん国民に「効かない」のであるけれど。

11月からジングルベル

ハロウィンが10月31日と決まっているので、11月になると「季節感」を喪失する、という現象になった。

もちろん11月の大イベントには、「酉の市」があるし、「文化の日」とは「明治節」だった。
それで、「明治の日」制定運動が起きている。

わたしの子供時分には、「洋物」行事としての、「ハロウィン」はなかったし、「バレンタインデー」も「ホワイトデー」もしらなかった。
それに、「復活祭(イースター)」もとくに祝った記憶がない。

バレンタインのチョコレートの「お返し(返礼)」としてある、「ホワイトデー」は、わが国発祥なので、外国人は珍しがる。
どちらも、チョコレート業界=製菓業界による、「仕掛け」であった。

復活祭は、その名の通りキリストの復活を祝う行事だ。
春分の日の後の最初の満月の次の日曜日、という「規定」があるので、太陽暦では毎年ちがう「日」になる。

ちなみに、イスラム教国であるエジプトでもちゃんと「イースターの祭り」はある。
イスラム教では、「イエス」は、「キリスト(救世主)」ではないが、「預言者」の位置づけなのだ。

それで、「最後の預言者」を、ムハンマドとしている。
つまり、最後から2番目の預言者であるイエスの記念日として、お祝いするのである。

そんなわけで、ハロウィンは、キリスト教とはぜんぜん関係ない、「ケルト(=古代アイルランド)の祭り」だから、ヨーロッパ大陸ではほぼほぼ無視されている。
アイルランド系移民が多数の国、アメリカで盛んというのも、ほんとうは「一部」だったのである。

名作とされている『風と共に去りぬ』における、主人公も、その取り巻きも全員がアイルランド系移民の苗字である。
我々がしっているもっとも有名なのは、「ケネデイ(Kennedy)」だけど、さりげなくいろんな小説やらの作品に、アイルランド系移民の名前が採用されていて、そこに「作家の意図」が隠されているものだ。

こうした名前を、「名字由来net」で調べられるので、気になったときに検索すると参考になる。

ここ数年の、「仮装」を楽しむ名目なのかなんなのかはしらないけれど、ハロウィンが「お祭り騒ぎ」になっているのは、一種の「ええじゃないか」現象だと思われる。

 

江戸時代、「夏祭り」や「秋祭り」が盛大にあって、これを為政者も積極的に許したのは、大いなる「ガス抜き」としての統治機能に注目したからであった。

しかし、いまや江戸幕府よりも劣化したわが国は、ハロウィンすら「規制」の対象にしている。
韓国での悲劇は、「適度」についての調整ができなかった「お粗末」ではあるけれど、だからといって日本のやり方が「正解」ではないだろう。

それにしても、「嫌い嫌いは好きのうち」だから、亡くなった方々へはお悔やみを申し上げるけど、現象としてはやっぱり「社会ストレス」という意味で、似たもの同士の国なのだ。

ただし、いつのことだか将来に、「暴動」になる可能性があるから、いまのうちに「潰しておく」という方針ならば、やっぱり江戸時代以下ではあるけれど、それはそれで権力側(たとえば、東京都知事)の理屈は筋が通っている。

それでもって、月が変わると街に「ジングルベル」が流れ出すのは、「なんとなく」ハロウィンの空気を引き継ぐ「宴のあと」なのかもしれない。
あるいは、商店街側は、とにかく歩いているひとたちの「財布の紐」を緩めるための、涙ぐましい「心理戦」なのか?

けれども、ボーナスにぜんぜん期待できない時代になって、「クリスマス商戦」そのものが、なんだか空しいのである。

それでも、コロナ禍にあって、政府税収は「空前」の「増収」になっている。
これは昨年からのことだけど、今年は「空前」の「円安」で、とにかく輸出を中心にする製造業は、「割り増し」の利益をたたき出すこと確実なのである。

この意味で、全体が成長した時代は「過去の特殊」で、いまは、特定業種の「まだら」がふつうになった。
学生の就職選択が困難なのは、単に企業の選択だけでなく「業界」を選択しないといけないからだが、その前に「学習選択」という大前提がある。

偏差値が高い学校が良い学校、ということの終焉で、もはや外国の学校からそのまま外国企業に就職した方が、はるかに有利となった。

インバウンドが「空前」だったときは、外国人を受け入れた宿泊業や観光業は、輸出業と同様の収益構造だから、やっぱり「空前」の活況があったものだ。
それが、人手不足という足かせで、稼ごうにも稼げないから、安い労働力を外国人に求めたのだ。

けれども、「空前」の「円安」で、安い労働力たる外国人が日本を見切って、脱出をはじめている。

自分事ではぜんぜんない、お役所のひとたちは、「さぁインバウンドがやってくる!」とはしゃいでいるけど、もう「受け入れる能力」が枯渇しているのである。

これに、「SDGs」やら「脱炭素」やらと、高コストをビジネスに押しつけられているのに、「国連」がつくった「SDGsバッジ」なるムダを着けてよろこんでいる業界人は、いったいなにをかんがえているのか?まったく不思議なのである。

「正気」を取り戻してほしいけど、きっとロビーにクリスマス・ツリーを飾るとか、季節感も何もない、ヘンテコな努力をしているにちがいない。

「産業の頂点」だというけれど

観光業は「第六次産業」だといったのは知の巨人、梅棹忠夫氏であった。

第一次産業+第二次産業+第三次産業=「第六次産業」だというのである。もちろん、足し算ではなくて、かけ算にしてもよい。
これで、あたかも「食物連鎖の頂点」に君臨するライオンのごとく、観光産業従事者の気分はすこぶるよくなったという。

しかし、梅棹氏の指摘は「そちら」方面ではなくて、むしろ、「叱咤激励」の方向だった。

ライオンは、その鬣は立派だが、雌ライオンの狩りの成果で生きているし、老いて群れから追い出されたり、若くして雌にふられた雄ライオンは「流浪の旅」に出るしかなく、別の群れを乗っ取ることに成功しなければ「死」が待っている、あんがい哀しい動物なのだ。

ましてや「万が一」他の群れの乗っ取りに成功したら、いまいる子ライオンは全部が乗っ取ったライオンによって始末される運命にある。
「強者(の遺伝子)」しか生き残れない、「自然の掟」に従って生死が決まるのである。

では、狩られる側の、たとえば、シマウマの側はどうかといえば、その気性の荒さから、人間が家畜にすることができない特徴がある。
なので、シマウマは、なにもライオンに食われるために生きているわけでもない。

おそらく、シマウマ側の生存にあたっての原理は、ライオンやらの肉食獣に食われる数を想定した個体数を維持するようになっているにちがいない。
これを、「調整」しているのが、地面に生える植物の量と水の量に依存する。

つまるところ、ライオンがどんなに人間によって「百獣の王」と、おだてられても、ライオンはシマウマの数も、植物や水の量をコントロールしているはずも、能力もない。
もちろん、ライオンたちが自分たちは百獣の王だと自覚しているはずもなく、そんなことをかんがえる知能を持ちあわせているとかんがえる方がどうかしている。

そうなると、まったくもって「ライオンは百獣の王だ」ということの意味が不明になるのである。
だから、「観光業が産業の頂点だ」ということの意味を、観光業界のひとたちはじっくりかんがえる必要がある。

なんでこんなことを書くかといえば、かんがえていない気がするからである。

すると、まるでサバンナで生きているライオンとちがいがない。
ただ、言葉を解するのがライオンとのちがいだから、なんだか気分がよくなるのである。
そうやって、話が戻って、梅棹氏が指摘した「叱咤激励」の方向にならないと永遠にループする。

なので、ここからは「叱咤激励」である。

第一に、観光産業のひとたちは、自分たちの産業が「サービス業だ」という致命的な勘違いをしている。
第六次産業の「式」には、第三次産業も含まれているのだ。
そもそも、産業分類での「第三次産業」のあやうさがあることもしらない。
人類が最も長く従事してきた、農林水産業を第一次産業として、産業革命以来の鉱工業を第二次産業とした。

第三次産業とは、「これら以外」という分類なのだ。
しかも、産業の頂点にあるのが観光業なので、ぜんぜん「次元がちがう」という意味なのである。

これは、第一次産業における知見、第二次産業における知見、その他の産業における知見、という、おそるべき「広さ」と「深さ」についての知見がないと、存在できないのが観光業という産業だという意味になるのである。
このおそるべき難易度を、観光業界のひとたちは理解しているのだろうか?

残念ながら、まったく認識されていないと思うのである。
ならば、やっぱり自分の立ち位置を理解しないで生きている、ライオンとのちがいがなくなるのである。

第一次産業における知見とはなにか?
第二次産業における知見とはなにか?
第三次産業における知見とはなにか?
産業の頂点として君臨する観光業の知見とはなにか?

こうして並べてみると、観光業から他の産業への知見を求めることは、果たして可能なのか?とかんがえさせられるのである。
むしろ、他産業が「成熟」して、観光業に成る、という順番ではないのか?
まさに、将棋でいう「成る」だ。

すると、いま、観光業を自認しているならば、淘汰の対象になることを意味する。
ライオンが外からやって来て、群れを乗っ取るかのように。
そして、以前からの遺伝子をすべて始末するようなことがおこなわれる可能性がある。

これは、既存産業従事者にとっては致命的な事態だが、利用客からすれば、あんがいと「歓迎」すべき事態なのである。

「業界再編」とは、既存の観光業界の中での嵐ではなくて、他産業からの参入という形態になるとおもう。
これが、もっとも「合理的」だ。
既存観光業の皆さんには「リスク管理」をいいたいけれど、世の中のリスク管理の中核に「確率」があることは絶対だ。
すなわち、「発生する確率」の議論なのである。

あえていえば、廃業のプロセスも「確率的」にかんがえておいた方がいい、ということなのである。

パロってる「宇宙大統領」

CMの作成には、そんなにも!というほど、さまざまなひとが関わるので、たかが30秒の「作品」であろうが、とんでもない時間と労力すなわち「おカネ」がかかっている。

企業の宣伝部という部署は、この意味で莫大な予算を手にしている。
なので、「発注者」として「受注者たち」には、絶大な権限があることになるので、なんだか「偉く」なったような気がするものだ。

もちろん、「気がするだけ」なのだけど、たまに「自分が偉い」と勘違いして失敗する人物が登場するのは、なんとも「マンガ」のようで、これはこれで上司の指導がなっていないことの「犠牲者」ともいえる。

消費者からしたら、自分が当該商品の購入をしたからできる「CM製作」だから、なにも宣伝部という部署のひとに気を遣うことはないけれど、宣伝部という部署のひとが消費者をどこまで気遣っているのか?は、消費者にはわからない。

それが典型は、「CM大賞」とか「広告大賞」という「賞」を、「受注者たち」が作って、「発注者」を表彰することだ。
ここに、「消費者」は関与しない。

もちろん、大賞受賞作だからといって、当該商品が売れたとは限らない。
多くは、「話題性」とかで、これを、「専門家」たる「審査委員」たちが選ぶことになっている。

そういえば、「プロが選ぶ宿」とかなんとかいう「賞」もあるけど、受賞した宿だからといって「宿泊客が良い」と評価するものでもないから、「CM大賞」と似ているのである。

ビデオテープでの録画を自宅でやるようになったら、「自動CM飛ばし機能」というものがついた。
テープの長さを「節約」するためだったかと思うけど、「テレビのCM」がないテレビ放送を観ていると、物足りなさがあったものだ。

年数が経つとなおさらで、あんがいとCMが「本編」よりも「世相」を語るものだと気づくのである。

そんなわけで、企業宣伝部といえば有名なのは「サントリー」さんだ。

日本人には違和感のない「缶コーヒー」だが、外国人には「コーヒーの缶詰」が手軽に自動販売機で買えることの珍しさは、日本に来ないとわからない「ジャパニーズ・カルチャー」なのである。

念のために、上の文でいいたい「珍しい」のは、三つ。
・コーヒーの缶詰(外国語で「缶コーヒー」という表現はない)
・現金投入の自動販売機(日常的に、商品と現金が狙われる)
・これがセットになった、珍しさ、である。

さてそれで、中島みゆきが演じるのは、「宇宙大統領」だ。

唐突に彼女が押したのは、「働くのを禁止するボタン」であった。
これはまったくの「驚き」だ。
なぜなら、あの「世界経済フォーラム:ダボス会議」が掲げる「アジェンダ」が、まさに「これ」だからである。

そして、労働禁止に従った者には、「ベーシック・インカム」を与える。
最終的には、すべてのひとはなにも持たない幸せ、を体験することになると宣言している。

なにも所有しなくて良い。

必要品は、世界政府がドローンで配達してくれる。
家も、衣服も、ぜんぶ世界政府が供給してくれるから、所有する必要がないのだ。

もちろん「世界政府」はエリートたちによって運営されるけれど、A.I.の活用で驚くほど効率がよいから、エリートの必要人員数はわずかでよい。
北欧で一部はじまったように、腕などにチップを埋めこむので、すべての生活記録が保存されるのである。

これを子供のころにやれば、一生の記録がとれる。
これを、「便利だ」と宣伝している。

なので、商店にはレジがない。
本人が欲しいと思った商品は、そのまま持ちだして良い。
本人の身体の中にあるチップが、自動精算しているからだ。
けれども、そのときの商店がどんな品揃えかはしらない。

公共交通機関しかり。
もちろん、「自家用車」という概念はなく「シェアリング」で自動運転車だ。
しかし、本人に設定されたグレードによって、「行き先」はコントロールされる。

ただし、本人には情報もコントロールされるから、自分が行ける場所が制限されていることに気づかないのだ。
生まれてこの方、しっている地図の他に、多の地域があることを教えなければ、不満になることもない。

一部の支配者による、人類奴隷化計画は、決して陰謀論ではない。
なぜなら、ちゃんとHPに掲載している「公開情報」なのである。

そんなわけで、調査員ジョーンズは、宇宙大統領が居眠りしているあいだに、「禁止ボタンを解除」した。
すると、みるみるうちに人々は一斉に働きだして、「働くことの歓び」を実感する。

ナレーションは、「宇宙大統領はもうこの星には二度と来ない」。

これはまったくの、「アンチ」なのだ。

サントリーさんは、潰されないだろうか?と心配になる。
あちらの手先は、驚くほどの「世界大手」ばかりだ。
たとえば、「ネ◯レ」とかなんとか。

ならば、このメッセージに、消費者としても呼応しないといけない。
なるべく、サントリーの商品を買うことにしよう。

そういえば、「予想通り」ではあるけれど、とうとう英国新政権が、「減税策」を取り下げるまでに追いつめられたのも、決して「陰謀論」ではない、「陰謀」なのである。

この決定打ともいえるのが、『ビルダーバーグ倶楽部』(バジリコ、2006年)だ。
作者は、暗殺されかけた、という実績もあるひとだ。

もはや入手困難。
しかし16年前の分析を、いま読むと、現実の「計画」として、そら恐ろしいことが準備されていたことがよくわかるのである。

図書館を利用されるべし。

PCが普及すると生産性は?

わが国の生産性がもっとも高かったのは、製造業の場合、1990年から95年にかけてで、「世界一」だった。
残念ながら、サービス業などは世界比較をしてもせんないほどに、「低い」のであるけれど、これは「いま」も変わりがない。

「政府」という、生産性とはおよそ縁のない組織が、民間のサービス業の生産性の「低さ」を日本経済の「お荷物」として大問題にしたけど、業界はその「深刻さ」にまったく対応できているようには見えない。

それで、「専門家」を集めて、いつものように「委員会」をつくって、サービス業に生産性を上げるべく「提言」をつくらせて、「予算」をつけたけど、ぜんぜん「効果がない」という生産性のないことをしている。

これにイラだって、役人の三段階の資格制度である、上級・中級・初級に見合った「人材育成」をやりだしたら、なんと「経営者のレベルも低い」と認定したのである。

そんなこんなで、わたしは、政府のIR誘致とは、異次元のサービス業を輸入して、既存サービス業を駆逐させようという、かつての「エネルギー転換策」とおなじだが、炭鉱における一大労働争議のようにはならない「うまい手」としたのではないか?と自著に書いたことがある。

しかし、邪悪な思想はもっとすさまじい「うまい手」を実行した。
それが、コロナ禍を利用した「サービス産業自滅化」であった。
たしかに、「経営者のレベルが低い」ために、『羊たちの沈黙』のごとく、自らすすんで「屠殺」されている。

これに抵抗したのは、わずか「グローバルダイニング社」のみなのである。

実際に、2018年6月15日には、「骨太の方針2018」が閣議決定されて、翌19年4月より外国人(単純)労働者の25年までに50万人超を目標と定めれて、「経営者のレベルが低い」ために、業界は「人手不足解消」の施策として「歓迎した」のだった。

しかしながら、それで「生産性が格段に向上した」ということは、寡聞にしてしらない。

さて、昨年末に行われた日経BPコンサルティングのアンケートシステムにて、同社保有の調査モニター2319人を対象に「PCの普及調査」を実施した結果が発表されている。
これによると、企業の普及率は90%を超えおり、1000人以上の大企業では97%超になっている。

では、1990年はどうだったのか?
1989年に発売された「東芝ダイナブック」は、最初のノートパソコンだったけど、そのスペックは、標準メモリが「1.5Mb」で内蔵ストレージはなく、フロッピーディスクという仕様だった。

なお、日本で初めてインターネットサービスが開始されたのが、1992年であったから、1990年当時は「パソコンは単体でつかうもの」だった。
1998年(平成10年)になると、「企業」の60%以上がインターネットを利用していると回答しているけれど、なおも40%は使っていないのである。

これは興味深いことで、パソコンの普及と生産性が「負の相関」を示しているのである。

わたしは、上に書いた、サービス業における生産性の低さやパソコンと生産性の負の相関について、「働き方」の問題よりも、「働かせ方」の問題ではないかとかんがえている。

それが、わざわざ政府から指摘されるまでもない「経営者のレベルが低い」ことと関連しているとかんがえるからである。

なお、政府は「政府のレベルが低い」ことを一切無視するばかりか、あろうことか「政府=官僚は、いまだに優秀だ」という、信じがたい思い込みをしているのだが、ここでは触れない。

その「経営者」の話だ。

わが国のサービス業は、ざっくりおおよそ「3タイプ」の経営者がいる。
・創業者と創業家
・外部招聘(外資系ファンドなど)
・社内昇格

創業家が創業者とややちがうのは、創業者の経営理念や経営手法が、どのように「伝わっているか?」あるいは、「伝える努力をしているか?」で異なる。

「老舗」の「家訓」があんがいと合理的なのは、「伝える努力」の方にあたる。
それで、次世代をどうやって一人前にするか?をちゃんとかんがえてやっているかで、将来が決まる。

残念ながら、この「継承」に失敗したり、先代が急死したりして、次世代への引き継ぎと覚悟の訓練がなされていない場合、「倒産・売却」あるいは、「廃業」となる。
なので、「士業」がいう、「事業継承」とは意味がちがう。

こうなって、外部からの経営者になると、主に「外資系ファンド」の場合、経営の専門家をトップに据えることでの「事業再生」となる。
もちろん、不足資金も投入するが、最大のポイントは経営者の交代なのである。

こうやってみると、業界全体で多数、はては影響力があるとみられるのは「大手」だが、その大手企業こそ、「社内昇格」で経営者になるという特徴がわが国の習慣になっている。

海外だと、株主が経営者を外部から招聘するのがふつうなのだ。

これには、わが国に「労働市場がない」という大問題があるために、「できない」という問題もある。

そんなわけで、働かせ方が下手なので、PCの普及と生産性が「負の相関」になっているのだ。

農産物の世界規格番号

昨年の「東京オリンピック」は、すっかり過去のことになったかとおもったら、「汚職」問題で話題になっている。

そんなに騒ぐのはどうしてか?わたしにはよくわからないけど、たしかに「汚職」を肯定する気はない。
ただし、そもそもが国際オリンピック委員会(IOC)からして、怪しい民間団体なのだ。

前にも書いたが、暇人のヨーロッパ貴族たちの「娯楽」としての「見物」が、近代オリンピックの「本音」だからである。
こういってはなんだけど、この意味で選手たちは、「見世物の対象」にすぎない。

だから、その運営者が運営者のなかで「金儲けに画策する」のは、べつにふつうのことなのである。
もっといえば、「金儲け」したいから、巨額の誘致予算と人員をかけて、競争相手から開催地を「勝ち取る」ことも、ぜんぶが「ビジネス」なのである。

いろんな「業界」が、カネを出すのも、その恩恵がほしいからだ。

そんなわけで、「元締め」が私腹を肥やすのは、「当たり前」なのが、オリンピックだから、なにを騒いでいるのか不思議なのである。

こんなことをしていたら、国際オリンピック委員会から嫌われる。
彼らには、なんの罪の意識もなく、貴族の特権を脅かす、ヘンな国だと認定されるだけだ。
これら委員のひとたちの優雅な暮らしは、日本人の想像外だ。

さてそれで、選手たちに与える食事の材料は、競技前と競技中なら、残念ながら「輸入食材」が中心で、競技後の「ご褒美」として、国産食材の料理が与えられた。

これは、国産品の「格」が上ということではなくて、国産品が国際基準を満たさないための「苦肉の策」だったのである。

なにしろ、「ドーピング問題」から、選手の体調管理から、試合前には「いつも通り」が重要なのである。
だから、いつも通りが日本国内で提供できないなら、空輸してでも持ち込むのが「ふつう」なのだ。

この「いつも通り」を表すのが、国際基準とその「規格認定」なのである。

さて、いつもの買い物でよく見かける「国際コード」は、たとえば、バナナやキウイに付いている。
これらは、基本的に「輸入品」なのでわかりやすい。

IFPS(The International Federation for Produce Standards:国際生産基準連盟)という「国際団体」が管理している、PLU(Price Look Up)コードがそれだ。

このコードは、4ケタか5ケタである。

もとは、小売店が販売管理や在庫管理をするためのものだった。
要は、レジ係と倉庫管理係とが「素人」でも簡単にできるようにするための「規格」なのである。

われわれの生活に不可欠な、農産物では、3000番台と4000番台が割当てられている。
なので、最初の数字が「3」か「4」なら、農産物である。
ただし、その下のケタはランダムなので、意味は素人にはわからない。

また、5ケタの場合、「9」からはじまるものと頭が「84」には、「有機栽培」という意味であるから、覚えておきたい。
逆にたとえば、「83」からはじまる「83000番台」は、通常栽培という意味である。

残念ながら、PLUコードでは、「遺伝子組み換え作物」についての区別がないが、「ない」ことを知っておくことも重要だ。
これには、「定義」の問題があるのだ。

わが国では、この4月から、遺伝子組み換え作物の区別についての規制が「緩和」されたので、消費者には「わかりにくい表示方法」となった。
これも、政権による「悪政」のひとつである。

すると、「消費者庁」という役所を設立した意味も、「ガス抜き」だとわかるのである。
むしろ、「消費者イジメ庁」とならないか?

『「規格」の父』と呼ばれているのは、第31代アメリカ合衆国大統領(1929年3月4日 – 1933年3月4日)だった、ハーバート・クラーク・フーヴァー(Herbert Clark Hoover)氏である。

このひとは、教科書では「大恐慌に無策だった無能の大統領」のごとく書かれているけど、当時の「古典派経済学」による政策提言に従ったまでだ。
それで、社会主義の「ケインズ経済学」を看板にした、フランクリン・ルーズヴェルトに破れたのである。

じつは、ケインズ経済学を世界で最初に「経済政策として全面採用した」のは、ヒトラーだった。
とにかく「穴を掘るとか」何でもいいから、公共事業をやって「有効需要を増やせ」として、作ったのがアウトバーンだったのである。

当時のドイツ人だって、マイカーなんてほとんど誰も持っていなかった。
それで、古典派は「破綻する」といったが、空前の好景気になったのである。
ただし、ヒトラーがケインズを採用したのは、「ヤケクソだった」節があるけど。

このことが、「独裁体制」を強固にしたのだった。

そんなわけで、「規格」がないと生活できない世界に我々は生きている。
曲がったキュウリが流通しないのも、規格のせいだけど、曲がったキュウリという規格を作らないのは、コード番号の「ケタ問題」があるからだろう。

5ケタとは、万の位だから、99,999個までしか登録できない。
世界中の農産物に、これで足りるはずがない。

最初に決めたケタ数に、じつは支配されてしまう。
これを増やす行為は、「データ・ベース再生」という、おぞましいコストがかかるからだ。

「世界規格」は、一見素晴らしいけれど、はじめに設定されたケタ数に、全人類が支配されることになってしまったことも、考え物なのである。
しかし、これが、「グローバル全体主義」の本質でもある。

だれがケタ数を増やそうといいだすのか?
だれもいないからこうなっている。

携帯貧乏のわけ

通信費が生活費のトップに?
それは、通信した費用ではなくて、通信するための端末にかける月額ローンを加えるからだ。

政府は国民から合法的に掠奪する。
この典型が、「電話加入権」を強制的に放棄させられたことだった。
むかしは、「街金」とか「質屋さん」の看板が電信柱に貼ってあって、「電話金融」って大書してあったものだ。

1976年(昭和51年)当時、あたらしく電話を引きたいとなったら、電話加入権として、8万円を支払わないといけなかった。
けれども、「権利」なので、回線を必要としなくなったら返ってきたのである。

地方から出てきた、中流の学生が親からもらった電話加入権を飲んでしまって、大変な親子げんかになったこともあった。
電話を自室に引けない貧乏学生は、「ピンク電話」(特殊簡易公衆電話)があるアパートを探して住んでいた。

親からの電話を住人の誰かがとって呼び出してくれて、こちらから「市外」にかけるときは大家さんに鍵を回してもらってかけたのだ。
それで、料金がわかるように「100番通話」を使うしかなかった。

これは、通話が終わると局から電話がかかってきて、料金を教えてくれるサービスで、コレクト・コールの逆だった。
なので、大家さんが横で通話が終わるのを待っていたから、のんびりした会話はできなかったけど、のんびりした時代であった。

そんなわけで、電話加入権は、4年間だけ住まう学生とかならまだしも、永久に自宅や事務所で使うことを考えたら、永久に返ってこない「権利」となって、「民営化」の名のもとでどんどん「減額」されて、うやむやになったのである。

電電公社がNTTになって、NTTドコモができたら、それからとうとう、固定電話が廃れる時代になった。
いまや、自宅の固定電話をやめて、携帯電話だけでよいひとが増えたのは、当然といえば当然だ。

携帯電話を所持しているはずのビジネスマン相手の「ビジネスホテル」業では、もう客室に電話機すら設置していないことも珍しくなくなった。
これで、どれほどの「回線契約」が節約できていることか?

次はテレビの設置をやめたらNHK受信料がどれほど節約できるものか?とおもう。
ただし、CATVなりの「ビデオ・オン・デマンド」で、映画などの有料放送は収益源になるだろうから、Wi-Fi環境を用いた「モニター&スピーカー・システム」の設置に転換する可能性もある。

そんなわけで、個人でもスマホがないと生きていけないようになっている。
しかし、固定電話しかなくて、外出先ではWi-Fiデータ端末で、メッセージやメールのやり取りをして、通話は公衆電話とすると、ぐっと「負担」は少なくなる。

いまや、タブレットの方がスマホよりずっとお安いからで、しかも長持ちなのである。
この理由は、下に書く。

最新のスマホは、円安もあって、メーカーの「フラッグシップモデル」になると、なんと20万円以上という価格帯がでてきた。
テレビが何台買えるのだろう?

10万円~15万円も、当たり前になっている。
どうしてそんなに高いのか?といえば、パソコンでいうCPUの性能と、画面の構造、それに「リフレッシュレート」という画面書き換えスピードの速さが競われている。

もちろん、高価格の大ブームをつくったのは「カメラ機能」で、メモリ容量とデータ保存ストレージ容量も価格に大きく影響する。

「しかし」、なのだ。
最大のポイントは、スマホを動かすための基本システムの、「更新保証期間」が問題なのだ。

基本システムは、セキュリティ・システムの更新ということもセットなので、機械的にはどんなに「高機能」、「高性能」でも、システム・ソフトの更新が止まれば、「ただの板」になってしまうのである。

それでもって、各メーカーが発表している保証期間は、
アップル(iPhone):6年
サムソン(Galaxy):4年
元も含めた日本メーカー:2年 となっている。

つまり、元も含めた日本メーカーのスマホなら、どんな機種でも2年で新機種への交換をしないと、セキュリティ上も「まずい」ことになるようにできているから、もはや「使い捨て」状態なのである。

これにはもちろん、メーカー側の言い分もある。
新機種発売時に、想定できないような「新システム」を開発して、それを搭載するに足るハードを、あらかじめ「保障」することができない、ということだ。

要は、ユーザーは「シリコン」を買っているのではなくて、あくまでも「ソフトウェア」を購入して、その恩恵を買わされているのである。
それが、「システム・バージョンアップ」であり、「セキュリティ向上」なのである。

しかし、これらは「地味」なので、「ゲーム」の快適さが「高級機」の条件にもなっている。
これはこれで、立派な「白痴化」なのであるけど、システムのバージョンアップに興味を向けさせないで、常に機種交換させるには都合がいい。

そんなわけで、20万円しようが10万円しようが、明らかに10年はもたない。
長くて6年、4年ならまだしも、2年となると腰が引ける。

ドコモが、3年ローンを2年でよい(1年分は免除)とするのは、2年更新をさせるがための「お得」なのであるけれど、元を含めた日本メーカーの機種を選んだら、あんがいと「合理的」なのである。

アンドロイド系で、世界シェア一番のサムソン(Galaxy)が4年で、ダントツなのが、シェアにも影響するのは理解できるところだ。
これができる理由は、サムソンが「ハード・メーカー」なのではなくて、ソフト会社に進化した結果だ。

ついでに書けば、携帯端末事業から撤退したマイクロソフトのWindowsPCと、サムソンのGALAXYは、「提携機能」でもって、MacとiPhoneとまではいかなくとも、似たようなことができるアンドロイド系では「唯一」となっている。

最長6年のアップルは、ハードはもとより、ソフトも完全自家製であるから「できる」のである。
なお、アンドロイドの本家、グーグルのGoogle Pixelは、セキュリティ5年だが、従来通りOS3年と発表されているのは、端末製造の妥協があるからだろう。

この意味で、元を含めた日本メーカーは、ソフトで完全敗北したのである。

こうして、分割払いの満期と新規交換時期が重なって、これに通信料の負担をするユーザーは、常にスマホのローンを抱えて一生を暮らすようになっている。

それでもピンク電話の時代には、もう戻れない。